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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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映画「ドライビング・バニー」

映画「ドライビング・バニー」_e0320083_17332444.jpg
 ニュージーランドの現代社会を描いた映画である。監督:ゲイソン・サヴァット(長編映画第1作・2021年)。
 最初、主人公バニー・キング(エシー・ディヴィス)が置かれている状況がよく判らなかった。彼女が抱える事情は、映画が進むにつれて次第に見えてくるようにはなっていたが、たぶんそれが明らかになる前に、考えるより先にとにかく動いてしまうというところがある、彼女のキャラクターを強く印象付けて置きたいという意図があったのではないか。この映画は恐らく、後半で彼女が突っ込んで行ってしまう直情的で大胆な行動の元になっている、その心情への共感抜きには考えられないものだと思うからである。

 明らかになる彼女の事情は次のようなものである。彼女はきちんとした仕事には就いていないらしい。路上に出て、渋滞した車のフロントガラスを押しかけ的に洗ったりして日銭を稼いでいる。現在は妹夫婦の家に住ませてもらっているようだ。彼女には5歳になる女の子と10歳ぐらいの男の子がいるが、二人は児童福祉施設のようなところに預けられていて、一定の監視下でないと面会できないようなことになっているらしい。どうしてそうなってしまったかというと、彼女が刑務所に入っていたからで、その罪は(明確に語られてはいないが)暴力を振るう夫を殺したからだったようだ。
 出所後の彼女を担当する家庭支援局?の職員が言うところでは、彼女が親権を取り戻して子どもたちと一緒に生活するためには、まず住まいを確保することとしっかりした仕事に就くことが必要ということらしい。彼女はいま40歳ぐらいだと思われるが、前科を持ってゼロから出発するしかないのでは、この条件をクリアするのはほとんど不可能と言うしかないように思われた。だが、彼女は諦めてはいないのだ。

 最初にも書いたが、バニーは考えるよりもまず感情が先行してしまうタイプのようで、物事の後先を考える間もなく咄嗟に行動に移ってしまうところがある。妹夫婦の家で、妹グレースの再婚相手のビーバンが姪のトーニャ(トーマシン・マッケンジー)に手を出そうとしている場面を目撃した時がそうだった。激しく非難するバニーに、ビーバンは誤解だと主張し、グレースは夫を庇い、トーニャは口を閉ざしてしまうのである。結局、バニーは家を追い出され行くところがなくなってしまう。このあと、彼女の行動はどんどん過激さを増していき、最後の「立て籠もり」までほとんどノンストップで突っ走っていくことになる。
 「立て籠もり」の詳しい経緯は省略するが、彼女はとにかく二人の子どもと一緒に暮らしたいだけなのだ。当座の目的は、前回(規則を破って)会った時に5歳になる娘と約束した誕生日パーティーを実現することである。しかし、子どもを守るために張り巡らされた公的なシステムによって、彼女の願いはガッチリとガードされてしまっている。これは普通に考えれば当然のことであって、公的機関としては、行き当たりばったりの生活を送って面会ルールも守ろうとしない彼女に、子どもの養育責任が果たせるとはとても考えられないということなのだ。彼女の子どもたちは、いつの間にか彼女の知らない遠くの里親の元に移されてしまっていた。
 これを知った彼女は、もう歯止めがかからない。子どもたちの行き先を何とか(汚い手を使って)手に入れ、ビーバンの車を盗んでその町を目指すことになる。この時、彼女はビーバンの毒牙(と、バニーが思い込んでいる)にかかろうとしていたトーニャを連れ出すのだが、事実がどうだったのかは映画の中では最後まではっきりしないままである。ただ、トーニャがいまの家族(母と義父)から離れたいと思っていたのは事実のようで、彼女はこのあとバニーの無茶苦茶な行動に最後まで同行することになる。自分にはできないバニーのストレートなやり方に、彼女は憧れに似た共感のようなものを抱いてしまったのかもしれない。
 バニーは目的の町の家庭支援局で、子どもたちの詳細な居場所を突き止めようとするが、もちろんそんな簡単に個人情報が出て来るわけはない。結局、騒ぎを起こすことになって警察に通報され、職員の一人を人質のようなかたちにしてそこに立て籠もるのである。

