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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ガザの美容室」

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 最後の数分間を除いて、カメラはほとんど美容室内部の出来事だけを映し出す。カーテンが引かれた隙間から時折外の様子が見えたりするが、内と外ははっきりと区切られていて、閉ざされた美容室の中の13人の女たちの姿を、映画はじりじりと経過する時間とともに克明に捉えていく。いわゆるワンシチュエーションドラマなのだが、その中に閉じているのかというとそんなことはなく、それが外の世界をこんなにも感じさせてしまうのが素晴らしいと思った。外で営まれている女たちの日常というものも、この映画は鮮やかに浮かび上がらせていたと思う。
 ここには女性しかいないから、みんな(一人を除いて)ヒジャブをしておらず、男性の視線がなければそれでいいのだというのが、彼女たちを少しだけ自由な気分にさせていたのかもしれない。交わされる会話が思いがけず生々しい感じがして、これは女性監督なのかと思ったら、黒々とした髭を生やしたアラブの男性監督(タルザン&アラブ・ナサール兄弟、ガザ地区出身の一卵性双生児だという)だった。これが長編第一作だったようだ。
 彼女たちが生活しているのはパレスチナ自治区のガザ地区である。ここがどういう状況に置かれているのかは、あくまで映画の背景として置かれているに過ぎないところがこの映画の特徴になっている。そういう描き方をこの監督たちはしている。しかし、この背景こそが女たちの生活に決定的な影響を与えていることもまた自明なのである。

 外の世界は男たちが支配していて、女たちは基本的にそれに振り回されるしかないのだが、このガザ地区の複雑な状況について、この映画はほとんど何も語ろうとはしていない。結局、映画を見た後でいろいろ調べて、まったくの付け焼き刃で以下を書くしかないのだが、それは概ねこんな感じになるのだろうか。
 ガザ地区は東京23区の6割ほどの面積で、そこに200万人以上のパレスチナ人が住んでいるらしい。2007年以降、この地区を実効支配しているのはハマスというイスラム政党である。これをテロリスト集団と見るイスラエルとエジプトが国境封鎖を行ったため、ガザの人々は地区の外との往来がほとんどできなくなり、満足な物資や支援も入ってこない状況が続いている。発電所が破壊されたため、停電が日常茶飯事となっていて(自前の発電機を動かそうにも、ガソリン不足で思うに任せないといった様子が映画の中にも描かれていた)、交通機関や水道、病院といった社会インフラは壊滅的な状態に追い込まれているらしい。治安も悪化しており、イスラエルの空爆などもあって、その都度多くの死傷者が出ているが、そうしたところはこの映画では描かれていない。
 映画の後半になって、美容室のすぐ外の道路で戦闘が始まり、女たちはシャッターを下ろした美容室の中に閉じ込められてしまう。これは、マフィアと呼ばれる武装した不満分子をハマスが制圧する戦いだったようだ。ガザの住民は常にこうした危険や不自由に晒されているのであり、先の見えない不安や絶望感の中で日々(男も女も)生活しているのである。

 映画は人々のこうした苦難を直接に描くのではなく、一旦すべてを背景に後退させてしまうことで、ガザの女たちの(不条理と言うしかないような)日常を描くことに成功している。舞台を美容室の中に限定することで、あくまで普段の姿を捉えることに徹しようとする(もちろん、そこには男たちの日常もしっかり見据えられている)この視点は新鮮だし、実にいろいろなことを見る者に考えさせるものになっていると思った。ガザは巨大な「監獄」に喩えられることもあるようだが、そういう場所でも人々は日常生活を続けていくしかないのである。
 そもそもこんな混乱した市中で美容室が営業していること自体が驚きだし、そこにいる女たちがそれぞれ切実な事情を抱えていることが見えてくると、こうした困難の中でも需要が失われていないという事実に、彼らの生活の重要な鍵が隠されているという気がしてくるのである。生活の根底にある様々なもの、と言ってもいいかもしれない。ただし、映画の冒頭から美容室の空気はどことなくギクシャクしていて、和やかな雰囲気とはほど遠いものになっている。むしろ、お互いへの反撥や冷ややかな行き違いといったものが画面に見え隠れしているのである。
 彼女たちは辛く苦しい毎日を生きているから、常に自分のあり方や他人の生き方を確認し検証しているということなのかもしれない。それぞれが妙に我を張って、意固地になっているように見えるのは、直面する困難に流されまいとする必死の抵抗のようなものだったかもしれない。実際、こんな状況下では安易な妥協や馴れ合いは何の意味もないということになるのだろう。

 イスラムは男性優位の社会だが、女性は従属するだけの弱い存在などということはあり得ない。彼女たちは誰も自分を諦めてはいないし、終盤近く、感情的対立から罵り合いを始めた二人の客に対して、美容室の店主が「わたしたちが争ったら、外の男たちと同じじゃない!」と叫ぶところはドキリとさせられた。薬物を止められないお客の一人が、「もし女だけの政府を作るとしたら・・」と冗談のように喋り出すところは(ややメッセージが生だけれど)なるほどなと思った。
 ドラマということで見ると、最後に大きな展開が待っているが、それまでは閉塞状況の中で各人の事情が少しずつ変化するだけである。外の戦闘のせいで結婚式に間に合わなくなってしまった娘と母親とか、弁護士とのデートができなくなってしまった離婚調停中の中年女とか、戦闘につられるように出産の気配が出始める臨月の妊婦とか、当人たちにとっては切実なことかもしれないが、それらは個人的な事情の僅かな変化と言えなくもない(もちろん、映画はそんな突き放した描き方をしているわけではない)。
 だが、ドラマチックな展開は、外のものが不意に女性たちの中に侵入してくることで起こるのである。美容院でアシスタントをしている娘は、外にいるマフィアの恋人との将来について自信が持てないでいた。この二人に関係はここまでしっかり点描されてきたが、外の戦闘で傷ついた恋人が瀕死の状態で中に転がり込んで来たことで、ドラマは美容室のすべての女たちを巻き込んで急展開する。女たちは彼を匿おうとするが、続いてやって来たハマスの兵士によって外に連れ出されてしまう。男たちの暴力を、女たちはどうすることもできないのである。

 映画がこの後の女たちを映さないのは不満が残る。カメラはそのまま外に出て行き、美容室の外で何が起こっていたのかを明らかにするような幾つかのカットを重ねて不意に途切れてしまう。外はすでにすっかり夜になっていて、幾つかの建物から赤々と炎が上がっている。もう息はしていないように見える男は、トラックの荷台に死んだライオンとともに寝かされている。ライオンに関する経緯というのは映画を見ただけではよく判らないが、マフィアが地元の動物園からライオンを盗み出した事件が2007年に実際に起こっていたということらしい。映画の背景は、この事件を下敷きに作られていたということだったようだ。
 それはともかく、背景であったものが一気に噴出してくるこのラストは衝撃的である。衝撃的だったが、それを描くことが映画として必要だったかどうかは判らない。結果的に、女たちのドラマはハマスの侵入の時点で唐突に途切れてしまうからである。
 だが、これが彼女たちの置かれている現状ということなのかもしれない。再び朝が来れば、彼女たちはまたここでいつも通りの日常を始めていくしかないのである。美容室は特段の被害を受けたわけではないから、また違うお客がやって来て、何もなかったかのように営業を始めていくのだろう。恋人を失ったアシスタントの娘も、少し暗い顔をしながらそのままここで働いているような気がするのだが、ここは少々意見の分かれるところなのかもしれない。
(新宿シネマカリテ、7月5日)
by krmtdir90 | 2018-07-08 21:31 | 本と映画 | Comments(0)
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