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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ここは退屈迎えに来て」

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 山内マリコの同名の連作短編小説を映画化したものだという。原作は8つの短編で構成され、そのすべてに高校時代のヒーローだった椎名クンという存在が絡むことで、全体が連作としてつながるようになっていたらしい。映画でもこの連作短編という形式(物語の構造)が生かされていて、実は最初そこのところがイマイチよく判らず、映画の流れにちょっと乗り遅れる感じになってしまった。
 山内マリコはあの「アズミ・ハルコは行方不明」の原作者だが、本作でも地方都市の閉塞感と、そこで生きる複数の人物の(思い通りにならない)日々を描いている。具体的には2013年、2008年、2010年といった年号が次々に表示されるのだが、これらは各々がそこで「独立した短編」になっていたのであって、各登場人物の現在が相互につながっているわけではなかったのだ(ここがよく判らずウロウロしてしまったというわけだ)。

 実は、これらの登場人物は、2004年にみんな同じ高校の3年生だったという点でつながっており、当時みんなの中心にいた椎名クンとも様々なかたちでつながっていたのだ。昔は同じところ(この退屈な地方都市)にいて、いろんな思いを共有し合っていたけれど、その後はみんな別々の場所で別々の人生を送っている。そういう、独立したストーリーラインが並べられていたのである。これは別に謎解きでも何でもない。たぶん、普通に年代記風に並べてしまったら、何の面白みもないありふれた青春挫折物語になってしまったのかもしれない。
 18歳(2004年)が、彼らそれぞれの物語の基点になっているが、映画は彼らの27歳(2013年)、22歳(2008年)、24歳(2010年)の時点に立ち止まり、そこから18歳だった時(基点)を逆照射しようとしているように見えた。この構造がこの映画の(そしてたぶん原作小説の)肝になっているのであって、そういう操作を経ることで見えてくる彼らの18歳は、非常に客観的で公正な目で捉えられることになったように思う。
 廣木隆一監督はインタビューで、この映画を「『高校の頃はよかったね』というような話にはしたくなかった」と言っているらしい。確かに、この映画は「この子が(22~27歳になって)こんなふうになったのか」というふうに、描写の視点がかなり「後の方」に置かれていて、それぞれが現在の自分に「こんなはずじゃなかった」と感じていることを描いているのだと理解できた。
 高校を出る時には、それぞれいろんな未来を思い描いていたのかもしれないが、時が過ぎるにつれて次第に、そんなに思い通りになるものではないことも判ってきて、といった感じ。そういう中でふと気付くと、いつの間にか22~27歳になっていて、18歳からずいぶん遠いところまで来てしまったんだな、というような、その何とも言えないやるせない気分のようなもの。こんな地方都市では、ホントに何も起こらないんだぞーーーっ、というような感じだけが真実としてあって。

 実際、事件らしい事件は何も起こらない映画なのである。だが、その何と言うこともない一瞬一瞬の中に、実にいろんな思いが詰まっているのだと思った。そういうのを、こんなふうに繊細に掬い上げた映画はあまりなかったのではないか。
 中でも、27歳の「私」(橋本愛)とサツキ(柳ゆり菜)が、高校時代にみんなの中心にいた椎名クン(成田凌)に会いに行くというメインの設定が効いている。設定としてはまったく単純な設定であって、別に何の障害も現れないし、同じ市内なのだから(だだっ広い地方都市であっても)時間的にそれほどかかるものではない。だが、一人だけ異なる世代(40歳)の須賀サン(村上淳)の車で移動しながら、3人が車内で交わすとりとめのない会話から、彼らのパッとしない「いま」(そしてここに至る日々)が徐々に見えてくるところが面白い。
 さらに映画は、この3人とは別のストーリーラインとして、他の幾人かの「いま」を並列的に並べて見せているわけで、その上で、みんなが一緒の教室にいた18歳の時に帰って行くという、この全体の構図が非常に生きていたと感じた。22歳の「あたし」(門脇麦)は高校時代に椎名クンと付き合っていたが、卒業後音信不通になってしまった彼のことを忘れられずにいる。また、24歳の森繁あかね(内田理央)と山下南(岸井ゆきの)は、高校時代は特に椎名クンと接点があったようには見えなかったが、終わり近くで南が結婚して椎名南になったとあかねに告げたりしているのである。
 椎名クンと南というのは思いがけない展開だが、椎名クンの結婚はこの映画にとってはそれほど重要なこととはされていないようだ。時が経てば誰もが現実世界に取り込まれていくことの、それは一つのエピソードに過ぎないということなのかもしれない。

 確かに、高校時代の椎名クンはいつも誰よりも輝いていた。高校3年の時、「私」とサツキは一度だけ彼に誘ってもらって、彼の仲間とゲームセンターに遊びに行った思い出があった。椎名クンには当時付き合っている彼女(「あたし」)がいたから、それはちょっとした気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。だが、彼女たちにとってはそれは忘れられない美しい思い出だったのであり、だから、ほぼ10年ぶりに椎名クンに会いに行く「私」とサツキが、妙にワクワクと舞い上がって見えるのをバカバカしいと笑うことはできないのである。
 彼らは途中で、思い出のゲームセンターに立ち寄ったり、母校に行ってみたりする。ゲームセンターでは、たまたま帰郷していた新保クン(渡辺大知)という級友と再会する。彼はいま、ここではないどこかの町のゲイバーで働いているらしいが、かつて仲の良かった椎名クンのことを2人に教えてくれる。卒業後の椎名クンは、思い通りにならないことの連続ですっかり打ちのめされ、いまは地元に戻って、新保クンの紹介した自動車教習所で働いているのである。
 「私」とサツキが椎名クンと再会するシーンは、映画の最後に置かれている。椎名クンは外見的には高校時代とほとんど変わっていないようだったが、いまは何となくくすんだ感じになっていて、あの頃の輝きはもう失われてしまっているように見えるのである。映画はここで、何とも言いようのない印象的なシーンを映し出している。椎名クンは何と、再会した「私」の名前を思い出すことが出来なかったのである。この時の2人の気まずいすれ違いは、もうただ笑ってしまうしかないのだけれど、時の流れの残酷さを示しているようで胸を突かれる気がした。

 この映画が描いたのは、あの2004年からずいぶん時が経って、「私」もサツキも椎名クンも(新保クンも「あたし」もあかねも南も)、みんながこんなに変わってしまった、変わってしまったことを認めたくはないし、そのことに全然納得はできないのだけれど、それでも、それを受け入れて何とか生きていくしかないという、苦い現実なのである。若い人間の「夢の終わり」を浮かび上がらせた、非常に良くできた映画だったと思う。
(MOVIX昭島、10月23日)
by krmtdir90 | 2018-10-25 17:13 | 本と映画 | Comments(0)
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