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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「恋人たち」

映画「恋人たち」_e0320083_17335266.jpg
 この映画を観たのは19日である。その日のうちに感想を書こうと思いながら、あれこれ考えているうちに時間がどんどん経過してしまった。
 始め、この映画に登場してくる人物たちは、率直に言ってあまり積極的に寄り添いたいとは思えない感じがあった。それぞれの切実さはよく描かれていると思ったけれど、共感はしにくい感じが強かったのである。ところが、いざ書き始めてみると、実はそうではなかったのではないかという気がしてきて、改めてもう一度、最初から考え直してみようという気分になって、結局ゼロから書き直してみることになってしまったのである。

 この映画には3人の主人公が登場する。プログラムのイントロダクションから抜き出しておけば、次のような3人である。
 通り魔殺人事件によって妻を失い、橋梁点検の仕事をしながら裁判のため奔走する男、アツシ。そりが合わない姑、自分に関心を持たない夫との平凡な暮らしの中、突如現れた男に心が揺れ動く主婦、瞳子。親友への想いを胸に秘める同性愛者で、完璧主義のエリート弁護士、四ノ宮。
 しかし、それぞれが紡ぐストーリーというのは、基本的に独立していて互いに無関係である。3人は個々のストーリーの中でだけ、みずからの小さな人間関係を生きている。それらは映画全体として一つのストーリーに構成されることはなく、終始バラバラなまま交互に進行していくだけである。
 相互の関連付けは全くないわけではなく、瞳子のストーリーに出てくる詐欺まがいの「美女水」というペットボトルは、アツシのストーリーにもちょっとした小道具として登場しているし、アツシと四ノ宮の間は、アツシが妻の事件で依頼した弁護士の一人が四ノ宮だったという関係が設定されてはいる。だが、それはそれだけのことであって、それが四ノ宮でなくてもアツシのストーリーは成立するという意味で、そこからお互いのストーリーがリンクしていくことにはならないのである。

 一見すると、何とも不思議なストーリー構成と言うほかないが、観ているといつのまにか、世の中にはいろんな人間がいるんだし、いろんなことがあるんだなという気分になってきて、それぞれのストーリーにその都度つき合っている自分を発見することになるのである。みんなそれぞれに生きているんだなという感じである。しかし、その生活の有り様というのは、わたしにはとても身近に感じられるようなものではなく、感情移入とか共感とかいう感覚とはかなり遠いところにあるように感じられたのである。
 わたしは彼らと距離を置いて、観察するように見ていたのだと思う。傍観的と言ってもいいが、そういう少し冷ややかな見方をする観客に対して、この映画はリアルな映像の積み重ねで、ほぼ完璧に応えてくれていたのだと思った。観終わって時間が経つにつれて、この完璧さは尋常なものではないという感覚がにわかに大きなものになってきた。この映画が刻々作り出していたリアルは、映画として他にあまり例がないような凄いものだったのではないかと思うようになったのである。

 ここに描かれる彼らの人生というのは、どれ一つとしてプラスに語れるようなものではなく、そこに掬い上げられている彼らの感情というものも、様々な不満とか心の歪みとか、とても順風に営まれているようには感じられないものなのである。もちろん三者三様ではあるのだけれど、彼らそれぞれの感情の微細な動きの一つ一つを、この映画は実に克明に描き出していたのだと思った。
 たとえば、アツシという男の心の痛み、絶望の深さは、他者から簡単に想像できるようなものではないにしても、そこにこの人物が存在しているということを、この映画は驚くようなリアルさで写し取っていたと思った。アツシに関するどのシーンでもいいのだが、その様々な表情や無表情といったもの、また様々な感情の揺らぎや虚しさ、そして怒りといったものを、こんなリアリティで画面に定着させるのは容易なことではないと思われたのである。それはアツシが一人でいる時の存在感であり、また他の人物と絡み合う時の存在感でもある。

