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だから、書店でこの本に手が伸びたのも著者の名前からではない。(別にそんなにファンというわけではないけれど)やはり石川啄木だったからだと思う。 本書は500ページを超える大著で、大きく2つのパートに分かれている。「生涯と思想」と題された第1部は、ページの7割を占め、啄木の日記や書簡を引用しながら彼の生きた軌跡を明らかにしている。第2部は、残り3割を使って啄木の作品を論じているが、「詩・短歌・小説・『ローマ字日記』」と題されている通り、短歌ばかり注目されがちな啄木をもう少しトータルなかたちで評価しようという姿勢が窺える。なお、評論については第1部の中で取り上げられていて、彼の生涯における思想的変遷という視点で考えようとしているようだ。 中村稔氏はあとがきで触れている通り「研究者」ではないから、書名は「石川啄木論」となっているが、「論」と言うには論理より感性が勝った記述になっているような気がして、そこがわたしには逆に面白かった。中村氏自身が詩人であったことが反映しているのだろうが、ここには氏の感覚的判断が、好悪も含めてきわめて率直に述べられていると思う。いわばその遠慮のなさが、わたしにはけっこう多くの部分で共感できるように思われた。 日記や書簡(それと評論)に関して言えば、どの部分を切り取ってつなぎ合わせるかというところに著者の観点が表れるのであって、それは好みというものと紙一重なのだと思った。どうしても昨年読んだドナルド・キーン氏の評伝「石川啄木」を思い出してしまうのだが、キーン氏のリスペクトを前提とした引用と比べると、中村氏の引用は何だか容赦がないなという感想があって、それは氏に啄木へのリスペクトがないということではなく、それはそれで氏の率直さが表れたものとしてわたしには非常に面白かったのである。 第2部の詩や小説については(あまりちゃんと読んでいないから)わたしは何も言えないが、短歌の評価に関しては、きわめて直感的な中村氏の見方に首肯するところが多かった。氏は「一握の砂」について、「青春期の甘く切ない思い、抑えがたい望郷、戻ることのない過去への回想の感情を感傷的にうたった歌人である」という「通俗的な見方」を認めつつも、「啄木がわが国の短歌にきりひらいた世界はこうした世界よりはるかにひろく、啄木の真の魅力はこうした作品(*註)にあるのではない」と述べている。この考察は非常に納得できるものだったと思う。 *註 こうした作品として引用されているのは次の4首(改行は/で示す)。 東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる 砂山の砂に腹這ひ/初恋の/いたみを遠くおもひ出づる日 いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに 付け加えておけば、この最後の「泣けとごとくに」は「言わなくてもよかったのではないか」とする中村氏の感想は鋭いと思った。 啄木の短歌をどのように読んだのかという中村氏の見方をここにたどり直すことはしないが、その着眼点の一つ一つが非常に新鮮で説得力があったことは確かである。たとえば啄木の叙景歌の中から次の3首を挙げて、 空知川雪に埋れて/鳥も見えず/岸辺の林に人ひとりゐき さらさらと氷の屑が/波に鳴る/磯の月夜のゆきかへりかな そことなく/蜜柑の皮の焼くるごときにほひ残りて/夕となりぬ 啄木の叙景は「たとえば、アララギの写生による作品とは本質的にまるで違う」とした上で、いずれにおいても「人間がじつは叙景の中核にいる」ことを指摘して、「『一握の砂』は、人間をうたって心に迫る作が非常に多い」と述べている。その通りだと思う。 北海道時代を歌った「忘れがたき人人」の章から中村氏が佳作として抜き出している作品(8首)は、わたしが好きな歌とほとんど共通していた。ついつい書き写したくなる誘惑に抗することができない。えい、書き写してしまえ。 函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花 こころざし得ぬ人人の/あつまりて酒のむ場所が/我が家(いへ)なりしかな かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ 子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな うたふごと駅の名呼びし/柔和なる/若き駅夫の眼をも忘れず さいはての駅に下り立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき よりそひて/深夜の雪の中に立つ/女の右手(めて)のあたたかさかな 中村氏はまた、啄木が「狂気とすれすれのところにいたのではないか」と指摘して、そういう歌を書き抜いている。ここからは3首のみ書き写しておく。 目の前の菓子皿などを/かりかりと噛みてみたくなりぬ/もどかしきかな どんよりと/くもれる空を見てゐしに/人を殺したくなりにけるかな 死にたくてならぬ時あり/はばかりに人目を避けて/怖き顔する また、啄木にとって「家庭は墓場であった」というような歌を抜き出し、さらに妻節子に対する屈折した思いを歌った歌を抜き出している。その最後に次の2首を並べ、 女あり/わがいひつけに背かじと心を砕く/見ればかなしも わが妻のむかしの願ひ/音楽のことにかかりき/今はうたはず 「これらの歌にみられる妻節子のいたましさには」「胸を突かれる思いがする」と述べたあとで、「こうした魅力に比べると、 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ のような歌は何とも軽薄なものだという感じが私にはつよい」と断じているところはその通りで、鋭いなと感心した。 さらに、 かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川 石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな といった有名な望郷の歌に対して、「感興を覚えない」と一刀両断に切り捨てているところも痛快である。最初に書き写した4首などとともに、国語の教科書に出てくるたびに、こんなものちっとも面白くないと感じていたわたしとしては、よくぞ言ってくれたとスッキリする思いだった(啄木の歌の佳作は、やはり北海道時代に集中しているとわたしは感じている)。 中村氏の見方をたどり直すことはしないなどと言いながら、ついいろいろと書いてしまった。まだ触れたいことはあるが、以下は省略とする。ただ、啄木の死後に出版された「悲しき玩具」について、「『悲しき玩具』には明らかに啄木の詩心の衰弱が認められると考える。何よりも、声調が弱い」と率直に指摘している点に共感を覚えた。 なかなかこんなふうに率直に断じることはできない思う。作品に対する見方だけでなく、啄木の生涯と思想に対してもこの率直さが貫かれているので、そういう意味では一貫性があって説得力がある本だったと思う。
by krmtdir90
| 2017-08-19 20:33
| 本
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