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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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116校も落としてしまった・5(高校演劇2015⑱)

 地区審査をしながら、7年間で落とした116校の舞台を思い出しながら、それらの舞台がなぜ選ばれることがなかったのかということについて、わたしが考えたことを整理しています。できれば「1」から順番に読んでいただけると嬉しいのですが。

 まず次の文章を読んでみてほしい。いまから4年前、埼玉県大会のプログラムに載せていただいたものである。実は前に一度(2013.5.4)このブログに転載したことがあり、ここに載せるのは繰り返しになるのだが、今回の話の流れの中で、ぜひここから話題を広げていきたいと思うことがあるので、芸のない話だが再録してしまうことにした。ご容赦願いたい。タイトルは、「『セリフのやり取り』ということ(地区発表会感想)」である。

 退職を機に地区の審査に復帰させてもらって三年目、ここまで56校の舞台を見せてもらったことになる。その中で感じたことを、問題を絞って少し書かせてもらうことにした。感じたことはいろいろあるのだが、一番強く感じたのは「セリフのやり取り」ということについてである。
 見せてもらった舞台の中で、多くの学校が、セリフはやり取りするものだという意識を欠いたまま、覚えたセリフを次々に羅列しているだけではないのか、という印象を持った。自分の順番になると、結構それらしく身振りなども入れて熱演してくれるのだが、そのセリフは少しも相手に届いていない。と言うか、キャストは自分の順番の時だけそれぞれ力を込めてセリフを言ったり動いたりするが、その相手との関係や状況といったものが、ちゃんと意識できていないように感じたのである。お互いが関係し合うことを、避けているように見えて仕方がなかったのだ。
 どんな種類の芝居であれ、登場人物というものは一定の関係性の下にそこに存在し、その関係性やその場の状況に縛られながらセリフを言ったり動いたりしている。依存していると言ってもいい。いずれにせよ、複数の人物が登場していれば、お互い無関係に孤立してそこにいるということはあり得ないのだ。そして、自分のセリフが休みの間もその関係性や状況は続いているのだから、ちゃんとその中に居続けて、途切れずに相手のセリフや動きをを受け止めなければいけないのである。こういうことが、あまり意識されていないように感じたのである。
 上に書いた「関係性」というのは(仮に二人のやり取りで言うと)、例えば上下(主従)であったり並列(対等)であったり、好意であったり嫌悪であったりする。具体的に言えば、例えば先生と生徒であったり、生徒同士であったりする。生徒同士であっても、同級生なのか先輩後輩なのかで関係性は変わってくるし、同級生だからと言って単純に対等であるとは限らない。親密な同級生もいれば、よそよそしい同級生もいる。明確な対立関係もあれば、カップルの場合もある。カップルでも、比較的初期のカップルもいれば、終わりの近いカップルというのもある。
 同じく上に書いた「状況」というのは、例えばその終わり近いカップルの一方が、何とかもう一度やり直したいと思っているのに対し、もう一方は一刻も早く終わりにしたいと思っている、というようなことだ。生徒創作などで時々、状況をキャストに説明させてしまうことがあるが、優れた脚本では、状況はやり取りを通じて自然に見えてくるものである。
 観客の立場から言うと、舞台上でキャストがするやり取りや動きから、こうしたお互いの「関係性」や「状況」が見えてこなければおかしいということになる。上演する側というのは、そうしたものを観客に見せるために、セリフを言ったり動いたりしているのだということ。これは、キャストが自分のセリフをどう言うかだけ考えていたのでは表現できないものである。
 キャストがセリフを覚えて、立って動いてみようかというところで、そこに行く前に、この関係性と状況を意識した「やり」と「取り」の稽古をしっかりする必要があるのではないか。身振りや表情、動きといったものも、関係性や状況の中でセリフをやり取りすることから、必然的に生まれてくるものでなければならない。そうでないと、単なる大袈裟なゼスチュアか、妙に力んだ不自然な動きにしかならない。
 優れた脚本ならば、やり取りができてくるにつれて、それぞれのキャラクターなども自然に浮かび上がってくるものである。作られたそれらしさでは、観客に何も訴えることはできないということを知ってほしいと思う。
 こういうことを出発点として、もう一度練習をやってみてほしいと思った。セリフをやり取りするということを意識的にやっていくと、自分たちの脚本で、作者が想定しているやり取りのイメージはどんなものなのかということが、第一に考えなければならない課題になってくる。軽いやり取りなのか重いやり取りなのか、テンポのいいやり取りなのかゆったりしたやり取りなのか、こうした基本的なところを掴み損ねた舞台も、残念ながら幾つか見受けられたように思う。どんなに意欲的に練習したとしても、ここがずれていては芝居にはならないのだ。
 ついでに言っておけば、音響や照明といったスタッフは、関係性や状況をより効果的に見せるためにいろいろ工夫をするのだが、何よりも観客に見せなければならないのはキャストであって、音響や照明が前に出すぎてはいけないということも確認しておきたい。(2011.10.12)

