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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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映画「女は二度決断する」

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 この映画のストーリーには救いがない。救いがないからいけないと言うつもりはないし、何らかの予定調和で終わられるよりも最後の衝撃は大きかったと思う。だが、映画が終わった後も、こういう終わり方になってしまうしかなかったことへの複雑な思いが残り続けた。
 結末は復讐なのだが、彼女の一度目の決断では後に残るのは空虚だけだということが彼女にも判ったのだろう。二度目の決断は、彼女にとっては夫と息子のいる「向こう側」に行くということであって、そこに積極的な選択という側面があるということである。彼女がそこに救いを求めるしかなかったということは理解できる。一方で、正義がなかなか貫かれない社会の不条理はそのまま残ってしまうわけで、救いがないという印象はそこから来るものだと思う。

 ドイツは移民大国と言われ、それを快く思わない極右集団(ネオナチ)によるテロ事件が実際に起こっているらしい。監督・脚本のファティ・アキンはトルコ系移民の血を引いているというから、こうした社会的な矛盾や暗部を見詰める視線には非常に厳しいものがある。
 主人公のドイツ人女性カティヤは、学生時代に知り合ったトルコ系移民のヌーリと結婚した。彼は麻薬取引に絡んで獄中にあったが、それを乗り越えての結婚だった。出所後、彼は真面目に働き、二人の間には6歳になる息子ロッソができていた。この夫と息子が爆破事件の犠牲となり、カティヤは突然不幸のどん底に落ちてしまうというのが発端である。
 当然彼女は悲嘆に暮れることになるが、この映画のいいところは、彼女を被害者という単一の色に染めてしまわなかったところだと思う。もちろん彼女の絶望の深さはこれでもかと描かれるのだが、やって来た両親や捜査に当たる刑事の描き方などに、ステロタイプに流れることを許さない鋭い目が向けられている。カティヤの描き方にもそれは届いていて、彼女は決して品行方正な受け身の女性としては造形されていない。彼女の身体にはタトゥーがたくさんあるし、タバコやお酒もやり、悲しみを紛らわせるためにクスリにまで手を出したりするのである。両親とのやり取りなどから、彼女があまり幸せな育ち方はしていなかったことも見て取れる。逆にそのことから、彼女にとって夫と息子との生活がどんなに大切なものだったかが浮かび上がるのである。
 警察は最初、麻薬なども絡んだ移民同士のトラブルではないかと疑い、ネオナチの仕業だというカティヤの見方は積極的には受け入れてもらえない。ファティ・アキン監督は、ドイツ社会の根底に移民に対する偏見や差別意識が流れていることをさりげなく感じさせている。
 結局、ネオナチの若いドイツ人夫婦が逮捕され、今度はその裁判の過程が逐一描かれていくことになる。カティヤは友人の弁護士とともにこれに立ち会うが、この裁判の描き方もまったく容赦のないもので、被告側の弁護士の(プロとしては当然のことをしているだけだろうが)嫌らしさなどは唖然とするくらい際立った描写が並べられている。そして、結果は(予想に反して)証拠不十分で容疑者は無罪釈放となってしまうのである。
 この後のことは、まあ一応の礼儀としてネタバレさせずにおくのがいいのだろう。最初のところに少し書いてしまった気もするが、それ以上書くのはやめておく。

 映画の展開の緊迫感は素晴らしいもので、ストーリーはどこまでも暗く救いのないものだが、そこに描かれているものからまったく目を離せないまま、最後のカティヤの決断に向かってぐいぐい引きずられていくしかなかった。これはもちろんファティ・アキン監督の演出力の結果であるが、それ以上にカティヤを演じたダイアン・クルーガーの演技によるものである。わたしは長いこと映画から離れていたから、この女優を観るのは初めてだったが、この繊細で力強い(基本的には押さえた)感情表現の見事さには舌を巻いた。カティヤの最後の決断を、ここまで説得力を持って演じ切るのは並大抵のことではないと思う。
 非常に現代的で多様なテーマを含んだ映画だが、それがこんなふうに完璧な娯楽映画として成立していることが驚きだった。こんなにスリリングでサスペンスフルな映画も、めったにお目にかかれるものではない。
(新宿武蔵野館、4月16日)
# by krmtdir90 | 2018-04-17 18:30 | 本と映画 | Comments(0)

