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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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カテゴリ:本と映画( 270 )

映画「女は二度決断する」

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 この映画のストーリーには救いがない。救いがないからいけないと言うつもりはないし、何らかの予定調和で終わられるよりも最後の衝撃は大きかったと思う。だが、映画が終わった後も、こういう終わり方になってしまうしかなかったことへの複雑な思いが残り続けた。
 結末は復讐なのだが、彼女の一度目の決断では後に残るのは空虚だけだということが彼女にも判ったのだろう。二度目の決断は、彼女にとっては夫と息子のいる「向こう側」に行くということであって、そこに積極的な選択という側面があるということである。彼女がそこに救いを求めるしかなかったということは理解できる。一方で、正義がなかなか貫かれない社会の不条理はそのまま残ってしまうわけで、救いがないという印象はそこから来るものだと思う。

 ドイツは移民大国と言われ、それを快く思わない極右集団(ネオナチ)によるテロ事件が実際に起こっているらしい。監督・脚本のファティ・アキンはトルコ系移民の血を引いているというから、こうした社会的な矛盾や暗部を見詰める視線には非常に厳しいものがある。
 主人公のドイツ人女性カティヤは、学生時代に知り合ったトルコ系移民のヌーリと結婚した。彼は麻薬取引に絡んで獄中にあったが、それを乗り越えての結婚だった。出所後、彼は真面目に働き、二人の間には6歳になる息子ロッソができていた。この夫と息子が爆破事件の犠牲となり、カティヤは突然不幸のどん底に落ちてしまうというのが発端である。
 当然彼女は悲嘆に暮れることになるが、この映画のいいところは、彼女を被害者という単一の色に染めてしまわなかったところだと思う。もちろん彼女の絶望の深さはこれでもかと描かれるのだが、やって来た両親や捜査に当たる刑事の描き方などに、ステロタイプに流れることを許さない鋭い目が向けられている。カティヤの描き方にもそれは届いていて、彼女は決して品行方正な受け身の女性としては造形されていない。彼女の身体にはタトゥーがたくさんあるし、タバコやお酒もやり、悲しみを紛らわせるためにクスリにまで手を出したりするのである。両親とのやり取りなどから、彼女があまり幸せな育ち方はしていなかったことも見て取れる。逆にそのことから、彼女にとって夫と息子との生活がどんなに大切なものだったかが浮かび上がるのである。
 警察は最初、麻薬なども絡んだ移民同士のトラブルではないかと疑い、ネオナチの仕業だというカティヤの見方は積極的には受け入れてもらえない。ファティ・アキン監督は、ドイツ社会の根底に移民に対する偏見や差別意識が流れていることをさりげなく感じさせている。
 結局、ネオナチの若いドイツ人夫婦が逮捕され、今度はその裁判の過程が逐一描かれていくことになる。カティヤは友人の弁護士とともにこれに立ち会うが、この裁判の描き方もまったく容赦のないもので、被告側の弁護士の(プロとしては当然のことをしているだけだろうが)嫌らしさなどは唖然とするくらい際立った描写が並べられている。そして、結果は(予想に反して)証拠不十分で容疑者は無罪釈放となってしまうのである。
 この後のことは、まあ一応の礼儀としてネタバレさせずにおくのがいいのだろう。最初のところに少し書いてしまった気もするが、それ以上書くのはやめておく。

 映画の展開の緊迫感は素晴らしいもので、ストーリーはどこまでも暗く救いのないものだが、そこに描かれているものからまったく目を離せないまま、最後のカティヤの決断に向かってぐいぐい引きずられていくしかなかった。これはもちろんファティ・アキン監督の演出力の結果であるが、それ以上にカティヤを演じたダイアン・クルーガーの演技によるものである。わたしは長いこと映画から離れていたから、この女優を観るのは初めてだったが、この繊細で力強い(基本的には押さえた)感情表現の見事さには舌を巻いた。カティヤの最後の決断を、ここまで説得力を持って演じ切るのは並大抵のことではないと思う。
 非常に現代的で多様なテーマを含んだ映画だが、それがこんなふうに完璧な娯楽映画として成立していることが驚きだった。こんなにスリリングでサスペンスフルな映画も、めったにお目にかかれるものではない。
(新宿武蔵野館、4月16日)
by krmtdir90 | 2018-04-17 18:30 | 本と映画 | Comments(0)

映画「港町」

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 分類をすればドキュメンタリー映画ということになるのだろうが、想田和弘監督はみずからが作る映画を「観察映画」と呼んでいて、これはその第7弾になるものなのだという。想田監督の映画を観るのは初めてだったが、その世界にすっかり惹き付けられてしまった。

 プラグラムに監督自身が唱える「観察映画の十戒」なるものが載っている。「被写体や題材に関するリサーチは行わない」から始まって、「被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、原則行わない」とか「台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない」「必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す」といった、なかなかに興味深い「戒め」が列挙されている。
 基本的な考え方は先日観た「苦い銭」の王兵(ワン・ビン)監督に似ていると思ったが、映画としての方向性は少し異なっているように思われた。想田監督は1993年以降、普段はニューヨークに住んでいて、撮影のために(その時だけ?)日本を訪れて、その時の興味のままに日本の何かと向き合って撮影しているということで、恐らくそのことが関係しているのかもしれないと思った。この映画では、瀬戸内海に面した岡山県牛窓町(2004年の町村合併で、現在は瀬戸内市の一部となっている)というところでカメラを回し、その海辺の町に暮らす人々の日常を映画に収めている。
 被写体となるのは主として一人暮らしの老人たちで、彼らはカメラを向けられると、その前で訥々と、あるいは思いがけず雄弁に、様々なことを語ってみせるのである。本来寡黙であっただろう彼らが語り始めるまでに、恐らく長い助走があったに違いないと想像される。だが結果的に、カメラは確かにその撮影過程の中に、彼らの人生、あるいは見え隠れする共同体のかたちといったものを掬い取っているのである。何ということもない日常の細々とした断片なのだが、それらがこんなにも豊かな表現になりうるということが驚きだった。

 この映画のスタッフは考え得る最小の構成である。監督・製作・撮影・編集:想田和弘、製作:柏木規与子。これで終わりなのだ。たった2人で映画を撮ることが可能になったのは、映画がフィルムからデジタルに変わったからである。尺を気にすることなく気の済むまでカメラを回し続ける、こういう「観察映画」が成立するようになったのもこのためである。そして、このことがいま映画の大きな可能性を広げているということなのだろう。
 2人が牛窓でカメラを回し始めた時、多くの住民は遠巻きにそれを眺めるばかりだが、妙に馴れ馴れしく近寄ってくる住民もいるのである。クミさんという老婆なのだが、撮影の2人は(すぐにそれに飛び付くのではなく)彼女とある程度の距離を保ちながら、何となく彼女に導かれるようなかたちで、この町の古い共同体の中に入って行くのである。

 始まりは、彼女がワイちゃんと呼ぶ耳の遠い腰の曲がった漁師である。黙々と魚網を縫う姿から始まり、彼が船を出して網を仕掛け、再び船を出して網を引き上げる過程を、じっくりと「観察」し始める。上げた網に絡みついた魚を、一匹一匹外していく手許を飽きることなく凝視する。港に戻り、水揚げをして、港に付随した小さな市場に運び、仕分けをしてそれが競り落とされていく様子を、引き続き淡々と「観察」していくのである。こうした、これまでこの町でずっと繰り返されてきたであろう日常が、何とも興味深く面白いものに感じられたのは不思議なことである。
 カメラはさらに、数人の競りの中にいた一人の後について、箱詰めされた魚とともに集落の中にある小さな魚屋へと向かう。夫婦が営む魚屋で、今度は魚に若干の加工を施したり、売り場に出すためのパック詰めの手作業などを「観察」する。それを買いに来る近所の人たちや、お得意に配達して回る軽トラックの助手席に同乗して、その先で出会う人たちとのやり取りなどをカメラに収めていく。また、店に来て、捨てられる粗(あら)を貰っていく女性について行ったりする。彼女が狭い台所で粗を煮始めると、どこからともなく猫がたくさん集まって来て、彼女がこれを残り飯と混ぜて猫たちに与えていることが見えてくる。また、カメラの2人がこの女性と(比較的若い女性で、この時は旦那さんも一緒だった)外の路地で話していると、たまたま通りかかった年配の女性がお墓に行くと言うのを聞いて、少し後から山の上の墓地に行って、今度はこの女性に話を聞いたりするのである。
 確かに「行き当たりばったり」であり、話を聞くといっても、こちらから何かを聞き出すというのではなく、相手が自然に話し始めるのを根気強く待っている感じなのである。その姿勢は非常に好感が持てるもので、こちらから何かを仕掛けるということがまったくないから、逆にそこにあるものが見えてきてしまうということが自然に実現されているのだと思った。

