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![]() 感想だが、率直に言ってわたしにはよく判らなかった。権威ある各地の映画祭でそれなりの評価を得ているのだから、これはわたしの鑑賞眼のなさと言うべきなのかもしれない。だが、それでも否定的な感想を書いてはいけないということではないだろう。ロバを主人公にして、監督が何を表現しようとしているのかが見えてこなかったのである。ロバという存在を通さなければ描けないものが、この映画の中にはあったということなのだろうか。 公式サイトやトレイラーなどでは「現代の寓話・無比の映像体験」とか「鮮烈・稀少な大胆さ」といった、よく判らない賛辞が並べられていたが、「早春」だったらそんな評言もあり得たかもしれないが、この映画についてこんな言葉で判った気になっていることは納得できなかった。「革新性」とか「オリジナリティ」とか、「ロバの目を通した人間社会へのシニカルな風刺」とか、そういうものがわたしにはまったく感じ取れなかった。 まったくと言っては少し言い過ぎかもしれない。ロバのEOがサーカス団を出なければならなくなり、様々なところを流浪していくことになるのだが、彼が行く先々で出会う人間たちの事情に振り回されて、居場所を次々に奪われてしまうところが描かれていた。それを例えば理不尽という言葉で意味付けるなら、そういうところは描けていたと言ってもいいかもしれない。だが、EOは安易な擬人化はされていないから、彼がロバとしてそれをどう受け止めていたのかは判らないのだし、人間側も点描以上の踏み込んだ描き方はされていないから、結局ロバの視点も人間の視点もあまりはっきりしないまま最後まで進んでしまった感じだった。 あと、随所に挿入されていた意味不明の飛躍したショットも気になった。EOの目が見ているような風景の主観ショットとか、EO自身の回想または願望と考えるしかないショットが唐突に挟み込まれたり、画面全体が急に真っ赤に染め上げられてしまうといったテクニックなど、赤と黒の階調だけで描かれる不明瞭な映像の連続が何を表しているのか、そこにあるはずの監督の意図がよく判らなかった。四足歩行の機械ロボットの出現も同様で、何かを比喩的に表現しているのだろうとは想像できたが、やはり解釈不能と言うしかないように思った。 人間社会へのシニカルな思いがあるのだとしても、そこにロバを介在させなければならない必然性が見えなかった。監督も高齢になって、そうしたことを直裁的なかたちで組み立てるのが億劫になってしまったのだろうか。だが、84歳のアンドレイ・コンチャロフスキーがあの「親愛なる同志たちへ」のような直裁的な映画を撮った例もあるのだから、同じ84歳のイエジー・スコリモフスキが到達したのがここだったというのが少し意外で残念な気がした。もちろん、わたしは「早春」に衝撃を受けただけで、その後のイエジー・スコリモフスキ監督がたどって来た軌跡を知らないのだから、今回の映画の必然性も読み取れなかったということなのかもしれない。わたしも歳を取ったわけだし、まあ、それもまた仕方がないことなのかもしれない。 (立川シネマシティ1、5月25日)
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by krmtdir90
| 2023-05-31 20:39
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![]() 藤井道人の映画をきちんと追いかけてきたわけではないが、この人はどんなものを撮ってもそれなりの高い水準に仕上げてしまう力があるということなのだろう。この映画の仕上がりもある程度は予想できたが、率直に言って予想よりはるかに上を走り抜けて見せてくれていた。ここまでやってくれるのかと嬉しくなってしまった。元の韓国映画を観ていないので何とも言い難いのだが、恐らくそれをはるかに超える出来栄えになっていたのではないか。 ある意味、ストーリーの設定や展開はかなりぶっ飛んだもので、さすがにこれはあり得ないだろうというような箇所も目についたのだが、それを体現する登場人物の作り方が実に巧みで丁寧なので、結局「最後まで」完全に引っ張り回されてしまった。けっこう嘘くさい人物でも、それを嘘くささを感じさせないように造型するところが、この映画における監督の大きな見せ場になっていると思った。主役の岡田准一(マズい男・工藤祐司)と綾野剛(ヤバい男・矢崎貴之)はもちろんのこと、脇の柄本明(仙葉組組長・仙葉泰)や広末涼子(工藤の妻・美沙子)などのキャラクターもしっかり作られていて、特に男三人の演技はかなり誇張されたものだったが、十分に説得力あるものになっていたのは見事だった。巻き込まれ型の岡田准一のリアクションはなかなか見せたし、綾野剛の静から動へ一気に切り替わる不穏な狂気も強烈だった。柄本明は例によって言わずもがな、広末涼子も屈折した役どころだったが良かった。 テーマ性を抜きにしたこういう映画の方が、藤井道人の演出力は生きるのかもしれないと思った。非常に楽しめた映画だった。 (MOVIX橋本、5月24日)