 人質になった女性職員や建物を包囲した警察の指揮官などは、バニーの主張や心情に一定の理解を示しているようにも見えるが、だからと言って彼女が起こした「事件」が許されることはあり得ない。トーニャの親たちは現場に駆けつけるが、子どもたちを連れて来てほしいというバニーの要求が認められることはない。代わりに電話で話せるようにしてくれたのは現場の指揮官の温情だったのだろうか(ただ、実際にそんなことがあり得るのかは疑問符が付く気がする)。
 結局、狙撃手に肩を撃たれてバニーの「立て籠もり」は終わるのだが、最後に簡単に彼女を死なせたりしなかったのは映画として良かったのではないか。彼女はまた刑務所に入ることになるだろうし、子どもたちとの生活もまたずっと遠いところに行ってしまったということなのだが、たぶん、それでも彼女はへこたれないだろうと想像できる終わり方になっていたと思う。ゲイソン・サヴァット監督は、彼女の生き方を積極的に認めようとしている訳ではないだろうが、何とかもう少し彼女の心情に寄り添えるような公的システムは作れないのだろうかと言っているように思えた。
 一方、映画のラストでサヴァット監督は、バニーたちが乗って来たビーバンの車をトーニャが一人で運転して、荒野の道を走って行くショットを唐突に挿入している。説明的描写は一切ないから、どういう経緯があったのかはまったく判らないのだが、彼女が親と一緒には帰らず、一人で生きていく道を選んだらしいということだけは示される終わり方になっている。バニーの強烈な存在感で見えにくくなってしまったところはあるが、サヴァット監督はトーニャのこれからについても気にしていたということなのだろう。唐突だが納得はできると思った。
 この監督は、やや独りよがりにストーリーを展開させてしまう傾向があるように思うが、それなりの説得力は作れていると言ってもいいのだろう。

 なお、「ドライビング・バニー」という題名は日本の配給会社が勝手に付けたもので、原題は「The Justice of Bunny King(バニー・キングの正義)」というものだったようだ。売りにくい題名なのは判るが、何となくロードムービーを思わせる邦題は、映画の内容にはあまり合っていなかったのではないだろうか。
(kino cinema立川、11月4日)

# by krmtdir90 | 2022-11-16 17:34 | 本と映画 | Comments(0)

新宿三丁目

 この年齢になると、人によって違いはあると思うが、わたしの場合は、かつて教師をしていたという記憶は薄れていくばかりで、それでいいのだと開き直るような気分があった。思い出を後生大事に抱き続けるような生き方はしたくないと思っているし、日々新しい何かと出会っていけるような毎日を送れたらと考えていた。教師をしていた過去をチャラにすることはできないが、いつまでもそれを引き摺っていては先には進めない。そういう考え方は間違いではないと思っている。
 11月13日(日)に、所沢高校時代の演劇部の卒業生が久し振りに集まる会があって、招待されて新宿三丁目まで出掛けてきた。愛媛の全国大会に行った時のメンバーが中心で、彼らにとっては高校時代の体験が忘れられない記憶として残り続けていることが理解できた。望んでも誰でもできる体験ではなかったし、そういう部活が出来上がっていく過程に、わたしがなにがしかの役割を果たしていたのも事実だったのだろう。当時はわたしもまだ若かったし、教育現場にもいまとは比べものにならないくらいユルくて自由な雰囲気が残っていたのだと思う。
 彼らが口々に、当時のわたしの年齢にいままさに差し掛かっているのだと言っていたが、わたしもずいぶん歳を取ってしまったということなのだろう。確かに彼らも歳を取ったのかもしれないが、それぞれの場所でいまのその年齢を楽しめているならそれでいいのだと思う。過去は過去に過ぎない。でも、ごくたまに、記憶の底から楽しかった過去が甦ってくるのはいいことに違いない。頑張っていたなと自分を褒めてやりたくなるような過去があるのは、絶対に素晴らしいことなのだと思う。少々疲れたが(歳だね)、楽しい午後だった。

