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映画「ノマドランド」

映画「ノマドランド」_e0320083_21330851.jpg
 傑作だと思う。

 主人公はネバダ州エンパイアという小さな企業城下町に住んでいた60代の女性ファーン。不況で工場と社宅が閉鎖されてしまったため、長年住み慣れた町を出なければならなくなってしまう。彼女は工場に勤めていた夫を最近亡くしていたらしく、思い出の家財道具などを貸倉庫に預け、キャンピングカーに改造した中古のバンに最小限の道具だけを積んで、現代の「ノマド=遊牧民」として季節労働の現場を渡り歩く生活に入って行く。ファーンに扮するのは「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドだ。
 この映画は、彼女が行く先々で出会う人々、主に(様々な過去を抱えた)ノマドたちとの交流を通じて、みずからの「生きる道」を見出していく過程を描き出そうとしている。フランシス・マクドーマンドという女優の存在感は前作でも際立っていたが、今回もまた、自分の内にあるブレない思いと生きることへの強い意志を体現していて好演だった。ただ、この映画はファーンという女性についてあまり多くのことを語ろうとはしていない。彼女は自分から何かを語ることは少なく、周囲の人々の語りを受け止めることの方が多いのだ。その時々の彼女の小さな反応や受け答えの中から、彼女が何を抱え込んでいるのかが少しずつ見えてくるようになっていた。

 彼女はずっと一緒に生きてきた夫の死を、まだうまく受け止め切れていないのだということが徐々に見えてくる。心の底に深い喪失感を抱え、気持ちの整理がつかないままこの生活に入って行ったのだということが判ってくる。彼女はノマドとしてはまったくの初心者だし、知り合ったノマドにこの生活を続けるにあたっての準備不足を指摘されたりする。だが、フランシス・マクドーマンドのファーンは、始めた以上は前に進むしかないのだと覚悟を決めた強さというか、後には引かないという頑固さ(悪い意味ではなく)のようなものを感じさせて秀逸だった。こういう生き方の女性をやらせたら、フランシス・マクドーマンドほどぴったりの役者はなかなかいないのではないか。
 彼女の見事なところは、そうした芯の強さと同時に、当然あるはずの不安や寂しさといった弱い内面を、目に見える弱さとしてではなく、吹っ切れた前向きの言動の裏側にあるものとして、きわめて控え目に表現してしまうところではないだろうか。それはノマドという生き方に内在するものなのかもしれないが、そういう意味ではファーンがこの生き方を選んだことと、フランシス・マクドーマンドがこの役を演じたこととは、まさに正解の巡り合わせだったと言っていいのかもしれない。
 この映画ではフランシス・マクドーマンドともう一人、ファーンにプロポーズする初老のノマドを演じたデヴィッド・ストラザーンだけがプロの役者で、他のキャストはみんな素人の中から選ばれていて、ファーンと関わりを持つ多くのノマドはすべて実際にそういう生活を送っている人たちだったらしい。映画の中で重要なシーンになっているノマドの大集会は現実に行われているもので、そこに出てきたノマドのコミュニティも実際に存在するものなのだという。集会の主催者らしい白髭のボブ・ウェルズという男は、YouTubeでノマドの生活などを発信しながらその支援に取り組んでいる人物らしいし、ファーンが働いたAmazonの配送所で知り合ったリンダ・メイや、集会で出会って仲良くなったスワンキーという初老の女性などは、みんな実際にそうした生活を送っているノマドなのだという。映画ではスワンキーは死んでしまうことになっているが、実在の彼女はいまも元気にノマド生活を続けているとどこかに書いてあった。