映画「港町」

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 分類をすればドキュメンタリー映画ということになるのだろうが、想田和弘監督はみずからが作る映画を「観察映画」と呼んでいて、これはその第7弾になるものなのだという。想田監督の映画を観るのは初めてだったが、その世界にすっかり惹き付けられてしまった。

 プラグラムに監督自身が唱える「観察映画の十戒」なるものが載っている。「被写体や題材に関するリサーチは行わない」から始まって、「被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、原則行わない」とか「台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない」「必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す」といった、なかなかに興味深い「戒め」が列挙されている。
 基本的な考え方は先日観た「苦い銭」の王兵(ワン・ビン)監督に似ていると思ったが、映画としての方向性は少し異なっているように思われた。想田監督は1993年以降、普段はニューヨークに住んでいて、撮影のために(その時だけ?)日本を訪れて、その時の興味のままに日本の何かと向き合って撮影しているということで、恐らくそのことが関係しているのかもしれないと思った。この映画では、瀬戸内海に面した岡山県牛窓町(2004年の町村合併で、現在は瀬戸内市の一部となっている)というところでカメラを回し、その海辺の町に暮らす人々の日常を映画に収めている。
 被写体となるのは主として一人暮らしの老人たちで、彼らはカメラを向けられると、その前で訥々と、あるいは思いがけず雄弁に、様々なことを語ってみせるのである。本来寡黙であっただろう彼らが語り始めるまでに、恐らく長い助走があったに違いないと想像される。だが結果的に、カメラは確かにその撮影過程の中に、彼らの人生、あるいは見え隠れする共同体のかたちといったものを掬い取っているのである。何ということもない日常の細々とした断片なのだが、それらがこんなにも豊かな表現になりうるということが驚きだった。

 この映画のスタッフは考え得る最小の構成である。監督・製作・撮影・編集:想田和弘、製作:柏木規与子。これで終わりなのだ。たった2人で映画を撮ることが可能になったのは、映画がフィルムからデジタルに変わったからである。尺を気にすることなく気の済むまでカメラを回し続ける、こういう「観察映画」が成立するようになったのもこのためである。そして、このことがいま映画の大きな可能性を広げているということなのだろう。
 2人が牛窓でカメラを回し始めた時、多くの住民は遠巻きにそれを眺めるばかりだが、妙に馴れ馴れしく近寄ってくる住民もいるのである。クミさんという老婆なのだが、撮影の2人は(すぐにそれに飛び付くのではなく)彼女とある程度の距離を保ちながら、何となく彼女に導かれるようなかたちで、この町の古い共同体の中に入って行くのである。

 始まりは、彼女がワイちゃんと呼ぶ耳の遠い腰の曲がった漁師である。黙々と魚網を縫う姿から始まり、彼が船を出して網を仕掛け、再び船を出して網を引き上げる過程を、じっくりと「観察」し始める。上げた網に絡みついた魚を、一匹一匹外していく手許を飽きることなく凝視する。港に戻り、水揚げをして、港に付随した小さな市場に運び、仕分けをしてそれが競り落とされていく様子を、引き続き淡々と「観察」していくのである。こうした、これまでこの町でずっと繰り返されてきたであろう日常が、何とも興味深く面白いものに感じられたのは不思議なことである。
 カメラはさらに、数人の競りの中にいた一人の後について、箱詰めされた魚とともに集落の中にある小さな魚屋へと向かう。夫婦が営む魚屋で、今度は魚に若干の加工を施したり、売り場に出すためのパック詰めの手作業などを「観察」する。それを買いに来る近所の人たちや、お得意に配達して回る軽トラックの助手席に同乗して、その先で出会う人たちとのやり取りなどをカメラに収めていく。また、店に来て、捨てられる粗(あら)を貰っていく女性について行ったりする。彼女が狭い台所で粗を煮始めると、どこからともなく猫がたくさん集まって来て、彼女がこれを残り飯と混ぜて猫たちに与えていることが見えてくる。また、カメラの2人がこの女性と(比較的若い女性で、この時は旦那さんも一緒だった)外の路地で話していると、たまたま通りかかった年配の女性がお墓に行くと言うのを聞いて、少し後から山の上の墓地に行って、今度はこの女性に話を聞いたりするのである。
 確かに「行き当たりばったり」であり、話を聞くといっても、こちらから何かを聞き出すというのではなく、相手が自然に話し始めるのを根気強く待っている感じなのである。その姿勢は非常に好感が持てるもので、こちらから何かを仕掛けるということがまったくないから、逆にそこにあるものが見えてきてしまうということが自然に実現されているのだと思った。

