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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「64(ロクヨン)後編」

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 単行本が出た時(2012年10月)原作を読んでいたが、細かい内容はほとんど覚えていなかった。だから、前編はほぼ白紙の状態で映画の中にぐいぐい引き込まれた。しかし、そのあとで原作を読み返してしまったので、後編は映画が原作とは異なる終わり方になっているというところを、妙に冷静にチェックしながら見るような感じになってしまった。
 読み返した時点でこうなることは判っていた。だからまあ仕方がないとして、結果的に白紙で見るより映画を作った人々の意図がよく見えたと思った。このあとはネタバレになります。

 原作の終わり方というのは、この種の小説としてははなはだスカッとしない終わり方になっていたと思う。確かにストーリー展開として「64(ロクヨン)」の犯人は特定されるが、その犯人・目崎正人は証拠不十分で逮捕されないまま釈放されてしまうし、平成14年の誘拐犯の方は、これもストーリー的にはすべてが明らかにされているものの、彼ら(幸田一樹と雨宮芳男)がこのあとどうなるのかは描かれてはいないのである。県警刑事部が14年間隠蔽し続けた「ロクヨンの秘密(幸田メモ)」も、目崎が逮捕され事件の真相が公になった時点で対外的に暴露され、県警は大混乱になるだろうと予測はされるものの、まだストーリーの中の限られた人間が知るだけで現実にはならないのである。
 つまりこの小説は、小説の中で描かれてきた様々な対立関係、また事件の核心や周辺に点描されてきた人間模様などを、小説として次のステージに進ませることはほとんど行わずに終わってしまうのである。主人公・三上の失踪した娘の行方も、手がかりはないまま終わってしまう。小説はどこかで区切りをつけなければならないものだから、この終わり方はある意味では仕方がないものなのだろうが、読んだあとに一種の「積み残し感」といったものが残ったのも事実なのである。

 映画の後編は、この「積み残し感」をかなり解消させてスッキリさせてくれたと思う。上映時間を2時間程度にするという縛りでもあったのか、平成14年の誘拐の方は描き方が若干駆け足になってしまったのは残念だったが、映画で新たに付け加えられた三上の一連の「逸脱行動」によって、「ロクヨン」の犯人・目崎を追い詰めていくところは十分納得できるものだった。映画の終わり方としては、やはり犯人逮捕まで持ち込まなければストーリーを完結させられなかったということだろう。
 映画では、平成14年の犯人・幸田が妻子に送られて警察署に出頭するシーンも付け加えられた。また、最後に置かれた、これも映画独自の「どんど焼き」のシーンで、「ロクヨン」では被害者だった(平成14年の事件では幸田の共犯者になる)雨宮が、14年前に殺害された娘の遺品をすべて処分して(燃やして)、明日出頭するつもりだと三上夫妻に告げるシーンもつけ足された。このラストシーンの設定はややわざとらしい感じなきにしもあらずだが、こうしたかたちでいろいろなことにきちんと決着をつけてくれたことが、原作を超えた映画の筋の通し方として共感できたのである。

 映画では、「ロクヨン」の時犯人からの電話の声を録音し損ない(当時の刑事部はこの事実を隠蔽したのである)、その責任を感じてそれ以来ずっと(14年間)自室に引き籠もった技師・日吉浩一郎が、犯人逮捕のニュースをラジオで聞き、茶の間の出てきて烏丸せつこ演じる老母と顔を合わせるシーンも挿入されていた。たったワンシーンだったが、「ロクヨン」によって人生を狂わされた人間にとっては、逮捕の事実が描かれることによって初めて前に進めるシーンが成立したのであり、そういう意味で映画の終わり方は正しい選択であったと言えるのだろう。
 被害者・雨宮がかけ続けた執念の無言電話が声から犯人・目崎を突き止め、「幸田メモ」によって県警の隠蔽を告発しようとした幸田の思いが、雨宮の思いと結びついて平成14年の誘拐を起こすという因果関係は、映像の力によってきわめて鮮明なかたちで描き出されたと思う。平成14年の事件では被害者の立場に置かれた「ロクヨン」の犯人・目崎の、混乱や焦燥といった心の動揺も映像は見事に映し出していた。原作の小説はどうしても警察側の視点で全体像を描くことになるが、客観的な事実をそのまま写すことができる映画の力が十二分に発揮されていたと思う。
 目崎逮捕の瞬間を目崎の下の娘が目撃することになるシーンは映画独自のものだが、これでこのあと目崎は「ロクヨン」の事実をすべて自供するだろうと感じさせる、痛切なシーンになっていたと思う。記憶に残るシーンだった。

 原作では主人公・三上は、広報官の職に留まって「積み残し」を見届ける道を選ぶのだが、映画では自らの「逸脱行為」の結果として、警察官を辞して一人の父親として娘の帰りを待つという選択をしたことが描かれる。三上夫妻が「どんど焼き」の炎を見詰めるラストシーンに、映画はひそかな希望のショットを挟み込んでみせる。三上家のリビングの電話機に、公衆電話からと表示された電話が掛かってくるショットである。夫妻は出掛けているわけだから、この時は誰も電話に出ることはないのだが、見ている者はこれは失踪中の娘からの電話に違いないと感じるのである。そうであってほしいという願いを残して映画は終わる。
 警察内部の様々な関係に翻弄される登場人物の軋轢を描くことに主眼が置かれた原作に対して、映画は被害者や犯人も含めて、もっと人物個々の私的内面といったものに寄り添おうとしていることが見て取れた。この映画は前後編を通して、そうした様々な思いがよく描かれた、正攻法の重厚な人間ドラマになっていたと思う。
by krmtdir90 | 2016-06-21 12:43 | 本と映画 | Comments(0)
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