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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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カテゴリ:本と映画( 383 )

映画「凪待ち」

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 こちらは競輪にのめり込んで身を持ち崩す男のストーリーだった。ダメな男だが、そういう男の内側にある思いに寄り添い浮かび上がらせようとした映画である。主人公・郁夫を演じるのが元SMAPの香取慎吾、監督が「孤狼の血」「止められるか、俺たちを」の白石和彌だった。
 白石和彌だから、人気の香取慎吾でもまったく新しい一面を見せてくれるのではないかという期待があった。果たして、彼は素晴らしい存在感を示して郁夫というどうしようもない男を演じ切ったと思う。白石和彌がそれを引き出したと言っていいのだろう。

 競輪にのめり込んで毎日を遊び暮らしていた郁夫は、恋人・亜弓(西田尚美)に言われてギャンブルから足を洗う約束をし、彼女が故郷の石巻に帰るのについて行くことにする。亜弓には別れた夫との間にできた高校生の娘・美波(恒松祐里)がいるが、反抗期の彼女は郁夫とは何となくウマが合うように見える。石巻の実家にはガンの宣告を受けた漁師の父親・勝美(吉澤健)がいて、近所の小野寺という男(リリー・フランキー)が何かと世話を焼いてくれている。
 亜弓はこちらで念願だった美容院を開業し、郁夫も昔のスキルを生かして小さな印刷会社で働き始める。映画は無為な生活に慣れてしまったダメ男の郁夫が、ここでまともな生活に戻ることができるのかという問いの下でストーリーを展開していく。もちろんそんな簡単なことでないのは誰でも判るのだが、映画が用意していたのは想像以上の悲運と絶望だった。
 郁夫が職場の同僚に連れられて、場末のスナックを根城にした競輪のノミ屋に足を踏み入れてしまうのは案の定と言うところだったかもしれない。だが、美波の夜遊びがきっかけとなって激しい口論になってしまった亜弓が、郁夫と別れたあとで何者かに殺害されてしまうという展開はかなり唐突だったように思う。

 フライヤーには「誰が殺したのか?なぜ殺したのか?」と惹句が付されているが、主人公の人生を大きく狂わせることになる殺人事件について、この映画は犯人捜しの謎解き的なところにはあまり興味を示していないように思われた。郁夫や美波が受けた衝撃や後悔の大きさなどは丁寧に拾い上げていたが、犯人・小野寺が逮捕されるところはきわめて唐突だったし、その動機についてはほとんど説明されていなかったように思う。亜弓に対する屈折した思いがあったのかもしれないと、うっすらと(非常にうっすらと)匂わせるだけで終わりになってしまうのである。
 この映画にとって、恐らく問題は郁夫の感じた絶望の大きさの方であり、自棄になった郁夫はノミ屋で乱暴な賭けを繰り返し、負けて借金を重ねてどうにもならないところに追い詰められてしまう。亜弓の父親の勝美が船を売って金を作り、借金を返してやり直せと大金を渡してくれるのだが、彼は再びノミ屋に行ってその金をすっかりつぎ込んでしまうのである。救いの手が差し伸べられても、結局自分の気持ちを抑えられなくなってしまうところは「カスリコ」の吾一とまったく同じなのだが、こちらは恋人の死が引き金になっている点で、当人の心情的なところにはかなり同情すべき点があったのかもしれない。
 このあと、こちらの映画では最後のところにややうまく行き過ぎる展開が用意されていて、その先のことは判らないが、後に残った郁夫・美波・勝美の上に微かな希望の気配が漂うようなエンディングになっていた。甘いと言えば甘いのだが、落ちるところまで落ちた男に対して、白石和彌監督は今回はささやかな「救い」の気配を描きたかったのかもしれない。相変わらず過酷極まりないドラマを作っているので、そういう気分になることも時にはあるのかもしれないと思った。わたしはこの映画のそこのところに好感を持った。

 香取慎吾は熱演だったと思う。熱演というのもいろいろあると思うが、いかにも演じているというところを限りなく後退させて、あくまでその人間としてそこに存在して見せたと言ったらいいだろうか。スター的な要素をきっぱり捨てて、無精髭をはやして、恐らくノーメイクで、終始薄汚れた身なりで不器用に動き回り、自分を持て余している感じをよく出していたと思う。彼は思いがけず大柄なのに驚いたが、そのあたりを白石監督もうまく生かしていたと思う。
 ノミ屋の上部組織である暴力団に捕まったところに、かつてここの組長と関わりがあったらしい勝美が話をつけに来るシーン、何のつながりもなかった郁夫のことを勝美は「俺の倅だ」と言って助け出すのである。組事務所から帰る道すがら、美波と勝美に挟まれて、ひときわ大きな体躯の郁夫が泣きながら歩くシーンはグッと来た。やるじゃないか香取慎吾、と思った。
 香取慎吾42歳、彼がこれまでやってきたことなど何も知らないのだが、この映画は彼が役者としての大きな階段を上った一作として記憶されるだろうと思った。
(TOHOシネマズ南大沢、7月1日)
by krmtdir90 | 2019-07-06 21:51 | 本と映画 | Comments(0)