 圧巻だったのは、終わり近くになってからのクミさんの独白だった。彼女は時間の経過とともに、しつこいくらいカメラを回す2人に付きまとってくるようになっているのだが、ある日の夕暮れ時、丘の上の小学校跡が病院になっているから行ってみるといいと2人を誘うのである。もう暗くなるからと、2人は一旦は誘いを断るのだが、例によって何度も強く誘ってくるクミさんに根負けした感じで、彼女の後について坂道を上っていくことになる。
 この丘の上で、クミさんは不意に自分の過去について語り出す。幼い時から「まま母」に育てられたこと、息子と無理矢理引き離されてしまったこと(この経緯は、彼女が興奮してしまったこともあってもう一つはっきりしない)、希望を失い死のうとしたことなど。撮影する2人はほとんど聞き返すことをせず、そのため事実関係としてはよく判らないことが多いのだが、クミさんの中にずっと溜まり続けていた澱のようなものが、唐突に溢れ出てしまったこの瞬間を捉えてしまうのである。この時のクミさんは(言葉は変かもしれないが)鬼気迫るようなところがあった。
 まったく予期せぬものを、カメラは捉えてしまうことがある。だが、この映画はそのことに何らかの意味を与えたり解釈を加えたりはしていない。先の「十戒」には次のように記されている。「撮影は『広く浅く』ではなく、『狭く深く』を心がける。『多角的な取材をしている』という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む」「編集作業でも、予めテーマを設定しない」「観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す」。

 映画の最後に、クミさんが映画完成前に亡くなったという字幕が出る。そこには「追悼」という言葉が添えられていた。クミさんを始め、多くの人たちの姿がこの映画の中に捉えられている。予定調和の意味づけや方向づけが行われないことで、彼らは文字通りそこに生きた者として残されることになった。「十戒」には次のような言葉もある。「ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある」。
 この映画はモノクロームだったのだが、それがこの映画に奥行きを与え、観客の想像力をかきたてる力になっていたと思う。監督の言によれば、撮影はすべて(デジタルとして当然のごとく)カラーで行われたのだが、編集段階でモノクロームに変換してしまうアイディアが生まれたのだという。これは素晴らしいアイディアだったと思う。最後の最後にワンカットだけ、牛窓の港の情景がカラーで短く映し出されるのだが、その息を呑むような美しさが(特にどうということもない平凡な情景に過ぎなかったのだが)強く印象に残った。色彩にしてもナレーションや音楽にしても、それを敢えて除外することが限りなく豊穣な世界を作り出すということがあるのだ。
 上映時間122分、映画の思いがけない面白さを発見させてくれた、実に素晴らしい映像体験だったと思う。観に行って良かった。
(渋谷イメージフォーラム、4月13日)
by krmtdir90 | 2018-04-15 11:08 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ラブレス」

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 アンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、海外の映画祭などで高い評価を得ているロシアの監督のようだが、何とも言いようのない冷え冷えとした映画なのに驚いた。現代のロシア(2012年秋~15年冬)を描いているのだが、この崩壊した家族には救いのかけらも見出すことができない。

 主人公の夫婦は現代ロシアにおいてはエリート層(富裕層)のようだが、2人の間にすでに愛はなく、いま離婚協議の真っ最中である。それぞれが外に愛人を作っていて、12歳の息子をどちらが養育するかを押しつけ合っている。自分のことしか考えていないこの夫婦、ジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)とボリス(アレクセイ・ロズィン)の現状を、ズビャギンツェフ監督は冷ややかな視線で凝視していく。技法的にはカメラをあまり動かさない長回しが多用され、観客としては感情移入しようのないこの夫婦の日常生活の断片や、情事の有り様などを長いこと見せられることになる。人によっては退屈してしまう人もいるのではないか。
 息子アレクセイ(マトヴェイ・ノヴィコフ)は、父母にとって自分が邪魔な存在になっていることを知っており、夫婦喧嘩の罵声を聞きながら涙を流したりする。彼は自身にはどうすることもできない被害者なのだが、映画は彼についてはあまり描こうとはせず、ほとんど点描する程度で彼に感情移入されるのを避けているように見えるのである。アレクセイは映画の中程で失踪し、後半は彼の捜索の様子が描かれていくのだが、彼は最後まで(彼としては)映画の中に現れることはなく、彼の視点は一貫してこの映画の中にはないのである。

 アレクセイは朝学校に行ったきり帰らなかったのだが、夫婦はそれぞれの愛人の元に泊まってその晩は帰らなかったため、2日続けて学校に来ていないという担任の連絡で初めてアレクセイの不在に気づく始末なのである。このあと、ジェーニャは警察に捜索願を出すのだが、ボリスの反応とともにこの2人が事態をどこまで深刻に考えているのかまったく不明である。また、捜索願を受けた警察の対応も驚きで、人手が足りないから民間の捜索救助ボランティアを頼ったらどうかと提案したりするのである。現代のロシアではこうしたボランティア団体が実際に活動しているらしいが、その献身的な捜索活動だけがこの映画の中の僅かな救いになっている。
 夫婦はボランティアのリーダー(コーディネーターと言うらしい)の指示で捜索に加わるのだが、こうした状況になってもどこか他人事のようで、口喧嘩も愛人との情事も自重するということにはならないのである。それどころか、妻の方は自分は結婚する気なんてなかったとか、子どもを産んだのは失敗だったとか、思い通りにならなかったことすべてを夫の責任にするような発言を繰り返す身勝手さなのである。
 一方で、無償の善意で行われるボランティア団体の組織的な捜索は非常に興味深いものだが、その必死の捜索によってもアレクセイを発見することはできない。手掛かりもなく捜索が行き詰まった時に、同じ年格好の少年の死体が発見されたという連絡があり、夫婦はコーディネーターとともに(妻の愛人も同道している)警察の死体置き場に検分に出向くことになる。

 このシーンは解釈の分かれるところなのかもしれない。シートを持ち上げて血だらけの無残な死体が一瞬だけ映されるが、ジェーニャは胸のほくろがないから息子ではないと否定するのである。意外な表情のコーディネーターは念のためDNA鑑定を勧めるが、ボリスも加わって2人はそれを拒絶する。わたしは死体はアレクセイだったと受け取ったのだが、ズビャギンツェフ監督はここのところを明確には描いていないのである。
 わたしが上のように考えた理由は幾つかあるのだが、一瞬映された死体の上半身は血だらけで損傷もあるようだったので、ほくろの判別はかなり難しかったのではないかということ。コーディネーターがDNA鑑定を提案したのも恐らくそういう理由があったと思われること。また、彼は経験上こうした場合に、受け入れたくない現実に対して思わず否定してしまうことが時にあるのだと発言していること。そして、何より大きいのは、外に出てしまったジェーニャは愛人の胸で、中に留まったボリスは床に蹲るようにして、ともにほとばしるような激しい慟哭を見せることである。死体の状況がどんなに目を覆うようなものであったとしても、自分の息子でなかったとしたらこの慟哭は説明がつかないくらいのものだったと思うのである。
 このシーンはこれで終わり、映画はこのあと、彼らのアパートのがらんとしたアレクセイの部屋になり、職人が入って壁紙を剥がしたりし始めるのところを映し出すのである。これがあの日から何日後のことなのかは判らない。何がどんなふうになったのかは描かれることはなく、しかし、事件が決着したことだけは確かに示されているのである。

