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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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カテゴリ:本と映画( 364 )

映画「運び屋」

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 監督・主演のクリント・イーストウッドは、この映画を撮った時87歳になっていたのだという。歳を取ることが人ごとでなくなってしまった身としては、かつて様々な役を颯爽と演じていたスターがすっかり歳を取ってしまい、その事実が判っていながら、なおその老いた肉体を晒してそこにいるというのは何か胸突かれる思いがするものだと思う。だが、ああ、こんなに歳を取ってしまったのかと衝撃を受けながら、その年齢にならなければなかなかやれないような役を見つけてきて、嬉々としてそれを演じ、そのことを心から楽しんでいるように見えるのは素晴らしいことだと思う。さすが、スターというものはこういうものなのだなと感じ入ってしまうのである。
 彼が演じたアール・ストーンという老人の役は、実際にメキシコの麻薬組織から密輸された大量の麻薬をアメリカ各地に届けていた、87歳の実在の「運び屋」をモデルにしたものだったらしい。イーストウッドの主演映画は7年ぶりだったというから、彼には俳優業はもう引退という気分もあったのかもしれないが、彼がこのニュースに接して「これは俺の役だ」と製作に乗り出したというのは、確かに運命的な何かか働いたということだったのかもしれない。
 この運び屋の男は、長いこと家族と家庭をないがしろにしてきたらしく、あくまで自分中心の生き方にこだわり、外面(そとづら)の良さを絶対的な武器として前面に押し出して、ずっと人生を送ってきたのだろうと想像された。そこを点描していく、滑り出しの回想シーンの快調なテンポが印象的だった。

 朝鮮戦争の退役軍人だった彼は、みずからの(家族とは関係のない)農場でデイリリーという(一日だけ開花する特別な品種の)ユリの花を栽培し、品評会で好成績を収めたりしながら、仲間の生産者や退役軍人の仲間たちと楽しい人間関係を形成してきたようだ。外での人間関係が第一と考えてきた彼は、妻とも離婚し娘とも連絡が絶えても後悔することがなかったのである。
 「12年後」という字幕が出て、現在のすっかり年老いた彼の姿が映し出されるのだが、この歳月の間に(インターネット販売の普及に乗り遅れた)彼の農場は倒産し、彼はほとんど無一物になって農場を出て行くしかなくなってしまっているのである。そんな彼が、結婚を間近に控えた孫娘の招待を受けて、絶縁状態だった家族の許に帰るところからストーリーが動き出す。
 もちろんかつての妻や娘が彼を許すはずもなく、彼は早々にそこを後にするしかなくなるのだが、パーティーの招待客の一人から持ちかけられた「簡単な儲け話」というのが、実は麻薬組織の「運び屋」だったというのがすべての始まりになっている。組織の側からすると、車の運転が大好きで、しかも常に安全運転でパトカーに止められたことなど一度もないというこんな年寄りが、まさか麻薬の運び屋などしているはずがないという捜査側の思い込みにつながって、願ってもない盲点になるはずだという作戦だったのである。
 最初はそれが麻薬であることを知らされず、あまりに割のいい話に半信半疑だったアールは、二度三度と仕事を繰り返す中で事実に気付いた時には、それなりの驚きは見せるものの、それ以後も特段躊躇する様子もなく仕事を続けていくのである。

 映画はそんな彼をロードムービー風に追いかけていくのだが、もちろん一方に麻薬取締局のコリン・ベイツ捜査官というのを配して、きわめてオーソドックスな犯罪映画のサスペンスを盛り上げていく。この映画が成功しているのは、この運び屋のアール・ストーンという老人を、ある意味身勝手だけれども鷹揚で飄々とした生き方をしていて、誰も憎めないような存在として造形して見せたところにあると思う。このあたり、すっかり歳を取ってしまったクリント・イーストウッドの渋い演技が絶妙で、もうこの歳なのだから、どうなったところでさして驚くことではないというような、一種の開き直りの姿勢が痛快な印象を与えていたのだった。
 この映画はアールとベイツ捜査官という、逃げる者と追う者との駆け引きが実に面白く描かれていて、この二人がモーテルで思いがけないニアミスを見せるところなど、なかなかこしゃくな作戦が成功している脚本と言っていいのではないだろうか。モーテルの食堂で偶然隣り合ったアールが、人生の要諦をベイツ捜査官に淡々と説くシーンは可笑しかった。
 あともう一つ、この脚本が巧みな設定をしていると言っていいのは、年老いたアールがいま、ずっと裏切り続けた家族に対して後悔と贖罪の気持ちを持ち始めていることではないだろうか。長い間、外で認められることだけが男にとって大事なことだと考えてきた彼が、最も大事だったのは、実は家族との間に作られていなければならなかった関係だったことに気付いて、この誤りを何とか埋め合わせできないかと考え始めている。もちろん終わってしまった過去を取り戻すことはもうできないのだが、それでもこの映画は(この脚本=ニック・シェンクは)、彼にあるささやかな時間をプレゼントするのである。

 別れた妻が死の床にあるという孫娘からの知らせを受けて、彼は命の危険を顧みず、運び屋の仕事を中断して(放棄して)妻の許を訪れ、彼女の枕頭にしばし寄り添うのである。
 ここをこの脚本の甘さと言うことは簡単だが、彼がここで取った行動は、決して許してもらうための行動ではないことが判る描き方になっているので、何とも言えず心打たれる展開になっていたのである。彼はもう取り返しがつかないことが判っていたのだと思う。だからこそ、許されない自分と対峙するためにそこに行ったのではなかったか。そういう彼を死にゆく妻は最後に許すのだけれど、彼が自分を許していないことははっきりと見て取れたのである。
 アールが最後にはベイツ捜査官に逮捕され、裁判で(たぶん)情状酌量を求めようとする弁護人を遮って自分の罪を認めたのも同じことである。彼が運び屋として行った行為は許されるものではなく、有罪となって刑務所に収監されるのは当然のことなのである。そして、家族に辛い思いをさせ続けた彼が、そのために孤独の底に落ちていくのも必然と言うべきなのだ。
 だが、この映画は、最後の最後に、もう手遅れというギリギリのところで、彼に改心のための小さなチャンスを差し出していたのかもしれないと思った。87歳になったクリント・イーストウッドだったから、そういうドラマを描けたのかもしれないと思った。
(立川シネマシティ1、3月14日)
by krmtdir90 | 2019-03-24 20:52 | 本と映画 | Comments(0)

映画「雨のニューオリンズ」

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 ニューオリンズの「旅行記」をまとめる途中、インターネットで「雨のニューオリンズ」を検索していたら、このDVDが990円で買えるというAmazonのページが目に止まった。映画は映画館で観るもので、DVDで借りたり買ったりするという選択肢を考えたことがなかったので、そんなに安く手に入るのかとちょっと驚いてしまった。これは何かの縁があったということかもしれないと感じて、初めてAmazonなるものを利用して購入手続きをしてしまった。
 まったく便利な時代になったものである。翌日にはちゃんと郵便受けに品物が届いていて、届いてしまった以上は(「旅行記」の方は中断して)早速観ない訳にはいかなくて、何十年ぶりかの再会となったのである(実は、観てからずいぶん日にちが経ってしまったので、どうしようかと迷ったのだが、記録という意味で遅ればせながら一応書いておくことにする)。

 テネシー・ウィリアムズの「財産没収」は、上演しても30分かからないくらいの短い一幕劇である。舞台は「ミシシッピィのある小さな町のはずれにある鉄道の土手」(倉橋健訳、ト書き冒頭)となっていて、登場人物はウィリー(女の子)とトム(男の子)という2人だけである。映画の最初と最後にこの2人のシーンが残っているけれど、テネシー・ウィリアムズが書いたのはこの2人のやり取りだけであって、ウィリーのセリフの中にアルヴァは出てきているが、その生きていた過去はもうまったく失われてしまったものとして語られているのである。
 映画「雨のニューオリンズ」がやろうとしたのは、この「過去の出来事」を具体的なストーリーとして観客の前に提示することだった。戯曲ではウィリーのセリフの中に凝縮されて語られるだけだった「過去」を、映画はあくまで現実に起こった出来事としてスクリーン上に呼び出し、アルヴァと彼女をめぐる様々な人物のドラマをリアルに描き出そうとしたのだった。ウィリーの中でずっと憧憬される存在として美化され続けてきたアルヴァは、実際にはこんな感じだったに違いないと思われるイメージで細部を作り込まれ、この映画の中に鮮やかに甦ることになったのである。