5,セリフのやり取り

 演劇部が一つの芝居を作り上げようとする時、基本的に辿ることになる行程はどの学校もそんなに違っているわけではないと思う。集団でエチュードのようなことを繰り返し、そこから台本を仕上げていくようなところはちょっと違うかもしれないが、幾つかの例外を除いて、とにかく大半の演劇部が辿る一般的な芝居作りの行程について、少し考えてみたいと思っている。

 台本決めの問題についてはすでに書いたので、いい台本かダメな台本かは判らないが、とにかく台本が決まったところから始めてみることにする。キャスティングについては、どこも台本選びの段階から考えられていることが多いから、注意した方がいいことがないわけではないが、ここでは触れないことにする。その後のところからである。
 台本が決まると、キャストはとにかくセリフを覚えなければならない。暗記が苦手だったわたしなどは、いつも膨大な量のセリフを覚えてしまう生徒たちを、それだけでなんて偉い奴らなんだろうと感心して見ていた。
 もちろん生徒の皆さんは判りきったことだと思うが、セリフの暗記はテスト勉強などの暗記とは全く違ったものである。テストでは、覚えたことをとにかく何とか思い出せればそれでいいのだけれど、セリフはそんな程度では全くダメである。思い出すための間が残っているうちは、セリフは覚えたことにはならない。何度でも言うけれど、それをちゃんとやってしまう生徒たちは凄いものだと思う。
 審査で落とされてしまった(わたしが落としてしまった)116校を思い出してみても、ほぼ9割以上(95パーセントぐらい)の学校はきちんとセリフを覚えていたと思う。これは凄いことだと思う(ちょっとくどい?)。それなのに、その生徒たちが「悲しくなるような舞台」しか作れないケースがあるのだとすると、それはホントに残念なことと言うしかないではないか。

 覚えたセリフを「やり取り」するということを、どのくらい意識し実践したかということが、大きな分かれ道になっているのだと思う。
 決して難しいことを言っているのではない。なぜなら、みんな日常生活では普通に何でもなくやり取りをしているのだから。演劇だから、何か特別なことをやらなければならないわけではない。ところが、どうも生徒には妙な思い込みのようなものがあって、演劇らしいやり取り、芝居っぽい芝居というようなものがあると錯覚して、あれこれ考えて力が入っているところがあるのではないか。
 そんなものを頭で考えたところで何にもならない。少し意識してみた方がいいことがあるとすれば、日常生活で普通に行われている様々な会話の場面を、ちょっと気にして眺めてみることぐらいではないか。当たり前のことだが、会話というのはそれぞれが勝手に言葉を喋っているわけではない。お互いの間を言葉が行き来して、お互いがお互いの言葉を受け止め、様々に反応しながら進行していくものである。そういうことを意識的にやってみるのが演劇であり、各自が覚えたセリフはその素材になるものなのである。
 だから、キャストのみんながセリフを覚え終わった時、それを使ってやってみなければならないのは、日常会話の延長のようなやり取り(読み合わせ)なのである。

