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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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「泥濘(ぬかるみ)」(黒川博行)

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 黒川博行が新作を書いたというので、早速買って来てしまった。読み始めた時間が遅かったから、翌日の午後に読み終わった。
 疫病神シリーズはこれが第7弾になるらしい。すっかり嵌まってしまったが、常に期待を裏切らない安定感は大したものである。このシリーズのいいところは、いつも登場してくる主要人物の設定が実に面白く出来ていて、新作でまた彼らに会えるというのが楽しみになってしまうのである。ここまで続くと書く方は大変かもしれないが、黒川博行には新しいものに色気を出したりせず、ずっとこのシリーズを書き続けてもらいたいと思っている。

 確かに、書いていれば毎回何らかの新機軸を入れなければならないから、そこのところは苦労しているのだろうと思う。最近では桑原の破門というのが大きな鍵になり、それが2作続いて解決したあとの新作である。
 今回は帯の惹句にもある通り、桑原が撃たれて一時心肺停止になるというのがヤマになっている。これまでも桑原はけっこうあれこれやられていたが、心肺停止というのはギリギリのところまで行ってしまった感じである。もちろん助かることは判っているのだが、書く方としては、もうこの線で先に行くことはできなくなってしまったということである。今回二宮は捻挫で済んでいるが、堅気の彼をこの先に行かせるのはシリーズとしては禁じ手になってしまうし、次を考えるのは大変だろうななどと思いながら、早くも次を待つ気分になってしまうのである。

 シリーズとして読み継いでいると、主要人物(の書き方)に微妙な変化が生じてきているように感じるところもある。
 二宮にとって桑原は疫病神という位置づけが始まりだったが、二宮の側の巻き込まれ感は次第に薄まってきており、最近では二人はすっかり「いいコンビ」になってしまったように見える。口では相変わらずお互いをボロクソに言っているが、今回は最後に悠紀の口から「啓ちゃんと桑原は友だちやんか」とか「どこまで行っても桑原と縁が切れへんねん」などと言わせたりしている。桑原が死に直面したことで、二宮の気持ちが見えてきたところもあったように思う。
 二宮については、父親が二蝶会の元幹部だった関係で、現二蝶会組長の嶋田に可愛がられているということが、けっこう大きなファクターになってきているような気がする。
 桑原が塀の中にいた時に読書の楽しさに目覚め、凶暴なヤクザのくせにけっこうな読書家であるなどという側面も、最近かなり強調されてきたことだと思う。

 単行本は税込み1944円だったが、映画の1100円(+交通費・プログラム代)と比べると安いものだと思う。もっとも、どちらにも当たり外れはあるわけで、当たりを探す手間を考えると、読書より映画の方が楽かななどと考えてしまう今日この頃である。
# by krmtdir90 | 2018-07-13 08:00 | 本と映画 | Comments(0)

映画「君が君で君だ」

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 期待外れが2本続いてしまった。監督が松居大悟だというので見に行ったのだが、これまでに見た2作と比べるとあまり面白くなかった。
 どうしてそういうことになったのか。「私たちのハァハァ」(2015年)の脚本は舘そらみ・松居大悟となっていて、一応共同脚本というかたちだが、主に書いたのは舘そらみの方だった。「アズミ・ハルコは行方不明」(2016年)には山内マリコの原作があり、脚本は瀬戸山美咲となっていて松居大悟は絡んでいない。対する今回の映画は、原作・脚本:松居大悟とあって、完全に彼のオリジナル脚本だったようだ。恐らくこのことが面白くなかった原因ではないかと思っている。
 設定に説得力がないというのはかなり決定的なことだと思う。だが、映画というのはそれですべての可能性が閉ざされてしまうというものでもないだろう。問題は、その設定で何をしたかったのかがよく判らないというところだと思う。どんな突飛な設定であっても、それを動かしていくうちに思いがけないものが見えてくるということもないわけではない。だが、この映画にそういうものは見えてこなかった。どう考えても通俗的としか言えないような終盤の展開は、「ちょっと、これではダメだろう」と言うしかないような気がした。
 この設定を面白がっているのは松居大悟だけであって、この展開に説得力ありと納得しているのも松居大悟だけだったように思う。

