18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新の記事
天津小湊温泉(2019.1...
at 2019-01-18 17:18
映画「共犯者たち」
at 2019-01-17 23:59
映画「彼の見つめる先に」
at 2019-01-14 20:24
月と金星
at 2019-01-02 17:28
手術と禁煙
at 2018-12-29 16:36
映画「ガンジスに還る」
at 2018-12-28 20:44
高校演劇2018・関東大会栃..
at 2018-12-27 18:03
映画「マイ・サンシャイン」
at 2018-12-21 17:32
伊東温泉(2018.12.1..
at 2018-12-20 23:59
映画「僕の帰る場所」
at 2018-12-17 18:06
最新のコメント
記事ランキング

カテゴリ:本と映画( 347 )

映画「共犯者たち」

e0320083_16532080.jpg
 いわゆる慰安婦問題や徴用工問題の経緯、さらに最近のレーダー照射問題などを見ていると、韓国という国をどう捉えたらいいのか判らなくなってしまうし、それ以上に、いま韓国という国に対して好意を持つことは難しいなという気分が湧いてきてしまうのである。だが、これらの問題は政治的な駆け引きのように扱われているところがあるから、こうした経緯のセンセーショナルな側面に引き摺られて、先入観や偏見で韓国の人々のことを考えてしまうのはいいことではないだろうと思う。
 昨年来、日本でも相次いで公開された「タクシー運転手/約束は海を越えて」や「1987、ある闘いの真実」といった韓国映画を見ると、この国の映画が光州事件や民主化闘争といった現代史の生々しい部分を積極的に取り上げ、きわめてオープンな態度でこれらの歴史的事実を捉え直そう(評価し直そう)としていることが見て取れると思う。そしてさらに、これらの映画が韓国国内でかなりのヒットを記録していることに、ある種の驚きを感じないではいられないのである。
 この国の人たちはけっこうしつこいところがあって、納得していないことを簡単に諦めたり忘れたりはしないということなのだろう。たぶん、そこが日本人との大きな違いなのだと思う。

 今回の映画はドキュメンタリー映画である。2008~13年の李明博(イ・ミョンバク)政権と2013~17年の朴槿恵(パク・クネ)政権が、政権に対して批判的な姿勢が目立っていた韓国放送界に、激しい言論弾圧を加えたという実態を実名で告発しているのである。韓国でそういうことがあったというのは、日本ではほとんど報道されなかった(知られなかった)と思うが、いまこうしてその経緯が明かされてみると、あらゆる弾圧に抗して一貫して闘い続けた多くのジャーナリストが存在したことに、目を見張るような思いがするのである。
 韓国のTV放送は、公共放送のKBSと公営放送のMBCが全国規模のネットワークを持っているらしいが、これらの放送局は、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権による独裁(1980~88年)を許してしまった反省から、民主化されたのちは、番組作りにおいては常に時の政権に対して批判的な視座を保持し続けることを使命のように考えてきたようだ。しかし、これを快く思わない李明博大統領は、その権限を最大限に利用してKBS・MBC両局への人事介入を行い、政府に批判的なニュースや時事番組を制作した局員を配置転換したり解雇したりして、放送局としての方向性を政権寄りに偏向したものに作り変えてしまったらしい。そして、彼に続いた朴槿恵大統領も同様の路線を踏襲したのだという。

 この映画のチェ・スンホ監督は、MBCで「PD手帳」という時事番組を作っていた敏腕プロデューサーだったようだが、上記の政治介入によって制作現場から一方的に外され、労組による抗議の長期ストライキを経て、結局は不当解雇されてしまった一人だったらしい。だが、彼は簡単には引き下がらず、映画という手段で反撃に出る時を待ち続けていたようだ。この映画は、映画としては非常に複雑で多岐にわたる出来事を次々に並べているので、その展開を追っていくのはかなり難しいところもあったが、それでも彼らの抵抗が何に向けられているのか、彼らが何を守ろうとしているのかはよく判るように描かれていたと思う。
 政治権力の座にある者が、卑劣な手段を総動員して報道の自由を押し潰しにかかってきた時、それに全力で抗い反撃しなければならないと考える勢力があったことを、この映画は真正面から記録している。その描き方があまりに真正面過ぎるので、逆に驚いてしまうくらいの感じなのである。このストレートさが韓国なのかもしれないと思った。
 その後どういう経過があったのかはよく判らないが、2017年に文在寅(ムン・ジェイン)政権がスタートし、夏にこの映画が公開されて、年末にはチェ・スンホ監督がMBCの社長に就任するという「大逆転」が起こったらしい。同時に、解雇されていた社員の現場復帰もかなり実現しているということのようだ。

 この映画を見ながら、日本の現政権とNHKの関係がどうなっているのかを考えないではいられなかった。以前からNHKの公正さには疑問符が付いていたと思うが、ここ数年の政権への癒着ぶりはちょっとひどすぎるのではないかと感じていた。数年前、NHKを始めとする各局で、政権に対して臆せずもの申すというキャスターたちが相次いで降板した(させられた?)ことも記憶に新しい。
 この映画で描かれた言論弾圧は、いままさに日本の放送界で着々と進行していることなのではないのかと感じた。それに対して、日本のジャーナリズムは大丈夫なのかと、韓国のジャーナリストたちに真正面から問いかけられているような気がした。
 ここでは、安倍政権がメディアに圧力をかけているかどうかの判断は保留しておくが、問題はもしそういうことが行われた時に、日本にはみずからの存在を賭けてこれと対峙できるジャーナリズムが、果たして存在しているのかということなのである。それが疑わしいように思えてしまうのは残念なことだし、きわめて危険な事態に日本が陥っているということなのではないか。
 少なくとも、こういう映画が何の躊躇もなく作られ、公開されるとそれなりの観客を動員してしまう韓国という国を、羨ましいと感じてしまうのをどうすることもできなかった。
(ポレポレ東中野、1月8日)
by krmtdir90 | 2019-01-17 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「彼の見つめる先に」

e0320083_20232899.jpg
 いわゆる「ハイスクールもの」に分類される一本だが、その切り口というか描き方というか、様々な面において他に見られないユニークさを発揮した映画だったと思う。それはたぶん、一言で言うと「ナチュラル」ということになると思うのだが、ここに描かれる高校生活の一コマ一コマが、個性的であることを少しも主張しようとせず、これが普通なんだと自然に周囲を納得させてしまうように展開していることの素晴らしさである。長らく高校演劇の世界に身を置いてきた者からすると、演劇であれ映画であれ、特別な個性を売りに出す作品は嫌と言うほど見せられてきたが、彼らの現実をこんなふうに、特別なことなんかどこにもないのだという視点で見詰めようとした作品は、きわめて少なかったような気がしているのである。
 監督・脚本のダニエル・ヒベイロは1982年生まれの30代半ばだというが、登場人物にどう寄り添っていくのかというところで、まったく肩肘を張っていないところが非常に好感が持てる点だと思った。彼自身がLGBTであることを公言しているというのを後で知ったが、いまやそういうことは何ら特別なことではなく、取り立てて意識されなければならない事柄でもないのだと言われているような気がした。こんなふうに「ナチュラル」に描かれた恋や友情にとって、そこにLGBTが絡んでいるとしても、それはさして大きな問題ではないということなのである。