映画「カスリコ」

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 昭和40年代の高知を舞台にした映画である。名高い料理人だった岡田吾一(石橋保)は賭博にのめり込んで破滅し、店を手放し妻子を故郷に帰して一人途方に暮れていた。そこにヤクザの荒木五郎(宅麻伸)が現れて、吾一に「カスリコ」の仕事を紹介するというのが発端である。
 カスリコというのは、賭場で客の世話や使い走りをして祝儀を恵んでもらうという、賭場のシステムの最下層で雑用などに使われていた人間のことらしい。賭場のテラ銭のことをカスリと言うようだが、そこから僅かな上前を期待して動き回ることから「物乞いと一緒」と見られたりすることもあったようだ。かつてみずからが羽振りをきかせて出入りした賭場で、そういう卑屈な日々を送ることになってしまった男の人生を、この映画は追いかけていくことになる。
 映画の中で、ヤクザの荒木と吾一の関係については何も触れられていないが、荒木は様々な場面で吾一の再起を親身になって後押しする。荒木は任侠の世界で筋を通してきたような昔気質のヤクザだが、堅気の吾一との接点は、恐らく彼の作る料理に惚れ込んでいたということだったのではなかろうか。一旦はすべてを失ってしまった吾一に力を貸すのは、彼に料理人として再起して欲しいという思いからだったように思えた。吾一も荒木の期待に応えるべく頑張って、ようやく光明が見えてきたところで運命が暗転するというのがストーリーである。

 「月刊シナリオ」のコンクールで入選した脚本だったようだが(脚本:國吉卓爾)、ストーリーの展開としては特に目新しいところがあるわけではない。だが、映画としては賭場で行われる「手本引き」の様子が克明に写し取られていて、そこに流れるドラマチックな緊迫感はなかなかの見ものになっていたと思う。東映のヤクザ映画(例えば「緋牡丹博徒」シリーズ)などで「手本引き」にはこれまで幾度となくお目にかかって来たが、その勝負の経過をこんなふうに詳細に見せてくれることはなかったのではないか。
 ここがこの映画の最大の見せどころになっていたと思う。アクションなどまったくない映画なのに、賭場で行われる「手本引き」の一部始終が、非常にスリリングな空気を醸し出していて面白かった。購入したプログラムにもルールなどが丁寧に解説してあって良かった。
 終盤、ほとんど足を洗うことに成功したかに見えた吾一が、成り行きとはいえ、最後に因縁の胴師・源三(高橋長英)との大勝負に引き寄せられていってしまうのは悲しかった。ある程度勝ったところで切り上げるということができない、やっているうちに憑かれたようにのめり込んでいってしまう、恐らく我を忘れているわけではなく、深みにはまっていく自分を冷静に認識しているもう一人の自分もいるように思える、そのどうにも止めようがない孤独な熱狂をよく捉えていたと思う。所詮は歯止めの効かない馬鹿な男ということになるのだが、どん底から這い上がろうとしていた時の彼の努力に嘘はなかったはずだし、それでも盆の前に座るとつい本気になってしまうところはどうにも変わらなかったということなのだろう。

 今どき珍しいモノクロ映画だった。それが題材とマッチしていて良かったと思う。だが、映画全体としてはやや説明的になり過ぎるところがあり、賭場のシーンは興味深く見られたが、その他の部分では描写の仕方がやや凡庸でキレが欠けていたようにも感じた。監督の高瀬將嗣は長年殺陣師としてやって来た人のようだが、最近は監督の方にも進出しているということのようだ。今年62歳、監督の力としてはそれほど見るべきものを持っているようには思えなかった。
(渋谷ユーロスペース、6月25日)
by krmtdir90 | 2019-07-05 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「アンノウン・ソルジャー/英雄なき戦場」

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 フィンランドという国が第二次世界大戦の時どうしていたかというようなことはまったく知識がなかった。それはまあ仕方がないことかもしれないが、当時を描いたこの戦争映画が、フィンランド国内では観客動員100万人超の(総人口は550万人ぐらいというから、とにかく凄い数字であるのは確かだ)大ヒットとなったらしい。フィンランドの国民にとって、この時の戦争は忘れることの出来ない歴史的一大事だったということなのだろう。

 この戦争はフィンランド東部のロシアとの国境線に関するもので、1939~40年に旧ソ連との間で争われた「冬戦争」の結果として、フィンランドは1918年の独立以来ずっと領土としてきたカレリア地方(国土の約10分の1)を失うことになってしまったようだ。その後も反撃の機会を待っていたフィンランドは、1941年にナチスドイツがソ連に電撃的に侵攻したのと呼応して、一気に国境を越えてカレリア地方を奪還することに成功する。だが、1942年になると態勢を立て直したソ連軍の反撃に遭って戦況は膠着状態となり、43年になってドイツ軍の敗走が始まるとフィンランド軍も前線からの撤退を余儀なくされ、その後ドイツの敗北が日ごとに確実となる中で、44年9月、フィンランド軍が当初の国境線まで退くことでソ連との戦闘を終結させたようだ。
 この1941~44年の戦争は、フィンランドとしてはナチスドイツと同盟関係を結んでいたわけではないことが強調され、一定の協力関係は作ったものの、あくまで「冬戦争」の続きとして独自にソ連と戦ったものだという位置付けがなされてきたらしい。そのため、フィンランドは第二次世界大戦に参戦したわけではないとして、特に「継続戦争」という名で呼ばれるようになっているのだという。

 映画はこの「継続戦争」の始まりから終わりまでをたどっていくのだが、大きな特徴になっているのは、一貫してこの戦争を前線にいた兵士たちの視点から描こうとしたことだった。地図上で時折戦況の変化などが示されたりはするが、画面に描かれていく戦闘が戦争全体の中でどんな意味を持っていたのかといったことは説明されないし、戦争を遂行した軍の上層部やそれに関する政治の動きなども一切描かれることはないのである。
 この映画では、文字通り戦場となった現場の動きだけが追いかけられていて、そのピリピリした現場感覚だけが次々に積み上げられていくことになった。兵士たちにとっては戦いの大義などははるか遠いところにあり、訳も判らないうちにたくさんの兵士たちが死んでいく状況がこれでもかと描き出されていく。最後のあたりに何台かソ連軍の戦車が出てきたが、その戦いは基本的には互いに銃を撃ち合って殺し合う白兵戦の連続で、CGなどはまったく無縁の表現で、最前線に身を置く兵士たち一人一人の恐怖がきわめてリアルなものとして映し出されていくのである。