 ミシシッピの田舎町、鉄道で働く男たちを相手にしている下宿屋の「看板娘」だったのがアルヴァで、戯曲ではウィリーのセリフとして「アルヴァは鉄道の人たちにとっても人気があったの」「きれいだったわ、まるで映画スターみたい」などと紹介されている。彼女は次々に言い寄ってくる男たちを巧みにあしらい、時に「寝たり」しながら男たちの人気を独占していたようだ。だが、テネシー・ウィリアムズの戯曲に登場するヒロインである以上、彼女の「絶頂」が長く続くことは考えられず、程なく訪れることになる、まるで約束されていたかのような「没落」と「死」の経緯が、ウィリーの口から手短に語られていくのである。
 戯曲では、下宿屋を経営していた母親が「鉄道の検車係と駆け落ちした」ことがきっかけとされていて、「それからは何もかもメチャメチャ」になって、父親も失踪し、アルヴァも肺病に冒されてしまったと説明されている。ウィリーはそのすべてを目撃していたのであり、姉の悲劇的な結末を「アルヴァの恋人たちはみんないなくなっちゃった。沈みかけた船からネズミがにげだすみたいにね。姉さん、自分でよくそういっていた。まったく……映画のようにはいかないものね、人の死って」と回想するのである。

 映画は、この「経緯」の部分をまったく独自の、それでいて戯曲の設定を見事に生かすようなストーリーに組み立て直している。映画に登場する母親のヘイゼルは、皆の人気の的になっているアルヴァを金持ちの中年男ジョンソンと結婚させようとしている。女性の自立というようなことがまだまったく無縁だった時代が背景であり、女性は男性に依存しつつ生きるしかないという思い込みに母親は縛られていたということなのだろう。実はアルヴァの根底にも同様の考え方が見て取れるのだが、いまのところ毎日が自分の思い通りになっているアルヴァには、この結婚を受け入れて自分の未来を閉ざしてしまう選択はまったくあり得ないのである。彼女はこの田舎町で埋もれてしまうつもりはなく、いつか必ず憧れの都会に出て行く日が来ることを夢見ているようだった。
 戯曲のウィリーは「アルヴァは流行のこと、よく知ってたわ。シカゴの大きなお店のデザイナーになりたがっていたの。自分の写真をよく送ったりしてたけど、だめだった」と語っている。映画にはこのセリフは残っていないが、現在の閉鎖的で息苦しい田舎町の生活から脱したいという、彼女の切実な願いというようなものはよく描かれていたと思う。
 このアルヴァを演じたのは、「ウエストサイド物語」でヒロインのマリアをやったナタリー・ウッドだった。役どころはまったく異なっていたが、この「雨のニューオリンズ」のアルヴァが、若くして不慮の死を遂げたナタリー・ウッドという女優の最良の映画だったのではないかと思っている。勝ち気で蓮っ葉に見える言動の奥に、夢見がちな少女のような純情を見え隠れさせているところが魅力的だった。そして、この映画は、戯曲には描かれることのなかった彼女の「恋」の顛末を描き出すのである。

 ある晩、オーエンという男が鉄道でこの町にやって来て、この下宿屋に部屋を借りることになる。どことなく都会の雰囲気を漂わせる彼にアルヴァは興味を示し、いつもの手管で彼の気を引こうとするがまったく相手にされない。こんなはずはないと、次第に意固地になっていくアルヴァをナタリー・ウッドは実に鮮やかに演じて見せている。
 このオーエンを演じたのがまだブレイクする前のロバート・レッドフォードだったのだが、アルヴァの見え透いた誘惑をやり過ごしながらも、次第に惹かれていってしまう変化を丁寧に演じていたと思う(また、この映画にはチョイ役だがけっこう重要な役回りで、やはりブレイクする前のチャールズ・ブロンソンも出ていて、あとで考えると実に豪華なキャスティングの映画だったのである)。
 それはともかく、このオーエンが実は鉄道の男たちに解雇通告を行うために会社が派遣した調査員だったことが明らかになり、これによってこの下宿屋の「何もかも」が「メチャメチャ」になってしまうというのが、映画の方が展開させたストーリーの骨子になっていた。オーエンはアルヴァの働き掛けを受け入れるようになっていくが、彼女といるところを解雇した男たちに待ち伏せされ、袋叩きにされてしまう。彼とアルヴァの「恋」というのは、周囲の誰からも祝福されるものにはなり得ないまま、最後まで突っ走って行くしかないのである。
 ただ、この点について冷静に見返してみると、アルヴァの心情の底にある現状脱出への渇望といったものと比べて、オーエンの中にはそれほど切実な思いはなかったように見えてしまう。アルヴァは二度と後戻りできないような危ない橋を渡っていたのに対し、オーエンはみずからの位置からほとんど動くことなくアルヴァに接していたように思われるのである。

 二人の関係は様々な紆余曲折を乗り越えて、ニューオリンズでつかの間の幸せな時間を手にすることになる。アルヴァがオーエンを追ってニューオリンズに向かう列車が、大きな湖の鉄橋を渡っていくシーンがずっと記憶に残っていた。今回調べてみたら、ミシシッピ州などの北方からニューオリンズに向かう列車は、最後に必ずあのポンチャートレイン湖を鉄橋で横切っていくことが判った。空撮で車窓のアルヴァの横顔を捉えた映像にテーマ曲がかぶさり、次のニューオリンズのカットに切り替わっていく一連のシーンの高揚感は素晴らしかった。
 だが、ニューオリンズでの二人の幸せは(もちろん)長くは続かない。母親のヘイゼルが現れて、ここに来る前のアルヴァの行状をオーエンに暴露してしまう。彼女は決して、恋人の前で胸を張れるような生き方をしてきた訳ではないのである。
 絶望したアルヴァはアパートを飛び出してしまうが、雨の降る夜のニューオリンズの街路を彼女が駆けて行くカットで、この物語は不意に途切れてしまうのである。映画は再び、町外れの鉄道の土手にいるウィリーとトムの姿に戻っていってしまう。映画はこの後のことを一切描かない。テネシー・ウィリアムズの原作を知らない人からすると、この唐突な終わり方はちょっと違和感を感じるのかもしれない。だが、時代背景などを考えれば、やはりオーエンがアルヴァを追うことはないだろうし、アルヴァの夢は潰えてしまったということになるしかないのだろう。
 戯曲ではウィリーのセリフでかなり語られていたアルヴァの最後の様子は、映画ではセリフとしてもほぼ省略されてしまって明らかにされることはない。はっきりしているのは、彼女がいまは「骨のお庭」にいるということだけである。アルヴァは、絶望的な状況の中でみずからの夢想に裏切られて破滅していく、テネシー・ウィリアムズの多くのヒロインたちの一人として生きたということなのである。