 圧巻だったのは、終わり近くになってからのクミさんの独白だった。彼女は時間の経過とともに、しつこいくらいカメラを回す2人に付きまとってくるようになっているのだが、ある日の夕暮れ時、丘の上の小学校跡が病院になっているから行ってみるといいと2人を誘うのである。もう暗くなるからと、2人は一旦は誘いを断るのだが、例によって何度も強く誘ってくるクミさんに根負けした感じで、彼女の後について坂道を上っていくことになる。
 この丘の上で、クミさんは不意に自分の過去について語り出す。幼い時から「まま母」に育てられたこと、息子と無理矢理引き離されてしまったこと(この経緯は、彼女が興奮してしまったこともあってもう一つはっきりしない)、希望を失い死のうとしたことなど。撮影する2人はほとんど聞き返すことをせず、そのため事実関係としてはよく判らないことが多いのだが、クミさんの中にずっと溜まり続けていた澱のようなものが、唐突に溢れ出てしまったこの瞬間を捉えてしまうのである。この時のクミさんは(言葉は変かもしれないが)鬼気迫るようなところがあった。
 まったく予期せぬものを、カメラは捉えてしまうことがある。だが、この映画はそのことに何らかの意味を与えたり解釈を加えたりはしていない。先の「十戒」には次のように記されている。「撮影は『広く浅く』ではなく、『狭く深く』を心がける。『多角的な取材をしている』という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む」「編集作業でも、予めテーマを設定しない」「観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す」。

 映画の最後に、クミさんが映画完成前に亡くなったという字幕が出る。そこには「追悼」という言葉が添えられていた。クミさんを始め、多くの人たちの姿がこの映画の中に捉えられている。予定調和の意味づけや方向づけが行われないことで、彼らは文字通りそこに生きた者として残されることになった。「十戒」には次のような言葉もある。「ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある」。
 この映画はモノクロームだったのだが、それがこの映画に奥行きを与え、観客の想像力をかきたてる力になっていたと思う。監督の言によれば、撮影はすべて(デジタルとして当然のごとく)カラーで行われたのだが、編集段階でモノクロームに変換してしまうアイディアが生まれたのだという。これは素晴らしいアイディアだったと思う。最後の最後にワンカットだけ、牛窓の港の情景がカラーで短く映し出されるのだが、その息を呑むような美しさが(特にどうということもない平凡な情景に過ぎなかったのだが)強く印象に残った。色彩にしてもナレーションや音楽にしても、それを敢えて除外することが限りなく豊穣な世界を作り出すということがあるのだ。
 上映時間122分、映画の思いがけない面白さを発見させてくれた、実に素晴らしい映像体験だったと思う。観に行って良かった。
(渋谷イメージフォーラム、4月13日)
# by krmtdir90 | 2018-04-15 11:08 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ラブレス」

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 アンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、海外の映画祭などで高い評価を得ているロシアの監督のようだが、何とも言いようのない冷え冷えとした映画なのに驚いた。現代のロシア(2012年秋~15年冬)を描いているのだが、この崩壊した家族には救いのかけらも見出すことができない。

 主人公の夫婦は現代ロシアにおいてはエリート層(富裕層)のようだが、2人の間にすでに愛はなく、いま離婚協議の真っ最中である。それぞれが外に愛人を作っていて、12歳の息子をどちらが養育するかを押しつけ合っている。自分のことしか考えていないこの夫婦、ジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)とボリス(アレクセイ・ロズィン)の現状を、ズビャギンツェフ監督は冷ややかな視線で凝視していく。技法的にはカメラをあまり動かさない長回しが多用され、観客としては感情移入しようのないこの夫婦の日常生活の断片や、情事の有り様などを長いこと見せられることになる。人によっては退屈してしまう人もいるのではないか。
 息子アレクセイ(マトヴェイ・ノヴィコフ)は、父母にとって自分が邪魔な存在になっていることを知っており、夫婦喧嘩の罵声を聞きながら涙を流したりする。彼は自身にはどうすることもできない被害者なのだが、映画は彼についてはあまり描こうとはせず、ほとんど点描する程度で彼に感情移入されるのを避けているように見えるのである。アレクセイは映画の中程で失踪し、後半は彼の捜索の様子が描かれていくのだが、彼は最後まで(彼としては)映画の中に現れることはなく、彼の視点は一貫してこの映画の中にはないのである。

