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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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パソコン復活!(感想文の行方)

 パソコンの修理が昨日完了した。データファイルも無事救出されて(よく判らないが、かなり難しかったと言っていた)、外付けハードディスクに入ったかたちで戻って来た。内蔵のハードディスクは(老朽化で)相当ひどい状態になっていたようで、結局まるごと交換ということになってしまった。ただ、ここで従来型のハードディスクではなく、SSDという最新のものと入れ替えてくれたので、パソコンの動作がかなり速くなったのにはびっくりした。
 このパソコンは購入して8年ほどが経つと思うが、今回、ハードディスクというのは消耗品であって、時期が来れば壊れるものなのだということを知ったのは収穫だった。修理屋が教えてくれたのは、普段からデータは外付けハードディスクの方に保管して、必要なファイルだけパソコンに持って来て作業するのが安全だということだった。いままではすべてのデータをパソコン内に溜め込んでいたから、これだとディスクの容量も圧迫してしまうし、今回のようなことを考えるといいことはないと教えられた。
 結局、今回はディスクを入れ替えた訳だから、Windows10は入れてもらえるが、その他のアプリなどは(どうでもいいようなものが多かったが)すべて失われてしまった。そのため、すぐに必要な一太郎は新たに買ってきてインストールすることになってしまった。高い授業料になってしまったが、まあ仕方がないということである。


 というわけで、書きかけのコピスの感想文と4日ぶりに再会できた。早速、続きを書かなければと思ったが、この空白はかなり大きかった。まだまったく手をつけていない学校もあるのだが、記憶はどんどん薄れていることが判った。困ったことになったぞと思いながら、とりあえずこんな報告の文章を書いているのである(再度気持ちを高めるための助走ですな)。う~ん、早く書かなければ。
 なお、今回は日にちも経ってしまったので、このブログに感想文を掲載することはしないつもりです。29日(金)の最終実行委員会で顧問の先生にお渡ししますので、上演校の皆さんは、もし興味があったらそれを見せてもらうようにしてください。


# by krmtdir90 | 2018-06-25 16:45 | 日常、その他 | Comments(0)

コピスみよし2018・第17回高校演劇フェスティバル(パソコンがダウン!)

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 6月16日(土)のリハーサル、同17日(日)の本番と、会場で楽しい時間を過ごさせていただいた。
 例によって感想文を書き始めたのだが、今年は(学校によって)けっこう書きたいことがあったりして、ブログ掲載ではなく実行委員会(29日)配布でいいかと、ちょっとのんびりし始めていたら、想定外のアクシデントに見舞われてしまった。

 少し前からパソコンの調子がおかしかったのだが、とうとう昨日からうまく立ち上がらなくなってしまった。感想文はまだ書きかけだから、復旧してくれないことにはどうにも先に進めない。今朝になっても直る気配がないので、急遽パソコン修理の店を探して、さっき現物を持ち込んで相談してきたところである。
 おそらくハードディスクが(老朽化で)壊れかけているのではないかという。とりあえず中のデータを守って貰わなければどうしようもないから、それをお願いして帰ってきた。だが、データの保存に成功しても、最終的にはハードディスクを交換するか、新しいパソコンを買うか、どちらかの選択になるだろうという。いずれにしても、感想文の続きを書くためには、この厄介な障害を越える必要が出てきてしまったのである。う~む、である。
 というわけで、パソコンがないから、この原稿はスマホで打ってスマホから送信するしかない。時間ばかりかかって、まったくトホホの状態になってしまった。

