18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング

カテゴリ:本と映画( 298 )

「泥濘(ぬかるみ)」(黒川博行)

e0320083_2073671.jpg
 黒川博行が新作を書いたというので、早速買って来てしまった。読み始めた時間が遅かったから、翌日の午後に読み終わった。
 疫病神シリーズはこれが第7弾になるらしい。すっかり嵌まってしまったが、常に期待を裏切らない安定感は大したものである。このシリーズのいいところは、いつも登場してくる主要人物の設定が実に面白く出来ていて、新作でまた彼らに会えるというのが楽しみになってしまうのである。ここまで続くと書く方は大変かもしれないが、黒川博行には新しいものに色気を出したりせず、ずっとこのシリーズを書き続けてもらいたいと思っている。

 確かに、書いていれば毎回何らかの新機軸を入れなければならないから、そこのところは苦労しているのだろうと思う。最近では桑原の破門というのが大きな鍵になり、それが2作続いて解決したあとの新作である。
 今回は帯の惹句にもある通り、桑原が撃たれて一時心肺停止になるというのがヤマになっている。これまでも桑原はけっこうあれこれやられていたが、心肺停止というのはギリギリのところまで行ってしまった感じである。もちろん助かることは判っているのだが、書く方としては、もうこの線で先に行くことはできなくなってしまったということである。今回二宮は捻挫で済んでいるが、堅気の彼をこの先に行かせるのはシリーズとしては禁じ手になってしまうし、次を考えるのは大変だろうななどと思いながら、早くも次を待つ気分になってしまうのである。

 シリーズとして読み継いでいると、主要人物(の書き方)に微妙な変化が生じてきているように感じるところもある。
 二宮にとって桑原は疫病神という位置づけが始まりだったが、二宮の側の巻き込まれ感は次第に薄まってきており、最近では二人はすっかり「いいコンビ」になってしまったように見える。口では相変わらずお互いをボロクソに言っているが、今回は最後に悠紀の口から「啓ちゃんと桑原は友だちやんか」とか「どこまで行っても桑原と縁が切れへんねん」などと言わせたりしている。桑原が死に直面したことで、二宮の気持ちが見えてきたところもあったように思う。
 二宮については、父親が二蝶会の元幹部だった関係で、現二蝶会組長の嶋田に可愛がられているということが、けっこう大きなファクターになってきているような気がする。
 桑原が塀の中にいた時に読書の楽しさに目覚め、凶暴なヤクザのくせにけっこうな読書家であるなどという側面も、最近かなり強調されてきたことだと思う。

 単行本は税込み1944円だったが、映画の1100円(+交通費・プログラム代)と比べると安いものだと思う。もっとも、どちらにも当たり外れはあるわけで、当たりを探す手間を考えると、読書より映画の方が楽かななどと考えてしまう今日この頃である。
by krmtdir90 | 2018-07-13 08:00 | 本と映画 | Comments(0)

映画「君が君で君だ」

e0320083_205144.jpg
 期待外れが2本続いてしまった。監督が松居大悟だというので見に行ったのだが、これまでに見た2作と比べるとあまり面白くなかった。
 どうしてそういうことになったのか。「私たちのハァハァ」(2015年)の脚本は舘そらみ・松居大悟となっていて、一応共同脚本というかたちだが、主に書いたのは舘そらみの方だった。「アズミ・ハルコは行方不明」(2016年)には山内マリコの原作があり、脚本は瀬戸山美咲となっていて松居大悟は絡んでいない。対する今回の映画は、原作・脚本:松居大悟とあって、完全に彼のオリジナル脚本だったようだ。恐らくこのことが面白くなかった原因ではないかと思っている。
 設定に説得力がないというのはかなり決定的なことだと思う。だが、映画というのはそれですべての可能性が閉ざされてしまうというものでもないだろう。問題は、その設定で何をしたかったのかがよく判らないというところだと思う。どんな突飛な設定であっても、それを動かしていくうちに思いがけないものが見えてくるということもないわけではない。だが、この映画にそういうものは見えてこなかった。どう考えても通俗的としか言えないような終盤の展開は、「ちょっと、これではダメだろう」と言うしかないような気がした。
 この設定を面白がっているのは松居大悟だけであって、この展開に説得力ありと納得しているのも松居大悟だけだったように思う。

 要約すると、「愛する女性が憧れる人になりきり、自分の名前すら捨て去って、10年間にわたり彼女を見守り続けた3人の男たちの愛の行方」というのだが、「見守る」と言えば聞こえはいいが、要するにこれはストーカー行為であって、そういうことを描いてはいけないと言うつもりはないが、この極端な描き方には乗って行けないような気がした。
 3人が「なりきる」のが尾崎豊、ブラッド・ピット、坂本龍馬というのだが、この「なりきり」がどういう具体性を持っているのかがはっきりしないから、「自分の名前を捨てる」と言われてもどういうことを指しているのか判らないのである。また、定職に就いていないように見える3人がどんな生活をしているのかも不明で、それを「10年間」続けたという実態はまったく見えてこなかったように思う。
 現実にそんなことあるわけないじゃないかという設定を敢えてしているのは判るから、その方向から説得力がないと言っているわけではない。問題はなぜそういう設定が必要だったのか、きわめて非現実的なその設定でしか浮かび上がらないものがあると考えたのだとすると、それが何なのか見えないから説得力がないと言っているのである。男たちの「純情」というようなものに触手を伸ばしているように感じられるが、それこそ「馬鹿言ってんじゃないよ」ということではないか。
 まあ、これを面白いと言う人もいるかもしれないから、とにかくわたしとしてはダメだったということで今回は終わりにしておくことにする。
(新宿バルト9、7月10日)
by krmtdir90 | 2018-07-12 20:05 | 本と映画 | Comments(0)