 会場になったお店は新宿三丁目にあった。
 事前に調べてみると、新宿駅から続く地下鉄丸ノ内線に沿った地下道の先の、昔からわたしが幾度となく利用していた階段を出てすぐのところにあるビルの地下1階だった。いまではすっかり足が遠のいてしまったが、新宿三丁目の周辺ならば昔も今もすぐにイメージできるくらい通い慣れた場所である。コロナ禍になってからは、都心に出るのをずっと避けていたが(先日、閉館間際の岩波ホールに行ったのが唯一の例外)、新宿三丁目なら都営新宿線と直通運転をしている京王線を使えば(途中、笹塚で同一ホームの乗り換えがあったが)、中央特快より時間はかかるけれど、新宿駅の雑踏や途中の人混みをまったく通らずにあの階段(B2出口と言うらしい)まで行けてしまう。素晴らしい会場設定をしてくれた幹事に感謝である。
 昼間の会だったが、引き続いた二次会も同じビルの地下2階に移動しただけだったので、結局ずっと避けていた都会の雑踏とはほとんど接触することなく地元に帰り着くことができた(帰りは調布での乗り換えだった)。いまではそんなに恐れる必要がないのは判っているが、コロナの初期に自分で考えた行動ルールを守ることが、何となくゲームみたいな感じがして面白くなってしまったのである。都心(23区内)に出なくても、観たい映画がほぼカバーできることが判ったのは大きな発見だったし、おかげで、いままで知らなかった近郊の素敵な映画館と幾つも出会うことができた。相模線の「小さな旅」を楽しむことができたのも、このコロナ禍のおかげだったかもしれない。

 新宿三丁目のこの階段(B2)を出ると、すぐ先には、学生時代から通っていた熊本ラーメンの桂花(新宿で最も古い)末広店がある。コロナになってからは3年ぐらいご無沙汰しているが、今回利用した行き方を行動ルールの許容範囲とすれば、久し振りに食べに行くこともできるかなと思った。
 会場のお店があったビルは比較的最近建てられたものだと思うが、以前ここに何があったかは思い出せなかった。桂花の末広店や新宿末廣亭は昔のままの姿でいまもそこにあるが、もう失われてしまった懐かしい場所もいろいろあったことが思い出された。この階段の並び(右手・明治通り沿い)にはかつて幾度となく足を運んだアートシアター新宿文化があったし、その裏手の地下にはアンダーグラウンド蠍座もあった。反対の左手角には、先日観た「夜明けまでバス停で」で柄本明扮するバクダンが爆破事件を起こしたと言っていた四谷警察署の追分交番がいまも(かたちは変わってしまったようだが)あるはずだ。向かいにある伊勢丹前の歩道には足元に地下鉄の通風口があって(たぶんいまもあると思う)、「セーラー服と機関銃」のラストで薬師丸ひろ子がその上に立って、スカートの裾をなびかせながら周囲の見知らぬ通行人を想像の機関銃で撃ち続けたのだ。
 ほかにも、極小の薄汚い映画館(確かシネマ新宿と言ったと思うがはっきりしない)や潰れたジャズ喫茶などもあったと思うが、いまでは記憶も薄れてほとんど思い出すことができない。大切な思い出だったような気もするが、忘れてしまったのであればそれはもう仕方がないことと言うしかないのだろう。

# by krmtdir90 | 2022-11-15 16:48 | 日常、その他 | Comments(0)

5回目

5回目_e0320083_20493370.jpg
 11月9日(水)に、5回目のワクチン接種(オミクロン株対応)を受けてきた。5回目ともなると、市からの接種通知を受け取っても、もういい加減終わりにしてもいいのではないかという気分に襲われていた。実際、郵便が届いた頃には、さしもの陽性者数も次第に減ってきていたし、今回はちょっとパスして(ひとまず延期して)おいてもいいのではないかという方向に傾いていたのである。マスコミでは少ししか表に出てこないが、接種との明らかな関連が疑われる死亡例が幾つも発生しているという情報が、SNSなどにはずいぶん入って来ていたりもしたからである。
 ところが、接種日(今回も最初から日時が指定されていた)が近づくにつれて、また陽性者が増加に転じ始めてしまい、第8波というような不吉な見通しが語られる状況になってしまった。わたしも妻も後期高齢者になってしまったわけだから、結局、ここはやはり素直に受けておくしかないだろうと考えが変わった。もしも罹患してしまったら、いまはどんな治療を受けさせてもらえるのか(しっかりとした治療態勢が取られているのか)といった情報が、最近はまったく不足している感じもしていたのである。そうである以上、罹る確率が少しでも減ると言われてしまえば、それを信じて流れに乗っていくしかないだろうということになった。
 幸い今回も(二人とも)副反応はほとんど出なかったので、まあそれは良かったと思っているが、依然としてその効果を信じている訳ではないので、ずっとコロナに振り回されている自分には納得できない思いが残るのである。