 全体は戦場における群像劇というかたちになっていて、一応の主人公と幾人かの脇役が設定されてはいるが、戦いの中では彼らは無名の駒となって生死の境で動き回るしかないのである。生死を分けるものはまったくの偶然と言うしかなく、スポットライトが当てられた者たちも最後にはみんな死んでしまって、故郷に残してきた家族の許に帰還する夢が実現することはない。こうして、結果的に多大な犠牲を払った後に残ったのが現在の国境線なのである。
 ただ、この戦争とその後の東西冷戦の狭間にあって、フィンランドは他国の占領を一度も受けることなく、多くの東欧諸国のように共産主義の洗礼を受けることも免れて、絶妙の立ち位置でその独立を維持することになったということのようだ。調べてみると、このあたりのフィンランドの動きはなかなか面白いのだが、ここではあまり深入りしない方がいいだろう。
 いずれにしても、戦争映画としては非常にユニークな視点を貫いていて、若干盛り上がりに欠けるところはあるものの、そこがまた一般の戦争映画とは異なるリアリティが感じられて、わたしには非常に興味深く面白い映画だったと思う。

 2017年、フィンランド映画。監督・脚本:アク・ロウヒミエス、主演(ロッカ役):エーロ・アホ。カラー映画だったが、限りなくモノクロに近い絵作りが印象に残った(撮影:ミカ・オラスマー)。フィンランド人の名前というのは変わっていて、われわれには馴染みがなく面白い。そういえば、あのアキ・カウリスマキもフィンランド人だったな。
(新宿武蔵野館、6月24日)
by krmtdir90 | 2019-07-04 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「陽のあたる町」

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 途中で眠気を抑えるのに苦労したことを(眠ってしまったわけではないが)、最初に言っておきたいと思う。決してつまらなかったわけではないが、映画の中に入り込むのにかなり苦労したということだったのである。

 ジョージア西部のチアトゥラという町の現在を描いたドキュメンタリー映画である(2017年、ジョージア・アメリカ・カタール・オランダ合作)。ラティ・オネリ監督はジョージアの首都トビリシの出身で、この映画が長編第一作だったようだ。
 眠くなってしまった大きな原因は、わたしがジョージアという国のこともチアトゥラという町のことも、何一つ知らなかったということがあったと思う。説明的な要素を省いてしまうのは、ジョージアの人々にとっては自明のことだからある意味正しいことかもしれない。だが、部外者からするとその点のハードルがきわめて高かったということなのである。
 日本公開にあたって、配給側もそのあたりを危惧したようで、フライヤーなどにはジョージアの地図と「ジョージアのチアトゥラとは?」という文章が掲載されていた。それを書き抜いておく。

 チアトゥラの町は、1879年にジョージアの詩人アカキ・ツェレテリや貴族によって創設された。20世紀初頭には世界で消費される50%のマンガンを産出し、産業の中心地へと変貌した。やがてソヴィエト連邦が構成されると、チアトゥラの町は理想郷、そして未来都市の象徴として巨額の投資が行われた。劇場、大学、コンサートホール、スタジアム、公園が建設され、同時に世界初かつ最大のケーブルカー交通網が整備された。しかし、ソヴィエト連邦の解体、そしてマンガンが枯渇すると経済も衰退の一途をたどり、人口は激減、1989年にはおよそ3万人が暮らしていたが、2008年の人口は1万9千人ほどまで落ち込んでいる。

 マンガン鉱についても詳しいことは何も知らないのだが、世界の消費量の半分を産出していたというのはかなり凄いことだろうし、チアトゥラという町がかつて「陽のあたる」輝かしい過去を持っていたことが、映画の前提として非常に重要なことなのは判ると思う。だが、題名に反して、この町の情景や人々の姿が明るい太陽の光の下で描かれることは皆無で、映画は終始、暗い曇天と夜の闇に包まれた町の現在を記録していくのである。
 もちろん前提を知らなくても、かつての繁栄がいまは失われ、廃墟ばかりが目立つようになってしまった寂れた町で、いまを何とか生きている人々の姿を描いていることは理解できると思う。だが、前提が判らなければ、その人々のことはぼんやりとしか理解できないし、それをただ淡々と映していくだけのこの映画について行くことは、正直かなりシンドイことだったように思う。

 全編を通して説明的なショットはきわめて少なく(ほとんどないと言ってもいい)、見る側の想像力に期待すると言えば聞こえはいいが、やはりもう少し明瞭な描き方はなかったのかと言いたくなってしまう。住民たちの中から幾人かがピックアップされていたと思うが、彼らが置かれた状況とか内なる思いとかが、この描き方ではかなり判りにくかったというのが正直なところである。
 廃墟そのものを淡々と映し出した「人類遺産」(2016年、ニコラウス・ゲイハルター監督)という映画があったが、あれは人間の姿を画面から意識的に排除することで、かつてそこにあった人々の営みを逆に強烈に浮かび上がらせていたと思う。だが、本作の場合はやはり廃墟はあくまで背景であって、いまそこで生きている人々の「現在」にスポットを当てているのだから、彼らの抱えた様々な事情や感情をもう少し浮かび上がらせてほしかったと思った。
(渋谷イメージフォーラム、6月18日)
by krmtdir90 | 2019-06-22 12:12 | 本と映画 | Comments(0)

