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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ブラインドスポッティング」

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 思いがけずユニークな視点を持った映画だった。何の予備知識も持たずに観に行ったのだが、いわゆる青春期(若い時代)を描いた映画として、これまでにない新鮮な印象を残したと思う。
 上のフライヤーに写っている二人が主人公である。彼らは二人とも現実世界でも名の通ったアーチストであって、プログラムに載ったそれぞれの紹介文によれば、黒人のダヴィート・ディグスはトニー賞・グラミー賞などを受賞した俳優兼ラッパー、白人のラファエル・カザルにはライター・パフォーマー・プロデューサーといった多彩な履歴が記されている。彼らは映画以前の実生活でも、スポークン・ワード・ポエトリー(ラップとして歌われることを想定したポエム)を通して親密な関係にあり、それぞれのキャリアを生かした映画を作りたいと考えが一致して、協力してこの映画の脚本を執筆したということだったらしい。
 ダヴィート・ディグスが演じたコリンと、ラファエル・カザルが演じたマイルズとは、カリフォルニア州オークランドで生まれ育った幼馴染みの悪友同士と設定されていて、この映画は惹句にある「俺たちには、同じものが見えていると思っていた」という彼らの「思い込み」が、実は錯覚に過ぎなかったことが明らかになっていく三日間を描いたものである。そういう視点は非常に新鮮なものだったし、そこに人種問題や格差の問題などが絡んでくるストーリー展開は、なかなかスリリングでエキサイティングなものだったと思う。二人のセリフのやり取りが、ラップのリズム感と自然に響き合っていく感じなども非常に面白かった。

 コリンは、かつてマイルズと一緒に起こした暴力事件で一人だけ逮捕され有罪となったらしい。刑期を終えて日常生活に戻る前に、社会復帰施設なるところに入って一年間の指導監督期間を平穏に過ごすことが課されたようだ。それがいよいよ残り三日になっているというのが、この映画のハラハラさせられる設定なのである。
 ここまでは何とか頑張ってきたコリンだけれど、この最後の期間に何か問題を起こしてしまえば、たちまちゼロからのやり直しになってしまうということである。彼は果たして無事に乗り切れるのかというのが、ストーリー展開上の鍵となっている。

 コリンを危うくする出来事は大きく二つ起こる。
 一つは、指導監督期間がいよいよ残り一日となった(つまり最後の)晩に、二人して(コリンはあまり乗り気ではなかったが、例によってマイルズに押し切られるかたちで)出かけたパーティーの席でマイルズが喧嘩を始めてしまい、彼に罵声を浴びせる客たちを拳銃を発射して威嚇してしまうシーン。コリンはこれに絡むことはできないのだが、帰り道でマイルズはコリンになぜ加勢しなかったと詰め寄るのである。この時コリンは、立場上傍観するしかなかった自分を理解しようとしないマイルズを、逆に激しい口調で非難する。いつも相手を信じてつるんできた二人の間に、突然越え難い溝があったことが明らかになるシーンである。言うだけ言って立ち去るコリンを、マイルズは信じられない表情で呆然と見送るしかない。
 もう一つは、映画が始まって間もなく、引っ越し業者で一緒に働いているマイルズを自宅に送った後、一人でトラックを運転して帰るコリンが信号待ちをしていた時、目の前で逃げる黒人を白人警官が(背後から)射殺するシーンを目撃してしまったことである。詳しい事情は判らないものの、自分たち黒人がいとも簡単に撃たれてしまう存在なのだという恐怖が、彼を捉えていつまでも尾を引くことになってしまう。映画の終盤、何とか指導監督期間を終えたコリンが、引っ越し荷物の集荷に向かった家でこの白人警官と鉢合わせしてしまうという偶然は、展開としてはちょっと都合良すぎるところはあるが、その後の、彼がずっと感じ続けてきた恐怖と怒りを激しく吐露するシーンにつながるのは理解できた。さらに、そこにマイルズを同席させることで、彼がコリンの思いを初めて理解するというのは説得力があって良かったと思う。

