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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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116校も落としてしまった・1(高校演劇2015⑬)

 わたしが退職した時、地区の審査員に推薦してくださったのは現事務局長のM先生である。現役顧問の頃に何回か審査をさせてもらったことはあるが、ある時期から演劇に勝敗をつけるのに加担できないなどとうそぶいて固辞するようになり、それは当時の事務局の先生方には周知の事実になっていたと思う。だから、M先生がわたしのことを「退職したらやると思うよ」と言っても、当時の事務局長だったS先生は簡単には信じられなかったようである。
 わたしはM先生に感謝している。それほどつながりがあったわけでもないのに、わたしの意向を確認することもなく(事前に打診されていたら、それまでの経緯があるから断っていたかもしれない)、思いをちゃんと見抜いていたその慧眼には驚くばかりである。

 以来、今年で7年目になった。現場を離れてこんなに経つと、自分がかつて教師だったことなどすっかり忘れてしまったような気分になっているが、審査員をやらせていただくことで、高校演劇の現場とずっとつながっている気分になれるのは有り難いことだと思う。地区の舞台に触れるたびに、生徒と一緒に舞台作りをした現役時代の気持ちが甦るのを感じることができた。その頃の気持ちに戻って、いろいろなことを感じることができるのは嬉しいことだった。
 数えてみたら、130校の舞台を観せていただいていた。推薦校を出す以上、ずっと(十年以上)ご無沙汰していた県大会にも足を運ぶようになった。その最初の年、久し振りに顔を出した芸術劇場のロビーでにこにこ(にやにや?)出迎えてくださったM先生やS先生を顔を忘れない。

 審査では毎年、担当したブロックから2校を県大会に推薦する。だから、これまで130校の舞台の中から14校を選んできたことになる。言い換えれば、116校の舞台を落としてきたのである。コンクールの審査を引き受ける以上、無理にでもそこに冷酷な線を引き、明暗を決定的に分けてしまう評価を下さなければならない。
 だが、統一的な審査基準の存在しない(そういうものを作ることができない)演劇において、そんな決めつけはナンセンスだし、そんなことはするべきではないという声がわたしの中には一貫してある。だが、退職した時、「それでも」という思いがわたしの中に生まれたのである。
 それでも、そこに勝敗をつけることで、高校演劇というマイナーな部活動が発展してきた歴史を否定することはできない。それでも、わたしは部員がいる限り、毎年それに参加し続けてきたではないか(理不尽な審査結果や誤魔化しの講評に何度も腹を立てながら)。
 わたしの中には審査に関する反面教師がたくさん積み重なっていた。それならば、やらせていただけるのであれば、わたしは積極的に審査員をやるべきだろうと考えるようになった。

 それにしても、130校というのはかなりの数である。その1校1校の舞台には、すべて数ヶ月にわたる生徒たちの懸命な活動の積み重ねが詰まっている。
 各校の舞台を観ながらいろいろなことを考えた(実際には、事前に台本を読んでまずいろいろなことを考え、観終わってからさらにいろいろなことを考えたのである)。県大会に推薦する14校の舞台では概ね芝居の中に入り込んでしまうから、実は余計なことを考える余裕はあまりない。しかし、落とした116校の時には、ずいぶんいろいろなことを考えていたと思う。どうしてこんなことになってしまうのだろう。どうしてもう一歩先に進むことができないのだろう。もしわたしが顧問だったらどうしていただろう。・・・。

 演劇では、14校の勝った学校は、たまたま負けた116校の学校があったから勝っただけである。間違えてはいけない。明瞭なルールの下で、歴然とした力の差が現れるスポーツなどの勝敗とは違うのである。116校の中の舞台でも、そちらの方が良かったと言ってくれるお客さまも(たぶん審査員も)いたりするのが演劇なのである。そこのところを、(14校の生徒はもちろんだが)116校の生徒たちにはぜひ考えてほしいと思っている。さらに言えば、116校の顧問の先生には、より真剣に(誠実に)そのことを考えてほしいと思っている。
 実を言うと、落とした116校の半数以上は、率直に言って審査員として全く悲しくなるような舞台も多かったのである。こういう言い方は当事者の生徒たちを傷つけているのは承知の上で、あえてわたしはこういう言い方をしている。全く、悲しくなるような舞台。それは、そういう学校の生徒たちや顧問の先生たちにこそ、そのことについて真剣に考えてほしいと願っているからである。

 14校であろうと116校であろうと、みんな演劇は面白そうだ、演劇がやってみたいと集まってきた生徒たちなのではないか。審査をやりながら、どうしてもそこにばかり、わたしの心は向いてしまっていたのである。
 だから、7年目の今年、わたしが考えたいと思っているのはその116校のことである。それらの舞台を観ながらわたしが考えていたことを、これから少し整理して書いてみたいと思っている。どんなことになるのか、いまは全く見えているわけではないのだけれど、とりあえず始めてしまうことに意味があるような気がしている。

