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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ガンジスに還る」

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 インドは一度は行ってみたいと思っている国だが、けっこうハードルが高いような気がしてまだ実現していない。この映画はインドの現代を描いているが、インドとの文化的隔たりの大きさを強く感じてしまって、これが現代のことだというのがちょっと信じ難いような気分にさせられる。
 映画の舞台になっているのは、ガンジス川に面したヒンドゥー教最大の聖地とされるバラナシという町である。信仰厚い人々は、この神聖な場所で死を迎えることが解脱(安らかな死)に至る道だと信じていて、この地で火葬され遺灰をガンジス川に流してもらうのが最大の名誉だと考えているのだという。実際、この地で死ぬことを希望する人たちが、インド全土からここを目指して次々にやって来ているらしい。死ぬために集まって来るということが、何よりも驚くべきことだと思う。

 父親のダヤ(ラリット・ベヘル)は、みずからが見た奇妙な夢によって死期が近付いていることを悟り、家族に「明日牝牛を寄進して、明後日バラナシに行く」と一方的に宣言する。家族は困惑し引き留めようとするが、彼の決意は固く翻意させることはできない。仕方なく息子のラジーヴ(アディル・フセイン)が仕事を休み、バラナシまで父に付き添って行くことになる。
 バラナシに着いた彼らが向かったのは、ガンジス川沿いにある「解脱の家」と呼ばれる施設である。見るからに貧しい建物なのだが、これはバラナシで死ぬことを望んでやって来る人々を、一時的に受け入れている簡易宿泊所といった感じの施設のようだ。バラナシにはそういうところがが幾つもあるらしいが、映画は施設を管理している男とのやり取りを経て、ここに入所して生活し始める二人の様子を追っていく。仕事よりも優先して、息子は父の死を見届けなければならないということらしい。

 率直に言って、この最初の経緯からしてよく判らないし、どうしてそんなことをするのか、われわれとしては理解し難いと言わざるを得ない。ダヤは元教師だが現在は引退していて、妻とはすでに死別しているという設定になっているらしい。一方、ラジーヴの方はバリバリの仕事人間で、付き添いの旅の途中でも片時もスマホを手放せないという描き方になっている。父は77歳というから、恐らく息子は50代半ばぐらいにはなっているだろう。そう考えると、分別ある大の男の行動として、こんなことが本当にあるのだろうかと疑問を感じてしまうのである。
 だが、もちろんこれはそういうことが本当にあるのであって、このヒンドゥー教の聖地では、ここに集まった信者の生と死が、まるっきり隣り合わせになったように人々の生活を縛っているのである。ここには、一方に死を待ち望む人々がいて、もう一方にそれを支えている人々がそれを取り囲んでいるということなのである。映画はその細部をきわめて丁寧に写し取っているが、それはわたしなどからするとまったく想像を絶するようなことである。それについて書き始めたら、たぶんきりがなくなってしまうだろう。
 この映画は結局、これまでずっとお互いにすれ違って生きてきた父と息子が、この聖なる場所で常時死を意識しながら生活することで、次第にそれぞれの心の内に隠れていたものを理解していくという映画である。妻や孫娘も絡んでいるから、一種のホームドラマと言ってもいいのかもしれない。

 ダヤは、ほぼ一ヶ月ほど経ったところで望み通りに解脱するのだが、映画はなぜかその最後の経過を描こうとはしていない。この少し前に、この「家」で懇意になったヴィムラという老女も死んでいるのだが、その死も川岸で行われている葬式のシーンで示されるだけである。ずっと死と向き合い続けてきた人々を描きながら、この映画は死の瞬間を描こうとはしていないのである。
 ダヤの死に際して、最後にラジーヴとの間にどんな会話があったのかといったことが描かれることもなく、彼の遺体を川岸に運んでいく葬列のラジーヴを追うことで、彼らの関係が最後にどうなったのかを想像させるような描き方になっている。死そのものよりも、当人や周囲の人間がその事実とどんなふうに向き合い、どんなふうに受け入れていったのかといったことの方に、映画の意識が向かっていたように思われた。
 後に残された家族が、主のいなくなった「解脱の家」のベッドに腰掛けて、ダヤの書き残した死亡広告を読むシーンが印象的だった。その文言だけ書き抜いても意味は伝わらないかもしれないが、「ダヤナンド・クマルは高名な詩人で作家であった。故人の作品は、いまもごくまれに古書店の片隅で埃にまみれて見つかることがある」というものである。

 印象的なシーンが非常にたくさんあったと思う。だが、それを一々書き出すことは止めておく。ただ、ガンジス川に象徴されるインドの風土といったもの、またヒンドゥー教をめぐる人々の考え方や風俗といったものは、これは現代のことだと言われても、なかなかすんなりと受け入れることは難しいような気がした。インドは一筋縄ではいかない国なのだなと思った。
 なお、この映画のシュバシシュ・ブティアニ監督(脚本も)は、何と1991年生まれの27歳で、驚くべきことにこの映画の撮影時には弱冠24歳だったのだという。若さを売りにするような安直な映画ならそんなこともあるかもしれないが、こんなふうにはるか高年の登場人物を動かし、こんな題材で正面から死と向き合うような映画を撮ったということが信じられないような気がした。これもまたインドという国の深遠さなのかもしれない。
(渋谷ユーロスペース、12月22日)
by krmtdir90 | 2018-12-28 20:44 | 本と映画 | Comments(0)
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