 この映画にはジェシカ・ブルーダーという人が書いた原作ノンフィクションがある(日本でも「ノマド/漂流する高齢労働者たち」の表題で翻訳出版されている)ようだが、クロエ・ジャオ監督はこの映画化にあたって、ドキュメンタリーとフィクションを融合させるという斬新なアプローチで、まったく新しいロードムービーを作り出すことに成功している。ドキュメンタリーとして捉えられたノマドの生活の中に、新たにノマドとして生きることを選んだ初老の女性が入って行く、そこにフランシス・マクドーマンドはまったく違和感なく溶け込んでいたし、そういうふうにこの映画を組み立てた(脚本・編集も兼任)クロエ・ジャオ監督の勝利と言っていいのではないか。この有無を言わせぬ説得力は尋常ではないと感じた。
 もう一点、特筆すべきは撮影・美術のジョシュア・ジェームズ・リチャーズではないか。舞台となったのはアメリカ中西部、ロッキー山脈とシェラネバダ山脈に挟まれたグレート・ベースンと呼ばれる高原地帯のようだが、その荒涼とした広がりを捉えた映像の美しさは息を呑むばかりだった。様々な時間帯の、様々な光に包まれた大自然の美しい風景が、そこで生きることを選んだファーンやノマドたちの心情と響き合っているように感じた。荒野の中、どこまでも続く道路と、そこを行くノマドのキャンピングカー、それは孤独に見えるけれど孤独ではない、彼らの生きる場所はここにしかなく、みずからの生き方としてそれを選んでいるのだという、不思議で自由な感覚が漂っているように見えた。

 ノマドたちはお互いに別れる時、「さよなら」ではなく「またどこかで会おう(See You Down the Road.)」と言うのだという。この道路の先のどこかで、また会える時があるはずだと信じること。こういう生き方があるというのを知ったのは大きかった。非常に余韻が残る映画だったと思う。
(TOHOシネマズ立川立飛、4月8日)


# by krmtdir90 | 2021-04-22 21:34 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ミナリ」

映画「ミナリ」_e0320083_21574573.jpg
 この映画はアメリカ映画だが、全然アメリカ映画らしくなかった。脚本・監督のリー・アイザック・チョンは韓国系移民の2世ということで、自身の家族がアメリカに移住して来た当時のことを、いま改めて一つの物語として構成しようとしたものらしい。時代設定は1980年代のようで、映画はこの家族がアメリカに渡った経緯などには触れていないが、チョン・ドゥファン(全斗煥、1980~88大統領)による軍事クーデターや光州事件(1980)の混乱などが関係していたのではないかと想像される。いずれにしても、当時は貧困など様々な社会問題を抱えていたアジア諸国、中国・インド・フィリピン・ヴェトナム・韓国などから、アメリカンドリームを求めた多くの移民がアメリカに流入していたらしい。

 韓国からアメリカ南部アーカンソー州にやって来たのはジェイコブ(スティーヴン・ユァン)とモニカ(ハン・イェリ)という夫婦で、大きな農園を作って農業で成功するという夫の野心に対して、妻はやや不本意な気分で従うしかないといった雰囲気を漂わせている。彼らにはアン(ネイル・ケイト・チョー)とデビッド(アラン・キム)という2人の子ども(姉弟)がいるが、デビッドは心臓に持病を抱えているらしく、緊急時に頼る病院が近くにないようなところに移住することを、夫が勝手に決めてしまったことにも妻は納得していない。リー・アイザック・チョン監督は1978年生まれらしいが、この家族の物語を描くに当たって、このまだ幼いデビッド少年の目に映ったもの(それはつまり、幼かった監督自身の記憶に残っていたものである)から脚本を組み立てていたように思われる。
 そのためもあったかもしれない、ジェイコブとモニカが頻繁に口喧嘩をしていたことなどは何度も出てくるが、彼らが何もない荒れ地を開墾していく苦労などはあまり描かれていない。一国一城の主となることを目指した彼らが、乗り越えなけらばならなかった数々の困難について、この映画は事実としては一通り触れてはいるが、それにしては思いのほか淡々と通り過ぎてしまっているように感じた。デビッド少年よりもう少し年少だったチョン監督には、様々な困難の事実は後から認識できても、その詳細のリアリティを作り出すことは難しかったということだったのかもしれない。一種の成功物語として大袈裟になり過ぎるのも問題だが、たとえば水の問題をどう解決したのかとか、開墾の過程の紆余曲折などはもっと具体的に見えるように描く必要があったのではないかと、途中から物足りない思いがずっと膨らみ続けていたのである。