 この部分の経緯を描かないことで、ズビャギンツェフ監督は実に多くのことを語っていると思う。語っていると言うより、想像させていると言った方がいいかもしれない。しかもこのあと、さらに3年以上の時間を省略して、夫婦のその後を短く描写するのである。その描き方はこれまで以上に冷ややかで、具体的には書かないが、それぞれの愛人と一緒になった彼らが、表面上の平穏さとは裏腹に、いままで以上の空しさを抱えながら過ごしていることが冷酷に示されているのである。
 彼らが息子アレクセイの死をどのように受け止め、どのように後始末をして離婚後の生活に入って行ったのかといったことは、この映画では一切描かれないままで終わる。ズビャギンツェフ監督は最初の段階から、この夫婦のことを一貫して突き放しているのであり、自分のことにしか関心がないこうした生き方が蔓延している現代の病理を、丸ごと提示することに意味があると考えていたのだと思われる。アレクセイは彼らの身勝手の犠牲になったのだが、そのことをいくら言ったとしても、この2人のような人間には響かないことが判っているということなのだろう。自分を省みない人間にとっては、どのような罪の意識も生まれようがないからである。
(新宿バルト9、4月12日)
by krmtdir90 | 2018-04-14 13:38 | 本と映画 | Comments(0)

映画「15時17分、パリ行き」

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 どうやら列車が舞台の映画らしい、監督のクリント・イーストウッドは最近けっこういい映画を撮っているらしい、といったようなことで観に行ったのだが、これは完全なハズレだった。まあ、そういうこともある。書かなくてもいいのだが、記録ということで一応書いておく。

 クリント・イーストウッドの経歴はひとまず置くとして、前作「ハドソン川の奇跡」が2016年度キネマ旬報ベストテンで外国映画第1位を獲得していたことは知っていた。わたしはずっと映画を離れていたから、彼が監督として注目された頃の作品をまったく観ていないのだが(もちろん「ハドソン川…」も観ていない)、いい機会だから一本ぐらい観ておこうと思ったのが裏目に出てしまった。
 「ハドソン川の奇跡」はアメリカで実際に起こった出来事を映画化したようだが、それが評価されヒットしたので、明らかに2匹目のドジョウを狙ったのが本作だったようだ。ところが、今回の出来事は映画の題材としてはまったく面白いものではなかった。出来事そのものがせいぜい10分もあれば終わってしまうもので、列車内で起こった銃撃事件(無差別テロ)に3人の若者が立ち向かい、犯人(単独犯行)を取り押さえたという、ただそれだけのことなのである。確かに勇気ある行動には違いないが、背景も後日談もふくらませようのない単純なものだったのである。

 映画はこの3人に当事者本人をキャスティングして話題性を持たせようとしたようだが、どうやったところで映画としての面白さはまったく作れていなかったと思う。3人の高校時代からのエピソードを並べていたが、それ自体が少しも面白いものではなく、彼らのキャラクターを際立たせるものにもなっていなかった。彼らは、どう考えても魅力のない(平凡で俗っぽい)若者たちに過ぎなかった。一方で、犯人の男の過去にはまったく触れていないから、犯人は単なる悪者であって、3人は悪を退治した勇敢なアメリカ人という構図にしかなりようがないのである。最初から、3人は無事で悪は逮捕されることが判っているのだから、こんなに面白くないアクションもなかった。
 最後に、3人の勇敢な行動に対して、事件の舞台となったフランスから勲章が贈られたり、アメリカの地元に帰ってからのパレードのシーンなどが付け加えられていたが、そんなことを映されても、最初からこちらは娯楽映画として観ているのだから、テレビのニュースならともかく、映画としてはどうなの?ということにしかならなかった。

 まあ、あんまり書いても仕方がないので、今回はこんなところで。
(ヒューマントラストシネマ渋谷、4月10日)
by krmtdir90 | 2018-04-13 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ラッキー」

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 年を取るということは、確実に死に近づいているということである。そのことが他人事ではなく、みずからのリアリティとして感じられる年齢になってしまった。先日、ある事情から車を買い換えなければならなくなってしまった時、果たしてあと何年運転できるのかと考えざるを得なかった。旅行を計画する時も、あと何回出掛けられるかと(金銭的なこともあるが、主に健康上の問題として)どうしても考えてしまう。
 この程度では、リアリティと言っても、いまのところはまだそれほど深刻なものではないとも言える。年を取れば誰もが必ず死ぬのだというリアリティは、まだ少し遠いところにあると言っていい。だが、実のところは、なるべくそれを考えないようにしているだけで、現実にはもういつそれがやって来てもおかしくない年齢に入ってしまっているのも事実である。

 ハリー・ディーン・スタントンは2017年9月15日に91歳で亡くなったのだという。この映画はその少し前に撮られた、彼の最後の主演作である。わたしは彼の代表作とされる「パリ、テキサス」(1984年、ヴィム・ヴェンダース監督)を確かに観ているが、もう昔のことなので内容はほとんど覚えていない。ただ、なぜかハリー・ディーン・スタントンという役者の印象はかなりはっきり残っていて、その彼がこんなに年老いた姿をスクリーンに晒しているのはかなり衝撃的だった。
 映画の脚本(ローガン・スパークス、ドラゴ・スモーニャ)は90歳のハリー・ディーン・スタントンに当て書きされたもので、監督(ジョン・キャロル・リンチ)も共演者もスタッフたちも、当然のように彼へのリスペクトに基づいてこの映画を製作している。映画そのものがハリー・ディーン・スタントンへのオマージュになっているから、映画の主人公ラッキーの生き方は、ほぼそのままハリー・ディーンの生き方とイコールであると考えていいようである。

 神など信じずにこれまで一人で生きてきた90歳のラッキーは、目の前にあるものしか信じない偏屈な現実主義者と設定されている。映画は、アメリカ西部の小さな田舎町に住むラッキーの日々の生活と、町の人々とのささやかな接触について描写していく。年を取った人間にとって、日々のどうということもないルーティーンが非常に重要なものとなっており、ラッキーはそれを毎日淡々とこなしていくのである。
 ある朝、そのルーティーンの途中で彼は倒れ、馴染みの医者に診てもらうが、高齢であること以外にこれといった原因は見つからない。だが、原因が判らないことが彼を不安にさせ、この出来事が彼に死というものを急にリアルに感じさせることになる。彼は言いようのない恐怖に襲われるが、一人で生きて来た彼はそれを周囲に気付かれないように振る舞うのである。
 映画は、死を目前にしたラッキーの心の揺らぎをさりげなく捉えていく。変わらないルーティーンと、少しだけ微妙に変化しているそれを丁寧に写し取っていく。

 この映画の中には、ラッキーのものなのかハリー・ディーンのものなのか定かではないが、様々な哲学的言辞のようなものが散りばめられている。プログラムの中にそれらが収録されているのだが、こんな感じである。
 「現実主義は物なんだとさ。《状況をありのまま受け入れる姿勢や行動と、ありのままの状況に対処する心構え》」。「人はみな生まれる時も、死ぬ時も一人だ。《独りalone》の語源は、《みんな一人all one》なんだ」。「《孤独》と《一人暮らし》は意味が違う」。「つまらん雑談なら、気まずい沈黙のほうがマシだ」。彼の言葉は多くの場面で周囲を戸惑わせるのだが、周囲はこの老人はそういうふうなのだと受け入れている。受け入れるだけでなく、そういう部分も丸ごと認めて愛してさえいるように見える。ラッキーは浮いているわけではなく、町の人々の中にしっかり根付いているのである。
 みずからの死の恐怖に直面しながら、ラッキーが最後に到達する境地は次のようなものである。少し長いが書き抜いておく。「俺は真実にこだわる。真実は実体のある物だ。真実は自分が何者で何をするかであり、それに向き合い、受け入れることだ。宇宙の真理が待っているから。俺たち全員にとっての真理だ。すべてはなくなるってこと。君もお前もあんたも俺も、タバコも何もかも、真っ暗な空(くう)へ。管理者などいない。そこにあるのは無(ウンガッツ)だけ。空(くう)だよ。無あるのみ」。ここで「無ならどうするのさ」と問われた彼は答える。「微笑むのさ」。

