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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「陽のあたる町」

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 途中で眠気を抑えるのに苦労したことを(眠ってしまったわけではないが)、最初に言っておきたいと思う。決してつまらなかったわけではないが、映画の中に入り込むのにかなり苦労したということだったのである。

 ジョージア西部のチアトゥラという町の現在を描いたドキュメンタリー映画である(2017年、ジョージア・アメリカ・カタール・オランダ合作)。ラティ・オネリ監督はジョージアの首都トビリシの出身で、この映画が長編第一作だったようだ。
 眠くなってしまった大きな原因は、わたしがジョージアという国のこともチアトゥラという町のことも、何一つ知らなかったということがあったと思う。説明的な要素を省いてしまうのは、ジョージアの人々にとっては自明のことだからある意味正しいことかもしれない。だが、部外者からするとその点のハードルがきわめて高かったということなのである。
 日本公開にあたって、配給側もそのあたりを危惧したようで、フライヤーなどにはジョージアの地図と「ジョージアのチアトゥラとは?」という文章が掲載されていた。それを書き抜いておく。

 チアトゥラの町は、1879年にジョージアの詩人アカキ・ツェレテリや貴族によって創設された。20世紀初頭には世界で消費される50%のマンガンを産出し、産業の中心地へと変貌した。やがてソヴィエト連邦が構成されると、チアトゥラの町は理想郷、そして未来都市の象徴として巨額の投資が行われた。劇場、大学、コンサートホール、スタジアム、公園が建設され、同時に世界初かつ最大のケーブルカー交通網が整備された。しかし、ソヴィエト連邦の解体、そしてマンガンが枯渇すると経済も衰退の一途をたどり、人口は激減、1989年にはおよそ3万人が暮らしていたが、2008年の人口は1万9千人ほどまで落ち込んでいる。

 マンガン鉱についても詳しいことは何も知らないのだが、世界の消費量の半分を産出していたというのはかなり凄いことだろうし、チアトゥラという町がかつて「陽のあたる」輝かしい過去を持っていたことが、映画の前提として非常に重要なことなのは判ると思う。だが、題名に反して、この町の情景や人々の姿が明るい太陽の光の下で描かれることは皆無で、映画は終始、暗い曇天と夜の闇に包まれた町の現在を記録していくのである。
 もちろん前提を知らなくても、かつての繁栄がいまは失われ、廃墟ばかりが目立つようになってしまった寂れた町で、いまを何とか生きている人々の姿を描いていることは理解できると思う。だが、前提が判らなければ、その人々のことはぼんやりとしか理解できないし、それをただ淡々と映していくだけのこの映画について行くことは、正直かなりシンドイことだったように思う。

 全編を通して説明的なショットはきわめて少なく(ほとんどないと言ってもいい)、見る側の想像力に期待すると言えば聞こえはいいが、やはりもう少し明瞭な描き方はなかったのかと言いたくなってしまう。住民たちの中から幾人かがピックアップされていたと思うが、彼らが置かれた状況とか内なる思いとかが、この描き方ではかなり判りにくかったというのが正直なところである。
 廃墟そのものを淡々と映し出した「人類遺産」(2016年、ニコラウス・ゲイハルター監督)という映画があったが、あれは人間の姿を画面から意識的に排除することで、かつてそこにあった人々の営みを逆に強烈に浮かび上がらせていたと思う。だが、本作の場合はやはり廃墟はあくまで背景であって、いまそこで生きている人々の「現在」にスポットを当てているのだから、彼らの抱えた様々な事情や感情をもう少し浮かび上がらせてほしかったと思った。
(渋谷イメージフォーラム、6月18日)
# by krmtdir90 | 2019-06-22 12:12 | 本と映画 | Comments(0)

コピスみよし2019・第18回高校演劇フェスティバル(2019.6.16)

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 15日(土)のリハーサルと16日(日)の本番をすべて見させていただいた。リハーサルの日は本降りの雨になってしまったが、リハーサルそのものは各校とも非常に順調に推移し、特別触れておかなければならないことは何もなかった。本番の日は天気も回復し、昨年やや落ち込んでしまった観客数もしっかり伸びていたようで良かった。
 その後、例年通りに感想文を書き始めたのだが、最近は感想というものがなかなかうまくまとめられない感じがあって、だらだらと日にちばかりが過ぎてしまった。ただ、今年はかなり厳しめな感想になりそうなところもあるので、ここへの掲載は見合わせて、次のまとめの実行委員会で関係方面に配布するかたちを取らせてもらうことにする。
# by krmtdir90 | 2019-06-21 23:59 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