映画「誰もがそれを知っている」

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 監督・脚本のアスガー・ファルハディはイラン出身の監督で、前作「セールスマン」(イラン・フランス合作、2016年)は首都・テヘランを舞台にした現代の心理サスペンスと言った趣の作品だった。一方、本作は同じ現代でもイランとは無関係の、スペインの田舎の村を舞台にしていて、スペイン・フランス・イタリアの合作映画ということになっていた。前作がまったく見事にイランとイスラム社会の現在を感じさせていたのに対し、本作は終始いかにもスペインという雰囲気を(現在だが田舎である)漂わせていたと思う。そういうところをくっきり描き分けられるところが、この監督の職人的技量の素晴らしさなのだと思った。
 この映画もまた一種の心理サスペンスである。起こった事件の前と後とで、登場人物たちの関係が後戻りできないように変質してしまうことが描かれていた。「セールスマン」の夫婦もそうだったが、アスガー・ファルハディという作者は、こうしたストーリーを組み立てるのが非常に巧みな監督なのだと思う。ただ、本作ではそのストーリーを展開させる際に若干苦しいところがあったようにも感じた。誘拐犯の設定などにやや無理があるように感じたのである。

 スペインの小さな村で育ったラウラは結婚してアルゼンチンに移り住んだが、妹アナの結婚式に出るため、思春期の娘イレーネと幼い息子ディエゴを連れて帰省する。夫アレハンドロは事情があって同行していないが、実家には老いた父親と姉夫婦、さらにかつてラウラと恋人関係にあったパコとその妻ベアなどが集まっていて、さらに多くの出席者を集めて盛大な結婚式が行われるのである。式後に実家の庭でパーティーが開かれるが、夜に差しかかる頃に雨が降り出し、さらに村全体が停電になるというアクシデントが起こったりするが、そんな事態をものともしないでパーティーはますます盛り上がりを見せていく。
 こうした中で、娘イレーネが姿を消し、しばらくしてラウラのスマホに「娘を誘拐した。警察に届けたら殺す」という脅迫のメールが届くのである。このあと映画は、この事件の経緯を追い詰められていく家族の側から描いていくのだが、イレーネの行方がまったく判らないことによるサスペンスとともに、主要な登場人物が抱えている様々な関係性や心理の綾が次第に見えてくるように進んで行くのである。

 その経過を細かくたどり直すことはしないが、犯人から30万ユーロという法外な身代金が要求されたことに対して、母親ラウラが明らかにする意外な「秘密」と、終盤に姿を見せる犯人と共犯者の背景といったところに、もう一つスッキリしない気分を抱いてしまったということなのである。
 ラウラの行動や、それに対するパコの対応、さらにはラウラの夫アレハンドロやパコの妻ベアの受け止め方といったこと、また犯人たちの動機と、その背景にある姉夫婦とパコ夫婦との確執といったことなど、これらすべての進行には一定の合理的説明が可能になっているように見えるが、それがやや取って付けたように思えてしまうところがあったということになる。誘拐事件は身代金と引き換えにイレーネが救出されて一応の解決を見るが、みんなが一種の放心状態に陥っているという感じで、すべては元に戻らないことが明らかになってしまったエンディングは、後味としては非常に苦いものになっていたと言うほかないだろう。
 面白い映画だったと思うが、前作「セールスマン」と比べると、その「作られ感」といったものが少々鼻についたということだったのである。
(立川シネマシティ1、6月11日)
by krmtdir90 | 2019-06-14 21:16 | 本と映画 | Comments(0)

映画「アナと世界の終わり」

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 青春ゾンビミュージカルというのは何なのか。
 ハイスクールを舞台にしたミュージカル映画であるのは判る。だが、そこに突然ゾンビの集団が襲いかかり、人々が次々にゾンビ化していくというのはどういうことなのか。
 こういうことを考えてしまうのは、古い人間なのかもしれない。ゾンビが出てくることに、たぶん特段の意味などないのだ。このことをまず認めなければならないのだろう。

 主要キャストを構成する高校生は6人いるが、彼らはゾンビの襲来に対して逃げたり闘ったりはするものの、その行動に一貫性というか説得力があるようには見えないのである。ゾンビの側にも、ゾンビとしての統一感や必然性があるわけではない。何かひどくバラバラな感じでストーリーが展開している印象があって、最後に生き残る高校生3人にしても、そのつながりというのは弱くバラバラなままなのである。
 と言うか、彼ら3人以外の登場人物、つまりその他の人物はすべて途中で、みんな噛まれてゾンビになってしまうというのは何ということだろう。主要キャストの一角を占めていたはずの残る高校生3人や、その他多くの脇役の高校生たち、それから主要な大人たち(悪役も含めて)といったところ、さらに救出に来たらしい迷彩服の軍隊なども、どうも一人残らずゾンビ化してしまったようで、要するに世界は全部ゾンビになってしまったらしいのである。
 これはさすがに「エッ、そうなの?」と言わざるを得ないのではないか。最後、生き残った3人は車で逃げ延びることになるが、「これからどこに行こう?」という問いに誰も答えない(答えられない)まま映画は終わってしまうのである。別に教訓や解釈が欲しいわけではない。だが、これでは後に何も残らないではないか。

 たとえば「高校生の(ちょっと変わった)成長物語」というような解釈を無理やり持ち出してみても、そんなものを拒絶したところにこの映画はあったような気がしてしまう。ゾンビになってしまった大部分の登場人物と、運良くゾンビにならなかった3人とを対比しても、その経緯にどんな違いがあったのかはまったく不分明のままなのである。このままでは、この3人も早晩ゾンビになるしかないのではないかというのが、ラストシーンから辛うじて読み取れるメッセージのような気がするし、この映画は結局何がしたかったの?という問いに対して、古い人間を納得させる答えを用意する気は、最初から全然なかったのではないかと思えてしまうのである。
 だからどうだと言うつもりはない。作者たちはちょっと変わったミュージカル映画を作りたかっただけだったのかもしれないし、青春映画という視点で考えてみても、現代の映画としては、判り切った解釈などまったく不要なところで、ただ楽しいストーリーが展開すればそれでいいということだったのかもしれない。
 実際、最初の方で高校生たちが「この町を抜け出さなくちゃ」(Break Away)とか「映画みたいなエンディングはない」(Hollywood Ending)などと、退屈でパッとしない日常からの脱出願望を歌うところなどは非常に良かったし、ミュージカル映画としてのレベルはかなり高かったと思うからである(2017年・イギリス映画/監督:ジョン・マクフェール)。
(新宿武蔵野館、6月10日)
by krmtdir90 | 2019-06-13 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「マルリナの明日」

