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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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映画「ラジオ・コバニ」

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 コバニというのは、トルコとの国境に近いシリア北部にある町の名前である。このあたりは住民の大半をクルド人が占めていて、IS(イスラム国)の脅威にさらされる以前に、シリア政府とクルド人勢力との対立が、隣国トルコも巻き込んで複雑に絡み合っていた地域だったようだ。ウィキペディアによれば、クルド人というのは独自の国家を持たない世界最大の民族であって、自治権の拡大や独立を求めて、反政府的立場を鮮明にしているところも多いのだという。
 コバニにISが入って来たのは2014年9月だが、その2年ほど前に政府軍は撤退して(この地域を放棄して)いて、コバニは実質的にはクルド民主統一党(PYD)の軍事部門であるクルド人民防衛隊(YPG)という組織の支配下にあった。そのため、コバニでISの侵入と戦ったのは、YPGおよびその姉妹組織のクルド女性防衛隊(YPJ)のメンバーだったようだ。ISに比べて戦力的にはまったく劣っていた彼らは、一時は陥落寸前まで押し込まれてしまうのだが、その後アメリカを中心とする有志国軍の空爆が開始されてから徐々に押し戻し、2015年1月にコバニからISを完全に追い出すことに成功した。
 このあたりの経過は調べても理解するのがなかなか難しいのだが、戦闘の激化を避けて市民の多くがトルコなどに逃れ、一方で、少なからぬ数の市民がYPGやYPJとともにISと戦うことを選んだようだ。逃げるか戦うか、多くの市民がこの厳しい二者択一に直面させられたのだ。この戦闘によって多くの犠牲者が出ると同時に、町は見る影もなく破壊されてしまった。この映画は、あたり一面が瓦礫と化してしまった町に戻り、友人と小さなラジオ局を立ち上げて、「おはようコバニ」という手作りの番組を放送し続けた、ディロバン・キコという20歳の女子大生を追っている。

 監督のラベー・ドスキーはイラク出身のクルド人で、オランダを拠点に活動している人らしい。撮影のため初めてコバニに入ったのは2014年12月だったというが、この時偶然ラジオから流れていた「おはようコバニ」の放送を聞いて、コバニの復興と並走しながらこの放送の主を追うことを決意したようだ。映画は69分という短いものだったが、非常に印象的なシーンが連続し、片時も目を離すことができなかった。
 2014年12月といえば、コバニにはまだISの勢力がかなり残っていた時期で、YPG・YPJがISと激しい銃撃戦を行う様子なども映画の中には収められている。彼らの上部組織のPYDはあらゆる面での平等主義を貫いているようで、戦闘員の中に当然のように女性の姿が混じっているのが驚きだった。また、捕虜になったIS戦闘員に対する尋問のシーンもあって、この男が自分のした残虐行為を棚に上げてあれこれ言い訳をし、家族に会いたいなどと勝手な言葉を並べるところも捉えている。貧しさからISに身を投じたというのは事実だろうが、だからといってみずからの選択を正当化することは許されるものではない。
 コバニのISが一掃され、復興に向かう最初の段階で、映画は瓦礫の中に埋まった死体を重機で片付けるシーンをかなり長い時間にわたって映し出している。死体はいくらでもある感じで、どれも損傷が激しく、そのほとんどが頭部と身体が別々に掘り出されるのである。説明などはないが、恐らくISによって斬首された市民の遺体だったのだろう。映画では腐臭は伝わらないが、すぐ近くでこの様子を見ている子どもの姿なども捉えられている。この町が直面した不条理な死というのは容易に片付けられるものではないが、復興はその死を一つ一つ掘り起こし、確かめていくことからしか始まらないのだということがいやでも理解される。