 もう一つ、インフルエンザの予防接種も10月19日に済ませてきた。去年は、まごまごしているうちにワクチンが品切れになってしまったとかで、結局打つことができなかった。今年は妻が早々と予約を取ってきて、ちょっと早過ぎるんじゃないかと思ったが、打てるのなら打っておこうということで行って来た。
 これで、今年の冬に向けての後期高齢者としての準備はひとまず完了させることができた。日常的にはできるだけ外を出歩くようにしているが、あとは鬱陶しいマスクといつになったら訣別できるかというのが課題になっていると思う。これは、周囲の視線とどう折り合いを付けるかという問題になるので、そう簡単に解決できるとも思えないのが憂鬱なのである。

# by krmtdir90 | 2022-11-12 20:51 | 日常、その他 | Comments(0)

映画「RRR」

映画「RRR」_e0320083_20384877.jpg
 あの「バーフバリ」2部作を撮ったS・S・ラージャマウリ監督・脚本による最新作だという。インド映画でいま最も旬な娯楽大作に仕上がっているはずだと信じて観に行った。いや、まったく、期待に違わぬ面白さで、上映時間の179分、余計なことを考える間もなく十分に堪能した。インド映画の魅力は、どんな内容であっても観客を楽しませることに徹していることだと思う。
 わたしが初めて観たインド映画は、1966年にATGで公開されたサタジット・レイ監督の「大地のうた」だった。これはいい映画には違いなかったが、一方でインドの大衆に支持されていた娯楽映画の圧倒的な流れを見えにくくしてしまった面があったような気がする。結局、わたしがインド映画本流の面白さに目覚めたのはごく最近のことだった。それで判ったことは、インド映画というのは、けっこう社会性のあるテーマを扱ったものでも、それを確実に楽しめるかたちに料理して見せてくれるということだった。このサービス精神には脱帽するしかない。

 「バーフバリ」は古代インドの神話的世界を扱っていたが、今回の「RRR」でラージャマウリ監督が着目したのは1920年代、イギリスの植民地だった時代のインドだった。インドの歴史についてはほとんど知らなかったのだが、1858年に始まったイギリスの統治が1947年に終わるまでのインド近代史は、この国の人々にとっては恐らく様々な機会に繰り返し教えられ学んできたことだったのだろう。この時代を娯楽映画の中で描くのであれば、当時の英国領インド帝国総督を頂点とする支配体制というのは敵であり悪なのであって、これに様々なかたちで抵抗する勢力は基本的に善であると設定されるということなのだ。こういう構図が、ストーリーの前提として明確に観客と共有されているから、いくら波瀾万丈のストーリーが展開しても、この点が揺らがないので種々のハラハラドキドキも安心して観ていられるようになっている。
 そういう意味では、ストーリーの骨子は基本的には単純である。だが、ラージャマウリ監督の巧みなところは、この約束された構図の中に、非常に判りやすいものだが、決して一筋縄では解決できないようなきわめて難しい対立関係を設定したところだったと思う。

 発端は、山岳地帯にあるゴーンド族の村にやって来た総督の一行が、村の少女マッリを連れ去ってしまったことである。この少女を取り戻すために、選ばれたゴーンド族の男たちの幾人かが総督府のある首都デリーに赴くことになる。この屈強なリーダーが第一の主人公コムラム・ビーム(NTRJr.)である。彼の任務は当初から明確に示されている。一方で、第二の主人公ラーマ・ラージュ(ラーム・チャラン)の設定は若干複雑である。彼はインド人でありながら、総督府支配の最前線で反英勢力を弾圧する任務に就く警察官になっている。彼は出世のために困難な状況を次々に突破して見せるのだが、映画の中盤で、実は彼の中にあった隠された大義が明らかにされるのである。彼には、反英闘争で命を落とした父との間にある約束が交わされていたということなのだ。警察官になって武器管理を担う役職に就くことを目指し、大量の武器を闘争組織に流すという任務である。彼は、いまは権力側に所属しているが、常に心に大きな葛藤を抱える存在として設定されている。
 もちろん、最後にはビームは少女を助け出しラーマは武器を手に入れるという結末が見えているのだが、そこに至るまでの紆余曲折の間に、どれだけ観客を楽しませることができるかというのがラージャマウリ監督の腕の見せどころになっている。