映画「パンク侍、斬られて候」、そして原作(町田康)

e0320083_2192746.jpg
 映画そのものはあまり面白いとは思わなかった。改めて「パンクとは何ぞや」などと言うつもりはないが、映画がそういうものを標榜すると、どうしてもぶっ飛んだイメージを連発しなければならないような感じなり、それを少しでも「こけおどし」じゃないかと思ってしまうと、その羅列に「はあ~、そんなものですかね~」という印象しか持てなくなってしまうのである。
 奇想天外、荒唐無稽、どんなふうに言ってもいいが、最初は「なんじゃ、こりゃ~」などと驚いても、次第に「ああ、そういうことなんですね」となり、結局「だからどうなの?」となって終わってしまうような気がする。特にSFX技術が飛躍的発達を遂げた現代では、もはや映像的に作れないものはないと言ってもいいくらいになっているのだから、映画がそういうところで勝負するのはまったく空しいことになってしまったのだと思う。

 監督の石井岳龍は以前は石井聰亙を名乗っていて、その初期の映画数本(1980年前後)をわたしは見た記憶がある(例によって、ほとんど忘れてしまったが)。だが、当時の彼の映画がその「パンク」性で評価されたとしても、それから映画をめぐる環境は大きく変わってしまったのである。映像で「パンク」をやろうとすることは、いまや完全な袋小路に嵌まっているのであって、その認識なしに闇雲に突っ込んでも成果を上げることはできないのである。脚本を書いた宮藤官九郎にも、そのあたりの現状分析は欠けていたということになるだろう。
 公式サイトなどには、スタッフも含めて「パンク」を作るためにいかに苦心したかといったことが縷々記されているが、出来上がったものは少しもこちらの想像力を刺激しない、凡庸で美しくない(美しくないというのは決定的なことだ)イメージの連続にしかなっていなかった。綾野剛を始め達者な役者を集めているのに、彼らの演技力を発揮させることより、彼らを「パンク」の幻想に奉仕させるような使い方しかしていなかったということである。これでは面白い映画になりようがないと思った。
(立川シネマシティ2、7月6日)

 期待外れだったので映画の感想は書かなくていいかと思っていたのだが、ふと「原作:町田康」というのが気になってしまったのである。これほどの奇妙奇天烈なストーリーを、果たして言葉だけで説得力あるかたちに組み立てられるのだろうかと考えてしまった。そもそも「パンク」を最初に言い出したのは原作なのであって、当然ながら、それが小説から始まったというのは非常に興味深いことだと思った。
 町田康が、パンクロックのミュージシャンでありながら芥川賞(2000年)を取ってしまった作家だというのは知っていたが、これまでその小説を読んだことはなかった。調べてみると、原作は2004年に書かれたもので、いい機会だからちょっと読んでみるかという気分になった。近所の本屋に行ってみると、文庫本には映画公開に合わせた全面帯が二重掛けされていたが、それを外すと、著者自身の写真を使った帯が掛けられていた。まったく、よくやるわい。
e0320083_14494745.jpg

 結論を言えば非常に面白かった。だが、これを映画にしたいと考えた石井岳龍と宮藤官九郎は大きな勘違いをしていたと思う。ここにあるぶっ飛んだストーリーとイメージは、言葉で作られているから凄いのであって、直接的な表現である映像や音に置き換えた途端に、力を失ってしまうということに気付くべきだったのではないか。あまり言葉の力をナメない方がいい。あるいは、あまり映像や音の力を過信しない方がいい。
 14年前、この小説が世に出た時どんな評価を受けたのかは知らないが、これまでこんなことをこんなふうに書いた小説家はいなかったし(たぶん)、これを、初めて言葉で作られた(活字で表現された)「パンク」とすることに異議はないと思った。こういうことを仮に思いついたとしても、それを最後まで破綻なくやり切ることは至難の業だったにちがいない。

 一応時代小説のかたちは取っているが、使われる言葉としては現代口語のような多様な言葉が混在していて、登場人物の考え方や行動などには明らかに現代社会の反映が見て取れるのである。時代ものと言っても、彼らはほとんど現代人そのものと言っていいように思った。物体浮遊の超能力があったり猿が人語を喋ったり訳の解らんいい加減な新興宗教があったりなど、尋常ではない様々な道具立ても、すべてが現代社会の(その行き着いた先で必ず露呈する)何とも言えない無茶苦茶さを表しているような気がしてくるのである。
 「パンク」をサブカルチャーの一つのかたちと見るなら、いろいろなところに強固に存在する既成のカルチャーを骨抜きにし、その依って立つ理論的基盤を根底から覆してしまうような、一種の無政府状態を実現させることだと言えなくもないように思う。そういう意味では、この小説が徹頭徹尾言葉の世界だけで成し遂げようとしたのは、小説というそれなりに安定したカルチャーの徹底した転覆だったのかもしれない。
 「パンク」は思潮であるより現象である側面が強いから、これは一回限りの成果を持って終わるべきものなのだと思う。わたしは町田康をこの一作しか読んでいないのだから、断定的な物言いは避けるべきだが、この試みはこの一冊で完結したものになったように感じている。だから、この小説は後にも先にもこの一作限りであって、けっこうエポックメイキングな小説だったと言っていいのではないかと思った。

by krmtdir90 | 2018-07-11 14:52 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ガザの美容室」