 この映画を監督したシドニー・ポラックは、のちにアカデミー賞の作品賞や監督賞を受賞する映画を撮ったりするが、この時点ではまだようやく2本目(この映画)を完成させたばかりの、駆け出しの新人監督だったのである。また、もう一つ注目すべきは、3人の名前がクレジットされているこの映画の脚本家の筆頭に、まだ監督として売れる以前のフランシス・フォード・コッポラの名前が記されていたことである。原作の戯曲をふくらませて見事な脚本に仕上げたところに、この「才能」が絡んでいたことに納得の思いがある。
 Wikipediaで調べてみると、「雨のニューオリンズ」の製作年度は1966年となっていて、当初パラマウントはこの映画を日本で公開する気はなかったようなのだ。恐らく何かの理由で公開されなくなった映画の穴埋めだったのだろう(そんなことをどこかで読んだ記憶がある)、日本で公開されたのは1969年5月10日のことだった。そして、わたしがこれを観たのは5月13日だったのだが(わたしのノートに記録されている)、わたしの記憶によれば、この公開は確かこの日で打ち切りになってしまったのである(たった4日間だ)。プログラムなども作られることはなかったと記憶している。確か、映画館は渋谷の旧東急文化会館の地下にあった東急レックスだったと思うが、これはあまり自信がない。
 それはそれとして、映画ファンのみならず、みずからの「先物買い」を自慢したくなる性向は誰にでもあると思うが、そういう意味では、公開当時ほとんど注目されなかったこの映画を映画館で観ているというのは、かなり希少なことに違いないと言いたい気がする。その後はリバイバルされたこともないはずで、しばらくしてからテレビ埼玉で放映される機会があり、それをビデオに録画して何遍か見返した記憶があるだけなのである。
(DVD・TV視聴、3月1日)
by krmtdir90 | 2019-03-23 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ファースト・マン」

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 アポロ11号が月に行ったのは1969年7月のことである。当時わたしはすでに大学生になっていたが、中学生のころは理科部で天体望遠鏡を覗いていたりしたこともあるので、そのころからアメリカと旧ソ連による宇宙開発競争はけっこう熱心に追いかけていた。だから、この年に至る様々な出来事(例えばアポロ1号の火災事故など)もけっこう覚えていて、さらにこの映画が描く以前のことなども、いろいろ記憶が甦ってくることがあって懐かしかった。
 この映画は、人類として初めて月面に降り立ったニール・アームストロング船長の伝記である。彼が生前に出版を許可していた同名の公式伝記というものがあるらしく、その視点を基盤にしながら映画化したものだったようだ。「ラ・ラ・ランド」のデイミアン・チャゼルが監督をし、ライアン・ゴズリングがアームストロングに扮している。

 マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画と進んで行ったアメリカの宇宙開発計画は、常に飛行士を集団として育成し、その中からミッションごとに乗組員を選んでいくかたちを取っていた。したがって、映画がこれら各計画の積み重ねの先に月面着陸を描くのであれば、どうしてもその過程で生まれた集団のドラマを省くわけにはいかないという側面があった。その上、ロケットの打ち上げや飛行計画の達成のためには、管制センターを始め様々な部署での多くの人々の多面的な支えがあったことも明らかで、そうした部分への目配りも非常に重要なことになっていたと思う。
 ところが、この映画の描き方はきわめてユニークな視点を持っていて、それは上記のようなことを前提として認めながらも、その群像劇的な広がりを思い切って刈り込んでしまい、アームストロング船長の私生活とその人間像だけにギリギリ寄り添って行こうとしたことだった。
 そのためもあって、計画実施に関する事実経過のようなところはかなり大胆にカットされていて、ニュースをずっと追いかけていたわたしなどにはある程度判るけれど、その時代のことを直接知らない若い観客層などから見ると、けっこうわかりにくい部分もあったのではないかと心配になった。描き方が淡々とし過ぎているとか、ドラマとして盛り上がりに欠けているといった感想が、ちょっと覗いて見たネットのレビューなどには出てきていたのである。

 ただ、すでに50年もの月日が経過している歴史的な出来事を、いまの時点から改めて映画化しようと考えた時、この映画が選択した行き方は非常に良かったのではないかと思った。説明不足に陥ってしまう危険を冒してでも、あくまで一人のアームストロングという人間そのものに向き合おうとしたこと、そして彼とその家族、また彼自身と密接に結びついていた周囲の限られた部分だけに絞り込んで脚本を構成した(ジョシュ・シンガー)のは正解だったと思う。そのため、妻のジャネットという存在がきちんと浮かび上がるようになり、彼女を演じたクレア・フォイの好演と相俟って、宇宙飛行士の妻という孤独な心情もステロタイプに陥ることなく丁寧に描き出されたのである。
 アームストロングの宇宙飛行士としての体験についても、可能な限り彼の感性や主観に即したところを掬い上げようとしていて、これは切り口としても斬新だったし、寡黙な彼の人物像を見せていく上で非常に良かったのではないかと思った。
 一般に「宇宙もの」の映画というと、宇宙空間を行くロケットとか、いわゆる神の視点からの広がりのある映像が効果的に挟み込まれたりするのが常だったと思う。ところが、この映画にはそうした開放感のあるショットはほとんどなく、中に押し込められるとほとんど身動きもできなくなってしまう狭苦しい宇宙船内部に執拗にこだわって、アームストロングたち宇宙飛行士が実際に体験した飛行感覚を、きわめて生々しいかたちで追体験できるような描き方になっていた。このこだわりは新鮮で、宇宙船は窓もきわめて小さいし、実際に宇宙を飛び続けていた時に彼らが置かれていた状況は、こんなふうに閉所恐怖症にもなりかねない不自由で窮屈極まりない空間だったことがよく判ったのである。この映画はそうした実感をとことん描こうと決めていたように思われて、その延々と続く時間をしっかり体感させてくれたことは素晴らしかったと思う。

 実はきょうの午後、NHKのBSでたまたま「アポロ13」(1995年、ロン・ハワード監督)という映画を放映していて、チェックし損なってしまって途中から見ることになったのである。これは1970年4月に月に向かう軌道上で起こった酸素タンクの爆発事故と、そこから「奇跡の生還」を果たすまでのアポロ13号の乗組員の実話を映画化したものだった。結果的に、同じアポロ計画を扱った「ファースト・マン」と続けて見ることになったので、同じ実話であっても描き方がまったく違っているのが判って面白かった。
 もちろん題材の違いは大きく、こちらは事故による危機的事態をいかにして乗り越えたのかという映画なので、サスペンスフルでドラマチックなストーリーになるのは当然と言えなくもないのだが、それにしても描き方が意図的にそちらに振れているのが見え過ぎているように感じられ、「ファースト・マン」と比べるとずいぶん「作りもの」くさいなと思ってしまった。両作の間には20年以上の時が流れていて、この事実は想像以上に大きかったのだと思った。「アポロ13」も、たぶん製作当時はきわめてリアルな映画化だったと見られていたのではないかと思うが(キネマ旬報ベストテンでも9位に入っていた)、現代ではこういうやり方ではまったく甘いのであって、「アポロ13」を決して否定するわけではないけれど、いまや「ファースト・マン」こそが現代のリアリティを具現しているのだと思った。

 あと、「ファースト・マン」でもう一つ記憶に残ったのは、膨大な予算をつぎ込んだこの計画に対して、差別問題と結びついた反対運動があったことを取り上げていたことである。「白人が月に行くのに俺たちの税金を使うのは許せない」というようなスローガンが出ていたと思う。そうなのだ。当時のアメリカにとって黒人やマイノリティの存在は完全に視野の外なのであって、冷戦下のソ連に対抗した宇宙開発競争も軍備拡張競争も、すべては白人の誇りに関する問題だったのである。
 一昨年公開された「ドリーム」(セオドア・メルフィ監督)が、マーキュリー計画当時のNASAの人種差別を取り上げていたが、50年前のアポロ11号当時になっても管制センターには白人しかいないようだったし、この映画の中に黒人の姿はほとんど見えなかったことが印象的だった。これは「アポロ13」でも同じで、アメリカの宇宙開発は確かに「白人が月に行く」ための計画だったことが理解されるのである。これらの計画がいかに無謀なものだったのかということも、この映画は描写の端々にしっかり捉えていたと思うし、そういうことにきちんと触れようとしていた「ファースト・マン」は、確かに現代から50年前を見直そうとした映画化だったということなのだと思う。
(立川シネマシティ1、2月15日)
by krmtdir90 | 2019-02-18 20:31 | 本と映画 | Comments(2)