 神などに頼ることなく生きてきた者にとって、最後に死と向き合って「微笑む」というのは、みずから取り得る最も自然な態度であるに違いない。映画は、サボテンが林立する町外れの砂の道を、微かな微笑みを浮かべたあとで歩み去るラッキーの後ろ姿を見詰める。彼はまだ死んではいない。手前の地面を大きなリクガメがゆっくり横切って行く。
 リクガメは映画の冒頭にも出てきていて、映画の中ではデヴィッド・リンチが演じたラッキーの友人ハワードが、ルーズベルトと名付けて飼っていたものである。ルーズベルトはある日飼い主の元からいなくなり、ハワードは必死に捜し回ったが見つからず、次のような境地に達したとラッキーに語るのである。「執着を手放そうかと。ルーズベルトが脱走計画に費やした時間と、捜せないようにした手間を考えた。すると彼は去ったのではなく、大切な用事で出かけたと気づいた。これまで私が邪魔していたと。だから捜すのはやめた。縁があればまた会える。私はいつでも門を開けておくだけ」。
 会話の中でリクガメは100歳を超えて生きると紹介されている。ラッキーの孤高な生き方を象徴するものとして登場させられていたのかもしれない。ラッキーとはハリー・ディーン・スタントンのことである。

 印象的なシーンがたくさんあった。面白い映画だった。ハリー・ディーン・スタントンは何一つ演技していないように見えたが、そういえば彼はこれまでも、ただそこにいるだけで演技らしい演技はしていなかったのではないかと思い至った。
(新宿シネマカリテ、3月7日)
by krmtdir90 | 2018-04-09 10:27 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」

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 日々のニュースに接していると、日本はこの先どうなってしまうのかと暗澹たる気持ちになることばかり続いている。そういうことに触れ始めると、恐らく際限がなくなってしまうだろうと思って触れないでいる。ブログは自分の楽しみとしてやっているのだから、基本的に政治問題や社会問題に踏み込むことは避けてきたのである。だが、この映画の感想を述べるに当たって、その内容があまりに現代日本の状況への警鐘になっていることに驚き、同時に日本とのあまりの違いに愕然とさせられたことに触れないわけにはいかない。

 映画はまだベトナム戦争が続いていた1971年、ニューヨーク・タイムズがペンタゴン・ペーパーズという機密文書(いわゆるマクナマラ文書)をスクープし、時のニクソン政権から有無を言わせぬ圧力がかかる中、ワシントン・ポストが第2弾のスクープを打って世論の流れを変えていくさまを描いている。
 映画の中で、ワシントン・ポストの発行人(社主)であるキャサリン・グラハムが、死んだ夫の言葉として言う「新聞記事は歴史書の最初の草稿だ」という言葉が強く印象に残った。そうなのだ。国家の様々なところで作られる文書とその言葉は、後世に書かれるべき「歴史書」の最も基礎的な資料となるものなのである。国家が権力そのものである以上、国民の側にある新聞などの(同時代の)不断の監視下に置かれなければならないというのは当然のことなのだ。
 現に進行中のベトナム戦争に関する機密文書であっても、それが国民に知らされていなかった戦況の泥沼化を伝え、1965年時点ですでにこの戦争には勝てないという見通しを記していたものである以上は、考えられるあらゆる圧力や不利益を乗り越えて、国民の前に明らかにされなければならないということなのだ。そのことが、この映画にはきわめてストレートなかたちで描かれている。

 われわれの目の前にある日本の現実はどうなのか。国会で行われた不適切発言が、本人からの申告で簡単に取り消され、議事録から次々に消されている(二本線による抹消ではなく、まったく削除して発言そのものがなかったことにされている)という事実。また、森友問題の財務省文書が、政府に不都合な部分を改竄されていたり、自衛隊のイラク派遣に関する日報が、国会の論戦で政府に不都合だからと隠蔽されていた事実など。これらに関して、文書は廃棄されたとか存在しないといった言い方がまかり通り、逃げ口上として通用してしまう現実もある。
 また、刑事訴追の可能性があるからと言って、真実を語らないことが許されてしまう現実もあったではないか。刑事訴追があるかどうかはまったく別の問題であり、真実を語ると宣誓した以上は、いかなることがあろうとその通りにしなければおかしいのではないか。真実を報道することで逮捕される可能性や、会社の存続そのものが危機に瀕する可能性がある中で、敢然と記事掲載に踏み切るこの映画の展開との、あまりに大きな落差に絶望的な気分に襲われる。映画に描かれたのは、すべてアメリカで実際にあった出来事なのである。
 スティーブン・スピルバーグ監督はこの脚本(リズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー)を読んだ時、「今すぐこの映画を作らなければならないと思った」と述べているらしい。彼の中には、トランプという無茶苦茶な大統領の下でアメリカはこれからどうなってしまうのかという思いがあったのだと思う。だが、それはそのまま、日本の無茶苦茶な現状に辟易としているわれわれの思いと見事に重なり合うものだったのである。そういう意味で、この映画は、われわれ日本の観客に対してもきわめて今日的な問題提起となっていたように思う。

 映画では、スクープのあと、政権側が国家機密を盾に記事の掲載を差し止める命令を出すが、最高裁はこの差し止めを無効とする判断を下すのである。日本では恐らくこうはいかないだろう。この判決理由の抜粋がプログラムに載っているが、日本など足許にも及ばない民主主義の成熟を感じさせるものになっていると思った。彼我の違いに悲しくなってしまうのだが、少し書き抜いておきたい。
 報道機関は国民に仕えるものであり、政権や政治家に仕えるものではない。報道機関に対する政府の検閲は撤廃されており、それゆえ報道機関が政府を批判する権利は永久に存続するものである。報道の自由が守られているため、政府の機密事項を保有し公開することは可能である。制限を受けない自由な報道のみが、政府の偽りを効果的に暴くことができる。そして、報道の自由の義務を負う者は、政府の国民に対する欺きによって多くの若者が遠い外国へと派遣され、病気や戦闘で命を落とすという悲劇を避けるために責務を全うすべきである。

 映画の感想も書いておく。
 26歳で撮った「激突!」で監督デビューしたスピルバーグも、今年で71歳になったらしい。依然として第一線のヒットメーカーとして活躍しているのは大したものだし、その多彩な作品がことごとく第一級の娯楽作品になっていることに驚きを感じる。この映画も、きわめてセンセーショナルな題材を扱いながら、その題材のみに頼ることなく、ワシントン・ポストの発行人キャサリン・グラハムと編集主幹ベン・ブラッドリーに着目して、その揺れ動く心情を繊細に描写し、骨太な人間ドラマを構成しているところは見事と言うしかない。
 特にキャサリンを演じたメリル・ストリープは、若い頃は何となく病的な印象があって好きではなかったが、老境に達して(68歳になったらしい)実にきめ細かい演技を披露していて素晴らしかった。記事掲載の最終判断を下すシーンでの躊躇と黙考の演技は、彼女だから出せたリアリティがあったと思う。編集主幹ブラッドリーを演じたトム・ハンクスもいい年輪を重ねていて、この役を単純な正義感で染め上げなかったところはさすがだと思った。
 当時の新聞社の上層部は、政権中枢にある様々な人物と交流を持っていたようで、キャサリン・グラハムが、ペンタゴン・ペーパーズを作成させた当時の国防長官ロバート・マクナマラときわめて深い友人関係にあったことは知らなかった。文書の中身を暴露する記事の掲載に際して、キャサリンが事前にマクナマラを訪問するシーンは興味深かった。マクナマラを演じたブルース・グリーンウッドという役者も巧みで、このシーンの緊迫した空気も忘れ難いものだった。
(立川シネマシティ1、3月5日)
by krmtdir90 | 2018-04-06 16:47 | 本と映画 | Comments(0)