 主人公のレオ(ジュレルメ・ロボ)は生まれつき目が見えないという設定なのだが、彼が通っているのは盲学校ではなく普通のハイスクールの普通の教室である。視覚障害者が健常者と一緒に普通高校の授業を受けることが可能なのかどうか、日本などの制度や実態がいまどうなっているのかは申し訳ないがよく判らない。この映画の舞台はブラジルのサンパウロで(2014年のブラジル映画なのだ)、描かれているのは主に富裕層の子どもが通う私立高校のようだから、学校と保護者の了解の下でそうしたことが行われることもあるということなのかもしれない。
 彼は音声を頼りに点字タイプライターでノートを作っているが、隣席に座った幼なじみの少女ジョヴァンナ(テス・アモリン)が折に触れて手助けしてくれているようだ。教室には彼らのことをからかったりする連中もいるが、それは取り立てて問題にすることでもない日常生活の一部に過ぎない。それより大きいのは、彼らの間で幼少期からずっと続いてきたらしい関係、つまり障害のあるレオを健常者のジョヴァンナがボランティア的に手助けするという関係が、お互いの成長とともに微妙に変化している気配が感じ取れることである。つまり、クラスメートの間でキスの経験の有無などが重要な話題になるような年頃になって、少なくともジョヴァンナの方はレオを異性として意識するようになっているということである。それなのに、レオの方にはそういう気分がまったく見られないばかりか、彼女の気持ちの変化にも気付いていないように見えるのだ。
 普通に考えれば、映画はこのジョヴァンナの気持ちがこのあとどうなっていくのか、そこのところが展開の核心になるのだろうと想像されるところである。ところが。

 ある日、彼らの教室にガブリエル(ファビオ・アウディ)という転校生がやって来て、彼がレオとジョヴァンナの間に入り込んでくることになる。具体的には、これまでジョヴァンナのものだった手助けの役割をガブリエルが肩代わりするようになり、男同士がどんどん親密になっていくにつれて彼女が弾き出される結果になってしまうのである。どうやらガブリエルにはもともとそういう性向があったようだが、レオの方は彼との交流を通じて自分の中に隠れていたゲイ(G)的傾向に目覚めていくことになるのである。こうした経緯を、この映画は実に自然な繊細さで写し取っていく。
 映画は彼ら3人の関係がどう変化したのかを丁寧にたどっていくが、それは確かにちょっと(かなり?)変わった展開には違いなかったが、基本的にその気持ちの流れはすべて自然な推移として意識されていて、まったく当然のようにすべてが肯定的に描かれているのである。ガブリエルに対する自分の気持ち(恋心)を明確に意識したレオが、同様に他に代えがたいと意識している(親友の)ジョヴァンナにそのことを告白するシーンがあったが、そこで明らかになったこと、つまり愛し合っているのが同性同士であって、そのことを一番最初に理解して欲しい相手(親友)が異性だったということが、ここでは倒錯ではなく一つの自然なかたちとして受け入れられているのである。
 敢えて解釈をするなら、レオにとってジョヴァンナはみずからに欠けているものをいつも埋めてくれる存在であり、意識の上では常に自分の一部のように感じられていたということなのかもしれない。彼女は恋愛対象とはならないが、いなくなることなど考えられない存在だったのである。

 レオの告白に対して、その時は恐らくかなりのショックがあったと思われるジョヴァンナが、いつの間にか笑顔で、仲良く手を繋いだレオとガブリエルと一緒にいるラストシーンの不思議な感覚を何と言えばいいのだろう。たぶん、彼らはお互いにお互いのことを大切だと感じ合っているのだから、一緒にいるのが当たり前だし、それがナチュラルってものなんじゃないかと、この映画は軽やかな口調で言い放っているのである。だが、あえて正直に言わせてもらうが、わたしのような古い人間からすると、これはやはり驚くべきことと言うしかないように思う。
 一般的にラテンアメリカは男性優位の傾向が強い社会で、LGBTに対する差別意識や抵抗感などもけっこう根強いものがあると認識されているが、そうしたものを一気に飛び越えてしまうようなこの映画の自由さはどうだろう。身体的障害があることやLGBTであることは確かに大きな困難には違いないが、それは子どもが成長して大人になっていく過程で必ずぶつかる、様々な困難の中の一つのかたちに過ぎないのかもしれないと、この映画は開き直って見せているようなところがあるのである。いろいろあるけどね、こういうのもあるんだよ、たぶん。けっこう大変だけどね。というような感じだろうか。
 その清々しい?気分に、何だか完全にやられてしまったようなのだ。
(アップリンク渋谷、1月7日)
by krmtdir90 | 2019-01-14 20:24 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ガンジスに還る」

e0320083_20434815.jpg
 インドは一度は行ってみたいと思っている国だが、けっこうハードルが高いような気がしてまだ実現していない。この映画はインドの現代を描いているが、インドとの文化的隔たりの大きさを強く感じてしまって、これが現代のことだというのがちょっと信じ難いような気分にさせられる。
 映画の舞台になっているのは、ガンジス川に面したヒンドゥー教最大の聖地とされるバラナシという町である。信仰厚い人々は、この神聖な場所で死を迎えることが解脱(安らかな死)に至る道だと信じていて、この地で火葬され遺灰をガンジス川に流してもらうのが最大の名誉だと考えているのだという。実際、この地で死ぬことを希望する人たちが、インド全土からここを目指して次々にやって来ているらしい。死ぬために集まって来るということが、何よりも驚くべきことだと思う。

 父親のダヤ(ラリット・ベヘル)は、みずからが見た奇妙な夢によって死期が近付いていることを悟り、家族に「明日牝牛を寄進して、明後日バラナシに行く」と一方的に宣言する。家族は困惑し引き留めようとするが、彼の決意は固く翻意させることはできない。仕方なく息子のラジーヴ(アディル・フセイン)が仕事を休み、バラナシまで父に付き添って行くことになる。
 バラナシに着いた彼らが向かったのは、ガンジス川沿いにある「解脱の家」と呼ばれる施設である。見るからに貧しい建物なのだが、これはバラナシで死ぬことを望んでやって来る人々を、一時的に受け入れている簡易宿泊所といった感じの施設のようだ。バラナシにはそういうところがが幾つもあるらしいが、映画は施設を管理している男とのやり取りを経て、ここに入所して生活し始める二人の様子を追っていく。仕事よりも優先して、息子は父の死を見届けなければならないということらしい。

