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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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2015年 11月 10日 ( 1 )

映画「起終点駅ターミナル」

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 正直に言うと、映画はほとんど期待していなかったのである。ただ、桜木紫乃作品としては初めての映画化ということだから、まあ気が向いたら観てもいいかな程度のものだったと思う。
 桜木紫乃の書く小説は、どれを取っても小説としての完成度が高く、鮮やかで濃密な物語空間をすでに言葉によって形成してしまっているので、どんな映像化であっても、恐らくそのイメージを裏切ることになるしかないだろうと思っていた。

 だが、予想は見事に外れた。
 この映画は桜木紫乃の小説世界を裏切ることなく、そうかと言って何かを過剰に付け加えることもなく、ある意味淡々とその世界をスクリーンに映し出してくれた。桜木紫乃の小説を読んでいるのと同じような感覚で、映画の時間に身を任せることが出来た。映画は映画なのだけれど、なんだか小説を読んでいるような心地よさ(しかもそれが確かに桜木紫乃の小説なのだ)を感じた。
 いい映画を観たと思った。帰りに、つい720円のプログラムを買ってしまった。

 「起終点駅ターミナル」は2012年4月に刊行された短編集で、単行本としては「ホテルローヤル」の一つ前に位置するものである。6編が収録されているが、その表題作の映画化ということになる。原作は、ページ数にして54ページほどの作品である。
 桜木紫乃作品は女性が主人公になるものが多いが、「起終点駅ターミナル」は男性、それも内なる罪を抱えてひっそり生きる(という点はやはり桜木紫乃か)65歳の初老の弁護士という、ちょっと毛色の違った主人公設定になっている。初の映画化作品にこれが選ばれたというのはちょっと意外な気もしたが、映画制作サイドのこの選択眼は間違っていなかったと思った。

 主人公・鷲田完治に佐藤浩市、副主人公・椎名敦子に本田翼というキャスティングは、映画である以上、美男美女を配することになるのは当然のことだが、なかなかよく考えられた人選だと思った。わたしは映画から遠ざかってもう20年近くになるので、若い役者などは全く判らないのだが、敦子のイメージが原作より可愛らしくなってしまうのは、まあ仕方がないのかなと了解した。本田翼という役者は、こういう敦子もありかもしれないと思わせてくれた。佐藤浩市は実際には55歳のようだが、肩や背中で男の老いをよく演じていたと思う。
 脇役では泉谷しげる・中村獅童ぐらいしか知らなかったが、完治のかつての恋人・冴子をやった尾野真千子を始め、みんなしっかり脇を固めていたように思う。驚いたのは、役名すらないようなチョイ役までよく目配りがされていて、納得できる存在感を持っていたことである(敦子を覚醒剤に引き込んだ男が、助けられたあと弁護人になった完治に突っ掛かるところとか、完治が弁護人として接見する万引き常習の女、あるいは完治の隣家に住むボケ気味の老人と、その様子を見に時々訪ねてくる青年、など)。

 スタッフの方も全く知らなかった。監督・篠原哲雄、脚本・長谷川康夫という2人は、フィルモグラフィーを見てみると、わたしが映画を離れた2000年代になってから活躍し始めた人たちのようで、その作品に知っているものは一本もなかった。
 しかし、この両名は素晴らしい才能の持ち主だと思った。原作の「起終点駅ターミナル」は、もちろんしっかりと完成した素晴らしい小説なのだが、そこからあまり離れないところで(ここが極めて重要な点だ。映画になっても桜木紫乃は桜木紫乃のままで)、映画という表現でもう一つの魅力的な「起終点駅ターミナル」という作品を作って見せたと思う。