「不死身の特攻兵/軍神はなぜ上官に反抗したか」(鴻上尚史)

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 鴻上尚史は好奇心の強い作家だと思う。好奇心というのは感性の問題であり、鴻上尚史はみずからの好奇心の指し示す方向を追ってここまで来たのではないか。それは非常に感覚的な過程である。
 彼がこういう本を書いているのが不思議な気がしたが、一旦興味を持ってしまったら、最後まで突き詰めないではいられない気分が生まれたのだろう。ここには、鴻上尚史が自分の好奇心を信じ、それに誠実に対処した軌跡が描かれていると思った。

 太平洋戦争末期、海軍に続いて陸軍でも行われた特攻「作戦」において、「9回出撃して、9回生きて帰って来た」特攻隊員がいたということを、鴻上尚史がたまたま知ったことが始まりである。この本は、その、陸軍第1回特攻隊のパイロットだった佐々木友次という人についてのドキュメントである。
 鴻上尚史はこの人のことを知った後、「青空に飛ぶ」という中高生向けの小説を書いたらしい。その後、やはりフィクションではないかたちでこの人のことを残すべきだと考えて、今回の本を出すことにしたようだ。この人に出会ってしまったことに対する、鴻上尚史なりの責任の取り方として共感できると思う。

 この本はドキュメンタリー(ノンフィクション)として、鴻上尚史の好奇心が正直に現れるような構成を取っている。
 短い第1章で、鴻上は佐々木友次という人を知ったきっかけと、92歳で存命だった当人にインタビューするに至る経緯を説明している。長い第2章では、鴻上がいろいろ調べたり、インタビューを通じて知った佐々木さんの生涯を、特に特攻兵としてどういう体験をしたのかを、小説(フィクション)のような書き方で描き出してみせる。続く第3章が、札幌の病院で行われた5回のインタビュー(面会)の様子になる。この最後の面会から2ヵ月後の2016年2月9日に佐々木さんは亡くなるのだが、最後の第4章は、残された鴻上が何をどう考えたのかという考察の記録になっている。戦後(1958年)に生まれた鴻上尚史が、これまで考えたこともなかった特攻という問題と、どう向き合いどんなことを考えたのかを非常に率直に記述している。
 それゆえ、この本は誰にでも読みやすくわかりやすい本になったと思う。鴻上尚史の人となりが正直に見えていて、彼の思いがスッとこちらに伝わってくるものになっていると感じた。

 特に第4章で、現代の日本に引き付けて問題を考えようとしたところは説得力があり、一々納得し共感しながら読み進むことになった。
 特攻ということを考える時、「命令した側」と「命令を受けた側」とをきちんと区別して考えるべきであり、「命令」だったのか「志願」だったのかというような問題も、上記の区別に基づけばおのずと真実は見えてくるというのは、その通りだと思った。続けて、日本人の性質と特攻というものを関連させ、そこにあった思考の放棄と「集団我」というところに進んで、現代の日本にも見られる様々な「危うさ」に話を展開させるところは、現代の日本を見据えて非常に説得力があると感じた。

 それにしても、これまで一面的に美化され過ぎてきた特攻隊の真実を、こうしたわかりやすいかたちで世に出した鴻上尚史は、なかなか凄い人だと言うべきだろう。帯に印刷された「15万部突破!」という文字に、大きな希望を感じたいと思う。まだまだ部数を伸ばしてほしい本である。
by krmtdir90 | 2018-04-05 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「blank13」

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 監督の斎藤工(たくみ)という人については何も知らなかった。ウィキペディアを見ると「俳優・映画評論家」となっていて、若い頃から多方面で活躍してきた人のようだ。今年36歳だという。映画監督としては短編を何本か撮っていたようだが、長編劇映画はこれがデビュー作だったらしい。
 長編と言っても上映時間はたった70分だし、「blank13」という(風変わりな)英字タイトルも素っ気ない感じがして、何となくそこらの映画とは異質の雰囲気を感じて観に行ったのである。座席数98という、シネマシティとしては小さめのハコでの上映だったが、月曜日の昼間なのに客席はけっこう埋まっていた。あまりお客が集まる映画ではないだろうと思っていたのだが、予想は見事に外れてしまった。

 感想としては、実に面白かったと最初に言っておきたい。斎藤工監督の製作意図というか、どういう映画を撮りたいのかというのがよく見えていて、それが70分の画面の隅々にまで行き渡っていると感じられた。初めての監督作品として、実に潔い作り方をしていると思った。あれもこれもと説明し過ぎたり描き過ぎたりする映画は多いけれど、夾雑物をどんどん削ぎ落として、本当に必要なところだけを70分にギュッと凝縮していると思った。これは、なかなかできることではない。
 タイトルを映画のほぼ真ん中(35分ぐらい経過してから)に持って来て、前半と後半で描写のトーンをがらりと変えてみせたところも見事だった。非常に計算の行き届いた画面作りをする人で、最初から引き込まれて最後まで眼が離せなかった。
 斎藤監督は小さい頃から映画を浴びるほど見続けた人だったようで、どういう撮り方をすれば映画の魅力が出せるのかをよく判っているのだと感じた。全体的な作りに大袈裟なところがまったくなく、控え目で淡々としていながら、登場人物の様々な思いは鮮明に浮かび上がらせていることに感心した。最初から最後まで半端なところがなく、安心して身を任せることのできる映画だった。

 タイトルは「空白の13年」とでも訳すのだろうか。小さな集会所のようなところで営まれる寂しい葬式から始まる映画である。死んだのは松田雅人という男で、喪主は雅人の子どもである2人の青年である。ギャンブルに溺れ、13年前に多額の借金を残して蒸発してしまったこの「ダメ父親」をリリー・フランキーが演じたのだが、演じるというより、まさにそういう人間としてそこに存在してみせるところが素晴らしかった。こういう困った役どころをやらせたら、この人の右に出る役者はいないと思った。映画は、現在執り行われているこの葬式を基点に、家族の様々な(辛い)過去に向かってフラッシュバックしていく。
 小学生だったコウジ(大西利空・高橋一生)、中学生と思われる兄のヨシユキ(北藤遼・斎藤工)、妻(母)・洋子(神野三鈴)の3人が、この父親をどう思っていたのかということが説明的に描かれることはない(そういうシーンは作られていない)。家族が暮らす貧しいアパートには、年中チンピラが大声で借金の取り立てに来ていたし、薄暗い室内で4人が息を殺して居留守を使うシーンなども描かれていたが、兄弟が父親に反抗したり、家族が言い争ったりする場面は(そういうことがなかったとは思えないが)まったく描かれないのである。
 父が消えた後、母は新聞配達や内職、そして夜の仕事などで兄弟を育てるのだが、その心の内を吐露させるようなシーンもこの監督は作らない。兄弟も含めて、家族で交わされる会話は極端に少なく、彼らの思いはその間合いや佇まい、眼光の中などに微かに窺われるだけである。

