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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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2018年 05月 15日 ( 1 )

映画「フロリダ・プロジェクト/真夏の魔法」

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 このラストシーンをどう考えたらいいのか。母親と引き離され、もうこのモーテルにいられなくなってしまうムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)が、仲良しだったジャンシー(ヴァレリア・コット)に別れを告げに行き、この映画の中で初めて涙を流す。これは現実である。これまではいつもムーニーに引っ張られるばかりだったジャンシーが、初めて自分からムーニーの腕を掴み、外に駆け出す。ここもまだ現実である。
 二人は道路を駆け抜けていく。だが、二人に行ける場所があるとは思えない。ジャンシーがどんなに願ったとしても、彼女はムーニーを助けることはできないし、ムーニーも直面する現実から逃れることはできないだろう。二人はこの先どこまでも走り続けることはできない。二人はどこかで残酷な現実に連れ戻されるしかないのだ。それは動かせないエンディングである。
 にもかかわらず、この映画は二人を「夢の世界」に連れて行く。その夢のようなディズニー・ワールドの中に、二人は後ろ姿になって消えて行く。それは何の解決でもないし、どのような希望でもあり得ない。それは誰にも判っていることである。

 この映画は貧困を描いた映画である。ムーニーもジャンシーも、いくらその近くに住んでいるからといって、「夢の世界」であるディズニー・ワールドに行くことは絶対にできないところに生きている。彼らの親は彼らにディズニー・ワールドのチケットを持って来てくれることはない。そんなことは絶対にできない貧困の中に彼らはいるからである。
 だから、このラストシーンはどう考えても「幻」であり、二人にとっては不可能でしかない「夢」と言うしかない。しかし、映画はそういう風に終わってみせる。そういう風に終わらせたのはショーン・ベイカー監督だが、彼にとってこれは微かな希望だったのだろうか。
 恐らく違うだろう。彼はここにいる人たちの過酷な現実を痛いほど理解している。ムーニーと母親のヘイリー(ブリア・ヴィネイト)はもう一緒に生活することはできない。これが突き付けられている現実であり、この展開に夢のような抜け道を用意することは監督にもできないのである。この映画は最後に何の解決も用意していないし、その微かな道筋を感じさせることもしていない。
 それがこの映画の潔い誠実さなのだと思う。母娘の良き理解者であった管理人のボビー(ウィレム・デフォー)も、この決定的な現実の前では何もしてやれることはないのだ。6歳のムーニーはそれらすべてを理解したからこそ、ただ泣くしかなかったのだ。必死に我慢していた彼女の顔にみるみる涙が溢れてくる、このシーンは何とも切なく悲しい。子どもは、どういうところで生まれ育つかを選ぶことはできないのだ。

 ディズニー・ワールドという「夢の世界」のすぐ傍らに、こういう出口のない貧困が転がっていることを映画は容赦なく描き出す。しかし、そのやり方は怒りや告発などとは無縁の、思いがけないほどの明るさに満ちたものである。
 アメリカでは、実質的にはホームレスに近い貧困層が、安モーテルに寝泊まりしてその日その日をしのいでいる現実があるらしい。舞台となるモーテル「マジック・キャッスル」は、外壁をパステルカラーの紫色で塗られたカラフルな佇まいで、そこが生活苦にあえぐ人たちの最後の砦になっているとは、なかなか窺い知ることができないのである。
 しかも、映画はそこに暮らす子どもたちの視点から様々なものを映し出すから、大人たちの厳しい現実はもちろん見えてはいるものの、その語り口はあくまで明るく影のないものになっているのである。それにしても、この子どもたちの悪びれることのない傍若無人ぶりはなかなかのものだった。こういうところに生まれてしまった以上、彼らはここでいかに楽しく生きるかを考えるしかないのだ。6歳の子どもたちにとって、この場所を「夢の世界」とすることだけが日々のテーマなのである。
 そこでは貧困は動かすことのできない所与の前提であり、彼らのしでかす悪戯などは、すべてその前提を受け止めた上でのことになっている。彼らは「上の世界」があることにたぶん気付いているが、だからといって、それを羨んだりみずから卑屈になったりすることはないのだ。彼らはいまの場所で十分以上に楽しくやっているように見える。

 だが、一方でショーン・ベイカー監督は、母親ヘイリーを始めとする大人たちの現実も厳しく写し取っている。例えばシングルマザーのヘイリーは、ムーニーのことをどこまで責任を持って考えているのか定かでないようにも見える。場合によっては育児放棄ギリギリのところで、ようやく踏みとどまっているようにも見えてしまうのである。
 6歳のムーニーは、どんな状況であってもヘイリーに付いて行くしかない。ヘイリーは子どもにとってはひどい母親に違いないが、彼女自身が未成熟の子どものようなところがあって、決して幼児虐待というような方向に向かうことなく、ムーニーを友達のように溺愛していることは大きな救いになっている。描き出される現実は過酷なものだが、この映画があっけらかんとした明るさを失わないのは、そこが信じられているからなのだろう。
 モーテルの管理人ボビーの存在も大きい。彼は立場的にはヘイリーから宿泊費を徴収し、年中トラブルを起こす彼らを管理しなければならないところにいる。だが、彼らが置かれた貧困の現実にも思いを致す優しさを持ち合わせていて、口ではきついことも言いながら、ムーニーやヘイリーのことを折に触れ見守っているのである。だからこそ、ラストの現実を見詰める彼の悲しげな眼差しが強く印象に残るのである。
 ヘイリーを母親失格と断ずることは簡単だが、そちらには向かわないこの監督の姿勢に共感が持てる。まったく八方塞がりの貧困を描いていながら、この映画がまったく暗さとは縁がない、瑞々しい明るさに貫かれていたことは驚きである。そういう意味で、かなり鮮やかに記憶に残る映画だったと思う。
(新宿バルト9、5月14日)
by krmtdir90 | 2018-05-15 10:23 | 本と映画 | Comments(0)


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