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by krmtdir90
| 2023-05-28 21:12
| 映画
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![]() 主要キャストは当然イラン人で固める必要があったが、殺人犯サイードに扮したメフディ・バジェスタニはイランでは長年の実績がある俳優だというが、この映画への出演は大きなリスクを伴うことを意識していたようだ。事件を追う女性ジャーナリストのラヒミ役は、予定していたイラン人女優が細かい内容を知って直前に出演をキャンセルしたため、企画当初からプロデューサー補としてキャスティングを担当していたザーラ・アミール・エブラヒミを急遽抜擢して、何とか撮影に入ることが出来たのだという。彼女はテヘラン出身のイラン人女優だが、撮影時にはパリに住んでいたらしい。 内容に入る。オープニングの殺害から死体遺棄に至る流れは、普通に犯人不明のまま進むミステリ的な展開を予想させたが、もう一人の主人公ラヒミが登場したところで、意外にも犯人サイードの存在が並行して明らかにされてしまっていた。事件自体はきわめて異常なものだったが、アリ・アッバシ監督の演出意図は、この犯人サイードが妻と二人の子どもがいる、イスラム社会ではごく普通の市民だったことの異常性の方を描こうとしていたようだ。終盤でサイードは逮捕され裁判にかけられることになるが、映画はここで一段落とはならず、さらにその後の状況の変化と異常な展開に目を凝らしていく。まだ何が起こるか判らないということなのだ。この間の経過から浮かび上がってくるのは、市民の中にサイードの行為を支持し英雄視する層がかなりの数存在していたという事実である。事件の背後にはイラン社会の歪んだ現実が見え隠れしていて、それを明るみに出すことがアリ・アッバシ監督のテーマの一つになっていたことが判った。 サイードは若い頃、イラン・イラク戦争(1980~88年)に志願兵として従軍していたようだが、マシュハドに戻ってからは建設現場で職人として働き、周囲には穏やかで信仰心の篤い人物と見られていたようだ。だが、逮捕後の彼には16人も殺害した罪の意識がまったく見られず、みずからの行為は宗教的な動機に基づくものであって、イスラムの教えに反した娼婦たちを殺害して街を「浄化」しようとしたのだと主張するのである。これに一部の地元メディアや宗教的保守層が熱烈な賛意を示し、様々な擁護の動きや釈放への裏工作が行われたらしい。結局サイードは2002年に絞首刑となるが、映画はそこまで見届けた後で、なお彼に共感を寄せ続ける人々の存在と、彼の子どもたちが彼の後を「継ぐ」かもしれないことまで視野に入れてようやく終わっている。娼婦は殺されて(浄化されて)当然の存在であって、彼女らがそこにしか生きる道を見出せなかった現実の過酷さや、彼女らを買って(消費して)いた男たちの存在が不問となってしまうような社会の矛盾(異常さ)を、この監督は丸ごと視野に入れて描き出そうとしていたのだ。 マシュハドは宗教都市であると同時に、アフガニスタンからヨーロッパへ運ばれるドラッグの重要な中継点ともなっていて、市中に違法なドラッグや売春などが横行していても、それはこの町の経済基盤と深く結びついていて、警察などは見て見ぬふりをするしかない場面が多くあり、それらを強く取り締まれないという現実もあったようだ。とは言え、一方にはイスラム社会に根強い女性蔑視の風潮と男性優位の社会構造があり、アリ・アッバシ監督はそのあたりの実態を細かい描写の端々から浮かび上がらせようとしている。サイードに殺害される娼婦幾人かの生活の様子を注視するのはもちろん、サイードの妻の屈折していく生き方なども丁寧に描かれていた。何より、事件を追うラヒミのジャーナリストとしての姿勢の根底に、女性の人権が蔑ろにされているこの国の現実への強い怒りを潜ませたのが良かった。彼女の言動の随所にそれが感じられるようになっていて、これがストーリーの展開の起伏と重なっていたのが巧みだった。 ラヒミは過去に、テヘランの新聞社で酷いセクハラに遭い、それがスキャンダルになって職を追われたという設定になっている。ラヒミを演じることになったザーラ・アミール・エブラヒミは、若い頃イランでテレビに出たりして人気を博していたが、同様のセックススキャンダルを仕掛けられてキャリアを失い、パリに移住したという過去があったようだ。