 率直に言って、この最初の経緯からしてよく判らないし、どうしてそんなことをするのか、われわれとしては理解し難いと言わざるを得ない。ダヤは元教師だが現在は引退していて、妻とはすでに死別しているという設定になっているらしい。一方、ラジーヴの方はバリバリの仕事人間で、付き添いの旅の途中でも片時もスマホを手放せないという描き方になっている。父は77歳というから、恐らく息子は50代半ばぐらいにはなっているだろう。そう考えると、分別ある大の男の行動として、こんなことが本当にあるのだろうかと疑問を感じてしまうのである。
 だが、もちろんこれはそういうことが本当にあるのであって、このヒンドゥー教の聖地では、ここに集まった信者の生と死が、まるっきり隣り合わせになったように人々の生活を縛っているのである。ここには、一方に死を待ち望む人々がいて、もう一方にそれを支えている人々がそれを取り囲んでいるということなのである。映画はその細部をきわめて丁寧に写し取っているが、それはわたしなどからするとまったく想像を絶するようなことである。それについて書き始めたら、たぶんきりがなくなってしまうだろう。
 この映画は結局、これまでずっとお互いにすれ違って生きてきた父と息子が、この聖なる場所で常時死を意識しながら生活することで、次第にそれぞれの心の内に隠れていたものを理解していくという映画である。妻や孫娘も絡んでいるから、一種のホームドラマと言ってもいいのかもしれない。

 ダヤは、ほぼ一ヶ月ほど経ったところで望み通りに解脱するのだが、映画はなぜかその最後の経過を描こうとはしていない。この少し前に、この「家」で懇意になったヴィムラという老女も死んでいるのだが、その死も川岸で行われている葬式のシーンで示されるだけである。ずっと死と向き合い続けてきた人々を描きながら、この映画は死の瞬間を描こうとはしていないのである。
 ダヤの死に際して、最後にラジーヴとの間にどんな会話があったのかといったことが描かれることもなく、彼の遺体を川岸に運んでいく葬列のラジーヴを追うことで、彼らの関係が最後にどうなったのかを想像させるような描き方になっている。死そのものよりも、当人や周囲の人間がその事実とどんなふうに向き合い、どんなふうに受け入れていったのかといったことの方に、映画の意識が向かっていたように思われた。
 後に残された家族が、主のいなくなった「解脱の家」のベッドに腰掛けて、ダヤの書き残した死亡広告を読むシーンが印象的だった。その文言だけ書き抜いても意味は伝わらないかもしれないが、「ダヤナンド・クマルは高名な詩人で作家であった。故人の作品は、いまもごくまれに古書店の片隅で埃にまみれて見つかることがある」というものである。

 印象的なシーンが非常にたくさんあったと思う。だが、それを一々書き出すことは止めておく。ただ、ガンジス川に象徴されるインドの風土といったもの、またヒンドゥー教をめぐる人々の考え方や風俗といったものは、これは現代のことだと言われても、なかなかすんなりと受け入れることは難しいような気がした。インドは一筋縄ではいかない国なのだなと思った。
 なお、この映画のシュバシシュ・ブティアニ監督(脚本も)は、何と1991年生まれの27歳で、驚くべきことにこの映画の撮影時には弱冠24歳だったのだという。若さを売りにするような安直な映画ならそんなこともあるかもしれないが、こんなふうにはるか高年の登場人物を動かし、こんな題材で正面から死と向き合うような映画を撮ったということが信じられないような気がした。これもまたインドという国の深遠さなのかもしれない。
(渋谷ユーロスペース、12月22日)
by krmtdir90 | 2018-12-28 20:44 | 本と映画 | Comments(0)

映画「マイ・サンシャイン」

e0320083_17313716.jpg
 何をしたい映画だったのか、よく判らなかった。監督・脚本はデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンというトルコ出身の女性で、ずっとフランスで育ち、フランスを主な拠点として活動している人のようだった。この映画は彼女の長編第2作だったらしく、フランス・ベルギー・アメリカの合作映画となっているが、言語は英語で、アメリカのロサンゼルスでロケを行い、1992年4月末に起こったロサンゼルス暴動を扱おうとしたものだった。
 「扱おうとした」などと遠回しな言い方をしてしまったが、この過去の出来事をいま改めて描こうとするにあたって、どうもこの映画のいまの視点がどこにあるのかがはっきりしていないように感じたのである。
 実際、ロサンゼルス暴動の引き金の一つとなったラターシャ・ハーリンズ射殺事件は、映画冒頭に再現映像でしっかりと描かれているし、もう一つのきっかけとされるロドニー・キング事件とその裁判の様子は、映画の各所でテレビから流れるニュース映像として、繰り返し印象付けられるようになっていた。だが、基本的にそれらは映画のストーリーの背景なのであって、映画はちょうどこの時期にロサンゼルスのサウスセントラル地区で生活していた、主人公たちの日常を追って行くことに主眼が置かれているのである。

 主人公の黒人女性ミリー(ハル・ベリー)は、貧しいこの地区で家族と暮らせない子どもたちの母親代わりとなって、彼ら(7、8人いる)に無償の愛情を注いでいるということらしい。これは血のつながりのない疑似家族であって、この子どもたちはスーパーで万引きをしたりしているから、これはあの「万引き家族」と非常によく似た設定なのである。
 ただし、細かな設定やその描き方などでは是枝裕和監督の足下にも及ばない感じで、はっきりしないところや展開に無理があるところなどが目立つ結果となっている。ミリーと子どもたちにいつも厳しいことを言っている白人の隣人オビー(ダニエル・クレイグ)の設定も曖昧で、ミリーとの関係も、何かお互いを男女として意識するような気配も見せるのだが、結局はよく判らないまま最後まで行ってしまうということになっているのである。
 映画は要するに、このミリーとオビーと子どもたちが、映画の後半になってロサンゼルス暴動の始まりのところに立ち会う様子を描いていく。だが、それが彼らにどんなふうに受け止められたのかといったことが、当然のことながら一人一人の立ち位置やいた場所が違うのだから、まったくバラバラなものになってしまっていて、ストーリーとしてあまり噛み合ってもいないし収斂してもいないように感じられたのである。

 一言で言えば、みんながそれぞれのかたちで暴動に巻き込まれたことは判るのだが、それが彼らのこれまでの生活をどう変えてしまったのかは、実はあまりはっきりしないまま終わってしまった印象があるのだった。ロサンゼルス暴動というものが、子どもたちを含めた登場人物の生き方の問題としてきちんと関連付けられていないという気がしたのである。それでは、いま改めてそれを描こうとする意義が見えないということになりはしないか。
 見ている間は、けっこうハラハラする展開に引き摺られていたのだが、見終わってみると「えっ、どうなっちゃったの?」ということがたくさん残されていたように思う。特に子どもたちの間で起こった殺人については、結果が事実として投げ出されているだけで、映画がこれをどういうふうに捉えようとしているのかが見えていないと感じた。これでは困るのではないか。
 原題の「Kings」が何を意味しているのかもはっきりしないが、邦題の「マイ・サンシャイン」も何のことなのかよく判らない。映画自体が焦点が絞れていないので、配給会社もどう売っていいか決めかねたということだったのかもしれない。
(新宿武蔵野館、12月20日)
by krmtdir90 | 2018-12-21 17:32 | 本と映画 | Comments(0)