 要約すると、「愛する女性が憧れる人になりきり、自分の名前すら捨て去って、10年間にわたり彼女を見守り続けた3人の男たちの愛の行方」というのだが、「見守る」と言えば聞こえはいいが、要するにこれはストーカー行為であって、そういうことを描いてはいけないと言うつもりはないが、この極端な描き方には乗って行けないような気がした。
 3人が「なりきる」のが尾崎豊、ブラッド・ピット、坂本龍馬というのだが、この「なりきり」がどういう具体性を持っているのかがはっきりしないから、「自分の名前を捨てる」と言われてもどういうことを指しているのか判らないのである。また、定職に就いていないように見える3人がどんな生活をしているのかも不明で、それを「10年間」続けたという実態はまったく見えてこなかったように思う。
 現実にそんなことあるわけないじゃないかという設定を敢えてしているのは判るから、その方向から説得力がないと言っているわけではない。問題はなぜそういう設定が必要だったのか、きわめて非現実的なその設定でしか浮かび上がらないものがあると考えたのだとすると、それが何なのか見えないから説得力がないと言っているのである。男たちの「純情」というようなものに触手を伸ばしているように感じられるが、それこそ「馬鹿言ってんじゃないよ」ということではないか。
 まあ、これを面白いと言う人もいるかもしれないから、とにかくわたしとしてはダメだったということで今回は終わりにしておくことにする。
(新宿バルト9、7月10日)
# by krmtdir90 | 2018-07-12 20:05 | 本と映画 | Comments(0)

映画「パンク侍、斬られて候」、そして原作(町田康)

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 映画そのものはあまり面白いとは思わなかった。改めて「パンクとは何ぞや」などと言うつもりはないが、映画がそういうものを標榜すると、どうしてもぶっ飛んだイメージを連発しなければならないような感じなり、それを少しでも「こけおどし」じゃないかと思ってしまうと、その羅列に「はあ~、そんなものですかね~」という印象しか持てなくなってしまうのである。
 奇想天外、荒唐無稽、どんなふうに言ってもいいが、最初は「なんじゃ、こりゃ~」などと驚いても、次第に「ああ、そういうことなんですね」となり、結局「だからどうなの?」となって終わってしまうような気がする。特にSFX技術が飛躍的発達を遂げた現代では、もはや映像的に作れないものはないと言ってもいいくらいになっているのだから、映画がそういうところで勝負するのはまったく空しいことになってしまったのだと思う。

 監督の石井岳龍は以前は石井聰亙を名乗っていて、その初期の映画数本(1980年前後)をわたしは見た記憶がある(例によって、ほとんど忘れてしまったが)。だが、当時の彼の映画がその「パンク」性で評価されたとしても、それから映画をめぐる環境は大きく変わってしまったのである。映像で「パンク」をやろうとすることは、いまや完全な袋小路に嵌まっているのであって、その認識なしに闇雲に突っ込んでも成果を上げることはできないのである。脚本を書いた宮藤官九郎にも、そのあたりの現状分析は欠けていたということになるだろう。
 公式サイトなどには、スタッフも含めて「パンク」を作るためにいかに苦心したかといったことが縷々記されているが、出来上がったものは少しもこちらの想像力を刺激しない、凡庸で美しくない(美しくないというのは決定的なことだ)イメージの連続にしかなっていなかった。綾野剛を始め達者な役者を集めているのに、彼らの演技力を発揮させることより、彼らを「パンク」の幻想に奉仕させるような使い方しかしていなかったということである。これでは面白い映画になりようがないと思った。
(立川シネマシティ2、7月6日)

 期待外れだったので映画の感想は書かなくていいかと思っていたのだが、ふと「原作:町田康」というのが気になってしまったのである。これほどの奇妙奇天烈なストーリーを、果たして言葉だけで説得力あるかたちに組み立てられるのだろうかと考えてしまった。そもそも「パンク」を最初に言い出したのは原作なのであって、当然ながら、それが小説から始まったというのは非常に興味深いことだと思った。
 町田康が、パンクロックのミュージシャンでありながら芥川賞(2000年)を取ってしまった作家だというのは知っていたが、これまでその小説を読んだことはなかった。調べてみると、原作は2004年に書かれたもので、いい機会だからちょっと読んでみるかという気分になった。近所の本屋に行ってみると、文庫本には映画公開に合わせた全面帯が二重掛けされていたが、それを外すと、著者自身の写真を使った帯が掛けられていた。まったく、よくやるわい。
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 結論を言えば非常に面白かった。だが、これを映画にしたいと考えた石井岳龍と宮藤官九郎は大きな勘違いをしていたと思う。ここにあるぶっ飛んだストーリーとイメージは、言葉で作られているから凄いのであって、直接的な表現である映像や音に置き換えた途端に、力を失ってしまうということに気付くべきだったのではないか。あまり言葉の力をナメない方がいい。あるいは、あまり映像や音の力を過信しない方がいい。
 14年前、この小説が世に出た時どんな評価を受けたのかは知らないが、これまでこんなことをこんなふうに書いた小説家はいなかったし(たぶん)、これを、初めて言葉で作られた(活字で表現された)「パンク」とすることに異議はないと思った。こういうことを仮に思いついたとしても、それを最後まで破綻なくやり切ることは至難の業だったにちがいない。

