人気ブログランキング |

18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
最新の記事
最新のコメント
コメントありがとうござい..
by krmtdir90 at 20:13
弓ヶ浜、学生時代に一度だ..
by yassall at 15:02
むさしさん、コメントあり..
by krmtdir90 at 17:42
はじめまして、むさしと申..
by むさし at 16:10
rokko-no4さん、..
by krmtdir90 at 20:08
初めまして。2019年6..
by rokko-no4 at 23:03
長いブランクの後で再び映..
by krmtdir90 at 08:52
ご担当者様 ご連絡..
by 坂本 理恵 at 10:17
昨日のアポロ13、僕も途..
by Mh at 23:13
ご担当者様 突然の..
by 坂本 理恵 at 12:57
記事ランキング

映画「誰もがそれを知っている」

e0320083_21142073.jpg
 監督・脚本のアスガー・ファルハディはイラン出身の監督で、前作「セールスマン」(イラン・フランス合作、2016年)は首都・テヘランを舞台にした現代の心理サスペンスと言った趣の作品だった。一方、本作は同じ現代でもイランとは無関係の、スペインの田舎の村を舞台にしていて、スペイン・フランス・イタリアの合作映画ということになっていた。前作がまったく見事にイランとイスラム社会の現在を感じさせていたのに対し、本作は終始いかにもスペインという雰囲気を(現在だが田舎である)漂わせていたと思う。そういうところをくっきり描き分けられるところが、この監督の職人的技量の素晴らしさなのだと思った。
 この映画もまた一種の心理サスペンスである。起こった事件の前と後とで、登場人物たちの関係が後戻りできないように変質してしまうことが描かれていた。「セールスマン」の夫婦もそうだったが、アスガー・ファルハディという作者は、こうしたストーリーを組み立てるのが非常に巧みな監督なのだと思う。ただ、本作ではそのストーリーを展開させる際に若干苦しいところがあったようにも感じた。誘拐犯の設定などにやや無理があるように感じたのである。

 スペインの小さな村で育ったラウラは結婚してアルゼンチンに移り住んだが、妹アナの結婚式に出るため、思春期の娘イレーネと幼い息子ディエゴを連れて帰省する。夫アレハンドロは事情があって同行していないが、実家には老いた父親と姉夫婦、さらにかつてラウラと恋人関係にあったパコとその妻ベアなどが集まっていて、さらに多くの出席者を集めて盛大な結婚式が行われるのである。式後に実家の庭でパーティーが開かれるが、夜に差しかかる頃に雨が降り出し、さらに村全体が停電になるというアクシデントが起こったりするが、そんな事態をものともしないでパーティーはますます盛り上がりを見せていく。
 こうした中で、娘イレーネが姿を消し、しばらくしてラウラのスマホに「娘を誘拐した。警察に届けたら殺す」という脅迫のメールが届くのである。このあと映画は、この事件の経緯を追い詰められていく家族の側から描いていくのだが、イレーネの行方がまったく判らないことによるサスペンスとともに、主要な登場人物が抱えている様々な関係性や心理の綾が次第に見えてくるように進んで行くのである。

 その経過を細かくたどり直すことはしないが、犯人から30万ユーロという法外な身代金が要求されたことに対して、母親ラウラが明らかにする意外な「秘密」と、終盤に姿を見せる犯人と共犯者の背景といったところに、もう一つスッキリしない気分を抱いてしまったということなのである。
 ラウラの行動や、それに対するパコの対応、さらにはラウラの夫アレハンドロやパコの妻ベアの受け止め方といったこと、また犯人たちの動機と、その背景にある姉夫婦とパコ夫婦との確執といったことなど、これらすべての進行には一定の合理的説明が可能になっているように見えるが、それがやや取って付けたように思えてしまうところがあったということになる。誘拐事件は身代金と引き換えにイレーネが救出されて一応の解決を見るが、みんなが一種の放心状態に陥っているという感じで、すべては元に戻らないことが明らかになってしまったエンディングは、後味としては非常に苦いものになっていたと言うほかないだろう。
 面白い映画だったと思うが、前作「セールスマン」と比べると、その「作られ感」といったものが少々鼻についたということだったのである。
(立川シネマシティ1、6月11日)
# by krmtdir90 | 2019-06-14 21:16 | 本と映画 | Comments(0)