1,顧問とは何か

 この文章は、できれば生徒の皆さんにも読んでもらいたいと思っている。最初はそんなふうに決めて書き始めたわけではないが、いつの間にかそういう方向性が定まってきた。しかし、116校のことについて書こうとすると、最初に問題にしなければならないと思うのは顧問のことなのである。顧問のことを書く以上、もちろん顧問の先生にも読んでもらえればと思うが、一番読んでもらいたいのは生徒の皆さんである。そのことを最初に言っておきたいと思う。

 率直に言って、悲しくなるような舞台も多いとわたしは書いた。みんな演劇は面白そうだ、演劇がやってみたいと集まってきた生徒たちのはずなのに、なぜこんなことになってしまうのか。
 舞台を観ていて悲しくなってしまう理由は、具体的にいろいろ挙げることができる。あとでまた個別に書くことになるかもしれないが、とりあえず思い付くところから書いてみることにする。

 まず、台本である。それはインターネット台本であったり、生徒創作であったり、時に(信じられないことだが)顧問創作であったりする。いずれにせよ、この世界にはダメな台本はそれこそ山のようにある。舞台の持っている制約が全く判っていなかったり、物語が全く組み立てられていなかったり、登場人物の性格や背景などが曖昧なままだったり、やり取りとして成立するセリフが全然書けていなかったり、とにかくいくらやってもいい舞台にはなり得ない台本がそこら中に転がっている。
 率直に言って、わたしは台本探しの段階で(一読しただけで)生徒がそれに気付くのはかなり難しいと思っている。どうしても表面的な面白さに惑わされてしまいがちだし、あれこれ読み比べるのも面倒だし、人数もちょうどいいからと軽い気持ちで決めてしまうことが多いのではないかと思う。創作だと、作者への遠慮からほとんどそのまま採用してしまったりするのではないか。
 だが、普通の大人が読めば、その欠陥は大概判るはずだと思う。ここで顧問が何も言ってやらなかったのだとすると、それは大人としての責任放棄なのではないかと思うのである。

 自分は演劇のことは全く判らないからと言い訳する顧問がよくいる。わたしがここで書きたいと思っているのは、そういう演劇素人にもかかわらず他にやる人がいないからと、無理に顧問にさせられてしまった(人のいい)顧問のことである。演劇のことは判らないから、面倒は見るけれど演劇のことには口を出さないと言っている顧問についてである。
 そういう顧問は、かわいい?生徒たちが舞台に出ていって、そこで悲しくなるような舞台しか作れないのを見て何も感じないのだろうか。それとも、自分は演劇のことは判らないから、それが悲しくなるような舞台なのかどうかも判らないと言い張るのだろうか。
 判らないわけないじゃないかと思う。生徒たちでさえ、多くは自分たちの舞台がとても勝敗に絡むことなどできない、悲しくなるような舞台だということを薄々は気付いているのである。
 わたしは顧問である前に教員としての、教員である前に一人の大人としての責任を言っているのである。この本、面白くないんじゃないの、ここが変なんじゃないの、ここがよく判らないよ、そういうことも言ってやれないのかと聞きたいのである。

 生徒の皆さんに言いたいのは、台本選びの時には絶対に大人に読んでもらって、大人としての意見を聞くべきだということである。とりあえずそれは顧問であってほしいが、顧問が逃げ腰だったら、誰か信頼できる他の先生でも構わないと思う。演劇は判らないと言われたら、私たちも判らない、私たちは一人の大人としての先生の意見を聞きたいのだとお願いすればいい。演劇のことが判らないと言っているのだから、間違っても発声がどうとか滑舌がどうとか聞いてはいけない。頼めるのは先生しかいないんですという殺し文句を忘れないようにしたい。
 顧問として発声や滑舌が指導できなくても、生徒たちは許してくれるだろう。しかし、一人の普通の大人として言えることも言ってくれない顧問はどうなのだろう。演劇のことが判らなくても、一度でも地区大会などに付き合えば、読まされた台本が、場面転換が多くて実際の舞台でどうやるのか判らない、程度のことは言えるようになるはずではないか。暗転ばかりになったら見ていてつまらないんじゃないか、程度のことは言えなければおかしいのではないか。