映画「マスカレード・ホテル」

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 見たあとでいろいろ考えてしまうような、どちらかと言うとシリアスな要素を含んだ映画を中心に選んでいるから、たまには徹頭徹尾エンターテインメントな、難しいことは一切ないような映画をのんびり見るのもいいかなと思った。東野圭吾は遠い昔、確か「白夜行」を読んだおぼろげな記憶があるのだが、それだけでその内容もまったく忘れてしまったし、この原作や最近のものについての知識はまったくなかった。そればかりか、最近また映画を見るようになったとはいえ、木村拓哉や長澤まさみ、松たか子といった俳優の出演作にはとんと縁がなく、いろんな意味で非常に新鮮な気持ちで見ることができた映画だったのである。
 以下、ネタバレがありますから、そのつもりで。

 原作は刑事と犯人が出てくるミステリーとして書かれていると思うが、映画はキムタクと長澤まさみによるバディムービーの性格が強いと思った。キャラクター設定などは原作からのものだろうが、それをくっきりと体現して見せたのはこの2人なのである。2人はとにかくカッコいいし可愛いし、この演技のぶつかり合いが生み出す絶妙の雰囲気は非常に見応えがあったと思う。
 キムタクはどんな役をやってもキムタクにしか見えないという批判が一部にあるようだが、それは違う。わたしはキムタクのことをそんなに知っているわけではないが、この映画の彼は、キムタクでありながら刑事・新田浩介としてちゃんと存在できていたと思う。それはたぶん、長澤まさみが彼女のイメージを保持した先に、きちんとフロントクラーク・山岸尚美を浮かび上がらせたことと響き合っている。当初まったくの水と油だった2人が、様々な出来事を通じて次第に心を通じ合わせていくところは、それだけで見ていてワクワクしたし、この2人なかなかやるではないか!と思った。

 ホテルという場所は、ミステリーに限らずいろんな物語の舞台として、様々な可能性を含んでいるところなのだと思う。ホテルには確かに、あらゆる種類の人間がそれぞれの「仮面」をつけて出入りしているし、そういうところに突然降りかかった殺人予告を前にして、客を疑いその仮面を剥がそうとする刑事と、お客さまを信じて仮面を守ろうとするホテルマンという対立は、それぞれのアイデンティティーの根幹に関わるような構図になっていて、そこに実にスリリングなドラマが生まれる予感がしたのである。実際、ミステリーサイドの謎解きなんかより、こちらの展開の方がずっと面白かったというのが、この映画を見終わった時の率直な感想だったと思う。
 原作がどんなふうになっていたのかは知らないが、犯人の松たか子には悪いけれど、彼女の動機にはもう一つ説得力が欠けていたし、何よりこんな回りくどい殺人計画を組み立てなければならない必然性が、わたしにはまったく判らなかったのである。
 だが、この映画にとって、そっち方面のことはたぶんどうでもいいことだったのだ。前半に次から次へと展開する、誰が犯人と言われてもおかしくないような、一癖も二癖もある困ったお客の思わせぶり一杯のオンパレードも、ミステリー的な目くらましの要素としてどうなのかと言うよりも、キムタク・長澤の「バディ」が成長していくために、一つ一つ乗り越えなければならない障害だったと考えれば、実に効果的に配置されたエピソードだったことが理解されるのである。

 最後に、犯人に捕まった山岸(長澤)を刑事・新田(キムタク)が救出するシーンで、無人と思って一旦後にした客室に新田が戻ったのはどうしてかという謎(疑問)が残るのだが、偶然ここに関する原作との違いを知ることになったので書いておく。
 実は帰り道に本屋に寄って、何となく原作を立ち読みしてしまったのだが、原作では新田が山岸の微かな化粧の香りで彼女がいることに気付いたと、言葉にして種明かしが行われていた。映画ではなぜ気付いたのかという2人の会話はなく、ただ部屋のメモ用紙の上に置かれた文鎮が曲がっているショットがさりげなく挿入されていたのである。伏線として、この文鎮を彼女が気付くたびに真っ直ぐに直す動作が何度か映されていて、人が入らなければ文鎮が曲がっていることはあり得ないという約束事項が成立していたのである。
 映画はこのことを一切話題にしていない。ただ一瞬そのショットを挟んだだけである。香りをボツにしてさりげない映像に語らせる道を選んだことは、観客の気付きを信頼したこの映画の鮮やかな勝利だったと思う。

 あともう一つ、ラストの仮面舞踏会と、後日談としての食事会のエピソードについても書いておく。
 ネットのレビューを見てみると、これは余計だったという感想もけっこう散見されるのだが、わたしは必ずしもそうとは思わなかった。この映画はシリアスなドラマではないのだから、このラストというのは大衆演劇で言えば大団円でありフィナーレという意味を持っていたと思う。演劇だったらカーテンコールであり、そもそも本編が終わった後に付け足される「おまけ」だったと考えるべきなのだろう。そう思えば、これは実にお洒落な「付け足し」になっていたし、映画を見終わった後の豊かな気分をいっそう増してくれる働きをしていたのだと思った。
(立川シネマシティ1、2月12日)
by krmtdir90 | 2019-02-14 20:51 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ナチス第三の男」

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 洋画には「ナチスもの」というジャンルがあるように思う。切り口は様々だが、ナチスドイツをいろいろな角度から描いた映画が絶えることなく作られているようで、2本の公開が重なったのは偶然だろうが、2日続けて「ナチスもの」を見ることになってしまった。こちらは2017年、フランス・イギリス・ベルギーの合作映画で、ドイツは製作に絡んでいない。監督のセドリック・ヒメネスはフランス出身の人で、映画の使用言語は英語である。
 この映画が取り上げているのは、1942年5月に起こったというラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件である。ナチスドイツの中ではヒトラー、ヒムラーに次ぐ「第三の男」と言われていたハイドリヒは、ヒトラーから「鉄の心臓を持つ男」(これが原題になっている)と呼ばれていて、国家保安本部の長官として「ユダヤ人絶滅計画」を首謀した人物とされているのである。彼の暗殺は、ナチスドイツが猛威を振るった第二次世界大戦中に唯一成功したナチ最高幹部の殺害だったようだが、これを実行したのは、イギリス政府とチェコスロバキア亡命政府によってプラハに送り込まれたレジスタンスのメンバーだった。

 この映画の上映時間はちょうど120分なのだが、この前半と後半とで、視点を真逆に移動させるというユニークな構成を取っている。前半はハイドリヒの視点で、この危険な人物がどのようにして生まれたのかを跡付けていき、後半はレジスタンスの視点から、ハイドリヒを狙撃したヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチークの行動を追っていく。いずれも興味深い内容だが、それぞれに登場する人物像を描くには、各60分という時間配分ではやはり足りなかったという印象を受けた。
 プラハ城内の路上で起こった襲撃は、まず冒頭に短く、途中で途切れるかたちで置かれている。そののち映画はすぐに時間を遡行して、二つの視点によって描かれたドラマの共通のクライマックスとして、再度それぞれの視点からこの瞬間を描写し直すのである。つまり、この映画は普通なら2本の映画として描かれるべき内容を1本に圧縮しているとも言えるわけで、その実験的意図は了解できるが、どうしても全体の描き方が駆け足になってしまい、人物造形やエピソードの掘り下げが不十分になってしまったところがあるように感じた。

 特に前半で、一人のドイツ軍青年将校が海軍を不名誉除隊となり、熱烈なヒトラー信者だった婚約者に勧誘されてナチ党員となり、紹介されたヒムラーに見出されて見る見るうちにのし上がっていくという、このハイドリヒという「怪物」が出来上がっていく過程は非常に興味深いものだったが、この映画の構成はせっかくの題材を十分生かし切れていない感じがした。
 婚約者のリナという女性は貴族階級出身で、ハイドリヒの妻となったあとも彼に与えた影響はかなり大きなものがあったように思われる。彼らの間には男の子も生まれているが、描き方としてこの家庭生活への踏み込みが決定的に不足していたように思った。一方で、ナチス党内の熾烈な権力闘争に勝ち上がっていくところも、彼一人を描くことに精一杯の感じで、周囲との対立がどんなものだったのかといったことはほとんど描かれていなかったように思う。こんなに性急にならずに、この両面を対比しながら、もっと丁寧に描いてくれたらと思わないではいられなかった。
 それぞれの内面やその関係性などへの目配りが不足しているから、描かれた人物像が結局ステロタイプになってしまった感は否めないのである。これは後半でも同じで、特に狙撃者の2人と協力者の女性たちとの恋愛を描くところで決定的だったように思う。死を覚悟して送り込まれた2人と、それを承知でお互いに恋に落ちてしまうという、この上なく劇的な状況を描くにしては、それぞれの内面描写が不足しているのは明らかだったような気がした。

