18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング

映画「女と男の観覧車」

e0320083_2202864.jpg
 プログラムにケラリーノ・サンドロヴィッチがレヴューを書いていて、その中にテネシー・ウィリアムズの名前が出てきてハッとした。ケラはウディ・アレンが最近、技法面で演劇的な表現に急接近していると指摘しているのだが、それは若き日のウディ・アレンが劇作家に憧れていて、多くの戯曲から影響を受けていたと告白した過去について述べていた。その中に幾人かの劇作家の名前が出てきていて、それを読んだ時、「この映画はテネシー・ウィリアムズなんだ!」と急に目の前が開けたような気がしたのである。この映画の主人公ジニーは、テネシー・ウィリアムズの戯曲に出てきた女性たちに非常によく似ていると気付かされたのだ。
 遙か昔に読んだ戯曲を引っ張り出して、対比してみようという気分にまではなれなかったが、若き日の夢に破れ、こんなはずではなかったと満たされない思いで日々を送る、もう後戻りはできない40歳の中年女性という設定もそうだし、映画の進行とともに彼女が精神的に追い詰められていき、その生活のバランスがどんどん崩れていく様などに、明らかにテネシー・ウィリアムズとの類似性が見て取れると思った。このジニーを演じたのが「タイタニック」(1997年)のヒロインだったケイト・ウィンスレットで、40歳を過ぎてすっかり風格の出てきた彼女の演技は、テネシー・ウィリアムズ的な役どころを見事にやり切っていて見応えがあった。
 監督のウディ・アレンはこの撮影時には82歳、前作「カフェ・ソサエティ」とはガラリと雰囲気を変えた映画を、これもまた全編ウディ・アレン以外ではあり得ないやり方で作っていたところが見事だった。テネシー・ウィリアムズはこの映画を読み解く時のキーワードだと思うが、映画そのものは徹頭徹尾ウディ・アレンのものになっているのが凄いことだと思った。

 舞台は1950年代のコニーアイランド。ニューヨーク、ブルックリン区の南端に位置する、ビーチと遊園地で知られた近郊の小さなリゾート地のようだ。原題の「Wonder Wheel」はここに昔からあるランドマーク的な観覧車の名前で、すぐ窓の外にこれが見えている窓の大きな部屋にジニーが住んでいる。ジニーは遊園地のレストランでウエイトレスをしていて、夫のハンプティ(ジム・ベルーシ)は回転木馬の操縦係をしている。コニーアイランドは全盛期より少し寂れかけているように見えて、そんな雰囲気の中に、主な人物を順を追って登場させてくる導入部の作り方のスマートさに目を奪われた。この、一気に物語の中に引き込んでいく鮮やかな手口というものは、年輪を重ねたウディ・アレンの独壇場と言っていいように思った。
 ジニーとハンプティの夫婦は再婚で、ジニーの連れ子のリッチーという男の子が一緒に住んでいる。この子は火に異常な興味を示していて、あちこちでボヤ騒ぎを起こしては夫婦の悩みの種になっている。ここに、ハンプティの娘で、5年もの間音信不通になっていたキャロライナ(ジュノー・テンプル)が突然やって来るところから、物語は始まっている。映画の語り手を務めるのは、ビーチで夏の間だけ監視員のバイトをしているミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)という青年(大学生)で、脚本家志望の彼とジニーとが道ならぬ恋に落ちているという設定である。
 これらの登場人物に関する背景や設定は非常に盛りだくさんで、いまちょっと書き始めて、これはきりがないなと感じたところである。こうしたものの出し方がウディ・アレンの脚本は実に巧みで、スピーディーなテンポを失うことなく、次々に物語をふくらませて展開していくところは鮮やかと言うしかない。キャロライナがギャング一味の追っ手に命を狙われているといった、やや突飛な設定も自然に物語の中に組み込まれて、必要なことはきちんと説得力を持って物語ってくれるから、違和感なしに映画の流れに身を任せることができるのである。