 常に抑圧され続け、弱者の位置に追いやられてきた黒人としての鬱屈した感情をコリンが爆発させ、それを、新興富裕層に対する屈折した感情を溜め込んできた下層白人のマイルズが理解していくという構図。もちろんもっと多様な要素が絡み合っているのだが、この基本的な構図がしっかり押さえられているので、映画としてはまったくブレることなく、きわめてユニークな友情物語を作り出すことができたのだと思う。
 この二人の間に、特にドラマチックなことが起こったということではない。しかし、きわめて切実な行き違いを経て、二人が新しい友情を育み始めるように見えるラストは、あくまで淡々とした描き方であることで、なかなか感動的なものになっていたと思う。
 ブラインドスポッティングというのは(いわゆる騙し絵などに見られる)二通りの見方ができるイメージのことで、一つの見方に立って見てしまうと、もう一つの見方がブラインドスポット(盲点)になって認識できなくなってしまうことを表しているらしい。子どもの時から同じ環境で育ってきた二人が、一方は黒人で一方は白人であったため(もちろんもっと様々な要素が関係していたのは確かだが)、世界の見え方がまったく異なっていたことが明らかになるという、この映画のストーリーを暗示的に示している言葉だったようだ。
(新宿武蔵野館、9月6日)
# by krmtdir90 | 2019-09-10 15:31 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」

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 フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリーは「ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ」で一度経験している。それは文字通り「経験する」というのが一番ぴったりの表現で、この監督を観に行くにはそれなりの予備知識と覚悟が必要だと感じていた。決して難しいということではない。ただ、この監督は字幕やナレーションや音楽といったもので余計な説明を加えることはしないから、観客としてはスクリーンに映し出されるものだけを頼りに、終始想像力と思考力をフル回転させなければならないということなのである。
 ワイズマン監督の映画は、対象となるものに様々な角度からじっくり向き合うことで、その核心を丸ごと写し取ろうとするものである。人物の喋りを中心に捉えていく傾向があるので、それに付き合うのはかなりの体力?を必要とするし、その上彼の作品はだいたい上映時間がきわめて長いのである。そういう意味でも、事前にそれが判っているかどうかは観賞の際にかなり重要なことになってくると思う。
 今回は3時間25分だったので(途中10分の休憩時間が取られたが)、正直あまり体調が良くない時に観たからかなり疲れてしまったのは事実である。

 もちろん、非常に興味深いドキュメンタリー映画だったのは確かで、今回はニューヨーク公共図書館(THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY)というものを対象として、そこにアメリカという国の民主主義の「良き面」が集約的に表れていることを浮かび上がらせていた。
 この図書館は独立法人であって、財政面では市の出資と民間からの寄付の両方によって運営されていたようだ。したがって、PUBLIC LIBRARYの「PUBLIC」というのは、公立私立を区分する際の「公立」ではなく、「一般公衆に対して開かれた」という本来的な意味で「公共」の語が使われているのだった。公共という概念をこれまであまり考えたことはなかったから、この図書館がこれと正面から向き合い、公共の意味をどこまでも具体化しようとしていることに感銘を受けた。それは、ワイズマン監督が的確な表現で映し出してくれたものである。

 ニューヨーク公共図書館とは、マンハッタンにある本館とともに、市内各所に配置された4つの研究図書館と88の分館を合わせた全体を指しているらしい。これらのネットワークがどのように運営され維持されているかを、この映画は次々と紹介してくれるのである(ただし説明はないから、それらの関係性などはこちらが読み取っていかなければならない)。
 そのエピソードの選び方と並べ方に、ワイズマン監督特有のユルい方向性(しかしきわめて繊細な意図)が働いていて、ああ、ここはこんなふうに動いているのかとか、ここではこんなことをやっているのかといった思いがけない発見や、認識の修正を迫られるような驚きが連続していく構成になっていた。
 実際、ここでは古い図書館のイメージが根底から覆されるような、多岐にわたる斬新なプランが続々と実行されているのである。ニューヨーク市民の多彩なニーズに対応して、人々の暮らしに直結するような様々な講座やイベントが開かれていた。そうした中で、常に弱者の側に立った企画が実現されているのは素晴らしいことだったと思う。

 わたしはこれまで図書館とはほとんど縁のない生活を送ってきた人間だから、映画に映し出される現代の閲覧室では、ほぼすべての人々が本と向き合うのではなくパソコン画面と向き合っていることに衝撃を受けた。時代はどんどん進んでいるのだなと思った。その上、この図書館が行っている様々な事業は、わたしの古い感覚をはるかに超えた先の方に進んでいたのが驚きだった。
 ここではたとえば、市民の中にはネットに接続できない情報弱者の貧困層が多数存在することを放置できないとして、接続機器の貸し出し事業というのを行っていたりするのである。また、失業者に対する就職支援プログラム(リクルートのための説明会)、また、中国系住民に対象を絞ったパソコン初心者講座、恵まれない環境にある子どものための勉強会や、やや高度な要求を待った子どもたちを対象としたロボット作りの実践プログラムといったものがあったりもする。