 この夫婦は、アメリカに移住して10年ほどは、カリフォルニア州の孵卵場でヒヨコの選別という単純作業をずっと続けてきたようだ。そんな生活にほとほと嫌気が差して、何とか一旗揚げたいと成算もないのに突っ込んでしまったジェイコブの切実な思いは描かれていた。だが、そんな夢や幻にはもうついて行けない気持ちになっているモニカの苛立ちも切実なものである。デビッドの視点で一貫するのであれば(アンの視点でもよかったのだけれど)、もう少しそこにこだわった方が良かったのではないだろうか。この夫婦の姿は、数年前に観た「ワイルドライフ」(ポール・ダノ監督)の夫婦を思い出させたのだが、アメリカ映画でありながら韓国的なものが混在しているこの映画は、主人公ジェイコブの上昇願望というのが基盤になっているため、彼らを取り巻く様々な問題がもう一つクリアに見えてこないもどかしさのようなものを感じた。
 映画の中盤で、夫婦はモニカの母親スンジャ(ユン・ヨジョン)を韓国から呼び寄せ、子どもたちの面倒を見てもらいながら生活するようになるのだが、周囲のアメリカ社会との関係があまり描かれていないので、どうも物語が家族の内側に閉じてしまう感じになってしまって面白くなかった。描かれる事実にリアリティを込めるところで、この監督のやり方はやや中途半端だったのではないかという印象を受けた。結果的に、彼らが乗り越えていった困難の描き方がどうも鮮明さに欠けている印象があって、一つ一つのエピソードが都合良く進み過ぎていると感じてしまった。全体として、不満が多く残ってしまう映画だったと思う。
(kino cinema立川、4月2日)


# by krmtdir90 | 2021-04-16 21:58 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ステージ・マザー」

映画「ステージ・マザー」_e0320083_22101494.jpg
 主人公のメイベリンに扮したジャッキー・ウィーヴァーはオーストラリア出身で、わたしと同い年のベテラン女優であるらしい。なかなか難しい役だったと思うが、実に見事な存在感で魅力的な初老に女性を演じ切っていた。

 保守的なテキサスの田舎町で、パブテスト教会の聖歌隊を指揮している彼女は、張り切って大声を出してしまう団員を「神様の耳は遠くないから」などとやんわりたしなめるようなウィットの持ち主である。そんな彼女の許に、ある日、サンフランシスコに出ていた息子のリッキーが急死したという知らせが届くのである。このリッキーというのがゲイで、敬虔なキリスト教徒だったメイベリンと夫はその事実を受け入れることができず、ずっと没交渉になっていたことが明らかにされている。彼女は、母親としてこれが最後なのだからと、反対する夫を押し切って友人たちが主催する葬儀に出席することにする。
 ところが、この葬儀というのが、古い価値観で生きてきた彼女には到底理解できないような、音楽ありダンスありの破天荒な代物で、彼女はいたたまれなくなって退席してしまうことになる。ただ、とにかく来てしまったからには、彼女は息子が残したものの後始末もしていかなければならないと考えている。彼女はリッキーが、サンフランシスコでも有名なLGBT(最近はLGBTQ+と表記するようだ)コミュニティのあるカストロ・ストリートで、自らが経営するパンドラ・ボックスというゲイバーでトップの人気を誇るドラァグクイーンだったことを知らされる。
 ドラァグクイーンというのもよく知らなかったし、こうした文化についてわたしは何の知識も持っていない。それはまったくメイベリンも同様で、ただ彼女は門外漢であることを意識しながらも、息子の生きた世界を(遅ればせながら)受け止めようとする柔軟さを持ち合わせていたということである。夫とともに生きてきた中で、息子の世界をずっと遠ざけていたことへの後悔もあったのかもしれない。彼女はリッキーのパートナーだった青年ネイサン(エイドリアン・グレニアー)や、親友だったというシングルマザーのシエナ(ルーシー・リュー)などと関わりを持つうちに、息子の残したパンドラ・ボックスの経営を引き継ぎ、そこに集った友人たちの生活を引き受けていこうと決意する。