 映画は基本的に「おはようコバニ」の放送とともに、コバニの町の復興の様子をなるべく多く取り上げようとしている。だが、彼らが受けた傷は大きく、それらが至るところに現れてきてしまうのをどうすることもできない。戦火を逃れてトルコに行っていた市民が、国境の検問所からコバニに戻って来るシーンは異様なものだった。出迎える側にも戻って来る側にも、笑顔や涙などの感情がまったく見られないのである。誰もが一様に口をつぐみ、疲れ切ったような曖昧な表情を浮かべているのが強く印象に残った。
 「おはようコバニ」でディロバン・キコが行った多くのインタビューも記録されているが、この映画が何より素晴らしかったのは、「未来のわが子へ」という彼女が書いた手紙(詩)が、彼女自身の声で要所にナレーションされることだった。「あなたはまだいない。でも、あなたのために語りましょう。ラジオ・コバニの話を、いつか生まれる子に伝えたい」。ラベー・ドスキー監督からこのアイディアについて依頼を受けた時、彼女は戸惑い躊躇したようだが、彼女たちがやってきたラジオ放送(そして、この映画)が次世代に向けての貴重なメッセージなのだということを理解して、短い言葉ながら非常に率直にみずからの体験と思いを綴っている(この全文がプログラムに収録されている。プログラムは400円と安かったが、内容は非常に充実していたと思う)。
 この映画は一応ドキュメンタリーということになっているが、この手紙を映像とともに伝えるという骨子が設定されたことにより、撮影などで作為的な構成を選んだ部分もあったようだ。彼女を撮った部分にはかなり演出が入っているように見えたが、それがこの映画のドキュメンタリー性を少しも損なってはいないと感じた。現実をそのまま切り取ったシーンとバランス良く配置されることで、むしろ全体としては、彼女と監督の思いが非常にストレートに響いてくるような構成になっていたと思う。

 「わが子へ」の手紙の中には、ISとの戦争で彼女の家族がバラバラになってしまったことなども書かれている。彼女は「戦争に勝者などいません。どちらも敗者です」と書く。また、「コバニに入る時は思い出して。この地は私の友達の血で覆われています」と続ける。彼女の大切な幼なじみがISによって斬首され晒されたことを語る。「あの日、私の感情は死にました。あの子の笑顔や瞳、きれいな髪、2人で話したこと。シーリーン(幼なじみの名前)と私は約束していました。街が解放されたら、公園で男の子に声をかけようと」。
 人々が受けた心の傷の深さは、人々一人一人の数だけ積み重なっているのだ。そこにはさらに、無残なかたちで生を断ち切られてしまった一人一人の思いが結びついている。映画は、瓦礫の町に彼女のラジオ放送が流れ、人々が少しずつ生活を取り戻していく様を記録していく。「閉めていた店をまた開いた女性がいました。戦士だった鍛冶屋がまた鉄を打っています」「同志のアリはまた歩けるようになりました。子供たちは外に出て、伸び伸びと遊んでいます」。
 映画は最後に、ディロバン・キコの結婚式の様子を映し出す。ささやかな式だったが、白いウェディングドレスで周囲から祝福を受ける彼女の姿に、ラベー・ドスキー監督はこの町とクルド人の未来を託していたのだろう。あまりにベタ過ぎないかなどと言ってはならない。彼女の手紙は最後に次の言葉で閉じられる。「わが子へ。あなたが喜びと共に生まれ、幸せに生きられますように」。こうした言葉に対して、率直な共感だけが溢れてくるような映画だったと思う。

 ディロバン・キコの結婚式のシーンでは、彼女からDJを引き継いだ新しい女の子が「おはようコバニ」の放送を続けている。プログラムには、結婚後のディロバン・キコがラジオから手を引き、現在はコバニの小学校で教師として子どもたちを教えているということが書かれていた。教師になるのが以前からの夢だったのだという。
 一方で、コバニの復興が思うように進んでいない現状についてもプログラムは明らかにしている。クルド人問題が影響してトルコとの国境は封鎖されたままで、シリア政府からも復興支援の動きは非常に鈍いままなのだという。シリアで生きること、クルド人として生きることの、二つの困難を痛切に感じさせられる映画だった。
(アップリンク渋谷、5月17日) 
by krmtdir90 | 2018-05-19 14:03 | 本と映画 | Comments(0)
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