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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ラッキー」

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 年を取るということは、確実に死に近づいているということである。そのことが他人事ではなく、みずからのリアリティとして感じられる年齢になってしまった。先日、ある事情から車を買い換えなければならなくなってしまった時、果たしてあと何年運転できるのかと考えざるを得なかった。旅行を計画する時も、あと何回出掛けられるかと(金銭的なこともあるが、主に健康上の問題として)どうしても考えてしまう。
 この程度では、リアリティと言っても、いまのところはまだそれほど深刻なものではないとも言える。年を取れば誰もが必ず死ぬのだというリアリティは、まだ少し遠いところにあると言っていい。だが、実のところは、なるべくそれを考えないようにしているだけで、現実にはもういつそれがやって来てもおかしくない年齢に入ってしまっているのも事実である。

 ハリー・ディーン・スタントンは2017年9月15日に91歳で亡くなったのだという。この映画はその少し前に撮られた、彼の最後の主演作である。わたしは彼の代表作とされる「パリ、テキサス」(1984年、ヴィム・ヴェンダース監督)を確かに観ているが、もう昔のことなので内容はほとんど覚えていない。ただ、なぜかハリー・ディーン・スタントンという役者の印象はかなりはっきり残っていて、その彼がこんなに年老いた姿をスクリーンに晒しているのはかなり衝撃的だった。
 映画の脚本(ローガン・スパークス、ドラゴ・スモーニャ)は90歳のハリー・ディーン・スタントンに当て書きされたもので、監督(ジョン・キャロル・リンチ)も共演者もスタッフたちも、当然のように彼へのリスペクトに基づいてこの映画を製作している。映画そのものがハリー・ディーン・スタントンへのオマージュになっているから、映画の主人公ラッキーの生き方は、ほぼそのままハリー・ディーンの生き方とイコールであると考えていいようである。

 神など信じずにこれまで一人で生きてきた90歳のラッキーは、目の前にあるものしか信じない偏屈な現実主義者と設定されている。映画は、アメリカ西部の小さな田舎町に住むラッキーの日々の生活と、町の人々とのささやかな接触について描写していく。年を取った人間にとって、日々のどうということもないルーティーンが非常に重要なものとなっており、ラッキーはそれを毎日淡々とこなしていくのである。
 ある朝、そのルーティーンの途中で彼は倒れ、馴染みの医者に診てもらうが、高齢であること以外にこれといった原因は見つからない。だが、原因が判らないことが彼を不安にさせ、この出来事が彼に死というものを急にリアルに感じさせることになる。彼は言いようのない恐怖に襲われるが、一人で生きて来た彼はそれを周囲に気付かれないように振る舞うのである。
 映画は、死を目前にしたラッキーの心の揺らぎをさりげなく捉えていく。変わらないルーティーンと、少しだけ微妙に変化しているそれを丁寧に写し取っていく。

 この映画の中には、ラッキーのものなのかハリー・ディーンのものなのか定かではないが、様々な哲学的言辞のようなものが散りばめられている。プログラムの中にそれらが収録されているのだが、こんな感じである。
 「現実主義は物なんだとさ。《状況をありのまま受け入れる姿勢や行動と、ありのままの状況に対処する心構え》」。「人はみな生まれる時も、死ぬ時も一人だ。《独りalone》の語源は、《みんな一人all one》なんだ」。「《孤独》と《一人暮らし》は意味が違う」。「つまらん雑談なら、気まずい沈黙のほうがマシだ」。彼の言葉は多くの場面で周囲を戸惑わせるのだが、周囲はこの老人はそういうふうなのだと受け入れている。受け入れるだけでなく、そういう部分も丸ごと認めて愛してさえいるように見える。ラッキーは浮いているわけではなく、町の人々の中にしっかり根付いているのである。
 みずからの死の恐怖に直面しながら、ラッキーが最後に到達する境地は次のようなものである。少し長いが書き抜いておく。「俺は真実にこだわる。真実は実体のある物だ。真実は自分が何者で何をするかであり、それに向き合い、受け入れることだ。宇宙の真理が待っているから。俺たち全員にとっての真理だ。すべてはなくなるってこと。君もお前もあんたも俺も、タバコも何もかも、真っ暗な空(くう)へ。管理者などいない。そこにあるのは無(ウンガッツ)だけ。空(くう)だよ。無あるのみ」。ここで「無ならどうするのさ」と問われた彼は答える。「微笑むのさ」。

 神などに頼ることなく生きてきた者にとって、最後に死と向き合って「微笑む」というのは、みずから取り得る最も自然な態度であるに違いない。映画は、サボテンが林立する町外れの砂の道を、微かな微笑みを浮かべたあとで歩み去るラッキーの後ろ姿を見詰める。彼はまだ死んではいない。手前の地面を大きなリクガメがゆっくり横切って行く。
 リクガメは映画の冒頭にも出てきていて、映画の中ではデヴィッド・リンチが演じたラッキーの友人ハワードが、ルーズベルトと名付けて飼っていたものである。ルーズベルトはある日飼い主の元からいなくなり、ハワードは必死に捜し回ったが見つからず、次のような境地に達したとラッキーに語るのである。「執着を手放そうかと。ルーズベルトが脱走計画に費やした時間と、捜せないようにした手間を考えた。すると彼は去ったのではなく、大切な用事で出かけたと気づいた。これまで私が邪魔していたと。だから捜すのはやめた。縁があればまた会える。私はいつでも門を開けておくだけ」。
 会話の中でリクガメは100歳を超えて生きると紹介されている。ラッキーの孤高な生き方を象徴するものとして登場させられていたのかもしれない。ラッキーとはハリー・ディーン・スタントンのことである。

 印象的なシーンがたくさんあった。面白い映画だった。ハリー・ディーン・スタントンは何一つ演技していないように見えたが、そういえば彼はこれまでも、ただそこにいるだけで演技らしい演技はしていなかったのではないかと思い至った。
(新宿シネマカリテ、3月7日)
by krmtdir90 | 2018-04-09 10:27 | 本と映画 | Comments(0)
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