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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ヴァンサンへの手紙」

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 ヴァンサンというのはレティシア・カートン監督の親友だった聾(ろう)者で、10年ほど前にみずから命を絶ってしまった人物らしい。理由は触れられていないが、生前の彼はろう者の生きにくさについて監督に語っていたようで、ろう者のことをもっと知ってもらうため、一緒にドキュメンタリー映画を作ろうと約束していたのだという。約束は果たされぬまま彼は死んでしまい、その後、レティシア監督は一人で少しずつろう者の世界を撮影し始めたらしい。
 レティシア監督はろう者ではないが、ろう者のヴァンサンがなぜ死ななければならなかったのかをずっと考えてきたのだろう。この映画で彼女は、10年間みずからの内に積み重ねてきたヴァンサンへの思いを語ろうとしている。映画の邦題は「ヴァンサンへの手紙」となっているが、フランス語の原題をそのまま邦訳すると「ろう者の視点であなたに寄り添う」というものだったようだ。「聾者」の対語を「聴者」と言うらしいが、聴者であることを当然と考えてしまうと、ろう者は障碍者であり障碍は治療すべき対象ということになってしまう。それでは両者がつながることはできないだろう。
 レティシア監督は、聴者が聴者の価値観でろう者を判断してしまうのは誤りだと気付いている。彼女はこの映画で、ろう者が何を感じ何を考えているのかをろう者の立場に立って見出そうとしている。彼女は聴者だから、彼女が聴者の価値観を持ってしまうのは仕方がないことである。だからこそ、ろう者の視点とはどんなものなのかを突き詰めなければならない。耳が聞こえないことを欠陥と考えるのではなく、様々な個性の中の一つと考えるべきなのではないか。

 わたしはこれまで、身近にろう者がいるという経験はしてこなかった。だから、ろう者についてこの映画で初めて知ることがたくさんあった。申し訳ない気がするが、これは仕方がないことである。以下、それを少し書いておこうと思う。

 ろう者のことを「聾唖(ろうあ)者」と言うことがあるが、ろう者は耳が聞こえないことで音声言語が習得できず、そのままでは言葉を話すことができない(口がきけない)「唖(あ)者」となってしまう。「ろう教育」はこれに対応していくことになるが、ろう者の言語をどのようなものと考えるかという点で2つの異なる立場があったらしい。わたしのような門外漢はすぐに「手話」を連想してしまうのだが、ろう教育では手話に頼ることは子どもの成長を遅らせるとして、1880年にイタリア・ミラノで開かれた国際ろう教育者会議というところで、手話を禁止する決定がなされたのだという。
 この時、手話に代わって提唱されたのが「口話」というもので、ろう者に対する授業はすべて音声で行い、ろう者には読唇術の習得と発音(発声)練習を必須のものとして、彼らを話せるようにする教育がずっと行われることになったらしい。補聴器や人工内耳といった新しい技術も取り入れられ、話せることは素晴らしいことで、話せないのはダメなんだという一方的な価値観でろう者を追い込んでいったようだ。この考え方は、2010年にカナダのバンクーバーで行われた国際ろう教育者会議で、ミラノの決定を棄却することが決まるまでの130年もの間、世界のろう教育のあり方を縛り続けてきたということだったようだ。
 だが、「口話」は結局のところ、聴者をろう者より上位に置き、その言語をろう者に押しつけるものでしかなかったのだ。これがろう者にどんなに大きな負担と苦しみを強いてきたかということに、聴者は気付くことがなかったのである。ろう者は子どもの時から口話教育を受けさせられることで、自己形成のすべての過程で、「聾(ろう)」であることを否定され続けてきたのだった。