 家に帰って原作を読み直してみたが、小説にある設定やセリフなどはほぼすべてそのまま生かされていて、一つ一つの場面が実に丁寧に映像化されていた。原作は50ページちょっとの短編だから、削られたところはほとんどなく、2時間弱の映画にするためには、新たに付け加えられた部分というのがかなりあったと思う。
 だが、それらの登場人物やシーンが実に的確にこの物語をふくらませており、桜木紫乃がそうしたものを書いたとしても全くおかしくないような、きわめて効果的な働きをしていると思った。つまり、付け加えられたものが余計なことをしたと感じられてしまうことは全くなく、どれもがスッとこちらに入ってきたのは見事なことだった。
 泉谷しげるが演じた先輩弁護士・南というのは原作にはない役だが、これなどがその好例である。彼は完治の離婚調停を担当し、以来ずっと完治のことを支えてくれた人という設定になっているが、引退して娘のいる函館に行くことになり、完治と別れの酒を酌み交わす場面が挿入されている。ありふれた居酒屋チェーンのテーブル席で、彼に「ひとつやふたつよ、あの世に持ってかなきゃならんことだってあるんだ。人は、それを背負って生きていくんだな」というような、物語のカギになるようなセリフを言わせているのである。桜木紫乃は削って削って、最小限のことしか書かない人だから、小説では絶対そこまで書くことはないと思われるが、映画だったら(泉谷しげるだったら)ここまではありだろうという、原作を解釈したギリギリの線を示して見せていると思った。

 720円で購入したプログラムは、非常に内容の濃い読み応えのあるものになっていて、上に引用した泉谷のセリフはこの中に載せられていたものである。
 プログラムには、主演の佐藤浩市や本田翼へのインタビューや、けっこう読み応えのある2つの特別対談が掲載されていた。その一つ、監督・篠原哲雄と脚本・長谷川康夫のよる対談で紹介されていて、佐藤浩市の言葉でも触れられている、完治が背負っている過去に対してのこの映画の描き方というのが興味深かった。

 原作では物語の中盤に挿入される昔の恋人・冴子との経緯は、映画では少し描写をふくらませて、メインタイトルの前にプロローグのかたちで置かれることになった(プロローグとしてはずいぶん長いものになり、タイトルが出るまで10分以上かかったのではないか)。
 原作では、完治は裁判官を辞め妻子を捨てて冴子と一緒になることをかなり早く決意していたが、冴子の自殺によって一旦は平然と元の生活に舞い戻るというように書かれていた。ここを映画は、完治は冴子への告白直前まで逡巡していた(むしろ別れる方に傾いていた)という描き方に変えた。さらに、目前で鉄道車輌に轢かれた冴子を直視することが出来ず、その場を慌てふためいて逃げ出す無様な完治の姿を切り取って見せるのである。
 完治が生涯背負い続けなければならない「罪」としてはどちらも成立していると思うが、その違いは、小説には小説の、映画には映画の描き方があるという意味で、なるほどと納得できたと同時に、それぞれがその表現を見事に完結させていたことに驚いたのである。

 もう一つ、映画では5歳で別れた息子・恒彦に関わる部分が大きくふくらまされていた。息子のその後の消息を思いがけずもたらす若手判事(原作では篠原、映画では森山)は、原作では最初のあたりに一度出てくるだけだが、映画では登場シーンが(確か)3回に増えていて、その中で息子の現在の様子はより詳しく完治に伝えられることになった。完治の中にずっと潜んでいた別れた息子への(そして妻への)思いが、小説よりも鮮明に見えてくるようになっていて、幼かった息子がイクラを一粒一粒嬉しそうに食べたというような思い出が明らかにされ、敦子が持ってきた筋子からイクラの醤油漬けを作るシーンに関連付けがなされたりしていた。
 息子の結婚披露宴への招待に関するエピソードも、映画では経過がかなりふくらまされ組み立て直されていて、何よりも完治がする最後の(出欠の)選択は正反対に変えられていた。
 原作では、完治は逃げていた敦子の男を敦子と共に見つけ、警察に届けたあとで、その日の夜に招待状の返信用ハガキの欠席に丸をつけるのだが、これの選択に響き合っていたのは明らかに、敦子の「先生、私、この人を見つけたとき、頼むから死んでてくれって思ったんです。もう、思わなかったことにできませんよね」という言葉だったはずである。