e0320083_21304365.jpg
 最後の数分間を除いて、カメラはほとんど美容室内部の出来事だけを映し出す。カーテンが引かれた隙間から時折外の様子が見えたりするが、内と外ははっきりと区切られていて、閉ざされた美容室の中の13人の女たちの姿を、映画はじりじりと経過する時間とともに克明に捉えていく。いわゆるワンシチュエーションドラマなのだが、その中に閉じているのかというとそんなことはなく、それが外の世界をこんなにも感じさせてしまうのが素晴らしいと思った。外で営まれている女たちの日常というものも、この映画は鮮やかに浮かび上がらせていたと思う。
 ここには女性しかいないから、みんな(一人を除いて)ヒジャブをしておらず、男性の視線がなければそれでいいのだというのが、彼女たちを少しだけ自由な気分にさせていたのかもしれない。交わされる会話が思いがけず生々しい感じがして、これは女性監督なのかと思ったら、黒々とした髭を生やしたアラブの男性監督(タルザン&アラブ・ナサール兄弟、ガザ地区出身の一卵性双生児だという)だった。これが長編第一作だったようだ。
 彼女たちが生活しているのはパレスチナ自治区のガザ地区である。ここがどういう状況に置かれているのかは、あくまで映画の背景として置かれているに過ぎないところがこの映画の特徴になっている。そういう描き方をこの監督たちはしている。しかし、この背景こそが女たちの生活に決定的な影響を与えていることもまた自明なのである。

 外の世界は男たちが支配していて、女たちは基本的にそれに振り回されるしかないのだが、このガザ地区の複雑な状況について、この映画はほとんど何も語ろうとはしていない。結局、映画を見た後でいろいろ調べて、まったくの付け焼き刃で以下を書くしかないのだが、それは概ねこんな感じになるのだろうか。
 ガザ地区は東京23区の6割ほどの面積で、そこに200万人以上のパレスチナ人が住んでいるらしい。2007年以降、この地区を実効支配しているのはハマスというイスラム政党である。これをテロリスト集団と見るイスラエルとエジプトが国境封鎖を行ったため、ガザの人々は地区の外との往来がほとんどできなくなり、満足な物資や支援も入ってこない状況が続いている。発電所が破壊されたため、停電が日常茶飯事となっていて(自前の発電機を動かそうにも、ガソリン不足で思うに任せないといった様子が映画の中にも描かれていた)、交通機関や水道、病院といった社会インフラは壊滅的な状態に追い込まれているらしい。治安も悪化しており、イスラエルの空爆などもあって、その都度多くの死傷者が出ているが、そうしたところはこの映画では描かれていない。
 映画の後半になって、美容室のすぐ外の道路で戦闘が始まり、女たちはシャッターを下ろした美容室の中に閉じ込められてしまう。これは、マフィアと呼ばれる武装した不満分子をハマスが制圧する戦いだったようだ。ガザの住民は常にこうした危険や不自由に晒されているのであり、先の見えない不安や絶望感の中で日々(男も女も)生活しているのである。

 映画は人々のこうした苦難を直接に描くのではなく、一旦すべてを背景に後退させてしまうことで、ガザの女たちの(不条理と言うしかないような)日常を描くことに成功している。舞台を美容室の中に限定することで、あくまで普段の姿を捉えることに徹しようとする(もちろん、そこには男たちの日常もしっかり見据えられている)この視点は新鮮だし、実にいろいろなことを見る者に考えさせるものになっていると思った。ガザは巨大な「監獄」に喩えられることもあるようだが、そういう場所でも人々は日常生活を続けていくしかないのである。
 そもそもこんな混乱した市中で美容室が営業していること自体が驚きだし、そこにいる女たちがそれぞれ切実な事情を抱えていることが見えてくると、こうした困難の中でも需要が失われていないという事実に、彼らの生活の重要な鍵が隠されているという気がしてくるのである。生活の根底にある様々なもの、と言ってもいいかもしれない。ただし、映画の冒頭から美容室の空気はどことなくギクシャクしていて、和やかな雰囲気とはほど遠いものになっている。むしろ、お互いへの反撥や冷ややかな行き違いといったものが画面に見え隠れしているのである。
 彼女たちは辛く苦しい毎日を生きているから、常に自分のあり方や他人の生き方を確認し検証しているということなのかもしれない。それぞれが妙に我を張って、意固地になっているように見えるのは、直面する困難に流されまいとする必死の抵抗のようなものだったかもしれない。実際、こんな状況下では安易な妥協や馴れ合いは何の意味もないということになるのだろう。

 イスラムは男性優位の社会だが、女性は従属するだけの弱い存在などということはあり得ない。彼女たちは誰も自分を諦めてはいないし、終盤近く、感情的対立から罵り合いを始めた二人の客に対して、美容室の店主が「わたしたちが争ったら、外の男たちと同じじゃない!」と叫ぶところはドキリとさせられた。薬物を止められないお客の一人が、「もし女だけの政府を作るとしたら・・」と冗談のように喋り出すところは(ややメッセージが生だけれど)なるほどなと思った。
 ドラマということで見ると、最後に大きな展開が待っているが、それまでは閉塞状況の中で各人の事情が少しずつ変化するだけである。外の戦闘のせいで結婚式に間に合わなくなってしまった娘と母親とか、弁護士とのデートができなくなってしまった離婚調停中の中年女とか、戦闘につられるように出産の気配が出始める臨月の妊婦とか、当人たちにとっては切実なことかもしれないが、それらは個人的な事情の僅かな変化と言えなくもない(もちろん、映画はそんな突き放した描き方をしているわけではない)。
 だが、ドラマチックな展開は、外のものが不意に女性たちの中に侵入してくることで起こるのである。美容院でアシスタントをしている娘は、外にいるマフィアの恋人との将来について自信が持てないでいた。この二人に関係はここまでしっかり点描されてきたが、外の戦闘で傷ついた恋人が瀕死の状態で中に転がり込んで来たことで、ドラマは美容室のすべての女たちを巻き込んで急展開する。女たちは彼を匿おうとするが、続いてやって来たハマスの兵士によって外に連れ出されてしまう。男たちの暴力を、女たちはどうすることもできないのである。