 一応時代小説のかたちは取っているが、使われる言葉としては現代口語のような多様な言葉が混在していて、登場人物の考え方や行動などには明らかに現代社会の反映が見て取れるのである。時代ものと言っても、彼らはほとんど現代人そのものと言っていいように思った。物体浮遊の超能力があったり猿が人語を喋ったり訳の解らんいい加減な新興宗教があったりなど、尋常ではない様々な道具立ても、すべてが現代社会の(その行き着いた先で必ず露呈する)何とも言えない無茶苦茶さを表しているような気がしてくるのである。
 「パンク」をサブカルチャーの一つのかたちと見るなら、いろいろなところに強固に存在する既成のカルチャーを骨抜きにし、その依って立つ理論的基盤を根底から覆してしまうような、一種の無政府状態を実現させることだと言えなくもないように思う。そういう意味では、この小説が徹頭徹尾言葉の世界だけで成し遂げようとしたのは、小説というそれなりに安定したカルチャーの徹底した転覆だったのかもしれない。
 「パンク」は思潮であるより現象である側面が強いから、これは一回限りの成果を持って終わるべきものなのだと思う。わたしは町田康をこの一作しか読んでいないのだから、断定的な物言いは避けるべきだが、この試みはこの一冊で完結したものになったように感じている。だから、この小説は後にも先にもこの一作限りであって、けっこうエポックメイキングな小説だったと言っていいのではないかと思った。

# by krmtdir90 | 2018-07-11 14:52 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ガザの美容室」

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 最後の数分間を除いて、カメラはほとんど美容室内部の出来事だけを映し出す。カーテンが引かれた隙間から時折外の様子が見えたりするが、内と外ははっきりと区切られていて、閉ざされた美容室の中の13人の女たちの姿を、映画はじりじりと経過する時間とともに克明に捉えていく。いわゆるワンシチュエーションドラマなのだが、その中に閉じているのかというとそんなことはなく、それが外の世界をこんなにも感じさせてしまうのが素晴らしいと思った。外で営まれている女たちの日常というものも、この映画は鮮やかに浮かび上がらせていたと思う。
 ここには女性しかいないから、みんな(一人を除いて)ヒジャブをしておらず、男性の視線がなければそれでいいのだというのが、彼女たちを少しだけ自由な気分にさせていたのかもしれない。交わされる会話が思いがけず生々しい感じがして、これは女性監督なのかと思ったら、黒々とした髭を生やしたアラブの男性監督(タルザン&アラブ・ナサール兄弟、ガザ地区出身の一卵性双生児だという)だった。これが長編第一作だったようだ。
 彼女たちが生活しているのはパレスチナ自治区のガザ地区である。ここがどういう状況に置かれているのかは、あくまで映画の背景として置かれているに過ぎないところがこの映画の特徴になっている。そういう描き方をこの監督たちはしている。しかし、この背景こそが女たちの生活に決定的な影響を与えていることもまた自明なのである。

 外の世界は男たちが支配していて、女たちは基本的にそれに振り回されるしかないのだが、このガザ地区の複雑な状況について、この映画はほとんど何も語ろうとはしていない。結局、映画を見た後でいろいろ調べて、まったくの付け焼き刃で以下を書くしかないのだが、それは概ねこんな感じになるのだろうか。
 ガザ地区は東京23区の6割ほどの面積で、そこに200万人以上のパレスチナ人が住んでいるらしい。2007年以降、この地区を実効支配しているのはハマスというイスラム政党である。これをテロリスト集団と見るイスラエルとエジプトが国境封鎖を行ったため、ガザの人々は地区の外との往来がほとんどできなくなり、満足な物資や支援も入ってこない状況が続いている。発電所が破壊されたため、停電が日常茶飯事となっていて(自前の発電機を動かそうにも、ガソリン不足で思うに任せないといった様子が映画の中にも描かれていた)、交通機関や水道、病院といった社会インフラは壊滅的な状態に追い込まれているらしい。治安も悪化しており、イスラエルの空爆などもあって、その都度多くの死傷者が出ているが、そうしたところはこの映画では描かれていない。
 映画の後半になって、美容室のすぐ外の道路で戦闘が始まり、女たちはシャッターを下ろした美容室の中に閉じ込められてしまう。これは、マフィアと呼ばれる武装した不満分子をハマスが制圧する戦いだったようだ。ガザの住民は常にこうした危険や不自由に晒されているのであり、先の見えない不安や絶望感の中で日々(男も女も)生活しているのである。

