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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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2018年 10月 31日 ( 1 )

映画「500ページの夢の束」

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 ダコタ・ファニングが素晴らしい。彼女が演じるウェンディは自閉症の少女である。主人公をそのように設定したことにはたぶん大きな意味があるが、映画は彼女をそういう存在として特別扱いはしていない。生きる上での得手不得手は誰にでもあるもので、彼女は不得手をちょっと多めに抱え込んでいるけれど、それは少しも決定的なことではないと言いたげである。こういうふうに描いたことがこの映画の美点であり、見終わった後に爽やかな印象を残した大きな要因になっていると思った。

 自閉症はきわめて多様な側面を持つ病気で、その症状は人によって様々な現れ方があるようだ。映画は最初に、自立支援ホームに暮らすウェンディの日常を点描していくが、その視線は自閉症というフィルターを通して彼女を見るのではなく、普通とはちょっと違った個性を持った女の子という捉え方をしていたように思う。この見方は公平で好感が持てるものだったし、自閉症を必要以上に強調しないことで、彼女が体験する物語が非常に普遍性のあるものになったと思った。
 彼女は確かに、対人関係を作るのが苦手だし、周囲とコミュニケーションを取るのもうまくないけれど、たぶんそれ故に、周りとつながりたいという思いを人一倍強く持っているように見えた。そういう感じが判るような描き方を、この監督(ベン・リューイン)はしていると思う。
 監督はウェンディの自閉症を、活動や興味の偏りという側面で特徴づけようとしているように思えた。曜日ごとに着るセーターの色を決めていたり、毎日を一定の行動パターンで規則正しく過ごそうとしていたり、こういう彼女特有の微笑ましい生活様式が、ユーモアを持って一つ一つ温かく描かれていたように思う。

 もう一つ、彼女の自閉症には重要なポイントがあって、それは彼女が「スター・トレック」に強い愛着を持っていることである。「スター・トレック」の知識なら、誰にも負けることのない「オタク」なのである。彼女は毎日のテレビ放送を欠かさず見ているし、「スター・トレック」の登場人物を自由に動かして、自分なりの物語を創作して楽しんでいたりするのである。
 わたしは「スター・トレック」をまったく知らないのだが、書かれたものを読むと、スポックという主要人物の一人が(自閉症に似て)意思の疎通や感情表現に困難を抱えるキャラクターになっていたらしく、この映画ではウェンディがそこにみずからを重ね合わせているという設定(描き方)になっていたようだ。彼女にとって「スター・トレック」は、自分と周囲の世界とをつなぐ重要な回路になっているということだったらしい。

 ウェンディはある時、「スター・トレック」誕生50周年記念の脚本コンテストが行われることを知り、自分も応募してみようと決意するのである。ところが、ようやく書き上げた脚本を郵送する時になって、土日が間に挟まるので郵送では締切日に間に合わないことに気づいてしまう。彼女は混乱する気持ちを必死で落ち着かせ、ロサンゼルスのパラマウント・スタジオまで、バスに乗ってみずから脚本を届けようと決意するのである。
 これは、自閉症の少女にとってはきわめて無謀な行動である。自閉症には普段と違う道を通ることが苦手という傾向があり、彼女は自立支援ホームとバイト先とを行き来する以外に、単独でそれ以外の場所に出たことなどほとんどなかったのである。
 一度も歩いたことのない道に一歩を踏み出し、行ったことのないバス乗り場を探して、知らないカウンターで買ったことのない切符を買い、初めての長距離バスで初めての都会に出て行くのである。それがどんなに困難な旅であるかは容易に想像がつく。

 だが、ここでちょっとだけ意地悪な見方をすれば、この映画はゴールの判っているロードムービーなのであって、ウェンディは様々な困難にぶつかるけれど、最後にはそれを乗り越えて、無事脚本を届けることができましたというエンディングが用意されているのは見えているのである。
 それでも、観客が彼女と一緒にこの不安な旅に出て行こうという気になるのは、ここまでの彼女への共感度の大きさ以外には考えられないと思う。この映画は、主人公の少女を実に魅力的な存在として描き出すことに成功しているのだ。自閉症であることは彼女にとってハンディには違いないが、彼女がそれでも行きたいと考えてしまった以上、観客としてはそれにどこまでもついて行かなければならないという気にさせられてしまうのである。実際、彼女はどんな事態になっても歩みを止めない。その頑ななまでの思いの強さに、いつしか周囲は絡め取られていくしかないのである。
 支援ホームでウェンディをケアしてきたソーシャルワーカーのスコッティ(トニ・コレット)や、ウェンディと気持ちが行き違ったままの姉のオードリー(アリス・イヴ)が、彼女の失踪を知って後を追うことになるのも、厄介な彼女を迷惑に思ってのことではなく、彼女の思いを理解し共感したいためであるように見えていたと思う。

 みんなウェンディのことが好きなのだ。これがこの映画の基調となっている感情である。それは素晴らしいことなのではないか。
 最後の段階では、彼女はスコッティの車で、姉のオードリーとスコッティの息子のサムも一緒に、締め切り時間ギリギリにパラマウント・スタジオに到着する。このあと、彼女はみんなを車に残し、脚本の封筒を抱えて一人だけで横断歩道を渡って行く。一人でスタジオに入って行く彼女の真っ直ぐな表情ががいい。彼女は一人でハードルを越えたいのだ。
 だが、担当者が意地悪な男で、郵送以外では受け取れないと機械的な対応を取られてしまい、ああ彼女にはここを突破するのは無理だと思った次の瞬間、彼女が思わず感情を迸らせるシーンがすごく良かった。正確には覚えていないが、彼女は「わたしもみんなと同じようにチャンスがほしい」というようなことを言ったのだ。それはもちろん脚本を受け取ってほしいということを言ったのだけれど、同時に人間関係やコミュニケーションがうまくできない自分のことも言っていたのだと思った。このあと彼女は、予想外の機転を利かせて脚本を受け取らせることに成功するのだが、彼女はその時、確かに一つの階段を上がっていたのだと思う。

 だから、彼女の脚本が入選しなかったことはもう大したことではないのだ。映画はこのあと、ウェンディが姉のオードリーの許に帰る場面を描いて終わることになる。
 彼らの身の上について、映画はあまり詳しくは語ってこなかったけれど、母子家庭で育ったらしい2人は、母が死んだ後はオードリーが自閉症のウェンディの面倒を見てきたということだったらしい。オードリーが結婚して出産したため、ウェンディと一緒に生活することが難しくなって、彼女を自立支援ホームに預けたということだったようだ。
 映画の最初の方で、ホームに面会に来たオードリーに、ウェンディが帰りたいと訴えて感情を抑えられなくなってしまうシーンがあった。最後になって考えてみると、この映画が描いたウェンディの旅は、オードリーと一緒の家に帰るために彼女自身がみずからに課した試練だったようにも見えてくるのである。「スター・トレック」の脚本を本当に届けたかったのは姉の許だったということが、ラストシーンに鮮明に描かれていたと思う。
 オードリーの側から見ると、彼女がウェンディの必死の行動を見て、もう一度ウェンディとの旅を始めることを決めたというのが、この映画のエンディングだったのかもしれない。
(新宿シネマカリテ、10月29日)
by krmtdir90 | 2018-10-31 21:37 | 本と映画 | Comments(0)


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