 映画の中心はラブストーリーだから、ミッキーがはるか年上のジニーになぜ夢中になってしまうのかといった、説得力に欠ければすぐに容認できなくなりそうなところでも、ウディ・アレンは、ロマンチストでのめり込みやすい彼の性格などもきちんと描き出していて抜かりはない。一方のジニーは、失意の底から救ってくれたハンプティに感謝の気持ちを持っているものの、現状の生活に様々な悩みや不満を抱えている。彼女には、若いころ舞台女優として少し注目されながら頓挫してしまった過去があり(説明し始めると長くなるが、こうした事情を浮かび上がらせる時のウディ・アレンの匙加減は名人芸である)、夢多き脚本家志望の青年が自分を復活させてくれるかもしれないという、儚い夢に藁にもすがるような気持ちでのめり込んでしまうところが、説得力を持って描写されている。
 このラブストーリーは、ミッキーが偶然(必然だったか?)キャロライナに出会ってしまい、若い二人がお互いに一目惚れしてしまったことから急激に動き出す。ジニーは一気に旗色が悪くなり、日々猜疑心に駆られ、必死になればなるほど嫉妬心を制御できなくなっていく。ここを、ウディ・アレンは淡々と(しかし丁寧に、あるいは冷静に)映し出していく。ギャングの追っ手が再び現れて、キャロライナが見つかりそうになっていることを知った彼女が、慌てて危機が迫っていることを電話で知らせようとして(ミッキーとキャロライナがデートしている店を、ジニーはキャロライナから聞いていたのである)、ギリギリのところでそれをやめてしまうのが物語の転換点となっている。
 ミッキーと別れたあとキャロライナは行方不明となり(たぶん捕まって殺されてしまったのだろう)、父親のハンプティは必死になって探すが見つからない。ミッキーはあちこち聞き込みして回り(この部分は描かれない)、ジニーが追っ手のことを知りながら知らせてくれなかったことを突き止めて、彼女を追及しようと、初めて観覧車の見えるジニーの部屋を訪れるのである。このシーンはまるで演劇の舞台を見るような、主演女優ケイト・ウィンスレットの独壇場になっていた。

 彼女はなぜか、かつてみずからが演じた舞台衣装と思われるドレスを着ていて、大切に仕舞ってあった(同じく舞台で身につけた)アクセサリー(息子のリッチーに見せるシーンがあった)を身につけている。彼女はミッキーの前で、何かに取り憑かれたように(壊れたように)目を泳がせながら、自分の思いのようなものを延々と吐露するのである。ここではないどこかに本当の自分の居場所があり、いまよりもっと素晴らしい人生があったはずだという繰り言である。映画としては不自然なほど続くこの長ゼリフは、元舞台女優ジニーのセリフであると同時に、ウディ・アレンが女優ケイト・ウィンスレットに密かに言わせたいと画策したセリフだったのではないか。監督の意図と女優の演技がぴったり重なった名演だったと思う。
 思い通りにならなかった過去をもう一度やり直したいと願ったジニーの思いは、ミッキーとともに永遠に消えてしまった。娘キャロライナに、父親としてもう一度夢をかけたいと願ったハンプティの希望も失われてしまった。彼らは、遊園地の上空を一回りした観覧車がまた地上に戻って来るように、再び元の生活に(深い絶望とともに)帰っていくしかなかったのである。映画は、ジニーに一緒にいてくれと懇願するハンプティと、無人のビーチで火を燃やしている息子リッチーの姿を捉えて唐突に終わる。このエンディングだけが、ちょっと説明的になっているような気がして違和感が残った。でも、それ以外は完璧な映画だったと思った。
 付け足しだが。舞台劇を思わせるような人工的な照明が新鮮だった。大きな窓を通して、遊園地の明かりの点滅が室内にいる彼らを照らし出しているという設定なのだが、赤や青といった鮮やかな色彩が、登場人物の様々な思いを効果的に浮かび上がらせていた。映画でありながら舞台劇を感じさせるような、不思議な画面を作り出していたと思う。実に良くできた映画で、最近の2作(「カフェ・ソサエティ」とこれ)を見ただけなのだが、ウディ・アレン「老いてますます盛ん」を実感させられた映画だった。
(立川シネマシティ1、7月1日)
by krmtdir90 | 2018-07-04 22:01 | 本と映画 | Comments(0)
<< 映画「ガザの美容室」 映画「焼肉ドラゴン」 >>


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
外部リンク
ファン
ブログジャンル