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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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高校演劇2014⑥地区大会を審査する

 今年も地区大会(埼玉)の審査員をやらせていただくことになった。近年は、わたしのようなOB顧問を主体に審査員を選ぶしか方法がなくなっているらしい。
 原因の一つは、県が祝日(9月は15日と23日)の出張を許可しなくなってしまった(どういう理由なのかわたしは知らない)ということで、全部で11ある地区の大会日程が、みんな祝日を外した特定の日にちに集中するようになってしまい、現役顧問の中から審査員を出すのが非常に困難な状況が生まれているようなのだ。
 こちらは幸い、いまのところは元気だし基本的にはヒマだから、事務局から声がかかれば、審査員選びの苦労もよく判るので、これまでの恩返しというか罪滅ぼしというか、とにかく引き受けることにしようと思っている。

 しかし、わたしは現役顧問だった頃は、部員がいる限りは毎年地区大会には参加していたが、演劇をコンクールにして勝敗をつけることにはずっと違和感を持ち続けてきた者なので、そのあたりのことを一度きちんと整理しておきたいと思う。

 このわたしの違和感というのは、演劇には統一的な審査基準(勝敗を判定する基準)が存在しないということから来ている。高校演劇の場合、上演時間1時間以内というのが唯一の決まりで、それ以外にはルールらしいルールもないし評価の観点も多様である。演劇は元々が勝敗を争うものではないから、無理に基準を定めることができないのは当然のことである。
 それにもかかわらず、様々な矛盾をはらんだまま毎年コンクールが行われ、全国大会にまでつながる道がそれなりの注目を集めて長い間続いてきたのは、それが演劇のようなマイナーな部活動を活発化し、高校生の中に定着させていく大きな役割を果たしてきたからだと思われる。
 美術や書道、文芸や写真といった、やはり統一的な審査基準を持たない文化系の部活動が、同じような全国規模のコンクールを組織して、一致して全国高等学校総合文化祭というかたちを取るようになったのも、恐らく同じような意味合いが大きかったのだろうと思う。近年では、マンガやダンスといった時代を反映した部活動にも、同様の全国大会が行われるようになっているようだ。

 最初から勝敗を争うことで成立するスポーツならば、もちろん内部的には様々な問題を抱えていることは知っているが(例えば私立校が優秀な生徒を集めてしまう問題とか)、それでも試合に勝ち上がることで全国大会につながっているという、そのシステムには疑問を挟む余地はないような気がする。勝敗を決する試合のルールは統一的なものがある訳だし、勝っても負けてもその結果はみんなが納得して受け入れることができるのだと思う。
 ところが、演劇を始めとした上記のような文化系部活動では、それぞれ表現のあり方が多様であるところにその面白さがあるという側面があって、試合というような勝敗を争う形式は本来は存在しないのである。にもかかわらず、歴史上の歌合(うたあわせ)・句合(くあわせ)といった例を持ち出すまでもなく、人間というのは古来何でも勝ち負けの対象にして楽しみたいという性癖を持っているようで、けっこうみんながそれを受け入れて熱中しているのは確かなことなのである。

 歌合や句合の場合、判者を務めるのはその道の権威と誰もが認める人であって、判定とともにその根拠が示されると、始めから一定の権威の元に集っている参加者は、みなそれを納得して受け入れるようになっていたらしい。句合の時代になると、状況によって衆議判(しゅうぎはん・合議によって判を下す)ということも行われたようだが、審査員を複数にするというのはその流れに従ったやり方である。
 埼玉の場合、11ある地区を所属校数や実施日程などを見ながら5つのブロックにまとめ、各ブロックに2名の審査員を配置するというやり方を取っている。だが、いくら複数にしたところで、それぞれの権威というか背景がよく判らない人を並べたのでは、一座の納得を得るのは困難なことだろうと思われる。割り振る事務局の方もそのあたりのことは判っていて、組み合わせの作り方に毎年苦労の跡が窺えるのである。
 だが、自分も含めて敢えて言ってしまえば(身も蓋もないと言うなかれ)、少なくとも高校演劇の世界では単一の権威などありえないし、どんな組み合わせを作ってみたところで、みんなが納得する審査員など元々ありえないというのが出発点になるような気がするのである。

 演劇の多様性の前ではこれはある意味仕方のないことで、選ばれた審査員各人の背景もバラバラだし、どういう審査員が割り振られるかで推薦される学校も違ってくるという一面はどうしようもないのである。そして、現役顧問だった頃はそのことがどうにも引っかかって、選ばれても選ばれなくても、何かスッキリしない気分をいつも引きずっていたような気がする。
 でも考えてみると、それは悪いことではないのではないか、むしろそれが高校演劇をコンクールにすることの面白さなのだと考える方がいいのではないかと思うようになった。
 むしろ、問題はもっと別のところにあるような気がしたのである。たとえば、確かに強い学校というのは存在するが、それが一つの権威のようになって、そこを選んだりそこが選ばれたりすることに誰も疑問を挟むことがないというのが一方で当然のことのようになっていたら、それは決して高校演劇の健全な姿とは言えないだろうと思ったのである。

