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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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2018年 06月 13日 ( 1 )

映画「万引き家族」

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 わたしは映画を離れていた期間が長く続いたから、是枝裕和監督の作品は「海よりもまだ深く」(2016年)が最初で、あとは「海街dialy」(2015年・TV視聴)と「三度目の殺人」(2017年)を見ただけである。「三度目の殺人」はもう一つという感じだったが、「海よりもまだ深く」が凄く良かったので(「海街…」も良かった)、この監督はマークする必要があると思って次作を待っていたら、何とカンヌで最高賞のパルムドールを受賞してしまった。
 この映画はある意味きわめて日本的な、それも現代日本の多くの矛盾や問題点を正面から描いた映画だと思うが、それが外国の審査員の目によって評価されたというのは素晴らしいことである。社会の底辺に生きる人間を暖かい視線で見詰めた、是枝監督の映画作りの率直な姿勢が、ストレートに見る人の心に響いたということだろう。
 見ていて、いろんなことを考えてしまう映画だった。是枝監督はこれまでも様々な家族のかたちを描いてきたようだが、「海よりも…」や「海街…」は、その家族のストーリーが比較的閉じた中で展開していたのに対し、この映画は、家族が周囲の社会との関係で厳しく問われてしまうストーリーになっていた。そもそもこの家族は、社会的一般的な意味での家族の要件を満たしていない。是枝監督はしかし、この「擬似」家族の日常を、きわめて肯定的な視線で見詰めようとしている。これ、すごくいい家族なんじゃないかと言いたげな雰囲気を感じたのである。是枝監督はこの家族の姿を通して、現代日本の抱える様々な社会問題を問いかけようとしている。
(以下、この感想文は完全なネタバレになっています。まだ見ていない人は、見てから読むことをお勧めします。すごくいい映画なので、ぜひ白紙の状態で見てからこれを読んでほしいと思っています)。

 まず何よりも、貧困ということが大きい。
 東京の片隅の、高層マンションやアパートが建ち並ぶ一画に、ぽつんと忘れられたように残る古びた平屋の木造家屋に暮らす家族である。映画では、この擬似的な(嘘の)家族がどのようにして出来たのかというところは、あまり詳しくは語られていない。この擬制の家族の根っこを支えているのは祖母・初枝(樹木希林)の年金だが、彼女はそれと引き換えに独居老人という寂しさから救われているようだ。「誰にも気付かれずに死ぬのは嫌だからね」というようなセリフがどこかにあったと思う。
 もちろん、祖母を含めて6人の家族が生活するのに年金だけでは足りない。だから、家族はそれなりに働いてわずかな賃金を得てはいる。夫(父親)の治(リリー・フランキー)は日雇いの工事現場に出ているが、映画の序盤で足の骨を折って(ひびが入って)働けなくなってしまう(労災にはならないらしい)。妻(母親)の信代(安藤サクラ)はクリーニング工場でパートをしているが、中盤でリストラされて働き先を失ってしまう。亜紀(松岡茉優)は初枝の孫だったらしいが、マジックミラー越しに客と会話するJKリフレの店でアルバイトをしている(給料は入れていなかったようだ)。
 いずれにしても彼らにはきわめて貧しい生活しかなく、治は日常的に車上荒らしや万引きをして日々の生活に必要なものを入手している。万引きに同行するのは子どもの祥太(城桧吏)で、映画の冒頭に2人の連係プレイの様子が捉えられている。戦利品を抱えて夜道を帰る彼らが、道路に面した団地の外廊下で蹲って震えている(季節は冬なのだ)女の子を見かけ、家に連れ帰ってしまうというのがストーリーの始まりである。ゆりと名乗ったこの子(佐々木みゆ)を家族の一員とする経過が、この擬似的家族の成り立ちを想像させるものになっている。