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 インドネシア映画というのは初めてだったと思う(フランス・マレーシア・タイとの合作で、2017年の作品)。監督はモーリー・スリヤという女性で(製作時には37歳だったらしい)、本作が長編3作目だというが、何とも不思議な映画を作ったものである。

 舞台になったスンバ島というのは、島国インドネシアの中でも特に開発の遅れた貧しい島だったようだ。スマホが普通に出てくる映画だから、現代には違いないのだが、現代のこととはとうてい思えないような、信じ難い状況が次々と描き出されているのである。
 夫を亡くし、荒野の一軒家で一人で暮らしている主人公マルリナの許に、一人の男が突然バイクに乗ってやって来る。こいつは強盗団の首領で、家に上がり込むと、後から仲間がやって来るから食事を用意しろとマルリナに命じ、家畜と金を奪って食事が済んだら全員でおまえを抱くと一方的に告げるのである。
 マルリナは終始硬い表情で応対するが、炊事場で食事の支度を始めながら、鶏のスープに密かに毒の実を混入させる。毒を用意していたのは、そういう事態があり得るかもしれないと覚悟していたということだろうか。トラックで後からやって来た男たちは、このスープを飲んで次々に倒れていく。隣室で寝ていた首領にも勧めるが、男は食事そっちのけでマルリナに襲いかかり、やられそうになったところで、彼女は傍らにあった剣を振り下ろして男の首を撥ねてしまうのである。
 この剣というのがいかにも重量感のある無骨なもので(上のチラシでマルリナが手にしている)、普通の刀剣のように斬ったり突いたりという使い方ではなく、上から力任せに振り下ろしてぶった切るという感じの剣なのである。最初から凄い展開だなと思っていると、この後もさらに想像を超えた展開が待っていて驚かされた。

 マルリナの家で展開する一連のシーンで、薄暗い部屋の片隅に蹲っている人影のようなものが認められるのだが、これが何と亡くなった夫のミイラだったのだ。スンバ島など僻地の島では、いまでも死者を埋葬せず、ミイラにしてしばらく家の中に置いておく風習が残っているらしい。強盗団の首領を殺した後、マルリナがこのミイラに寄り掛かって眠っている?シーンがあったと思うが、彼女は死んだ夫とそうやって生活を共にしてきたのだろう。
 翌朝、マルリナは首領の生首をぶら下げて街の警察署に向かおうとする。警察に事態を知らせて、それなりの対応を取ってもらおうとしたようだが、警察はまったくやる気がなく、事態は少しも良くならない。この後の細かな経過は省略するが、幾つかのポイントだけ記録しておくことにする。
 バスを待ちながら、マルリナは同じく街に向かおうとする身重の女性ノヴィと出会っている。彼女はお腹の赤ん坊の父親に捨てられそうになっていて、そちらの経緯は省略するが、最後にマルリナを追って来た強盗団の生き残りの男に捕まってしまい、家に呼び出されたマルリナが男にやられそうになるところで、今度は彼女が剣を振り下ろして男の首を撥ねるのである。
 ノヴィはその直後にマルリナの介助によって出産し、最後は首領が残したバイクに、マルリナ、ノヴィ、赤ん坊の三人が乗って、どこへともなく去って行くのである。要するに、女性を蔑ろにするだけの最低な男たちに対して、女たちが容赦のない鉄槌を下すという映画なのだが、惹句にある「闘うヒロイン」たちのこの後がどうなっていくのかは判らないのである。

 マルリナが首領の生首を持ち歩くというのは、普通の感性ではなかなか理解し難いところがあると思うが、この映画ではそれだけでなく、彼女が行く先々に、首のない男がウクレレのような楽器を弾きながら付いてくるカットを何カ所か挟んでいるのである。これは、例えばマルリナの目にそういう幻が見えているということではなく、あくまで現実としてそこに首なし男が歩いているというような描き方になっていたと思う。
 これは首がなければミイラにもなれない、言い換えれば成仏できないので首を返してくれという、一種のユーモアだったのかもしれないが、どうも簡単に理解できるようなことではなかったように思う。実は別行動をしていた強盗団の生き残りの男が、首領や仲間たちが殺されたことを知ってマルリナを追うことになった時、彼はどうやら、マルリナを殺すことより首領の首を取り返すことを第一に考えていたように描かれていた。彼は首を取り返すとマルリナの家にとって返し、マルリナの夫のミイラと並んで座らされた首領の死体に首を載せてやって、首なしの状態を解消してやることを真っ先に行うのである。
 とにかく、このあたりの感覚というのはまったく判らない。ここでは死者と生者が共存しているのだなどと判ったようなまとめをしてみたところで、それが納得できるかと言えばとてもそんなわけにはいかないのである。まあ、あまり深く考えるのは止めておこう。

 何とも奇妙な手触りの映画と言うほかなかったが、映像の美しさには目を見張るものがあったと思う。カメラを無闇に動かしたりせず、基本据えっぱなしのロングショットと望遠レンズの組み合わせで、舞台となった島の現実を実に見事に写し取っていたように思う。監督インタビューを見ると、西部劇、特にマカロニウエスタン的な絵作り(音作りも)を意識していたようだが、荒涼とした風景の中で展開する不思議なストーリーが強く印象に残った映画だった。
(渋谷ユーロスペース、5月31日)