 映画がこの後の女たちを映さないのは不満が残る。カメラはそのまま外に出て行き、美容室の外で何が起こっていたのかを明らかにするような幾つかのカットを重ねて不意に途切れてしまう。外はすでにすっかり夜になっていて、幾つかの建物から赤々と炎が上がっている。もう息はしていないように見える男は、トラックの荷台に死んだライオンとともに寝かされている。ライオンに関する経緯というのは映画を見ただけではよく判らないが、マフィアが地元の動物園からライオンを盗み出した事件が2007年に実際に起こっていたということらしい。映画の背景は、この事件を下敷きに作られていたということだったようだ。
 それはともかく、背景であったものが一気に噴出してくるこのラストは衝撃的である。衝撃的だったが、それを描くことが映画として必要だったかどうかは判らない。結果的に、女たちのドラマはハマスの侵入の時点で唐突に途切れてしまうからである。
 だが、これが彼女たちの置かれている現状ということなのかもしれない。再び朝が来れば、彼女たちはまたここでいつも通りの日常を始めていくしかないのである。美容室は特段の被害を受けたわけではないから、また違うお客がやって来て、何もなかったかのように営業を始めていくのだろう。恋人を失ったアシスタントの娘も、少し暗い顔をしながらそのままここで働いているような気がするのだが、ここは少々意見の分かれるところなのかもしれない。
(新宿シネマカリテ、7月5日)
by krmtdir90 | 2018-07-08 21:31 | 本と映画 | Comments(0)

映画「女と男の観覧車」

e0320083_2202864.jpg
 プログラムにケラリーノ・サンドロヴィッチがレヴューを書いていて、その中にテネシー・ウィリアムズの名前が出てきてハッとした。ケラはウディ・アレンが最近、技法面で演劇的な表現に急接近していると指摘しているのだが、それは若き日のウディ・アレンが劇作家に憧れていて、多くの戯曲から影響を受けていたと告白した過去について述べていた。その中に幾人かの劇作家の名前が出てきていて、それを読んだ時、「この映画はテネシー・ウィリアムズなんだ!」と急に目の前が開けたような気がしたのである。この映画の主人公ジニーは、テネシー・ウィリアムズの戯曲に出てきた女性たちに非常によく似ていると気付かされたのだ。
 遙か昔に読んだ戯曲を引っ張り出して、対比してみようという気分にまではなれなかったが、若き日の夢に破れ、こんなはずではなかったと満たされない思いで日々を送る、もう後戻りはできない40歳の中年女性という設定もそうだし、映画の進行とともに彼女が精神的に追い詰められていき、その生活のバランスがどんどん崩れていく様などに、明らかにテネシー・ウィリアムズとの類似性が見て取れると思った。このジニーを演じたのが「タイタニック」(1997年)のヒロインだったケイト・ウィンスレットで、40歳を過ぎてすっかり風格の出てきた彼女の演技は、テネシー・ウィリアムズ的な役どころを見事にやり切っていて見応えがあった。
 監督のウディ・アレンはこの撮影時には82歳、前作「カフェ・ソサエティ」とはガラリと雰囲気を変えた映画を、これもまた全編ウディ・アレン以外ではあり得ないやり方で作っていたところが見事だった。テネシー・ウィリアムズはこの映画を読み解く時のキーワードだと思うが、映画そのものは徹頭徹尾ウディ・アレンのものになっているのが凄いことだと思った。

 舞台は1950年代のコニーアイランド。ニューヨーク、ブルックリン区の南端に位置する、ビーチと遊園地で知られた近郊の小さなリゾート地のようだ。原題の「Wonder Wheel」はここに昔からあるランドマーク的な観覧車の名前で、すぐ窓の外にこれが見えている窓の大きな部屋にジニーが住んでいる。ジニーは遊園地のレストランでウエイトレスをしていて、夫のハンプティ(ジム・ベルーシ)は回転木馬の操縦係をしている。コニーアイランドは全盛期より少し寂れかけているように見えて、そんな雰囲気の中に、主な人物を順を追って登場させてくる導入部の作り方のスマートさに目を奪われた。この、一気に物語の中に引き込んでいく鮮やかな手口というものは、年輪を重ねたウディ・アレンの独壇場と言っていいように思った。
 ジニーとハンプティの夫婦は再婚で、ジニーの連れ子のリッチーという男の子が一緒に住んでいる。この子は火に異常な興味を示していて、あちこちでボヤ騒ぎを起こしては夫婦の悩みの種になっている。ここに、ハンプティの娘で、5年もの間音信不通になっていたキャロライナ(ジュノー・テンプル)が突然やって来るところから、物語は始まっている。映画の語り手を務めるのは、ビーチで夏の間だけ監視員のバイトをしているミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)という青年(大学生)で、脚本家志望の彼とジニーとが道ならぬ恋に落ちているという設定である。
 これらの登場人物に関する背景や設定は非常に盛りだくさんで、いまちょっと書き始めて、これはきりがないなと感じたところである。こうしたものの出し方がウディ・アレンの脚本は実に巧みで、スピーディーなテンポを失うことなく、次々に物語をふくらませて展開していくところは鮮やかと言うしかない。キャロライナがギャング一味の追っ手に命を狙われているといった、やや突飛な設定も自然に物語の中に組み込まれて、必要なことはきちんと説得力を持って物語ってくれるから、違和感なしに映画の流れに身を任せることができるのである。