 「可哀想だったから」というのが治の言い分なのだが、「もう少し金目のものを拾って来なよ」という信代の言葉には曖昧に笑うしかない。信代はそれでも温かいうどんなどを食べさせ、眠っているゆりを深夜に2人で返しに行くのだが、部屋の中から「産みたくて産んだんじゃない」と罵り合う夫婦の声が漏れてくるのを聞いて、ゆりの身体のあちこちに虐待の痕跡を見つけていた彼らは、この子を置いてくる気になれなくなってしまうのである。
 この映画の中では、幼児虐待や育児放棄といった問題も大きく取り上げられている。信代も子どものころに親から暴力を受けていたことが明かされているし、子どもの祥太もかつて駐車場の車内に放置されていたところを拾われた(救われた)のだということも明らかにされている。祥太はいまはこの家族にすっかり馴染んでいるように見えるが、治のことをお父さんと呼ぶことにはまだためらいがあることも描かれている。
 2ヵ月が経ったころ、テレビで5歳の女の子が行方不明というニュースが流れ、ゆりの姿が画面に映し出される。親戚に預けたという両親の言葉を不審に思った児相が問い詰めて、事件が明るみに出たのだった(虐待の事実は児相も把握していたということだろう)。治と信代はゆりに「帰るか?」と問うが、彼女はこの家族の元に残りたいと意思表示する。彼らはゆりに(実際はじゅりという名前だったようだが)りんという新しい名前をつけてやる。
 この時の信代の言葉が印象的だった。「自分で選んだ方が強いよね」と言って、「何が?」と聞かれると、照れたように「キズナよ、絆」と言うのである。

 彼らが祥太やりんに見せる父親ぶりや母親ぶりは、実生活で子どもを持てなかったからということもあるのかもしれないが、どんな現実の親子より真っ直ぐな思いに貫かれていたと思う。
 実際には、治は父親として祥太に万引きの仕方を教えてやるくらいしかできないし、信代と初枝もりんを連れて、子ども服売り場に服や水着を万引きしに行ったりするのである。もちろん、そんな親子関係があっていいはずはない。しかし、この家族が貧しい家の中に作り出していた、何とも居心地のいい暖かさは本物だったと認めるしかないだろう。狭苦しく足の踏み場もないような汚い部屋であっても、りんがそこで初めて安らかな日々を送ることができると感じたのはよく判るのである。
 家族で出掛けた夏の海水浴のシーンが何とも切ない。この家族が嘘の家族なのだということは、このあたりまでに観客にはほぼ伝えられている。だが、この一人一人が本当に切実に家族というものを求めていることが伝わってきて、痛いほど心が揺さぶられてしまった。
 水際で戯れる5人の姿を、離れた砂浜に座って一人見ている祖母・初枝の微かな笑みが印象的だった。映画では、間もなく彼女は、夜のうちにひっそりと死んでしまうのだが、葬儀費用のない彼らは遺体を風呂場の床下に「埋葬」してしまう。治と信代は初枝のへそくりを見つけて狂喜し、さらにその死を隠して年金を不正に受給し続けるのである。当然これらは、社会的には断罪されなければならない行為だが、なぜ彼らがそんなことをしたのかというところで、是枝監督は彼らを一方的に断罪するような立場にはまったく立とうとしていない。

 家族はこのあと、彼らが重ねてきた行為が知られてあっけなく崩壊してしまう。そのきっかけを作ったのは祥太の成長である。
 新たに家族になったりんは、歳の近い祥太に年中くっついて歩くようになる(この2人のシーンは見ているのが辛い。髪はボサボサだし、着ているものは薄汚れているし、映画というのはそれを映すだけで彼らの境遇をすべて明らかにしてしまうのだ)。祥太は自然に、りんに万引きの仕方を教えるようになるのである。だが、祥太が一人の時に時々万引きをしていた小さな雑貨屋(駄菓子も売っている)で、連れて行ったりんの万引きが見咎められてしまうのである。老主人は細いゼリー菓子を2本祥太に手渡し、「妹にはやらせるな」と小声で言うのである(柄本明・絶品の芝居)。
 このことがあってから、祥太の中で小さな疑問と罪悪感が芽生え始めたのだろう。治に連れて行かれた車上荒らしの現場で、彼なりの小さな正義感のようなものをぶつけたりするようになる。また別の時、りんと2人で出掛けたスーパーで、りんを外に待たせて一人で万引きをしに店内に入るのだが、後を追ってきたりんが品物に手をかけるのを見つけたところで、店員の注意を逸らすため積まれた品物を床にぶちまけ、夏みかんのネットを一つ掴んで外に駆け出すのである。
 祥太の中で、父親・治が教えた万引きを正当化する論理を超えて、雑貨屋の老主人が教えたことが大きな意味を持ち始めていたのである。彼は店員に追い詰められて、高い段差のある下の道路に飛び降りて足を骨折し病院に収容される。警察が前面に出て来て、家族は家族であることを証明できなくなってしまう。家族は祥太を病院に残したまま夜逃げを試みるが、結局見つかってしまう。