 アレクセイは朝学校に行ったきり帰らなかったのだが、夫婦はそれぞれの愛人の元に泊まってその晩は帰らなかったため、2日続けて学校に来ていないという担任の連絡で初めてアレクセイの不在に気づく始末なのである。このあと、ジェーニャは警察に捜索願を出すのだが、ボリスの反応とともにこの2人が事態をどこまで深刻に考えているのかまったく不明である。また、捜索願を受けた警察の対応も驚きで、人手が足りないから民間の捜索救助ボランティアを頼ったらどうかと提案したりするのである。現代のロシアではこうしたボランティア団体が実際に活動しているらしいが、その献身的な捜索活動だけがこの映画の中の僅かな救いになっている。
 夫婦はボランティアのリーダー(コーディネーターと言うらしい)の指示で捜索に加わるのだが、こうした状況になってもどこか他人事のようで、口喧嘩も愛人との情事も自重するということにはならないのである。それどころか、妻の方は自分は結婚する気なんてなかったとか、子どもを産んだのは失敗だったとか、思い通りにならなかったことすべてを夫の責任にするような発言を繰り返す身勝手さなのである。
 一方で、無償の善意で行われるボランティア団体の組織的な捜索は非常に興味深いものだが、その必死の捜索によってもアレクセイを発見することはできない。手掛かりもなく捜索が行き詰まった時に、同じ年格好の少年の死体が発見されたという連絡があり、夫婦はコーディネーターとともに(妻の愛人も同道している)警察の死体置き場に検分に出向くことになる。

 このシーンは解釈の分かれるところなのかもしれない。シートを持ち上げて血だらけの無残な死体が一瞬だけ映されるが、ジェーニャは胸のほくろがないから息子ではないと否定するのである。意外な表情のコーディネーターは念のためDNA鑑定を勧めるが、ボリスも加わって2人はそれを拒絶する。わたしは死体はアレクセイだったと受け取ったのだが、ズビャギンツェフ監督はここのところを明確には描いていないのである。
 わたしが上のように考えた理由は幾つかあるのだが、一瞬映された死体の上半身は血だらけで損傷もあるようだったので、ほくろの判別はかなり難しかったのではないかということ。コーディネーターがDNA鑑定を提案したのも恐らくそういう理由があったと思われること。また、彼は経験上こうした場合に、受け入れたくない現実に対して思わず否定してしまうことが時にあるのだと発言していること。そして、何より大きいのは、外に出てしまったジェーニャは愛人の胸で、中に留まったボリスは床に蹲るようにして、ともにほとばしるような激しい慟哭を見せることである。死体の状況がどんなに目を覆うようなものであったとしても、自分の息子でなかったとしたらこの慟哭は説明がつかないくらいのものだったと思うのである。
 このシーンはこれで終わり、映画はこのあと、彼らのアパートのがらんとしたアレクセイの部屋になり、職人が入って壁紙を剥がしたりし始めるのところを映し出すのである。これがあの日から何日後のことなのかは判らない。何がどんなふうになったのかは描かれることはなく、しかし、事件が決着したことだけは確かに示されているのである。

 この部分の経緯を描かないことで、ズビャギンツェフ監督は実に多くのことを語っていると思う。語っていると言うより、想像させていると言った方がいいかもしれない。しかもこのあと、さらに3年以上の時間を省略して、夫婦のその後を短く描写するのである。その描き方はこれまで以上に冷ややかで、具体的には書かないが、それぞれの愛人と一緒になった彼らが、表面上の平穏さとは裏腹に、いままで以上の空しさを抱えながら過ごしていることが冷酷に示されているのである。
 彼らが息子アレクセイの死をどのように受け止め、どのように後始末をして離婚後の生活に入って行ったのかといったことは、この映画では一切描かれないままで終わる。ズビャギンツェフ監督は最初の段階から、この夫婦のことを一貫して突き放しているのであり、自分のことにしか関心がないこうした生き方が蔓延している現代の病理を、丸ごと提示することに意味があると考えていたのだと思われる。アレクセイは彼らの身勝手の犠牲になったのだが、そのことをいくら言ったとしても、この2人のような人間には響かないことが判っているということなのだろう。自分を省みない人間にとっては、どのような罪の意識も生まれようがないからである。
(新宿バルト9、4月12日)
# by krmtdir90 | 2018-04-14 13:38 | 本と映画 | Comments(0)

