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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ゆれる人魚」

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 「変な映画だなあ」というのが最初の感想。何となく変な感じのするチラシに釣られて観に行ったのだが、実際に観たら「とてつもなく変な映画」だった。配給会社もこれをどう売っていいのか決めかねたようで、チラシ下段に「ポーランド発、きみょうきてれつまかふしぎな、ホラーファンタジー」とあるところに、その戸惑いが正直に出ているような気がした。配給側としてはとりあえず「ホラーファンタジー」という言葉に映画を集約したことになるが、すぐにそれではこぼれ落ちてしまうものが一杯あることが判るので、それを「きみょうきてれつまかふしぎ」という言葉で表したのだろう。その気持ち、とてもよく判る。
 この映画、原題はポーランド語で「Corki dancingu(ダンシングの娘たち)」というもので、一緒に付けられた英語題は「The Lure(誘惑)」となっている。「ダンシング」というのは、映画の主な舞台となったナイトクラブを指す言葉で、ポーランドがまだ共産主義陣営の一員だった1980年代に流行し、その後、資本主義に変わると急速に廃れてしまった一種のエンターテインメント施設だったようだ。映画に描かれたように、ライブ演奏とショーを楽しむステージにダンスホールの付いたレストランで、資本主義陣営の文化につながる夜の社交場といった存在だったらしい。
 いずれにせよ、配給会社はこの原題を生かしても何も伝わらないと考え、原題を離れて「ゆれる人魚」という(よく判らない)邦題を掲げたのだが、これは非常に的確な対応だったと思う。少なくとも「スリープレス・ナイト」の馬鹿げた対応とは正反対の、この映画と観客とを何とかつなぎたいという誠実な姿勢が見えて好感が持てる。何しろこんなヘンテコな映画はそうはないので、そこのところはこの邦題とチラシで十二分に伝わっていたと思う。

 映画というのは基本的に、リアルな映像表現を基盤とするしかないものだと思うが、人魚という空想上の産物を、こうした異様なリアリズムで造形することへの驚きがまずあった。
 この映画は、人間になりたいと願う人魚が人間の男(王子)に恋心を抱き、それを一途に貫いた結果海の泡となって消えてしまうという、アンデルセンの「人魚姫」を踏まえたストーリーになっている。世に流布している人魚のイメージは、ラブストーリーを際立たせるためにかなり擬人化され美化されたものになっていると思う。だが、ここに登場する人魚の姉妹はあくまで魚類であって、人間を餌として認識する肉食獣であることが基本の性格とされている。
 人間の姿になっている時でも、彼女たちは魚の生臭さを周囲に漂わせていて、そのことが始めの方で妙に強調されていたりする。彼女たちは水がかかると元の姿に戻ってしまうのだが、ここで現れるいかにも重量感のある長い尾ひれは、深緑色のぬめりのある鱗に覆われていて、この人魚が気持ち悪いほどに魚であることを感じさせるのである。一方で上半身は当然ながら若い娘のそれであって、これも当然のことながら乳房を普通に晒して平然としていたりする。人間の姿で現れた時も最初はオールヌードであって、彼女たちに服を着せることを考えるのは、彼女たちをダンシングにデビューさせようとする人間たちなのである。
 後半には彼女たちが実際に人間を喰うシーンなども出てくるから(当然、血まみれのシーンである)、人間の男(バンドマンの男だ)に対する恋はあっても、そこだけに特化した口当たりのいい展開にはまったくならないのである。この映画が描くのは人魚の恋と言うよりは、彼女らと人間との相容れない奇妙で気持ちの悪い関係なのだと思う。