 大切なことは、どんな芝居にも必ず賛否両論があり得るということなのではないか。審査員というのは、ありもしない権威に寄りかかるのではなく、観点の違いによって評価というものが変わるのだということを、どこまで率直に示すことができるかというところに存在を賭けなければならないと思うようになったのである。
 もちろん、観点さえしっかりしていればどんな乱暴も許されるなどと言うつもりはない。客観的に見て妥当な線というのは恐らく存在するのだろう。でもだから、逆にその線を越えていると判断できるのであれば、その先どこが選ばれるかは時の運なのだと言ってしまったら不謹慎だろうか。
 問題は、審査員が下す判断というのは、その瞬間に生徒や顧問にとっては動かすことのできない絶対的な意味を持ってしまうのだから、審査員としてその判断に対するどんな批判や異論にも対処する責任は確認されなければならないのだと思う。

 そういう意味で、覚悟のない審査員は排除されなければならない。本来勝敗など存在しないところに勝敗を持ち込むのだから、その矛盾を正面から受け止めて、そのことを言葉にして伝えていく努力が必要なのだと思う。当たり障りのないところを褒めてお茶を濁すというような姿勢は、審査員としてあってはならないことだと思う。
 かつて、わたしがまだ(新座北で)現役の顧問だったころ、もしかすると勝てるかもしれないと思って参加した秋の大会が一度だけあった(もう正直に言ってもいいだろう)。ただ、その時の審査員は(誰だったかは忘れた)、核心を外した些末な(的外れと言ってもいい)印象批評を並べるばかりで、なぜこれを選ばないのかについては全く触れることがないということがあったのである。退職を機に審査員をという話があった時、この時の経験がわたしの背中を押したのは確かなことである。あんな審査がまかり通っているのなら、わたしの方がまだ少しはましなことができるのではないかと思ったのである。
 それ以来、今年で6回目になる。実際のところ、自分がどこまでやれているのかは自分では判らない。だが、講評で核心を外すことだけはあってはならないと自戒するばかりである。

 高校演劇の審査というのは、統一的な審査基準というものがないのだから、どうやったところで公平などということはありえない。地区によって発表会場の条件も違うし、審査員の好みというようなことも無関係とは言えないだろう。現役顧問が担当する場合は、様々な思惑というようなものももしかすると関係してくるかもしれない。
 しかし、だからこそ評価の観点についてはしっかり責任を持たなければならない。われわれはプロではないのだから、その観点もまた多様であって、自分の中でもそれは一つにまとめられるものではないと思う。違う審査員だったら違う結果になるかもしれないが、それでもその時、様々に揺れ動くわたしの観点の中から、その時の自分はどういう観点を大切なものと判断したのかという問題になるのだと思う。絶対的な観点などないというのも、また一つの真実なのである。
 2校を選ぶ代わりに10数校を(ブロックによっては20校以上を)落とさなければならないのだから、そちらの学校に納得してもらえるだけの観点を示せるかどうか、それでもこれが、高校演劇審査の重要なテーマになっていなければならないと思う。

 今年は22日に行われた打ち合わせ会を欠席してしまったので、資料と上演台本が昨日事務局から宅急便で届いた。今年は台本20冊である。実際の重量も重いが、審査することを思うと別の意味でこの上なく重いのである。
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by krmtdir90 | 2014-08-26 18:25 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(7)
Commented by mom at 2014-08-27 06:38 x
ご意見同感です。
今年もよろしくお願いいたします。
Commented by natsu at 2014-08-27 09:35 x
同じ地区に連続して行くのは避けた方がいいと思うのですが、割り振る事務局の方もいろいろ大変のようで、結果的にこういうことになってしまったようです。
よろしくお願いします。
Commented by at 2014-08-27 20:50 x
打合会の前日に珍しく書き上がったので、いらしたら読んでもらおうかなと本を持っていっていたのに、お会いできずに残念でした。
今は生傷絶えない大道具作りに入っています。今度はお会いできるのは地区発表会ですかね。日程が決まったら、連絡します。
Commented by natsu at 2014-08-28 18:57 x
うー、それはホントに残念なことをした。きみが読んでもらおうかなんて言うのは珍しいもの、ね。
まだ気が変わっていなかったら、ぜひ送ってください(添付ファイルでかまわないから)。

西部Aには行きますよ。こちらの審査は終わっているので、たぶんもう気楽だし。
Commented by gaku at 2017-05-07 22:29 x
愛知県の高校和太鼓部で指導しているgakuと申します。
高文連主催の県大会の審査方法のあり方を考えるものとして、貴コラムを拝見し、大変感銘を覚えました。

高文連の和太鼓(厳密には郷土芸能)部門には課題曲はなく、またの舞台演奏にも音楽性、パフォーマンス性、民俗芸能性などさまざまな観点あり、もちろん、統一的な審査基準は存在しません。
貴コラムの「確かに強い学校というのは存在するが、それが一つの権威のようになって、そこを選んだりそこが選ばれたりすることに誰も疑問を挟むことがないというのが一方で当然のことのようになっていたら」ということも実際あります。