 最近、映画を観てから感想を掲載するまで、けっこう日にちが空くことが多くなってしまったと思っている。この映画も、観てからもう一週間以上が経過してしまったし、無理して書かなくてもいいのかもしれないと、ちょっと弱気になってしまう感じもあったのだが、無視してしまっていい映画ではないから、やはり何とか頑張ろうと思ったということなのである。
 何だか困った映画だったなあというのが正直なところで、ずっと書かなくちゃという気分に囚われながら、きょうまでダラダラと来てしまった。映画を観るのは楽しいことだが、感想を書くことがストレスになるようでは困ったことだと思っている。今後、もう少し軽い気持ちで書けるように、具体的なイメージは湧かないのだけれど、何らかの工夫をした方がいいのかもしれない。
by krmtdir90 | 2019-06-09 12:02 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ガルヴェストン」

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 裏組織に追われる中年の殺し屋と、偶然助けた美しい娼婦との逃避行。何か、どこかで見たことがあるような設定と展開、ところがこれが少しもありふれた映画になっていないのが凄い。一見ありがちに見えているところも、ある「仕掛け」によって映画に一本の芯が通った瞬間、まったく違った相貌を持って理解されるのである。
 監督のメラニー・ロランは元々はフランスの女優だったようだが、最近は監督としても注目されているらしい。非常に美しい絵作りをする人で、上で触れた「仕掛け」のせいもあって、セリフも少なく最小限のことしか表現しない語り口が好感が持てた。ほとんど予備知識もなく、特に期待もしないで観に行ったのだが、意外な掘り出し物で印象に残った。この映画、かなり好きである。
 以下、いわゆるネタバレになります。

 冒頭、暗い殺風景な室内と窓の外を吹き荒れる激しい嵐のカットが、後に続くストーリーとはまったく切れたかたちで置かれている。このカットに意味が与えられるのは、ストーリーがエンディングを迎えたと思われた後、突然「20年後」という字幕が出た時である。この嵐は20年後の出来事であり、この映画は「20年後」にサンドイッチされた思い出の物語だったのである。
 思い出を語っているのは老いた殺し屋のロイ(ベン・フォスター)で、死んでしまったヒロインの娼婦ロッキー(エル・ファニング)は、彼の心の中で痛切な悔恨とともにずっと生き続けてきたのだということが判った。彼女が殺害されるシーンや、彼女が義父を殺して幼い娘を取り返すシーンなどは、きわめて重要なシーンであるにもかかわらず、直接的に描写されることがなかったのはそのためである。彼女がどう生きてきたのかはロイには判らないのだし、彼がロッキーを問いただすシーンはあっても、その内容を直接的なシーンとして描くことを監督(メラニー・ロラン)も注意深く避けているのである。

 20年後の嵐の日に、思いがけずロイを訪ねてきたのはロッキーの娘のティファニーだった。幼かった彼女はすっかり大人になっていて、近々結婚することになったので、はっきりしなかったみずからの出自について、ロイが知っていることを教えてほしいということだったのである。幼かった彼女は、ロッキーから年の離れた妹だと教えられていて、ロイと一緒に突然姿を消した姉に捨てられたと思い込んでいた。ロイはまず、ロッキーは君の姉ではなく実の母親で、君を捨てたのではなく君を守るために必死に戦ったのだと伝えるのである。
 そのあとの彼の語りは省略されているが、ティファニーが帰った後、ますます激しくなる嵐の中にロイはふらふらと出て行くのである。彼の目には、明るい海辺の光の中に赤いドレスを着て微笑んでいるロッキーの姿が見えている。この二人の間にはキスシーンもベッドシーンもなかったが、この映画はずっと孤独な日々を生きてきた二人が、思いがけない成り行きから次第に離れられなくなっていくという、紛れもないラブストーリーだったことが明らかになるのである。

 ガルヴェストンというのは、メキシコ湾に面したテキサス州の小さな町の名前だという。ストーリーの始まりはニューオリンズだったが、そこで裏組織から追われる身になったロイが、たまたま助け出したロッキーとティファニーを連れて、たどり着いたのがガルヴェストンの安モーテルだったのである(モーテルの女主人がとてもいい味を出していて、ちょっと「フロリダ・プロジェクト」のことを思い出してしまった)。
 彼らの逃避行に大きな影を落としていたのが、ストーリーの発端でロイが医師から肺ガンの宣告を受け、余命があと少ししかないと覚悟していたことである。彼が、命がけの逃避行の中でもロッキーたちを見捨てることができなかったのはそれが関係していただろうし、二人を援助するために組織のボスから大金を強請ろうと考えたのも、みずからに残された時間をどう使うかを意識したということだったのかもしれない。彼がロッキーに、まとまった金が入る予定があるから、娘のために高校の卒業資格を取れと勧めるシーンがあった。彼女がどこまで本気にしたかは判らないが、彼は驚くほどに本気だったのである。

 まだ一度も海を見たことがないというティファニーのために、三人でガルヴェストンの海辺に遊びに行くシーンがあった。楽しい時間を過ごした帰り道、ロッキーと歩いていた幼いティファニーが、少し先を行くロイの背中を走って行って撲って駆け戻ることを何度も繰り返すシーンがあった。誰にも愛されることなくずっと淋しく生きてきた少女は、何も判らないまま、ただ嬉しい気持ちをそんなふうに表現していたのだと思う。20年後にやって来た彼女は、幼い頃のことはほとんど覚えていないけれど、三人で海に行ったことは覚えていると老いたロイに告げるのである。
 最後になった晩は、ティファニーを寝かしてから二人で出掛けたバーで、彼らは飲んで踊って楽しいひとときを過ごした。ああ、この幸せは失われてしまうのだということが、シーンの途中で強烈に判ってしまうような描き方だったと思う。果たしてその帰り道に、彼らの所在を突き止めた追っ手に待ち伏せされ、二人は拉致されてしまうのである。ロイは激しい拷問を受けるが何とか逃げ延び、その途中でロッキーが殺されてしまったことを知るのである。彼は見張りの男を殺し、車で逃げる途中で事故を起こし、治療を受けた病院でガンではなかったことを知らされることになる。