 兄弟が父親を嫌悪していたのは明らかだが、妻であった母親が何を考えていたのかはずっと判らない。家族のどういう場面を切り取って描くかは監督の意図によるが、それなりの修羅場がなかったとは思えないこの夫婦に関して、斎藤監督は深入りすることを避けているように見えた。36歳の監督が描きたかったのはそういうことではなく、この父親に翻弄され辛い毎日を耐えるしかなかった兄弟の思いであり、彼らにとって父親とは何だったのかということなのだろう。「空白の13年」の受け止め方は、母と子どもではまったく異なっていたはずだが、映画が描くのは、兄弟の中でずっと続いていた父への厳しい感情が最後に変化する瞬間なのである。
 母親の、妻としての思いが描かれていないわけではない。彼女が喪服の帯を締めるシーンは描かれている。しかし、彼女は葬式には行かないのである。彼女が寒々とした公園のベンチに腰を下ろし、少年野球の練習をぼんやり眺めているシーンも映し出されている。映画のラストは、喪服の彼女がアパートの窓枠に腰掛けて、13年前に夫が残していったハイライトに火を点け、小さく咽せながら吸ってみるシーンで閉じられている。ずっと不在というかたちながら、この部屋に確かに残っていた夫の気配は、いま完全に消えたのである。彼女の夫への感情というものは、とても簡単に説明できるようなものではないことだけは、この監督はしっかり描き出していたと思う。何も言わなくても、彼女はこういうふうに生きたということは確かに納得させられたと思う。
 それらしいエピソードを作って安直に答を出してしまうような、そういう描き方になっていないところが素晴らしいと思った。この煙草のシーンは、恐らく記憶に残る名シーンの一つになるだろう。

 家族が父親の消息を知ったのは、彼が胃ガンで入院して余命3ヵ月という状態になってからである。いまはそれぞれ自立して別々に生活しているらしい3人が、母のアパートに集まって見舞いに行くかどうかを相談するシーンがある。このシーンも言葉は極端に少なく、そのことが逆に3人の複雑な思いを浮かび上がらせている。母と兄は行かないと言い、弟コウジもそれに同調するが、彼には小さい頃に父にキャッチボールをしてもらったり野球を見に連れて行ってもらったりした思い出があり、後日、一人で病院に見舞いに行くのである。
 このシーンが素晴らしい。交わされる言葉はやはり極めて少ない。2人して病院の屋上に行くのだが、その立ち位置の微妙な距離感とかやり取りの間合い、比較的遠めに置かれたカメラの位置取りやカットの割り方など、新人監督離れしたその巧みさには舌を巻いた。
 この監督の素晴らしさは、一つ一つのシーンが実に多くの情報を含んで作られているところにあると思う。何でもない小さなセリフやショットが実に多くのことを語っていて、それが自然に滲み出て積み重なっていくのである。コウジと父の間を、野球というものがずっと繋いでいるのだが、それは父がいなくなった後で母とする下手くそなキャッチボールとか、葬式の席で会葬者の老人が明らかにする、帽子からボールを出すマジックを父が覚えたがっていたというようなエピソードに響き合っていく。
 こういう細かいことに触れ始めたらキリがない。実に豊かな70分なのである。

 この映画は後半になって、葬式にやって来た数少ない参列者の口から、空白の13年間の、家族の知らない父親の様々な姿が明らかにされ、その空白が意外なかたちで埋められていくという展開になる。このそれぞれ個性的で、それぞれいかがわしく、みんな一目で貧しい生活をしていることが判ってしまう参列者たちを、キャスティングの妙というか、前半の重苦しい雰囲気から一転して、コメディと言ってもいいような語り口で描いていく変化は鮮やかだった。彼らはみんな心から死者を悼んで、みずからの意思で参列していたのである。
 すぐ近くの寺で盛大に行われている葬式の様子を、対比的に並べて見せたアイディアは秀逸である。多くの参列者は恐らく義理で来ていることが見えていて、中で一人だけ、ずっと不自然なほど嗚咽していた女は、金で雇われた「泣き屋」だったことが終盤に明らかにされている。
 前半ずっとフラッシュバックで登場していた父親は、後半はもう姿を見せることはない。しかし、その(リリー・フランキーの)イメージは、参列者の語るそれぞれささやかなエピソードでどんどん変化していき(ふくらんでいき)、家族にとってはどうしようもない存在でしかなかった父の人生の、思いがけない全体像が浮かび上がってくるのである。哀しくて切なくて笑いたくなるような、この描き方は何とも強烈な印象を残したと思う。

 それでも兄弟は、最後まで父親を嫌いだったと言うしかない。兄として喪主挨拶に立ったヨシユキは、途中で言葉に詰まって外に出てしまうのだが、当時思春期にさしかかっていたと思われるヨシユキには、その感情は憎しみと言っていいような圧倒的なものだったのかもしれない。彼はすぐ間近に行われている寺の葬式を眺めながら、しゃがんでぼんやりと煙草を吸うのである。
 兄の後を受けて挨拶に立った弟のコウジは、小さい頃父の優しさに触れた思い出を持っているから、参列者が語ってくれたことに感謝の言葉を述べながら、それでも最後に、やはり父を嫌いだったと付け加えざるをえないのである。
 2人が最後に見せる反応はきわめて抑制されたものだが、カメラはその姿を作為や情緒で染めてしまうことなく、じっと静かに見詰めるだけである。母や自分たちに数え切れない辛苦を強いた父を許すことなど、とてもできないことなのは確かである。それでも、自分たちの感情がどうしようもなく揺さぶられてしまったことも確かなことなのである。
 最後の展開では、日本映画ではなかなかないことなのだが、かなり感動させられてしまった。父がコウジの作文を最後まで大切に持っていたなどというのは、ベタと言えばベタなのだが、リリー・フランキーのあの表情に重なると、ちょっと泣けてしまうエピソードではないか。

 たった70分の中に印象深いショットやシーンがてんこ盛りで、その豊かなリアリティに脱帽という感じだった。これだけたくさんのものを描いているのに、たった70分で十分という、斎藤工監督の才能は特筆すべきものがあると思った。
 付け足しだが、「勝手にふるえてろ」の松岡茉優が、コウジの恋人のサオリという役で出ていた。地味な役だから最初は気付かなかったが、目立たないところできちんと役を演じていて、自然な存在感を出していたところが良かったと思う。映画自体が地味な映画だから、登場人物もみんな地味な存在の仕方をするしかない。こういう、監督の求めた方向性の中で、着実に個性を発揮してみせるというのは簡単なことではない。本当に巧い役者にしかできないことだと思う。
 年末のベストテンには当然名前が挙がってくると思われる、実に見どころの多い映画だった。
(立川シネマシティ1、2月26日)
by krmtdir90 | 2018-02-27 10:17 | 本と映画 | Comments(0)

「未来の年表/人口減少日本でこれから起きること」(河合雅司)

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 数年前、日本創世会議・人口減少問題検討分科会が発表した「将来推計人口と消滅可能性都市896」のリストが大きな話題になった。このレポートは25年後となる2040年を想定して、人口減少によって全国の自治体がどういうことになってしまうのかを描いて見せたものだった。この時は増田寬也氏の唱えた対応策に山下祐介氏を始めとする多くの反論が提起され、地方自治体をどうするのかという視点で様々な議論が巻き起こった。
 今回、著者の河合雅司氏は当然これらの議論を踏まえつつも、もっと全体を俯瞰するような視点で人口減少の問題点を浮かび上がらせようとしたようだ。「はじめに」の中で氏は次のように述べている。
 書店には少子高齢社会の問題点を論じた書物が数多く並ぶ。しかし、テーマを絞って人口減少社会の課題を論じるにとどまり、恐るべき日本の未来図を時系列に沿って、かつ体系的に解き明かす書物はこれまでなかった。それを明確にしておかなければ、講ずべき適切な対策とは何なのかを判断できず、日本の行く末を変えることは叶わないはずなのに、である。

 本書は200ページほどの簡易な新書だが、その約7割を使って今後50年ほどの間に起こるであろう事態を、時系列に沿って可能な限り具体的に説明している。その根拠となっているのは、国立社会保障人口問題研究所というところが2017年に出した「日本の将来推計人口」というデータのようだが、それに基づく河合氏の考察は、少子化も高齢化も現在進行形の事態であって、これに歯止めをかけることはできないという明快な前提に立っている。
 1949年に269万6千人あまりだった(戦後のベビーブームだ)年間出生数は、2016年には97万6千人あまりに落ち込み、初めて100万人の大台を割ったのだという。母集団が小さくなっているのだから、歯止めも何も、上記研究所の推計では2065年には出生数は55万7千人になってしまうと予測されているようだ。子どもが生まれないのだから人口が減るのは当然のことで、2017年に1億2653万人だった日本の総人口は、2065年には8808万人ほどになると予測されている。河合氏は「こんなに急激に人口が減るのは世界史において類例がない。われわれは、長い歴史にあって極めて特異な時代を生きているのである」と述べている。