映画「アナと世界の終わり」

e0320083_21113699.jpg
 青春ゾンビミュージカルというのは何なのか。
 ハイスクールを舞台にしたミュージカル映画であるのは判る。だが、そこに突然ゾンビの集団が襲いかかり、人々が次々にゾンビ化していくというのはどういうことなのか。
 こういうことを考えてしまうのは、古い人間なのかもしれない。ゾンビが出てくることに、たぶん特段の意味などないのだ。このことをまず認めなければならないのだろう。

 主要キャストを構成する高校生は6人いるが、彼らはゾンビの襲来に対して逃げたり闘ったりはするものの、その行動に一貫性というか説得力があるようには見えないのである。ゾンビの側にも、ゾンビとしての統一感や必然性があるわけではない。何かひどくバラバラな感じでストーリーが展開している印象があって、最後に生き残る高校生3人にしても、そのつながりというのは弱くバラバラなままなのである。
 と言うか、彼ら3人以外の登場人物、つまりその他の人物はすべて途中で、みんな噛まれてゾンビになってしまうというのは何ということだろう。主要キャストの一角を占めていたはずの残る高校生3人や、その他多くの脇役の高校生たち、それから主要な大人たち(悪役も含めて)といったところ、さらに救出に来たらしい迷彩服の軍隊なども、どうも一人残らずゾンビ化してしまったようで、要するに世界は全部ゾンビになってしまったらしいのである。
 これはさすがに「エッ、そうなの?」と言わざるを得ないのではないか。最後、生き残った3人は車で逃げ延びることになるが、「これからどこに行こう?」という問いに誰も答えない(答えられない)まま映画は終わってしまうのである。別に教訓や解釈が欲しいわけではない。だが、これでは後に何も残らないではないか。

 たとえば「高校生の(ちょっと変わった)成長物語」というような解釈を無理やり持ち出してみても、そんなものを拒絶したところにこの映画はあったような気がしてしまう。ゾンビになってしまった大部分の登場人物と、運良くゾンビにならなかった3人とを対比しても、その経緯にどんな違いがあったのかはまったく不分明のままなのである。このままでは、この3人も早晩ゾンビになるしかないのではないかというのが、ラストシーンから辛うじて読み取れるメッセージのような気がするし、この映画は結局何がしたかったの?という問いに対して、古い人間を納得させる答えを用意する気は、最初から全然なかったのではないかと思えてしまうのである。
 だからどうだと言うつもりはない。作者たちはちょっと変わったミュージカル映画を作りたかっただけだったのかもしれないし、青春映画という視点で考えてみても、現代の映画としては、判り切った解釈などまったく不要なところで、ただ楽しいストーリーが展開すればそれでいいということだったのかもしれない。
 実際、最初の方で高校生たちが「この町を抜け出さなくちゃ」(Break Away)とか「映画みたいなエンディングはない」(Hollywood Ending)などと、退屈でパッとしない日常からの脱出願望を歌うところなどは非常に良かったし、ミュージカル映画としてのレベルはかなり高かったと思うからである(2017年・イギリス映画/監督:ジョン・マクフェール)。
(新宿武蔵野館、6月10日)
# by krmtdir90 | 2019-06-13 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「マルリナの明日」

e0320083_121522.jpg
 インドネシア映画というのは初めてだったと思う(フランス・マレーシア・タイとの合作で、2017年の作品)。監督はモーリー・スリヤという女性で(製作時には37歳だったらしい)、本作が長編3作目だというが、何とも不思議な映画を作ったものである。