映画「僕の帰る場所」

e0320083_1851387.jpg
 日本とミャンマーの合作映画。まったくノーマークの映画だったが、渋谷の最終日に見ることができて良かった。
 藤元明緒監督(脚本・編集も)は1988年生まれと言うから、いまちょうど30歳の若さである。もちろんこの映画が長編第一作であって、その製作に至る経緯は、インターネットで読むことができるインタビューの中に詳しく語られている。彼はミャンマーという国について特に知識があったわけでもないし、難民問題にも特別興味があったわけでもないと正直に告白している。すべてが成り行きだったのであり、縁であり出会いだったと述べている。人生何があるか判らないものだ、と。
 ほぼ5年ほど前、何もないところから始まった企画だったようだが、日本で働くミャンマー人家族の物語を作ると決めて、実際にキャスティングをしてカメラを回したのは2014年の11~12月だったらしい。
 付け焼き刃でミャンマーのことを調べてみると、長く続いた軍事政権から、徐々に民主化が行われてまだ10年ほどしか経っておらず、ようやく文民大統領に移行して、アウンサンスーチーが国家顧問に就任したのが、まだ2年半ほど前の2016年3月だったようだ。企画がスタートして2017年に完成するまでの間にも、ミャンマーの情勢は刻々と変化していたのである。

 映画で描かれた家族の二人の兄弟は6歳と3歳で、彼らは日本育ちで日本語しか喋れないと設定されていた。と言うことは、撮影時点の2014年を基点として考えれば、家族が難民として日本にやって来たのは、2008年より以前ということになる。この映画では、そうした事情などはまったく説明されていないのだが、故国ミャンマーでは生活できないから日本に来たというのははっきりしていることで、そういう家族が当時の日本でどういう扱いを受けていたのかということを、この映画はしっかり記録に残しているのである。
 いま記録という言い方をしたが、この映画はドキュメンタリー映画ではない。だが、見始めてしばらく、ドキュメンタリーかと見紛うような撮り方をしていて、すべてが作られたドラマだったというのが判って大いに驚かされた。ドラマと言っても、この監督の撮り方(演出や編集の仕方)は非常に個性的で、ざっくり言ってしまえば、今年になってから次々に出会ったあの若い監督たち、ホアン・シー(黃熙)、三宅唱、五十嵐耕平といった監督たちの系譜に連なっているような気がした。
 子どもたちを軸にして、演技を意識させずに、あるがままの姿を撮るという姿勢が貫かれていると思った。藤元監督は、ソ連映画の「動くな、死ね、甦れ!」(ヴィターリー・カネフスキー監督、1989年)に衝撃を受けて映画監督を志したと語っていて、なるほどなと思った。

 映画は、前半が日本の東京で、後半がミャンマーのヤンゴンで撮影されたようだ。東京の小さなアパートで暮らすミャンマー人の家族は母親のケインと二人の兄弟で、父親のアイセはいま入国管理局に身柄を拘束されているらしい。彼は日本に来て何度も難民申請をしているが、いまだに認定されていないということのようだ。このあたりのことを映画は断片的にしか示さないし、その事情について説明してくれているわけでもない。そういう描き方はしていないのである。
 だから、ここでまた付け焼き刃で調べてみることになる。日本は難民認定のハードルが非常に高い国で、認定されないまま日本で生活する難民が増え続けているということらしい。難民は認定されなければ退去命令が出て拘束されるのだが、この時、家族や友人、支援団体などが身元保証人となることで暫定的に拘束を解かれる「仮放免」という制度があるようだ。ただし、仮放免中は身元保証人が生活の面倒を見る建前になっていて、当人の就労は認められていない。
 こんな建前が非現実的であるのはみんな判っていることで、彼らは祖国を後にした以上、日本で働かなければ生きてはいけないのである。だが、難民として認定されない限りは、彼らはいつまで経っても在留資格のない不法滞在者(国は不法残留者と呼んでいる)であり不法就労者なのである。現実には、こうして作為的に弱い立場に置かれた外国人労働者が量産され、人手不足を埋める安価な労働力として、日本人が働きたがらない最底辺の労働市場を支えているのである。実態としては、彼らは便利な使い捨て人材として、都合良く利用されているのである。

 映画の中で、父親アイセは友人たちの身元保証で一旦仮放免になるが、不法就労が見つかればまたいつ拘束されるか判らないのである。彼にはミャンマーに帰るという選択肢はもうないのだが、母親ケインの方は先の見えない生活に疲れ果て、国に帰りたいという思いを日々募らせているのも理解できる。日本に救いを求めてやって来た家族が、希望を見出すことができずに引き裂かれていく現実があることを、この映画は描いているのである。
 ただし、この映画は上に書いたようなことを問題提起したり、何かを告発したり訴えたりするような意図はまったく持っていない(ように見える)。そこには様々な矛盾や問題点が見え隠れしているのだが、それらはすべて背景として扱われているだけで、映画はあくまでこの家族の淡々とした日常を見詰め続けていく。この夫婦と子どもたちの生活の、細々とした側面を拾い上げていくことに終始するのである。
 結局、中盤になって母親ケインは身体を壊し、日本での生活に耐えられなくなってしまう。映画の後半は、彼女が二人の兄弟を連れてミャンマーに帰ってからのことを描いていく(父親アイセは日本に残り、彼らは別々に生きることになってしまう)。生活不安に追い詰められていた彼女は、ミャンマーでの生活が始まると次第に精神的安定を取り戻していくが、日本の生活しか知らなかった子どもたち、特に6歳のカウンくんの方は簡単にはミャンマーの生活に馴染むことができない。この状況は当然予想されたことだが、恐らく時間をかけて慣れさせ受け入れさせていくしかないということだったのだろう。

 子どもたちがどうなるのかというのが、後半のドラマの核心になると思われたが、映画はここである作為的な仕掛けを施してしまったのである。これは果たしてどうだったのか。
 悩み抜いたカウンくんは、とうとう一人で家出を敢行してしまうのである。ここまでは展開としてあり得るかなと思うが、このあと空港に向かおうとして街をさまよったカウンくんが、夜になって不意に日本語を喋る子どもたちに出会い、しばらく一緒に遊び歩くシーンが挿入されたのはどういうことだったのだろうか。ここだけ急に前後のつながりが判らなくなってしまい、そのあとの経緯もよく判らぬまま彼は母親たちの許に帰っていて、少しだけこちらの生活に慣れたような雰囲気を漂わせて見せるのである。
 残念ながら、この部分はまったく理解できなかったと言うしかない。ずっと日本で育ってきた子どもたちが、容易にミャンマーの生活に慣れることができないのはよく判ることだが、目に見えるきっかけを無理に作るのではなく、時間だけがこれを解決してくれると気長に考えるしかなかったのではないか。それは子どもたちの成長を信じるということになるはずである。
 どうやらこの映画は、そこのところを何らかの見えるかたちにして提示したいと考えてしまったのかもしれない。そんなふうに解釈するしかないような気がするのだが、これはたぶん必要のない操作だったのではないだろうか。映画としては、ここだけが意味不明の減点になってしまったような気がして残念だった。