映画「誰もがそれを知っている」

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 監督・脚本のアスガー・ファルハディはイラン出身の監督で、前作「セールスマン」(イラン・フランス合作、2016年)は首都・テヘランを舞台にした現代の心理サスペンスと言った趣の作品だった。一方、本作は同じ現代でもイランとは無関係の、スペインの田舎の村を舞台にしていて、スペイン・フランス・イタリアの合作映画ということになっていた。前作がまったく見事にイランとイスラム社会の現在を感じさせていたのに対し、本作は終始いかにもスペインという雰囲気を(現在だが田舎である)漂わせていたと思う。そういうところをくっきり描き分けられるところが、この監督の職人的技量の素晴らしさなのだと思った。
 この映画もまた一種の心理サスペンスである。起こった事件の前と後とで、登場人物たちの関係が後戻りできないように変質してしまうことが描かれていた。「セールスマン」の夫婦もそうだったが、アスガー・ファルハディという作者は、こうしたストーリーを組み立てるのが非常に巧みな監督なのだと思う。ただ、本作ではそのストーリーを展開させる際に若干苦しいところがあったようにも感じた。誘拐犯の設定などにやや無理があるように感じたのである。

 スペインの小さな村で育ったラウラは結婚してアルゼンチンに移り住んだが、妹アナの結婚式に出るため、思春期の娘イレーネと幼い息子ディエゴを連れて帰省する。夫アレハンドロは事情があって同行していないが、実家には老いた父親と姉夫婦、さらにかつてラウラと恋人関係にあったパコとその妻ベアなどが集まっていて、さらに多くの出席者を集めて盛大な結婚式が行われるのである。式後に実家の庭でパーティーが開かれるが、夜に差しかかる頃に雨が降り出し、さらに村全体が停電になるというアクシデントが起こったりするが、そんな事態をものともしないでパーティーはますます盛り上がりを見せていく。
 こうした中で、娘イレーネが姿を消し、しばらくしてラウラのスマホに「娘を誘拐した。警察に届けたら殺す」という脅迫のメールが届くのである。このあと映画は、この事件の経緯を追い詰められていく家族の側から描いていくのだが、イレーネの行方がまったく判らないことによるサスペンスとともに、主要な登場人物が抱えている様々な関係性や心理の綾が次第に見えてくるように進んで行くのである。

 その経過を細かくたどり直すことはしないが、犯人から30万ユーロという法外な身代金が要求されたことに対して、母親ラウラが明らかにする意外な「秘密」と、終盤に姿を見せる犯人と共犯者の背景といったところに、もう一つスッキリしない気分を抱いてしまったということなのである。
 ラウラの行動や、それに対するパコの対応、さらにはラウラの夫アレハンドロやパコの妻ベアの受け止め方といったこと、また犯人たちの動機と、その背景にある姉夫婦とパコ夫婦との確執といったことなど、これらすべての進行には一定の合理的説明が可能になっているように見えるが、それがやや取って付けたように思えてしまうところがあったということになる。誘拐事件は身代金と引き換えにイレーネが救出されて一応の解決を見るが、みんなが一種の放心状態に陥っているという感じで、すべては元に戻らないことが明らかになってしまったエンディングは、後味としては非常に苦いものになっていたと言うほかないだろう。
 面白い映画だったと思うが、前作「セールスマン」と比べると、その「作られ感」といったものが少々鼻についたということだったのである。
(立川シネマシティ1、6月11日)
# by krmtdir90 | 2019-06-14 21:16 | 本と映画 | Comments(0)

映画「アナと世界の終わり」

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 青春ゾンビミュージカルというのは何なのか。
 ハイスクールを舞台にしたミュージカル映画であるのは判る。だが、そこに突然ゾンビの集団が襲いかかり、人々が次々にゾンビ化していくというのはどういうことなのか。
 こういうことを考えてしまうのは、古い人間なのかもしれない。ゾンビが出てくることに、たぶん特段の意味などないのだ。このことをまず認めなければならないのだろう。