 映画は人々のこうした苦難を直接に描くのではなく、一旦すべてを背景に後退させてしまうことで、ガザの女たちの(不条理と言うしかないような)日常を描くことに成功している。舞台を美容室の中に限定することで、あくまで普段の姿を捉えることに徹しようとする(もちろん、そこには男たちの日常もしっかり見据えられている)この視点は新鮮だし、実にいろいろなことを見る者に考えさせるものになっていると思った。ガザは巨大な「監獄」に喩えられることもあるようだが、そういう場所でも人々は日常生活を続けていくしかないのである。
 そもそもこんな混乱した市中で美容室が営業していること自体が驚きだし、そこにいる女たちがそれぞれ切実な事情を抱えていることが見えてくると、こうした困難の中でも需要が失われていないという事実に、彼らの生活の重要な鍵が隠されているという気がしてくるのである。生活の根底にある様々なもの、と言ってもいいかもしれない。ただし、映画の冒頭から美容室の空気はどことなくギクシャクしていて、和やかな雰囲気とはほど遠いものになっている。むしろ、お互いへの反撥や冷ややかな行き違いといったものが画面に見え隠れしているのである。
 彼女たちは辛く苦しい毎日を生きているから、常に自分のあり方や他人の生き方を確認し検証しているということなのかもしれない。それぞれが妙に我を張って、意固地になっているように見えるのは、直面する困難に流されまいとする必死の抵抗のようなものだったかもしれない。実際、こんな状況下では安易な妥協や馴れ合いは何の意味もないということになるのだろう。

 イスラムは男性優位の社会だが、女性は従属するだけの弱い存在などということはあり得ない。彼女たちは誰も自分を諦めてはいないし、終盤近く、感情的対立から罵り合いを始めた二人の客に対して、美容室の店主が「わたしたちが争ったら、外の男たちと同じじゃない!」と叫ぶところはドキリとさせられた。薬物を止められないお客の一人が、「もし女だけの政府を作るとしたら・・」と冗談のように喋り出すところは(ややメッセージが生だけれど)なるほどなと思った。
 ドラマということで見ると、最後に大きな展開が待っているが、それまでは閉塞状況の中で各人の事情が少しずつ変化するだけである。外の戦闘のせいで結婚式に間に合わなくなってしまった娘と母親とか、弁護士とのデートができなくなってしまった離婚調停中の中年女とか、戦闘につられるように出産の気配が出始める臨月の妊婦とか、当人たちにとっては切実なことかもしれないが、それらは個人的な事情の僅かな変化と言えなくもない(もちろん、映画はそんな突き放した描き方をしているわけではない)。
 だが、ドラマチックな展開は、外のものが不意に女性たちの中に侵入してくることで起こるのである。美容院でアシスタントをしている娘は、外にいるマフィアの恋人との将来について自信が持てないでいた。この二人に関係はここまでしっかり点描されてきたが、外の戦闘で傷ついた恋人が瀕死の状態で中に転がり込んで来たことで、ドラマは美容室のすべての女たちを巻き込んで急展開する。女たちは彼を匿おうとするが、続いてやって来たハマスの兵士によって外に連れ出されてしまう。男たちの暴力を、女たちはどうすることもできないのである。

 映画がこの後の女たちを映さないのは不満が残る。カメラはそのまま外に出て行き、美容室の外で何が起こっていたのかを明らかにするような幾つかのカットを重ねて不意に途切れてしまう。外はすでにすっかり夜になっていて、幾つかの建物から赤々と炎が上がっている。もう息はしていないように見える男は、トラックの荷台に死んだライオンとともに寝かされている。ライオンに関する経緯というのは映画を見ただけではよく判らないが、マフィアが地元の動物園からライオンを盗み出した事件が2007年に実際に起こっていたということらしい。映画の背景は、この事件を下敷きに作られていたということだったようだ。
 それはともかく、背景であったものが一気に噴出してくるこのラストは衝撃的である。衝撃的だったが、それを描くことが映画として必要だったかどうかは判らない。結果的に、女たちのドラマはハマスの侵入の時点で唐突に途切れてしまうからである。
 だが、これが彼女たちの置かれている現状ということなのかもしれない。再び朝が来れば、彼女たちはまたここでいつも通りの日常を始めていくしかないのである。美容室は特段の被害を受けたわけではないから、また違うお客がやって来て、何もなかったかのように営業を始めていくのだろう。恋人を失ったアシスタントの娘も、少し暗い顔をしながらそのままここで働いているような気がするのだが、ここは少々意見の分かれるところなのかもしれない。
(新宿シネマカリテ、7月5日)
# by krmtdir90 | 2018-07-08 21:31 | 本と映画 | Comments(0)