# by krmtdir90 | 2018-06-22 13:43 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

映画「ザ・ビッグハウス」

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 想田和弘監督の観察映画第8弾は「港町」とは正反対の大スペクタクルだった。ずっとアメリカ在住ながら、これまではいつも日本に来て、日本の様々なシーンを観察してきた想田監督が、これは初めてアメリカを対象として撮った映画だったようだ。
 「ザ・ビッグハウス」とは、ミシガン州アナーバー市にある、名門ミシガン大学のアメリカンフットボール・チーム「ウルヴァリンズ」の本拠地スタジアムのことである。今回は、10万人以上を収容するというこのスタジアムのすべてが観察対象になっている。
 ここでで展開される巨大なスポーツイベントを捉えるために、想田監督は従来の小規模な撮影クルーではなく、観察映画としては初めての「ビッグな」クルーを編成して臨んだようだ。想田監督のほか、監督・製作にマーク・ノーネス、テリー・サリスという2名が名を連ね、彼らを含めて17人が同時進行的にカメラを回したらしい。このメンバーは、想田監督自身が当時(1年間)教授として招聘されていたミシガン大学映像芸術文化学科の学生たちで、上記のマーク・ノーネスは同学科の教授として、想田監督にこの映画の企画を持ちかけた当人ということだったらしい。
 当然、これまで掲げてきた「観察映画十戒」は部分的に守れなくなるが、撮影された素材についてのディスカッションを経て、編集を想田監督一人が行うことで、新たな観察映画の可能性が開かれたということだったようだ。

 アメリカでアメリカンフットボールが絶大な人気を博していることは知っていても、日本ふうに言えば、たかが大学同士のリーグ戦が、これほど圧倒的な規模で行われていることは驚きと言うしかなかった。アナーバー市の人口が約11万7千人というから、試合があるたびにこのスタジアムには、市の人口に優に匹敵する観客が詰めかけるということなのである。
 これだけのビッグイベントを実施するためには、それを支えるバックヤードにも膨大な人数が配置されているわけで、映画はその様々な裏表の姿を克明に観察し記録していくのである。高校演劇でバックステージに強い興味を持ってしまったわたしとしては、その一つ一つはとにかく面白いことばかりで、まったく目を離している暇がなかったと言っていい。
 この映画は試合の行方に興味を示すことはほとんどないのだが、それ以外のすべてのことには実に貪欲でしつこい視線を向け続けていく。その結果、ここでフットボールの試合が行われているのは自明のこととして、その時(その前後も含めて)このスタジアム全体がどんなふうに生きているのか(動いているのか)という、実に興味深い有りさまを鮮やかに描き出すことに成功している。「これがアメリカなのか!」というのはあまりに大雑把な感想になるが、アメリカはこういうふうに生きている(動いている)のかというところを、この映画はきわめて具体的に(かつ象徴的に)眼前に描き出してくれていたと思った。

 このビッグイベントの背後には、ミシガン大学というアメリカ有数の名門校が存在している。そこがある意味アメリカの縮図のようになっていることも、この映画は鮮明に描き出している。「ザ・ビッグハウス」はその象徴になっているのである。プログラムにその巨大さを示す数字が紹介されていたので、少し抜き出しておきたい。学生数は4万4718人、教員数は7219人、職員数は1万4856人、卒業生数になると57万5000人以上である。大学の一般財源は年間74億ドル、研究費が年間13億9000万ドル(因みに、74億ドルは約8150億円)である。。
 また、ビッグハウスのチケット収入は年間4017万ドル、TV放映権料は5106万ドルとなっている。チケット代は対戦相手や席によって異なるが、安い時で55~75ドル、高い時で99~130ドルといったところらしい。映画にはスタジアムの観客がたびたび映し出されていたが、ほとんどが白人で、バックヤードには黒人も働いていたが、あとはスタジアムの外でダフ屋をしていたりチョコレートを売っていたりするだけである。恐ろしく高額というVIPルームも映されていたが、観戦しているのは当然白人ばかりだった。ここはアメリカ国民の経済格差の象徴ともなっている場所なのである。
 ミシガン州は歴史的に自動車産業が基盤となったところだというが、アナーバー市は黒人労働者の増加を避けてデトロイトを離れた白人層が多く移り住んだ近郊の町なのだという。ウィキペディアで調べてみると、現在のデトロイトは人口の8割を黒人が占めるが、アナーバーは8割近くを白人が占めているらしい。