なんともあさはかなジャンルではありますが、最終学年の部員たちは一生に一度のチャレンジとして必死の思いで大会に臨んできます。なぜ選ばれなかったのか?という観点を少なくとも指導者、望ましくは部員に、それが主観的であっても精一杯伝えることが審査員の義務だと思います。
貴コラムを拝読して私の違和感もかなりすっきりしてきました。

その上で

和太鼓部門の場合、大会規定には明記されていませんが、「オリジナル曲」であることが暗黙の了解です。
と、なると上演作品のクオリティは作品の出来栄え、つまり作品力で6~7割は決まると思います。評価に値する作品を部員である高校生が作曲、構成、演出することは大変難しく、顧問の先生や私のような外部指導者によることがほとんどです。
にもかかわらず審査員の先生の講評は概ね音楽的、技術的な些細な指摘と「すばらしかった」という誉め言葉に終始し、作品そのものの問題点を指摘することはまずありません。
これは顧問の先生や外部指導者のメンツをつぶさないための配慮かと思いますが、このことが生徒たちの審査結果に対する疑念につながっています。

質問ですが、コラム主様は地区大会の感想において「まず顧問による脚本がよくない」と率直に述べられていますが、審査員を務められるときも同様の指摘をされることがあるのでしょうか?
また、他の審査員の方も顧問の先生によるオリジナル脚本そのものの課題を指摘されることが高校演劇では一般的なのでしょうか?

Commented by natsu at 2017-05-08 17:36 x
gakuさん、コメントありがとうございます。かなり前の文章を探し出していただいて、知らない方から共感のコメントをいただけるのは嬉しいことです。
高文連に郷土芸能部門というのがあるのは知っていましたが、詳しいことは何も知りませんでした。やはり様々な矛盾や困難がある中でがんばっておられる様子、頭が下がります。

最後にお尋ねの件ですが、顧問の書いた台本の中身に口を出すことは、高校演劇の世界でもほとんどタブーになっていて、それが審査の際に批判の対象になることはまずあり得ませんでした。
実は、わたしは地区の審査ですぐにそういうことを言ってしまうので、(言い方はけっこう気を遣っていたつもりなのですが)けっこう煙たがられていたのは事実で、支持してくれる方もいましたが、一部からは相当批判されていたのも確かなのです。
でも、高校演劇では選ぶ台本の善し悪しが舞台の出来をかなり左右するところがあるので、(ほとんどの審査員はそのあたりを避けていたようですが)生徒創作であれ顧問創作であれ、わたしは問題があればできるだけ具体的に触れるようにしてきました。
ただ、言われた顧問が正面から噛みついてきてくれるのなら嬉しいのですが、教員というのは批判されるのに慣れていない人が多いのか、陰に回ってあれこれ言うことが多かったようです。
一度、講評をした帰り道に該当の学校の生徒たちに囲まれて、「先生、私たちの思っていたことをよく言ってくれました」と感謝されたことがありました。ダメなものはダメと言い合えない大人世界が、子どもたちの割り切れない思いを助長しているのだと感じました。
そんなわけで、顧問の書いた台本がダメだから生徒の力が発揮されなかったのだと、どこでも率直に言い合える雰囲気は残念ながら高校演劇にもありません。

わたしはずいぶん敵を作ってきましたが、わたしが歳を重ねるにつれて、このごろそういう物言いを率直に受け止めてくれる若い人たちも出てきていて、心強く思っているところです。

gakuさんの厳しい状況についてはなかなか具体的には判りませんが、思っていることを率直に言い合える雰囲気を大人が作らなければ、子どもたちが一番悲しい思いをすることになってしまうと思います。大人というのはどうしても波風を立てることを避けてしまうのですが、それでは子どもたちは納得できないままになってしまいます。
がんばってください。
Commented by gaku at 2017-05-09 23:40 x
早速の丁寧なコメント、ありがとうございます。

高校演劇でも審査員がオリジナル台本そのものの課題、問題点について言及することはタブーなのですね。
しかし、高校部活の最後の総決算である大会が、生徒たちにとって後味の悪いものにならないためには、
やはり選ばれなかった高校に対しては、その理由を例え審査員が精一杯言葉にして伝えることが大切かと思います。
natsu様のように信念と生徒への愛情をお持ちの審査員がもっと増えるといいと思います。

ただ、
高校演劇の大会のことは詳しくわかりませんが、私の指導する高校が参加する県大会には、普及曲で参加、つまり最初から賞を狙っていない高校が半分くらいあります。
そのことを批判する気持ちは全くありません。さまざまなあり方があってよいと思います。成果発表、交流会としての側面もあります。
要は入賞を望みながらも届かず、理由を知りたいと生徒が思っている高校は限られている、その高校に対してのみ、作品そのものの問題も含めシビアな講評をしていけばよいのでは、と思いはじめています。

natsu様のコラムを拝読させて頂き、高校演劇にも興味がわいてきました。機会があれば近くの大会会場に足を運んでみたいと思います。
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