 これに対し、「手話」は話せないことを前提とする言語である。手話はろう者に対して、話せないままでいいんだと肯定することから始まっているのである。だから、ろう者は誰でも自然にそれを受け入れることができた。だから、会議や学校で禁止されても、今日まで廃れることなく続いてきたということだったのだ。ろう者は手話を必要としていたのである。
 この映画は、手話をろう者固有の言語と捉え、その素晴らしさと可能性についていろいろな角度から描こうと考えている。死んだヴァンサンと交流があったろう者の家族や、聴者のレティシア監督とつながりができたろう者の仲間たちの日常というような、手話を通した様々な生き方や考え方が紹介されている。禁止が解かれてまだ10年にもならないので、手話の普及はまだ緒に就いたばかりなのだが、その中には私の知らなかった非常に興味深い取り組みも含まれていた。
 フランスのトゥールーズにある、ろうの子どもたちのためのバイリンガル校。ここは手話を第一言語、読み書きを第二言語と設定していて、授業は基本的に手話によって行われている。その様子は初めて見ることばかりで、子どもたちの生き生きとした生活が、口話ではなく手話によって実現されていることがよく判るものだった。また、フランスで唯一のろう者のための劇場、国際視覚劇場(IVT)。ろうの俳優による手話劇や手話詩といった試み、聴者の歌手とろう者との交流など、様々なろう者の文化が形成されていることが記録されている。
 最初の方にあった、ろう者の手話講師による手話教室の様子も興味深かった。音声言語を追い出して、アイコンタクトを基本とした視覚情報に集中することで、固有のコミュニケーションが成立するというのはなるほどと思った。さらに、ろうコミュニティの権利擁護を目指して、パリからミラノまでデモ行進を行う数人のろう活動家のことも紹介されていた。

 この映画の中には様々な手話が捉えられていた。手話通訳がついたり、字幕がついたりしたものもあったが、そういうものが一切ないかたちで、手話する人物と受け取る人物とが、ただそれだけで映し出されるものもあった。手話で絵本の読み聞かせをしているシーンが2回あったと思う。1回は子どもを寝かせつけようとする父親の読み聞かせ、もう1回はバイリンガル校での先生の読み聞かせだった。その目まぐるしく変わる表情や身振りなど、ああこれが手話というものなのかと、その面白さを初めて知ることができたような気がした。
 聴者であるレティシア監督は、常にろう者のヴァンサンならどう考えるだろうと想像しながら、あらゆる場面を撮っていたのではないかと思った。聴者とろう者は違う世界に生きているのであって、その違いを意識した上で、なおお互いを理解し合うことは非常に難しいことである。だが、レティシア監督はそれをやり切ったと言っていいのではないか。この映画を見ることで、われわれ聴者はろう者の世界を少しだけ知ることになるだろうと思った。知らなかったろう者の世界が少しだけ身近なものになり、少しだけろう者の視点に立てるようになるのかもしれない。映画がそういう役割を果たすことは、きっと素晴らしいことであるに違いない。
(アップリンク渋谷、11月9日)
# by krmtdir90 | 2018-11-13 22:17 | 本と映画 | Comments(0)

映画「バグダッド・スキャンダル」

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 湾岸戦争(1991年)とかイラク戦争(2003年)とか、中東をめぐる情勢は複雑で理解し難いことが多いが、これはサダム・フセイン支配下のイラクで、人道支援目的で国連が実施した「石油食料交換計画(Oil For Food Program)」をめぐって起こった、史上最悪と言われた汚職事件を描いた映画である。元国連職員、デンマーク出身のマイケル・スーサンの告発で明るみに出たらしいが、事件がすべて解明されてしまうとその影響があまりに広範に及ぶため(国連職員の他に世界56ヶ国の政府高官や2000以上の企業が絡むと言われた)、各方面から全容解明を阻む動きが加わったようで、真相は結局うやむやのまま現在に至っているということらしい。
 「石油食料交換計画(OFFP)」とは何か。湾岸戦争の際、サダム・フセインのイラクには国連による経済制裁が科せられたが、その内容はイラクの輸出入をすべて禁止するという厳しいものだった。このため、イラク国内は深刻な食糧不足や医療品不足に陥り、貧困層の子どもなどを中心に多くの死者を出すことになってしまった。この事態を人道的に救済するため、国連の管理下で一定量の石油の輸出を認め、その代金を国連がプールして、食料や医療品など必要な人道支援に直接充てられるようにしたプログラムである。しかし、膨大な予算がつぎ込まれる事業だったため、様々な利権や思惑などがからみ合い、底なし沼の汚職スキャンダルに発展していったようだ。