 観察映画には字幕もナレーションもないから、これらのことを映画は何も語らない。この映画からこういうことを引き出すかどうかは観客に委ねられているのだ。だが、想田監督の編集作業の過程に、映像の何を見ているかという監督の観点はおのずと現れているのであり、想田監督の視線は「ザ・ビッグハウス」のスケールを俯瞰的に見ているだけでなく、そこに現代アメリカの諸問題を見ようとしていることが確かに感じ取れるのである。観察映画は予定調和の方向づけは排するが、うわべだけの客観とも無縁のものであると言うべきだろう。
 この映画は2016年にカメラを回したようだが、時まさにトランプとクリントンの大統領選の真っ最中で、トランプ候補の宣伝カーが画面の中に写り込んでいたりした。写り込んだ映像を残したのは編集した想田監督なのであって、調べてみたら、従来は民主党が勝っていたミシガンを今回共和党が押さえたのが、トランプ当選に大きく作用していたということが判った。トランプ的なものとの結びつきが、このスタジアムにもあるのではないかという視点を、想田監督はさりげなく提示しているということなのだろう。
(渋谷イメージフォーラム、6月14日)
# by krmtdir90 | 2018-06-15 16:58 | 本と映画 | Comments(0)

映画「レディ・バード」

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 主人公(シアーシャ・ローナン)の名前はクリスティーンなのだが、彼女はなぜかそう呼ばれるたびに不機嫌な顔をする。彼女は自分を“レディ・バード”と名付けていて、周囲にもそう呼ぶように要求している。なぜそんなことをしているのか説明はないが、この点は明らかにこのストーリーの鍵になっている。映画の最後で、彼女が念願叶って故郷のサクラメントを後にした時、彼女は“レディ・バード”という名前にも別れを告げてクリスティーンに戻るのである。
 ここには彼女の夢の実現とともに、ずっと気持ちが行き違っていた母親との和解も関係している。この映画は“レディ・バード”クリスティーンの高校生活最後の一年間を描いているが、同時に母親との葛藤を中心とした家族の一年間も描いている。17歳の彼女は特に美人というわけでもなく、学校でも家庭でも、思い通りにならない様々な問題を抱えて生活している。“レディ・バード”と名乗ることは、自分がまだ何者にもなり得ていないことを意識し、あるべき自分の姿との乖離に悩む彼女の逃げ道(ある種のこだわり)だったのだろうか。

 映画の冒頭、彼女は、一緒に近隣の大学を見学に行って来たらしい母親(ローリー・メトカーフ)と車の中で口論になり、走行中の助手席のドアから飛び降りるという離れ業を演じてみせる。このため映画の前半では、彼女は右腕に鮮やかなピンクのギブスをして登場してくることになる。ギブスをピンクに塗ってしまったことも併せて、彼女の中の思い通りにならない苛立ちが、こうしたちょっと突飛で投げ遣りな行動につながっているように思われる。
 サクラメントはサンフランシスコから140キロほど内陸にある地方都市のようだが、彼女にはまったく面白みに欠けた田舎としか感じられず、卒業後はここを出て東部の大学に進学することを夢見ている。地元の大学に行って欲しい母親との、ここが最大の対立点なのだが、“レディ・バード”の成績はとても東部に出て行けるようなものではないのである。彼女は対立を残したまま密かに幾つかの大学に出願し、補欠というかたちながら何とか一校に引っ掛かる。この映画は時代背景を2002年と設定しているが、前年に起こった「9.11」の影響で、「東部の大学の倍率が下がったから」というようなセリフがどこかにあったと思う。

 グレタ・ガーウィグ監督はインタビューの中で、時代を2002年としたのは「スマートフォンを映すのに興味がなかった」からだと述べている。これは絶妙な意見だと思うが、映画の中で“レディ・バード”が恋をする2人の男子の最初の方が、実はゲイだったというエピソードにもこの時代背景は関係している。LGBTに対する認識がいまよりはるかに低かった時点を描きながら、ガーウィグ監督はこのダニーという少年(ルーカス・ヘッジズ)を実に公正な目で見ようとしている。
 彼の家は「上流」に属していて、「中の下」ぐらいの“レディ・バード”にとっては「背伸びした」恋だったことも忘れてはならない。背伸びは彼女の特徴だが、ガーウィグ監督はこのダニーを、そんなことをまったく気にしない誠実な少年として描いている。ゲイが露呈したあと、彼が彼女のバイト先にやって来て、裏口で彼女に自分の気持ちを率直に話すシーンは良かった。それを聞いて、彼を思わず抱きしめてしまう“レディ・バード”もすごく良かった。もちろん彼らは別れてしまうのだが、ティーンエイジャーの恋を描く時、凡百の監督なら彼がゲイであると判った時点で笑い話にして切り捨てていたのではないだろうか。ガーウィグ監督の視線は淡々としているが、脇役に対しても実に公平で暖かいのである。