 彼女は、長年生きてきた世界とはまったく異質の世界に足を踏み入れ、簡単には受け入れることのできない文化に戸惑いながらも、そこにいた息子の思いを何とか受け止めようとして、彼の死で崩壊しかかっていたゲイバーの人間関係を一つ一つつなぎ止めていこうとするのである。基本的な人物設定などは非常に面白いものだし、ストーリーの展開にも無理なところは見られない。ある意味、あざとくセンセーショナルに作ろうとすればいくらでも作れたはずだが、この映画は題材を強調してそれに寄りかかるような浅薄な作り方には見向きもしていない。みんなが自分を偽ることなく、自分に正直に生きようとしているだけなのだという大前提を、こんなふうに当たり前のこととして描いて見せてくれたのは素晴らしいことだと思う。
 メイベリンはこれまでの自分の生き方を変えてしまうわけではない。彼女もまた、自分は自分なのだということをここで確認しているのだと思った。彼女の過去からすれば信じ難いような事態に直面しながら、LGBTQ+のコミュニティと、そこで生きている自分の息子と同じ年ごろの若者たちを徐々に理解していく、そういう大らかで柔軟な感性を失っていなかったことが、彼女をまた一つ魅力的な存在に生まれ変わらせたということなのだろう。単なる成功ドラマの枠を越えて、幾つになっても人間は変わっていくことができるのだということを、丁寧な描写ですくい上げて見せてくれていたと思う。監督:トム・フィッツジェラルド、この人はなかなかいいのではなかろうか。
 アメリカ映画だと思っていたら、実はカナダ映画だった。
(kino cinema立川、3月11日)


# by krmtdir90 | 2021-04-06 22:11 | 本と映画 | Comments(0)

映画「天国にちがいない」

映画「天国にちがいない」_e0320083_21061940.jpg
 率直に言って、パレスチナ問題というのは複雑すぎてよく判らない。この映画はフランス・カタール・ドイツ・カナダ・トルコ・パレスチナの合作映画とされていて、イスラエルの名前は入っていない。監督・脚本のエリア・スレイマンはイスラエル国籍のアラブ人(キリスト教徒)で、自らをパレスチナ人であると宣言しているが、住んでいるのはパレスチナ自治区ではなくイスラエル側にあるナザレというところ(イエス・キリストが幼少期を過ごしたとされる町)で、どうも簡単に割り切れるような存在ではないようだ。
 パレスチナ問題の始まりをできるだけ単純化してしまえば、1948年にユダヤ人がこの地にイスラエルを建国したことにより、もともとこの地に住んでいたアラブ人(パレスチナ人)との間に領土の争奪が起こったということらしい。ただ、その後の経緯は複雑をきわめていて、いまとなっては単なる宗教対立だけではない様々な問題が絡み合っていて、外から見たのではなかなか理解することができない事態に陥ってしまったようだ。わたしとしては、このスレイマン監督の立ち位置というのはよく理解できないし、にもかかわらず、監督自身はみずからををパレスチナ人と規定することに非常に大きな意味を見出しているということらしい。

