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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「パンク侍、斬られて候」、そして原作(町田康)

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 映画そのものはあまり面白いとは思わなかった。改めて「パンクとは何ぞや」などと言うつもりはないが、映画がそういうものを標榜すると、どうしてもぶっ飛んだイメージを連発しなければならないような感じなり、それを少しでも「こけおどし」じゃないかと思ってしまうと、その羅列に「はあ~、そんなものですかね~」という印象しか持てなくなってしまうのである。
 奇想天外、荒唐無稽、どんなふうに言ってもいいが、最初は「なんじゃ、こりゃ~」などと驚いても、次第に「ああ、そういうことなんですね」となり、結局「だからどうなの?」となって終わってしまうような気がする。特にSFX技術が飛躍的発達を遂げた現代では、もはや映像的に作れないものはないと言ってもいいくらいになっているのだから、映画がそういうところで勝負するのはまったく空しいことになってしまったのだと思う。

 監督の石井岳龍は以前は石井聰亙を名乗っていて、その初期の映画数本(1980年前後)をわたしは見た記憶がある(例によって、ほとんど忘れてしまったが)。だが、当時の彼の映画がその「パンク」性で評価されたとしても、それから映画をめぐる環境は大きく変わってしまったのである。映像で「パンク」をやろうとすることは、いまや完全な袋小路に嵌まっているのであって、その認識なしに闇雲に突っ込んでも成果を上げることはできないのである。脚本を書いた宮藤官九郎にも、そのあたりの現状分析は欠けていたということになるだろう。
 公式サイトなどには、スタッフも含めて「パンク」を作るためにいかに苦心したかといったことが縷々記されているが、出来上がったものは少しもこちらの想像力を刺激しない、凡庸で美しくない(美しくないというのは決定的なことだ)イメージの連続にしかなっていなかった。綾野剛を始め達者な役者を集めているのに、彼らの演技力を発揮させることより、彼らを「パンク」の幻想に奉仕させるような使い方しかしていなかったということである。これでは面白い映画になりようがないと思った。
(立川シネマシティ2、7月6日)

 期待外れだったので映画の感想は書かなくていいかと思っていたのだが、ふと「原作:町田康」というのが気になってしまったのである。これほどの奇妙奇天烈なストーリーを、果たして言葉だけで説得力あるかたちに組み立てられるのだろうかと考えてしまった。そもそも「パンク」を最初に言い出したのは原作なのであって、当然ながら、それが小説から始まったというのは非常に興味深いことだと思った。
 町田康が、パンクロックのミュージシャンでありながら芥川賞(2000年)を取ってしまった作家だというのは知っていたが、これまでその小説を読んだことはなかった。調べてみると、原作は2004年に書かれたもので、いい機会だからちょっと読んでみるかという気分になった。近所の本屋に行ってみると、文庫本には映画公開に合わせた全面帯が二重掛けされていたが、それを外すと、著者自身の写真を使った帯が掛けられていた。まったく、よくやるわい。
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 結論を言えば非常に面白かった。だが、これを映画にしたいと考えた石井岳龍と宮藤官九郎は大きな勘違いをしていたと思う。ここにあるぶっ飛んだストーリーとイメージは、言葉で作られているから凄いのであって、直接的な表現である映像や音に置き換えた途端に、力を失ってしまうということに気付くべきだったのではないか。あまり言葉の力をナメない方がいい。あるいは、あまり映像や音の力を過信しない方がいい。
 14年前、この小説が世に出た時どんな評価を受けたのかは知らないが、これまでこんなことをこんなふうに書いた小説家はいなかったし(たぶん)、これを、初めて言葉で作られた(活字で表現された)「パンク」とすることに異議はないと思った。こういうことを仮に思いついたとしても、それを最後まで破綻なくやり切ることは至難の業だったにちがいない。

 一応時代小説のかたちは取っているが、使われる言葉としては現代口語のような多様な言葉が混在していて、登場人物の考え方や行動などには明らかに現代社会の反映が見て取れるのである。時代ものと言っても、彼らはほとんど現代人そのものと言っていいように思った。物体浮遊の超能力があったり猿が人語を喋ったり訳の解らんいい加減な新興宗教があったりなど、尋常ではない様々な道具立ても、すべてが現代社会の(その行き着いた先で必ず露呈する)何とも言えない無茶苦茶さを表しているような気がしてくるのである。
 「パンク」をサブカルチャーの一つのかたちと見るなら、いろいろなところに強固に存在する既成のカルチャーを骨抜きにし、その依って立つ理論的基盤を根底から覆してしまうような、一種の無政府状態を実現させることだと言えなくもないように思う。そういう意味では、この小説が徹頭徹尾言葉の世界だけで成し遂げようとしたのは、小説というそれなりに安定したカルチャーの徹底した転覆だったのかもしれない。
 「パンク」は思潮であるより現象である側面が強いから、これは一回限りの成果を持って終わるべきものなのだと思う。わたしは町田康をこの一作しか読んでいないのだから、断定的な物言いは避けるべきだが、この試みはこの一冊で完結したものになったように感じている。だから、この小説は後にも先にもこの一作限りであって、けっこうエポックメイキングな小説だったと言っていいのではないかと思った。

by krmtdir90 | 2018-07-11 14:52 | 本と映画 | Comments(0)
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