 この点以外はホントに良くできた映画で、家族の生活実感が実にリアルに写し取られていて感心した。映画のモデルとなった家族は、一旦は離れて生活することになったが、ミャンマーの民主化の進行で国情がかなり良くなってきたということで、現在は父親アイセもミャンマーに帰り、家族一緒の生活を取り戻しているらしい。
 一方で、日本として外国人労働者をどう受け入れるのかという問題が、昨今のように大きくクローズアップされることになるとは、この映画の製作時には考えていなかったことだったかもしれない。これもまた偶然の成り行きということだが、この映画は非常にタイムリーな映画になってしまったのだ。そうなった時、この映画が安易な主張を前面に出したりせず、あくまでも家族の物語の中に様々なテーマを落とし込んでいたことが、逆に良かったという結果になったのではないかと思った。
(アップリンク渋谷、12月14日)
by krmtdir90 | 2018-12-17 18:06 | 本と映画 | Comments(0)

映画「遊星からの物体X」

e0320083_20351775.jpg
 デジタルリマスター版が作られたのがきっかけとなって、今年リバイバル公開された映画である。1982年のアメリカ映画(ジョン・カーペンター監督)だが、当時の評価はそれほど高いものではなかったと記憶している。そもそもが1951年のハワード・ホークス監督による「遊星よりの物体X」のリメイクであり、設定などはオリジナル版を踏襲しながら、クリーチャーの造形などに当時の映画界の流行が反映されていたようだ。
 この種の気色悪い地球外生物は、恐らく「エイリアン」(リドリー・スコット監督、1979年)あたりが始まりだったのではないかと思われるが、先行作が思い浮かんでしまうというのは、この映画にとってはたぶん不幸なことだったのだろうと推測される。けっこうとことんやってくれていたと思うが、これでもかとやればやるほど結局「おーっ、やっとるな」といった感じになってしまって、二番煎じと受け止められてしまう宿命だったということかもしれない。
 こういうヌルヌルした感じのクリーチャーが、怖くて面白い?という人がどのくらいいるのだろうか。わたしはこういうのは苦手である。苦手なら見なければいいのだが、もともとSFが好きだったものだから、こういうのが出てくると判っていてもつい見に行ってしまうということなのだ。分類上はSFという括りになっているようだが、どちらかと言えばホラー映画と考えた方がいいような気がする。また、見方を変えると、ミステリー的要素を含んだスリラー映画という側面もあって、設定や展開が非常に上手くできているのは確かなことだったと思う。

 外界と隔絶した南極の観測基地というのが一種の密室となっていて、そこが恐ろしい地球外生物の襲撃に晒されるというのが基本設定になっている。正体を現すと非常にグロテスクな姿をした「それ(The Thing)」は、襲った生物をみずからの体内に取り込んでしまい、その外見に同化・擬態して増殖していくという特徴を持っていた。最初は犬の姿をして基地に現れたのだが、次には隊員たちにも食指を伸ばすことになり、そうなると「それ」に襲われて取り込まれてしまった隊員と、そうでない隊員との見分けがつかなくなってしまうという厄介な事態になってしまい、基地の中は急激に疑心暗鬼のパニック状態に陥っていくことになる。
 誰がやられていて誰がやられていないのかが判らない、お互いに誰を信じていいのか判らないという状態は非常な消耗を強いるものであって、どんどん追い込まれていく隊員たちを、映画は恐ろしいスリルとサスペンスで描き出していく。「それ」の気持ち悪いイメージもなかなかのものだが、この人間の気持ちが泥沼に嵌まって抜けられなくなっていく感じもかなり怖い。
 そして、最後には基地のほとんどすべてが破壊されてしまうのだが、そんな段階になっても果たして「それ」は根絶やしにされたのかどうかは判らないのである。最後に生き残った二人も、結局同化してしまったのか、それともまだ人間のままなのかがはっきりしないまま投げ出されていて、しかもこの極寒の中ではどうあがいても生き延びることはできないだろうと思われるようになっている。解決とは程遠い、何ともすっきりしないエンディングなのである。

 この地球外生物は何万年も前に宇宙船で地球に飛来し、不時着した南極の氷の下でずっと冷凍されて生き延びたと設定されている。息を吹き返してこのまま外の世界に出て行けば、人類すべてが侵略され同化されてしまうのは時間の問題だと映画の中でも予測されていた。カーペンター監督は恐らく、もうすでにそうなってしまっている可能性もあるという終わり方にしたかったということなのだろう。最後で様々な解釈が可能になっていることが、この映画がいつの間にかファンの間でカルト的な人気を獲得した理由になっていると思われる。
 まあ、安易に退治成功のエンディングにしなかったところは好感が持てると思う。ただし、冬季はほとんど明るくなることがない南極の気象条件が無視されているとか、クリーチャーの襲撃から身を守りたいなら隊員は全員が固まって行動すればいいのにとか、いろいろ考えれば変なところもけっこうあると思うのだけれど、こういう映画でそれを言い募るのは野暮になってしまうということで、このくらいにしておく。
(新宿ピカデリー、12月13日)
by krmtdir90 | 2018-12-16 20:35 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ジャイアンツ」

e0320083_20284832.jpg
 1956年公開のアメリカ映画である。上映時間は3時間21分。60年以上も昔に作られた映画だが、何度見ても面白いし、やはりいい映画なんだなとその都度再認識させられる。
 実は、NHKのBSで放送された時に録画してDVDにしてあるから、見たければいつでも見られる状態になっているのである(実際、何回か見直している)。だが、今回「午前十時の映画祭」にラインナップされているのを見つけた時、映画館のスクリーンで見られるチャンスはそうあるわけではないから、やはりもう一度ちゃんと映画館で見ておくべきだと思ったのである。古い映画がデジタル化されることで、思いがけずこういう機会が訪れるのは素晴らしいことだと思う。

 わたしの映画ノート(メモ)によれば、わたしがこの映画に初めて出会ったのは高校生の時で、1965年の2月と6月に見たと記録してあった。たぶん、いまはなき立川名画座で見たのではないかと思う。前年にジェームズ・ディーンの「エデンの東」(1955年)を見ているから、その彼の3作目にして遺作というのがこの映画を見る大きな動機になっていたと思われる。
 その時どんなことを感じながら見ていたのかは判らないが、ジェームズ・ディーンの役回りが思いがけないものだったのは確かで、彼の演じたジェット・リンクの変貌に目を見張りながら見ていたような気がする。年を取ってからの彼は、見た目はどう見ても若過ぎる(老けて見えない)のだが、鬼気迫る演技でそのあたりを十分埋めていたのに驚いていたのではないかと思う。
 前半の、若いころのジェットは「エデンの東」のキャルや「理由なき反抗」のジムの延長線上にあり、その集大成ともなる印象的な演技を見せていたと思う。エリザベス・テイラーが演じたレズリーへのジェットの思いというのは、どう転んでも実現することのない一方的な横恋慕なのであって、そういうふうな、どうにもならないことが判っていて見せる彼のちょっとした表情や仕草などを、この映画は見事と言うしかないかたちで写し取っていると感じた。ジェームズ・ディーンが出演した3作のうちで一番いいのはどれかと問われれば、迷うことなく「ジャイアンツ」を挙げるだろう。