 だが、この映画はパレスチナ問題を決して正面から扱っているわけではない。ナザレに住むエリア・スレイマン自身である映画監督が主役になっていて、自らの映画の企画を売り込むためパリやニューヨークを訪れるがうまくいかず、結局ナザレの日常生活に戻ってくるという、構成的には一応の大枠が作られてはいる。しかし、映画はそうしたことよりも、様々な場所で彼が次々に体験するおかしなエピソードを羅列することで、彼が持つ一筋縄ではいかない奇妙な世界観を浮かび上がらせることに主眼を置いているように見える。彼は映画の中で、ニューヨークのタクシー運転手との会話で2つの言葉を口にする以外は、どんな場面でも終始何も喋らずに立ち尽くしているのである。目の前で起こる様々な出来事は、彼にとっては恐らくすべてが想定外で解釈不能なものであって、彼はそれをいつも少し驚いたような表情で、戸惑いながら傍観するばかりなのだ。
 傍観というのは少し違うかもしれない。彼はタクシー運転手の「どこから来たのか」という問いに対して、「ナザレ」「パレスチナ人だ」という言葉を発するのだが、それ以外の場面では頑ななまでに口を開くことがないのである。彼は恐らく、どの場面でもその2つの言葉を基点とする視点で世界(目の前の出来事)を見ているということなのだ。ところが、周囲の人間の方から見れば、パレスチナ問題などというのは遥か遠い世界の「よく判らない問題」なのであって、監督自身もそれは仕方がないことだという、ある種の諦観のようなものに支配されていたのではないか。

 自身がなかなか理解されないのと同様に、自身も周囲がよく理解できないという感じが映画全体を覆っている。それはもうどうしようもないことであって、彼は周囲の世界が誰も知らないうちに回復不能の袋小路に嵌まってしまったのではないかという、何とも居心地の悪い違和感のようなものを感じ続けていたのではないか。だから、彼はいつも(どの場面でも)何か言いたそうにしながら、それは言葉にはならないのだということを繰り返し確認しているように見えるのである。
 いろいろなシーンはどれもなかなか象徴的で、それぞれが何かを比喩的に示しているように見えなくもない。だが、それらを一つの観点から意味付けてしまい、現代世界やパレスチナと関連させるような絵解きをしてしまったらつまらないものになってしまう気がする。シーンのあちこちから漂い出てくる何とも言えない不穏な空気がこの映画の核心なのであって、それは一面的な解釈では説明できないものなのだと感じた。ナザレでもパリでもニューヨークでも、それはまったく同じように存在しているのだ。
 すべてのエピソードに触れることはできないが、たとえば、パリの街並みからは人の姿がまったく消えてしまっていたり、そこを不意に何台もの戦車が通り過ぎて行ったり、人気のない地下鉄の中で見知らぬ男に威圧的に絡まれてしまったりする。ニューヨークの街角では人々がみんなライフル銃をぶら下げて歩いていたり、セントラルパークでは大きな羽根をつけた天使の姿の少女が警官に追われていたりする。警官は至るところにいて、いつも誰かを追いかけているようだ。

 そうした様々なエピソードを経た後で、結局スレイマン監督は再びナザレの自宅に戻って来る。好むと好まざるとに関わらず、そこが監督の生活の場なのであって、彼は最後にはそこでイスラエルのパレスチナ人である自分と向き合うしかないのだろう。スレイマン監督はこの映画について、「世界をパレスチナの縮図として提示しようとした」と述べているようだが、その点では残念ながら「よく判らない映画」だったと言うしかない。一方で、次々に繰り出される新鮮なイメージと不思議なユーモアに、有無を言わせず引き込まれた映画だったのも確かなことだったと思う。
 こんな映画もあるのだ。
(アップリンク吉祥寺、3月9日)