 ありふれた映画なら、仮にハッピーエンドにならなくても、ロイの犠牲でロッキーは生き延びていなければおかしかったはずだし、彼らを追い詰めた裏組織のボスは殺されなければならないはずだった。だが、逮捕されたロイの許を訪れたボスの顧問弁護士が、黙って服役すればティファニーに手出しはしないと持ちかけ、ロイはその条件を呑んでしまうのである。確かにそれしかなかったのは判るが、それにしてもこのエンディングは皮肉極まりないものである。それを、この映画は非常に手短に淡々と描くだけなのである。
 この映画の「仕掛け」は確かに一つの救いにはなっているが、やはりヒロインのロッキーが死んでしまうことは、何とも悲しすぎるという感情しか残らない気がした。刑務所を出たロイはただ一人この悲しみに耐え、ロッキーの思い出を抱きながらガルヴェストンの片隅で生きてきたのである。20年前の彼女との出来事は、ロイの中で純化され美化されていたところがあったかもしれない。しかし、それがこの映画を美しく切ないものに染め上げていたのだと思う。

 ベン・フォスターは好演だったが、何よりもエル・ファニングの儚げな美しさが際立っていたと思う。この歳になってはもう若い女優に夢中になることもないが、エル・ファニングにはかなり胸ときめかされたことは正直に言っておきたいと思う。
(新宿シネマカリテ、5月28日)
by krmtdir90 | 2019-06-02 21:58 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ビル・エヴァンス/タイム・リメンバード」

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 学生のころ入り浸っていたジャズ喫茶は、道玄坂を上って行った先の百件店(ひゃっけんだな)の奥まったところにあった。たくさんのレコードを聴いたけれど、ジャズにのめり込んでいたわけではないので、それが記憶の中に整理されて残っているというふうにはなっていない。ただ、この店で割とよくかかっていたレコードというのはそれなりに覚えていて、それはマスターの好みを反映していたのだと思うが、その影響で強く印象に残った名前というのもあったと思う。
 ビル・エヴァンスは、そうした中でも特に際立っていた一人である。今回の映画でも、全編に散りばめられた彼の演奏の中に、聞き覚えのあるメロディーがずいぶん含まれていた。ボーッと聞いていただけなのに、けっこう覚えているものなのだなと懐かしい気分になった。

 この映画は2015年のアメリカ映画である。監督のブルース・スピーゲルは相当早い時期からビル・エヴァンス(1929~80年)のドキュメンタリーを作りたいと考えていたようで、本編を構成している関係者へのインタビュー映像の中には、かなり以前に収録されたものも含まれていた。
 ビル・エヴァンスは1980年9月に51歳で亡くなっているが、彼のことを知っている関係者は2010年の時点で考えてみても、みんな非常な高齢になっていたのである。
 例えば、ビル・エヴァンスとファースト・トリオを組んだドラムスのポール・モチアンは、プログラムの資料によれば2011年11月に死去したようだが、その彼が元気だった頃に監督がインタビューした映像が、映画の中には残されているのである。ポール・モチアンとのインタビューを実現できたことが、この映画を作る大きな動機になったと監督自身が述べている。

 ドキュメンタリー映画としては、非常にオーソドックスな作り方をしていると思った。様々な写真や映像、多彩な音源などをしっかり集めて、そこに存命の関係者への監督自身が行ったインタビューなどを重ねながら、ビル・エヴァンスの生涯を過不足なくたどれるように構成されていた。上映時間84分というのはずいぶん整理した印象があるが、若干駆け足だったところもあるけれど、内容的に必要なことは全部入れてある感じだった。ただ、盛り沢山のものをギュッと詰め込んだ印象は確かにあって、やや追いかけるのが難しい部分もあったかもしれない。
 ポイントだと思ったのは、描かれる事実に対して、特定の見方や考え方で色付けすることをこの映画は注意深く避けていたことで、非常に冷静な視線で物事を見ようとしていることが感じられた。その公平な態度は、終始納得できるものだったと思う。伝記的事項で知らないこともたくさんあったので、もう少し詳しく知りたいというところがなかったわけではないが、変に方向付けられてしまうよりも良かったように思った。

 映画の中心になっているのは、ビル・エヴァンスが作り出したジャズをたどることだったが、彼のジャズの素晴らしさについてはインタビューを受けた人たちが様々に語っている。中でも、ピアニストでジャズ研究家でもあるらしいジャック・ライリーという人が、「ビル・エヴァンスの作品はショパンに匹敵すべきものだ」と語っていたのがちょっと衝撃だった。ショパンのことを知っているわけではないが、つい先日ワルシャワで聴いたショパンのピアノ曲の印象が甦ってきて、まるっきりシロートの感想だが、「なるほど、言えるかもしれないな」と思った。
 デビューの頃のことはポール・モチアンが語っているが、彼とともにファースト・トリオの一員となったベースのスコット・ラファロが突然事故死してしまったことと、その後のビル・エヴァンスのたどった道はけっこう複雑だった。だが、映画はそのあたりの経過を忠実に描いていたと思う。生い立ちから始まって、実兄のハリー・エヴァンスとの絆や、恋人だったエレイン・シュルツとの関係といった私生活のこと、この二人がそれぞれ自殺してしまったことにもきちんと触れられていた。
 名曲「ワルツ・フォー・デビイ」のデビイ・エヴァンス(当時2歳、兄ハリーの娘)が、もちろん歳は取ってしまったが、画面に登場していろいろな思い出を語っているのも興味深かった。

