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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「台北暮色」

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 ホアン・シー(黃熙)監督は1975年生まれの台北出身の女性で、あのホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督の(近作の)現場で学んだのち、2017年にホウ・シャオシェン製作総指揮により発表した長編第一作がこの映画だったようだ。
 台湾では公開以来、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)とエドワード・ヤン(楊德昌)の映画遺伝子(どんなものだ?)を継ぐ新しい才能として注目され、高い評価を受けているらしい。前評判が聞こえてくると、どうしても見る時のハードルが高くなってしまいがちだが、この監督がきわめて特徴的な映画の作り方をしていることは理解できたし、その特異性は確かに際立っていると受け止めることができた。こういう撮り方をする監督は、これまでなかなかいなかったということなのである。

 その第一印象は、特別なことが何も起こらない映画だなということだった。登場人物はきちんと設定されているし、シチュエーションも丁寧に描かれているのだが、そこから先、人物がストーリーを紡いでいくことをしていないように感じた。また、シチュエーションも積極的にストーリーが展開することに寄与していないように見えた。もちろん、その場その場でいろいろな出来事は起こっているのだが、それが何らかのストーリーを支え、それを前に進めるようにはなっていないのである。その時々の細かなディテールのようなものだけが積み重なっていて、そういう一見何でもないようなことに、この監督の視線は集中的に注がれているのだと感じられた。
 結果的にどういうことが起こっていたかというと、登場人物は確かにそこにいて、彼らを取り囲むシチュエーションも確かにそこにあるのだが、そこで映し出されるものからは、何らストーリーらしきものが浮かび上がってこないということだったのである。それは何とも頼りなく、不思議な感覚と言ってよかった。
 人物たちがそこに存在しているというのは、実はよく判らないそういう曖昧さの中にいるということだったのかもしれない。そして、彼らが動き回っているところからは、ある種漠然とした孤立感のようなものだけが立ち上ってきているのである。そこには相互の関係性はたぶん存在しているが、それはけっこう頼りないものであって、彼らはその不確実性の中で揺れ動きながら、その関係性のようなものを必死に確認し合っているということだったのかもしれない。

 ホウ・シャオシェン製作総指揮はこの映画のことを、「彼女にとっての『童年往事/時の流れ』だ」と言っているようだが、1985年製作の彼のこの映画が彼女に影響を与えた点はないとも述べているらしい。むしろ彼女の映画は、エドワード・ヤンが1985年に撮った「台北ストーリー」に近いものがあると見られているようで、その批評の言わんとするところは理解できるが、これがヤン監督の「台北ストーリー」や「恐怖分子」(1986年)に匹敵するものになっているかどうかは、やや疑問符がつくような気がした。
 確かに、エドワード・ヤンを思わせる美しく印象的なカットがたくさんあったと思う。それが台北という街と、そこに生きる人々の姿を的確に写し取っていたことは確かなことだったに違いない。だが、ストーリーではなくディテールに多くのことを語らせるという彼女の行き方が、ややそちらに寄り過ぎてしまった感があって、やや物足りない感じになってしまったようにも思われた。
 と言うか、登場人物たちが抱える様々な事情や思いなどが、この映画でもそれなりに浮かび上がるようにはなっていたと思うが、エドワード・ヤンの映画では、それが彼らの現実にどうしようもなく侵入してきてしまうところに大きな特徴があったと思うのである。それなのに、この映画ではそうしたものが絡んでいることは見えているのに、それが彼らの生にそれほどの影響を与えていないように見えてしまうのが物足りなかったのである。

 30年の時代的隔たりが、台北という街に生きる人々のあり方を変えてしまったということなのかもしれない。あるいは、監督としての両者の資質の違いが大きいのかもしれない。よく判らないが、ここまで淡々とやられてしまうと、もう少し何か描いてほしいという気もしてしまうのである。エドワード・ヤンは、みずからの存在感をもうちょっと明確にしていたぞと思うのである。ホアン・シー監督のこの突き放し方は、わたしにはどうしても不満が残ってしまうような気がした。

 プログラムに、来日したホアン・シー(黃熙)監督と、「きみの鳥はうたえる」(2018年)を撮った三宅唱監督の対談が載っていた。かなり突っ込んだ話し合いになっていて面白かったのだが、それを読む前に、この組み合わせを見ただけで「ああ、なるほどな」と納得できるような気がした。この二人の映画の作り方には非常に似たところがあり、二人はお互いにそのことを指摘し合っているのだが、その発言にはいろいろと肯ける点が多かったのである。
 プログラムにはまた、「泳ぎすぎた夜」(2018年)の五十嵐耕平監督も好意的なレビューを寄せていて、いまやこういう描き方をする若い監督が旬なのかもしれないなと思った。わたしなどはやはり、もう少しストーリーに色気を出してもいいのではないかと思ってしまうのだが、そういうのは予定調和のありふれた行き方として、徐々に淘汰されるようになってしまっているのかもしれない。
 確かに「映画遺伝子」にそれなりの共通性は認められるような気もするが、ホウ・シャオシェンもエドワード・ヤンも、もう少しストーリーはあったぜと思うのである。わたしと生年が同じこの二人の監督あたりが、わたしには率直に共感できる基になっていることが再確認されたような気がした。ホアン・シー(黃熙)、三宅唱、五十嵐耕平といった若く個性的な監督は、これからもできるだけ注目していきたいと思っているが、その作風は理解はできてもストレートに没入することはできないようなものに思われた。
(渋谷ユーロスペース、12月7日)
by krmtdir90 | 2018-12-09 21:32 | 本と映画 | Comments(0)
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