 ところが映画では、敦子のセリフは全く同じ位置にそのままあるものの、出欠選択の決断はぐっと後の方にずらされていた。息子からは何度か電話はあるものの(その都度曖昧な断りを言ってはいたが)、招待状は隣家のボケ老人が自分のところに取り込んでしまっていたという「行き違い」があり、彼の手許に届くのは敦子の旅立ちを釧路駅に見送って帰宅した直後、しかもそれは式の前日だったという「仕掛け」が設定されるのである。これは見事な設定変更と言うべきである。
 敦子が完治のところに現れたのは早朝の午前5時で、彼女が乗ったのは始発の特急6:26発のスーパーおおぞら2号と思われる。家に帰った完治が、仕事前に様子を見に来た隣家の息子に謝罪されながら招待状を手渡されたのが、恐らく7時少し前ではなかったか。
 部屋に戻って中を確認した完治は、心乱されながら朝食を食べる。やおら立ち上がり、冷蔵庫から敦子が残していったイクラの壜詰を取り出し、イクラご飯にして食べ始めるのである。映画独自に設定された(幼い息子がイクラが好きだったという)伏線が鮮やかに結びついたのである。完治の目から涙が溢れ、食べ終わった完治は吹っ切れたように出発の準備をするのである。礼服に着替え、もう1本あったイクラの壜を保冷剤と一緒に袋に入れる。この場面で完治の選択に響き合っていたのは、もちろん敦子の旅立ちであったことは明らかだろう。

 表にヤクザの中村獅童(役名は大下一龍)が来ているのは原作のラストと同じである。しかし、場面の意味合いは全く異なっている。完治はブツブツ言っている一龍のアウディで釧路駅まで送らせるのである。いつになく前を向いたような完治の勢いに押されながらも、中村獅童の存在感が最後に見事に生きたと思った。
 完治が釧路駅から乗った列車は、8:38発のスーパーおおぞら4号と思われる。釧路を出て、その日のうちに東京までたどり着くことの出来る最後の特急列車である。

 先に触れたプログラムのもう一つの特別対談は、作者・桜木紫乃と原作の編集担当だった小学館の幾野克哉という人だった。この対談が非常に面白い内容になっていて、このラストの変更について二人が喜んでいるのが非常に印象的だった。
 桜木は「いちばん嬉しかったのは、映画が人の再生のお話になったことですね」と述べ、「映画のようなラストに書き直したいくらいですよ」とまで言っている。幾野は「こんなに原作と映画のラストが違っているのに、両方とも良い!というのがすごいですよね」と述べ、桜木は「ほんとうにね。ラストを変えても、鷲田完治は鷲田完治のまま。あのラストにするために、完治が別のことを言ったり、思ったり、別の過去を持ったりしなくていい」と答えている。確かにこれは、映画化として希有の成功例と言っていいのではないかと思った。

 敦子と完治の別れのシーンは、内容的には似ているとも言えるが、描き方はくっきりと違ったものになった。原作では、車を降りた敦子が助手席のドアのところで「わたし、先生が好きです」と言う。これはこれで全く悪くないと思う。だが、映画では敦子が完治に抱きつくかたちに変えられている。正確なセリフは忘れたが、敦子が何かあったらまた来てもいいかというようなことを言う。すると完治は「だめだ。絶対に来るな」と言下に拒絶するのである。これもまた、すごくいいと思った。
 原作の方が、敦子や完治の「再生」ということに対して、やや悲観的な気配を漂わせていたように見えたのに対し、映画ははっきりと肯定的な方向に向いている感じがした。ストーリーの展開はほぼ全く変わっていないのに、映画がそういうかたちにラストを変えた(そして、それが十分な説得力を持った)ことが、何と言っても大きな驚きだったのである。

 記憶に残る、いい映画だった。ただ、「駅」を題名とする映画としては、駅や線路、鉄道車輌などの描き方はもう少し何とかしてほしい気がした。率直に言って、それらは映像としては少々物足りないように思えたのである。
by krmtdir90 | 2015-11-10 17:04 | 本と映画 | Comments(0)


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