 ジェームズ・ディーンはもちろんだが、この映画は多くの登場人物を非常に丁寧に過不足なく描き出していて、いわゆる大河ドラマとしても多面的な広がりがあり、登場人物一人一人のドラマをしっかり組み立てているところが素晴らしいと思う。
 ストーリーの中心となっているのは、テキサスの大牧場主ジョーダン・ベネディクト2世(ロック・ハドソン)の許に東部の名門の娘レズリー(エリザベス・テイラー)が嫁いだことから始まる、30年に及ぶ夫婦と一族のドラマということになるのだろうが、30年を描くのに3時間21分というのは決して長いわけではなく、的確な省略と効果的なエピソードの選択によって、時間の経過と人物の変遷を実に上手に描き切っているのだと思う。実際この2人に限って見ても、出会って恋に落ちて結婚して、彼女が初めてテキサスにやって来て、想像を超えたこちらでの生活に様々な違和感を覚えながら、それでも自分を貫いて、次第に中に入り込んでいく、子どもが生まれ、夫婦の危機があり、それを乗り越えて、子どもが成長して結婚して孫が生まれて、というふうに、とてつもない時間の経過が描かれていて、そこにさらにジェット・リンクや様々な人物がからみ合い、そうしたものすべてを描く中で、豊かで説得力のある物語を組み立てているということなのである。

 わたしがこの映画を素晴らしいと思うのは、主人公たち、ジョーダンとレズリーとジェットの若い時代を描いた後で、彼らが歳を重ねた30年後の姿をじっくり描いて見せたところである。特にジョーダンとレズリーの二人には、最初からお互いの価値観のぶつかり合いが見えていたのであり、それが長い年月の間にどう変化していったのかを、終始ブレることなく見詰め続けていたのが素晴らしいと思った。
 この映画を何度見ても目頭が熱くなってしまうのは、ラスト近いドライブインでの殴り合いのシーンである。あからさまにメキシコ人を差別する店の従業員にジョーダンが抗議して喧嘩になってしまう、壮絶な殴り合いの末、ジョーダンの方がぶちのめされてしまうシーンである。最初に倒れ込んだ時に、衝撃でジュークボックスのスイッチが入り、ワクワクするような「テキサスの黄色いバラ」の歌が大音量で流れ出す。これまで、メキシコ人に対して意識しない差別意識をずっと引きずっていたジョーダンだから、観客としては(もちろんレズリーもだが)彼の思いがけない爆発に胸を突かれ、彼に絶対勝ってほしいと肩入れしてしまうのである。
 だが、彼は負けてしまう。そんな簡単に胸のすくようなエンディングはやって来ない。だが、映画はこのあと、レズリーがこの時の夫のことを肯定し、彼らが生きてきた年月のことを二人で静かに語り合うシーンを置くのである。異なる価値観があったからこそ生まれた二人の強いつながりが感じられて素晴らしかった。ここに到達するために、彼らには30年の歳月が必要だったのだ。

 この映画には、アメリカ社会の底流をなす根深い女性差別や人種差別の問題が描かれていて、60年以上も昔の映画としてはきわめて鋭い問題意識が含まれていたことに驚きを感じる。同時にいま、こうした批判精神がどこに行ってしまったのかと思うような、メキシコとの国境に壁を作ろうなどという剥き出しの差別意識が依然として力を持っていることに、言いようのない空しさを感じてしまうのである。
 しかし、だからと言って、この映画の終わり方を楽観的すぎると否定してしまうのは誤りだろう。60年前にジョージ・スティーブンス監督は、ジョーダンとレズリーがやっとたどり着いた思いを描くことで、子どもたちや孫たちの世代にアメリカの未来を託したのだと考えるべきなのだ。こういう良心的態度を笑ったり茶化したりするのは見苦しいことだと思う。進歩的な考えを持ったレズリーを嫌味なく造形できたのがこの映画の成功の鍵だと思うが、エリザベス・テイラーの美しさが大きく寄与していたと言うべきかもしれない。内容に関しては、まだいろいろ触れたいことがあるのだが、やり始めると長くなりそうなので止めておく。
 最後に、大したことではないが、この映画の原題は「GIANT」であって「GIANTS」ではない。プロ野球の金満球団の名前に引きずられたのか、「ジャイアンツ」と複数形にしたのは誤りだったのではないだろうか。
(TOHOシネマズ南大沢、12月10日)
by krmtdir90 | 2018-12-15 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

「日本が売られる」(堤未果)

e0320083_20255598.jpg
 日本という国に生まれ育ち、この歳になるまで安穏に暮らしてこられたことを考えると、この国はいろいろと気に入らないこともあるけれど、やはり素晴らしい国だったんだなと思うようになった。海外に出掛けるようになって、日本よりはるかに過酷な場所で生活する人々の姿を見たりすると、日本に生まれたのはまったくの偶然に過ぎなかったのだけれど、非常に幸運なことだったのだなと自然に納得させられるのである。
 ところが最近になって、何だか安心していられない状況が次々に生まれつつあるようなのだ。この数年ほどの間に、まったく信じ難いことなのだが、この素晴らしい日本の国のかたちを根底から覆してしまうような、きわめて重大な方向転換が次々と行われているらしい。いろいろなことが、ほとんどの国民にとって何の利益にもならない方向に向かって、どんどん作り替えられているらしいのだ。どうしてそんなことが起こっているのか。

 日本という国の良さが、いとも簡単に捨て去られようとしている。そんなおかしなことは起こるはずがないと思い込んでいた、それがいま国民が知らないうちにどんどん起こっているのだという。国民が知らないうちに、つまり国民に気付かれないようにして、この国のかたちを自分たちに都合のいいように作り替えてしまおうとしている人々がいるのだ。それがいまの政府与党であり、彼らはこの国を自分たちの金儲けに都合のいいかたちに変えてしまおうとしているのだ。
 この本は、いま国民が気付かないでいると取り返しのつかないことになってしまうという、きわめて重大で深刻な事態をまさに現在進行形の具体的事実として列挙している。それは、この日本の素晴らしさを構成していた様々なものを切り刻み、売りに出そうとしているということなのである。まえがきにおいて、筆者はこのことを端的に断じている。
 それは「国民の生活の基礎を解体し」、本来は国や自治体が担うべき「国民の命や安全や暮らしに関わるモノやサービスを安定供給する責任」を放棄して、市場を開放し投機の対象として、外国人を含む企業の前に「ビジネスとして差し出すこと」なのだ。農業、漁業、林業といった基幹産業において、民間活力を入れることで成長産業化するのだという、まったく根拠のない目くらましのかけ声の下で、すでに政府与党と結びついたグローバル企業の参入が着実に進んでいるらしい。企業が金儲けしやすい国にするのが、いまの政府の至上命題なのだ。