 映画の中心はラブストーリーだから、ミッキーがはるか年上のジニーになぜ夢中になってしまうのかといった、説得力に欠ければすぐに容認できなくなりそうなところでも、ウディ・アレンは、ロマンチストでのめり込みやすい彼の性格などもきちんと描き出していて抜かりはない。一方のジニーは、失意の底から救ってくれたハンプティに感謝の気持ちを持っているものの、現状の生活に様々な悩みや不満を抱えている。彼女には、若いころ舞台女優として少し注目されながら頓挫してしまった過去があり(説明し始めると長くなるが、こうした事情を浮かび上がらせる時のウディ・アレンの匙加減は名人芸である)、夢多き脚本家志望の青年が自分を復活させてくれるかもしれないという、儚い夢に藁にもすがるような気持ちでのめり込んでしまうところが、説得力を持って描写されている。
 このラブストーリーは、ミッキーが偶然(必然だったか?)キャロライナに出会ってしまい、若い二人がお互いに一目惚れしてしまったことから急激に動き出す。ジニーは一気に旗色が悪くなり、日々猜疑心に駆られ、必死になればなるほど嫉妬心を制御できなくなっていく。ここを、ウディ・アレンは淡々と(しかし丁寧に、あるいは冷静に)映し出していく。ギャングの追っ手が再び現れて、キャロライナが見つかりそうになっていることを知った彼女が、慌てて危機が迫っていることを電話で知らせようとして(ミッキーとキャロライナがデートしている店を、ジニーはキャロライナから聞いていたのである)、ギリギリのところでそれをやめてしまうのが物語の転換点となっている。
 ミッキーと別れたあとキャロライナは行方不明となり(たぶん捕まって殺されてしまったのだろう)、父親のハンプティは必死になって探すが見つからない。ミッキーはあちこち聞き込みして回り(この部分は描かれない)、ジニーが追っ手のことを知りながら知らせてくれなかったことを突き止めて、彼女を追及しようと、初めて観覧車の見えるジニーの部屋を訪れるのである。このシーンはまるで演劇の舞台を見るような、主演女優ケイト・ウィンスレットの独壇場になっていた。

 彼女はなぜか、かつてみずからが演じた舞台衣装と思われるドレスを着ていて、大切に仕舞ってあった(同じく舞台で身につけた)アクセサリー(息子のリッチーに見せるシーンがあった)を身につけている。彼女はミッキーの前で、何かに取り憑かれたように(壊れたように)目を泳がせながら、自分の思いのようなものを延々と吐露するのである。ここではないどこかに本当の自分の居場所があり、いまよりもっと素晴らしい人生があったはずだという繰り言である。映画としては不自然なほど続くこの長ゼリフは、元舞台女優ジニーのセリフであると同時に、ウディ・アレンが女優ケイト・ウィンスレットに密かに言わせたいと画策したセリフだったのではないか。監督の意図と女優の演技がぴったり重なった名演だったと思う。
 思い通りにならなかった過去をもう一度やり直したいと願ったジニーの思いは、ミッキーとともに永遠に消えてしまった。娘キャロライナに、父親としてもう一度夢をかけたいと願ったハンプティの希望も失われてしまった。彼らは、遊園地の上空を一回りした観覧車がまた地上に戻って来るように、再び元の生活に(深い絶望とともに)帰っていくしかなかったのである。映画は、ジニーに一緒にいてくれと懇願するハンプティと、無人のビーチで火を燃やしている息子リッチーの姿を捉えて唐突に終わる。このエンディングだけが、ちょっと説明的になっているような気がして違和感が残った。でも、それ以外は完璧な映画だったと思った。
 付け足しだが。舞台劇を思わせるような人工的な照明が新鮮だった。大きな窓を通して、遊園地の明かりの点滅が室内にいる彼らを照らし出しているという設定なのだが、赤や青といった鮮やかな色彩が、登場人物の様々な思いを効果的に浮かび上がらせていた。映画でありながら舞台劇を感じさせるような、不思議な画面を作り出していたと思う。実に良くできた映画で、最近の2作(「カフェ・ソサエティ」とこれ)を見ただけなのだが、ウディ・アレン「老いてますます盛ん」を実感させられた映画だった。
(立川シネマシティ1、7月1日)
by krmtdir90 | 2018-07-04 22:01 | 本と映画 | Comments(0)

映画「焼肉ドラゴン」

e0320083_2215537.jpg
 鄭義信(チョン・ウィシン)監督は、すでに演劇分野で劇作家・演出家として確固たる位置を占めている人である。同時に映画にも数々の脚本を書いていて、これもまた高い評価を得てきた実績がある。しかし、映画を監督するのは初めてだったようで、この映画は2008年に初演されて評判になった自身の舞台の映画化なのである。
 わたしは元になった舞台を見ているわけではないが、こうしたかたちで作られた映画というのは大いに興味があった。今回、いろいろあって鑑賞から日にちが経ってしまったが、少し記憶がぼやけてくると、映画を見たというより舞台を見たような印象が残っているのである。もちろん映画なのだから、アップとかカット割りといった映画の様々な技法が駆使されている。一定の距離から舞台全体を視野に入れるという、演劇を見る場合とはまったく違っているのだが、何か普通の映画を見ている感じとは明らかに異なるところがあったような気がした。

 映画化に当たって独自のシーンも付け加えられて、映画の脚本としてしっかりリライトはされたようだが、たぶん根っこに舞台に向けて作られたものがいろいろと残っていたのだと思う。それは恐らく、セリフに最も強く表れていたのではないか。登場人物の喋るセリフが、たぶん芝居のセリフのまま使われたところが多かったのではなかろうか。
 言うまでもなく、芝居のリアリティと映画のリアリティとは全然違うものだし、それは何よりセリフのあり方に強く表れてくるものなのだと思う。父(アボジ)の龍吉が何度も口にする「たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる」というようなセリフは、芝居の中では自然に成立するものでも、映画ではやや言い過ぎの感じに聞こえてしまうのである。映画としては少しやり過ぎではないかというところが、セリフだけでなく、演技全般にもけっこう目についたように思う。それはたぶん、舞台では何の違和感もなく受け入れられてきたものなのだろう。