 “レディ・バード”が初めてセックスする相手カイル(ティモシー・シャラメ)が、童貞ではなく何人もの相手と経験していたことを彼女が知るシーンでもそれが感じられる。ガーウィグ監督はこれが喜劇的に流れてしまうことを注意深く避けている。“レディ・バード”の恋愛の現実も、まったく彼女が夢見たようなものにはならなかったのだが、それはそれ以上のものでもそれ以下のものでもなく、彼女はそれをそのままのかたちで受け入れるしかないのである。そのことをガーウィグ監督は実に静かな感覚で(セリフはきついことを言ったりするが)、優しく描き出していると感じた。
 “レディ・バード”はこうした経過の中で、一時疎遠になってしまっていた親友のジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)を、高校最後の晩のプロムの相手に決めて誘いに行く。この2人の女の子のシーンが、何ということもないのだがとても良かった。ここに至るまで積み重ねられてきた、高校時代の彼らのすべてがここには詰まっているのだろう。ガーウィグ監督はどうということもない様々なディテールを実に丁寧に描いていて、そのことが映画の最後になるほど、繊細に浮かび上がってくるのだと思った。監督はこの映画に自伝的要素はないと語っているようだが、1983年にサクラメントに生まれ育ったという彼女の若いころの感覚が、この映画にはあちこち散りばめられているのだろうと感じた。

 母親と最後まで気持ちが通じないまま家を出た“レディ・バード”が、父親が荷物に忍ばせてくれた母親の手紙(ゴミ箱に捨ててあったのを父親が拾ってくれた)を読んで、初めて彼女が(“レディ・バード”ではなく)クリスティーンの名前で手紙を書き送る。その中に、安易な和解の言葉ではなく、離れてみてサクラメントの素晴らしさに初めて気が付いたと書いたところに、ガーウィグ監督の控え目だけれど熱い気持ちが込められているように感じて心に響いた。主人公の脱皮という意味で、彼女は確かに一つの階段を上がったのだなと納得させられた。
 同じ「ハイスクールもの」ということで、ちょっと「スウィート17モンスター」(ケリー・フレモン・クレイグ監督)のネイディーンを思い出したが、「スウィート…」の若干コメディタッチの味付けよりも、こちらの自然なユーモアの方が好感度は高いと感じた。ネイディーンはネイディーンで十分印象的なキャラクターだったが、キャラクターをあまり立たせていないぶん、クリスティーンの中にある説明できないモヤモヤした感じが浮かび上がってきて良かったと思った。
(立川シネマシティ2、6月12日)
# by krmtdir90 | 2018-06-14 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「万引き家族」

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 わたしは映画を離れていた期間が長く続いたから、是枝裕和監督の作品は「海よりもまだ深く」(2016年)が最初で、あとは「海街dialy」(2015年・TV視聴)と「三度目の殺人」(2017年)を見ただけである。「三度目の殺人」はもう一つという感じだったが、「海よりもまだ深く」が凄く良かったので(「海街…」も良かった)、この監督はマークする必要があると思って次作を待っていたら、何とカンヌで最高賞のパルムドールを受賞してしまった。
 この映画はある意味きわめて日本的な、それも現代日本の多くの矛盾や問題点を正面から描いた映画だと思うが、それが外国の審査員の目によって評価されたというのは素晴らしいことである。社会の底辺に生きる人間を暖かい視線で見詰めた、是枝監督の映画作りの率直な姿勢が、ストレートに見る人の心に響いたということだろう。
 見ていて、いろんなことを考えてしまう映画だった。是枝監督はこれまでも様々な家族のかたちを描いてきたようだが、「海よりも…」や「海街…」は、その家族のストーリーが比較的閉じた中で展開していたのに対し、この映画は、家族が周囲の社会との関係で厳しく問われてしまうストーリーになっていた。そもそもこの家族は、社会的一般的な意味での家族の要件を満たしていない。是枝監督はしかし、この「擬似」家族の日常を、きわめて肯定的な視線で見詰めようとしている。これ、すごくいい家族なんじゃないかと言いたげな雰囲気を感じたのである。是枝監督はこの家族の姿を通して、現代日本の抱える様々な社会問題を問いかけようとしている。
(以下、この感想文は完全なネタバレになっています。まだ見ていない人は、見てから読むことをお勧めします。すごくいい映画なので、ぜひ白紙の状態で見てからこれを読んでほしいと思っています)。