 映画は、告発者マイケル・スーサンをモデルとした24歳の青年、マイケル・サリバン(テオ・ジェームズ)が国連職員として採用され、国連事務次長コスタ・パサリス、通称パシャ(ベン・キングスレー)の下でイラクのバグダッドに赴任し、この「石油食料交換計画・OFFP」に携わっていくうちに、背後のスキャンダルをめぐる争いに巻き込まれていくというものである。
 硬派のポリティカル・サスペンスといった感じの映画だが、こういう難しい題材を文句なしの娯楽作品に仕上げてしまうところが素晴らしいと思った。こういうリアルな背景を持って展開するストーリーというのは、見ていて理屈抜きに面白いし大好きである。デンマーク・カナダ・アメリカ合作の映画だったが、監督・脚本はデンマーク出身のペール・フライという人で、非常に切れ味鋭い演出をする監督だなと思った。

 バグダッドにある国連の現地事務所の所長はクリスティーナ・デュプレ(ジャクリーン・ビセット)という女性で、彼女は「石油食料交換計画・OFFP」が破綻しているという報告書をニューヨークの国連本部に送ろうとしている。マイケルの上司である事務次長パシャは、このプログラムがすでにスキャンダルにまみれていることを承知しているが、それでもないよりは民衆の助けになっているとして、デュプレ所長の報告書を阻止しようと画策している。マイケルの周囲には、この2人の他にもプログラムをめぐる様々な利害関係が錯綜していて、この状況下でマイケルはどう動くのかというのが映画の当面の興味になっている。
 映画ではさらに、通訳のナシーム・フセイニ(ベルシム・ビルギン)という女性をマイケルに絡ませ、2人の間に恋愛模様まで生まれてくるという展開を用意している。このナシームはイラク北部出身のクルド人という設定になっていて、サダム・フセインによって迫害されてきたイラクのクルド人という問題が、さらにもう一つの重要な要素として関係してくることになるのである。

 バグダッドの事務所でマイケルの前任者だった国連職員は、「OFFP」に関するスキャンダルの核心情報を入手したため殺されたことが、ナシームの口から語られる。彼女はこの情報が入ったUSBメモリーを入手していて、今度はこれをマイケルに託すのである。映画としては、このあといろいろなことが目まぐるしく展開し、暗号化されたこの情報は映画の終盤になって解読され、マイケルの手でニューヨークのウォール・ストリート・ジャーナル社に持ち込まれることになる。だが、そこまでにデュプレ所長やナシームも殺害されてしまうのである。
 事務次長パシャはスキャンダルに絡んでいたが、逃亡してしばらく隠遁生活を送ったことが描かれている。多くの国連幹部、政治家や高官、さらに関連企業の幹部などの名前が挙がったが、中で大きな衝撃を与えたのは、経済制裁の対象であったサダム・フセインが、この「OFFP」の取引で100億ドルもの裏資金を得ていたことだった。フセインを追い込むための計画が、逆に彼を富ませる結果となっていたのである。ただ、2003年のイラク戦争勃発とフセイン拘束の後、同年末までにこの「OFFP」は終了することになったようだ。 

 国連主導の人道支援などと言うと、それだけで何となく信じてしまうようなところがあるのではないか。だが、巨額の予算が動くところでは、国連と言えども聖域というわけではないのだ。支援物資の医薬品が横流しされ、病院に届くのはすり替えられた期限切れの薬ばかりだと暴露されるシーンがあったが、救われるべき命が救われないケースも、案外たくさんあったということなのかもしれない。
 国連の平和維持活動などというのも果たしてどうなのかと、疑わなければならない気分になってしまうのは残念なことである。非常に面白い娯楽映画でありながら、重いテーマを考えさせられるものになっているのが凄いと思った。
(新宿シネマカリテ、11月6日)
# by krmtdir90 | 2018-11-08 13:35 | 本と映画 | Comments(0)

