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劇場のスクリーンサイズはビスタビジョンなっていて、クレジットタイトルなどはビスタサイズで映し出されたが、本編の映像はすべてスタンダードサイズだった。タイトルがビスタサイズである以上、スクリーンはビスタサイズになったままだから、本編の間は両サイドにずっと何も写らない部分が残っていた。それを意識させる(写っていないところを想像させるという)作戦があったのかもしれない。 この映画はナチスのホロコーストを扱っている。プログラムのイントロダクションには1944年10月と書かれていて、場所はアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所(ポーランド)ということになっているが、映画の本編でそうしたことが説明的に明らかにされることはなかった。 ただ、冒頭に字幕で「ゾンダーコマンド」というものが説明されていた。これは、ナチスがユダヤ人収容者の中から一定の人数(男性)を選別し、数ヶ月の延命と引き換えに、ユダヤ人虐殺を手伝わせ、死体処理などにあたらせた特殊作業班のことだという。映画はそんなゾンダーコマンドの一人である、サウル・アウスランダーというハンガリー系ユダヤ人の一人の男に密着する。この映画の斬新さは、文字通り「密着する」としか言いようのないその描き方の特異さにあると思う。 カメラは常にこのサウルという男とともに動き、彼の周辺だけにとどまり続け、彼と彼が見聞きできるきわめて狭い範囲だけを画面に映し出していく。周囲の状況はその多くがカットされ、観客が見ることのできる視野は極端に限定されてしまい、さらにその多くの場合が、ピントがずれてぼやけてしまったり、移動やブレのため明瞭な像を結ばないのである(手持ちカメラが多用され、ピントが合う範囲を意図的に狭めた撮り方をしているようだ)。カメラは、普通の映画のようにストーリーを紡いでいくための映像を作ることはなく、むしろ不明瞭な、何が起こっているのか判然としない映像ばかりを、スクリーンに積み重ねていくのである。 このカメラの扱いはこの映画の独創であり、全編がそういう描き方で貫かれることで、この映画は逆にこれまで観たことがないような強烈で緊迫した映像を作り上げたと思った。 サウルの眼前で起こっていることは、サウルの表情のアップやバックショットの背景として、おぼろげに映し出さるだけである。それでも、それは眼前で確かに起こっていることなのであって、サウルを含むゾンダーコマンドたちは、移送列車で到着した大量のユダヤ人を追い立て、衣服を脱がせて全裸にし、シャワー室と偽られたガス室に送り込む。そうしたことが行われていることは、ゾンダーコマンドであるサウルの映像の背後に確かに見えているのだが、その全体像はあくまでぼんやりとして掴み所がないのである。 カメラはこの後も一貫してこういう撮り方をしていくのだが、その映像のきわめて限られた感覚に比べて、音の方は実に鮮明に、その場の様々な音声をくまなく拾い上げていく。大きなものから小さなものまで、非常に重層的に聞こえてくるように作られている。観客席の背後などを含め、四囲から微かな話し声や呻き声などが聞こえてきたりして、観客はサウルの聴覚をほぼ完璧に実感できるようになっているのである。 サウルにとっては、目にするものも聞こえてくるものも、その異常さに麻痺して次第に実感を失ってしまっているのだろうが、音の鮮烈さを観客に際立つように残したのは、この映画のきわめて意図的な戦略というものなのだろう。それは異様な迫力を持って観客に迫ってくるように思われた。 視覚的に限られた映像と、すべてが聞こえてくる感じの音との組み合わせが、観客の感覚と想像力を極限まで広げてしまう気がした。閉じられたガス室の中の様子は、閉じられたドア越しに洩れてくる音だけで表現されることで、強烈なインパクトを与えるものになっていたと思う。しかし、何ヶ月もこういう作業に従事させられているサウルの表情からは、何も読み取れるものはないのである。その恐ろしさは、この映画が描く固有の感覚である。 ゾンダーコマンドたちは命じられるままに、こちらの部屋に残されたユダヤ人たちの衣服を機械的に片付け、金目のものを取り分けていく。次には、すべてが終わったガス室から死体の山を運び出し、床に残った汚物や血の跡を水で洗い流していく。さらに次には、死体を焼却し、その灰を川に捨てに行く作業なども行われている。