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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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「時刻表が薄くなる日」(上岡直見)

「時刻表が薄くなる日」(上岡直見)_e0320083_15230846.jpg
 JR北海道は、夏にわれわれが訪れた布部・山部・東鹿越・幾寅の各駅を含む根室本線の富良野・新得間を、この3月末で廃止することを決めてしまった。北海道では近年、札沼線の北海道医療大学・新十津川間や日高本線の鵡川・様似間、留萌本線の増毛・留萌間、さらに留萌・石狩沼田間も廃止され、さらに北海道新幹線の札幌延伸時には函館本線の長万部・小樽間(いわゆる山線区間)も廃止される方向で調整が続いている。
 「時刻表が薄くなる」というのは、こうした現状に対する筆者の切迫した危機感の表明だろう。実際、上に挙げた廃止区間はどれも、わたしが「乗り鉄」に目覚めた10年ほどの間に乗りに行った路線であり、北海道以外でもJR西日本で廃止された三江線(江津・三次間)もそういう路線だった。廃止を免れ何とか存続している路線でも、運行本数の削減や車輌編成の縮小で非常に利用しにくいものになってしまっている例も多い。著者の上岡直見氏は、こうした状況をどう捉えどう打開していったらいいのかを、本書の中で非常に具体的なかたちで問題提起しようとしている。すべてが採算性の観点で評価され、赤字なら廃止されても仕方がないというような風潮に対して、そうではない明確な視点の提示がいまほど求められている時はないということなのだろう。

 日常的に注意していないと見過ごしてしまいそうなことだが、上岡氏は本書の中で、2013年2月に閣議決定されたという「地域公共交通活性化法改正法」というものの危険性を繰り返し指摘している。これは「交通手段再構築」の名の下に、不採算路線の存廃に関する実質的フリーハンドを鉄道事業者(主にJR)に認めてしまう法案だという。これは、路線の採算性を見れば廃止は当然という考え方に国がお墨付きを与えるもので、こうした方向性が推し進められていけば、「時刻表が薄くなる日」は意外に早くやって来るかもしれないと危惧を強めているのである(上で触れた根室本線や函館本線といった幹線の部分廃止は、その始まりということなのかもしれない)。
 こうした動きに対して、上岡氏は様々な角度から異なる考えがあり得ることを述べているが、その基本的立場は「交通は人権である」という一言に集約されている。人々にとって移動の自由というのは保障されなければならない権利の一つであって、これが阻害されれば、それは人権の侵害と言うべき事態なのだと考えている。すべての人がどんな時も等しく利用できる、開かれた公共交通の確立が必要であるという氏の主張は実に判りやすく明快だと思う。
 わが国の交通政策が道路整備一辺倒で行われてきたのは明らかな事実で、そこにはこれら公共工事に付随する巨大な利権構造があったことは容易に想像できる。夏に車で北海道各地を走ってみて、あちこちに高規格の自動車専用道路が作られているのに驚いた。その多くはどこもガラガラに空いていて、ほとんどが並行する道路を持っているのだから、こんなものを新たに作らなければならない理由はなかったのではないだろうか。たぶん所要時間の短縮とか利便性の向上とか言い出すのだと思うが、利用者がこんなに少ないのではそんなお題目にも疑問符が付くのではないか。実際、全国で道路整備や維持管理に膨大な予算が注ぎ込まれているのに対し、既存の鉄道路線を維持するために国や自治体が用意する予算はほとんどゼロに等しいという現状がある。にもかかわらず、道路は作られてしまえば採算性を問われることもなく、鉄道だけが採算性によって追い詰められていくような構図は、どう考えてもおかしいと言わなければならない。