 まず何よりも、貧困ということが大きい。
 東京の片隅の、高層マンションやアパートが建ち並ぶ一画に、ぽつんと忘れられたように残る古びた平屋の木造家屋に暮らす家族である。映画では、この擬似的な(嘘の)家族がどのようにして出来たのかというところは、あまり詳しくは語られていない。この擬制の家族の根っこを支えているのは祖母・初枝(樹木希林)の年金だが、彼女はそれと引き換えに独居老人という寂しさから救われているようだ。「誰にも気付かれずに死ぬのは嫌だからね」というようなセリフがどこかにあったと思う。
 もちろん、祖母を含めて6人の家族が生活するのに年金だけでは足りない。だから、家族はそれなりに働いてわずかな賃金を得てはいる。夫(父親)の治(リリー・フランキー)は日雇いの工事現場に出ているが、映画の序盤で足の骨を折って(ひびが入って)働けなくなってしまう(労災にはならないらしい)。妻(母親)の信代(安藤サクラ)はクリーニング工場でパートをしているが、中盤でリストラされて働き先を失ってしまう。亜紀(松岡茉優)は初枝の孫だったらしいが、マジックミラー越しに客と会話するJKリフレの店でアルバイトをしている(給料は入れていなかったようだ)。
 いずれにしても彼らにはきわめて貧しい生活しかなく、治は日常的に車上荒らしや万引きをして日々の生活に必要なものを入手している。万引きに同行するのは子どもの祥太(城桧吏)で、映画の冒頭に2人の連係プレイの様子が捉えられている。戦利品を抱えて夜道を帰る彼らが、道路に面した団地の外廊下で蹲って震えている(季節は冬なのだ)女の子を見かけ、家に連れ帰ってしまうというのがストーリーの始まりである。ゆりと名乗ったこの子(佐々木みゆ)を家族の一員とする経過が、この擬似的家族の成り立ちを想像させるものになっている。

 「可哀想だったから」というのが治の言い分なのだが、「もう少し金目のものを拾って来なよ」という信代の言葉には曖昧に笑うしかない。信代はそれでも温かいうどんなどを食べさせ、眠っているゆりを深夜に2人で返しに行くのだが、部屋の中から「産みたくて産んだんじゃない」と罵り合う夫婦の声が漏れてくるのを聞いて、ゆりの身体のあちこちに虐待の痕跡を見つけていた彼らは、この子を置いてくる気になれなくなってしまうのである。
 この映画の中では、幼児虐待や育児放棄といった問題も大きく取り上げられている。信代も子どものころに親から暴力を受けていたことが明かされているし、子どもの祥太もかつて駐車場の車内に放置されていたところを拾われた(救われた)のだということも明らかにされている。祥太はいまはこの家族にすっかり馴染んでいるように見えるが、治のことをお父さんと呼ぶことにはまだためらいがあることも描かれている。
 2ヵ月が経ったころ、テレビで5歳の女の子が行方不明というニュースが流れ、ゆりの姿が画面に映し出される。親戚に預けたという両親の言葉を不審に思った児相が問い詰めて、事件が明るみに出たのだった(虐待の事実は児相も把握していたということだろう)。治と信代はゆりに「帰るか?」と問うが、彼女はこの家族の元に残りたいと意思表示する。彼らはゆりに(実際はじゅりという名前だったようだが)りんという新しい名前をつけてやる。
 この時の信代の言葉が印象的だった。「自分で選んだ方が強いよね」と言って、「何が?」と聞かれると、照れたように「キズナよ、絆」と言うのである。