 主要キャストを構成する高校生は6人いるが、彼らはゾンビの襲来に対して逃げたり闘ったりはするものの、その行動に一貫性というか説得力があるようには見えないのである。ゾンビの側にも、ゾンビとしての統一感や必然性があるわけではない。何かひどくバラバラな感じでストーリーが展開している印象があって、最後に生き残る高校生3人にしても、そのつながりというのは弱くバラバラなままなのである。
 と言うか、彼ら3人以外の登場人物、つまりその他の人物はすべて途中で、みんな噛まれてゾンビになってしまうというのは何ということだろう。主要キャストの一角を占めていたはずの残る高校生3人や、その他多くの脇役の高校生たち、それから主要な大人たち(悪役も含めて)といったところ、さらに救出に来たらしい迷彩服の軍隊なども、どうも一人残らずゾンビ化してしまったようで、要するに世界は全部ゾンビになってしまったらしいのである。
 これはさすがに「エッ、そうなの?」と言わざるを得ないのではないか。最後、生き残った3人は車で逃げ延びることになるが、「これからどこに行こう?」という問いに誰も答えない(答えられない)まま映画は終わってしまうのである。別に教訓や解釈が欲しいわけではない。だが、これでは後に何も残らないではないか。

 たとえば「高校生の(ちょっと変わった)成長物語」というような解釈を無理やり持ち出してみても、そんなものを拒絶したところにこの映画はあったような気がしてしまう。ゾンビになってしまった大部分の登場人物と、運良くゾンビにならなかった3人とを対比しても、その経緯にどんな違いがあったのかはまったく不分明のままなのである。このままでは、この3人も早晩ゾンビになるしかないのではないかというのが、ラストシーンから辛うじて読み取れるメッセージのような気がするし、この映画は結局何がしたかったの?という問いに対して、古い人間を納得させる答えを用意する気は、最初から全然なかったのではないかと思えてしまうのである。
 だからどうだと言うつもりはない。作者たちはちょっと変わったミュージカル映画を作りたかっただけだったのかもしれないし、青春映画という視点で考えてみても、現代の映画としては、判り切った解釈などまったく不要なところで、ただ楽しいストーリーが展開すればそれでいいということだったのかもしれない。
 実際、最初の方で高校生たちが「この町を抜け出さなくちゃ」(Break Away)とか「映画みたいなエンディングはない」(Hollywood Ending)などと、退屈でパッとしない日常からの脱出願望を歌うところなどは非常に良かったし、ミュージカル映画としてのレベルはかなり高かったと思うからである(2017年・イギリス映画/監督:ジョン・マクフェール)。
(新宿武蔵野館、6月10日)
# by krmtdir90 | 2019-06-13 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「マルリナの明日」

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 インドネシア映画というのは初めてだったと思う(フランス・マレーシア・タイとの合作で、2017年の作品)。監督はモーリー・スリヤという女性で(製作時には37歳だったらしい)、本作が長編3作目だというが、何とも不思議な映画を作ったものである。

 舞台になったスンバ島というのは、島国インドネシアの中でも特に開発の遅れた貧しい島だったようだ。スマホが普通に出てくる映画だから、現代には違いないのだが、現代のこととはとうてい思えないような、信じ難い状況が次々と描き出されているのである。
 夫を亡くし、荒野の一軒家で一人で暮らしている主人公マルリナの許に、一人の男が突然バイクに乗ってやって来る。こいつは強盗団の首領で、家に上がり込むと、後から仲間がやって来るから食事を用意しろとマルリナに命じ、家畜と金を奪って食事が済んだら全員でおまえを抱くと一方的に告げるのである。
 マルリナは終始硬い表情で応対するが、炊事場で食事の支度を始めながら、鶏のスープに密かに毒の実を混入させる。毒を用意していたのは、そういう事態があり得るかもしれないと覚悟していたということだろうか。トラックで後からやって来た男たちは、このスープを飲んで次々に倒れていく。隣室で寝ていた首領にも勧めるが、男は食事そっちのけでマルリナに襲いかかり、やられそうになったところで、彼女は傍らにあった剣を振り下ろして男の首を撥ねてしまうのである。
 この剣というのがいかにも重量感のある無骨なもので(上のチラシでマルリナが手にしている)、普通の刀剣のように斬ったり突いたりという使い方ではなく、上から力任せに振り下ろしてぶった切るという感じの剣なのである。最初から凄い展開だなと思っていると、この後もさらに想像を超えた展開が待っていて驚かされた。