映画「女と男の観覧車」

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 プログラムにケラリーノ・サンドロヴィッチがレヴューを書いていて、その中にテネシー・ウィリアムズの名前が出てきてハッとした。ケラはウディ・アレンが最近、技法面で演劇的な表現に急接近していると指摘しているのだが、それは若き日のウディ・アレンが劇作家に憧れていて、多くの戯曲から影響を受けていたと告白した過去について述べていた。その中に幾人かの劇作家の名前が出てきていて、それを読んだ時、「この映画はテネシー・ウィリアムズなんだ!」と急に目の前が開けたような気がしたのである。この映画の主人公ジニーは、テネシー・ウィリアムズの戯曲に出てきた女性たちに非常によく似ていると気付かされたのだ。
 遙か昔に読んだ戯曲を引っ張り出して、対比してみようという気分にまではなれなかったが、若き日の夢に破れ、こんなはずではなかったと満たされない思いで日々を送る、もう後戻りはできない40歳の中年女性という設定もそうだし、映画の進行とともに彼女が精神的に追い詰められていき、その生活のバランスがどんどん崩れていく様などに、明らかにテネシー・ウィリアムズとの類似性が見て取れると思った。このジニーを演じたのが「タイタニック」(1997年)のヒロインだったケイト・ウィンスレットで、40歳を過ぎてすっかり風格の出てきた彼女の演技は、テネシー・ウィリアムズ的な役どころを見事にやり切っていて見応えがあった。
 監督のウディ・アレンはこの撮影時には82歳、前作「カフェ・ソサエティ」とはガラリと雰囲気を変えた映画を、これもまた全編ウディ・アレン以外ではあり得ないやり方で作っていたところが見事だった。テネシー・ウィリアムズはこの映画を読み解く時のキーワードだと思うが、映画そのものは徹頭徹尾ウディ・アレンのものになっているのが凄いことだと思った。

 舞台は1950年代のコニーアイランド。ニューヨーク、ブルックリン区の南端に位置する、ビーチと遊園地で知られた近郊の小さなリゾート地のようだ。原題の「Wonder Wheel」はここに昔からあるランドマーク的な観覧車の名前で、すぐ窓の外にこれが見えている窓の大きな部屋にジニーが住んでいる。ジニーは遊園地のレストランでウエイトレスをしていて、夫のハンプティ(ジム・ベルーシ)は回転木馬の操縦係をしている。コニーアイランドは全盛期より少し寂れかけているように見えて、そんな雰囲気の中に、主な人物を順を追って登場させてくる導入部の作り方のスマートさに目を奪われた。この、一気に物語の中に引き込んでいく鮮やかな手口というものは、年輪を重ねたウディ・アレンの独壇場と言っていいように思った。
 ジニーとハンプティの夫婦は再婚で、ジニーの連れ子のリッチーという男の子が一緒に住んでいる。この子は火に異常な興味を示していて、あちこちでボヤ騒ぎを起こしては夫婦の悩みの種になっている。ここに、ハンプティの娘で、5年もの間音信不通になっていたキャロライナ(ジュノー・テンプル)が突然やって来るところから、物語は始まっている。映画の語り手を務めるのは、ビーチで夏の間だけ監視員のバイトをしているミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)という青年(大学生)で、脚本家志望の彼とジニーとが道ならぬ恋に落ちているという設定である。
 これらの登場人物に関する背景や設定は非常に盛りだくさんで、いまちょっと書き始めて、これはきりがないなと感じたところである。こうしたものの出し方がウディ・アレンの脚本は実に巧みで、スピーディーなテンポを失うことなく、次々に物語をふくらませて展開していくところは鮮やかと言うしかない。キャロライナがギャング一味の追っ手に命を狙われているといった、やや突飛な設定も自然に物語の中に組み込まれて、必要なことはきちんと説得力を持って物語ってくれるから、違和感なしに映画の流れに身を任せることができるのである。