 生徒たちはみんな、演劇は面白そうだ、演劇がやってみたいと集まってきているのである。しかし、本校には演劇を指導できる教員はいない。自分も演劇のことは判らないけれど、成り行きで顧問になってしまったのだから、できる範囲で「演劇」に関わってあげようという顧問はいないのかと言いたいのである。そういう顧問が増えなければ、悲しくなるような舞台はいつまでたってもなくならないと思う。その第一歩が、台本選びの時に意見を言ってあげることだと思うのである。
 しかし、顧問が文句をつけると生徒たちはすぐ、じゃあ先生が探してよと言い始める(このあたりの感じはわたしにも容易に想像がつく)。その時、探すのは君たちだ、君たちが探してくれば先生は責任を持って大人の意見を言ってあげる、ときっぱり言えるかどうか。ずるずる引っ張り込まれるのはいやだという教員は多い。だが、どんなかたちであれ生徒に頼られてしまった時、まいったなあと思いながら大きな書店に初めて台本なるものを探しに行ってしまう教員もいないわけではないと信じたい。
 それが、高校生の前で先生なんてものになってしまった大人の責任である。それが、先生なんてものになってしまった大人の、嬉しくもつらいところなのだと考えたい。初めての分野の本に手を出すことが好きでない人は、教員なんかになってはいけないのである。

 しかしながら、演劇のことが判らない顧問は、無理をして毎日練習に顔を出す必要はないと思う。顔を出したところで、言えることなどそんなにあるわけではないからだ。だが、言えることが全くないかと言えば、そんなことはない。たまにでいいから、時間が空いたら一人の大人の野次馬として出掛けてやってほしい。一人の大人の観客として、彼らの芝居を見てやってほしいと思っている。
 演劇のことは判らないのだから、言えることはそんなにあるわけではない。だが、全くないわけでもないと思う。いや、その気になれば意外とたくさんあるのだと思う。何だか声が小さいなあ、おまえ、まだ恥ずかしがっているんじゃないか、ここのところ聞き取れなかったよ、しゃべりながらふらふらするのはおかしいんじゃないか、その手振り変だと思うなあ。・・・。
 わたしは顧問の先生に、この子たちは大会の日には清水の舞台から飛び降りるように舞台に出て行き、見知らぬ観客や審査員の前で何事かを成そうと頑張っているのだということを、忘れずに思ってやってほしいと願っているのである。演劇のことが判らなくても、言えることは案外たくさんあるのだと気付いてほしいと思う。それを少しでも言ってあげていたら、本番でこんな悲しくなるような舞台にはならなかっただろうと思うのである。

 ただ顧問の側からすると、そんな意見なんか言ったら、それじゃあ先生やって見せてよとか、例によって例のごとき言葉が返ってきてたまったものじゃないという感じも判ると思う。その時、いや、やるのは君たちだ、君たちが頑張ってやっていたら、先生は時々大人の観客として感じたことは責任を持って言ってあげてもいいと、きっぱり言えるかどうか。
 ここでも生徒の皆さんに言いたいのは、うちの顧問はどうせダメと諦めてしまうのではなく、顧問を育てるのは生徒なのだと気付いてほしいということである。わたしは顧問に頑張ってほしいと思っているが、顧問がダメなら信頼できる他の先生でもいいと思う。自分たちが作った成果を、普通の大人の視点で批評してもらうことはとても大切なことである。
 大人は要らない、自分たちが楽しければいいのだという学校もあるかもしれない。このことは後でもう一度書くかもしれないが、演劇部としていつまでもそんなことを言っているのなら、大会なんかに出てくるんじゃないと言っておきたい。自己満足でいい気になっているのは演劇とは言わないからである。

 どこの誰だか判らない審査員に、悲しくなるような舞台などと言わせないために、生徒の皆さんはぜひ信頼できる大人の意見を聞くようにしてもらいたいと思う。熱心に指導してくれる顧問のいる学校をうらやましく思うだけで、自分の学校の顧問は無理だとあきらめるのではなく、顧問の先生を(あるいは信頼できる他の先生を)引っ張り出してほしいと思う。過剰な期待は禁物だけれど、見知らぬ他人の前で何事かを成さなければ成立しない演劇にとって、普通の(素人の)大人の意見を聞くことはこの上なく大切なことなのである。
 そして、演劇のことなど何も判らない、ごく普通の大人に過ぎない顧問の先生には、普段の教室で大人の論理や大人の感性などをためらいもなく生徒に押しつけている自分について、ほんの少しだけ省みてほしいと思うのである。大人の論理、大人の感性を、ほんの少し演劇部の生徒に見せてやってほしいと思うのである。それは、悲しくなるような舞台に生徒を立たせないために、顧問の責任として何よりも必要とされていることだと思うからである。台本選定の時と、あとは練習や通し稽古の時に何回かだけでいいのだと思う。
 最後に、顧問の先生に一つだけお願いがある。意見は常に具体的であってほしいということである。具体的でなければならないのだと思う。教室で、腰の引けた抽象的で曖昧な物言いでは生徒に響かないことは判っているはずだから、これは言わずもがなのことだとは思うのだけれど。
by krmtdir90 | 2015-10-07 00:01 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)
Commented by mom at 2015-10-07 07:19 x
私が大宮の劇評で火を点けてしまいましたか?
Commented by natsu at 2015-10-07 09:15 x
うーむ、そうかもしれないね。暑苦しいのは、きっと伝染るんだ。
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