 彼らが祥太やりんに見せる父親ぶりや母親ぶりは、実生活で子どもを持てなかったからということもあるのかもしれないが、どんな現実の親子より真っ直ぐな思いに貫かれていたと思う。
 実際には、治は父親として祥太に万引きの仕方を教えてやるくらいしかできないし、信代と初枝もりんを連れて、子ども服売り場に服や水着を万引きしに行ったりするのである。もちろん、そんな親子関係があっていいはずはない。しかし、この家族が貧しい家の中に作り出していた、何とも居心地のいい暖かさは本物だったと認めるしかないだろう。狭苦しく足の踏み場もないような汚い部屋であっても、りんがそこで初めて安らかな日々を送ることができると感じたのはよく判るのである。
 家族で出掛けた夏の海水浴のシーンが何とも切ない。この家族が嘘の家族なのだということは、このあたりまでに観客にはほぼ伝えられている。だが、この一人一人が本当に切実に家族というものを求めていることが伝わってきて、痛いほど心が揺さぶられてしまった。
 水際で戯れる5人の姿を、離れた砂浜に座って一人見ている祖母・初枝の微かな笑みが印象的だった。映画では、間もなく彼女は、夜のうちにひっそりと死んでしまうのだが、葬儀費用のない彼らは遺体を風呂場の床下に「埋葬」してしまう。治と信代は初枝のへそくりを見つけて狂喜し、さらにその死を隠して年金を不正に受給し続けるのである。当然これらは、社会的には断罪されなければならない行為だが、なぜ彼らがそんなことをしたのかというところで、是枝監督は彼らを一方的に断罪するような立場にはまったく立とうとしていない。

 家族はこのあと、彼らが重ねてきた行為が知られてあっけなく崩壊してしまう。そのきっかけを作ったのは祥太の成長である。
 新たに家族になったりんは、歳の近い祥太に年中くっついて歩くようになる(この2人のシーンは見ているのが辛い。髪はボサボサだし、着ているものは薄汚れているし、映画というのはそれを映すだけで彼らの境遇をすべて明らかにしてしまうのだ)。祥太は自然に、りんに万引きの仕方を教えるようになるのである。だが、祥太が一人の時に時々万引きをしていた小さな雑貨屋(駄菓子も売っている)で、連れて行ったりんの万引きが見咎められてしまうのである。老主人は細いゼリー菓子を2本祥太に手渡し、「妹にはやらせるな」と小声で言うのである(柄本明・絶品の芝居)。
 このことがあってから、祥太の中で小さな疑問と罪悪感が芽生え始めたのだろう。治に連れて行かれた車上荒らしの現場で、彼なりの小さな正義感のようなものをぶつけたりするようになる。また別の時、りんと2人で出掛けたスーパーで、りんを外に待たせて一人で万引きをしに店内に入るのだが、後を追ってきたりんが品物に手をかけるのを見つけたところで、店員の注意を逸らすため積まれた品物を床にぶちまけ、夏みかんのネットを一つ掴んで外に駆け出すのである。
 祥太の中で、父親・治が教えた万引きを正当化する論理を超えて、雑貨屋の老主人が教えたことが大きな意味を持ち始めていたのである。彼は店員に追い詰められて、高い段差のある下の道路に飛び降りて足を骨折し病院に収容される。警察が前面に出て来て、家族は家族であることを証明できなくなってしまう。家族は祥太を病院に残したまま夜逃げを試みるが、結局見つかってしまう。