 もちろん、著名人や著者を呼んでの講演会なども行われるが、その多様で斬新なテーマ選定には目を見張るばかりである。視覚障害者のための点字本の作成や録音本の収録風景、紙の本をデジタル化していく地道な作業なども紹介されている。地域に根ざした、子どもと母親のための読み聞かせ教室や読書会、シニアのダンス教室なども図書館の事業なのである。ハーレム地区の分館で行われていた、アフリカ系住民の不満などを受け止める小さな集まりの様子なども記録されていた。ここは図書館であると同時に、地域住民のニーズに呼応した多面性のある居場所になっているようにも見えた。
 多面的であるが故に、館内を居場所にするホームレスをどうするかというようなことが問題になっていたりもした。そんなことも含めて、地域住民とのつながりをどう考えるかといった、スタッフ会議の話し合いの様子が何度も映し出されていた。これが思いがけず面白く、この図書館を運営する側の様々な思想や矜恃といったものが浮かび上がって興味深かった。

 図書館の活動というものがこれほど広範囲に及ぶものなのだということを、初めて知ることができた。映画の中で、誰かが「図書館は民主主義の柱」というようなことを言っていたと思うが、その素晴らしい実態をしっかり感じさせてくれる映画だったと思う。
 最後に、様々な場所に出かけて行く「ジャクソンハイツ」と比べて、こちらは多様であるとはいえ図書館という組織内を移動するだけなので、もちろんそこに映されるエピソードはどれも非常に興味深かったけれど、映画的な(映像的な)面白さという点では若干退屈を感じてしまったことも正直に書いておく。
(アップリンク吉祥寺、9月5日)
# by krmtdir90 | 2019-09-09 18:06 | 本と映画 | Comments(0)

映画「トム・オブ・フィンランド」

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 昨今、LGBTに対する社会の受け止め方が大きく変わったことから、映画の方でもそうしたものを扱った作品が次々に公開されるようになった。「ボヘミアン・ラプソディ」を始め、なぜかG(ゲイ)に関するものが多いのは不思議な気がするが、いままで日陰に追いやられていたものがオープンな表現として出てくるようになったのはいいことに違いない。
 この映画もそうした内容なのは知っていたが、「トム・オブ・フィンランド」というのが、そちらの世界では有名なゲイ・エロチック・アートの作者名だというのは知らなかった。本名をトウコ・ラークソネンと言い、この映画は、フィンランド出身のこのゲイアーチストが、差別と抑圧の時代を経て世界的名声を獲得するまでを描いた伝記映画だったのである(2017年、フィンランド・スウェーデン・デンマーク・ドイツ・アメリカ合作、監督:ドメ・カルコスキ)。

 映画は第二次世界大戦下、徴兵された軍隊生活でトウコ・ラークソネンが自らの性向(性的指向が男性に向いている)を意識するところから始まる。同時に、前線で無抵抗のソ連(当時)兵を殺害したことがトラウマとなって、帰還後の彼をずっと苦しませたことにも触れられている。この戦争というのが、先日観た「アンノウン・ソルジャー」で描かれていた、ソ連との国境線をめぐる「継続戦争」だったのも不思議なつながりで、あの時調べたことが今回の予備知識になっているというのも面白かった。
 ただし、ゲイが当時どう受け止められていたのかに関する予備知識はなく、フィンランドにおいては戦中戦後を通じてゲイは一貫して犯罪とされ、警察による厳しい取り締まりの対象になっていたことは知らなかった。調べてみると、フィンランドでゲイが合法化されたのは1971年のことで、映画はそこまでの困難な時代に、みずからの性的指向を隠しながら、密かにゲイアートを描き続けたトウコ・ラークソネンの苦しい日々を丁寧に追いかけていく。

