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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「search/サーチ」

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 ストーリーがすべてパソコンの画面上で展開するという、アイディアがすべてと言っていい映画である。話題性は十分だし、このアイディアがどんなふうに実現されるのか、とにかく余計なことは考えず、その仕掛けの斬新さを楽しめばいいということだろう。
 パソコン上だけでストーリーが展開されるというのは、ちょっと考えるとかなりの制約だし不自由だろうと思えるのだが、実際の映画ではその制約を逆手に取るようなところもあって、これが完全な杞憂だったことが明らかになっていた。むしろ、すべてがパソコン画面の中に限定されることで、まったく新しい種類のスリルとサスペンスが生まれていたように思う。パソコン画面の使い方も非常に計算されていて、そこに思いがけない臨場感が生まれているのが驚きだった。

 突然連絡が取れなくなった娘の行方を父親が追う、というのがストーリーの基本設定になっているが、この父娘を演じたのが韓国系アメリカ人のジョン・チョー(父親デビッド)とミシェル・ラー(娘マーゴット)という2人である。この映画は、最近ハリウッドで見られるようになった、アジア系俳優が主役を務めることで注目された映画の一本でもあったようだ。
 映画の冒頭、父親のデビッドがパソコンに向かい、保存された家族の映像などを見て昔を思い出しているという導入が鮮やかだった。娘マーゴットの成長の記録や、妻パムが3年前に癌で亡くなっていることなどが示され、現在16歳になっている娘と、もう一つうまくコミュニケーションが取れないでいる彼の様子なども(画面に表示されるLINE《MacではFace Timeと言うらしい》のやり取りなどから)窺えるようになっているのである。登場人物の背景や現況が手際良く描かれることで、ストーリーがしっかり組み立てられていることが判り、この父娘への感情移入もしやすくなっていると思った。アイディアに引きずられるだけの、お手軽映画ではなかったのである。
 こうして、ぎこちないながらも会話が行われていたマーゴットと、急に連絡が途絶えてしまう様子もパソコン画面だけで描かれている。双方向の回線が確保されているのが前提だったものが、一方的に切れてしまうというのは何を意味しているのか。パソコンやスマホの中の相手が突如反応しなくなり、それ以外に当面の情報入手手段がないことが、様々な疑問や不安を一気に拡大させていくところが怖い。そもそも、繋がりが途絶することなど想定していないから、父親はそうなって初めて、娘との回路を他にまったく持っていなかった事実に直面させられてしまうのである。

 デビッドはとりあえず、マーゴットが通っているピアノ教室や、妻の住所録ファイルで調べた同級生の家などに電話をかけてみるが、その度に思いがけない事実が明らかになって、彼の不安をいっそう掻き立てる結果になってしまう。結局、彼は警察に捜索願を出し、担当となったヴィック捜査官(デブラ・メッシング)とパソコン上で(スカイプ機能を駆使して)連絡を取りながら、マーゴットに関する謎を、彼女が残したパソコンの中で探っていくことになる。
 インスタグラム、フェイスブック、ツイッターといったアカウントを彼女は非公開にしていたが、彼は手段を尽くしてパスワードを入手し、これらに残された様々な映像やテキストなどを次々に閲覧していく。そこには、これまで見えていなかったもう一人の娘の姿が残されており、彼はそれらに衝撃を受けながらも、これらを手がかりに彼女の行方に迫っていくのである。彼女の過去にどんなことがあったのか、さらにいま何が起こっているのかを徐々に明らかにしていく、その手法はかなり工夫が凝らされていて、観客としてはどんどん引き込まれていく感じだった。すべてがパソコン画面というアイディアが、謎の解明というところでは実に効果的に使われていたのではないか。
 ただし、中盤以降になって、デビッドがパソコンの前を離れて動き回らなければならなくなると、この全部をパソコンの中でという設定には無理なところも出てきていたように思う。まあ、それでもテレビ中継画面などを上手に組み合わせて、曲がりなりにも最後まで走り切って見せたのだから、全体としては十分成功だったと言うべきなのかもしれない。終盤の展開の二転三転も、リアリティという点ではどうかと思ったが、設定や伏線にきちんと責任を取っているという意味では、娯楽作品として(ミステリとしてもホームドラマとしても)しっかり出来上がった映画だったと思った。

 この映画を監督したのは、アニーシュ・チャガンティという27歳のインド系アメリカ人で、これが長編処女作だったようだ。インターネットやSNSと子どもの頃から馴染んできた若者だからできたと感じられる、巧みな表現が随所にあって感心した。
 例えば、画面の隅でSNSにメッセージを打ち込むところ、画面は枠の中に打ち込まれていく文字を写すのだが、一度書かれた文字が修正されたり削除されたり、打ち込んでいく速度の微妙な違いなどで、躊躇や動揺といったいろんな心の動きが鮮やかに表れてくるのには驚いた。こんな手口があったとは思いもよらなかった。こんなところに着目するのはさすが27歳という感じだが、それを心理表現の重要な方法として生かしてしまうのは誰でもできることではなく、この監督の素晴らしいセンスであり才能だと感じた。
 ただし、もう一点だけ言っておくと、この映画はパソコンやSNSを効果的に使った点で際立っていたが、それ故に、これからの技術の進歩にしっぺ返しを食らう可能性も大きい映画だと思った。ここで使われたツールが最先端であるのはせいぜい数年のことだろうし、これらが色褪せて時代遅れになってしまうのは案外早いかもしれないということである。これからは、斬新なアイディアを売り物にしたことが、映画の賞味期限を狭めてしまうことも起こり得るということで、難しい時代になったものだと感じた。
(立川シネマシティ2、10月26日)
by krmtdir90 | 2018-10-28 14:05 | 本と映画 | Comments(0)
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