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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「菊とギロチン」

映画「菊とギロチン」_e0320083_20353999.jpg
 瀬々敬久監督、構想30年、上映時間189分の入魂作というので、それなりの覚悟をして見に行ったが、彼にしてはかなりわかりやすい作りになっていて、終始面白く見ることができた。監督得意の群像劇だったが、展開する人間関係にまとまりがあって、何より「ヘヴンズストーリー」のように関係のないストーリーが突然割り込んで来たりはしないので、ストレスなく物語の流れに身を任せることができた。
 大正末期、関東大震災(1923・大正12年9月1日)の直後を舞台に、当時日本各地で興行が行われていたという女相撲の一座と、これも当時実在したらしいアナキスト結社のギロチン社という、非常に興味深い2つの集団を結びつけたアイディアが素晴らしいと思った。この結びつきは現実にあったものではないが、想像力の中でこの異質な集団を出会わせたことで、そこに思いもよらない熱い化学変化を起こすことに成功していたと思う。映画としてはあちこちに破れ目を残しながらも、エネルギッシュな演出でぐいぐい押し切ってしまう瀬々監督の力業が見事に決まった感じがした。瀬々監督の代表作となる一本ではないだろうか。

 数ある見世物興行の中でも、女相撲というのは常に官憲の(風紀を乱すという)偏見や弾圧に晒され、にもかかわらず、貧しい民衆の根強い支持を受けてしぶとく生き延びたものだったようだ。映画は玉岩興行という女相撲の一座(もちろん架空の一座である)の興行の様子を、非常に生々しく画面上に再現して見せている。物語の中心をなす花菊(木竜麻生)・十勝川(韓英恵)を始めとする女力士たちや、座長の玉三郎(渋川清彦)といった面々の存在感が半端ではなく、特に厳しい特訓を受けて出演したという女優陣の力士としての取り組みの一部始終には目を見張った。
 瀬々監督の彼女たちに対するリスペクトがよくわかり、彼らの稽古や生活の様子なども丁寧に描かれていて、個性豊かな女たちの姿をしっかり描き分けていたのも見事だった。瀬々監督はやればできる監督なのであって、いろんな映画でついいろいろなところに視点を広げてしまいがちなのだが、この映画では珍しく腰を据えて、一座の様々な側面をとことん見詰めようとしたことがうまく作用していたのだと思う。
 一座には不幸な境遇の女たちが救いを求めて加わることも多く(それを受け入れてきた座長・玉三郎の懐の深さが印象的で、演じた渋川清彦ははまり役だったと思う)、花菊は後妻となった農家の乱暴な夫から逃げて来たのであり、十勝川は遊女だった過去を持つ朝鮮籍の女だったのである。彼女たちは偶然見かけた女相撲にみずからの突破口を求めたのだが、その「強くなりたい」という思いが、「強くなって自由に生きたいのだ」という願いにつながっていることが、有無を言わせぬかたちで画面から伝わってきたのが素晴らしかった。この切実さの熱量は並のものではなかった。

 これと比べると、ギロチン社の男たちの方ははなはだ心許なかったと言わざるを得ない。もともとアナキズムというものに対する傾倒に頭でっかちなところがあり、生活の重みを一身に背負った女たちの前では、空理空論に踊るだけの何とも頼りないひ弱さを露呈させてしまうのである。時代に対する彼らの危機感や使命感は一途なものだったかもしれないが、現実から理想へと架橋する実現可能な方策がまったく見えていないから、方向の定まらない議論を果てしなく続けるしかないのである。ギロチン社の男たちの多くは実在人物として登場していたようだが、女相撲の面々と異なり、一人一人の個性がほとんど見えてこなかったのはこのためだったと思われる。瀬々監督は意図的にそうしたのかどうかはわからない。
 彼らの幾人かがたまたま見に行った女相撲に衝撃を受け、彼女たちの生き方に思わず吸い寄せられていくというのは理解できる。と言うより、この部分に説得力がなければこの映画は成立しなかったはずで、それは論理や計算で割り切れるようなものではなかった。この2人、中濱鐵(東出昌大)と古田大次郎(寛一郎)というのは実在人物だったようだが、彼らと花菊・十勝川との「恋?のようなもの」を設定したことが、この映画に魅力的な奥行きを与えている。
 もちろん、映画はその「恋?」の行方を追ったものではなく、実際、ほどなく中濱と古田は逮捕されて死刑になっているのである。映画が描くのは、大震災直後(9月16日)に殺害された大杉栄の復讐を口にしながら、どんどん八方塞がりになっていく時代状況の中で、闇雲に動き回るしかなかった自称アナキストの男たちのわずかな燦めきのようなものだったのかもしれない。

 女相撲とギロチン社という、何のつながりもなかった女たちと男たちの情熱を、想像上の物語として共振させるという企みは成功したのではないか。「差別のない世界で自由に生きたい」という願いが、驚くような切実さで浮かび上がってきたのは驚きだった。瀬々敬久という人は、どんなかたちで映画を撮っても、現代というものとストレートに対峙するところから映画を組み立てているのかもしれない。この映画の、まさにアナーキーと言うしかないエネルギーの発露は希有のものだったと思う。
 女相撲もギロチン社もすでに過去のものだが、いまこれらを甦らせたいと考えた瀬々敬久監督の思いは確かに受け止めた。
(テアトル新宿、7月24日)
by krmtdir90 | 2018-07-27 20:35 | 本と映画 | Comments(0)
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