 映画を見ながら、わたしはこの何となく普通の映画とは違う感覚を楽しんでいたと思う。これが、舞台の人間である鄭義信の感覚ということなのだ。彼は映画を撮りながら、その先に舞台のイメージを見ている(舞台の感覚で生きている)のだろうと感じた。演劇として一度しっかりと出来上がったものを、映画としてもう一度作り直す過程が想像されるのが興味深かった。

 長回しが多いというのは、明らかに舞台の感覚を映画の中に持ち込んだものだろう。撮影の現場で鄭義信監督は、シーンごとに全体をきちんと作り上げてから撮り始めたらしい。各シーンが演劇の演出のようにして作られた感じというのは、映画の各所で感じることができた。それがこの映画のユニークさであり、他に見られない面白さになっていたのではないだろうか。
 一方で、映画としてはアップが普通よりも多用されていたと思う。舞台では役者をアップにすることはできないから、映画を撮るとなった時、鄭監督がそれを可能な限り活用したいと考えたのは判るような気がする。切り返しの使い方などで若干ぎこちないところはあったが、この映画の役者たちがみんな鄭監督のアップの要求にしっかり応えていたのは見事だった。舞台の役者には舞台の役者としての苦労があるだろうが、基本的には演劇的なセリフを与えられながら、映画的なアップでそれを具現化して見せた役者たちは立派なものだったと思う。

 主な配役を次に記録しておく。家族、父(アボジ)・龍吉:キム・サンホ、母(オモニ)・英順:イ・ジョンウン、長女・静花:真木よう子、次女・梨花:井上真央、三女・美花:桜庭まなみ、末っ子・時生:大江晋平。娘たちの相手、哲夫:大泉洋、呉日白:イム・ヒチョル、長谷川:大谷亮平。その他、呉信吉:宇野祥平、美根子:根岸季衣。書き写していて、それぞれの演技の記憶が甦ってくると、やはり舞台で見た配役という感じがしてしまうのが不思議である。
 セットが素晴らしかった。舞台ではどういうふうだったのかは知らないが、映画のセットでありながら、演劇のセットのような雰囲気を漂わせているところが絶妙だった。最後の屋台崩しは演劇の発想だと思うが、映像として映画そのものになっていて感心した。

 今回は、内容にまったく触れていない感想文になってしまった。まあ、時にはそういうことがあってもいいだろう。貧しい家族の物語としては、韓国的な感性が身近ではないぶん、「万引き家族」の方により共感を覚えてしまうのは仕方がないことだろう。
(MOVIX昭島、6月26日)
by krmtdir90 | 2018-07-01 22:02 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ザ・ビッグハウス」

e0320083_16574949.jpg
 想田和弘監督の観察映画第8弾は「港町」とは正反対の大スペクタクルだった。ずっとアメリカ在住ながら、これまではいつも日本に来て、日本の様々なシーンを観察してきた想田監督が、これは初めてアメリカを対象として撮った映画だったようだ。
 「ザ・ビッグハウス」とは、ミシガン州アナーバー市にある、名門ミシガン大学のアメリカンフットボール・チーム「ウルヴァリンズ」の本拠地スタジアムのことである。今回は、10万人以上を収容するというこのスタジアムのすべてが観察対象になっている。
 ここでで展開される巨大なスポーツイベントを捉えるために、想田監督は従来の小規模な撮影クルーではなく、観察映画としては初めての「ビッグな」クルーを編成して臨んだようだ。想田監督のほか、監督・製作にマーク・ノーネス、テリー・サリスという2名が名を連ね、彼らを含めて17人が同時進行的にカメラを回したらしい。このメンバーは、想田監督自身が当時(1年間)教授として招聘されていたミシガン大学映像芸術文化学科の学生たちで、上記のマーク・ノーネスは同学科の教授として、想田監督にこの映画の企画を持ちかけた当人ということだったらしい。
 当然、これまで掲げてきた「観察映画十戒」は部分的に守れなくなるが、撮影された素材についてのディスカッションを経て、編集を想田監督一人が行うことで、新たな観察映画の可能性が開かれたということだったようだ。

 アメリカでアメリカンフットボールが絶大な人気を博していることは知っていても、日本ふうに言えば、たかが大学同士のリーグ戦が、これほど圧倒的な規模で行われていることは驚きと言うしかなかった。アナーバー市の人口が約11万7千人というから、試合があるたびにこのスタジアムには、市の人口に優に匹敵する観客が詰めかけるということなのである。
 これだけのビッグイベントを実施するためには、それを支えるバックヤードにも膨大な人数が配置されているわけで、映画はその様々な裏表の姿を克明に観察し記録していくのである。高校演劇でバックステージに強い興味を持ってしまったわたしとしては、その一つ一つはとにかく面白いことばかりで、まったく目を離している暇がなかったと言っていい。
 この映画は試合の行方に興味を示すことはほとんどないのだが、それ以外のすべてのことには実に貪欲でしつこい視線を向け続けていく。その結果、ここでフットボールの試合が行われているのは自明のこととして、その時(その前後も含めて)このスタジアム全体がどんなふうに生きているのか(動いているのか)という、実に興味深い有りさまを鮮やかに描き出すことに成功している。「これがアメリカなのか!」というのはあまりに大雑把な感想になるが、アメリカはこういうふうに生きている(動いている)のかというところを、この映画はきわめて具体的に(かつ象徴的に)眼前に描き出してくれていたと思った。