 もちろん分析的に言えば、そこにはいろんな要素が絡んでいる。例えば、Aのセリフは誰に向かって言っているのか、その場にいるBとCはそれをどんなふうに受け止めたのか、次にセリフを言うBはAのセリフの何に対して、どういうつもりでセリフを言うのか、その時、セリフは言わないけれどCはそれぞれのセリフをどう聞いているのか、というようなこと。また、Aに対するBのセリフは、間髪を入れずに言うのか、それとも一瞬の間ができるのか、というようなこと。さらに、声の調子や大きさはどんなものなのか、早口なのかゆっくりなのか、セリフの中で強調されるのはどの言葉なのか、また、その時の3人の距離感はどんなものなのか。距離感というのは、実際の物理的距離感と、もう一つ心理的距離感というのもあるのではないか。等々。
 だが、とりあえずこういうことは一切関係がないと言ってしまおう。というか、こういうことをこういうこととしていくら考えても仕方がないということである。こんなことは全く考えるまでもなく、みんなは日常の会話をしているものだからである。分析というのはずっと後になってから、どうもここのところがやっていてしっくりこない、このあたりがどうも引っかかる気がするなどと感じたりした時に、初めて考えてみるための指針にすぎない。

 難しく考える必要は全くない。ただ、覚えたセリフはお互いがやり取りする(会話する)ために、そのためだけに存在するものなのだと意識することである。会話の出来ない人間はいない(不得手な人はいるかもしれないが)。キャストになって、セリフを覚えて練習が始まった時に、なぜかそのことを忘れてしまうしまう生徒が多いのはどうしてなのだろう。
 覚えたセリフをただ言っているだけ、セリフのない人はただ立っている(セリフの順番を待っている)だけ、どうしてそうなってしまうのだろう。お互いの関係や状況を意識しないままに、一人だけの熱演が始まってしまったり、おかしなゼスチャーを入れ始めたりするのはどうしてだろう。とにかく、そういう舞台がけっこうあるのは悲しいことである。
 みんなテキトーにいい加減にやっているわけでは決してないと思う。しかし、覚えたセリフをみんなで「やり取り」にしていく過程を、なぜか飛ばしてしまっているのである。それではいくら一生懸命練習しても、先は見えてこないのである。そのことにぜひ気づいてほしいと思う。
 そして、そのことを顧問の先生は、大人の視線でぜひ指摘してやってほしいと思う。生徒に説教する時、お前どこ見てんだ、ちゃんとこっち見て話を聞け、なんて言っているのだから、演劇のことが判るとか判らないとかの問題ではないのである。

 さて、一般的な芝居作りの行程で、セリフのやり取りということが意識できたら次はどうするか。次の段階で、というか、かなり同時進行的に意識した方がいいことがもう一つある。
 それは、セリフというのは、客席にちゃんと言葉として伝わらなければ何にもならないということである。観客に、セリフがきちんとした意味のかたまりとして聞こえなければ、芝居としては成立しないのである。客席に座っていると、音としては十分聞こえているのだけれど、何を言っているのかさっぱり判らないという場面がけっこうある。わたしの耳が年を取って退化したわけではないと思う。
 このことについて、わたしは発声がどうとか滑舌がどうとか、そんなことを言うつもりはない。どんな発声だろうと、聞こえればいいと思っている。滑舌が少しぐらい悪くたって、意味として聞き取れるのであればそれでいいと思う。みんなが発声や滑舌がちゃんとできて、声の響きなども全員揃っているような舞台は、それはそれで大したものだとは思うけれど、せいぜい2年ちょっとしか活動できない高校演劇で、みんなそんなことになってしまったら気持ちが悪いと思う。
 わたしはひねくれているのだろうか。発声がダメな生徒も滑舌が悪い生徒も、それはその生徒の個性なのだと考えればいいのではないか。

