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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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映画「泳ぎすぎた夜」

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 これもまた、あまり感想の書きやすい映画とは言えない。五十嵐耕平とダミアン・マニヴェルという、新鋭と言っていい日本とフランスの若手監督が、日本の弘前市を舞台にして撮った共同監督作品だという。上映時間はたった79分、最近ではほとんど見かけない、正方形に近いように見えてしまうスタンダードサイズが妙に新鮮な小品である。
 この映画はドキュメンタリーではないが、ドキュメンタリーに非常に近い撮影手法が採られていたようだ。五十嵐監督はインタビューの中で「そもそも僕たちがつくっている映画は、自分たちのイメージを誰かを使って実現する、というものではありません」と述べている。

 この映画は、主人公の少年・古川鳳羅(こがわたから)くん(撮影時には6歳だったらしい)の、ある冬の一日の「小さな冒険」を描いている。一応ストーリーの骨組みのようなものはあったが、この少年の持っている感性や気分に沿って、演技ではないありのままの表情や動きを生かすことに最大限の配慮をしたということらしい。映画の中の少年は二人の監督によって作り出されたものだが、それは古川鳳羅くんという実在の少年の心と身体の自由を通じて実現されたものなのだ。そこには演じさせようというベクトルはまったく働いていない。
 映画の中に出てくるお父さんやお母さん、そしてお姉ちゃんなどは、いずれも鳳羅くんの実際の家族がそのまま出演していて、お父さんが弘前の水産卸売市場で働いているというのも本当のことなのだという。家族が住んでいる家は実際の家ではなかったようだが(スタッフの一人の実家を使ったらしい)、お父さんがみんな寝ている真夜中に仕事に出て行くというのは事実であり、映画の少年が父の働く卸売市場を探して歩き回るという設定は、撮影の過程で現場で組み立てられていったストーリーだったようだ。

 映画は雪の降る深夜に、いつも通りお父さんがひっそりと仕事に出て行く場面から始まり、その日たまたまそれに気付いてしまって、そのまま眠れなくなってしまった少年の様子を捉えていく。長い時間の経過があって、ようやく朝が来て、眠い目をこすりながらお姉ちゃんに遅れて学校に向かう少年の後について、カメラは屋外に出て行く。そして、少年は学校のすぐ近くまで行くのだが、何を思ったのか急に方向を変えて学校を後にしてしまうのである。
 少年は眠れなくなってしまった時間の中で一枚の絵を描いていて、重そうに背負った鞄(簡易なランドセル?)の中にそれを入れていた。どうやら、その絵を市場で働いているお父さんに見せに行こうとしているらしいということが次第に判ってくる。だが、それは説明的なショットやセリフで明らかにされるわけではない。それ以前に、この映画は音楽や音は入っているものの、セリフは一切喋らないという制約を課して作られているようなのだ。後半になるに従って、さすがにやや不自然に感じられる場面も出てくるのだが、きわめて意図的に選び取られたこの野心的な方法で、二人の映画監督が描きたいと考えたものがあるというのは確かなことなのだ。
 少年は何を感じ何を考えているのか、説明や解釈などは一切行われない。だから、観客は彼の外面を見ながらあれこれ想像する以外にない。6歳の子どもなのだから、実際にはきわめて即物的な感情が並んでいただけなのかもしれない。だが、彼を動かしている説明のつかないエネルギーのようなものは、確かにその場その場で感じ取れるような気がした。何かが起こるわけでもないのだが、それを見ているのが何とも言えず楽しいことのように感じられた。あれこれ意味付けられない、漠然とした動物的な欲求によって少年は動いていたのかもしれない。映画は、何とも説明し難い、行き当たりばったりのように見える少年の行動を淡々と追っていく。

 少年は小さな無人駅から電車に乗るのだが、それがわたしも乗りに行ったことがある弘南鉄道大鰐線で、終点の中央弘前駅が出てきた時は嬉しかった。前夜ほとんど眠っていない少年は、この電車の中や無人駅の待合所など、いろいろなところでついウトウトしてしまうのだが、この「冒険」の間中、彼はずっと夢と現(うつつ)の間にいたようにも見えるのである。これはもしかすると、二人の監督が仕掛けた巧妙な伏線だったのかもしれない。
 この後の展開はちょっと思いがけないものである。
 少年が卸売市場に着いた時には取引などはすでにすっかり終了していて、あたりには人影もなく、彼はお父さんに会うことはできなかったのである。折から激しい雪が降り始め、歩き回って帰り方も判らなくなってしまった彼は、仕方なく近くの駐車場に並んだ車の中からたまたまロックされていない一台を見つけて、その中に入ってすっかり眠りこけてしまうのである。
 やがて雪が止み、車の持ち主が現れて、運転を始めてしばらくしてから後部座席で眠っている少年を発見する。どうやっても少年が目を覚まさないので、この人は(たぶん鞄か何かに書いてあった番号に)電話をかけて家を確かめ、家まで送り届けてくれることになる。だが、この間もずっと少年は眠ったままなのである。不思議なことに、家に帰っても、部屋の布団に寝かされても、まったく目を覚ますことはないのである。

 実際にそんなことはないだろうと、リアリティの問題を持ち出すつもりはない。セリフを使わずにこの経過を描くのも苦しいが、そのあたりもこの監督たちは判っていなかったはずはない。この最後のところで見えてくる不自然さはたぶん意図的なものであって、「目が冴えて眠れなくなってしまった時間→起きているけれど眠くて仕方がない時間→眠ってしまったまままったく気付くことのない時間」という構造は、明らかに作為的なものがあることを感じさせている。これは、少年の中のかたちにならない何かを炙り出す仕掛けになっているように思われた。
 この映画の中で、少年の上に流れていた時間は二人の監督によって作られたものである。それは、少年とはまったく異なる時間で生活している父親の時間と、もしかすると響き合いたいと願う少年の心に関係していたのかもしれない。少年が行方不明になったことに対する家族の心配などは、この映画では一切触れられることがない。少年はもう、前夜は眠ることができなかった自分の布団の中で安堵したように眠り込んでいるのである。そして、その日の深夜、仕事に行く前の短い時間に、この日の父親は息子の部屋に入り、眠っている少年の頭をちょっとだけ撫でてから出掛けて行く。
 昼間、少年が眠さを我慢して歩き回っていた時間は、卸売市場にいる父親とつながりを作ろうとする時間だったのは明らかなのである。そこに父親の姿はなかったが、出掛けの父親はこうしてちゃんと彼のところに来てくれたのだ。この映画が少年と父親のつながりに関する映画だったということは、明確に示されていたと言っていいのだろう。
(渋谷イメージフォーラム、5月2日)
by krmtdir90 | 2018-05-04 17:51 | 本と映画 | Comments(0)
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