 まず最初にラージャマウリ監督は、この二人がそれぞれの立場を知らない段階で偶然に出会い、成り行きから運命的なまでの深い友情に結ばれるという仕掛けを施している。列車事故で絶体絶命の窮地に陥った少年を、二人が協力して救助するシーンは(詳しくは書かないが)大きな見せ場になっている。
 この二人は後半になると、立場の違いから厳しい対立状況に追い込まれていくしかないのだが、その前段をしっかり描き込んでいくあたりの語り口の巧みさはなかなか見事なものだった。細かく追っていくとキリがなくなるのでやめておくが、中でもインド映画お約束のダンスシーンの素晴らしさは特筆ものだと思った。町中で困っているのを助けたことから、ビームは総督の姪のジェニーという女性と知り合うことになる。インド人にも分け隔てなく接する彼女に心惹かれるビームだったが、招待されてラーマと二人で出掛けた総督府でのパーティーの席上で、イギリス人貴族にインド人は優雅なダンスなど踊れないだろうと侮辱されてしまう。これに対抗して、二人が踊り出すのがインド伝統のナートゥというダンスなのである。これは興奮する。とにかく圧倒的なのである。イギリス対インドという対決構図の中で展開するダンスバトルだから、インドの観客はたぶんここで熱狂的な盛り上がりを見せたのではないだろうか。
 もちろん、この映画の核心は次々に展開する大がかりなアクションシーンなのだが、最新のVFXを駆使したこれらのシーンは新鮮な驚きに満ちていて、ただ素晴らしいとしか言いようがないと思った。現実にはあり得ないような(まるでマンガみたいな)展開の連続なのだが、それもまた映画の作り出す虚構として、観客は納得の上で楽しめばいいということになるのだろう。ラーマが故郷に残してきた婚約者のシータとか、様々な構成要素が見事に絡み合いながら、ラストの総督府への「殴り込み」になだれ込んでいく、その圧倒的なスケールにはただただ驚くしかなかった。

 とにかく楽しめればいいという、きわめて明快で潔い姿勢が貫かれていることが見事だった。そして、その底流を成しているのが、ちょっとこそばゆい言い方になるが、インドへの愛とでも言うような感情だったのではないかと感じた。愛国という言葉は嫌いだからこういう言い方をするが、多くの困難な課題を抱えたインドという国の中にあって、常に売れる映画を撮り続けてきたラージャマウリ監督を始めとする様々な監督の映画に接する中で、わたしがたどり着いた結論はそういうものだったのだ。みんなが、インドが大好きなんだーっと言っているような気がしたのである。
(MOVIX橋本、11月2日)

# by krmtdir90 | 2022-11-10 20:39 | 本と映画 | Comments(0)

映画「熱いトタン屋根の猫」

映画「熱いトタン屋根の猫」_e0320083_16232686.jpg
 1958年に製作された映画である。監督:リチャード・ブルックス、出演:エリザベス・テーラー、ポール・ニューマン。テアトル・クラシックスという企画が始まっているようで、その第2弾がポール・ニューマン特集(4本の再映)だったらしい。
 古い記録ノートによれば、わたしはこの映画を1965年8月に観たことになっている。高校3年生の時だ。立川にあった幾つかの映画館の一つで、いろんな映画を精一杯背伸びして観始めていた頃だったと思う。しかし、たぶんその時のわたしはこの映画をほとんど理解できなかったのではないかと想像する。記憶にもまったく残っていなかった。
 今回、ほとんど初見という感じで観たわけだが、エンディングの急転回がどうしても納得がいかなかった。ポール・ニューマン扮するブリックが最後に見せる態度の変化が、いかにも取って付けた感じで説得力がないと感じた。もう一つ、このブリックの現在に大きな影を落としていると思われる、親友スキッパーとの同性愛絡みの関係が曖昧にしか描かれていないことも不満だった。これは恐らく、1950年代前半にアメリカ社会に吹き荒れたマッカーシズムの影響が、当時の映画界にこうした表現自粛(萎縮)のかたちで残っていたということなのだろう。

