18→81


主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング

映画「童年往事/時の流れ」

e0320083_21484443.jpg
 この映画が製作されたのは1985年である(日本公開は1988年)。ホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督の(このあたりの)作品を年代順に並べると、「冬冬の夏休み」(1984年)→「童年往事/時の流れ」(1985年)→「恋恋風塵」(1987年)→「悲情城市」(1989年)という順になる。台湾で38年にわたる戒厳令が解除されたのは1987年7月で、この映画はその2年前の戒厳令下で製作されたことになる。この映画を見て、去年から見てきた台湾映画の様々なピースがきれいにつながったように感じた。
 ホウ・シャオシェン監督は戒厳令解除から2年後に、市民の逮捕・投獄が横行した白色テロの時代を初めて正面から描いた「悲情城市」を作ったが、この「童年往事」が描くのはまさにその時代を生きた家族の物語である。もちろん、まだ表現の自由のない戒厳令下で作られた映画だから、当局に睨まれるような危ない表現は注意深く避けられてはいる。だが、当時の台湾のことをある程度理解した現在から見ると、監督がこの時点でこの映画に込めたギリギリの思いといったものが確かに感じ取れるような気がした。
 たとえば、比較的前半あたりで、深夜、屋外の道路を非常に重量のある何かが通り過ぎるような音がしばらく続くシーンがあった。蚊帳の中で眠っていた家族のうち、父親だけが一人起き出してガラス戸の外の音のする暗闇をじっと見ているのである。翌日になって、舗装されていない表の道路に、戦車のキャタピラーと思われる轍の跡が残されているのを、画面はさりげなく映し出す。それは、表面上この物語のどことも直接結びつくものではないが、そういう要素を意図的に排除してこの映画を物語るしかなかったということを、逆にくっきり浮かび上がらせていたように感じた。

 この映画は、ホウ・シャオシェン監督の家族の物語である。映画の主人公は阿孝と言い、祖母が彼のことをいつもそう呼んでいたことから、家族からはアハと呼ばれている。もちろん、これはホウ・シャオシェン監督自身を指している。
 ホウ・シャオシェンは1947年に中国の広東省梅県区というところで生まれ、間もなく家族で台湾に移住したのだという。公務員(広東省の教育課長)だった父が台北で公務員の職を得ることができたことで移住を決意したようだ。もちろん背景にあったのは中国大陸における国共内戦(国民党と共産党の内戦)で、彼らは敗走する国民党政府とともに台湾に入って来た外省人だったのである。しばらくして、父親は身体を壊して職を辞すことになり、家族は父親の転地療養のため南部の鳳山というところに移って生活を始めたらしい。映画はこのあたりから始まっている。
 アハ(阿孝)は小学校高学年くらいと思われるが、村の子供たちの中ではかなりガキ大将的な位置にいるようだ。映画はこのアハを中心に、家族の何でもない日常を丁寧に描き出していく。時に吐血するようになってしまった父親は一日中家にいて、看病と家事をひたすらこなす母親を、一番年上と思われる長女が手助けをしている。男の兄弟は4人で、アハは次男のようだ。もう一人、認知症の兆候が出始めた祖母がいるのだが、彼女は孫たちの中でアハのことをとりわけ可愛がっている。
 ある時、アハを連れて外出した祖母は、村の茶店でかき氷を食べながら、何とか言う橋の名前を出してその行き方を村人に尋ねるのである。それは広東省の故郷にあった橋の名で、村人は答えることができない。彼女は「大陸に帰りたい」と口にすることもあるのだが、故郷の記憶のないアハには理解することができない。映画は父親や母親の思いについては触れていないが、強弱はあるにせよ、彼らが大陸反攻と帰郷への思いを抱き続けていたことは容易に想像されるのである。

 だが、アハことホウ・シャオシェンの世代にとっては、みずからの出自が外省人であったとしても、台湾こそが故郷であり祖国だったのだ。ホウ・シャオシェン監督が戒厳令下にあった台湾で、おのれの家族の歴史を確認するためにこの映画を作り、戒厳令が解かれた直後に「悲情城市」という映画を撮ったのはそういうことだったはずである。同じ1947年生まれだったエドワード・ヤン(楊徳昌)が、まさに戒厳令下の台北で「台北ストーリー」(1985年)と「恐怖分子」(1986年)を撮り、戒厳令解除から4年後に、戒厳令下の1961年に起こった「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)を作ったのもそういうことなのだろう。
 日本では「童年往事」より「悲情城市」の方が高く評価されたようだが(キネマ旬報ベストテンで「悲情城市」は1990年度第1位、「童年往事」は1989年度第10位)、最近相次いでこの2作を見たわたしとしては、「童年往事」の方が圧倒的に素晴らしい映画だと思った。すべては1985年のこの映画から始まったのだ。「牯嶺街」のエドワード・ヤンがこの映画から受けた影響は、想像以上に大きなものがあったのではないだろうか。高校生になったアハを描く後半部で、グループ同士が喧嘩に明け暮れるシーンなどでより強くそのことを感じた。1950~60年代を描いたこの2本の映画が、台湾新世代(ニューウェーブ)の出発点だったのだ。

 ホウ・シャオシェン監督の父親は1959年に亡くなったらしい。12歳の時だ。アハの父親の死は映画の中でかなり克明に描かれている。これは子どもたちにとって初めて経験する肉親の死で、それだけ記憶に鮮明に残ったということなのだろう。この場で、我を失ったかのように激しく取り乱し慟哭する母親の姿が印象的だった。映画にはまったく出て来なかったが、彼らは大陸の広東省で結婚して2人の新生活をスタートさせたのである。彼らはは一言も言わなかったが、彼らにとってこの台湾の田舎は最後まで異郷のままだったのかもしれない。
 映画はこのあと高校生になったアハを描くが、性への目覚めや、先に書いた喧嘩に鬱々としたエネルギーを発散したりする日々を点描していく。家族は、長女が結婚して家を出て行き、母親は咽頭癌で闘病の末に亡くなってしまう。ホウ・シャオシェン監督の母親が亡くなったのは1965年だったようだが、これ以後アハの家族は、すっかり老いてしまった祖母と男兄弟4人の生活となるが、その祖母も間もなく老衰でひっそりと亡くなっていく。その死に兄弟は誰も気付かず数日が経過し、その状況を見た葬儀屋に非難の眼差しを向けられたというアハの記憶が語られている。そして、祖母の遺体を見詰める4人の兄弟の姿に、祖母が帰りたがっていた大陸への道はどこにあったのだろうというアハの声が重なって映画は終わりになる。
 それはホウ・シャオシェン監督の記憶の底にずっと引っ掛かり続けていたことなのだろう。彼やエドワード・ヤンの中に中国大陸の記憶はない。だが、それをずっと引き摺ったまま継続された戒厳令の下で彼らは成長し、いま映画という表現手段を手に入れたのだ。この映画の英語題が「The Time to Live and the Time to Die」とつけられているのは象徴的である。彼らは「The Time to Live」を生き始めていたのだろう。エドワード・ヤン監督の「牯嶺街少年殺人事件」は、ホウ・シャオシェン監督のメッセージに対する彼からの精一杯の回答だったに違いない。
(新宿K's cinema、6月2日)
by krmtdir90 | 2018-06-04 21:49 | 本と映画 | Comments(0)
<< 映画「早春」 映画「ゲティ家の身代金」 >>


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
ブログジャンル