 わたしはマジョリティ側にいる人間だから、トム・オブ・フィンランドが描くゲイの男たちの様々な姿や、特にそうした男たちが作り出す様々な関係(絡み)には、どうしても違和感と拒否感を感じてしまうのをどうすることもできない。
 だが、この映画の描き方には納得できる点が多かった。たとえば、同じ指向を持つ男同士が視線を絡ませたりするシーンなどは、率直に言って特に引いてしまう感じが強いのだが、それを見詰めるドメ・カルコスキ監督の姿勢が非常に誠実というか、真面目でキワモノを見る感じがまったくないものだったのが良かったと思う。また、何度か描かれる夜の公園の(欲望を満たそうとする)シーンなどでも、そういう場に出向いてしまうトウコ・ラークソネンという人間の、内面の揺れに届く視点が常に維持されているように感じられて良かった。ドメ・カルコスキという監督が、対象との間に保ってみせる絶妙の距離感が素晴らしかったということなのだろう。
 トウコ・ラークソネンの妹の存在がやや判りにくい感じはあったが、総じて彼に関わる様々な人物像もしっかり描き分けられていて、確かな人間ドラマになっていたと思う。

 トム・オブ・フィンランドのゲイアートがアメリカのフィットネス雑誌の表紙を飾り、先進国アメリカで彼の個展なども開かれるようになって、トウコ・ラークソネンはゲイカルチャーの先駆者の一人として広く知られるようになり、フィンランドでもようやく幅広い層に認識されるようになっていったらしい。特に黒い革ジャンに代表されるゲイファッションが世界に与えた衝撃は大きく、あのフレディ・マーキュリーなどにも大きな影響を与えたとされているようだ。
 現在では、フィンランドはLGBTに対する開放度が非常に高い国として知られているようだが、それにしても、トム・オブ・フィンランドのアートを絵柄とした切手が発行されているというのには驚いた。ネットでその写真を見ることができるのだが、さすがに「うーむ」という感じだったことは正直に告白しておく。
(ヒューマントラストシネマ渋谷、9月3日)
# by krmtdir90 | 2019-09-08 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

「福島第一原発は津波の前に壊れた」(木村俊雄)

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 一週間ほど前にインターネットのニュースを流し読みしていたら、古賀茂明氏が週刊プレイボーイのニュースサイトに掲載したらしいコラムの記事が目に止まった。タイトルは「原発メルトダウンの原因は津波ではなく地震!?/この大スクープを無視するな!」というもので、文藝春秋9月号に載った木村俊雄という人が書いた「福島第一原発は津波の前に壊れた」という文章を、メディアがこぞって黙殺しているのはおかしいと告発したものだった。
 福島第一原発の事故原因の究明は、いつの間にか「想定外の津波で電源喪失が起こり、それによって原子炉の冷却機能が失われた」ということで終わりになってしまったようだ。とりあえずこれで決着させて、原子炉そのものの安全性は揺るがなかったという(結論ありきの)方向に持って行きたいとする、なんらかの圧力があったようにも見えるのである。
 しかし、実際には地震から90秒後に原子炉内の冷却水が失われていて、その時点で、メルトダウンに至る「ドライアウト」という現象が起こっていたことが明らかになったというのである。このことが、このほどようやく開示された東電のデータから読み取れるというのが、木村俊雄氏の文章の主旨だったようだ。これが事実なら、確かにとんでもない「大スクープ」である。早速、近所の本屋に行って件の文藝春秋(芥川賞受賞作掲載号だった)を買って来て読んでみた。

 木村俊雄氏は、事故前の東京電力で原発技術者として働いていた人で、1989年から2001年まで原子炉設計管理担当(炉心管理の専門職らしい)という役職で福島第一原発に勤務し、原子炉の炉心の状態を日々チェックしてきた人だったらしい。その専門的立場から、東電や国会の「事故調」が出した報告書を読んだ時、原子炉の「安全上重要な機能を有する主要な設備は、地震時及び地震直後において安全機能を保持できる状態にあったものと考えられる」と結論するには、絶対に必要なデータが欠けていることに気付いたようだ。
 それが「過渡現象記録装置」というものが残したデータで、これは炉心内の水の流れを示す「炉心流量」というものを100分の1秒単位で数値として記録したものなのだという。木村氏は、「事故調」の報告書がこのデータに触れていないのは、東電が不都合なデータを隠しているのではないかと指摘して、これを情報開示させるために様々な手段を尽くしたようだ。この経緯にもいろいろなことがあったと述べられているが、とにかく出てきたデータを専門家の目で検討した結果、上に書いたような「炉心内の冷却水は地震から90秒後には失われていた」という事実が明らかになったというのである。