最初、ラヒミがマシュハドで宿泊するホテルのフロントの男とのやり取りから始まって、彼女の取材に有無を言わせず圧力をかけてくる聖職者の判事や、権力をバックに最後には彼女に言い寄ってくる高慢な警察署長との駆け引きなど、女性に対しあからさまに見下した態度を取る男たちに彼女が見せる怒りの演技は、演じたザーラ・アミール・エブラヒミ自身の実際の経験と重なる部分があったということなのだろう。映画はこうして、事件の猟奇性に引き摺られることなく、日常的にはごく平凡な生活を送っている(ように見える)男たちの中に、女性の生きにくさを生む様々な病理が隠れていることを暴いて見せるのである。 女性にとって様々な困難があるイスラム社会の現実を見詰め、そこで生きるしかない女性の視点を丁寧に描こうとしたところに、この映画の意義があったのだと理解した。観ている間は事件の特異な経緯に引き摺られる感じだったが、その裏に隠れていた本当の恐ろしさが次第に判ってくると、その先を読むのが難しいスリリングな展開に引き込まれた。ラヒミという女性を絡めたことで、この映画は最後に女性が困難を越えて行く希望の気配を感じさせていたのではないか。見知らぬ国イランの現実がしっかり描かれていて、非常に印象に残る映画だったと思う。 (アップリンク吉祥寺、5月16日)
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by krmtdir90
| 2023-05-23 16:34
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![]() 解説の内容としては次のように紹介されている。「地盤沈下が進み『鬼城(ゴーストタウン)』となった地方都市に地質調査のためやって来た青年ハオは、廃校になった小学校の机の中から、自分と同じ名前の男の子が書いた日記を見つける」。この日記を読んだことがきっかけとなり、映画は青年ハオ(メイソン・リー)のパートと少年ハオ(ゴン・ズーハン)のパートを交互に描きながら、二つの世界が同時進行的に存在しているかのような眩惑的なショットを交えて、観る者を不思議な感覚の映像空間に引き込んでいくことになる。 普通に考えれば、青年のパートは現在で少年のパートは過去の出来事を表していることになるが、そこにあえてパラレルのような描写を埋め込んで、観る者を戸惑わせなければならない理由が判らなかった。また、青年ハオと少年ハオに共通した名前を与えておきながら、二人が同一人物なのかどうかは最後まではっきりしなかった。 こうした描き方を見る限り、この監督はもっといくらでもスッキリ(普通に)描けるところを、無理やり判りにくく曖昧にしているだけなのではないかと思えてしまった。仮に観客に好きに解釈していいんですよと言うにしても、作者の側には一貫した表現意図が見えなければおかしいし、こちらを混乱させ困惑させるだけにそれらしいピースを紛れ込ませることは、とてもフェアな態度とは言えないだろう。技法的にも、意図不明の思わせぶりな表現が目立った。青年のパートで多用されていたズームインとズームアウトなども、それが何のために何を強調しようとしているのかがまったく不明だった。当人はインタビューで、ホン・サンスという監督に影響されたなどと述べているようだが、こちらはそんなことが聞きたいわけではないのだ。 そもそも上記の説明内容についても、登場してきた青年ハオと調査隊の一行について、何やら測量らしきことをしているのは判ったが、地盤沈下・鬼城・地質調査(原因調査?)といったキーワードに関する描写が不足していて、一向に要領を得ないまま画面が進行してしまっていた。青年ハオが廃校になった小学校の教室に入って行くところも、画面の教室はすぐ前日まで子どもたちがそこいたような様子になっていて、とても廃校になっているようには見えなかった。普通に考えれば、彼は休日の小学校に調査名目で忍び込んだというふうにしか思えなかった。 少年ハオのパートでは、遊び仲間の太っちょが後半学校に来なくなってしまったので、ハオと仲間たちが彼の家を訪ねることになるのだが、行けども行けども彼の家にはたどり着けず、先の解説の紹介文では、その途中で子どもたちは「ひとり、またひとりと姿を消していく」と紹介されていた。この思わせぶりは何だろう。行こうとしたところにいつまで経ってもたどり着けないとか、その途中で仲間が一人ずつ姿を消していくといったことが、何かを意味していると思わせているだけだったのではないか。解釈自由を言い訳にして、この監督は作者として当然責任を取らなければならないところで、単に逃げているだけというふうにしか思えなかった。 中国映画には検閲制度があり、国内で上映するためにはそれを通過しなければならないのは判っている。どんなに才能があっても、検閲と折り合いを付けるためにそれを空費してしまうことがあるのかもしれない。だが、とにかくこのチウ・ションという監督からは、検閲云々の前にその片鱗も見つけることはできなかったということなのだ。 (あつぎのえいがかんkiki、5月14日)