 上岡氏は本書に中で、宇都宮浄人氏の次のような発言を紹介している。「欧州では、鉄道は収益事業とみなされていない。公的な支えが必要な『社会インフラ』と位置づけられている。さらに重要なことは、過度にクルマに依存した社会が環境悪化など様々な問題を引き起こし、生活の質を低下させ、地域を衰退させるという認識を共有している。EUは01年の交通白書で過度な道路依存から脱し、あらゆる移動手段の『バランス』を取ることを目標に掲げた」。欧州では飛行機から鉄道へという動きもあるようだし、クルマ依存に片寄り過ぎたインフラを改める方向に舵を切っているということなのだ。旧態依然の日本の政治や行政が、こうした大局的見地に立った政策をまったく打ち出せていない(むしろまったく逆向きの「地域公共交通活性化法改正法」などを出している)ことには危機感を覚えないではいられない。
 宇都宮氏の発言はさらに続く。「そもそも、地域衰退の悪循環を打破するには、公共交通が、住民が思わず乗りたくなる利便性や乗り心地、さらには観光客を引きつける魅力も備える必要がある。地方の生活の質を上げれば若者が流出せず、観光客が増えれば地域も再生する。公共交通は『最低限の移動』をかろうじて守るだけの存在ではなく、鉄道についても目先の収支ではなく広く社会にもたらす効果を考え、活用しているのである」。
 採算性が悪いからと言って運行を切り詰め、さらに利用状況を低下させてからバス転換、そのバスも(採算が取れるわけがなく)しばらくして廃止という事例が日本のあちこちで見られた。こうした後ろ向きの流れを変えるためには、政治の大きな転換が必要なのだろう。北海道について言うと、現在の知事が、かつて夕張市長だった時代に「攻めの廃線」とか言って夕張線廃止を決め、夕張市のさらなる衰退を招いた張本人だったことも不運と言うしかない。インバウンドが戻って来始めている中で、鉄道指向が強い彼らの需要にJR北海道が応えられていない現状もネットなどには伝えられている。知事を始めとする道庁に正しい問題意識が見られないのでは、北海道の鉄道が持つ可能性は潰されていくばかりだと思う。

 すべての出発点に、上岡氏の「交通は人権である」という考え方と、氏が紹介している宇都宮浄人氏の「鉄道は収益事業ではなく、公的な支えが必要な『社会インフラ』なのだ」という考え方を据えることが必要なのではないか。わたしが鉄道ファンになって10年かそこらの間にも、状況はどんどん悪い方向に向かっていると言わざるを得ない。わたしは鉄道ファンとしてはもう過去の人間だが、いまバリバリのファンである若い世代には、上岡直見氏のこの本がぜひ必読の書となってくれることを願っている。年々味気なくなっていくばかりの時刻表を何とかしなければならない時が来ている。

# by krmtdir90 | 2024-02-25 15:24 | | Comments(0)

「つかこうへい正伝Ⅱ」(長谷川康夫)