 彼らが作って来た「絆」は、突然直面させられた「社会」の前でいとも簡単に霧散してしまうのである。「祥太は後で迎えに来る」と治は言っていたが、警察に追い込まれて狼狽するしかない彼に、もう(擬似)父親ぶりを発揮する場面は残されていないのである(こういう役をやらせると、リリー・フランキーはホントに上手い)。警察の取り調べで、女性刑事に「子どもに何て呼ばれてたんですか」と問われ、(擬似)母親の信代は何も答えることができない(確か「何でしょうね」と言っていたと思うが、この長い沈黙の続くクローズアップで安藤サクラが見せた演技は見事なものだった)。
 取り調べの過程で、治が昔、信代の夫だか愛人だかを殺して埋めていたらしいことが明らかになるが(服役したのかどうかははっきりしない)、今回の死体遺棄と年金詐取の罪は治が絡むと面倒になるので、信代が単独で背負って刑務所に入ることになる。「(家族の生活が)すごく楽しかったんだから、ぜんぜん気にしていない」というような言葉を、彼女は治に向かって言っていたと思う。
 松岡茉優がやった亜紀のことはほとんど触れていないのだが、家を出てここに転がり込んだらしい彼女は、祖母には愛されていると思い込んでいたが、祖母が定期的に実家を訪ねて金をせびっていたことを知って、裏切られた思いに駆られたりしている。いずれにせよ、祖母が死んだあとは彼女がこの家族とともにいる理由はなくなっており、彼女はこの先、一人で何とか生きていくことになるのだろう。
 報道されたテレビニュースが映し出されるが、それによれば、2人の子どもたちは助け出されたのであり、法律に則って保護されることになったのである。

 時が経ち、また冬が来たころ、施設に入って生活するようになった祥太が治に会いに来て、一人住まいのアパートに一晩泊まっていくエピソードが最後に置かれている。夜、雪が降り、二人はアパートの前の路地で小さな雪だるまを作ったりする。翌朝、雪はすっかり上がっていて、雪だるまはもう溶けかかっている(見え透いた小道具などと言うつもりはない)。バス停に向かって歩きながら、治は祥太に「俺、おじさんに戻るから」と言うのである。祥太が乗り込んだバスが発車すると、見送っていた彼は突然走り出してバスの後を追うのである。もちろん追いつけるはずもないのだが、車中でそれを見ていた(見るのを途中でやめた)祥太は、唇で小さく「お父さん」と言ったのだろうか。
 いずれにせよ、ここにははっきりと成長の跡が見える祥太がいた。彼は確かにこの擬似家族に救われたが、そこでの生活を通り抜けて一歩前に踏み出したのだ。父親役を必死に演じた治だけが、一人取り残されてしまったのだ。
 りんの場合はどうだったのか。映画のラストシーンは、団地の1階の外廊下で一人で遊んでいるりんの姿を捉える。少し前には、室内で母親に邪険に扱われる姿も描かれていた。虐待は少しは治まったと信じたいが、彼女は本当の家族の元に帰って幸せになったとはとうてい思えないのである。ふと遊びの手を止めて、手すりに寄りかかって遠くを見やるような彼女のカットで画面はプツンと暗転する。彼女はあの擬似家族との日々を思っていたのに違いない。だが、いまの日本社会にそんな家族を許容する余地はあり得ないのだ。たぶん、そのことを是枝監督は怒っているのだと思った。

 つい先日見た「フロリダ・プロジェクト」のことを思い出した。また、つい最近板橋で起こった幼児虐待死の事件を思い出した。子どもはどういう親の元に生まれるかを自分で選ぶことはできないという事実の残酷さ。だからこそ、寓話に過ぎないと笑われたとしても、「自分で選んだ方が…」という信代の言葉はとてつもなく深く重い。自分で選ぶことができなくて、たった5歳の子どもがあんな悲しい日記を残して死んでしまったのだ。この子の家の前を「万引き家族」が通りかかることはなかったのだ。それは悔しいことである。
 たぶん数年と思われる刑期を終えて、出獄した信代がまた治と一緒に生活するようになって、りんとまた新しい擬似家族を作る未来はないのだろうか、などと考えてしまった。映画はフィクションなのだから、そんなことを考えてしまう余地は残されている。この家族を卒業した祥太や亜紀も、時々は遊びに来ることもあるのではないか。そのくらい忘れ難い「絆」を、この家族は作っていたのだと感じた。
 パルムドールを取ってしまったから言いにくいが、たぶん今年のベストワンになる映画だと思った。
(イオンシネマ日の出、6月11日)

# by krmtdir90 | 2018-06-13 17:29 | 本と映画 | Comments(0)


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