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この本を手に取ったのは、空海に興味があったからではない。興味の対象は著者・高村薫の方であって、近作にはすっかりご無沙汰になってしまったが、彼女が空海というような対象をどんなふうに語っているのか知りたかったのである。 本書は、共同通信社が2014年4月から15年4月まで地方新聞に配信し、「21世紀の空海」というタイトルで連載されたものを加筆してまとめたもののようだ。東京に住んでいる人間は読むことができなかった連載なので、ちょっと気になったということもあったように思う。 わたしは高村薫の小説を少し集中して読んだ時期がある。今回、その痕跡を本棚から探してみた。文庫本ではなく、すべて単行本だった。 確か「レディ・ジョーカー」上・下が最初だったと思う。この本だけが初版本で、奥付は1997年12月だった。細かいことは忘れてしまったが、とにかくこれでこの作者に捉えられてしまったということである。あとはどういう順序で読んだか覚えていないが、高村薫の発表順に並べれば「神の火」「マークスの山」「照柿(てりがき)」となる。奥付を見ると、いずれも何刷かを重ねた後のもので、日付は1996~98年になっていた。 これは、わたしがT高校からN高校に転勤になり、何となく腑抜けた毎日を送っていた数年間に当たる。やめていた煙草を再び吸い始めたのもこの頃だった気がする。 「レディ・ジョーカー」は1995~97年に週刊誌に連載されたものだったようだが、この単行本が出たあと、高村薫はしばらく小説を発表しなくなってしまう。そのきっかけについて、高村薫は今回の「空海」の冒頭にこう記している。 1995年1月、私は大阪の自宅で阪神淡路大震災に遭遇した。それを機に、私の42年の人生は文字通り根底から変わった。いかなる信心にも無縁だった人間が突然、仏を思ったのである。正確には仏らしきものと呼ぶのがせいぜいの、茫洋とした感覚に過ぎなかったが、とまれ、長らく近代理性だけで生きてきた人間が、人間の意思を超えたもの、言葉で言い当てることのできないものに真に直面し、そのことを身体に刻んだのだ。以来、手さぐりで仏教書をひもとき、仏とは何かと考え続けて今日に至っているが、それでも信心なるものにはいまなお手が届かない。 こうして書き写していると、高村薫という人の書き付ける言葉の的確さをひしひしと感じる。言葉はすべて正確に選択され、その意味するところで正確に筆者の思いを伝えている。曖昧なところや、適当に切り上げてしまうところがない。言葉に対する誠意とでも言おうか、「近代理性」という面白い言葉を使っているが、彼女の文章の誤魔化しのない明快さは、どのような状況に置かれてもしっかり貫かれているのだと思った。 この「空海」という本は、阪神淡路大震災から始まる彼女の思考遍歴の一つの到達点なのだろう。彼女は続けて東日本大震災の被災地を訪ね、そのあと初めて高野山を訪ねることで、ようやく「空海」への旅を開始するのである。 弘法大師空海に何の興味も持っていない者としては、「それでも信心なるものにはいまなお手が届かない」と書く彼女を信じてみたい気がしたのである。高村薫の中に捨て難く存在する「近代理性」が、空海という「宗教」をどんなふうに語ってみせるのか。 中に踏み込むと一日がかりになってしまいそうだからやめておくが、率直に言って非常に面白かった。空海という存在については、その生涯(私生活)がほとんど明らかになっていないらしいが、高村薫はわずかに残された数少ない手がかりから、実に客観的で鮮明な空海像を構築していると思った。 だが。 わたしにはその空海像よりも、それを描き出す高村薫の思考の跡の方が興味深かった。本書の終わりあたりでは、彼女は元オウム真理教信者やハンセン病患者の許を訪れて、弘法大師空海から現代につながる「宗教」の有り様を考察してみせるのである。 彼女が再び書き始めた小説は、以前わたしが読んでいた頃のそれとは全く異なる相貌を示しているらしい。わたしはそれらを読んでいないのだが(どうも小説としては真面目?すぎる印象があって、読む気にならなかった)、新聞などで時折見かける彼女の発言などを通じて、高村薫は依然として続いていることは確認してきたように思う。 この「空海」という本は、小説ではないけれど、彼女の健在を鮮やかに示して見せた一冊だったのではないかと思った。
by krmtdir90
| 2016-02-12 21:03
| 本
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