 マイルス・デイビスは1991年に死んでしまったから、この映画のインタビューに登場することはできなかったが、当時彼らの周辺にいたジャック・ディジョネット(ドラムス)などがマイルスとビルの関係について語ってくれている。ビルとデュエットしたギタリストのジム・ホールは2013年に死去したらしいが、この映画にインタビューは残していて、「音の質感へのビルのセンスは驚くべきものがあった」などと語っている。この映画はビル・エヴァンスを描いている映画だが、彼と同時代を生きた多くのジャズマンたちの貴重なメモリアルにもなっていたのである。
 ビル・エヴァンスは、デビュー後かなり早い段階から麻薬(コカイン)に手を出していて、それが様々なところに影響を与えていたことは知られている。この点についても映画はきちんと触れているが、安易な解釈や決めつけに走ってしまう愚は犯していない。彼の死に関する経緯も、きわめて節度あるかたちで描き出されていて良かったと思う。
(アップリンク渋谷、5月27日)
by krmtdir90 | 2019-05-30 18:02 | 本と映画 | Comments(0)

映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」

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 2018年のドイツ映画だが、1956年に東西冷戦下の東ドイツで起こった実話を映画化したものだった。ナチスが出て来る映画ではないが、当時を生きた人々がまだその時代のことを清算し切れていないことが随所に見え隠れしている。さらに状況を複雑にしているソ連占領下の難しい現実を、非常に丁寧なやり方で掘り起こそうとした映画である。
 高校生たちの起こした出来事を描いているから、明らかに若い世代を対象としして作られた映画だと思うが、みずからの国が最も困難だった時代のことを、忘れずにこうしたかたちで真面目に取り上げて残そうとしている姿勢に、わが日本との大きな差異を感じないではいられなかった。監督・脚本は「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男」のラース・クラウメである。

 第二次世界大戦後のドイツは米英仏とソ連4カ国による分割統治が行われたが、東西対立の激化によって、自由主義陣営の西ドイツと社会主義陣営の東ドイツとに分断されてしまうことになる。ベルリンは位置的には東ドイツ内にあったが、全体が東側に入ることにはならず、ベルリンとして東西に分かれることになった。その結果、西ベルリンは社会主義に向かった東ドイツの中に残された、自由主義陣営の飛び地といったかたちになったのである。
 当初は東側から西ベルリンへの出入りは比較的自由に行われていたようだが、反社会主義の動きが拡大することを恐れた東ドイツは、1961年にいわゆるベルリンの壁を築いて境界を完全封鎖してしまう。映画に描かれた1956年というのは、まだベルリンの壁がなかった時代で、東西の対立はあったものの、それだけが先鋭化している状況にはなっていなかったのである。

 映画の冒頭は、東ドイツの高校に通う主人公のテオとクルトが、検問をうまく誤魔化して列車で西ベルリンに行き、映画館に忍び込んだりして自由を謳歌するシーンだったが、こういったことがまだ可能だった時代だったのである。ここで彼らが見た西側のニュース映像に映し出されたのが、同じソ連の影響下にあった隣国ハンガリーで、反体制の民衆が蜂起して厳しい弾圧を受けたいわゆるハンガリー動乱の様子だったのである。
 多くの民衆が殺されたことに衝撃を受けた彼らは、翌日の教室でハンガリーの同胞のために2分間の黙祷をしようと提案して実行に移してしまう。それほど深い考えがあってのことではなく、若者らしい正義感に駆られての思いつきの行動だったと思われる。ところがこれが、社会主義国家建設に向かっていた側から危険思想による反体制行動と捉えられてしまい、思いがけず国家当局の厳しい追及に晒されることになってしまう。

 彼らが通っていた高校は、大学進学を前提とした上級クラスだったようだが、出自を問われることなく誰もが上昇コースに乗れるようになったことを歓迎して、社会主義の未来に期待をかける大人世代もあったことが描かれている。ナチスドイツの時代を生きた大人たちは、積極的か消極的かの違いはあったものの、多くがナチを支持した過去を持っているのである。世界初の人工衛星スプートニクがソ連によって打ち上げられたのは1957年だが、東側陣営にあって国の再建が進むことを積極的に支持したい気持ちも、大人たちの中には確かに存在していたようだ。
 だが、反体制の烙印を押された高校生たちにとって、彼らの行動を一方的に決めつけ、有無を言わせず押し潰そうとしてくる社会主義体制というのは、大人たちが必死に抜け出そうとしているナチの体制とあまり違いがないように見えてしまったようだ。黙祷の首謀者をあぶり出そうとして繰り返される執拗な尋問に対し、高校生たちは仲間を守るために必死で知らんふりを貫くのである。その一部始終が映画の見どころになっている。

 ついに口を割らなかった彼らに対して、当局はクラスの解散と全員の退学という処分を下すのである。仲間を売れと卑劣な手段を弄して迫る当局に対して、彼らは無事卒業すれば約束されていた未来が失われてしまう不利益を顧みず、みずからの矜恃を守る道を選んでいく。首謀者は一人ではなく全員だったのだと、一人また一人と立ち上がっていくシーンは感動的だった(中に一人だけ立ち上がらない生徒がいたが、それもまた事実だったということなのだろう)。
 結局、彼らは東ドイツを捨て、西ベルリンに脱出して、そこで高校卒業資格を得る道を選んだのである。1956年はまだそういうことが可能な時代だったということなのだろう。
 映画は、1956年の暮れ、彼らがそれぞれの家族と別れて、自らの意思で西ベルリン行きの列車に乗り込んでいくシーンで終わっている。国を捨てる選択をしたことに是非はあると思うが、困難な時代状況の中で、そういう選択が行われた事実があることを、忘れずに明らかにしておきたいという製作者たちの思いに共感を覚える。現代につながる自国の困難な歴史を、繰り返し反芻するドイツ映画に目を見張る思いがした。
(渋谷Bunkamuraル・シネマ、5月24日)
by krmtdir90 | 2019-05-29 23:59 | 本と映画 | Comments(0)


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