映画「15時17分、パリ行き」

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 どうやら列車が舞台の映画らしい、監督のクリント・イーストウッドは最近けっこういい映画を撮っているらしい、といったようなことで観に行ったのだが、これは完全なハズレだった。まあ、そういうこともある。書かなくてもいいのだが、記録ということで一応書いておく。

 クリント・イーストウッドの経歴はひとまず置くとして、前作「ハドソン川の奇跡」が2016年度キネマ旬報ベストテンで外国映画第1位を獲得していたことは知っていた。わたしはずっと映画を離れていたから、彼が監督として注目された頃の作品をまったく観ていないのだが(もちろん「ハドソン川…」も観ていない)、いい機会だから一本ぐらい観ておこうと思ったのが裏目に出てしまった。
 「ハドソン川の奇跡」はアメリカで実際に起こった出来事を映画化したようだが、それが評価されヒットしたので、明らかに2匹目のドジョウを狙ったのが本作だったようだ。ところが、今回の出来事は映画の題材としてはまったく面白いものではなかった。出来事そのものがせいぜい10分もあれば終わってしまうもので、列車内で起こった銃撃事件(無差別テロ)に3人の若者が立ち向かい、犯人(単独犯行)を取り押さえたという、ただそれだけのことなのである。確かに勇気ある行動には違いないが、背景も後日談もふくらませようのない単純なものだったのである。

 映画はこの3人に当事者本人をキャスティングして話題性を持たせようとしたようだが、どうやったところで映画としての面白さはまったく作れていなかったと思う。3人の高校時代からのエピソードを並べていたが、それ自体が少しも面白いものではなく、彼らのキャラクターを際立たせるものにもなっていなかった。彼らは、どう考えても魅力のない(平凡で俗っぽい)若者たちに過ぎなかった。一方で、犯人の男の過去にはまったく触れていないから、犯人は単なる悪者であって、3人は悪を退治した勇敢なアメリカ人という構図にしかなりようがないのである。最初から、3人は無事で悪は逮捕されることが判っているのだから、こんなに面白くないアクションもなかった。
 最後に、3人の勇敢な行動に対して、事件の舞台となったフランスから勲章が贈られたり、アメリカの地元に帰ってからのパレードのシーンなどが付け加えられていたが、そんなことを映されても、最初からこちらは娯楽映画として観ているのだから、テレビのニュースならともかく、映画としてはどうなの?ということにしかならなかった。

 まあ、あんまり書いても仕方がないので、今回はこんなところで。
(ヒューマントラストシネマ渋谷、4月10日)
# by krmtdir90 | 2018-04-13 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ラッキー」

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 年を取るということは、確実に死に近づいているということである。そのことが他人事ではなく、みずからのリアリティとして感じられる年齢になってしまった。先日、ある事情から車を買い換えなければならなくなってしまった時、果たしてあと何年運転できるのかと考えざるを得なかった。旅行を計画する時も、あと何回出掛けられるかと(金銭的なこともあるが、主に健康上の問題として)どうしても考えてしまう。
 この程度では、リアリティと言っても、いまのところはまだそれほど深刻なものではないとも言える。年を取れば誰もが必ず死ぬのだというリアリティは、まだ少し遠いところにあると言っていい。だが、実のところは、なるべくそれを考えないようにしているだけで、現実にはもういつそれがやって来てもおかしくない年齢に入ってしまっているのも事実である。

 ハリー・ディーン・スタントンは2017年9月15日に91歳で亡くなったのだという。この映画はその少し前に撮られた、彼の最後の主演作である。わたしは彼の代表作とされる「パリ、テキサス」(1984年、ヴィム・ヴェンダース監督)を確かに観ているが、もう昔のことなので内容はほとんど覚えていない。ただ、なぜかハリー・ディーン・スタントンという役者の印象はかなりはっきり残っていて、その彼がこんなに年老いた姿をスクリーンに晒しているのはかなり衝撃的だった。
 映画の脚本(ローガン・スパークス、ドラゴ・スモーニャ)は90歳のハリー・ディーン・スタントンに当て書きされたもので、監督(ジョン・キャロル・リンチ)も共演者もスタッフたちも、当然のように彼へのリスペクトに基づいてこの映画を製作している。映画そのものがハリー・ディーン・スタントンへのオマージュになっているから、映画の主人公ラッキーの生き方は、ほぼそのままハリー・ディーンの生き方とイコールであると考えていいようである。