 この映画の原作は、1955年にニューヨークで初演されたテネシー・ウィリアムズの戯曲なのだが、この原作戯曲に当たってそのあたりのことを確認してみる必要があると感じた。確か新潮文庫に入っていたはずだが、書店に行ってみると現在は絶版になっていて入手できないことが判った。ただ、わたしはこれを持っていたような記憶もあって、帰ってからあちこち探してみたが見つからなかった。ところが、数日前ちょっとした勘が働いて、意外なところから「欲望という名の電車」の文庫本と一緒に発見することができた。
映画「熱いトタン屋根の猫」_e0320083_16234997.jpg
 題名の訳はこちらの「やけたトタン屋根の上の猫」の方がいいと思う。奥付を確認すると、昭和38(1963)年5月・三刷となっていて、定価は120円だった。恐らく、高校生だったわたしは映画を観たあとでこれを購入したが、結局ちゃんと読み通すことができなかったのではないかと想像できた。昔の文庫本の活字はこんなに小さかったんだと驚きながら、今回非常に興味深く読むことができた。
 この原作戯曲は3幕から成っているが、この文庫本には第3幕が二種類掲載されていた。作者自身の説明がついているのだが、それによれば、この戯曲は初演に向けて演出のエリア・カザン(文庫ではイーリア・カザンと表記されている)とやり取りする中で、彼の要求を入れて第3幕を書き直すことで上演に漕ぎつけたという事情があったらしい。上演は成功裏に終わったようだが、テネシー・ウィリアムズの中には複雑な思いが残ったということなのだろう。原台本の第3幕と上演台本の第3幕を両方収録して出版するという異例のかたちを取ることで、ウィリアムズはこの戯曲の評価を後世の読者に委ねようとしたものと思われる。

 二つの第3幕には様々な相違点が見られるが、やはり最後の場面でブリックが見せる態度の違いは決定的だと思った。映画は概ね上演台本の方に則して作られていたようだが、これだとブリックは突然話の判る優しい男に変身してしまったように見えて、エリザベス・テーラー扮するマギー(マーガレット)が「やけたトタン屋根の上」で演じる「闘い」の危うさが、ほとんど見えなくなってしまうのではないかと感じた。彼女がついた「嘘」がこの現実を押し切れるのかどうか、ウィリアムズの原台本はブリックの態度にかなりどちら付かずの感じを残しているので、彼女の「賭け」はまだ成功するとも失敗するとも判らないままエンディングを迎えているのである。マギーとブリックの関係は、上演台本や映画が描いたようなかたち(一種のハッピーエンドに至るような予感)に整理できるものではないということなのだと思う。
 演出エリア・カザンとの関係がどのようなものだったのかは判らないが、原作者ウィリアムズがこの書き換えに応じてしまったことは(観客には支持されたようだが)間違いだったという気がして仕方がない。二つの第3幕を読み比べてみて、いかにもテネシー・ウィリアムズらしい突き詰めた悲劇性が感じられるのは、どう見ても原台本の方が上だったと思うからである。
 そして、この原作戯曲を読んでしまうと、当時の困難な社会情勢と閉塞した時代風潮の中で、テネシー・ウィリアムズが同性愛の問題を正面から取り上げようとしていたことは、非常に重要な点として認識されなければならないと思った。これに対して、リチャード・ブルックスの映画はまったく応える気がないように感じられてしまった。結局、この映画にそれなりの意義があったとすれば、ブリックとマギーという役にポール・ニューマンとエリザベス・テーラーという、考えられる最良の組み合わせで具体的なかたちを与えたことくらいであって、それ以上のものを見出すことは難しいと感じた。何より、戯曲に含まれた問題の核心部分をきちんと描こうとしていないから、彼らの対立も曖昧なかたちのまま終始してしまったような気がした。
 原作戯曲が書かれた時代というのは、LGBTに対して現在のようなオープンな認識が出てくるずっと以前のことであって、いわゆる同性愛に対する社会の見方も非常に厳しいものがあったということなのである。そのことを考えると、テネシー・ウィリアムズは背水の覚悟を持ってこの戯曲を書いていることが判ると思う。映画化にあたって、その点を誤魔化してしまうようなやり方は容認できるものではない。ポール・ニューマンとエリザベス・テーラーの演技はなかなかスリリングで印象に残るものだったが、映画の成果としては時代の先に残ってくることはできなかったということになるのだろう。
(MOVIX昭島、10月27日)

# by krmtdir90 | 2022-11-09 16:34 | 本と映画 | Comments(0)


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