 ハイドリヒ襲撃のあと、映画は狙撃者のヤンとヨゼフにフォーカスして、教会の地下に身を潜めた彼らがナチス親衛隊と激しい銃撃戦を行い、そののち最期を遂げるまでをかなり克明に描写していたが、ここに時間を割くのはどうもバランスを欠いているような気がして仕方がなかった。彼らが死ぬのはある意味約束された結末だったのだから、むしろまだ生きていた時の彼らのエピソードにこそ、その時間を使うべきだったのではないかと思った。
 ハイドリヒを演じたのはジェイソン・クラークというオーストラリア出身の俳優だったが、無表情になった時に漂わす底知れぬ不気味さが印象的だった。妻のリナをやったロザムンド・パイクとヒムラーのスティーヴン・グレアムはイギリス出身で、彼らの演技も地味だが印象に残った。一方のレジスタンス側は、ヤンとヨゼフを始め彼らの恋人となった女性なども、残念ながらほとんど印象には残っていない。監督としてはレジスタンスを描く方を重視していたのかもしれないが、実は映画の魅力としては逆だったのであり、ハイドリヒを描く前半に特化してくれた方がずっと面白かったのではないかと思った。
(立川シネマシティ1、2月9日)
by krmtdir90 | 2019-02-13 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ちいさな独裁者」

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 ここに描かれたストーリーの大半は実話だったのだという(2017年、ドイツ・フランス・ポーランド合作)。
 ナチスドイツの終焉も近い1945年4月、敗色濃厚となったドイツ軍の軍規は緩み切っていて、兵士による略奪や脱走に歯止めがかからない事態になっていたようだ。主人公ヴィリー・ヘロルトも脱走兵の一人で、厳しい追跡から何とか逃げ延びたあと、空腹を抱えて彷徨ううちに、道端に乗り捨てられた軍用車両のトランクの中に、ナチス将校の軍服一式があるのを発見するのである。
 深い考えもなく、単に寒さをしのぐためにその軍服を着たヘロルトの前に、部隊からはぐれたという上等兵フライタークが現れ、「将校」のヘロルトに同行させて欲しいと願い出るのである。深い考えもなく、ヘロルトはそのまま大尉に成りすまして動き出してしまう。

 プログラムの解説を読むと、実在したヘロルトが初めてこの軍服を着用したのは1945年4月3日のことだったという。このあと映画で描かれた収容所は、逃亡や不服従・不品行といった軍規違反で逮捕されたドイツ兵を収容していたところで、ヘロルトがヒトラーの特命を受けていると称して大尉としてここに到着したのは4月11日のことだったらしい。彼は、翌12日には囚人たちの処刑を開始し、連合軍の爆撃で収容所が破壊される19日まで、ここを完全に掌握して狂気の殺戮を続けたようだ。実在のヘロルトは4月28日にドイツ軍事警察に逮捕されたようだが、映画が描いているのはこの4月3日から19日までのヘロルトと周囲の人々の行状である。
 深い考えもなく、偶然拾った将校の軍服を身に着けてしまった若者が、その軍服の持つ絶対的な影響力に目覚め、その力に驚きながらもその状況に次第に引き込まれていき、遂には想像を超える残虐な「独裁者」に変貌してしまうのである。当人がどの段階でどんな認識を持っていたのかは明らかではないが、初めまったくの無力だった若者が、軍服が作り出す「嘘」を必死で維持しようとした結果とはいえ、権力を手中にしていく過程で何の躊躇いもなく冷酷無比な人格に変貌を遂げてしまうという、その恐ろしさをこの映画は当然のことのように描き出して見せている。

 もちろん、こんなことが可能になったのは彼一人だけの力ではない。彼はフライターク上等兵と近隣の村に向かったのだが、そこで隊を離れて酒場でどんちゃん騒ぎを演じていた兵士のグループと出会うのである。敗戦が近いと感じ取っていた軍の末端は、もはや完全に混乱して収拾がつかなくなっていたということだろう。着ている軍服のせいで大尉として振る舞うしかなくなっているヘロルトは、ここで口から出任せの「ヒトラーの特命」なるものをでっち上げ、軍規違反を不問にする代わりに彼らをみずからの指揮下に加えようとするのである。
 この時、最も粗暴な態度を見せていたリーダー格のキピンスキーという兵士は、ヘロルトのズボンの裾が不自然に長くて身体に合っていないことに目を止めている。彼は明らかに気がついているのだが、横柄な態度のままニヤリと笑って服従の敬礼をするのである。彼は恐らく、このまま略奪や逃亡を続けていても捕まるだけだと考えたのではなかろうか。それなら、ニセ者でもいいからこの大尉に付いていった方が得策だと判断したのではないか。ヘロルトは大尉の軍服を利用したのだが、さらにその「大尉」を利用してやろうと考えた者もいたのである。

 収容所のユンカー大尉と警備隊長のシュッテもそうだった。収容所はいまや軍規を犯した囚人たちで溢れかえっていて、二人は際限なく増え続ける脱走や略奪に危機感を募らせていたのである。所長のハンゼンはこの期に及んでもまだ法に則った処理にこだわっていて、これに業を煮やした二人は彼を差し置いて、ヒトラーの特命で動いているというヘロルトの力を利用しようと考えるのである。ヘロルトの方も、疑惑を持たれないためには彼らと共犯関係を結ぶしかないところに追い込まれていて、彼らの訴える即決裁判を受け入れて処刑が実行に移されてしまうのである。
 映画はこの数日の経緯を克明に描写していく。この場に働いていた、一旦動き出してしまうと誰にも止められなくなってしまう一種の相乗作用のダイナミズムは恐ろしい。残虐極まりない処刑の様子も様々に描写されているが、実在したヘロルトが行った処刑はさらにひどいやり方もあったことが判明しているらしい。ユンカー大尉やシュッテの下でこれを実行した兵士たちが、ヘロルトを中心にして祝杯を挙げる夜の宴会シーンには、何とも言えない狂気のようなものが漂っているのを感じた。映画は彼らの表情を映し出すのだが、その裏側にあるはずの彼らの思いについてはまったく判らないのが不気味だった。

 深い考えもなく軍服を着てしまったヘロルトは、いまやその軍服が表す嘘のヘロルトと一体となった「親衛隊」とともに、どこまでも突っ走るしかなくなってしまったのだ。実在のヘロルトは、一時は80人に上る兵士を従えていたことが判っているらしいが、その中心メンバーだった12人は、ヘロルトが逮捕される最後まで行動を共にしていたのだという。
 エンドロールの背景に、横腹に「ヘロルト即決裁判所」と書き殴った軍用車両に乗って、ヘロルトとその仲間たちが現代のドイツの町に出現する様が映し出されている。ロベルト・シュヴェンケ監督の意図は明快だが、ここまでやってしまうことにはわたしはあまり共感できないと思う。監督は「彼らは私たちだ。私たちは彼らだ。過去は現在なのだ」と述べているようだが、そんなことをわざわざ言わなくてもよかったんじゃないかと思った。十分判る映画になっていたと思うからである。
 ヘロルトを演じたマックス・フーバッヒャーはちょっと童顔で小柄な役者だったが、文字通り「ちいさな独裁者」に変貌していくところを鮮やかに体現して見事だったと思う。
(新宿武蔵野館、2月8日)
by krmtdir90 | 2019-02-12 22:03 | 本と映画 | Comments(0)