映画「日日是好日」

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 「にちにちこれこうじつ」と読む。森下典子の同名の自伝エッセイを映画化したもので、映画の方もあまりドラマチックにはならず、エッセイ風の淡々とした作りになっているのが特徴的だった。原作は、著者が20数年にわたって通った茶道教室でのあれこれを綴ったものらしく、映画も主人公のお茶の稽古を追いながら進んで行く。見る前はそんなもののどこが面白いのかと思っていたが、これが予想外で、けっこう印象的で興味深いことが次々に出てきて、最後までまったく飽きることなく楽しく見ることができた。
 監督・脚本の大森立嗣を始め、主要なスタッフ・キャストが誰も茶道を知らなかったというところが良かったのではないか。原作者の森下典子も最初は何も判らず習い始めたわけで、この、みんながゼロからスタートした(その視点をずっと失わなかった)ことが作品を面白くしていたのではないかと思う。原作は読んでいないから何とも言えないが、少なくとも映画では、未知なる茶道への好奇心といったものがずっと持続されていたのが良かったのだと思った。主人公・典子を黒木華、茶道の武田先生を樹木希林が演じていたのも良かった。

 典子がお茶を習い始めたのは20歳の時で、それも自分から積極的に通い始めたわけではなかった。母に勧められても乗り気になれない彼女は、同い年の従姉妹・美智子(多部未華子)に一緒にやろうと誘われて、何となく付いて行っただけだったのだ。始まりというのは案外そんなものなのかもしれない。きっかけを作った美智子は途中で止めてしまったが、彼女の方は途中何度も足が遠のくことはあっても、結局40歳半ばになるまで続いてしまったのだ。続いたということはたぶん彼女に合っていたということで、これだけ続くと最初は見えなかった様々なことが見えてきたり、お茶の面白さを感じる時も出てきたりするようになる。
 真面目だけれど融通が利かない、不器用でなかなか思い通りの人生を掴めない、でも彼女には案外一途で粘り強いところがあったのかもしれない。こういう単純ではない、はっきりしない性格の役をやらせると黒木華はホントに上手い。いつの間にか茶道が彼女の支えになっているというような、年齢とともに変化していく様をしっかり見せていたと思う。

 武田茶道教室は、古風な日本家屋の8畳ほどの部屋で行われ、映画はその稽古の様子を逐一細かく写し取っていく。限定された室内で、なおかつ繰り返しが基本となるような稽古風景というのは、映像的には扱いがかなり難しい題材ではなかったかと思われる。だが、この映画はまったく単調さを感じさせないばかりか、むしろ面白くて目が離せなくなってしまうことが驚きだった。
 ガラス戸越しに見える庭先の様子、掛け軸などの室内の設えの変化、また身につける衣装の違いといったものが、季節の移ろいや、その時々の人物の気持ちなど、実に多くのことを語っているのだった。最初は戸惑うばかりだった茶道の「かたち」も、それが次第に身についてくることで生まれる微妙な変化など、こんなにいろんな見どころが発見されるものだとは思わなかった。
 茶道への「導き役」となる武田先生の存在感が、この映画をしっかり支えていたと思う。最初の方で彼女が言う、「意味なんて判らなくていいの。お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」と言う言葉が、非常に印象深かった。
 樹木希林はこの映画が最後の作品になってしまったが、お茶をやったことがないのにいかにもお茶の先生という、その「らしさ」をちゃんと醸し出して見せたところはさすがだと思った。黒木・多部という若い2人を向こうに回して、彼らと交わす絶妙なやり取りや、さり気ない表情や間などから生まれる微妙なユーモアといったもの、彼女が作り出すこの温かい雰囲気は素晴らしかった。