 その上で、それでもセリフは聞こえなければダメなのだと言いたいのである。言葉として、意味として、きちんと客席に届かなければいけないと言っているのである。それは、発声とか滑舌とかそういう視点を持たなくてもできるものだと思っている。だいたい面倒見てくれる顧問もいなかったり、いても演劇は判らないと言っている顧問なのである。的確なアドバイスもないわけだし、生徒だけでそんな難しいことを考える必要はないのだと思う(もちろん意識したければしてもいい。必要ないと言っているわけではないのだから)。
 大切なのは、セリフがちゃんと聞き取れるのかどうかを、練習の各過程でいつも気にしていることだと思う。自分たちは同じセリフを何度も言ったり聞いたりしているから、これはやっている当人たちには自然に判ってしまって、当然聞き取れているものと錯覚しがちなものなのである。
 ぜひ、たまにしか顔を出さない顧問の先生がいたら(信頼できる他の先生でもいい)お願いしてほしいと思う。言葉として、意味として、ちゃんと聞き取れるかどうか、具体的な箇所として教えてほしいのだと。たまにしか来ないことが役に立つのである。
 なお、これは単純な声の大きさのことを言っているのではないことは、判ると思うけれど勘違いしないでもらいたいと思う。

 以上二つのことを意識しながら練習を進めると、セリフをくっきりさせることとセリフをやり取り(会話)にしていくこととは、けっこうぶつかり合う場面があるのではないかと思う。会話する時、人は言葉を明瞭に発音しなければなどと考えることはないからである。むしろ会話では、その場の雰囲気とか勢いとかに押されて、すいぶん不明瞭な言葉が行き来している方が普通なのである。身振り手振りや表情などが、それを補っているのだと思う。
 舞台上では、それでも言葉の明瞭性が何よりも必要だと考えるべきである。明瞭に聞き取れるセリフであって、なお且つちゃんとやり取りされているセリフ。これがキャストの目指すべき、舞台上のセリフというものだと思う。
 実際に出来るかどうかは判らない。だが、これが進むべき方向なのだと判っていれば、少なくとも「悲しくなるような舞台」からは脱することができるのではないかと思う。

 ここまでわたしは、キャストの動き、身振りや手振りのことについては触れてこなかった。上に書いた二つのことを練習する時に、身振り手振りのことは全く意識する必要はないと思う。むしろ、そういう方に逃げない方がいいと思っている。位置取りについてだけは、やり取りの距離感と関連するから、かなり早い段階で意識すべきだと思う。距離がきちんと取れていなければ、会話は成立しないからである。
 だが、他のこと、動きや身振り手振りは無理に付けようとしないほうがいい。脱力した棒立ちというのが基本なのであって、それで練習を続けていけばいいのだと思う。たぶんどこかで動きたくなることが出てくると思う(いい台本だと、という前提が必要かもしれないが)。身振り手振りが自然に出てくる時があると思う。それを待っていればいいのだと思う。
 もちろん、最初から動きを作らなければならないシーンというのはある。台本によっては、そういうシーンがとてもたくさんある場合もあると思う。けれどその場合でも、上に書いた二つのことが出来ないうちに動きを作り始めることは賛成できない。早くやりたい気持ちは理解できるが、ここはぐっと我慢した方がいいと思っている。まあ、なかなか待てないんだけどね。

 ということで、このほかにも芝居作りの行程で考えた方がいいと思うことはいろいろあるが、最も重要だと思うことについては一応書いたつもりである。また、わたしが落とした116校の舞台を観て考えたことももっといろいろあるのだが、きりがないし、重要なことについてはとりあえず書けたのではないかと思っている。
 またいつか書くことがあるかもしれないが、今回の連載?はここでひとまず終わりということにしたいと思う。敢えて極論に近い書き方をしたところもあるが、年寄りのたわごとと黙殺していただいても結構である。もちろん反論していただけるのであればこんな嬉しいことはない。内容についての責任はしっかり取りたいと思っている。
by krmtdir90 | 2015-10-14 00:01 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)
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