 舞台になったスンバ島というのは、島国インドネシアの中でも特に開発の遅れた貧しい島だったようだ。スマホが普通に出てくる映画だから、現代には違いないのだが、現代のこととはとうてい思えないような、信じ難い状況が次々と描き出されているのである。
 夫を亡くし、荒野の一軒家で一人で暮らしている主人公マルリナの許に、一人の男が突然バイクに乗ってやって来る。こいつは強盗団の首領で、家に上がり込むと、後から仲間がやって来るから食事を用意しろとマルリナに命じ、家畜と金を奪って食事が済んだら全員でおまえを抱くと一方的に告げるのである。
 マルリナは終始硬い表情で応対するが、炊事場で食事の支度を始めながら、鶏のスープに密かに毒の実を混入させる。毒を用意していたのは、そういう事態があり得るかもしれないと覚悟していたということだろうか。トラックで後からやって来た男たちは、このスープを飲んで次々に倒れていく。隣室で寝ていた首領にも勧めるが、男は食事そっちのけでマルリナに襲いかかり、やられそうになったところで、彼女は傍らにあった剣を振り下ろして男の首を撥ねてしまうのである。
 この剣というのがいかにも重量感のある無骨なもので(上のチラシでマルリナが手にしている)、普通の刀剣のように斬ったり突いたりという使い方ではなく、上から力任せに振り下ろしてぶった切るという感じの剣なのである。最初から凄い展開だなと思っていると、この後もさらに想像を超えた展開が待っていて驚かされた。

 マルリナの家で展開する一連のシーンで、薄暗い部屋の片隅に蹲っている人影のようなものが認められるのだが、これが何と亡くなった夫のミイラだったのだ。スンバ島など僻地の島では、いまでも死者を埋葬せず、ミイラにしてしばらく家の中に置いておく風習が残っているらしい。強盗団の首領を殺した後、マルリナがこのミイラに寄り掛かって眠っている?シーンがあったと思うが、彼女は死んだ夫とそうやって生活を共にしてきたのだろう。
 翌朝、マルリナは首領の生首をぶら下げて街の警察署に向かおうとする。警察に事態を知らせて、それなりの対応を取ってもらおうとしたようだが、警察はまったくやる気がなく、事態は少しも良くならない。この後の細かな経過は省略するが、幾つかのポイントだけ記録しておくことにする。
 バスを待ちながら、マルリナは同じく街に向かおうとする身重の女性ノヴィと出会っている。彼女はお腹の赤ん坊の父親に捨てられそうになっていて、そちらの経緯は省略するが、最後にマルリナを追って来た強盗団の生き残りの男に捕まってしまい、家に呼び出されたマルリナが男にやられそうになるところで、今度は彼女が剣を振り下ろして男の首を撥ねるのである。
 ノヴィはその直後にマルリナの介助によって出産し、最後は首領が残したバイクに、マルリナ、ノヴィ、赤ん坊の三人が乗って、どこへともなく去って行くのである。要するに、女性を蔑ろにするだけの最低な男たちに対して、女たちが容赦のない鉄槌を下すという映画なのだが、惹句にある「闘うヒロイン」たちのこの後がどうなっていくのかは判らないのである。