 監督のアグニェシュカ・スモチンスカは1978年生まれの女性監督で、これが長編映画デビュー作だったようだが、何を考えてこんな奇妙な映画を作ったのか謎である。一つには、大人になる直前の思春期の少女が持っている感情のアンバランスや気味悪さといったものを、この人魚姉妹のあり方に仮託したのではないかという気がした。2人が乳房を露わにしていても不思議とエロチックな感じはしなかったし、ダンシングのショーでエロを売り物にしたようなダンスなどを見せても、どことなく青臭い未熟さが勝っていたように感じられたのである。
 大人の人間になり切れない少女の不安定な揺らぎを、この監督は何ともシュールな感性で現前させたように見えた。彼女たちを肉食の獣(魚類)と設定することで、大人以前の生理的な実感というのが思いがけないかたちで拡大されたのではなかろうか。彼女たちが見せる無防備な危うさといったものは、ベタといえばベタだけれど、初めて煙草を吸ったりお酒を飲んだりするシーンとか、また男を誘うシーンのぎこちなさなどに鮮明に表れていたように思う。それらは明らかに、大人になっていく少女たちが通る通過儀礼の一端を示している。
 陸に上がって、様々な打算や欲望がからみ合う大人たちの世界で生き始めた人魚の少女たちという設定は、最初は憧れであったとしても、海にいた頃の安定した少女時代を大きく歪めてしまうことになるのだろう。バンドマンに恋する姉のシルバー(マルタ・マズレク)のことを不安に感じながら、みずからは男を誘い出し餌にして(食べて)いく妹のゴールデン(ミハリーナ・オルシャンスカ)の蠱惑的な表情が怖い。それは、恋によって人間に絡め取られていくのか、人魚の本性によって人間と対峙していくのかという、非常に切実な分岐点を表しているのだろう。

 この映画にはもう一つ、きわめて思いがけない仕掛けが施されていた。それは、この映画が実に正統的なミュージカル映画としての側面を持っていたことである。ダンシングにおけるショーのシーンがたくさんあるから、そこでの歌やダンスが描かれるのは当然なのだが、ダンシングに入り込んだ2人が先輩歌手の女性に連れられて、大きなショッピングモール(80年代のシンボル的存在だった「セザム」という店らしい)に洋服や靴を買いに行くシーンが、「ラ・ラ・ランド」冒頭の高速道路のダンスに匹敵するような、大掛かりでパワフルな群舞によって構成されていたのである。
 これには唖然としてしまった。だが、そういえば最初に姉妹が海中から顔を出して、陸の人間に呼び掛けるところから歌は始まっていたのだ。しかも、この時の歌詞が「私たちを岸に上げて/怖がる必要はないわ/決してあなたを/食べたりなんかしない」という人を食ったもので、何だよこれはと思いながら、映画の変な世界に見事に導入されていたのである。
 音楽のことはわたしはよく判らないのだが、80年代のポーランドのダンシングで演奏されていた楽曲なども生かしながら、その時代のビートの効いた音楽を現代風にアレンジしたものなども交えて、ミュージカルとしても非常に聞きどころ・見どころの多い仕上がりになっていたということらしい。
 一方で、解釈に困るようなヘンテコなシーンなどもけっこう混ざっていて、死んだように見える人物たちを点滴で蘇生させるシーンの意味はまったく判らなかったし、シルバーの尾ひれを切断して別の人間の下半身と取り替える手術のシーンは笑ってしまった。こういうグロテスクなシーンが平然と入って来ることを始めとして、映画全体としてはまるでごった煮のようないろんな要素が渾然一体となって、危ういバランスを取りながら走り切ってしまう感じだったのである。

 この映画はジワジワとカルト的な人気が出そうな気がする。わたしが若い頃だったら、もしかするとサウンドトラックのCDを買ってしまったかもしれない。
 わたしのポーランド映画(監督)初体験は確かロマン・ポランスキー監督の「反撥」(1965年・映画としてはイギリス映画だが、ポランスキーが共産主義体制のポーランドを出て初めて撮った映画)だったと思うが、あれも思春期の少女(カトリーヌ・ドヌーブだ!)の不安定な心情と説明不能の狂気を描いていたと記憶する。いまにして思えば、あの映画も神経に来るような「変な」映画だった気がする(そんなに覚えているわけではないが)。これは、ポーランド映画特有と言っていいことなのかもしれない。何となくあの暗い感じが「ゆれる人魚」にも通底しているような気がした。
(新宿シネマカリテ、2月13日)
by krmtdir90 | 2018-02-14 21:27 | 本と映画 | Comments(0)
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