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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「勝手にふるえてろ」

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 綿矢りさが史上最年少の19歳で芥川賞を受賞したのは2003年下半期だったようだが、その「蹴りたい背中」は読んだ記憶があるが、その後をずっと追いかけたい作家というふうにはならなかった。映画の原作になった「勝手にふるえてろ」という小説は2010年に出ていたらしいが、わたしはこれを読んでいない。

 新年になって最初に観た映画だったが、これが大当たりだった。
 この映画に溢れる小気味いいセリフやモノローグは恐らく原作にあったものだと思うが、一方で映画にしかできないような表現やアイディアも随所に見られて、これは脚本化の過程でかなり大胆なアレンジが行われたのだろうと推測された。監督・脚本は大九明子という(50歳近い)女性で、わたしは知らなかったが素晴らしい才能の持ち主だと感じた。
 この映画の魅力は、原作の面白さももちろんだが、大九明子という人の感性と演出力から生み出されたものが大きかったのではないかと思った。

 魅力的ということでは、主人公ヨシカを演じた松岡茉優も素晴らしかった。初めて見る女優だったが、眼や口許に自然に現れる表情の変化に惹きつけられた。
 24歳OLの尋常ではないひねくれぶり、こじらせぶりを実にキュートに小気味よく演じていた。言ってしまえば内閉した根暗な主人公なのだが、この主人公をこんなふうに愛すべき存在として造形できたことが、この映画の大きな成功要因になっていたと思う。ちょっと「スウィート17モンスター」のネイディーンを思い出したが、このヨシカの暴走ぶりは到底比べものにならないくらい楽しかった(魅力的だった)。
 この過激さはたぶん原作にもあったものと思われるが、松岡茉優(と大九明子監督)はそれを実に軽やかなタッチで具現化して見せていた。けっこう孤独で悩ましい状況が連続しているにもかかわらず、松岡茉優はそれを何ともあっけらかんと演じていて、大九明子監督はそれを深刻にならない温かい視線で見詰めていると思った。
 この主人公のあれこれに、密かに共感を覚える女性がかなりいるのではないかという気がした。

 中学時代からの片思いの相手「イチ」(北村匠海)と、いま彼女を好きと言ってくれる同じ会社で同期の「ニ」(渡辺大知)と、この2人の間で揺れている主人公・ヨシカ、というのがストーリーの骨子になっている。相手の男を「イチ」とか「ニ」とか呼ぶのは(「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」を思い出した)面白いが、そのことに特別な意味があるというわけではない。
 それより、そもそも卒業以来十年近くが経つ相手を忘れられず、一途に思い詰めて美化しているというのが尋常ではないし、ほとんど妄想に近い一方的な思い込みで右往左往していることの方が信じられない(面白い)。中学時代の彼らの姿が時々フラッシュバックするのだが(彼女はこれを召喚と呼んでいる)、いずれにせよこれはすべて彼女の脳内における出来事であって、様々に揺れ動く思いは基本的には閉塞したオタク的内向に過ぎないのである。
 本来は彼女の中で完結しているこれらの思いを、映画は彼女が通勤途中で出会う幾人かの(選ばれた)他人と会話させるという、思いがけないやり方で表に出していく。もともと彼女の内側にあった感情の起伏が外に出てくることになり、この一喜一憂が何とも面白く笑えるのである。

 ヨシカにとって「イチ」は徹頭徹尾美化された王子さまなのだが、現実の世界で彼女の前に現れた「ニ」はタイプでもないし王子さまでもない。それでも、これまで「脳内恋愛」に熱中して「現実恋愛」の経験はゼロだった彼女が、突然やって来たそれに「人生初、告られた~!」とはしゃぎ回るところが可笑しい。他人との会話で感情を出すという仕掛けが、彼女の有頂天を十分拡大して表に出してくれるのである。
 この仕掛けはまったく素晴らしいアイディアだったと思う。ヨシカの松岡茉優が、緩急自在のキレのいいセリフ回しで彼女の繊細な内面を表現している。
 そして、映画の後半になって、彼女が決定的なダメージを受け絶望の底に沈んでしまう段になって、自分は誰とも話しなんかしていなかったということが明かされることになる。これが何と、ミュージカルでもないのにヨシカが突然歌い出して明らかにするのである。これには驚いた。そして、なんてお洒落な展開を作るんだと舌を巻いた。