 これは何を意味しているのか。実は、津波による電源喪失が起こるよりずっと前に、ほとんど最初の地震動の段階で、圧力容器につながる配管のどこかに破損が生じ、冷却水が漏れ出した可能性がきわめて高いということなのである。
 もしこれが事実だとすると、上記「事故調」の結論は根本的に覆されることになってしまい、原発を構成するあらゆる配管の耐震性チェックが必要ということになってくるはずである。しかも、これが非常に緊急度の高いことなのも明らかであって、当然ながら、現在再稼働中の原発はすぐにでも停止されなければならないことになるだろう(この検査には膨大な費用と時間が必要なのもまた明らかで、再稼働を推進する側にはとうてい受け入れられないことだったに違いない)。
 この文章は、事故原因の根本に関わるそれくらい大きな「スクープ(新たな事実の発見)」だったのである。少なくとも、この木村氏の主張が正しいのかどうかはすぐにしかるべきところで検証されなければおかしいし、その間に異なる知見があるのならそれを対置することが(最低限でも)必要になっているということではないのか。そういう意味で、木村俊雄氏の文章と古賀茂明氏の指摘が、その後もメディアから無視され続けている現況はまったく信じ難い事態と言わなければならないと思う。

*こういう記事は、このブログの主旨として載せるべきかどうかずっと迷っていたが、やはり書いたのだから一応載せておくことに決めた。
# by krmtdir90 | 2019-09-06 18:03 | 本と映画 | Comments(0)

映画「風をつかまえた少年」

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 マラウイというのはアフリカ大陸の南東部にある小さな内陸国で、世界で最も貧しい国の一つに挙げられているようだ。もちろん鑑賞前に知識を持っていたわけではなく、帰ってからインターネットなどでいろいろ調べてみたのである。
 石油や鉱物資源などがあるわけではなく、国民の85%が第一次産業(主に農業)に従事しているというが、これは自分たちが生き延びるために必然的にやらなければならない、自給自足のための小規模な農業ということなのだった。人々の主食は、収穫したトウモロコシをカラカラに乾燥させ、粉状にしたものをお湯でかき混ぜた「シマ」というもので、家族が地べたに座って、わずかな副菜と共にこれを手で食べているシーンが映画の中に出てきた。収穫のシーンもあったが、すっかり立ち枯れてしまって、日本だったらとても使えないようなトウモロコシを折り取っていく、緑がまったく見えない土色の乾き切った畑の情景が衝撃的だった。
 マラウイにはかなり明瞭な雨季と乾季があるようで、天候まかせの洪水と干ばつが繰り返される中で、思うように収穫できなければすぐに食べ物がなくなってしまうような、自然現象に翻弄される厳しい生活が日常になっているようだった。映画では、主人公の家族がそうした過酷な現実に直面して、食事を一日一食に切り詰めたり、トウモロコシを手に入れるために人々が右往左往する混乱した様子などが生々しく写し取られていた。たぶん、実際にはもっとずっと赤裸々で深刻な状況があったのだろうと想像された。

 マラウイは1964年にイギリスから独立したようだが、周辺諸国との戦争や内戦とは無縁だったにもかかわらず、貧困からの脱却は容易なことではなかったようだ。何年前のデータなのかはっきりしないのだが(たぶん2007年前後と思われる)、わずかな都市部を除けばインフラの整備はほとんど進んでいないままで、国内の90%の地域はまだ電気も通っておらず、携帯電話やインターネットの普及率も10%程度に過ぎないのだという。
 映画に描かれた田舎の村には、当然のごとく電気はなく、テレビなどもまったく入って来ていないようだった。人々にとって電気というのは乾電池のことであり、電池式のラジオやカセットがわずかに外の世界に触れることができる道具なのだった。トラックは時々見かけるものの、人々にとって最も進んだ交通手段は自転車であるらしかった。
 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は63%(男性76%、女性50%)で、教育に力を入れているとはいえ、その実態はきわめて困難なものになっているいるようだった。マラウイでは義務教育は12年とされていて、初等教育に当たる8年間のプライマリースクールは無償化されているが、学校側の受け入れ態勢がまったく未整備で、最終学年までたどり着く生徒はやっと30%を超える程度なのだという。彼らを取り巻く生活環境の貧困が解決していない以上、子どもは教育より家の仕事を手伝うものだという風潮が克服されておらず、学校をあきらめてしまう子どもたちをどうすることもできないということのようだ。