キネマ旬報ベストテン2018雑感

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 キネマ旬報ベストテンは、昨年までだと1月中旬ぐらいに新聞発表が行われていたのだが、方針転換があったのか、今年は1位だけは発表されたものの、2位以下は2月5日の雑誌発売日まで明らかにされなかった。何だか待ち切れない気分になってしまって、発売日に本屋に行って、何十年ぶりかでこの決算特別号を購入してしまった。

 昨年はけっこうな本数を見たと思っているので、ちょっと数えてみたら、映画館で見たのは全部で93本だった。この中には旧作も混じっているから、ベストテン対象作品としては邦画洋画合わせて80本強といったところだったと思う。このくらいの本数があれば、自分なりのベストテンも作れそうな気がするが、最近はやはり順位付けへの興味がまったく失われているので、最終的に印象に残った作品を並べておくだけでいいのではないかと思っている。
 だが、それもけっこう難しい気がするので、その前にキネマ旬報ベストテンについての簡単な感想を書いておきたい。

 ベストワンには今年もまた、まったく妥当な作品が挙がったと思う。邦画は「万引き家族」(是枝裕和監督)、洋画は「スリー・ビルボード」(マーティン・マクドナー監督)だった。「万引き家族」はカンヌでのパルムドール受賞があったが、そうした勲章なしでも長く記憶に残る傑作だったと思う。「スリー・ビルボード」は2月に書いたわたしの感想文で、少し気が早いが今年のベストワンだと予想していたので、してやったりという気分で満足している。

 2位以下について整理しておく。
 まず、邦画。②「菊とギロチン」③「きみの鳥はうたえる」④「寝ても覚めても」⑤「孤狼の血」⑥「鈴木家の嘘」⑦「斬、」⑧「友罪」⑨「日日是好日」⑩「教誨師」となっている。④⑦⑩は見ていないが、10本中7本を見たということなので、まあ良かったかなと思った。
 比較しながら「わたしの10本」を並べておくと、次のようになる。「万引き家族」「菊とギロチン」「きみの鳥はうたえる」「孤狼の血」、この4本が上位を占めるのは同感である。中でも「菊とギロチン」は瀬々敬久監督の最高作と言ってもいいはずで、「万引き家族」がなければ当然ワンになっていい作品だったと思う。作品の評価は勝ち負けではないが、巡り合わせで2位になってしまう作品があるのはやはり残念な気がしてしまう。
 以下の6本は雑然としてくるが、まず「止められるか、俺たちを」「カメラを止めるな!」「blank13」の3本が入り、続いて「日日是好日」「港町」「鈴木家の嘘」といったところか。「友罪」「こんな夜更けにバナナかよ」などが続いている感じだが、10本からははみ出してしまった。

 次に洋画。②「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」③「シェイプ・オブ・ウォーター」④「ファントム・スレッド」⑤「ボヘミアン・ラプソディ」⑥「15時17分、パリ行き」⑦「顔たち、ところどころ」⑧「1987、ある闘いの真実」⑨「ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ」⑩「判決、ふたつの希望」である。③④を見ていないので、10本中8本という結果である。
 「わたしの10本」となると、洋画は見た本数が多いので難しい。まずキネ旬に名前が挙がっている中から、共通させられるものをギリギリ絞り込んでみる。「スリー・ビルボード」「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」「ボヘミアン・ラプソディ」「判決、ふたつの希望」の4本はいいと思う。あとは⑦⑨のドキュメンタリー2本だが、これも良かったが、わたしはこれより「苦い銭」「人間機械」の2本を挙げたい。⑦⑨も選んでドキュメンタリー4本にしてもいいかなと思ったが、ちょっと過激過ぎるので、残念だが⑦⑨には消えてもらうことにする。これで6本。残り4本は、日を改めて考えたらまったく違うタイトルが並ぶような気がする。面白い映画がたくさんあって、10本にするなど到底不可能と思えるからである。まあ、あまり難しく考えないで、「きょうのところは」ということで、とりあえず「ラッキー」「ルイ14世の死」「女と男の観覧車」「ガザの美容室」の4本を選んでおく。
 以下、⑧の「1987、ある闘いの真実」もいい映画だったが、きょうの気分は「フロリダ・プロジェクト/真夏の魔法」「レディ・バード」などが後に続く感じになっている。

 なお、昨年の洋画で特に印象に残っているのは、実に多彩なドキュメンタリー映画を見ることができたことだった。上に名前の出た4本の他にも、「ラッカは静かに虐殺されている」「ラジオ・コバニ」「私はあなたのニグロではない」「ザ・ビッグハウス」「ゲッベルスと私」「世界で一番ゴッホを描いた男」「ヴァンサンへの手紙」などが記憶に残っている。
 映画がデジタルに移行して、撮影などが昔とは比べものにならないくらい容易になったことが、いまドキュメンタリーの豊穣として結実しているように思う。ドキュメンタリーはこれからますます期待できるのではないだろうか。
by krmtdir90 | 2019-02-11 17:28 | 本と映画 | Comments(0)

映画「鈴木家の嘘」

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 長いこと引きこもっていた長男が、ある日突然、自室で首を吊って自殺してしまう。後に残された家族、父と母と妹がそれをどう受け止め、どんなふうに立ち直っていったのかを描いた映画である。一見したところ喜劇風テイストが感じられるフライヤーのせいで、公開時には何となく見る気になれなかった映画だった。ところが、先日発表されたキネ旬ベストテンで6位に入っているのを見て、これは見るべきだったかと思って調べてみたら、渋谷のアップリンクでまだ何回か上映予定があるのを見つけたのである。
 結論を言うと、見落とさないで良かったなと思った。非常に重い内容を持った映画だが、それをこんなふうにサラリと、ユーモアたっぷりの味付けで描いて見せたところに凄い才能を感じた。この深刻な題材で、この吹っ切れた感じはそう簡単に出せるものではない。
 監督・脚本の野尻克己という人は、1974年生まれの45歳で、「恋人たち」(2015年)の橋口亮輔監督を始めとして、最近の日本映画を代表するような多くの監督たちの助監督を務め、本作で念願の監督デビューを果たしたということだったらしい。その橋口監督が、プログラムに最大級と言っていい賛辞を寄せていた。「映画には、作る者に根拠がある作品と、ない作品がある。根拠がある作品は強い。どうしても伝えたい何かがあるということだ。この作品にも、胸を掴まれる瞬間が何度もある」。まさにその通り、納得である。

 同じ監督デビュー作品で並んでしまった「夜明け」の広瀬奈々子監督との決定的な違いが、ここにあったのだと感じた。あの映画には「根拠がない」ということだったのだ。プログラムに載っていた野尻克己監督のインタビューを読むと、この人は実生活で実際に兄を自殺で失った経験があったのだと明かされていた。自分が映画監督になるのであれば、まずこのことを真っ先に描かなければ前に進めないと考えていたらしい。この事実はきわめて重いと思う。
 しかしながら、こういう実体験があったというのは、周りからは想像できないくらいの大きなプレッシャーもまたあったということだろう。映画のために体験に基づく設定を作り、登場人物を動かしてストーリーを構成していっても、どうしてもみずからの体験の大きさに囚われてしまって、それに関わる諸々のことについて、客観的に事態を見詰めていく冷静さを保てなくなってしまうのではないかということである。
 だが、この監督は実に落ち着いていたと思う。この映画の凄いところは、どこでも笑いを取ろうとしていないにも関わらず、登場人物がただ目前のことに必死になっているだけで、そこに何とも言えないユーモアが浮かんでしまうところなのである。必死になればなるほど滑稽に見えてしまうという現実。受け入れ難い死を前にしても、残された者は何とかして生きていくしかないのだという現実に対する、これはまさに開き直りなのだ。そして、そこに「伝えたい何か」を見出そうとしている作者の真剣さが、つまらない作為に頼らなくても、人物を見詰める暖かい眼差しとして自然に浮かび上がってきた結果なのだと思う。