# by krmtdir90 | 2021-03-30 21:07 | 本と映画 | Comments(0)

映画「春江水暖~しゅんこうすいだん」

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 春江というのは長江の南・浙江省を流れる富春江という大河のことで、あたりは風光明媚な江南の水郷地帯を形成しているらしい。この流域にある富陽という町が、グー・シャオガン監督(脚本も)の故郷なのだという。現在は下流の杭州市の一部となり、どんどん再開発が進んでいるようだが、監督の少年時代には「いつも静かで退屈な小さな街」に過ぎなかったと(インタビューの中で)述べている。絶え間なく発展を遂げる巨大中国の中にあって、この富陽の街にも激しく変容していくものと変わらずに残り続けているものがあるようだ。それを丸ごと記録に留めたいというのが、この映画を撮るにあたっての監督の製作意図になっていたらしい。
 グー・シャオガン監督は1988年の生まれだというから、この映画の撮影時にはまだ30歳前後の若さだったと思われる。映画がデジタルになったことで、一人でもやれるからと何本かの短編ドキュメンタリー映画を撮ったりした後、初めてクルーを集めて、資金調達と並行しながら2年ほどかけて撮った最初の長編映画がこの映画だったという。キャストの大半は監督の親類縁者や知人の中から選ばれていて、クルー(スタッフ)もほとんどが経験の浅い同年代のメンバーだったようだ。こういうことはすべて後から知って驚いたことなのだが、観ている間はその画面作りやストーリー展開の巧みさに圧倒されるばかりで、いま凄い才能に出会っているのだという高揚感が途切れることがなかった。ほとんどキャリアのないこんな若い人間が、こんな見事な映画を当たり前のように撮ってしまうことが現代の映画なのかもしれないと思った。。
 台湾のエドワード・ヤン(「牯嶺街少年殺人事件」)やホウ・シャオシェン(「童年往事/時の流れ」)、中国ならジャ・ジャンクー(「帰れない二人」)やフー・ボー(「象は静かに座っている」)といった、突出した才能に出会った時の衝撃を思い出した。だが、これらの監督たちとグー・シャオガンが決定的に違っていたのは、この映画の中には劇的な要素というものがほとんど描かれていないことではないかと感じた。劇的なものがないわけではないが、この監督の興味はそれを際立たせることには向いておらず、そうしたことを少し離れたところから傍観するような視点で、登場人物それぞれが紡ぎ出すささやかな出来事の積み重ねを、ゆったりと流れるように掬い取っていくことだったように思われた。そこにはいつも変わらぬ春江の四季の風景があり、そこで展開する家族の様々な出来事を包み込んでいるように見えるのである。映画がどんなストーリーを見せてくれるのかと考えた時、この監督が描いて見せたこの悠然としたアプローチの仕方(対象との距離の取り方)は何とも魅力的なものだったと思う。

 グー・シャオガン監督は「現代の山水画(絵巻)」のような映画を撮りたかったと述べているが、その意図が先走ってむやみに尖った表現になるようなことはなく、対象を見詰めるカメラの位置取り(眼差し)はどこまでも穏やかで揺らぐことがなかった。若い監督に特有の気負いが前面に出ることもなく、全力で撮っているのは明らかなのに、どのシーンにも無理して描こうとはしない余白のようなものが感じられて、それが観る者の想像力を刺激しているように感じた。
 描かれていくのは、富陽の街に住むある大家族に起こった一年ほどの間の出来事である。ある夏の夜に開かれた家族の祝宴の様子から映画は始まるが、いきなり何十人もの集団シーンから始めるというのは、映画の導入としては相当ハードルが高かったのではないだろうか。整理し過ぎれば説明的になってしまうし、それを避けようとすれば雑然として焦点の定まらないものになってしまうだろう。この監督はそこを見事なカメラワークで軽やかに乗り切っている。祝宴が進行するに従って、小さなエピソードの積み重ねの中から、主要な登場人物の姿が自然に浮かび上がってくるのは凄いと思った。たぶんそれは、テクニックと言うより天性のセンスによるものではないかと感じた。
 この祝宴は、この家族の家長である老いた母の古希の祝いなのだが、彼女の息子である4人の兄弟やその妻や孫たちが集団の中から次第に見えてくるようになっていた。やがて、宴もたけなわとなったころ、母が突然倒れて救急車で運ばれることになり、その後一命は取り止めたものの、脳卒中による認知症で家族の介護が必要な身体になってしまうというのが発端となっている。ただ、このことは家族にとって(もちろん映画のストーリーにとっても)大きな出来事であったはずだが、その後の展開の中では「そういうこともあるかもしれない」「そういうことがあっても不思議ではない(仕方がない)」という捉え方になっていて、そのことは事実として受け止めながら、息子たちや孫たちはそれぞれが抱えている生活を再び始めていくしかないのである。この、ある種淡々とした視点がこの映画の基本的なトーンになっている。
 映画はこのあと、4人の息子たちと孫たちがたどるほぼ一年間を点描していくことになるが、監督はそれを情緒的な表現に傾斜してしまうのを注意深く避けながら、一貫してやや離れたところから静かに眺めようとしている。登場人物に対するこの距離の取り方は決して冷ややかなものではなく、むしろそこに監督の暖かい共感が注がれていることが感じ取れるようになっている。だが、この監督はこうした様々な問題や出来事に深入りしてしまうことは、この映画にとって好ましいことではないと考えているように思われた。