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 「Ⅱ」が「Ⅰ」より面白いことはあまりない。「Ⅰ」には「1968~1982」という年号が付されていて、つかこうへいがまだ無名だった頃から始まって、人気絶頂の中で劇団つかこうへい事務所を解散するまでが描かれていた。今回は「1982-1987 知られざる日々」とサブタイトルにあるように、解散前後からその後にかけて、著者・長谷川康夫が知り得た範囲でのつかこうへいを追おうとしている。つかこうへい事務所がなくなった後も長谷川氏とつかこうへいの関係はそれなりに続いていたようだが、劇団員として文字通り昼夜分かたずつかこうへいと共にあった「Ⅰ」の時期と比べると、「Ⅱ」における両者の関係はやはり距離感があって、そのぶん長谷川氏はつかこうへいという存在を客観的に捉えられるようになったと言えるのかもしれない。だが一方で、「Ⅱ」では長谷川氏の「自分語り」の部分がかなり増えていて、それはそれでなかなか興味深いところもあったのだが、「つかこうへい正伝」という趣旨からすれば若干脱線が過ぎると言わなければならないように思った。そういう意味で、前回は有無を言わせず一直線につかこうへいを発見していく面白さがあったのと比べて、今回は内容的にやや散漫に流れてしまった印象は否めなかった。
 だが、そうした中でやはり特に興味深かったのは、1985年に行われたという「熱海殺人事件」韓国公演の経緯である。ある意味、日本では「功成り名遂げた」感があったつかこうへいが、祖国である韓国ソウルでの公演にどんな意義を見出していたのか。こういった点を、やや距離はありながらも、長谷川氏は非常に丁寧に追いかけてくれていたと思う。
 以前、つかこうへいの著作をそれなりに読んだ時期があって、1990年に出た「娘に語る祖国」も読んだことがあった。「Ⅱ」の中で長谷川氏は、「娘に語る…」で綴られたソウル公演の顛末は、「大まかな事実関係に嘘はないとして、ひとつひとつのエピソードや登場人物の描写のようなものは、例によって『読み物』を意識したフィクションが大半である」と断じている。だが、長谷川氏ももちろん判っていると思うが、それこそがつかこうへいの真骨頂なのであって、「娘に語る祖国」の巧みな語り口を見ても、つかにとってそれが事実であるかどうかは問題ではなく、いかに針小棒大であろうとそれで核心に迫れるのであれば、それこそが選ばれるべき最良の表現ということだったのではないかと思う。
 今回の巻末に、「おまけ」のように、つかの一人娘であるみな子(宝塚の娘役トップの一人だった愛原実佳)さんと長谷川氏の対談が、「娘が語るつかこうへい」と題して掲載されているのも面白かった。私生活への興味のようなものはわたしの中にはほとんどないが、「娘に語る…」の中で自分のことを「見栄っぱりで小心者」と書いていたつかこうへいの、飾らない素顔といったものを、長谷川氏は今回の「Ⅱ」でけっこういろいろ描き出すことに成功していたのではないかと思う。そういう意味では、長谷川氏は「Ⅰ」と「Ⅱ」を合わせるかたちで、つかこうへいという生き方の全貌を描き出したと言っていいのかもしれない。

# by krmtdir90 | 2024-02-22 20:08 | | Comments(0)

贔屓の映画館

 立川のkino cinemaに行ったのは今年になって初めてだった。数年前にここが出来た時は、これはぜひ贔屓の映画館にしなければと思ったものだった。だが、最近はその気持ちがどんどん薄れてしまって、同じ作品をやっているなら他の映画館で観た方がいいとまで思うようになってしまった。なぜそんなことになってしまったか。それはひとえに、上映の前に流される木下グループのCMのせいである。ここが木下グループの経営なのは判っているから、そのCMも1本で終わるのなら我慢してもいいと思う。だが、まったく信じ難いことだが、ここでは取っ替え引っ替え(数えたことはないがたぶん6~7本、5本以上は確実)をこれでもかと流し続けるのである。われわれは映画を観る対価として料金を払っているのであって、有無を言わせずこんなものを毎回見せられるのではたまったものではない。1本60秒としても毎回6~7分の一方的押しつけに耐えなければならないのだから、こんな映画館には嫌気がさしてしまうのも当然と言うべきではないだろうか。