 アツシの周囲に登場する人物たちも、短い出番をみんな見事に描き出されていた。それぞれがちゃんとした存在感を持っているから、それと絡むアツシの方も、きちんと反応し存在感を出すことができるのだと思った。橋梁点検会社「太陽」の同僚たち、片腕のない先輩の黒田とか、赤い飴玉をくれる女事務員とか、そうした絡みがアツシの内面にどんなふうに届いているのか、あるいは届いていないのかを、映像は実に丁寧に拾い上げていると思った。
 滞納している国民健康保険の支払いに訪れた区役所の窓口で、いかにも小役人という感じの職員とやり取りするところ、その押し問答から生まれる感情のリアリティは凄かった。アツシの内側にふつふつと湧いてくる怒りを、この映像は見事に写し取って見せている。沸点に達する直前、ギリギリのところで暴発を思いとどまるアツシの感情の振幅を、まるごとスリリングに眼前させてくれるのである。
 終わり近くに、絶望感に囚われて剃刀で手首を切ろうとするアツシが映し出された時には、わたしは生理的な恐怖感でじっと座り続けることができなかった。

 主婦の瞳子というのは美人でもなく、身体などの線もすっかり崩れた中年女で、登場人物として特に魅力を見出すことの難しい人だと思った。だが、この映画はここでも、その冴えないが切実な生活感といったもの、その虚しさとか救いのなさといったものを、淡々としかし的確に画面に定着させていくのである。身近に共感することは難しくても、こういうふうに正攻法でリアルに映し出されてしまっては、最後まで見届けるしかないではないか。
 瞳子の生活する家の状況、姑や夫との修復不能な関係の絶望感などは、この相手役の存在感があってこそ感じられたものだと思う。この状況から脱したいという潜在意識が背中を押したのだろう、優しくされた詐欺師の男の許に、小さなスーツケースを持って出て行こうと決意する瞳子の、笑いたくなるような切実な表情や仕草を、この映画は残酷なまでに切り取っていると思った。
 一方、同性愛者の四ノ宮というのは、わたしにはどうしても好きになれない感じで、最も距離を感じる登場人物だったが、映画としてきちんとその存在感が描けていたのは認めるしかないと思った。だが、四ノ宮のストーリーだけが、この映画の中ではずっと異物感を残し続けていたように感じた。同性愛というのは、どうもわたしにはよく判らないのである。

 結局、この監督はこの映画で何をやろうとしていたのだろうか。画面のあちこちから、停滞した絶望感のようなものが滲み出しているように感じられたが、その描き方というのは意外にも少しもべたついたところがなく、むしろストーリーの中に生じる様々な事態(生きていく上での不具合というようなもの)を、不用意に批評したり決めつけたりはしないで、あくまで乾いた距離感を持って見詰めているような気がした。
 ここには現代日本の、様々な意味で生きにくい現実が写し取られているし、どうしてこんなことになっちゃったんだという、ちょっと大袈裟な言い方になるが、社会状況に対する怨念のようなものも埋め込まれているように感じられた。通り魔殺人などというものが現実にいつ起こっても不思議ではない状況は確かにあるし、それはアツシに決定的なダメージを与えているのである。瞳子のやり場のない不充足感に結婚詐欺の男が簡単に侵入して来るというのも、何とも言いようのない現代の不条理のように思われるのである。同性愛も少しも珍しいことではないし、突然出てくる覚醒剤というようなものも(きわめてリアルなかたちで2回も出てくる)、ちょっと手を伸ばせば簡単に手を染められるところに存在しているのである。

 ここに描かれた現実というのは、総体としてみれば、何とも暗く絶望的で救いがないかたちで提示されていると思う。だが、この監督はそうしたものを、決して悪意に満ちた回復不能な現実として描いているのではないと思った。もちろん安易な希望を持ち込むことなどできないが、これらのストーリーは最後のところで、ほんの少し現実を反転させられるのではないかという気配を、さりげなく忍び込ませているのである。
 たとえば、男に騙されたことが判って、元の姑と夫の許に戻るしかなかった瞳子に対して、夜の性行為の要求サインを出す無口な夫が、コンドームが切れているから買いに行くと言う瞳子に対して、「なくてもいいじゃないか、夫婦なんだから」というようなことをボソッと言うシーン。何もないと思っていた夫との間に、微妙な関係性の変化があり得ることを示して見せるのである。一人一人を縛り付けている絶望的な状況(人間関係など)は、そう簡単に変わるものではないにしても、この先ずっと変わらないというわけでもないのではないかということである。