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by krmtdir90
| 2023-05-15 21:11
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![]() ドイツ・ジョージアの合作映画で、監督・脚本はジョージア出身のアレクサンドレ・コベリゼ、ジョージア西部にあるクタイシという古い町が舞台になっている。映画の随所に捉えられたこの町の風景が実に素晴らしく、ここに生活する人々のさりげない描写とともに、この映画の大きな魅力になっていると感じた。内容としては、この町に住む平凡な男女のラブストーリーなのだが、コベリゼ監督はこの最初のところにどうにも理解不能の突飛な「仕掛け」を施すのである。 町の中で偶然の出会いをした二人が、相手の名前も連絡先も聞かぬうち、恋の予感に導かれるようにして、明日の晩8時に白い橋の見える川沿いのカフェで会いましょうと約束を交わす。その帰り道、彼らに「邪悪な呪い」がかけられてしまい、二人は翌朝まったく違った外見に変えられてしまったというのである。この「呪い」については監督自身と思われるナレーションで説明されるのだが、画面上ではこれ以降の二人が新たな外見になった事実だけが当たり前のように続いていくことになる。この変身と同時に、地元のサッカークラブで活躍していた男はサッカーの技術を失い、町の薬局に勤めていた女は薬学に関する知識をすべて忘れてしまったことに気付く。だが、これもまた理由などは一切不明のまま、事実だけがナレーションで淡々と示されるのである。 男の名はギオルギ(変身前:ギオルギ・アンブロラゼ、変身後:ギオルギ・ボチョリシヴィリ)、女の名はリザ(変身前:オリコ・バルバカゼ、変身後:アニ・カルセラゼ)と言う。二人はこの突然の異変をなかなか受け入れることができないが、それでも何とか事情を説明しようと約束のカフェに行くが、姿が違っていては相手に気付くことはできないのである。このあと、二人は最初の運命的な出会いを胸に、リザはこのカフェでウエイトレスとして働くようになり、ギオルギもまたカフェの主人(ヴァフタング・パンチュリゼ)が片手間に始めた露店(?)を手伝って、白い橋の上に出した店の番をするようになる。二人はすぐ近くにいながら、お互いをお互いとして認識できないまま時間だけが経過していく。 果たして二人の恋はどうなってしまうのか、というのがストーリーの軸になるはずだが、コベリゼ監督はこのことを話の中心に置こうとはしていないように見えた。寄り道が多過ぎるのである。そもそも最初の設定からして無茶苦茶なのだから、映画の展開に一貫性を求めても仕方がないということになるのだろう。だが、この関連無視としか言いようのない飛躍した寄り道がことのほか面白かったのである。サッカーワールドカップのテレビ中継のこととか、町のあちこちで見かける野良犬の色分け(縄張り)のこととか、何だこれは?と思いながら、このゆるゆるとした雰囲気にいつの間にか引きずられてしまっていたことに気付かされた。そして、繰り返しになるが、エピソードの合間に何度も映し出されるリオニ川の流れや、町の何ということもないの風景の美しさ!である。映画全体をいつの間にか支配している、超然とした空気感に酔わされてしまったということだろうか。 ストーリーの終わりで二人をハッピーエンドに導くことになる「仕掛け」も、最初が最初だから何でもありということでいいのだろうが、映画フィルムが以前の二人の姿を捉えているというのは、何となく手近なところで済ませたなという印象も拭えなかった。デジタル撮影では成立しない「仕掛け」だし、まあ、やっと再会できたのだから良かったんだけど、ね。ゴチャゴチャ言わずに、ただ愛すべき映画ということで良かったのだと思う。 (あつぎのえいがかんkiki、5月12日) 久し振りのkikiで午前10時からの回を観たのだが、何と観客はわたし一人しかいなかった。長い映画館通いの中でも、こんな経験は初めてだった。いまはフィルム上映ではないから、映写技師などはいないし、パソコンをスタートさせてしまえば後は何もすることはないはずだが、とはいえ、わたし一人のために上映してくれたと思うと、何だか申し訳ないような気分になってしまった。外に出たところにいた従業員の青年に、思わず「ありがとね」と声を掛けてしまった。それにしても、良心的な作品選びをしてくれているkikiだが、経営の方は大丈夫なのだろうかとちょっと心配になった。
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by krmtdir90
| 2023-05-13 16:54
| 映画
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