 2065年にはわたしはもう生きてはいないが、子どもや孫たちは恐らく生きているだろう。半数の自治体が消滅すると予測されている2040年には、孫たちはちょうど働き盛りの年齢に差しかかっているはずである。その時、日本の社会は果たしてどんな姿になっているのか。本書が描き出す未来図は少しセンセーショナルに書かれているところがあるのかもしれないが、引用されている様々なデータの数字はすべて事実なのである。わたしは(たぶん)「逃げ切れる」からといって、この問題は無関係と切り捨てる気にはどうしてもなれない。
 本書でも繰り返し触れられていることだが、この人口減少が急激な高齢化とともに進行していることは重大である。何歳からを高齢者と考えるかは意見の分かれるところだが、2024年の日本では国民の3人に1人が65歳以上、6人に1人が75歳以上になると計算されている。一応わたしもそのくらいは生きていたいと願っているが、この時、老後の生活の基盤となる社会保障制度や医療・介護といったところは果たしてちゃんと機能しているのだろうか。
 いまから僅か10年足らず先の話なのである。本書は、恐らく10年も経たないうちに、日本社会のあちこちの場面に重大な影響が出ているだろうと予測している。これは決して絵空事ではない。

 それは、次々に高齢化していく世代の後を埋めるべき、働く世代の減少(社会の支え手の不足)という問題があるからである。少子化に歯止めはかからないのだから(その根拠は本書の中で明確に説明されている)、この事態は今後ますます深刻化していくはずである。このままでは、現在はあるのが当たり前と思っている便利で豊かな生活も、それを支える様々な分野で、その機能が維持できなくなってしまう可能性が高いと述べられている。
 河合氏は年を追って考えられる様々な問題を、きわめて広範囲から拾い上げている。その幾つかを書き写してみよう(カッコ内は、その例が挙げられている本書時系列における年次)。
 2016年の時点で44%の私立大学が定員割れとなっているが、今後、地方の国立大学も含めて、多くの大学が倒産の危機に晒されるだろう(2018年)。社会インフラの老朽化が進み(水道事業が例示されている)、一方で利用者減が進行する中では、それらの維持・更新が難しくなっている(2019年)。様々なインフラを支える技術者の不足と高齢化も深刻になっており、とりわけIT分野における技術者不足は今後拡大するばかりである(同年)。介護・医療にかかる経費の増大を受けて、政府が介護政策を在宅にシフトしている結果、働き盛りの40~50代を中心に介護離職者が大量に発生する(2021年、いわゆる老老介護の問題は2024年)。高齢化に伴って認知症患者も増大しており(2025年で730万人、65歳以上の5人に1人)、在宅では認認介護という現実も広がっていく(2026年)。若年層の減少により、献血者の不足から輸血用血液の不足が深刻化する(2027年)。生産年齢人口の極端な減少で、全国の都道府県の80%が生産力不足に陥り、百貨店・銀行・老人ホーム、さらには映画館やハンバーガー店なども地方から消えて行く(2030年)。全国の住宅の3戸に1戸が空き家になる(2033年)。国内死亡者数がピークを迎え、深刻な火葬場不足に陥る(2039年)。・・・。

 書いているときりがないのだが、これらの事態はいずれも、裏付けとなる詳細なデータとともに示されていて、そうなってから慌てて対策を考えてもどうにもならないことばかりである。河合氏は、もはや漠然とした希望的観測や楽観論は捨てなければならないと警鐘を鳴らす。できるだけ早急に国のかたちを作り替えなければならないと述べる。「求められている現実的な選択肢とは、拡大路線でやってきた従来の成功体験と訣別し、戦略的に縮むことである」と述べている。
 だが、それは簡単なことではない。本書は続く3割のページを使って、「日本を救う10の処方箋」なるものを具体的に提案している。だが、ここにくると、その容易ならざる状況から、本当にそんなことができるのかという、少々現実離れした論調が急に目立ち始めるように思われた。だが、河合氏の真剣な提案に、わたしなどが軽々な感想を差し挟むことは控えなければならない。
 実際、どういう対策を講じるにせよ、人口減少や少子高齢化を一気に解決できるような妙案などあるはずもなく、その進行を少しだけ遅らせることしかできないのである。

 確かに、これから確実にやって来る困難な事態をトータルに把握し、そこから生じる一つ一つのテーマをを長期戦覚悟で、今後の行政や政治の課題として地道に取り組んでいくしかないということなのだろう。対処療法で問題を先送りするばかりでは、事態の悪化が日本の社会構造を根本から蝕み、それらを一気に台無しにしてしまうような日が近付いているのだ。きわめて深刻な岐路にいまの日本はさしかかっているのである。
 本書では触れられていないが、働き手の不足がすでに各所で顕在化していることなどは、少し注意すればわたしの周囲でもいろいろ実感されるようになっている。運送業に関わるトラック運転手の不足(それと高齢化)は慢性的になっているようで、宅配業者が荷物の受け入れ総量を減らす方向で動き始めたことがニュースになっていた。引っ越し業者の運転手不足もひどいようで、この春には大量の引っ越し難民(入学や転勤に引っ越しが間に合わなくなる)が出るだろうというニュースがつい先日出ていた。
 どんどん減り続ける働き手のことを正しく認識すれば、その実情に合わせた業界内の仕組みの作り替えが必要なのだが、ほとんどのところで現状を維持することが至上命題になってしまうから、歪みは大きくなるばかりなのだろう。働き手が減れば労働の総量は減るのが当然で、効率化だの何だのは長時間労働の言い訳にしかならないのである。

 本書はすでにかなりの反響を巻き起こしているようだが(帯に「30万部!」と書いてある)、ここに示された内容は特に若い世代にとっては対岸の火事ではないだろう(もちろん高齢者にとっても無関係で済ませられることではない)。この本に関連して、今後どのような議論がなされていくのか注視していきたいと思う。
by krmtdir90 | 2018-02-25 16:48 | 本と映画 | Comments(2)

映画「バーフバリ」2部作「伝説誕生」「王の凱旋」

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 「バーフバリ/王の凱旋」というインド映画が主に若い世代を中心に支持されているらしいのを知り、ちょっと観てみようという気になった。だが、調べてみると、これは2部作として作られたものの後編であることが判った。もちろん後編にもあらすじなどの紹介はあるだろうが、どうせ観るなら前編からちゃんと観た方がいいと思った。あちこち当たってみると、キネカ大森というところで前編をやっているのが見つかった。しかも、特別上映だから料金は1000円均一だという。シニアは1100円だから料金のことは関係ないが、普段は行かない映画館というのが何となく面白そうで、少し早起きをして大森まで小さな旅を楽しんできた。
 スマホで検索して、立川から南武線で川崎に出るというルートを取った。南武線を乗り通すというのは、たぶん初めてだったのではないかと思う。駅間距離が総じて短い路線のようで、これまで縁のなかった駅を次々たどっていくのが楽しかった。
 で、10時25分から前編にあたる「バーフバリ/伝説誕生」を観たのだが、この映画館では15分のインターバルの後、後編の「バーフバリ/王の凱旋」の上映もあることを行ってから知った(もちろん普通の別料金だったが)。後編は日を改めて新宿あたりで観ようと考えていたのだが、続けて観られるなら観てしまった方がいいのではないかという気分になった。一旦外に出て(映画館は西友の5階にあった)、近くのコンビニでサンドウィッチと缶コーヒーを仕入れ、座席で慌ただしく昼食にした。最初から昼食を用意して、続けて観る計画の人も館内にはけっこういたようだった。
 上映時間は「伝説誕生」が138分、「王の凱旋」が141分と割と長めで、遠くまで旅して来ていることもあって帰りはさすがに疲れたが、やはり続けて一気に観てしまったのは非常に良かったと思った。