 一方で、あつぎのえいがかんkikiには今年になってもう6回も通ってしまっている。コロナ禍になって混雑した都心に出るのを控えようと決めた時、都心のミニシアターなどで上映される映画の多くがここで観られることに気付いたのが始まりだった。行ってみるとなかなか落ち着いた雰囲気の映画館で、スクリーン数は3つでkino cinemaと同じだったが、館内やロビーはずっと余裕があって、ゆったりした気分で観賞できるのも高評価につながったと思う。もちろん上映されるラインナップが好みに合っているのが一番で、観客のリクエストに積極的に応えようという姿勢が見えるのもプラスになっているような気がした。最初は知らなかったのだが、ここは大阪に本社がある映像機器システム社というところが運営母体になっているようで、そのCMが毎回流されるのだが、もちろん60秒が1本だけだし、その控え目で素朴な作りもなかなか好感が持てるものなのである。
 いまでは完全にここが贔屓の映画館になってしまったが、その理由はまだいろいろとある。小田急小田原線本厚木駅東口から徒歩5分なのだが、この道路の地下にプロムナードが出来ているので、駅から先、一度も外(地上)に出ないで行けてしまうというのは大きな利点と言っていいだろう。交通費が片道で642円かかるのだが、新宿までの571円と比較してもそれほどの違いとは思えない。それに、こちら方面はこれまでまったく縁のなかったところなので、途中で相模線を経由することで毎回「小さな旅」の気分が味わえるのも大きな魅力になっている。しかも、これは非常に大きな要素だと思うのだが、いまkino cinemaを始めとして大半の映画館でシニア料金が1300円になっているが、kikiのそれは1200円のままで、さらに事前にネット予約をすると1100円に割引されるのである。これは最近まで知らなかったことなのだが、こうなると人混みを押してわざわざ新宿や渋谷まで出かける理由はまったくなくなってしまった(まあ、少しぐらいお金がかかっても、気持ち良く映画が観られるならそれが一番ということなのです)。とにかくkikiにはこれからもこのままの感じで頑張ってもらいたいと思っている。
↓kikiで貰える館のお知らせパンフ。三つ折りになっていて、中に上映スケジュールや上映作品の紹介などが載っている。
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# by krmtdir90 | 2024-02-21 23:59 | 映画 | Comments(0)