 長男を溺愛していた母親は、首を吊った死体を発見したショックで、その自殺に関する部分の記憶だけを完全に失ってしまう。精神的に耐えがたい衝撃に見舞われた時、自分が認めたくない不都合な事実を全部削除してしまうということは、必死の防御態勢としてけっこうリアルに起こりうることなのだという。病院でこの事実に直面した父と娘は、一緒にいた叔父・叔母とともに、彼女を悲しませないためにとっさの「嘘」をついてしまうのである。「引き籠もりが治った彼は、いまは叔父の仕事を手伝うためアルゼンチンにいる」というものなのだが、その場を取り繕うために思わず出てしまった言葉でも、それにみんなが縛られるしかなくなってしまう。
 それは、彼女が記憶を取り戻せば簡単にバレてしまう空しい嘘であるが、以後それを必死に維持することが家族みんなの課題になってしまうのである。それは端から見ると滑稽なことと言うしかないのだが、野尻克己監督は懸命にこの課題と取り組む彼らの行動を、優しい肯定感を持って丁寧に掬い上げていくのである。面白かったし、スリリングな感じもあったと思う。
 一方でこの映画は、父や娘もまたこの自殺という辛い現実となかなか折り合いを付けられないでいることを、しっかりと描き出していた。彼らの記憶は失われていないのである。そればかりか、むしろどこまでも鮮明なイメージとして彼らを苦しめるのである。だが、限りなく深刻であるはずの彼らの状況をも、野尻監督は常に喜劇的要素を見出しながら描いてみせている。

 長男がなぜか生命保険の受取人にソープランドの女の子を指定していたことを知り、その子を探しにひそかにソープランドを訪ねていざこざを起こしてしまう父親。そんなところとまったく無縁に生きてきた父親の戸惑いと、行き違うばかりの店員たちとのやり取りが可笑しい。
 一方、娘の富美は兄の最期の姿が忘れられず、同じように家族を自殺で失った体験者たちの集まりに行ってみる。お互いの気持ちを述べ合うことで、立ち直りのきっかけを模索する「グリーフケア」という集まりだったようだが、そこに参加しているいろいろな当事者の、当人は切実なのに周囲とは何となくズレてしまう様子が微妙な笑いを誘う。彼らは映画的には脇役なのだが、野尻監督はこうした人たちもしっかり造形することで、この中で初めて自分の追い込まれた心情を正直に吐露する気持ちになる富美の姿を、正面からしっかり捉えることに成功している。
 記憶を失った母親を筆頭に、彼らはみんな自殺という忌まわしい事実から目を背けて忘れてしまいたいのだ。だが、どう足掻いたところで逃げ続けることはできないし、嘘をつき通すこともできないことなのである。結局終盤で母親は記憶を取り戻し、彼らは三人三様の困難な過程を経てその先に歩み出して行くのである。映画の終わり近く、三人が霊媒師に来てもらい、長男を呼び出してもらうシーンは可笑しい。霊媒師が帰った後、母親に「あの人、イカサマね」と言わせるのが絶妙である。どんなに辛くても、もう進むしかないのだ。

 父親を演じたのが曲者・岸部一徳、母親が原日出子、娘の富美が木竜麻生というキャスティングだった。彼らは、叔父の大森南朋や叔母の岸本加世子、そして自殺した長男の加瀬亮も併せて、素晴らしいアンサンブルを作り出していたと思う。
 特に、瀬々敬久の「菊とギロチン」でヒロインの女力士・花菊を演じていた木竜麻生は、こちらの映画でも兄を自殺で失った妹という難役を鮮やかに演じ切っていた。キネ旬の新人女優賞を、断トツの票差で獲得したのは当然だと思った。この女優、何とも言えない芯の強さを感じさせて、その存在感はなかなか見事なものがあると思った。
(アップリンク渋谷、2月7日)
by krmtdir90 | 2019-02-10 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「誰がための日々」

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 2016年の香港映画である。ウォン・ジョン(黄進)監督の生年は不明だが、長編第一作となる本作の撮影時に20代後半だったとどこかに書いてあった。脚本のフローレンス・チャン(陳楚珩)も写真を見ると同年代の女性だったらしく、これは香港政府が実施した新人発掘キャンペーンに応募した若い才能が、チャンスを掴んでデビューに結びつけた意欲作ということだったようだ。
 それにしても、娯楽性のまったくないこんな映画が大ヒットしたところに、香港社会が直面している様々な矛盾や困難が見えるように思われて印象に残った。香港映画というのは従来、けっこう何でもありの多様な顔を持っていたようだが、その中でもこれは現在の香港が抱えている社会問題と正面から向き合おうとした、強い問題意識とテーマを内在させた映画だったのである。暗くて重くてほとんど救いがない現実を描いているが、そこにある多くの問題は香港固有の問題であると同時に、日本などにもストレートに結びついてくる普遍性を持っているものだと感じた。

 主人公のトン(ショーン・ユー/余文樂)は母親の介護に疲れ、事故で母親を死なせてしまったという設定になっている。裁判で介護上の責任を問われることはなかったが、彼自身は躁鬱病と診断されて精神病院に措置入院させられ、一年が経過して退院させられるというところから映画が始まっている。医師の説明の様子から、彼は決して治っているわけではなく、患者を適当に回転させたい病院側の都合だということが透けて見えている。
 こうなる前のトンは金融界で働くトップエリートだったようだが、要介護になった母親を施設に入れることはまったく考えず、みずから仕事を辞めて自宅で介護する道を選んだということのようだ。この時彼らの家族は、弟はアメリカにいて戻る気はなく、母親と不仲になっていた父親は、お金は入れるけれど家には寄りつかないという状況になっていて、トン以外に母親の面倒を見る人間はいなかったということだったようだ。そのことが、真面目なトンを必要以上に意地にさせてしまったということがあったのかもしれない。
 トンの退院時の引き取り人は、家族の支えが必要ということで父親のホイ(エリック・ツァン/曾志偉)が呼び出されている。二人はこれまでずっと没交渉だったわけで、様々なわだかまりもあるけれど、とにかく今後か一緒に生活するしか道がなくなってしまったということなのである。映画が描くのは、この二人の困難に満ちた「日々」である。

 ホイはトンを自分の住居に連れて行くが、その長屋のようになったアパートの狭小な部屋には驚かされる。古いビルのフロアを幾つもの空間に区切ってあるのだが、恐らく一つが4畳半ぐらいと思われる室内は、2段ベッドと最小限の生活用品を置いただけで足の踏み場もなくなってしまうのである。フロアに共同トイレとシャワーはあるようだが、調理設備はないのか、彼らの食事はいつも使い捨て容器に入った貧しい弁当のようなものばかりである。
 上に載せたフライヤーの写真がこの部屋を上から見下ろしたところなのだが、これが香港の最下層の人々が暮らしているスペースなのである。わたしはその実態をよく知らないが、日本でもドヤ(簡易宿泊所)と呼ばれるところが同じような状況になっているのではないか。この映画では、観光パンフレットなどで見かけるような香港の表の顔が映し出されることはない。どう足掻いたところで抜け出すことのできない、最底辺の「日々」を見詰めていくだけである。
 躁鬱病はなかなか完治する病気ではないから、この親子はもう二度とここから抜け出すことはできないのだろう。映画は、それぞれの事情を抱えた隣人たちの様子なども描いているが、彼らもまた出口なしの状況下にあるのは疑いのない事実なのである。