 マルリナが首領の生首を持ち歩くというのは、普通の感性ではなかなか理解し難いところがあると思うが、この映画ではそれだけでなく、彼女が行く先々に、首のない男がウクレレのような楽器を弾きながら付いてくるカットを何カ所か挟んでいるのである。これは、例えばマルリナの目にそういう幻が見えているということではなく、あくまで現実としてそこに首なし男が歩いているというような描き方になっていたと思う。
 これは首がなければミイラにもなれない、言い換えれば成仏できないので首を返してくれという、一種のユーモアだったのかもしれないが、どうも簡単に理解できるようなことではなかったように思う。実は別行動をしていた強盗団の生き残りの男が、首領や仲間たちが殺されたことを知ってマルリナを追うことになった時、彼はどうやら、マルリナを殺すことより首領の首を取り返すことを第一に考えていたように描かれていた。彼は首を取り返すとマルリナの家にとって返し、マルリナの夫のミイラと並んで座らされた首領の死体に首を載せてやって、首なしの状態を解消してやることを真っ先に行うのである。
 とにかく、このあたりの感覚というのはまったく判らない。ここでは死者と生者が共存しているのだなどと判ったようなまとめをしてみたところで、それが納得できるかと言えばとてもそんなわけにはいかないのである。まあ、あまり深く考えるのは止めておこう。

 何とも奇妙な手触りの映画と言うほかなかったが、映像の美しさには目を見張るものがあったと思う。カメラを無闇に動かしたりせず、基本据えっぱなしのロングショットと望遠レンズの組み合わせで、舞台となった島の現実を実に見事に写し取っていたように思う。監督インタビューを見ると、西部劇、特にマカロニウエスタン的な絵作り(音作りも)を意識していたようだが、荒涼とした風景の中で展開する不思議なストーリーが強く印象に残った映画だった。
(渋谷ユーロスペース、5月31日)

 最近、映画を観てから感想を掲載するまで、けっこう日にちが空くことが多くなってしまったと思っている。この映画も、観てからもう一週間以上が経過してしまったし、無理して書かなくてもいいのかもしれないと、ちょっと弱気になってしまう感じもあったのだが、無視してしまっていい映画ではないから、やはり何とか頑張ろうと思ったということなのである。
 何だか困った映画だったなあというのが正直なところで、ずっと書かなくちゃという気分に囚われながら、きょうまでダラダラと来てしまった。映画を観るのは楽しいことだが、感想を書くことがストレスになるようでは困ったことだと思っている。今後、もう少し軽い気持ちで書けるように、具体的なイメージは湧かないのだけれど、何らかの工夫をした方がいいのかもしれない。
# by krmtdir90 | 2019-06-09 12:02 | 本と映画 | Comments(0)

南伊豆・弓ヶ浜温泉(2019.6.5~6)

 梅雨入り前の最後の晴れマークかもしれないと思い、急に行きたくなって(数日前に)ホテルの予約を取った。あまり考えないと、やはり温泉は伊豆半島ということになってしまい、今回は最南端の南伊豆町にある弓ヶ浜温泉・季一遊(ときいちゆう)という宿にした。
e0320083_22315425.jpg
 名前は聞いたことがあって、何となく気になっていた宿だが、実際に泊まってみた印象はほぼ予想通りで、概ね満足だったが、それ以上の特に予想を超えたところはなかったなという感じだった。昨今、それなりの贅沢には慣れてしまったということなのかもしれないと思った。
e0320083_22322955.jpg

 片道で180キロほどだったが、この距離はこの年齢になると少し遠すぎるのかもしれないと思った。往路はずっと曇り空で、日差しや暑さに悩まされることがなくて良かった。現地に着く頃になって雲が切れ、到着するとすっかり快晴になったのも良かった。
 浜辺の宿だったが、間の松林が眺望を遮っていて残念だった。まあ、ちょっと散歩に出ればいいわけで、夏は絶好の海水浴場になるということだった。
e0320083_22325442.jpg

 翌日は下田公園の「あじさい祭り」というのに立ち寄った。下田公園は北条氏の水軍根拠地だった下田城が建っていたところで、小高い丘のいたるところにあじさいの群落が見られるということらしい。けっこう坂を上る感じになるようで、今年から途中の開国広場までゴルフ場のカートを無料運行することにしたのだという(もちろん往復とも利用させてもらいました)。
 開国広場の記念碑。
e0320083_22332470.jpg
 手前の広場には地元の商店街から露店が出されていて、休憩所のテントなどができていた。
 広場からさらに上り坂が園内を巡っていたが、暑いので半分ぐらい回ったところで切り上げた。
e0320083_22341784.jpg
 あじさいは、全体的に見ると3分咲きといったところだったが、しっかり咲いているところもあったので、そういうところで少し写真を撮った。
e0320083_22345928.jpg
e0320083_22352272.jpg
e0320083_22354671.jpg
e0320083_2236343.jpg
e0320083_22362258.jpg