 グー・シャオガン監督が脚本で設定した家族構成は、みずからの出自や体験を生かしたところも多かったようだが、それを巧みに組み合わせふくらませることで、現代の中国社会の姿をいろいろな角度から照らし出せるものになっていたと思う。
 長男のヨウフーは、祝宴が行われたレストランのオーナー兼料理人で、店の経営は必ずしも順調とは言えなかったようだが、年長者の責任として当面は母の面倒を引き受けることになる。妻のフォンジュエンは、ずっと経済的な苦労を経験してきたので、一人娘のグーシーには何とか金持ちの知人の息子と結婚して幸せになってほしいと願っている。だが、幼稚園の先生をしているグーシーは、母の期待に反して、金はないが誠実そうな教師のジャンと付き合っているらしい。次男のヨウルーは、妻のアインとともに富春江で漁師をしている。彼は船上での気ままな暮らしを好んでいるようで、陸上の家(マンション)が再開発で取り壊されることになったのを契機に、その補償金で結婚間近の息子ヤンヤンに新しい家(マンション)を買ってやろうと考えている。結婚に際して男性側が家を用意できるかどうかは、これまでの中国ではきわめて大きな問題とされてきたようだ。三男のヨウジンは、博打好きの遊び人で、堅気の仕事には就いていないようだが、妻に去られた後はダウン症の息子カンカンを男手ひとつで育てている。兄たちから借金を重ねているらしいが、カンカンが急に体調を崩して入院することになった時、その費用を捻出するためにイカサマ賭博の裏社会とつながりを持ってしまう。四男のヨウホンについては、他の三人に比べてあまり描かれていないのだが、再開発の取り壊し現場で働いていて、いつまでも独身というわけにはいかないだろうと兄に言われて、気の進まない見合いなどをしているところが描かれている。
 映画は夏から秋、そして冬から春へと、移り変わる春江の流れを映し出しながら(これが息を呑むほど美しい)、家族それぞれの生活の場で起こる小さな変化をたどって行く。いろいろな出来事が拾い集められているが、グー・シャオガン監督は(上でも述べた通り)それを具体的な出来事として説明的に描こうとはしていない。様々なシーンが断片的に積み重なっていくうちに、彼らが抱えていたものが確かに変化したのだということが自然に理解されるようになっている。
 たとえば、老いた母は秋ごろに老人ホームに入ったようだが、その詳細は描かれていないし、借金まみれで姿を消していた三男がすっかり羽振りが良くなった姿で現れ、母を老人ホームから引き取って息子と一緒に面倒を見ることになるところなども、細かい経緯よりも結果だけを手短に並べているだけなのである。しばらくして、三男は闇賭博で摘発され逮捕されてしまうのだが、その時も母やダウン症の息子がどうなったのかは、はっきりとは描かれないまま進んで行ってしまっていた。終盤に家族が揃って墓参りに行くシーンが置かれることで、母が冬の間に亡くなっていたことと、収監されてしまった三男の代わりに、次男夫婦がダウン症のカンカンを引き取っているらしいことが判るようになっているのである。だが、それは決して説明不足になっていたわけではない。