 わたしは昔、映画ファンだった頃から、スペクタクル超大作というのにはまったく興味がなく、「十戒」とか「ベン・ハー」「クレオパトラ」といった有名なものも(たぶん)観ていないと思う。当時は映画がまだアナログだった時代で、膨大な物量と製作費をかけて(ハリウッドで)作られたこれらの映画は、1万人の群衆シーンを撮るためには1万人のエキストラを集めなければならない時代だった。当然、製作費を大幅に超える儲けを出すことが必要になるわけで、そこに興行成績至上の何となく不純な動機を感じ取っていたのかもしれない。
 現代では映画製作はデジタルとなり、コンピューター上のCGやVFXでほとんどのシーンが製作可能になっている。この「バーフバリ」がどれほどの製作費をかけ、どれほどの興行成績を目指したものなのかは知らないが、とりあえずそういうことよりもわたしには、現代の最新鋭の技術が最大限活用されたこの映画で、現代のスペクタクル超大作がどれほどのところに到達しているのかということを、目の当たりに確認したいという興味が大きかったように思う。
 インドは、年間製作本数、映画館数、観客動員数などでいずれも世界一となる映画大国だが、落ち目のハリウッドではなくインド(通称ボリウッド)でこの超大作が作られたというのが面白いことだと思った。チラシには「世界興収300億円突破」などと書いてあるが、昔から「映画史上最大の」という謳い文句には冷ややかだったわたしが、まあ歳を取ったこともあるのだろう、この映画ではその「史上最大」を大いに楽しませてもらうことになった。

 わたしはまったく不勉強なのだが、この映画はインドの有名な叙事詩「マハーバーラタ」の物語を下敷きとしていたらしい。簡単に言えば、遠い昔のインドの架空の王国を舞台にした、親子三代にわたる王位継承争いを軸に展開する物語である。まさに波瀾万丈の物語だが、もちろんそのストーリー展開や内容の善し悪しなどを細かく云々するような映画ではない。だから、今回はその「史上最大」の描き方とか俳優のことなど、映画としては周辺に属することを中心に印象や感想を書いていこうと思う。

 まずは最新鋭の技術を駆使した画面作りだが、ここまでやるのかという圧倒的なシーンの連続に驚かされた。眼が離せなかった。恐らくいまの若い人たちは、コンピューターゲームなどでこの手の画面作りには慣れているだろうが、それでもこのド派手なスケールにはさすがに脱帽したということなのかもしれない。カメラのアングルや動きなどに一切の制約がないというのが、アナログで育ったわたしなどにはまずもって驚くべきことで、これらコンピューター処理で何でもできるようになったことの反映だとしても、現代の映画は凄いところまで来たのだなと認識を新たにした。
 何万?という軍隊が対峙する王国同士の戦闘シーンや、手を変え品を変え繰り返される主人公たちの身体を張った争いのシーンなど、現代ではこういう画面作りになるのだと自然に理解されたが、何と言えばいいのか、その目まぐるしさと言ったらとても尋常のものではないと思った。
 「伝説誕生」の最初のあたりで、主人公が巨大な滝(大瀑布)をよじ登っていくところなど、高所恐怖症のわたしは見ているだけで恐怖感いっぱいになり、お尻のあたりがムズムズし続けて参った。現実にはこんなことあるわけないじゃないかという画面作りなのだが、技術を駆使した臨場感は並のものではなく、観客をハラハラドキドキさせるツボが押さえられているから、エンターテインメントはこうでなければならないのだと納得するしかなかった。
 一方でこの監督(S.S.ラージャマウリ)は、人物をきちんと描くべきところもしっかり押さえて描いているので、そのあたりのバランスが非常に良く、観客が映画の中にスッと入り込めて、物語の対立構造(そんなに大層なものではないが)などを受け止めやすいものになっていると思った。

 ボリウッド映画の特徴である歌と踊りなどもちゃんと入っていて、恋のシーンではじっくり見せながらあくまで美しく、スケールやアイディアで見せるところは斬新なカットを重ねて、それぞれ上手に決まっていて見事だった。整列した象まで動きの中に取り入れてしまったり、空に浮かんだ帆船の甲板上で展開する群舞など、次から次へと繰り出される奇想天外な見せ場が実に楽しかった。すべてが作りものなのは判っているのだが、これだけ楽しませてくれるのならそれでいいではないかという気分になった。技術の勝利である。
 物語としては古代史劇のような色合いが強いのだが、そこにファンタジー的な空想要素も色濃く混ぜ込んだ感じで、架空の英雄譚・冒険譚としては非常に良くできた物語だと感じた。「伝説誕生」の主人公シヴドゥのたどる数奇な運命ということなのだが、滝(大瀑布)の上に広がる世界で、マヒシュマティ王国の圧政に対する抵抗勢力の女戦士アヴァンティカと出会い、王宮に25年間幽閉された王妃デーヴァセーナの救出に向かうというのが前半の展開。
 見事救出に成功したシヴドゥの前に、王国に忠誠を誓う奴隷にして最強の戦士カッタッパが現れ、シヴドゥがマヒシュマティ王国の王子マヘンドラ・バーフバリであることを告げ、彼の父であるアマレンドラ・バーフバリの生涯を語り始めるのである。このあと映画は「伝説誕生」の後半から「王の凱旋」の中盤にまたがって、マヒシュマティ王国の50年にわたる歴史と王位継承争いなどを描き出していく。継承争いに敗れたアマレンドラ・バーフバリは非業の死を遂げ、まだ赤ん坊だった王子は国母シヴァガミの犠牲によって救い出され、滝(大瀑布)の下の村で拾われ、村長の子どもとして育てられることになるのである。

 こうして物語は「伝説誕生」の冒頭部につながり、すべてを知ったシヴドゥは、「王の凱旋」の終盤では王子マヘンドラ・バーフバリとして抵抗勢力の先頭に立ち、女戦士アヴァンティカらとともに父の仇である現国王バラーラデーヴァとの最後の戦いに挑んでいく。
 映画がどういうふうに進んで行くか、観ているとストーリー展開の先がほとんど読めてしまうのだが、それは観ている者がこうあってほしいと望んでいる展開なのだ。その期待に完璧に応えてくれる爽快感はなかなかのものである。最後のバーフバリとバラーラデーヴァの対決などは、バーフバリが勝つことは見えているのだが、とにかく一進一退組んずほぐれつの戦いを延々と見せて飽きさせない。お互いこんなにやったら身体なんかボロボロになってしまうだろうと思うのだが、そんなことはまったくお構いなし、先が見えている決着だからこその猛烈なサーヴィスなのである。
 この2人を演じたプラバース(シヴドゥ、バーフバリ・父と王子の二役)とラーナー・ダッグバーティ(バラーラデーヴァ)という役者は筋骨隆々、目を見張るばかりのマッチョなのだが、これだけの肉体がこの神話的世界を実現するためには必要ということなのだろう。一方、ヒロインとなるデーヴァセーナのアヌシュカ・シェッティ、アヴァンティカのタマンナーといった女優は、アクションシーンも立派にこなせる男勝りの一面も見せながら、大人の色気もしっかり漂わせているところが魅力的だった。男も女も、日本映画のアイドルっぽいひ弱さではとても太刀打ちできない存在感で、映画スターとしての自信に満ちた風格を感じさせていたと思う。カッタッパのサティヤラージ、シヴァガミのラムヤ・クリシュナといったベテラン俳優も、非常に重要な役回りをしっかり演じて脇を固めていたと思う。ボリウッドの成熟を感じさせる映画だった。
(キネカ大森、2月19日)
by krmtdir90 | 2018-02-21 13:53 | 本と映画 | Comments(0)


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