 公園入口のところに、ペリー上陸の碑というのが建っていた。
e0320083_22364278.jpg
 少し行ったところに、ペリー提督一行の応接所となり、日米下田条約が締結された了仙寺というお寺もあったが、立ち寄らなかった。
# by krmtdir90 | 2019-06-08 22:37 | その他の旅 | Comments(2)

映画「ガルヴェストン」

e0320083_21574479.jpg
 裏組織に追われる中年の殺し屋と、偶然助けた美しい娼婦との逃避行。何か、どこかで見たことがあるような設定と展開、ところがこれが少しもありふれた映画になっていないのが凄い。一見ありがちに見えているところも、ある「仕掛け」によって映画に一本の芯が通った瞬間、まったく違った相貌を持って理解されるのである。
 監督のメラニー・ロランは元々はフランスの女優だったようだが、最近は監督としても注目されているらしい。非常に美しい絵作りをする人で、上で触れた「仕掛け」のせいもあって、セリフも少なく最小限のことしか表現しない語り口が好感が持てた。ほとんど予備知識もなく、特に期待もしないで観に行ったのだが、意外な掘り出し物で印象に残った。この映画、かなり好きである。
 以下、いわゆるネタバレになります。

 冒頭、暗い殺風景な室内と窓の外を吹き荒れる激しい嵐のカットが、後に続くストーリーとはまったく切れたかたちで置かれている。このカットに意味が与えられるのは、ストーリーがエンディングを迎えたと思われた後、突然「20年後」という字幕が出た時である。この嵐は20年後の出来事であり、この映画は「20年後」にサンドイッチされた思い出の物語だったのである。
 思い出を語っているのは老いた殺し屋のロイ(ベン・フォスター)で、死んでしまったヒロインの娼婦ロッキー(エル・ファニング)は、彼の心の中で痛切な悔恨とともにずっと生き続けてきたのだということが判った。彼女が殺害されるシーンや、彼女が義父を殺して幼い娘を取り返すシーンなどは、きわめて重要なシーンであるにもかかわらず、直接的に描写されることがなかったのはそのためである。彼女がどう生きてきたのかはロイには判らないのだし、彼がロッキーを問いただすシーンはあっても、その内容を直接的なシーンとして描くことを監督(メラニー・ロラン)も注意深く避けているのである。

 20年後の嵐の日に、思いがけずロイを訪ねてきたのはロッキーの娘のティファニーだった。幼かった彼女はすっかり大人になっていて、近々結婚することになったので、はっきりしなかったみずからの出自について、ロイが知っていることを教えてほしいということだったのである。幼かった彼女は、ロッキーから年の離れた妹だと教えられていて、ロイと一緒に突然姿を消した姉に捨てられたと思い込んでいた。ロイはまず、ロッキーは君の姉ではなく実の母親で、君を捨てたのではなく君を守るために必死に戦ったのだと伝えるのである。
 そのあとの彼の語りは省略されているが、ティファニーが帰った後、ますます激しくなる嵐の中にロイはふらふらと出て行くのである。彼の目には、明るい海辺の光の中に赤いドレスを着て微笑んでいるロッキーの姿が見えている。この二人の間にはキスシーンもベッドシーンもなかったが、この映画はずっと孤独な日々を生きてきた二人が、思いがけない成り行きから次第に離れられなくなっていくという、紛れもないラブストーリーだったことが明らかになるのである。