 20数年の間に、典子の上には様々なことが起こっていくのだが、そのほとんどは映画では直接的に描かれることはなく、すべてが週に一度の稽古の中に溶かし込まれていく。彼女の家族のことや美智子との日常も点描されているが、それらはあくまでお茶の稽古の背景なのであって、そちらが前面に来て詳しく描かれることはなかった。大学を出てから、典子は就職に失敗し、出版社でアルバイトをしながら茶道を続けるのだが、対照的な性格だった美智子は商社に就職したのち、結婚を機に仕事も茶道もスッパリ止めてしまう。
 一方の典子は、恋愛をするが失恋に終わってしまったことが短く示されている。だが、映画の中にこの経緯はまったく描かれることはなく、彼女が号泣するショットだけですべてが表現されてしまう。この時の相手は姿さえ見せず、その後もう一度新しい恋人ができた時にも、後ろ姿がチラリと映し出されるだけで終わってしまう。これをこの映画の潔さと言うべきか、こういうことはこの映画にとっては深入り不要のエピソードに過ぎないということなのだろう。
 大好きだった父親が急死した時はそういうわけにはいかなかったようで、この経過はかなり丁寧に描写されている。だが、その中でこの映画がフォーカスするのは、彼女が父親に対して感じた後悔の思いである。直前に会うチャンスがあったのに、なぜ会わなかったのか。茶道教室の縁先で、喪服の典子を武田先生が優しく慰めるシーンは素晴らしい。この映画がピックアップするのは、やはり茶道によって照らし出される2人の心情なのである。ここは2人の抑えた演技が光る、実にしみじみとしたいいシーンだったと思う。

 だが一方で、ちょっと違和感を感じた点についても書いておく。この父親の死を描く一連のシーンの中で、彼女の心象風景のような感じで挿入されていた、海辺でずぶ濡れになりながら亡き父に呼び掛けるシーンはいただけなかった。そんなことをする必要はまったくなかったのではないか。まるで余分で逆効果なだけに終わっていたと思う。
 この映画には、余計な小細工は一切不要だったのではないか。ただお茶を習い、飽きずに習い続け、いつかお茶と自分が一つになっている、それだけのシンプル極まりない設定から、驚くべき豊かな世界が浮かび上がるのである。それは、どこまで行っても不十分で、どこまでやっても満足に行き着くことはない、それでもお茶を続けてきて良かったなという思いである。
 武田先生が確か、「毎年同じことができる幸せ」というようなことを言っていたと思うが、何ということもない繰り返しの中にある「幸せ」というものを、静かに語っていて印象に残った。すでに死期の迫っていた樹木希林が、こういうセリフをサラリと言ってのけていたことも記憶しておきたい。彼女は最後に、素晴らしい芝居をして人生を閉じたのだなと思った。
(立川シネマシティ1、11月5日)
# by krmtdir90 | 2018-11-07 17:12 | 本と映画 | Comments(0)

映画「華氏119」

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 これもアメリカで作られたドキュメンタリー映画だが、「ジャクソンハイツ」とは対照的に、最初から非常に明快な意図と主張を持って製作された映画である。それは、11月6日に行われるアメリカの中間選挙になにがしかの影響を与えたいということで、公開のタイミングを計りながら編集作業が行われていたらしい。こうして完成した映画は、アメリカでは9月21日から公開され、日本でも11月2日に緊急公開が実現して、何とか時期を外さずに公開に漕ぎ着けることができたということのようだ。
 マイケル・ムーア監督は、こんなふうにいつも行動的に、アメリカの現代と対峙するようなドキュメンタリーを撮り続けてきた人で、中でも今回のものは、特にアメリカの「いま」に真正面からコミットしようとした意欲作だったようだ。わたしは彼の映画を見るのはこれが初めてだったが、こういうふうに、ある時を意識しながら見てもらうことに最大の意義があって、時が過ぎればその意義がほとんど失われてしまうような映画作りというのがあってもいいのだという、一種の潔さのようなものは新鮮だった。いま、これを届けなければならないのだという、ムーア監督の切迫した思いは十分に伝わってくる映画だったと思う。