 このビッグイベントの背後には、ミシガン大学というアメリカ有数の名門校が存在している。そこがある意味アメリカの縮図のようになっていることも、この映画は鮮明に描き出している。「ザ・ビッグハウス」はその象徴になっているのである。プログラムにその巨大さを示す数字が紹介されていたので、少し抜き出しておきたい。学生数は4万4718人、教員数は7219人、職員数は1万4856人、卒業生数になると57万5000人以上である。大学の一般財源は年間74億ドル、研究費が年間13億9000万ドル(因みに、74億ドルは約8150億円)である。。
 また、ビッグハウスのチケット収入は年間4017万ドル、TV放映権料は5106万ドルとなっている。チケット代は対戦相手や席によって異なるが、安い時で55~75ドル、高い時で99~130ドルといったところらしい。映画にはスタジアムの観客がたびたび映し出されていたが、ほとんどが白人で、バックヤードには黒人も働いていたが、あとはスタジアムの外でダフ屋をしていたりチョコレートを売っていたりするだけである。恐ろしく高額というVIPルームも映されていたが、観戦しているのは当然白人ばかりだった。ここはアメリカ国民の経済格差の象徴ともなっている場所なのである。
 ミシガン州は歴史的に自動車産業が基盤となったところだというが、アナーバー市は黒人労働者の増加を避けてデトロイトを離れた白人層が多く移り住んだ近郊の町なのだという。ウィキペディアで調べてみると、現在のデトロイトは人口の8割を黒人が占めるが、アナーバーは8割近くを白人が占めているらしい。

 観察映画には字幕もナレーションもないから、これらのことを映画は何も語らない。この映画からこういうことを引き出すかどうかは観客に委ねられているのだ。だが、想田監督の編集作業の過程に、映像の何を見ているかという監督の観点はおのずと現れているのであり、想田監督の視線は「ザ・ビッグハウス」のスケールを俯瞰的に見ているだけでなく、そこに現代アメリカの諸問題を見ようとしていることが確かに感じ取れるのである。観察映画は予定調和の方向づけは排するが、うわべだけの客観とも無縁のものであると言うべきだろう。
 この映画は2016年にカメラを回したようだが、時まさにトランプとクリントンの大統領選の真っ最中で、トランプ候補の宣伝カーが画面の中に写り込んでいたりした。写り込んだ映像を残したのは編集した想田監督なのであって、調べてみたら、従来は民主党が勝っていたミシガンを今回共和党が押さえたのが、トランプ当選に大きく作用していたということが判った。トランプ的なものとの結びつきが、このスタジアムにもあるのではないかという視点を、想田監督はさりげなく提示しているということなのだろう。
(渋谷イメージフォーラム、6月14日)
by krmtdir90 | 2018-06-15 16:58 | 本と映画 | Comments(0)

映画「レディ・バード」

e0320083_1655328.jpg
 主人公(シアーシャ・ローナン)の名前はクリスティーンなのだが、彼女はなぜかそう呼ばれるたびに不機嫌な顔をする。彼女は自分を“レディ・バード”と名付けていて、周囲にもそう呼ぶように要求している。なぜそんなことをしているのか説明はないが、この点は明らかにこのストーリーの鍵になっている。映画の最後で、彼女が念願叶って故郷のサクラメントを後にした時、彼女は“レディ・バード”という名前にも別れを告げてクリスティーンに戻るのである。
 ここには彼女の夢の実現とともに、ずっと気持ちが行き違っていた母親との和解も関係している。この映画は“レディ・バード”クリスティーンの高校生活最後の一年間を描いているが、同時に母親との葛藤を中心とした家族の一年間も描いている。17歳の彼女は特に美人というわけでもなく、学校でも家庭でも、思い通りにならない様々な問題を抱えて生活している。“レディ・バード”と名乗ることは、自分がまだ何者にもなり得ていないことを意識し、あるべき自分の姿との乖離に悩む彼女の逃げ道(ある種のこだわり)だったのだろうか。

 映画の冒頭、彼女は、一緒に近隣の大学を見学に行って来たらしい母親(ローリー・メトカーフ)と車の中で口論になり、走行中の助手席のドアから飛び降りるという離れ業を演じてみせる。このため映画の前半では、彼女は右腕に鮮やかなピンクのギブスをして登場してくることになる。ギブスをピンクに塗ってしまったことも併せて、彼女の中の思い通りにならない苛立ちが、こうしたちょっと突飛で投げ遣りな行動につながっているように思われる。
 サクラメントはサンフランシスコから140キロほど内陸にある地方都市のようだが、彼女にはまったく面白みに欠けた田舎としか感じられず、卒業後はここを出て東部の大学に進学することを夢見ている。地元の大学に行って欲しい母親との、ここが最大の対立点なのだが、“レディ・バード”の成績はとても東部に出て行けるようなものではないのである。彼女は対立を残したまま密かに幾つかの大学に出願し、補欠というかたちながら何とか一校に引っ掛かる。この映画は時代背景を2002年と設定しているが、前年に起こった「9.11」の影響で、「東部の大学の倍率が下がったから」というようなセリフがどこかにあったと思う。

 グレタ・ガーウィグ監督はインタビューの中で、時代を2002年としたのは「スマートフォンを映すのに興味がなかった」からだと述べている。これは絶妙な意見だと思うが、映画の中で“レディ・バード”が恋をする2人の男子の最初の方が、実はゲイだったというエピソードにもこの時代背景は関係している。LGBTに対する認識がいまよりはるかに低かった時点を描きながら、ガーウィグ監督はこのダニーという少年(ルーカス・ヘッジズ)を実に公正な目で見ようとしている。
 彼の家は「上流」に属していて、「中の下」ぐらいの“レディ・バード”にとっては「背伸びした」恋だったことも忘れてはならない。背伸びは彼女の特徴だが、ガーウィグ監督はこのダニーを、そんなことをまったく気にしない誠実な少年として描いている。ゲイが露呈したあと、彼が彼女のバイト先にやって来て、裏口で彼女に自分の気持ちを率直に話すシーンは良かった。それを聞いて、彼を思わず抱きしめてしまう“レディ・バード”もすごく良かった。もちろん彼らは別れてしまうのだが、ティーンエイジャーの恋を描く時、凡百の監督なら彼がゲイであると判った時点で笑い話にして切り捨てていたのではないだろうか。ガーウィグ監督の視線は淡々としているが、脇役に対しても実に公平で暖かいのである。