映画「瞳をとじて」

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 調べてみると、監督・脚本のビクトル・エリセは1940年生まれのようで、2023年のこの映画発表時には83歳になっている。もともと寡作な監督だったが、何と31年ぶりの長編新作映画なのだという。第1作の「ミツバチのささやき」(1973年)、第2作の「エル・スール」(1983年)は観ているはずだが(日本公開はいずれも1985年)ほとんど何も覚えていない。今回、恐らく監督としてはこれが最後という思いがあったのだろう、上映時間「ミツバチ…」が99分、「エル・スール」が95分だったのに対し、本作では169分を費やして、過去の自作などと結びつくような様々なヒントを散りばめていたようだ。インターネットなどを閲覧すると、そのあたりのことを解き明かして(悦に入って?)いる記事などにもぶつかるのだが、記憶から消えてしまっている以上、わたしにはそれらの解明や解説というのは無意味だし、あくまでこの一作について考えていくしかないということになるだろう。
 映画の構成はけっこう重層的で凝ったものだったが、ビクトル・エリセ監督がやろうとしていたことは案外単純なことだったのではないか。監督として、自分が過去に作った映画を忘れ難いものとして反芻するのはかまわない。また、自分が過去に影響を受けた(愛好してきた)映画の断片を、忘れ難いものとして作品の中に記憶しておきたいという心性も理解できないわけではない。だが、そうした諸々は、新たな映画の本筋とは無関係のところにある事柄なのではないだろうか。そうしたことを抜きにして考えると、この映画でエリセ監督が構築したストーリーはあまり共感できるようなものにはなっていないように感じたのである。
 「別れのまなざし」という映画の撮影中に主演俳優のフリオ(ホセ・コロナド)が失踪し、撮影は暗礁に乗り上げ映画は未完成に終わってしまう。22年後、「未解決事件」というTV番組でこれが取り上げられることになり、監督だったミゲル(マノロ・ソロ)の許に出演依頼が舞い込む。その取材に応じたことがきっかけとなって、失踪当時は確証のないまま自殺ではないかと見られていた事件に、新たな事実が次々と明らかになっていく、というのが展開の骨子になっている。番組の放映後に視聴者から、思いがけずフリオらしき男が記憶喪失になりながら介護施設に収容されているという情報がもたらされる。ミゲルはすぐに確認に赴き、それがフリオに違いないという確信を抱くが、フリオはもはや彼のことを思い出すことはできないのである。
 取材を受けた段階で、ミゲルはこの過去につながる幾人かの人物と再会していて、当時のことをもう一度思い返している。フリオの一人娘のアナ(アナ・トレント)、ミゲルの恋人でフリオともつき合いのあったロラ(ソレダ・ビジャミル)、かつての映画で編集担当だったマックス(マリオ・パルド)といった面々である。ミゲルはアナを施設に呼び寄せてフリオに会わせるが、やはり彼は娘のことも記憶していないようだった。ミゲルは彼の記憶を取り戻すために様々な働きかけを試みるが、最後に若かりし日の彼が写っている「別れのまなざし」のフィルムを彼に見せようとするのである。
 ずっと映画とともに生きてきたビクトル・エリセ監督にとって、みずからがフィルムの中に封じ込めた記憶の永遠性・絶対性といったことについて、この最後の?映画でぜひとも提起して置きたかったということなのではないか。だが、そのために組み立てられた本作のストーリーは、ラストに向かって収斂して行く仕掛けとしては機能していても、人物造型などで多くの曖昧な部分を放置している点で、腑に落ちない印象が否めなかったのである。当人が記憶を失っている以上、当時のフリオが失踪した理由はもう判らないということになるのだとしても、判らなくても生きていたんだからいいじゃないかとはならないように思ってしまった。少なくとも、みずからの失踪が周囲の人々に与える大きな影響について、考えを巡らすことはできたはずだったからである。もしそういうことを一切抜きにした、自身の内部でのみ完結してしまうような失踪だったとしたら、そういう行動を納得するのはかなり難しいことと言わなければならないだろう。
 もう一つ、フリオが最後に記憶を取り戻すことができるかというのを展開の鍵としてきたにも関わらず、エリセ監督がそれを明確に示さないまま映画を終わらせたことをどう考えるのかということがある。記憶は戻らないけれど、フィルムの中に残されていた事実は受け入れるしかないとフリオは思ったのだろうか。彼は最後に「瞳をとじて」いるのだが、それは彼がいま見せられたものすべてを、忘れてしまった記憶の一部として新たに脳内に刻み込んでいるということなのだろうか。記憶が戻るのか戻らないのかというようなことは、確かに非常に俗な興味だとは思うし、どちらに転んでもそれでもたらされるあれやこれやを、エリセ監督が描く気がないということだけは判った。
 もう忘れてしまったのだが、「ミツバチのささやき」や「エル・スール」のストーリーは、もう少し凝縮されていて、もう少しはっきりしていたのではないかと思う。今回の映画では、中心ストーリーの周辺に置かれたエピソードなども冗漫な印象があって、エリセ監督というのはもっと刈り込んだ組み立てをする人だったのではないかと、ちょっとよく判らなくなってしまったのである。なんか的外れと言われそうな気もするのだが、思ったことはこうだったのだから、このまま掲載しておくことにする。これぞ集大成と言われても、何だかね。
(kino cinema立川、2月15日)