 神など信じずにこれまで一人で生きてきた90歳のラッキーは、目の前にあるものしか信じない偏屈な現実主義者と設定されている。映画は、アメリカ西部の小さな田舎町に住むラッキーの日々の生活と、町の人々とのささやかな接触について描写していく。年を取った人間にとって、日々のどうということもないルーティーンが非常に重要なものとなっており、ラッキーはそれを毎日淡々とこなしていくのである。
 ある朝、そのルーティーンの途中で彼は倒れ、馴染みの医者に診てもらうが、高齢であること以外にこれといった原因は見つからない。だが、原因が判らないことが彼を不安にさせ、この出来事が彼に死というものを急にリアルに感じさせることになる。彼は言いようのない恐怖に襲われるが、一人で生きて来た彼はそれを周囲に気付かれないように振る舞うのである。
 映画は、死を目前にしたラッキーの心の揺らぎをさりげなく捉えていく。変わらないルーティーンと、少しだけ微妙に変化しているそれを丁寧に写し取っていく。

 この映画の中には、ラッキーのものなのかハリー・ディーンのものなのか定かではないが、様々な哲学的言辞のようなものが散りばめられている。プログラムの中にそれらが収録されているのだが、こんな感じである。
 「現実主義は物なんだとさ。《状況をありのまま受け入れる姿勢や行動と、ありのままの状況に対処する心構え》」。「人はみな生まれる時も、死ぬ時も一人だ。《独りalone》の語源は、《みんな一人all one》なんだ」。「《孤独》と《一人暮らし》は意味が違う」。「つまらん雑談なら、気まずい沈黙のほうがマシだ」。彼の言葉は多くの場面で周囲を戸惑わせるのだが、周囲はこの老人はそういうふうなのだと受け入れている。受け入れるだけでなく、そういう部分も丸ごと認めて愛してさえいるように見える。ラッキーは浮いているわけではなく、町の人々の中にしっかり根付いているのである。
 みずからの死の恐怖に直面しながら、ラッキーが最後に到達する境地は次のようなものである。少し長いが書き抜いておく。「俺は真実にこだわる。真実は実体のある物だ。真実は自分が何者で何をするかであり、それに向き合い、受け入れることだ。宇宙の真理が待っているから。俺たち全員にとっての真理だ。すべてはなくなるってこと。君もお前もあんたも俺も、タバコも何もかも、真っ暗な空(くう)へ。管理者などいない。そこにあるのは無(ウンガッツ)だけ。空(くう)だよ。無あるのみ」。ここで「無ならどうするのさ」と問われた彼は答える。「微笑むのさ」。

 神などに頼ることなく生きてきた者にとって、最後に死と向き合って「微笑む」というのは、みずから取り得る最も自然な態度であるに違いない。映画は、サボテンが林立する町外れの砂の道を、微かな微笑みを浮かべたあとで歩み去るラッキーの後ろ姿を見詰める。彼はまだ死んではいない。手前の地面を大きなリクガメがゆっくり横切って行く。
 リクガメは映画の冒頭にも出てきていて、映画の中ではデヴィッド・リンチが演じたラッキーの友人ハワードが、ルーズベルトと名付けて飼っていたものである。ルーズベルトはある日飼い主の元からいなくなり、ハワードは必死に捜し回ったが見つからず、次のような境地に達したとラッキーに語るのである。「執着を手放そうかと。ルーズベルトが脱走計画に費やした時間と、捜せないようにした手間を考えた。すると彼は去ったのではなく、大切な用事で出かけたと気づいた。これまで私が邪魔していたと。だから捜すのはやめた。縁があればまた会える。私はいつでも門を開けておくだけ」。
 会話の中でリクガメは100歳を超えて生きると紹介されている。ラッキーの孤高な生き方を象徴するものとして登場させられていたのかもしれない。ラッキーとはハリー・ディーン・スタントンのことである。

 印象的なシーンがたくさんあった。面白い映画だった。ハリー・ディーン・スタントンは何一つ演技していないように見えたが、そういえば彼はこれまでも、ただそこにいるだけで演技らしい演技はしていなかったのではないかと思い至った。
(新宿シネマカリテ、3月7日)
# by krmtdir90 | 2018-04-09 10:27 | 本と映画 | Comments(0)


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