 「119」という数字は「ドナルド・トランプが米大統領選の勝利宣言をした2016年11月9日」を表したものだという。それがなぜ「華氏(温度計の摂氏に対する華氏Fahrenheitである)」なのかはよく判らないが、誰一人彼の勝利を予想していなかったあの日から、アメリカはいったいどうなってしまったのかを考えようとした映画である。
 ムーア監督は、常にセンセーショナルなやり方で映画を撮ってきた人のようだから、これもトランプを様々な角度から批判する映画なのかと思ったら、かなり違っていた。過激な批判ももちろんあったが、これはそれ以上に、きわめて冷静な現状分析に基づいて構成された、これからの望ましい行動指針についての提案の映画だった。フライヤーなどは一見キワモノのような印象を与えるが、実は非常に太い芯が通った、きちんと計算された映画だったのだ。この監督、見かけによらずなかなかの策士と見た。

 彼はもちろん、トランプその人の危険性を正面から指摘しているが、それ以上に、トランプを当選させてしまった原因がどこにあったのかということを明らかにしようとしている。それは、現在の絶望が何によってもたらされたのかを知ることなしには、希望に向かう道筋もまた見出せないはずだという決意表明になっているのである。
 原因はもちろん一つではない。だが、間違いなく言えるのは、アメリカ社会に起こっていた構造的変化を、マスコミも民主党も見誤っていたことが大きい。誰も予測しなかったトランプが当選したと言うことは、誰も予測できなかった地殻変動が起こっていたということであり、そこを突き止めて揺さぶりをかけない限り、中間選挙で方向転換を成し遂げることはできないだろう。
 では、彼がいま「なにがしかの影響を与えたい」と考えている対象はどこにいるのだろうか。トランプに共鳴する共和党支持層がこの映画を見に行くことは、まず100%あり得ない。2年前の大統領選の時、トランプを支持したのは6300万、ヒラリーを支持したのは6600万人だったとされている(選挙人制度によって逆転が起こった)。ムーア監督が注目しているのは、この時投票に行かなかった1億人の棄権者たちと思われる。この時の投票率は史上最低の55%まで落ち込んでいて、サンダースが予備選で敗れたことに失望して投票を止めてしまった層がたくさんいたのである。彼らに「今度はそれではまずい」と訴えることが、この映画の大きな目的になっているように思った。

 ムーア監督は、2年前の大統領選に際して、トランプ当選の可能性を予測していた数少ない著名人の一人だったようだが、そんなことは夢にも考えないマスコミは、視聴率のためにトランプを面白おかしく取り上げ続けたのである。
 ムーア監督はこの映画で、トランプと共和党、またトランプに支援されたミシガン州知事リック・スナイダーの悪行(水道水の鉛汚染放置)などを暴露しているが、同時にサンダースを降ろしてヒラリーを候補に選んでしまった民主党の堕落も具体的に指摘している(オバマ前大統領でさえ、彼の前では批判の対象なのである)。彼はさらに、大統領となったトランプの所業が、あのヒトラーが独裁者となっていく過程に酷似していることも指摘している。

 だが、こうした厳しい批判の一方で、彼は中間選挙でトランプに打撃を加えることになるかもしれない幾つかの動きについても(希望を持って)紹介している。彼はもちろんアンチ共和党だが、近年の民主党の変節にも絶望していて、そういう古い勢力にはもう期待することはできないと考えているようだ。むしろ、アメリカ各地で芽吹き始めている新しい動きをピックアップすることで、これからのアメリカの可能性を示そうとしているように見える。
 今回の選挙では、いままでは考えられなかった背景を持つ候補者が幾人も立候補していること、また、ウェストヴァージニア州の公立学校教員たちが団結して闘ったストライキのこと、さらに、銃乱射事件が起きたフロリダ州パークランドの高校生たちが、SNSで呼び掛けて銃規制強化を求める大規模な集会をアメリカ各地で成功させたこと、などである。映画の最後は、この集会で追悼の言葉を述べる高校生の姿で閉じられている。彼らは今回の中間選挙で投票することはできないが、次の大統領選挙(2020年)には選挙権(18歳)を手にしているはずだからである。ムーア監督は彼らにアメリカの未来を託そうとしているのである。