 この映画には安易な救いは描かれない。トンにとってもホンにとっても、事態は悪い方にしか転がって行かないように見える。特に躁鬱病のトンは、当人が必死になればなるほど周囲との齟齬が拡大していく感じで、どんどん追い込まれていく様子は見ているのが辛い。乗り越えられない格差や無理解による差別、誤解や偏見や一方的な思い込みといったもの、そうしたものに押し潰されていくしかない弱者の彼らとその心情を、この映画はとにかく丁寧に追いかけ、写し取ることだけに徹しようとしているのである。
 かつてトンの婚約者だった女性が新興宗教にはまっていて、彼女に追及される再会シーンも厳しいものだったし、追い詰められたトンが必死で心を落ち着かせようと、スーパーの店頭でチョコレートを貪り食ってしまうところなどは言葉を失う。この場面はスマホで撮影され、SNSで拡散されてしまうというのも、現代社会の匿名性の悪意をあぶり出していて容赦がない。
 結局、トンの躁鬱病が悪化していることがアパートの隣人たちに知られてしまい、二人は圧力を受けてここに住み続けることができなくなってしまう。映画はその後の二人がどうなるのかは描いていないが、ずっと離れたままだった彼らの気持ちが、最後に少しだけ通じ合っているように見えたのが、僅かな救いになっているということだったのだろうか。

 いずれにせよ、未来はまったく見えていない。そういう状態のまま、彼らがよく判らないどこかの水辺で呆然と座り込んでいるショットで映画は終わっている。解決の糸口はどこにも示されていないし、そんなものは恐らくないと言いたいのかもしれない。それでも、映画としてそういう登場人物のそういう事態を描くことには意味があるのだと、若いウォン・ジョン(黄進)とフローレンス・チャン(陳楚珩)は考えているのかもしれない。見詰められることで、彼らについて考えようという気持ちが観客の中に芽生えるかもしれないからである。
 日本からはなかなか見ることができない、香港という町の影の部分を描きながら、それが日本でも案外身近なところと結びついているのではないかと感じさせる映画だった。
(新宿K's cinema、2月5日)
by krmtdir90 | 2019-02-09 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「夜明け」

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 描き過ぎないことが美点となるような映画作法があることは理解するが、それは描かれない部分が曖昧なままでいいということではない。説明過多を避けようとするのはいいが、それは説明できないままでいいということではないし、筋の通らない説明を容認しているということでもない。説明不足なところを推測で埋めていったら、結局きわめて説得力に欠けるストーリーしか見えてこなかったというのでは困るのである。
 監督・脚本の広瀬奈々子は、是枝裕和・西川美和監督の助監督を長く務めてきた人らしく、両監督が立ち上げた「分福」という製作者集団から初めてデビューする監督だったようだ。両監督の「愛弟子」という言葉がどこかに使われていたと思う。だが、こういう言葉を敢えて使わなければならない売り方というのは、ちょっと警戒した方がよかったのかもしれない。要するに思わせぶりなだけで、「愛弟子」と言うには明らかに力不足な映画だったと思う。
 「台北暮色」のホアン・シー(黃熙)監督が、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)とエドワード・ヤン(楊德昌)の「映画遺伝子を継ぐ」と言われていたのを思い出した。だが、こちらの場合は描き過ぎないことがストーリー展開に効果的に作用していたし、それを意図的な作戦として操っていることが理解されたと思う。広瀬奈々子監督の場合は、是枝・西川的な映画作法を追っていることは判るのだが、それを自身の作品として構成していく戦略が明らかに不足していて、少なくともこのオリジナル脚本の甘さに関しては根本から再考する必要があると思ったのである。

 未明の薄暗がりの中で一人の青年(柳楽優弥)が橋の上をウロウロしている。ただし、このシーンは最初から明度が不足していて、何が起こっているのか観客にはよく判らないのである。と言うか、ここで描かれて(設定されて)いたものは後からそれなりに説明されていくのだが、それがまったく腑に落ちるものになっていないのが問題だったのだと思う。設定に説得力が欠けていたのだ。
 実は、青年はこの時ここで死のうとしていたというのだが、彼がいた橋はそれほど高いものではなかったし、川も急流ではなく水深もたいしてあるようには見えなかった。つまり、死ぬつもりだったと後で説明されても、なるほどと思わせられる条件はなかったように思えるのだ。その本気度が疑われるような描き方しか、この映画はできていなかったということである。とにかく全体に話がうまく進み過ぎているという印象で、案の定と言うべきか、このあと彼は助かってしまい、結局監督に都合のいい設定を作っただけだったのではないのかと感じられてしまった。
 彼が死のうとした理由についても後で明かされるのだが、これもまたあまりよく判るものにはなっていなかった。店長と折り合いが悪かったということらしいが、それで彼の行動がすべて説明できるようにはなっていなかったということである。
 まず、彼が関わったファミレスの火事についてだが、ガス栓を開けたのが彼だったのかどうかは明確にされてはいないが、彼はガスが漏れていたことは知っていて、それで店長が死ねばいいと考えていたのは確かなのだから、彼の中には殺意があったと言っていいはずなのである。しかし、この間の彼の思いについてはこの映画はまったく描けていないと思う。少なくとも、火事の後で彼は警察の取り調べを受けたはずだし、そこでは自分に不利になるようなことは必死で隠し通したはずだからである。このあたりの経緯に触れないのでは、死のうとしたという彼の心理は理解できないし、納得できないことになってしまうのである。
 店長は火事の後ずっと昏睡状態になり、それがつい最近、青年が見舞いに訪れる寸前になって亡くなったという展開も、いかにもご都合主義と言わなければならない。彼は店長のことを長い間無視してきたのであり、それがここに来て急に見舞おうと考えたのはどういう心の動きだったのか、そしてその店長の死を知ったことが、彼の中で死のうという気持ちに一気に結びついてしまったのはどうしてなのか、このあたりのことがこのシナリオは説明できていないと感じるのである。

 最初のところで、青年が手に持った花束を川に投げ込むシーンがあった。何の花束だったのか最後まで説明はなかったが、あれは見舞いに持って来て不要になってしまった花束以外には考えられないだろうと思う。だが、不和であった店長と青年の関係を考えると、この見舞いに花束を持参する気になる青年の心理がよく判らないし、店長の死を知った後どこで酒を飲んだのか知らないが、その間ずっとその花束を持ち続けていたというのも不自然という気がするのである。一応は結びついても、そこに微妙な無理が感じられるというところが、この映画にはたくさんあったような気がする。
 翌朝、この川に一人の中年男(小林薫)が釣りにやって来て、橋の下(水際)に倒れている青年を発見するという設定も、いかにも都合良く作られた感じがして鼻白むのである。青年は水中に飛び込んだはずだが、自らの意思で溺れることはできなかった、結局自力で川岸にたどり着いてしまったということだったのか。いずれにせよ、彼は特にどこか傷を負っているということもなく、男に助けられている一定時間だけ意識を失っていてくれればよかったということなのだ。こんなふうに、すべてが予定通りの展開だったのではないかと見えてしまったのである。
 この中年男が取った行動も、少し考えるときわめて不可解なものと言わなければならないのである。普通なら、こういう状況にぶつかれば警戒心も働くだろうし、あまり関わり合いにはなりたくないと思うのではないだろうか。それでも見つけてしまった以上、とりあえずは警察を呼ぼうと考えるのが筋なのではないか。ところが、この男にはそういう発想はまったくなかったらしく、この素性の知れぬ青年を自宅に連れ帰ってしまうのである。なぜそんなことをしたのか理解できないし、納得できる説明をこのシナリオはできていないと思う。このあとも、布団に寝かす際にびしょ濡れだったはずの青年の衣服はどうしたのかとか、医者に診せた形跡はないがそれでよかったのかとか、納得できないことがいろいろと出てきてしまうのである。
 結局のところ、このあとこの中年男と青年との奇妙な関係を描くのがこの映画の主眼になっていくのだが、その難しい設定を作るために広瀬奈々子監督は乱暴な作為を連続させ、辻褄合わせのための無理を重ねてしまったような気がして仕方がないのである。ストーリーというのは確かに作りものだけれど、なぜそういう作りものが必要だったのか、そこにどうしても描きたかった必然が含まれていなければ空疎なものにしかならないし、作りものという側面だけが際立ってしまうことになるのではないだろうか。
 当人はそれでいいと思っているのかもしれないが、いくら是枝・西川風の撮り方を真似しても、観客としてはそんなものに付いていくことはできないのである。
(MOVIX昭島、2月4日)
by krmtdir90 | 2019-02-08 23:59 | 本と映画 | Comments(0)


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