 彼らが作って来た「絆」は、突然直面させられた「社会」の前でいとも簡単に霧散してしまうのである。「祥太は後で迎えに来る」と治は言っていたが、警察に追い込まれて狼狽するしかない彼に、もう(擬似)父親ぶりを発揮する場面は残されていないのである(こういう役をやらせると、リリー・フランキーはホントに上手い)。警察の取り調べで、女性刑事に「子どもに何て呼ばれてたんですか」と問われ、(擬似)母親の信代は何も答えることができない(確か「何でしょうね」と言っていたと思うが、この長い沈黙の続くクローズアップで安藤サクラが見せた演技は見事なものだった)。
 取り調べの過程で、治が昔、信代の夫だか愛人だかを殺して埋めていたらしいことが明らかになるが(服役したのかどうかははっきりしない)、今回の死体遺棄と年金詐取の罪は治が絡むと面倒になるので、信代が単独で背負って刑務所に入ることになる。「(家族の生活が)すごく楽しかったんだから、ぜんぜん気にしていない」というような言葉を、彼女は治に向かって言っていたと思う。
 松岡茉優がやった亜紀のことはほとんど触れていないのだが、家を出てここに転がり込んだらしい彼女は、祖母には愛されていると思い込んでいたが、祖母が定期的に実家を訪ねて金をせびっていたことを知って、裏切られた思いに駆られたりしている。いずれにせよ、祖母が死んだあとは彼女がこの家族とともにいる理由はなくなっており、彼女はこの先、一人で何とか生きていくことになるのだろう。
 報道されたテレビニュースが映し出されるが、それによれば、2人の子どもたちは助け出されたのであり、法律に則って保護されることになったのである。

 時が経ち、また冬が来たころ、施設に入って生活するようになった祥太が治に会いに来て、一人住まいのアパートに一晩泊まっていくエピソードが最後に置かれている。夜、雪が降り、二人はアパートの前の路地で小さな雪だるまを作ったりする。翌朝、雪はすっかり上がっていて、雪だるまはもう溶けかかっている(見え透いた小道具などと言うつもりはない)。バス停に向かって歩きながら、治は祥太に「俺、おじさんに戻るから」と言うのである。祥太が乗り込んだバスが発車すると、見送っていた彼は突然走り出してバスの後を追うのである。もちろん追いつけるはずもないのだが、車中でそれを見ていた(見るのを途中でやめた)祥太は、唇で小さく「お父さん」と言ったのだろうか。
 いずれにせよ、ここにははっきりと成長の跡が見える祥太がいた。彼は確かにこの擬似家族に救われたが、そこでの生活を通り抜けて一歩前に踏み出したのだ。父親役を必死に演じた治だけが、一人取り残されてしまったのだ。
 りんの場合はどうだったのか。映画のラストシーンは、団地の1階の外廊下で一人で遊んでいるりんの姿を捉える。少し前には、室内で母親に邪険に扱われる姿も描かれていた。虐待は少しは治まったと信じたいが、彼女は本当の家族の元に帰って幸せになったとはとうてい思えないのである。ふと遊びの手を止めて、手すりに寄りかかって遠くを見やるような彼女のカットで画面はプツンと暗転する。彼女はあの擬似家族との日々を思っていたのに違いない。だが、いまの日本社会にそんな家族を許容する余地はあり得ないのだ。たぶん、そのことを是枝監督は怒っているのだと思った。

 つい先日見た「フロリダ・プロジェクト」のことを思い出した。また、つい最近板橋で起こった幼児虐待死の事件を思い出した。子どもはどういう親の元に生まれるかを自分で選ぶことはできないという事実の残酷さ。だからこそ、寓話に過ぎないと笑われたとしても、「自分で選んだ方が…」という信代の言葉はとてつもなく深く重い。自分で選ぶことができなくて、たった5歳の子どもがあんな悲しい日記を残して死んでしまったのだ。この子の家の前を「万引き家族」が通りかかることはなかったのだ。それは悔しいことである。
 たぶん数年と思われる刑期を終えて、出獄した信代がまた治と一緒に生活するようになって、りんとまた新しい擬似家族を作る未来はないのだろうか、などと考えてしまった。映画はフィクションなのだから、そんなことを考えてしまう余地は残されている。この家族を卒業した祥太や亜紀も、時々は遊びに来ることもあるのではないか。そのくらい忘れ難い「絆」を、この家族は作っていたのだと感じた。
 パルムドールを取ってしまったから言いにくいが、たぶん今年のベストワンになる映画だと思った。
(イオンシネマ日の出、6月11日)

by krmtdir90 | 2018-06-13 17:29 | 本と映画 | Comments(0)


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