 映画の最後は、どう転んでも絶望から脱することはできないのではないかと見えていたアツシが、どうやら一歩前に足を踏み出したのではないかと感じさせるシーンで終わっている。橋梁点検の終了時に指差して行うルーティーン「右よし、左よし」に続いて、アツシは道路の橋桁に区切られた狭い空に向かって、小さく「よし!」と口にするのである。続くクレジットタイトルの終わりには、それまでずっと何年間もカーテンで閉じられていたアツシの部屋の窓が開け放たれ、明るい陽光と爽やかな風が吹き通るイメージが付け加えられている。
 それまでの(何年もの間続いてきた)重苦しい毎日を考えれば、この変化はきわめて唐突に訪れたように見える。少し前までは、アツシは絶望の底から覚醒剤に手を出そうとし、剃刀でみずからの手首を切ろうとさえしていたのである。
 しかし、考えてみると、一方でそんな極限まで追い込まれた精神状態にありながら、もう一方で、心の治癒に向けた準備が少しずつ積み重ねられていたということがあるのではないか。もちろん絶望がすべて過去のものになってしまうわけではない。それでも、最後の最後に自分の手首を切ることができなかったアツシの中では、もう一度前に進みたいという切実な想いが徐々にふくらんでいたのではないかということである。それを、この監督は最後のところで静かに肯定してみせるのである。

 それは思い通りにならない毎日、自分で自分をどうすることもできない、次々に溢れ出してくる、制御できないマイナスの力に対して、少しずつ少しずつアツシの内側に積み重ねられていたのだと思う。アツシのことを折に触れて心配してくれていた橋梁点検会社「太陽」の同僚たち、片腕のない先輩の黒田とか、赤い飴玉をくれる女事務員とか、そうしたものがアツシの心に、僅かずつであっても確かに届いていたのだということを、この監督は最後に明らかにしてくれるのである。
 どんなに思い通りにならない人生であっても、人はその場所で(行きつ戻りつしながら)生きていくしかないのであり、その徒労になりかねない絶望的な積み重ねの振幅の間に、微かな肯定の光を見出さなければ映画ではないと、この監督は考えているのかもしれない。
 観ているあいだずっと、重くて辛くて耐え難い印象は続いていたが、この監督の真正面から彼らを見詰める眼差しに、このラストを予感させられる何かがあったのかもしれない。観終わった後の気分は、予想外に暖かく気持ちの良いものだった。

 この映画はは、昨年(2015年)のキネマ旬報ベストテンで日本映画第1位となり、毎日映画コンクールなど、多くの映画賞で高い評価を受けたものらしい。11月からの公開は一旦終了していたようだが、各種映画賞に輝いたということで、今月に入ってから幾つかの映画館で再公開されることになったようだ。
 20年近く映画館から離れていて、最近また少し通い始めた者としては、再公開があるのならこの機会に、最近のキネ旬第1位というのがどんな映画だったのか、ちょっと確かめておきたいような気分になったのである。

 実は、監督の橋口亮輔という名前には何となく覚えがあって、調べてみたら、長編第1作が1993年の「二十才の微熱」というものだったようだ。この公開年はわたしがまだ映画を観続けていた頃だから、そこから考えると、わたしはたぶんこの映画を観ていると思うのだが、例によって記憶からは完全に飛んでしまっていた。
 今回の映画では、主役の3人を始め、脇役たちの幾人かも、監督自身が主宰したワークショップを通じて抜擢された素人だったらしい。それぞれの存在感を生かして、宛て書きとして書かれたストーリー(脚本)が素晴らしかったということなのだろう。それにしても、彼らからこういう迫真の演技を引き出したというのは、橋口亮輔という監督の才能は驚嘆に値するものだと思った。ちょっと遠くまで出掛けて、観ておいて良かったと感じた。

 今回は、南町田の109シネマズというところで観た。新宿などでもやっていたようだが、どこも時間限定の上映なので、探したらここが12:45からということで、一番いいかなと思ったのである。南町田駅というのは、横浜線の長津田駅で東急田園都市線というのに乗り換え、西の方角に3つ目の駅だった。こんなことでもなければ、絶対に行くことなどなかったはずの駅である。
映画「恋人たち」_e0320083_17342742.jpg
 駅前には、グランベリーモールという郊外型のお洒落なショッピングモールが広がっていて、その中に10のスクリーンを持つ広い映画館が入っていたのだった。「映画館散歩」という、新しい楽しみがあるかもしれないなと思った。
by krmtdir90 | 2016-02-21 17:34 | 本と映画 | Comments(0)
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