 中間選挙の結果がどう出るかはまったく判らないが、民主主義が危機に瀕していることを憂えて、それなりに影響力のある人間がこういうかたちで発言できるというのは、やはりアメリカの素晴らしいところなのだと思った。
 日本の総理大臣もトランプ以上にひどいことをしているのに、この国ではそれがあきらめにつながるばかりで、希望の芽がなかなか見えてこないことが悲しい。失望や無力感が広がり、無関心層と棄権者が増えていく時が、独裁者出現のチャンスになるというのは真理だと思う。傍観者的な言い方になってしまうが、日本の危機の方がより深いと感じざるを得なかった。
(TOHOシネマズ南大沢、11月3日)
# by krmtdir90 | 2018-11-05 13:59 | 本と映画 | Comments(2)

映画「ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ」

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 フレデリック・ワイズマン監督は1930年生まれの88歳(ジャン=リュック・ゴダールと同い年だ)、アメリカで精力的にドキュメンタリー映画を撮り続けてきた人だが、その作品の大半は日本では公開されることがなかったようだ。この映画は彼の40本目のドキュメンタリーで、彼の中では主流をなすアメリカ社会を捉えた作品としては、初めて日本で劇場公開されるものなのだという。2015年、85歳の時に発表された、上映時間189分の大作である。
 3時間超えのドキュメンタリーってどうなのよと思ったが、正直、途中でフッと気持ちが途切れてしまうこともなかったわけではないが、おおむね面白く見続けることができたと思う。あの「観察映画」の想田和弘監督は、このワイズマン監督から多大な影響を受けたのだろうと想像された。ワイズマン監督の映画は多くの場合、事前調査や準備をほとんど行わず、ワイズマン+カメラマン+監督助手の3人ですべての撮影を行い、ナレーションや字幕、効果音楽などを用いないで編集するところも、想田和弘監督の行き方にそのまま通じていたのだろうと思われた。

 ジャクソンハイツというのはニューヨークのクイーンズ区の一画を指しているようで、映画はこの町で生きているあらゆる人々の姿を画面に留めようとしている。ここには世界中からやって来た移民とその子孫が暮らしていて、167もの言語が話され、様々なマイノリティも集まって来て、多様な生活文化の集合体を形成しているようだ。ワイズマン監督はこのジャクソンハイツのあらゆる場所、あらゆる人々にカメラを向け、そこに見えてくるものを「観察」し「記録」していくのである。
 撮影は基本的に長回しが中心になっていて、多くの場合、そのシーンで何が出てくるかは事前に想定されていないようだった。ワイズマン監督はプレスの中で「通りの出来事、商売(衣料品店、コインランドリー、ベーカリー、レストラン、スーパーマーケット)、宗教施設(モスク、寺院、教会)を歩いて回ることで、合計120時間のシーンとショットを集めた」と述べている。だが、ここに列挙されているのはほんの一部分に過ぎず、彼はもっと貪欲に様々な場所を歩き回り、なかなか見ることのできない思いがけない場面を集めているのである。
 ここに住む人々は、その多様さを保持したまま、それぞれの場所に固有のコミュニティを作っている。3時間でもそれを網羅できるとはとても思えないが、彼はそうした中から実に興味深いコミュニティを紹介してくれている。たくさんありすぎて、もう全部は思い出せないが、幾つかを思い出せる範囲で書き留めておきたい。

