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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「まぼろしの市街戦」

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 監督のフィリップ・ド・ブロカは、一般には「リオの男」(1964年・ジャン=ポール・ベルモンド主演)に代表されるような、喜劇的なアクション映画を得意とする商業的で職人的な監督と見られていたと思う。50年代末には、クロード・シャブロルの「いとこ同志」やフランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」などで助監督を務めたりしたようだが、その後のド・ブロカが、彼の作った映画によってヌーヴェルヴァーグの監督と見られることはなかったようだ。
 そのド・ブロカが、1966年に撮ったのがこの映画だった。これは彼のフィルモグラフィの中ではきわめて異色の映画で、ずっと一本だけ特別な位置を占めることになった作品だったのである。最初フランスで公開された時には、批評も悪く興行的にも失敗だったようだが(理由は判らない)、その数年後アメリカで公開されると、当時の若い世代(特にヒッピー)に支持されて大ヒットとなり、カルト的な映画として、その人気が世界中に広まることになったらしい
 当時のわたしはヌーヴェルヴァーグの監督たちに目を奪われていたが、フィリップ・ド・ブロカの映画も見ていたし、この映画の評判も確かに聞こえて来ていた(かなり後になってからだったけれど)のを覚えている。だが、日本公開時(1967年)もほとんど注目はされず、残念ながら見る機会がないまま日が過ぎてしまったということだったのである。
 今回、デジタル修復が行われたのを機に、半世紀ぶりのリバイバル公開となったのは嬉しい事件だった。「まぼろしの傑作」と言われていた映画が、やっと見られることになったのだ。けっこうワクワクしながら見に行った。

 50年以上も昔の映画なのに、まったく古びていないのが驚きだった。画面が修復されて公開当初の美しい色が再現されたのも大きいが、古びていないというのはそういう意味ではない。ここに描かれた物語が、時代の経過とともに色褪せるのではなく、そのまま現代に向かって真っ直ぐ刺さってくる力を持っていたことに驚いたのである。
 この映画は、50年もの時を軽々と飛び越えてしまったのだ。このユーモアや皮肉、そして風刺の切れ味が少しも鈍っていないのは凄いことだと思った。
 第一次世界大戦の終わりごろ、敗勢となったドイツ軍がフランスの小さな村を撤退する時、村全体を破壊する強力な時限爆弾を仕掛けていくのである。この情報を掴んだイギリス(スコットランド)軍の隊長は、フランス語ができるという理由だけで、一兵卒プランピック(アラン・ベイツ)を爆弾撤去のために村に送り込むことにする。プランピックは本来、伝書鳩を使った通信係であり、爆弾の知識は皆無であるところがすでに無茶苦茶なのである。
 プランピックが村に入ると、爆弾の噂を聞いた村人は一人残らず避難した後で、残っていたのはサーカスの動物たちと精神病院の患者たちだけだったというのが物語の始まりである。

 患者たちは抑圧を解かれて自由を取り戻し、病院を出て村のあちこちで様々な衣装を手に入れ、それぞれの妄想を実現して夢のような生活を始めてしまう。彼らは村に危機が迫っていることを理解しないし、プランピックを自分たちの王様に祭り上げて陽気にもてなすのである。村の中には精神病患者しかおらず、その村も早晩破壊される運命にある、王様はこのピンチをどう乗り越えるのか、というのがこの映画の展開上の骨子となっている。
 一方で、この映画が作り出す対立の構図は非常に明快なものである。村の中で精神病患者が作る世界は端的に言えば狂人の世界のはずだが、それがいつの間にか、これほど穏やかでまともな世界はないのではないかと思えてくるのである。それは、村をめぐって繰り広げられる外の世界の戦争の諸相が、あまりにもバカバカしくあまりにも狂気の沙汰であることの裏返しになっている。
 映画の終盤になると、狂気の世界とまともな世界は完全に逆転してしまい、患者たちがひととき作り出したおとぎ話のような世界が、何とも言えず貴重なユートピアだったように感じられてしまうのである。プランピックは任務を忘れて、次第に彼らと一緒の時間をこの上なく大切なものと感じ始めてしまう。これは実に自然な心の動きとして描かれている。

 経過は省略するが、爆発を阻止して軍に戻ったプランピックが、賞賛され勲章を受けても満たされないのは、患者たちと過ごした楽しい時間が忘れられなかったからだろう。すべてに嫌気がさして隊から脱落した彼が、軍服や銃を捨てて素っ裸で精神病院の門前に立つラストシーンは見事である。人間の営みとして、こっちの方がよほどまともじゃないかという強烈なメッセージがあるのに、メッセージは全然前に出てこないのが素晴らしいと思った。戦争の愚劣さをこんなにストレートに描いているのに、その主張は物語のずっと奥に引っ込んでいて、ジワッと後で効いてくるようなかたちになっているのである。
 つまりこれは、戦争を始めとした人間世界の醜悪な現実を切っ先鋭く批判しながらも、映画としては徹頭徹尾ファンタジーであり寓話であることを失っていないという点で、奇跡的な傑作だったことが確認できたように思う。
 この一本によってフィリップ・ド・ブロカは、ヌーヴェルヴァーグの監督たちの輝ける系譜にその名を連ねる資格、あるいはそれと同列に論じられて然るべき資格を獲得していたと言っていいのではないか。
(新宿K's cinema、10月29日)
by krmtdir90 | 2018-10-30 22:44 | 本と映画 | Comments(0)
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