# by krmtdir90 | 2024-02-20 23:59 | 映画 | Comments(0)

映画「ニューヨーク・オールド・アパートメント」

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 ニューヨークを舞台にした移民家族の物語である。家族は故国ペルーを捨て、安定した生活を夢見てアメリカに来たということらしい。来てからどのくらい経つのかは判らないが、母ラファエラ(マガリ・ソリエル)はウェイトレスをしながら、とにかく二人の息子を女手一つで育て上げ、息子たちもいまはレストランの配送員をして家計を助けているようだ。彼らは不法入国者なので本来は滞在資格がないのだが、ここでは探せばそれなりの働き口は見つけられるらしい。だが、当然ながらその立場は弱く、古びたアパートでの彼らの生活はいっこうに楽にならない。しかも、様々な差別や困難に直面する中で、一旦問題を起こせば即座に国外退去になってしまうので、その不安とも常に隣り合わせに生きていくしかないのである。
 息子の二人、ポール(アドリアーノ・デュラン)とティト(マルセロ・デュラン)は双子だったようで、この映画は思春期を迎えた彼らの成長物語という側面も持っている。移民向けの語学教室に通う彼らは、そこでクロアチアから来た謎めいた美女クリスティン(タラ・サラー)に出会い、次第に心惹かれるようになっていく。まだ童貞らしい彼らの不器用な憧れが、微笑ましいエピソードの積み重ねで拾い上げられている。実は、このクリスティンの方にも複雑な事情があって、彼女には刑務所に服役中の恋人がいて、彼をつなぎ止めるためとみずからの生活費を稼ぐため、密かにコールガールをしていたのである。ポールとティトはそのあたりのことを知らずに彼女に憧れていたのだが、恋人の出所を迎えに行った彼女は、そこで長い間騙されていたことを知ってしまい、後日その男を殺して逮捕されてしまうのである。彼女と交友関係があったことからポールとティトは警察の事情聴取を受け、不法滞在がバレてペルーに強制送還されてしまうことになる。
 一方で、母ラファエラは仕事のかたわら、彼女の肉体目当てに言い寄る男たちを巧みにあしらって稼ぎの足しにしていたが、特別熱心にアプローチしてきたエドワルドという男(サイモン・ケザー)の口車に乗ってしまい、ウェイトレスをやめて一緒に新たなデリバリーの店を始めることにする。ようやく希望への一歩を踏み出したかに見えたが、日が経つにつれこの男の横暴で勝手なところが明らかになって、結局すべてを清算して元のウェイトレスに戻らざるを得なくなってしまう。ポールとティトの物語とラファエラの物語は並行して描かれているのだが、ラファエラの知らないところで息子たちの物語は展開していて、ラファエラはわけもわからないまま、息子たちが突然行方不明になってしまった事実を受け止めるしかないのである。

 こうして書いてくると、いかにも乱暴な展開と思われないでもないが、アメリカに広がる不法移民の問題を真正面から取り上げながら、ポールとティトの「恋」の顛末を中心軸に据えることで、ある種清々しい青春映画の一面を際立たせていたのが良かったのではないか。クリスティンが日頃言っていた「やられたらやり返す」を実行するため、裏切った男を殺しに行く前にポールとティトに別れを告げる場面、彼らの真っ直ぐな思いに唐突に応えようとするところが思いがけず良かった。男子が経験豊かな女性の助力で童貞を破ることを古風な言い方で「筆下ろし」と言うが、生きる過程で経験豊かになるしかなかったクリスティンが、ポールとティトから受けた恐らく初めての純情に対して、ここで精一杯の「お返し」をしたということだったのだろう。
 突然引き離されてしまった母と息子たちも、最後には何とか連絡が取れて、荒涼としたペルーの風景の中で「必ず会いに行くから」と母と約束したこの時の二人は、どことなく一回り大きくなっていたようにも感じられた。このあと服役することになるクリスティンのその後は判らないが、語られていない彼らの未来がもう一度交わることもあるかもしれないと、理由もなく想像してしまうような終わり方になっていたと思う。
 アメリカの抱える問題を描いていたので当然アメリカ映画だと思っていたら、意外にもスイス映画となっていて驚いた。監督のマーク・ウィルキンスがスイスの出身で、この映画はニューヨーク在住時に撮ったものだったようだが、現在はアメリカを出てウクライナのキーウに住んでいるらしい。よく判らないが、言われてみると、アメリカの監督だとこういうきめ細かい温かい描き方はしないかもしれないという気もした。長編映画デビューの新人監督だったようだが、起伏に富んだ物語を的確に展開していて、非常に面白く観ることができた映画だったと思う。
(あつぎのえいがかんkiki、2月11日)

# by krmtdir90 | 2024-02-11 22:22 | 映画 | Comments(0)


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