 映画は、主人公のウィリアム・カムクワンバが家族に見送られ、希望に満ちて中等教育に当たる4年制のセカンダリースクールに通い始めるシーンから始まっている。ところが、セカンダリースクールからは無償ではなくなるらしく、彼は入学早々学費を払わなければ退学になると宣告されてしまうのである。
 家族の貯蓄は乏しく、折からの大雨とそれに続く日照りでトウモロコシの収穫量が激減し、結局ウィリアムは学校に通い続けることができなくなってしまう。だが、理科が好きだった14歳のウィリアムは挫けることなく、自転車のライトが小型のダイナモで発電して点灯するのにヒントを得て、まったくの独学で(廃品置き場から材料を集めて)手製の風力発電機を作り、モーターを動かして畑に灌漑用水を引くことに成功するのである。このことがニュースとして世界に紹介されることとなり、ウィリアム・カムクワンバは一躍有名になって勉学への道が開かれ、アメリカの大学まで卒業することができたということだったらしい。このことを描いた同名の本がすでに出版されていて(日本でも翻訳されたらしい)、この映画はこの原作を映画化したものだったのである。

 マラウイには映画という文化はまだほとんどないと言っていい状況だから、この映画はマラウイと合作ということになっているが、基本的にはイギリス映画である。監督・脚本のキウェテル・イジョフォーはロンドン出身のナイジェリア系イギリス人で、みずからもウィリアムの父親役で映画に出演しているが、彼の最大の功績は、この映画を全編マラウイで撮影しようとしたことだったと思う。もちろん、いままでにマラウイ国内で映画が作られたことなどまったくないわけで、撮影は様々な困難に直面したようだが、観客としては、初めて見るマラウイの厳しい自然や人々の生活の様子などが、単なる背景という以上に実に多くのことを語っていて印象深かったのである。
 ウィリアムが「風をつかまえた」経緯というのは、言ってしまえば前もって情報として与えられているサクセスストーリーなのであって、この映画の見どころはむしろその背景にこそあると言っていいのだと思った。映画が始まって少しして、ああ、これはホームドラマなんだなと思ったが、率直に言ってホームドラマとしてはそれほど面白いものにはなってないと感じてしまったのも事実である。
 しかし、この映画の特筆すべき長所は、いかにもそれらしい(アフリカっぽい)手近な風景をつなぎ合わせて誤魔化したりせず、あくまでマラウイ現地にこだわって映画を作ろうとしたことだったと思う。現地でかなり長期のロケを敢行したようで、われわれがまったく見たことがない過酷な風土を丁寧に写し取っていたと思う。その中にこの家族を置き、このホームドラマを展開したことは素晴らしいことだったと思う。それは有無を言わせぬ迫力で迫ってくる気がした。まったく、何というところで生きているんだという驚きである。

 子どもは生まれるところを選べないという、またいつもと同じ繰り返しになってしまうのだが、大人たちがその現実に埋没していくしかなかったのに対し、確かにウィリアム少年がやったことは特筆されていいことだったと思う。だが、そうには違いないとしても、この映画はその行動に過度に寄りかかることはしていないところが良かった。彼が風力発電の風車を作る具体的過程は、思いがけずあっさりとした描写で終わりになってしまった。もっとドラマチックに描くこともたぶんできたに違いないが、そこにウェイトを置いて、感動的なストーリーに収斂させてしまうことをこの映画は注意深く避けていたように見えた。
 そこが大いに好感が持てるところだったのだと思う。このサクセスストーリーがすでに人々に十分知られてしまっている以上、映画は何よりも、その背景となったマラウイの現実を描こうとしていたということなのだろう。その意図は、マラウイをまったく知らなかったわれわれ観客の許に、確かに届いていたと感じた。それこそが、映画の持つ大きな力なのだと再認識させられた。
 ウィリアム・カムクワンバを演じた、ケニア・ナイロビ出身のマックスウェル・シンバという演技経験のない少年がすごく良かった。アメリカの大学に留学して電気工学を学ぶのが目標とどこかに書いてあった。彼の友人を演じたフィルベール・ファラケザ少年はマラウイ出身だったようだが、彼らの未来が少しでも明るいものになるように願わずにはいられなかった。
(新宿武蔵野館、8月29日)
# by krmtdir90 | 2019-09-02 18:27 | 本と映画 | Comments(0)


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