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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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映画「火花」

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 原作を読んだ時点で、これを映像化するのは非常に難しいだろうと思っていた。だから、この映画はあまり期待しないで観に行った。だが、結果は予想外と言うべきもので、終始楽しく観ることができた。実に好感の持てる映画になっていた。原作に忠実な映画化でありながら、原作とは別のもう一つの「火花」になり得ていたと思う。
 小説には小説の特性があり、映画には映画の特性がある。小説の映画化が、えてしてこの垣根を越えられず失敗することが多い中で、この映画は原作を踏まえつつ映画にしかできない表現を生かして、見事に映画「火花」として完成していたと思う。
 小説「火花」は、徳永と神谷がたどった10年間を徳永の一人称で描いている。そこにあるのは、徳永が見た神谷という人間と徳永自身の感性である。これが非常に面白く書き込まれた小説だった。映画がこれに囚われ過ぎれば失敗してしまうし、そうかと言って、無節操にこれを離れることは許されることではない。この映画はそこをどう突破したのか。

 映画という表現には一人称はあり得ない。一人称的表現を目指した映画もないわけではないが、映像というのは基本的に対象の外形を写し取るものであって、その内面はその写し取り方から推測させるしかない。小説の映画化において、特に主人公たちの存在感が薄まってしまうように感じられるのはこのためである。この映画でも、神谷の印象は小説ほど濃いものにはなっていない。
 一方で、主人公以外の登場人物の存在感が増しているも映画の特性によるものである。「スパークス」で徳永の相方を務める山下や、神谷の彼女である真樹、また出番は少ないが、「あほんだら」で神谷の相方である大林、同年代の芸人集団から抜け出し売れっ子となるピン芸人の鹿谷、神谷の新しい彼女の由貴といったところ。こうしたところは画面に映し出されることによって、それだけで具体的なものとなり印象的な存在となっていく。
 とりわけ徳永の相方・山下は映画の中で拡大され、徳永・神谷に対するもう一つの極として、2人を鮮明にする触媒のような役割を担うことになった。徳永と山下がスパークス解散を話し合う公園のシーンをじっくり見せた(映像的には両者は同格として映される)ことによって、彼らの解散ライブが非常に悲しく感動的なものになったと思う。

 監督・脚本の板尾創路(いつじ)は、映画の特性を小説を映画化する際の武器として使いこなしている。小説にも出てきたシーンなのに、それがきわめて印象的な映画独自のシーンに変貌しているケースが見られた。井の頭公園で奇妙な太鼓を叩いているミュージシャンに、神谷が絡んでいくシーンは素晴らしかった。ああ、こういうことだったのかと納得させられた。
 また、小説の始まりで、徳永が神谷に弟子にしてくれと頼む熱海の居酒屋のシーンがある。女店員のお腹が大きいのを見て、神谷が触っていいかと頼み、元気な女の子だと当てずっぽうを言うのは映画独自に作られたやり取りである。そして、終わり近くになって2人が再び熱海に行き、同じ居酒屋に行くのも小説にあるシーンである。だが、小説では女店員は別の人になっていたが、映画では元の女店員がいて、彼女はもちろん昔のことを覚えているはずもないのだが、そこに小学生ぐらいの女の子が出てきて、母親である彼女に店の隅で宿題を教わり始めるのである。
 映画が作ったこのシーンが、徳永と神谷がたどった10年という時間を強烈に照射することになった。あの時生まれてもいなかった子どもが、もうこんなに大きくなってしまっていたのだ。長いようで短い、短いようで長い、歳月は確実に彼らの上を通り過ぎていったのである。これは映画にしかできない見事な表現だと思った。

 又吉直樹が徳永と神谷の濃密な時間経過として描き出した物語を、板尾創路はもっと俯瞰的な集団劇として再構成したのだと思う。小説にあったエピソードはほとんど取り入れられているが、それをただなぞるだけではなく、映画独自の表現としてしっかり昇華させているところが素晴らしいと思った。その結果、小説の時には見えなかった様々なものが見えてきたと思う。
 小説では、スパークスは一時的にかなり注目された時期があったようになっていたが、映画は一貫して売れないまま10年の月日を経過させている。一方、神谷の強烈な個性はあまり前面に出されることはなく、彼の語り(漫才論とか生きる姿勢とか)などは描写としてはかなり後退させられることになった。しかし、彼らが必死になって追い求めたもの、思い通りにならず彼らの指先からこぼれていった切実な思いは、しっかりと描き出されていたのではないか。
 神谷が徳永に、勝つことができた一握りの芸人の背後には淘汰された無数の芸人がいると語るシーンは、小説にも映画にも共通したシーンである。だが、「淘汰された奴らの存在って、絶対に無駄じゃないねん」という神谷の言葉は、映画においてより痛切に響いていたように思う。「絶対に全員必要やってん」という言葉がストレートに胸に入って来た。

 監督の板尾創路という人は、みずからも漫才をやっていた過去を持ち、その後タレント・俳優・映画監督などとしてやってきた人のようだ。1963年生まれというから、今年で54歳ということになる。1980年生まれ、37歳の又吉直樹より、芸人の世界のあれこれを長いこと見てきたということだろう。監督自身がインタビューの中で「芸人のドキュメンタリーに近いもの」を作りたかったと述べているようだが、この映画の自然さは、監督自身の来歴に裏打ちされたものというのがよく判る映画になっていたと思う。
 徳永をやった菅田将暉(すだまさき)、神谷をやった桐谷健太の2人が素晴らしかった。山下の川谷修士は漫才をやっている人のようだが、コンビを組んでスパークスを演じた菅田将暉は、まるで本物の漫才コンビのように見えたのは感心した。徳永・神谷の漫才的掛け合いも実に面白く、それを生み出した監督と役者の才能のきらめきを感じた。いまのところ思ったほどのヒットになっていないようだが、観て損はない楽しい映画だと思う。
(立川シネマシティ1、11月24日)
by krmtdir90 | 2017-11-26 13:21 | 本と映画 | Comments(2)
Commented by Arimura at 2017-11-27 17:31 x
これ、小説読む気が起きなくて、でも芥川賞取ってるしなー、なんて思ってたんですよね。映画の方が実は見たい気持ちが高いです。どっちを先に、と思ってたけど、映画先に見ようかなーという気持ちがやっぱり強い。先生と反対で。
Commented by krmtdir90 at 2017-11-27 20:55
直木賞と違って、芥川賞の小説は何となくハードル高いよね。でも、これはけっこう楽しく読めると思います。
小説と映画、どちらを先にするかは自由ですが、これに関しては、たぶん小説→映画の方がいろんな発見があると思います。
もちろん、どちらが先でもいいんですよ(笑)。
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