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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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2018年 10月 09日 ( 1 )

映画「判決、ふたつの希望」

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 これは予想外の「大当たり」だった。裁判ものらしいし、地味な映画だろうと予想していたが、実に見応えのある骨太なエンターテインメントになっていたのに驚いた。
 レバノン映画(フランスとの合作)というのは初めてだった。レバノンの複雑な社会状況が反映された映画で、始めのうち若干判りにくいところもあったが、映画そのものがそれを自然に学ばせてくれるような展開になっていて、レバノンのことを何も知らなかったわたしも、見終わっていろいろなことを知ることができたように思った。これはかなり凄いことである。

 レバノンの首都ベイルートの工事現場で小さな諍い(口喧嘩)が起こる。当事者の2人、違法建築の補修工事をしていた現場監督のヤーセル(カメル・エル=バシャ)はイスラエルから来た難民(イスラム教スンニ派)のパレスチナ人、その建物の2階に住むトニー(アデル・カラム)はレバノン軍団という右派政党(キリスト教マロン派)を熱狂的に支持するレバノン人である。映画は、小さな自動車修理工場を営むトニーの方に若干ウエイトを置きながら、ことの成り行きを描いていく。
 諍いの背景には、レバノンにおけるパレスチナ難民の微妙な立場が関係しており、レバノン人トニーはかねてよりパレスチナ人の増加に反感を抱いていたという設定である。上司の説得で不本意ながら謝罪に訪れたパレスチナ人ヤーセルに対し、トニーがみずからの正義を譲らず強い言葉で罵ったため、怒ったヤーセルが暴力に訴えてトニーを負傷させてしまう。その結果、トニーの告訴で争いは裁判に持ち込まれることになり、彼らの背景をなす宗教や出自、さらには歴史的経緯や政治的立場などがからんだ大騒動にまで発展してしまうという物語である。

 レバノンは、調べれば調べるほど複雑な内情を持った国だというのが判った。それは、この国が中東では珍しい多民族・多宗教国家であることから発したもののようだ。宗教的にはイスラム教各派・キリスト教各派など合わせて18宗派が乱立し、加えて様々な民族を背景とした政治的勢力が消長を繰り返し、さらにパレスチナ解放機構(PLO)やヒズボラ(イスラム教シーア派)といった過激派組織、イスラエルやシリアといった近隣諸国の思惑などが複雑にからみ合い、激しい紛争や内戦(1975~90年)が延々と続いてきたということらしい。
 諍いの当事者2人もこうした歴史に翻弄されてきた人物であり、そのことが裁判の進行とともに次第に明らかになってくる。現在のレバノンには、過去の様々な経緯や対立の残滓がまだ至るところに残っていて、何かきっかけがあればそれが一気に吹き出すような危うさが隠れていたのである。裁判のニュースが報道されると、それがレバノン人とパレスチナ人の根深い対立に火を点け、衝突や暴動が各所で勃発する不穏な事態に発展していく。2人はもちろん、彼らの弁護士も引くに引けない状況となっていく中で、映画は一回目の判決、さらに控訴審の判決までを、すべてを真正面から堂々と描き切って見せるのである。「真正面から堂々と」というのが、レバノンにおいてどんなに困難なことかは容易に想像される気がした。

 種々の対立が現実のものとして存在している以上、どのような判決もすべての人を納得させるものとはなり得ない。映画の結末も同じことで、レバノンの現況を考えれば、この映画が越えなければならないハードルは恐ろしく高いのではないかと思われた。映画に引き込まれるにつれて、この監督(ジアド・ドゥエイリ)はこの映画をどう着地させるつもりなのかと心配になった。どんな解決も想像できない状況が見えているのである。そもそも、両者が納得することなど決してあり得ないような設定なのである。
 それでも、いや、それだからこそ、この映画を作らなければならないと考えたレバノン人ドゥエイリ監督の思いはしっかりと伝わってきたように思う。
 下された判決は2対1で、被告人ヤーセルを無罪とするものだった。だが、そこに至る弁護人や裁判長の応酬から、2人がこれまでたどって来た苦難の半生が明るみに出され(レバノン国民なら誰も忘れていない、だが忘れたいと思っているのかもしれない出来事が幾つか掘り起こされる)、対立の背景に横たわる一筋縄ではいかないレバノンの不幸な現実が見えてきたのである。どんなに辛い思い出だったとしても、そこまで遡らなければ何も始まらない(前へは進めない)とドゥエイリ監督は言っているのである。