 「クイーンズプライド」というLGBTのパレード。ニューヨークでは6月はプライド月間とされていて、地区ごとにこうしたパレードが行われているらしい。ここにはゲイのコミュニティがあるようで、彼らのミーティング会場にカメラが入って、その発言の様子などが紹介されている。この会場となっているのがジャクソンハイツのシナゴーグで、本来はユダヤ教の集会所として建てられた施設だったが、いまは人種や宗教を超えて、様々なマイノリティの集会場所として活用されているらしい。一人のユダヤ人女性が、その理由を「ユダヤ人が迫害された時、人種や国籍に関係なく命がけで助けてくれた人がいたから」と語るシーンも収められている。
 「メイク・ザ・ロード・ニューヨーク」というNPOの活動。これは、永住権のあるなしにかかわらず、あらゆる移民、あらゆる人種、あらゆるジェンダーの人々をサポートするNPOであって、その幾つかの活動の様子が捉えられている。たとえば、最近国境を越えたばかりの人々が、各自の体験を紹介し合うミーティング。また、タクシー運転手になろうとする移民に、具体的なノウハウを教える講習会。また、こんなシーンもあった。永住権取得の面接に行くらしい移民に、スタッフが「なぜアメリカ人になりたいのか聞かれたら、何と答える?」と質問する。望ましい答えは、民主主義の国に住みたい、信教の自由がある国に住みたい、投票権がある国に住みたい、などだった。
 移民の個人情報が警察に流れていることに抗議し、情報が正当に扱われるよう市役所と市長に認めさせた若者が出てくる。ジャクソンハイツを含む選挙区から選出された、ダニエル・ドロムというニューヨーク市議会議員も出てくる。ムスリムのハラール用の肉を販売する店の奥で、鶏を殺して肉にしていく作業が行われているところが写されたりする。ムスリムの小学校で、男女分かれて授業を受ける子どもたちの様子も写されている。音楽があり、ダンスがあり、タトゥーがあり、老人のとりとめのない会話がある。警官に嫌がらせをされたトランスジェンダーの男が、スマホでその警官を撮影しておく「コップ・ウォッチ」という抵抗方法があると説明されている。長時間労働に対して正当な賃金が支払われていないことを訴えている男もいる。通りすがりの女性に「死が迫っている父親のために祈ってほしい」と頼まれ、すぐに集まって手を繋ぎ祈りを捧げる女たちがいる。

 これらのシーンは相互に関連付けられているわけではないが、映画の中に一つ一つ積み重なっていくことで、この町で長い間に育まれてきた多様性と、それをお互いに認め合うことが、どんなに貴重で素晴らしいものなのかが浮かび上がってくるのである。ジャクソンハイツには比較的富裕な白人層が住む地域もあるようだが、多数を占めるヒスパニック系やアジア系の住民たちとはうまく住み分けが行われていて、それぞれ関わり合うことがないようにすることで、町の多様性はいまのところは保たれているようだ。
 だが、近年はジャクソンハイツにも再開発の波が押し寄せていて、この多様なコミュニティが危機に瀕している実態もこの映画は捉えている。マンハッタンにも近く、ニューヨークの中でも地の利に恵まれていることから、従来の町の空気に沿わない新住民が流入し始め、古くからの住民には徐々に住みにくい町になっているということらしい。再開発はBIDというNPOによって進められているが、これに伴う大企業の参入や家賃の高騰などで、長いあいだ細々と続いてきた零細商店などが営業を続けられなくなるケースが出ているのだという。こうした人々の側に立ち、再開発反対を組織している若者たちの動きも映画は紹介している。
 排他的風潮が高まるばかりの現代に、ワイズマン監督がいまジャクソンハイツを撮らなければならないと考えた理由は明らかなような気がする。ワイズマン監督の視点は一貫して弱者やマイノリティの側にあり、そのブレない立ち位置から見えてくるのは、アメリカがもともと移民の国であり、その素晴らしさは多様性を認めてみんなが共存してきたことにあるのだという事実である。その貴重なアイデンティティーが失われていいのだろうかと、この映画は静かに訴えているように思えた。
(渋谷イメージフォーラム、11月1日)
# by krmtdir90 | 2018-11-04 13:26 | 本と映画 | Comments(0)


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