カメラはそういう現場にいるサウルの姿を執拗に追いかけるが、サウルを離れてこれらの所行の全体像を捉えようとはしないのである。 逆に、こうしたやり方で際立ってくる現場感覚というのは尋常ではない気がした。大きなスクリーンにすべてのものを映し出すのとは真逆のやり方で、この映画は多くのものを直裁には写さないことで、スタンダードサイズの小さなフレームに恐ろしい臨場感を作り出していると思った。 プログラムに載っていた監督のインタビューを読んでいたら、この映画の撮影方法について、次のように語っていることを知った。 すべての段階で伝統的な35ミリ・フィルムと現像のプロセスを用いました。この世界を有機的な映像として表現するには、この方法しかなかったのです。我々の挑戦は観客の感情の琴線を打つことで、それはデジタルでは決して得られないものです。 なるほどな、と思った。この映像の質感はデジタルのものではない。監督のネメシュ・ラースローは1977年生まれのハンガリー人で、この映画が長編映画の第1作だったのだという。 映画は、彼らがガス室から死体を搬出する時、一人の少年がまだ息絶えていないことに気付くところから、サウルの内面に起こった小さな揺らぎを追いかけていくことになる。やって来た医師(彼もナチスに使われているユダヤ人である)によって、少年はすぐに絶命させられてしまうのだが、この時サウルは、この少年が自分の「息子」だという感覚に捉えられてしまう。 彼はこの少年の遺体をユダヤ教の教義に則って、焼却するのではなく(ユダヤ教では火葬は禁忌であるらしい)きちんと埋葬してやりたいという思いに取り憑かれてしまう。ナチスの命令のままに、ただ過酷な作業を受動的にこなしていただけのサウルの内面に、説明のつかない「熱狂」が生じるのである。彼は少年の遺体を盗み出し、密かにそれを保管するとともに、移送されてきたユダヤ人の中にユダヤ教の聖職者である「ラビ」がいないかと探し回る。それは彼や彼の仲間を様々な危険にさらすことになるのだが、サウルの内に灯ってしまった狂気としか言いようのない「火」は、彼の行動を後戻りできないかたちで押し流してしまうのである。 映画では、これと並行して、ゾンダーコマンドたちによる武装蜂起と脱走計画が進行しているのだが、どうやらサウルはこの計画に深く関わっているらしいことが見えてくる。だが、少年の埋葬に取り憑かれてからの彼は、その計画のことは完全に視界から外れてしまうようなのだ。このあたりの経過についてはここでは詳しく触れないが、結果的に仲間たちと脱走に成功したサウルは、泳いで川を渡る時、そこまでは担いで何とか運んできた少年の遺体を、流れに持って行かれることになってしまうのである。 川を渡り切ったあたりから、カメラの位置はややサウルから離れるようになり、客観的な状況を少しずつ映し始めることで、ラストが近いことを感じさせていたと思う。仲間たちと森の中の小屋で小休止するのだが、その時サウルの目には、入口の向こうに一人の少年が立っているのが見えるのである。(確認はできないのだが)それは、あの遺体の少年の拘束される前の姿のようにも見えた。サウルの口もとに不思議な微笑のようなものが浮かび、走り去る少年とともにカメラがサウルを離れて外に出て行った後、背後に何発かの銃声が聞こえ、(サウルたちの死を暗示して)画面は突然途切れて映画は終わるのである。 サウルは少年の遺体を埋葬してやることはできなかったが、川に流すことで遺体のかたちは(焼かれることなく)とどめたのであり、サウルの「願い」は半ば叶えられたことになったのだと思う。全編が過酷で悲惨きわまりない状況を描いた映画であり、サウル自身も死によってしか救われることはなかったのだが、彼が最後に見せた微かな笑みによって、絶望的な状況下での人間的な矜恃の一つが回復されたことを示していたのだと思った。 それにしても、ただただ見続け感じ続けるしかないこの映像と音の執拗さは尋常なものではない。身体が硬くなり、観終わった時の疲労感はかなりのものだった。とにかく引き込まれ、最後まで引きずり回された感じだった。現実の地獄と比べれば、恐らく映画は映画に過ぎないのだが、しかし映画でなければできない体験をさせてくれる映画だと思った。デジタルだの3Dだの、最先端の映像技術など使わなくても、こういう映画がまだあり得るということを鮮やかに示したものだったと思う。
by krmtdir90
| 2016-02-18 13:10
| 本と映画
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