 これが、先日閉会した国会などで日々進められていたことである。こうした問題に対するマスコミの反応はきわめて鈍く、どういうことが起ころうとしているのかをきちんと問題提起する報道はほとんど見られなかったようだ(見られなかったというのは言い過ぎかもしれないが、提起はいつも単発的でささやかなものだったような気がする)。
 さすがに国会終盤には、出入国管理法改正案について徐々に問題点が明らかにされてきたが、問題点を隠しておきたい政府与党は、野党の追及を無視して時間をかけずに強行採決してしまった。この法案は、日本がこれから移民をどう受け入れていくのかという大問題に関わるもので、当然しっかりとした検討と制度設計が必要だったはずである。だが、政府与党には最低賃金以下で働かせることができる安い労働力が欲しいという財界からの要求に応えようとする視点しかなく、付随する様々な問題については蓋をしたまま押し切る姿勢しか見えなかったのである。
 結局、国会で彼らに多数を与えてしまったことが誤りだったのだと思う。彼らはみずからの金儲けのためなら、素晴らしい日本の国を切り売りすることなど何とも思っていないのだ。そのことに、そろそろ気付かないとまったく手遅れになってしまうのではないかという危惧を感じる。わたしはあと少しでこの世からいなくなるはずだからいいが、これからもまだ日本の国で生きていく人たちは、ホントにこの本でも読んで少し勉強した方がいいのではないだろうか。

 移民の問題一つをとってもきわめて重大と言うしかないが、問題なのはそれに匹敵するような、日本人としてあるのが当たり前と思ってきた生活上の安寧が脅かされる様々な法案が、ほとんど問題になることもなく次々に成立しているという事実である。
 この国会で成立してしまった水道法改正案もその一つである。水道が金儲けの手段となる恐ろしさについて、もう少し深刻にならなければおかしいのではないか。水道事業が民営化されビジネスの対象となった時、その安全性や公共性は本当に守られるのかどうかという問題である。こうしたことを推進しようとしている側は、それで利益を上げようと目論んでいるのだから、様々な疑問や問題点の指摘があってもまともに取り合う気はないし、大丈夫と繰り返すだけなのである。
 災害で大規模な断水などが発生した時、民間企業となった水道がどこまで対応できるのかは疑わしいと言うしかないだろう。世界的には、民営化が失敗して再度公営に戻す国が続出しているのが現状なのであり、もし今後そうなった時には、すでに金儲けを終えた企業は責任を取らずに逃走するのが目に見えているである。
 そのほかにも、種子法の廃止とか漁業法の改正とか、無関心でいたらとんでもないことになりかねない事態が、いまの政府与党の下でどんどん進行しているのだ。この本は、いま多くの日本人が読んで勉強しなければならない本だと思う。
by krmtdir90 | 2018-12-14 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「台北暮色」

e0320083_21314819.jpg
 ホアン・シー(黃熙)監督は1975年生まれの台北出身の女性で、あのホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督の(近作の)現場で学んだのち、2017年にホウ・シャオシェン製作総指揮により発表した長編第一作がこの映画だったようだ。
 台湾では公開以来、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)とエドワード・ヤン(楊德昌)の映画遺伝子(どんなものだ?)を継ぐ新しい才能として注目され、高い評価を受けているらしい。前評判が聞こえてくると、どうしても見る時のハードルが高くなってしまいがちだが、この監督がきわめて特徴的な映画の作り方をしていることは理解できたし、その特異性は確かに際立っていると受け止めることができた。こういう撮り方をする監督は、これまでなかなかいなかったということなのである。

 その第一印象は、特別なことが何も起こらない映画だなということだった。登場人物はきちんと設定されているし、シチュエーションも丁寧に描かれているのだが、そこから先、人物がストーリーを紡いでいくことをしていないように感じた。また、シチュエーションも積極的にストーリーが展開することに寄与していないように見えた。もちろん、その場その場でいろいろな出来事は起こっているのだが、それが何らかのストーリーを支え、それを前に進めるようにはなっていないのである。その時々の細かなディテールのようなものだけが積み重なっていて、そういう一見何でもないようなことに、この監督の視線は集中的に注がれているのだと感じられた。
 結果的にどういうことが起こっていたかというと、登場人物は確かにそこにいて、彼らを取り囲むシチュエーションも確かにそこにあるのだが、そこで映し出されるものからは、何らストーリーらしきものが浮かび上がってこないということだったのである。それは何とも頼りなく、不思議な感覚と言ってよかった。
 人物たちがそこに存在しているというのは、実はよく判らないそういう曖昧さの中にいるということだったのかもしれない。そして、彼らが動き回っているところからは、ある種漠然とした孤立感のようなものだけが立ち上ってきているのである。そこには相互の関係性はたぶん存在しているが、それはけっこう頼りないものであって、彼らはその不確実性の中で揺れ動きながら、その関係性のようなものを必死に確認し合っているということだったのかもしれない。

 ホウ・シャオシェン製作総指揮はこの映画のことを、「彼女にとっての『童年往事/時の流れ』だ」と言っているようだが、1985年製作の彼のこの映画が彼女に影響を与えた点はないとも述べているらしい。むしろ彼女の映画は、エドワード・ヤンが1985年に撮った「台北ストーリー」に近いものがあると見られているようで、その批評の言わんとするところは理解できるが、これがヤン監督の「台北ストーリー」や「恐怖分子」(1986年)に匹敵するものになっているかどうかは、やや疑問符がつくような気がした。
 確かに、エドワード・ヤンを思わせる美しく印象的なカットがたくさんあったと思う。それが台北という街と、そこに生きる人々の姿を的確に写し取っていたことは確かなことだったに違いない。だが、ストーリーではなくディテールに多くのことを語らせるという彼女の行き方が、ややそちらに寄り過ぎてしまった感があって、やや物足りない感じになってしまったようにも思われた。
 と言うか、登場人物たちが抱える様々な事情や思いなどが、この映画でもそれなりに浮かび上がるようにはなっていたと思うが、エドワード・ヤンの映画では、それが彼らの現実にどうしようもなく侵入してきてしまうところに大きな特徴があったと思うのである。それなのに、この映画ではそうしたものが絡んでいることは見えているのに、それが彼らの生にそれほどの影響を与えていないように見えてしまうのが物足りなかったのである。

 30年の時代的隔たりが、台北という街に生きる人々のあり方を変えてしまったということなのかもしれない。あるいは、監督としての両者の資質の違いが大きいのかもしれない。よく判らないが、ここまで淡々とやられてしまうと、もう少し何か描いてほしいという気もしてしまうのである。エドワード・ヤンは、みずからの存在感をもうちょっと明確にしていたぞと思うのである。ホアン・シー監督のこの突き放し方は、わたしにはどうしても不満が残ってしまうような気がした。

