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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ラブレス」

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 アンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、海外の映画祭などで高い評価を得ているロシアの監督のようだが、何とも言いようのない冷え冷えとした映画なのに驚いた。現代のロシア(2012年秋~15年冬)を描いているのだが、この崩壊した家族には救いのかけらも見出すことができない。

 主人公の夫婦は現代ロシアにおいてはエリート層(富裕層)のようだが、2人の間にすでに愛はなく、いま離婚協議の真っ最中である。それぞれが外に愛人を作っていて、12歳の息子をどちらが養育するかを押しつけ合っている。自分のことしか考えていないこの夫婦、ジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)とボリス(アレクセイ・ロズィン)の現状を、ズビャギンツェフ監督は冷ややかな視線で凝視していく。技法的にはカメラをあまり動かさない長回しが多用され、観客としては感情移入しようのないこの夫婦の日常生活の断片や、情事の有り様などを長いこと見せられることになる。人によっては退屈してしまう人もいるのではないか。
 息子アレクセイ(マトヴェイ・ノヴィコフ)は、父母にとって自分が邪魔な存在になっていることを知っており、夫婦喧嘩の罵声を聞きながら涙を流したりする。彼は自身にはどうすることもできない被害者なのだが、映画は彼についてはあまり描こうとはせず、ほとんど点描する程度で彼に感情移入されるのを避けているように見えるのである。アレクセイは映画の中程で失踪し、後半は彼の捜索の様子が描かれていくのだが、彼は最後まで(彼としては)映画の中に現れることはなく、彼の視点は一貫してこの映画の中にはないのである。

 アレクセイは朝学校に行ったきり帰らなかったのだが、夫婦はそれぞれの愛人の元に泊まってその晩は帰らなかったため、2日続けて学校に来ていないという担任の連絡で初めてアレクセイの不在に気づく始末なのである。このあと、ジェーニャは警察に捜索願を出すのだが、ボリスの反応とともにこの2人が事態をどこまで深刻に考えているのかまったく不明である。また、捜索願を受けた警察の対応も驚きで、人手が足りないから民間の捜索救助ボランティアを頼ったらどうかと提案したりするのである。現代のロシアではこうしたボランティア団体が実際に活動しているらしいが、その献身的な捜索活動だけがこの映画の中の僅かな救いになっている。
 夫婦はボランティアのリーダー(コーディネーターと言うらしい)の指示で捜索に加わるのだが、こうした状況になってもどこか他人事のようで、口喧嘩も愛人との情事も自重するということにはならないのである。それどころか、妻の方は自分は結婚する気なんてなかったとか、子どもを産んだのは失敗だったとか、思い通りにならなかったことすべてを夫の責任にするような発言を繰り返す身勝手さなのである。
 一方で、無償の善意で行われるボランティア団体の組織的な捜索は非常に興味深いものだが、その必死の捜索によってもアレクセイを発見することはできない。手掛かりもなく捜索が行き詰まった時に、同じ年格好の少年の死体が発見されたという連絡があり、夫婦はコーディネーターとともに(妻の愛人も同道している)警察の死体置き場に検分に出向くことになる。

 このシーンは解釈の分かれるところなのかもしれない。シートを持ち上げて血だらけの無残な死体が一瞬だけ映されるが、ジェーニャは胸のほくろがないから息子ではないと否定するのである。意外な表情のコーディネーターは念のためDNA鑑定を勧めるが、ボリスも加わって2人はそれを拒絶する。わたしは死体はアレクセイだったと受け取ったのだが、ズビャギンツェフ監督はここのところを明確には描いていないのである。
 わたしが上のように考えた理由は幾つかあるのだが、一瞬映された死体の上半身は血だらけで損傷もあるようだったので、ほくろの判別はかなり難しかったのではないかということ。コーディネーターがDNA鑑定を提案したのも恐らくそういう理由があったと思われること。また、彼は経験上こうした場合に、受け入れたくない現実に対して思わず否定してしまうことが時にあるのだと発言していること。そして、何より大きいのは、外に出てしまったジェーニャは愛人の胸で、中に留まったボリスは床に蹲るようにして、ともにほとばしるような激しい慟哭を見せることである。死体の状況がどんなに目を覆うようなものであったとしても、自分の息子でなかったとしたらこの慟哭は説明がつかないくらいのものだったと思うのである。
 このシーンはこれで終わり、映画はこのあと、彼らのアパートのがらんとしたアレクセイの部屋になり、職人が入って壁紙を剥がしたりし始めるのところを映し出すのである。これがあの日から何日後のことなのかは判らない。何がどんなふうになったのかは描かれることはなく、しかし、事件が決着したことだけは確かに示されているのである。

 この部分の経緯を描かないことで、ズビャギンツェフ監督は実に多くのことを語っていると思う。語っていると言うより、想像させていると言った方がいいかもしれない。しかもこのあと、さらに3年以上の時間を省略して、夫婦のその後を短く描写するのである。その描き方はこれまで以上に冷ややかで、具体的には書かないが、それぞれの愛人と一緒になった彼らが、表面上の平穏さとは裏腹に、いままで以上の空しさを抱えながら過ごしていることが冷酷に示されているのである。
 彼らが息子アレクセイの死をどのように受け止め、どのように後始末をして離婚後の生活に入って行ったのかといったことは、この映画では一切描かれないままで終わる。ズビャギンツェフ監督は最初の段階から、この夫婦のことを一貫して突き放しているのであり、自分のことにしか関心がないこうした生き方が蔓延している現代の病理を、丸ごと提示することに意味があると考えていたのだと思われる。アレクセイは彼らの身勝手の犠牲になったのだが、そのことをいくら言ったとしても、この2人のような人間には響かないことが判っているということなのだろう。自分を省みない人間にとっては、どのような罪の意識も生まれようがないからである。
(新宿バルト9、4月12日)
by krmtdir90 | 2018-04-14 13:38 | 本と映画 | Comments(0)
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