 映画の中心はラブストーリーだから、ミッキーがはるか年上のジニーになぜ夢中になってしまうのかといった、説得力に欠ければすぐに容認できなくなりそうなところでも、ウディ・アレンは、ロマンチストでのめり込みやすい彼の性格などもきちんと描き出していて抜かりはない。一方のジニーは、失意の底から救ってくれたハンプティに感謝の気持ちを持っているものの、現状の生活に様々な悩みや不満を抱えている。彼女には、若いころ舞台女優として少し注目されながら頓挫してしまった過去があり(説明し始めると長くなるが、こうした事情を浮かび上がらせる時のウディ・アレンの匙加減は名人芸である)、夢多き脚本家志望の青年が自分を復活させてくれるかもしれないという、儚い夢に藁にもすがるような気持ちでのめり込んでしまうところが、説得力を持って描写されている。
 このラブストーリーは、ミッキーが偶然(必然だったか?)キャロライナに出会ってしまい、若い二人がお互いに一目惚れしてしまったことから急激に動き出す。ジニーは一気に旗色が悪くなり、日々猜疑心に駆られ、必死になればなるほど嫉妬心を制御できなくなっていく。ここを、ウディ・アレンは淡々と(しかし丁寧に、あるいは冷静に)映し出していく。ギャングの追っ手が再び現れて、キャロライナが見つかりそうになっていることを知った彼女が、慌てて危機が迫っていることを電話で知らせようとして(ミッキーとキャロライナがデートしている店を、ジニーはキャロライナから聞いていたのである)、ギリギリのところでそれをやめてしまうのが物語の転換点となっている。
 ミッキーと別れたあとキャロライナは行方不明となり(たぶん捕まって殺されてしまったのだろう)、父親のハンプティは必死になって探すが見つからない。ミッキーはあちこち聞き込みして回り(この部分は描かれない)、ジニーが追っ手のことを知りながら知らせてくれなかったことを突き止めて、彼女を追及しようと、初めて観覧車の見えるジニーの部屋を訪れるのである。このシーンはまるで演劇の舞台を見るような、主演女優ケイト・ウィンスレットの独壇場になっていた。

 彼女はなぜか、かつてみずからが演じた舞台衣装と思われるドレスを着ていて、大切に仕舞ってあった(同じく舞台で身につけた)アクセサリー(息子のリッチーに見せるシーンがあった)を身につけている。彼女はミッキーの前で、何かに取り憑かれたように(壊れたように)目を泳がせながら、自分の思いのようなものを延々と吐露するのである。ここではないどこかに本当の自分の居場所があり、いまよりもっと素晴らしい人生があったはずだという繰り言である。映画としては不自然なほど続くこの長ゼリフは、元舞台女優ジニーのセリフであると同時に、ウディ・アレンが女優ケイト・ウィンスレットに密かに言わせたいと画策したセリフだったのではないか。監督の意図と女優の演技がぴったり重なった名演だったと思う。
 思い通りにならなかった過去をもう一度やり直したいと願ったジニーの思いは、ミッキーとともに永遠に消えてしまった。娘キャロライナに、父親としてもう一度夢をかけたいと願ったハンプティの希望も失われてしまった。彼らは、遊園地の上空を一回りした観覧車がまた地上に戻って来るように、再び元の生活に(深い絶望とともに)帰っていくしかなかったのである。映画は、ジニーに一緒にいてくれと懇願するハンプティと、無人のビーチで火を燃やしている息子リッチーの姿を捉えて唐突に終わる。このエンディングだけが、ちょっと説明的になっているような気がして違和感が残った。でも、それ以外は完璧な映画だったと思った。
 付け足しだが。舞台劇を思わせるような人工的な照明が新鮮だった。大きな窓を通して、遊園地の明かりの点滅が室内にいる彼らを照らし出しているという設定なのだが、赤や青といった鮮やかな色彩が、登場人物の様々な思いを効果的に浮かび上がらせていた。映画でありながら舞台劇を感じさせるような、不思議な画面を作り出していたと思う。実に良くできた映画で、最近の2作(「カフェ・ソサエティ」とこれ)を見ただけなのだが、ウディ・アレン「老いてますます盛ん」を実感させられた映画だった。
(立川シネマシティ1、7月1日)
# by krmtdir90 | 2018-07-04 22:01 | 本と映画 | Comments(0)


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