 プログラムに、来日したホアン・シー(黃熙)監督と、「きみの鳥はうたえる」(2018年)を撮った三宅唱監督の対談が載っていた。かなり突っ込んだ話し合いになっていて面白かったのだが、それを読む前に、この組み合わせを見ただけで「ああ、なるほどな」と納得できるような気がした。この二人の映画の作り方には非常に似たところがあり、二人はお互いにそのことを指摘し合っているのだが、その発言にはいろいろと肯ける点が多かったのである。
 プログラムにはまた、「泳ぎすぎた夜」(2018年)の五十嵐耕平監督も好意的なレビューを寄せていて、いまやこういう描き方をする若い監督が旬なのかもしれないなと思った。わたしなどはやはり、もう少しストーリーに色気を出してもいいのではないかと思ってしまうのだが、そういうのは予定調和のありふれた行き方として、徐々に淘汰されるようになってしまっているのかもしれない。
 確かに「映画遺伝子」にそれなりの共通性は認められるような気もするが、ホウ・シャオシェンもエドワード・ヤンも、もう少しストーリーはあったぜと思うのである。わたしと生年が同じこの二人の監督あたりが、わたしには率直に共感できる基になっていることが再確認されたような気がした。ホアン・シー(黃熙)、三宅唱、五十嵐耕平といった若く個性的な監督は、これからもできるだけ注目していきたいと思っているが、その作風は理解はできてもストレートに没入することはできないようなものに思われた。
(渋谷ユーロスペース、12月7日)
by krmtdir90 | 2018-12-09 21:32 | 本と映画 | Comments(0)

映画「恐怖の報酬」1977年オリジナル完全版

e0320083_175215.jpg
 この映画は1977年のアメリカ映画で、翌78年には日本でも公開されている。ただし、この時アメリカ以外の国で公開されたのは、監督に無断で約30分もカットされた92分の短縮版というものだった。
 どうしてそんなことになってしまったのか。事情はいろいろあったようだが、ウィリアム・フリードキン監督と言えば当時、「フレンチ・コネクション」(71年)や「エクソシスト」(73年)で世界的成功を収めていた大ヒットメーカーで、その次回作ということで大きな期待が集まり、2大メジャーのユニバーサルとパラマウントが破格の共同出資を行い、2年以上の製作期間をかけて完成したのがこの映画だったようだ。ところが、公開してみると批評もあまり芳しいものではなく、興行的にはちょうど公開中だった「スター・ウォーズ」に完敗という結果に終わってしまい、撮影中から製作費用や期間の度重なる超過で監督と衝突が続いていた会社側は、急激に世界配給への意欲を失い、大幅カットという監督無視の暴挙に出てしまったということらしい。
 そんなわけで、78年の日本公開がどんな感じで行われたのか、わたしは当時この映画を見ているはずなのだが、まったく記憶にはなく記憶が甦ってくることもなかった。たぶんこの間の経過から、配給側がほとんどやる気のないかたちで公開され、あまりまともな評価も行われないまま終了してしまったのではないかと推測する。
 今回公開された映画は「オリジナル完全版」と銘打ってある通り、77年にアメリカで公開されたオリジナル版を、監督自身が4Kでデジタルリマスター化して再公開まで持って行ったものである。日本では、初めてスクリーンで見ることが可能となったノーカットの121分だったのである。フリードキン監督は今年83歳になったようだが、彼はみずからが「最高傑作」だったと言う不幸な自信作を、驚異的な執念で40年ぶりに手中に取り戻したということなのだ。

 今回この完全版を見て、この121分にまったく無駄なところがないことに驚きを感じた。フリードキン監督はもともとドキュメンタリー的でキレのいい作りをする人だと思っていたが、この映画の語り口のテンポの良さ、展開のスピード感は観客の生理にズバッと切り込んで来る感じがした。シチュエーションの提示の仕方が的確で、余計な説明なしに、その魅力的なシチュエーションが否応なしに登場人物を動かしていくのである。その圧倒的な迫力にぐんぐん引き込まれた。。
 これを30分もカットしてしまう無謀さは想像を超えているが、恐らく4人の人物設定などがバッサリ切られてしまったのだろうと推測された。4人がなぜこんな南米の地獄のような僻地に流れてきたのかとか、なぜ危険を冒して命がけのニトログリセリンの輸送を請け負うのかといった、彼らが抱えていた背景や思いなどが完全に無視されてしまったのではないかと思われた。
 今回ネットなどを見ていたら、短縮版では、最後に一人だけ生き残ったドミンゲスが成功報酬を受け取るシーンがエンディングになっていて、彼もまたこのあと死んでしまうことが暗示されている完全版の皮肉な終わり方とは真逆の、とりあえずめでたしという訳の判らぬ終わり方になっていたらしい。これはいくら何でもひどすぎる改変で、どうやら短縮版にはニトログリセリンの物理的恐怖が辛うじて残っているだけで、あとは何も残っていなかったのかもしれない。
 この映画の核心は、運命に導かれるように死の淵に引き込まれていく4人の悪夢のような軌跡だったはずである。恐らく、この映画の何とも言いようのない暗い熱狂のようなものは、それぞれがたどって来た過去と密接に結びついていて、彼らが極限まで追い詰められていたからこそ生まれてきたものなのだろう。有無を言わせぬかたちで次々に襲ってくる危機の連続にも、それを死と紙一重のところで切り抜けていく眩暈のするような力業といったものも、それを生み出す彼らのリアルな思いに裏付けられていたから納得できたのだと思う。
 この4人は過去において、決して表通りを胸張って歩けるようなことをして生きてきたわけではない。だが、彼らが善人ではなかったにしても、この映画の中に共感できない人間として登場してきていたわけではなかった。だから一緒になって手に汗握ることができたのであり、最後に現れる突然の死が、たとえ彼らには必然の運命であったとしても、ある種の空しい了解を呼び覚ますことになったのだと思う。うーん、やっぱり死んじゃうのかという感じである。

 この映画には、1953年にアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督によって製作されたフランス映画の先行作があり、そのリメイクとして製作された作品だった。そのため、当初からこのクルーゾー版との比較で論じられてしまうことになり、特に短縮版になってからは、クルーゾー版には到底及ばないという評価が定着する結果となってしまったようだ。わたしはクルーゾー版を見ていないから比較することはできないが、この映画はこの映画として、変な言い方だが立派に独り立ちしていると言っていいように思った。
 クルーゾー版がどうであったにせよ、この映画では、この映画の登場人物たちがしっかりした説得力で存在していたと思う。ロイ・シャイダーがやったドミンゲス役は、クルーゾー版ではマリオという役でイヴ・モンタンが演じていたようだ。ちょっと見てみたい気もするが、見たからと言って両者を比較することには何の意味もないだろう。
 ストーリーの大枠はクルーゾー版と同じように展開したようだが、クライマックスの吊り橋のシーンなどはこちら独自のものだったようだし、ここに充溢していた幻惑的な狂気と絶望感、そして目も眩むような迫真の恐怖感は、他と比較することを空しくするような臨場感を持っていたと思う。わたしが高所恐怖症だったこともあるが、この映画の手に汗握る感覚はまったく尋常なものではなかったと思う。
(立川シネマシティ2、12月5日)
by krmtdir90 | 2018-12-08 23:59 | 本と映画 | Comments(3)


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
ブログジャンル