 この映画は、終盤に近い二つのシーンで、2人の間に生まれた小さな変化を捉えている。それはどういう意味を持っていたのか。その描き方は、普通一般にイメージされるような和解のかたちを取ってはいない。だが、それは確かに希望の萌芽を感じさせる印象的なシーンになっていた。
 一つ目は、裁判所を出た2人が互いを意識しながらそっぽを向き、それぞれの車に乗って帰ろうとしたシーン。トニーの車が出て行った後、ヤーセルの車がエンストを起こしてしまう。ボンネットを開け途方に暮れるヤーセルの姿をバックミラーで見たトニーは、戻って行って修理してやるのである。自動車修理工として放っておけなかっただけで、おまえを許しているわけではないという雰囲気を精一杯漂わせながら、彼は終始硬い表情のまま去って行く。
 二つ目は、控訴審の大詰めが近いある夜、法廷でそれぞれの出自や決定的な過去が明らかになった後のこと、トニーの修理工場を訪ねたヤーセルが、何を思ったか突然激しい言葉でトニーを罵り出し、怒ったトニーが彼を殴ってしまうシーン。ヤーセルは告訴の原因となった暴力の時とは逆の状況を意図的に作り出し、その後で短く謝罪するのである。この前はおまえの痛罵に怒って俺は暴力を振るったが、今度は俺の罵倒に怒っておまえが暴力に訴えた。これで「あいこ」だとヤーセルは言いたかったのかもしれない。
 彼ら2人は結局、最後まで普通に言葉を交わし合うことはない。だが、お互いに相手を憎み、相手を全否定する言葉を投げつけたりすることからは、憎悪の連鎖以外に何も生まれないとドゥエイリ監督は言っているように思えた。

 そのことは決して声高に主張されていたわけではないし、上の二つのシーンでも、監督はむしろ実に控え目に短時間でサラリと描写していたと思う。少しでも情緒に訴える描き方をしてしまったら、そんな甘っちょろい展開はあり得ないという気分になってしまっただろう。裁判のシーンなどに見られたこの監督のダイナミックな演出力は、一方で、地にしっかり足をつけて対象を見詰める謙虚な感性に支えられていたことが判るのである。
 2人を担当した弁護士を、正反対の立場に立つ父と娘と設定したことは、やや作為的なきらいはあるもののよく生きていたと思った。レバノンの複雑な国情を考えれば、父娘が同じ弁護士の道に進んだとしても、まったく異なる考えや政治的立場を取ることも珍しいことではないのだろう。この2人の場合も、安易な和解の道は閉ざされているのであり、控訴審の判決後にも2人はわずかに視線を交差させるだけで、その場で言葉を交わすことはないのである。
 実際、レバノンの国民は様々なかたちで分断されているのであって、それは裁判官(3人制を取っていたようだが)とて同じだったと考えられるのである。自らの背景や立ち位置は三者三様だっただろうし、それに照らして一方に傾いた判決を下すことも、ないとは言えないのが現実だったのかもしれない。ヤーセル無罪の判決結果は、たまたまヤーセル側が2人、トニー側が1人だったということに過ぎなかったのかもしれない。

 だが、だからこそドゥエイリ監督は、これら登場人物の些細な表情の変化も見逃すまいとしているように見えた。そんなことは映画のどこでも言ってはいないが、対立や違いを超えて一人一人の人間というところに下りて行けば、そこに思いがけない希望の萌芽を見出せるのではないか。
 この映画で監督は、トニーの妻ハンナ(リタ・ハーエク)を身重と設定し、今回の一連の経過の中で彼女が早産し赤子が危険な状態の陥る展開を用意している。彼女は夫の性向を理解しているが、その過激さについて行けない気分も抱えていた。だが、自分と赤子がこうした事態になってしまったことについて、すべてがヤーセルのせいだと憎しみを募らせる夫に対し、自分にもまったく同じ思いが湧き上がるのを意識しつつ、それが何の解決ももたらすものではないことも判っているのである。赤子の無事を祈る思いでまったく重なり合う2人は、それぞれの憎しみと、その憎しみの空しさをも自然に理解し合っていたように見えた。保育器の中の赤子をともに見詰めながら、彼らには赤子が助かってくれることだけが重要なのであって、そのことの前ではどんな憎悪も無意味なものになってしまうことは、確かに受け止められていたように思われた。
(シネマート新宿、10月7日)
by krmtdir90 | 2018-10-09 14:50 | 本と映画 | Comments(0)


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