 これまで何度も(妄想の中で)会話してきた人たちと、彼女との実際の距離(実際は会話なんかしていなかったこと)が映像で示され、そこで彼女は歌いながら事実を明らかにしていくのである。このカットの重ね方が絶妙で、ダンスこそないものの、本格的なミュージカルシーンのように鮮やかに決まっていたと思う。歌われる歌詞も素晴らしかった。
 プログラムに歌詞が収録されているのだが、「この人の名前を私は知らない/だって私はこの人と話をしたことがないんだもの」と始まり、「そんな勇気ありません」とか「これ以上近づいたことだってない」といったフレーズの後で、「この距離が私と世の中の限界」と正直に告白するのである。実際の彼女は人一倍怖がりで、周囲の様々なものと自然な関係が作れなかったのだ。彼女が見せる反発や強がりは、周囲と折り合いがつけられない不器用な(弱い)自分を隠すための必死のガードだったということである。
 歌詞は「絶滅すべきでしょうか?」と何度か繰り返し、「ねえアンモナイト、生き抜く術を教えてよ/どんだけねじくれたら、生きやすくなるの」といったフレーズで終わっている。アンモナイトというのは、彼女の趣味が絶滅した動物をインターネットで調べることで(暗い)、大きなアンモナイトの化石を博物館から払い下げてもらって大切にしていることと結びついている。

 彼女は孤独には慣れているが、それで仕方がないと諦めているわけではない。こんな自分は絶滅すべきかもしれないと思う一方で、何とかそこから脱け出したいと願う気持ちも失ってはいない。
 ストーリーの紆余曲折についてはネタバレさせずに書くが、最後はまあ落ち着くところに落ち着くことになったと思う。そこに行き着くまでの暴走ぶりはなかなかのものだったが、最後まで「好きだ」と言い続けてくれた「ニ」と結びつくのは至極当然のことだったと思う。だが、映画はこれを何一つ解決はしていない(先が見えていない)状態のまま投げ出しているように見えた。「イチ」との夢は一応終わったが、彼女の性格やら生き方やらが簡単に変わるものとも思えないのである。
 「ニ」は優しい男だが、この先ずっとヨシカを大切にしてくれるかどうかは判らない。ヨシカがどう変わっていくかも見えないところで、ただ一歩前に踏み出したことだけは確かなことになっている。そのことが確認できればいいというのが、この映画の終わり方になっている。

 最後に彼女は、捨てゼリフのように「勝手にふるえてろ」と呟く。アッと思ったが、これはこれまでの自分に向かって投げられた別れの言葉なのだろう。この先どうなるかは判らないが、ラストシーンに一種の清々しさのようなものが漂ったのはこの言葉のせいである。
 小説ではこの言葉は別のところで別の相手に向かって発せられたようだが(どこかに書いてあった)、だとすると、これをこんなふうに変えた脚本と演出は大ヒットだったと思う。
 それにしても、最近はこうした一筋縄ではいかない厄介な主人公(女性)が登場してきていることが面白いと思った。男の目線では考えが及ばないようなところで、ようやく女性の感性が解放されてきたのだと思う。こういうのが出てくると男の一人としても楽しいし、いろいろ考えさせられるところもある。男にもヨシカと似たような傾向はあると思うが、男ではこんなふうなかたちでそれが出てくることがないように思えるのは、案外男の限界なのかもしれないなどと考えてしまった。
(新宿シネマカリテ、1月15日)
by krmtdir90 | 2018-01-17 20:25 | 本と映画 | Comments(0)
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