 マルリナの家で展開する一連のシーンで、薄暗い部屋の片隅に蹲っている人影のようなものが認められるのだが、これが何と亡くなった夫のミイラだったのだ。スンバ島など僻地の島では、いまでも死者を埋葬せず、ミイラにしてしばらく家の中に置いておく風習が残っているらしい。強盗団の首領を殺した後、マルリナがこのミイラに寄り掛かって眠っている?シーンがあったと思うが、彼女は死んだ夫とそうやって生活を共にしてきたのだろう。
 翌朝、マルリナは首領の生首をぶら下げて街の警察署に向かおうとする。警察に事態を知らせて、それなりの対応を取ってもらおうとしたようだが、警察はまったくやる気がなく、事態は少しも良くならない。この後の細かな経過は省略するが、幾つかのポイントだけ記録しておくことにする。
 バスを待ちながら、マルリナは同じく街に向かおうとする身重の女性ノヴィと出会っている。彼女はお腹の赤ん坊の父親に捨てられそうになっていて、そちらの経緯は省略するが、最後にマルリナを追って来た強盗団の生き残りの男に捕まってしまい、家に呼び出されたマルリナが男にやられそうになるところで、今度は彼女が剣を振り下ろして男の首を撥ねるのである。
 ノヴィはその直後にマルリナの介助によって出産し、最後は首領が残したバイクに、マルリナ、ノヴィ、赤ん坊の三人が乗って、どこへともなく去って行くのである。要するに、女性を蔑ろにするだけの最低な男たちに対して、女たちが容赦のない鉄槌を下すという映画なのだが、惹句にある「闘うヒロイン」たちのこの後がどうなっていくのかは判らないのである。

 マルリナが首領の生首を持ち歩くというのは、普通の感性ではなかなか理解し難いところがあると思うが、この映画ではそれだけでなく、彼女が行く先々に、首のない男がウクレレのような楽器を弾きながら付いてくるカットを何カ所か挟んでいるのである。これは、例えばマルリナの目にそういう幻が見えているということではなく、あくまで現実としてそこに首なし男が歩いているというような描き方になっていたと思う。
 これは首がなければミイラにもなれない、言い換えれば成仏できないので首を返してくれという、一種のユーモアだったのかもしれないが、どうも簡単に理解できるようなことではなかったように思う。実は別行動をしていた強盗団の生き残りの男が、首領や仲間たちが殺されたことを知ってマルリナを追うことになった時、彼はどうやら、マルリナを殺すことより首領の首を取り返すことを第一に考えていたように描かれていた。彼は首を取り返すとマルリナの家にとって返し、マルリナの夫のミイラと並んで座らされた首領の死体に首を載せてやって、首なしの状態を解消してやることを真っ先に行うのである。
 とにかく、このあたりの感覚というのはまったく判らない。ここでは死者と生者が共存しているのだなどと判ったようなまとめをしてみたところで、それが納得できるかと言えばとてもそんなわけにはいかないのである。まあ、あまり深く考えるのは止めておこう。

 何とも奇妙な手触りの映画と言うほかなかったが、映像の美しさには目を見張るものがあったと思う。カメラを無闇に動かしたりせず、基本据えっぱなしのロングショットと望遠レンズの組み合わせで、舞台となった島の現実を実に見事に写し取っていたように思う。監督インタビューを見ると、西部劇、特にマカロニウエスタン的な絵作り(音作りも)を意識していたようだが、荒涼とした風景の中で展開する不思議なストーリーが強く印象に残った映画だった。
(渋谷ユーロスペース、5月31日)

 最近、映画を観てから感想を掲載するまで、けっこう日にちが空くことが多くなってしまったと思っている。この映画も、観てからもう一週間以上が経過してしまったし、無理して書かなくてもいいのかもしれないと、ちょっと弱気になってしまう感じもあったのだが、無視してしまっていい映画ではないから、やはり何とか頑張ろうと思ったということなのである。
 何だか困った映画だったなあというのが正直なところで、ずっと書かなくちゃという気分に囚われながら、きょうまでダラダラと来てしまった。映画を観るのは楽しいことだが、感想を書くことがストレスになるようでは困ったことだと思っている。今後、もう少し軽い気持ちで書けるように、具体的なイメージは湧かないのだけれど、何らかの工夫をした方がいいのかもしれない。
# by krmtdir90 | 2019-06-09 12:02 | 本と映画 | Comments(0)


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