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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「レディ・バード」

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 主人公(シアーシャ・ローナン)の名前はクリスティーンなのだが、彼女はなぜかそう呼ばれるたびに不機嫌な顔をする。彼女は自分を“レディ・バード”と名付けていて、周囲にもそう呼ぶように要求している。なぜそんなことをしているのか説明はないが、この点は明らかにこのストーリーの鍵になっている。映画の最後で、彼女が念願叶って故郷のサクラメントを後にした時、彼女は“レディ・バード”という名前にも別れを告げてクリスティーンに戻るのである。
 ここには彼女の夢の実現とともに、ずっと気持ちが行き違っていた母親との和解も関係している。この映画は“レディ・バード”クリスティーンの高校生活最後の一年間を描いているが、同時に母親との葛藤を中心とした家族の一年間も描いている。17歳の彼女は特に美人というわけでもなく、学校でも家庭でも、思い通りにならない様々な問題を抱えて生活している。“レディ・バード”と名乗ることは、自分がまだ何者にもなり得ていないことを意識し、あるべき自分の姿との乖離に悩む彼女の逃げ道(ある種のこだわり)だったのだろうか。

 映画の冒頭、彼女は、一緒に近隣の大学を見学に行って来たらしい母親(ローリー・メトカーフ)と車の中で口論になり、走行中の助手席のドアから飛び降りるという離れ業を演じてみせる。このため映画の前半では、彼女は右腕に鮮やかなピンクのギブスをして登場してくることになる。ギブスをピンクに塗ってしまったことも併せて、彼女の中の思い通りにならない苛立ちが、こうしたちょっと突飛で投げ遣りな行動につながっているように思われる。
 サクラメントはサンフランシスコから140キロほど内陸にある地方都市のようだが、彼女にはまったく面白みに欠けた田舎としか感じられず、卒業後はここを出て東部の大学に進学することを夢見ている。地元の大学に行って欲しい母親との、ここが最大の対立点なのだが、“レディ・バード”の成績はとても東部に出て行けるようなものではないのである。彼女は対立を残したまま密かに幾つかの大学に出願し、補欠というかたちながら何とか一校に引っ掛かる。この映画は時代背景を2002年と設定しているが、前年に起こった「9.11」の影響で、「東部の大学の倍率が下がったから」というようなセリフがどこかにあったと思う。

 グレタ・ガーウィグ監督はインタビューの中で、時代を2002年としたのは「スマートフォンを映すのに興味がなかった」からだと述べている。これは絶妙な意見だと思うが、映画の中で“レディ・バード”が恋をする2人の男子の最初の方が、実はゲイだったというエピソードにもこの時代背景は関係している。LGBTに対する認識がいまよりはるかに低かった時点を描きながら、ガーウィグ監督はこのダニーという少年(ルーカス・ヘッジズ)を実に公正な目で見ようとしている。
 彼の家は「上流」に属していて、「中の下」ぐらいの“レディ・バード”にとっては「背伸びした」恋だったことも忘れてはならない。背伸びは彼女の特徴だが、ガーウィグ監督はこのダニーを、そんなことをまったく気にしない誠実な少年として描いている。ゲイが露呈したあと、彼が彼女のバイト先にやって来て、裏口で彼女に自分の気持ちを率直に話すシーンは良かった。それを聞いて、彼を思わず抱きしめてしまう“レディ・バード”もすごく良かった。もちろん彼らは別れてしまうのだが、ティーンエイジャーの恋を描く時、凡百の監督なら彼がゲイであると判った時点で笑い話にして切り捨てていたのではないだろうか。ガーウィグ監督の視線は淡々としているが、脇役に対しても実に公平で暖かいのである。

 “レディ・バード”が初めてセックスする相手カイル(ティモシー・シャラメ)が、童貞ではなく何人もの相手と経験していたことを彼女が知るシーンでもそれが感じられる。ガーウィグ監督はこれが喜劇的に流れてしまうことを注意深く避けている。“レディ・バード”の恋愛の現実も、まったく彼女が夢見たようなものにはならなかったのだが、それはそれ以上のものでもそれ以下のものでもなく、彼女はそれをそのままのかたちで受け入れるしかないのである。そのことをガーウィグ監督は実に静かな感覚で(セリフはきついことを言ったりするが)、優しく描き出していると感じた。
 “レディ・バード”はこうした経過の中で、一時疎遠になってしまっていた親友のジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)を、高校最後の晩のプロムの相手に決めて誘いに行く。この2人の女の子のシーンが、何ということもないのだがとても良かった。ここに至るまで積み重ねられてきた、高校時代の彼らのすべてがここには詰まっているのだろう。ガーウィグ監督はどうということもない様々なディテールを実に丁寧に描いていて、そのことが映画の最後になるほど、繊細に浮かび上がってくるのだと思った。監督はこの映画に自伝的要素はないと語っているようだが、1983年にサクラメントに生まれ育ったという彼女の若いころの感覚が、この映画にはあちこち散りばめられているのだろうと感じた。

 母親と最後まで気持ちが通じないまま家を出た“レディ・バード”が、父親が荷物に忍ばせてくれた母親の手紙(ゴミ箱に捨ててあったのを父親が拾ってくれた)を読んで、初めて彼女が(“レディ・バード”ではなく)クリスティーンの名前で手紙を書き送る。その中に、安易な和解の言葉ではなく、離れてみてサクラメントの素晴らしさに初めて気が付いたと書いたところに、ガーウィグ監督の控え目だけれど熱い気持ちが込められているように感じて心に響いた。主人公の脱皮という意味で、彼女は確かに一つの階段を上がったのだなと納得させられた。
 同じ「ハイスクールもの」ということで、ちょっと「スウィート17モンスター」(ケリー・フレモン・クレイグ監督)のネイディーンを思い出したが、「スウィート…」の若干コメディタッチの味付けよりも、こちらの自然なユーモアの方が好感度は高いと感じた。ネイディーンはネイディーンで十分印象的なキャラクターだったが、キャラクターをあまり立たせていないぶん、クリスティーンの中にある説明できないモヤモヤした感じが浮かび上がってきて良かったと思った。
(立川シネマシティ2、6月12日)
by krmtdir90 | 2018-06-14 23:59 | 本と映画 | Comments(0)
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