 ガルヴェストンというのは、メキシコ湾に面したテキサス州の小さな町の名前だという。ストーリーの始まりはニューオリンズだったが、そこで裏組織から追われる身になったロイが、たまたま助け出したロッキーとティファニーを連れて、たどり着いたのがガルヴェストンの安モーテルだったのである(モーテルの女主人がとてもいい味を出していて、ちょっと「フロリダ・プロジェクト」のことを思い出してしまった)。
 彼らの逃避行に大きな影を落としていたのが、ストーリーの発端でロイが医師から肺ガンの宣告を受け、余命があと少ししかないと覚悟していたことである。彼が、命がけの逃避行の中でもロッキーたちを見捨てることができなかったのはそれが関係していただろうし、二人を援助するために組織のボスから大金を強請ろうと考えたのも、みずからに残された時間をどう使うかを意識したということだったのかもしれない。彼がロッキーに、まとまった金が入る予定があるから、娘のために高校の卒業資格を取れと勧めるシーンがあった。彼女がどこまで本気にしたかは判らないが、彼は驚くほどに本気だったのである。

 まだ一度も海を見たことがないというティファニーのために、三人でガルヴェストンの海辺に遊びに行くシーンがあった。楽しい時間を過ごした帰り道、ロッキーと歩いていた幼いティファニーが、少し先を行くロイの背中を走って行って撲って駆け戻ることを何度も繰り返すシーンがあった。誰にも愛されることなくずっと淋しく生きてきた少女は、何も判らないまま、ただ嬉しい気持ちをそんなふうに表現していたのだと思う。20年後にやって来た彼女は、幼い頃のことはほとんど覚えていないけれど、三人で海に行ったことは覚えていると老いたロイに告げるのである。
 最後になった晩は、ティファニーを寝かしてから二人で出掛けたバーで、彼らは飲んで踊って楽しいひとときを過ごした。ああ、この幸せは失われてしまうのだということが、シーンの途中で強烈に判ってしまうような描き方だったと思う。果たしてその帰り道に、彼らの所在を突き止めた追っ手に待ち伏せされ、二人は拉致されてしまうのである。ロイは激しい拷問を受けるが何とか逃げ延び、その途中でロッキーが殺されてしまったことを知るのである。彼は見張りの男を殺し、車で逃げる途中で事故を起こし、治療を受けた病院でガンではなかったことを知らされることになる。

 ありふれた映画なら、仮にハッピーエンドにならなくても、ロイの犠牲でロッキーは生き延びていなければおかしかったはずだし、彼らを追い詰めた裏組織のボスは殺されなければならないはずだった。だが、逮捕されたロイの許を訪れたボスの顧問弁護士が、黙って服役すればティファニーに手出しはしないと持ちかけ、ロイはその条件を呑んでしまうのである。確かにそれしかなかったのは判るが、それにしてもこのエンディングは皮肉極まりないものである。それを、この映画は非常に手短に淡々と描くだけなのである。
 この映画の「仕掛け」は確かに一つの救いにはなっているが、やはりヒロインのロッキーが死んでしまうことは、何とも悲しすぎるという感情しか残らない気がした。刑務所を出たロイはただ一人この悲しみに耐え、ロッキーの思い出を抱きながらガルヴェストンの片隅で生きてきたのである。20年前の彼女との出来事は、ロイの中で純化され美化されていたところがあったかもしれない。しかし、それがこの映画を美しく切ないものに染め上げていたのだと思う。

 ベン・フォスターは好演だったが、何よりもエル・ファニングの儚げな美しさが際立っていたと思う。この歳になってはもう若い女優に夢中になることもないが、エル・ファニングにはかなり胸ときめかされたことは正直に言っておきたいと思う。
(新宿シネマカリテ、5月28日)
# by krmtdir90 | 2019-06-02 21:58 | 本と映画 | Comments(0)


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
外部リンク
ファン
ブログジャンル