 時間の経過とともに、こうした家族の移ろいを最小限の表現で明らかにしていくグー・シャオガン監督の語り口は、全体としては過不足なく、バランスも取れていて鮮やかと言うしかないと思った。ほとんどカットを割ることなく、丁寧に計算されたロングテイクを中心に組み立てられていて、シーンの一つ一つが、何とも言えないゆったりとしたリズムを作り出しているようで、そこに捉えられた人物が様々な思いを抱えながら生きていることをくっきりと浮かび上がらせるのである。
 多くのREVIEWで触れられているのだが、映画の比較的前半に置かれた孫娘グーシーと恋人ジャンのデートのシーンが印象的だった。富春江沿いを二人で歩いている時、ジャンが不意に「競争しよう」と言い出すのである。彼は服を脱いで川を泳ぎ始め、グーシーは木々に囲まれた遊歩道を早足で追いかけて行く。カメラはその様子を川の方からややロングで捉え、泳いで行くジャンと木々の間に見え隠れしながら早足で歩くグーシーの姿を、右への横スクロールでずっと追いかけるのである。普通なら少し行ったところで切り上げて次につないでいくところだが、この監督はそれをしない。階段のようになって視界が開けたところにたどり着いて、ジャンが川から上がり、合流したグーシーからシャツや靴を受け取って身に着け、今度は二人してその遊歩道を歩き始める。カメラは途切れることなく、その歩いて行く様子をさらに延々と映して行き、さらにその先の船着き場に泊まった船に乗り込んで、その操舵室にいたジャンの父親に会うところまでたどり着くのである。
 上に書いた「延々と」というのはマイナスの言い方ではない。こんな撮り方は見たことがないし、こんなふうに映してみせる映画は見たことがないという「驚き」である。グーシーは歩きながら、取り止めのないおしゃべりをする。自分が以前やったことがあるらしい演劇のセリフを並べたりする。ジャンの方はもっぱら聞き役に回りながら、いかにも穏やかな雰囲気を漂わせながらついて行く。この10分以上続くワンカットには、特別なアクションや事件など、一般的な意味での劇的な要素は一切含まれていない。終始ロングショットだから、フレームには川辺にいる無関係な町の人々などが映り込んできたりするが、どう言ったらいいのだろう、その何も起こらないワンカットワンシーンの中に、何とも言えない暖かく豊かな時間が流れていたのである。
 印象的なシーンはまだまだたくさんあって、書き始めたらそれこそキリがなくなってしまう。冬になって、グーシーは両親に許されないまま家を出てジャンと結婚するが、春の墓参りのシーンでは母(フォンジュエン)と和解したような描写が短く挿入されている。一年ほどの間に、この家族には様々な変化があったのは確かなのだが、それらはさりげなく示されるだけで、決して強調するような描き方にはなっていないのである。それについても、細かく触れ始めたらキリがなくなってしまうだろう。

 上映時間は2時間30分だったが、片時も目が離せない豊かな時間だったと思う。感想をまとめようとして、その前に是非もう一度観に行きたいと考えながら、コロナ禍で先延ばしにしているうちに日が経ってしまった。機会があればとは思っているが、もう急ぐ必要もないと感じている。
 なお、この映画はラストシーンに「一の巻、完」という字幕が出て、グー・シャオガン監督はこれが三部作の第一作なのだと述べている。第二作は順調にいけば2022年に撮影を開始するとも述べていて、何とも楽しみなことなのだが、果たしてその先の第三作の完成まで見届けることができるかどうか、ちょっと自信がない感じもするのである。
(アップリンク吉祥寺、3月5日)


# by krmtdir90 | 2021-03-27 21:19 | 本と映画 | Comments(0)


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