 “レディ・バード”が初めてセックスする相手カイル(ティモシー・シャラメ)が、童貞ではなく何人もの相手と経験していたことを彼女が知るシーンでもそれが感じられる。ガーウィグ監督はこれが喜劇的に流れてしまうことを注意深く避けている。“レディ・バード”の恋愛の現実も、まったく彼女が夢見たようなものにはならなかったのだが、それはそれ以上のものでもそれ以下のものでもなく、彼女はそれをそのままのかたちで受け入れるしかないのである。そのことをガーウィグ監督は実に静かな感覚で(セリフはきついことを言ったりするが)、優しく描き出していると感じた。
 “レディ・バード”はこうした経過の中で、一時疎遠になってしまっていた親友のジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)を、高校最後の晩のプロムの相手に決めて誘いに行く。この2人の女の子のシーンが、何ということもないのだがとても良かった。ここに至るまで積み重ねられてきた、高校時代の彼らのすべてがここには詰まっているのだろう。ガーウィグ監督はどうということもない様々なディテールを実に丁寧に描いていて、そのことが映画の最後になるほど、繊細に浮かび上がってくるのだと思った。監督はこの映画に自伝的要素はないと語っているようだが、1983年にサクラメントに生まれ育ったという彼女の若いころの感覚が、この映画にはあちこち散りばめられているのだろうと感じた。

 母親と最後まで気持ちが通じないまま家を出た“レディ・バード”が、父親が荷物に忍ばせてくれた母親の手紙(ゴミ箱に捨ててあったのを父親が拾ってくれた)を読んで、初めて彼女が(“レディ・バード”ではなく)クリスティーンの名前で手紙を書き送る。その中に、安易な和解の言葉ではなく、離れてみてサクラメントの素晴らしさに初めて気が付いたと書いたところに、ガーウィグ監督の控え目だけれど熱い気持ちが込められているように感じて心に響いた。主人公の脱皮という意味で、彼女は確かに一つの階段を上がったのだなと納得させられた。
 同じ「ハイスクールもの」ということで、ちょっと「スウィート17モンスター」(ケリー・フレモン・クレイグ監督)のネイディーンを思い出したが、「スウィート…」の若干コメディタッチの味付けよりも、こちらの自然なユーモアの方が好感度は高いと感じた。ネイディーンはネイディーンで十分印象的なキャラクターだったが、キャラクターをあまり立たせていないぶん、クリスティーンの中にある説明できないモヤモヤした感じが浮かび上がってきて良かったと思った。
(立川シネマシティ2、6月12日)
by krmtdir90 | 2018-06-14 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「万引き家族」

e0320083_17284762.jpg
 わたしは映画を離れていた期間が長く続いたから、是枝裕和監督の作品は「海よりもまだ深く」(2016年)が最初で、あとは「海街dialy」(2015年・TV視聴)と「三度目の殺人」(2017年)を見ただけである。「三度目の殺人」はもう一つという感じだったが、「海よりもまだ深く」が凄く良かったので(「海街…」も良かった)、この監督はマークする必要があると思って次作を待っていたら、何とカンヌで最高賞のパルムドールを受賞してしまった。
 この映画はある意味きわめて日本的な、それも現代日本の多くの矛盾や問題点を正面から描いた映画だと思うが、それが外国の審査員の目によって評価されたというのは素晴らしいことである。社会の底辺に生きる人間を暖かい視線で見詰めた、是枝監督の映画作りの率直な姿勢が、ストレートに見る人の心に響いたということだろう。
 見ていて、いろんなことを考えてしまう映画だった。是枝監督はこれまでも様々な家族のかたちを描いてきたようだが、「海よりも…」や「海街…」は、その家族のストーリーが比較的閉じた中で展開していたのに対し、この映画は、家族が周囲の社会との関係で厳しく問われてしまうストーリーになっていた。そもそもこの家族は、社会的一般的な意味での家族の要件を満たしていない。是枝監督はしかし、この「擬似」家族の日常を、きわめて肯定的な視線で見詰めようとしている。これ、すごくいい家族なんじゃないかと言いたげな雰囲気を感じたのである。是枝監督はこの家族の姿を通して、現代日本の抱える様々な社会問題を問いかけようとしている。
(以下、この感想文は完全なネタバレになっています。まだ見ていない人は、見てから読むことをお勧めします。すごくいい映画なので、ぜひ白紙の状態で見てからこれを読んでほしいと思っています)。

 まず何よりも、貧困ということが大きい。
 東京の片隅の、高層マンションやアパートが建ち並ぶ一画に、ぽつんと忘れられたように残る古びた平屋の木造家屋に暮らす家族である。映画では、この擬似的な(嘘の)家族がどのようにして出来たのかというところは、あまり詳しくは語られていない。この擬制の家族の根っこを支えているのは祖母・初枝(樹木希林)の年金だが、彼女はそれと引き換えに独居老人という寂しさから救われているようだ。「誰にも気付かれずに死ぬのは嫌だからね」というようなセリフがどこかにあったと思う。
 もちろん、祖母を含めて6人の家族が生活するのに年金だけでは足りない。だから、家族はそれなりに働いてわずかな賃金を得てはいる。夫(父親)の治(リリー・フランキー)は日雇いの工事現場に出ているが、映画の序盤で足の骨を折って(ひびが入って)働けなくなってしまう(労災にはならないらしい)。妻(母親)の信代(安藤サクラ)はクリーニング工場でパートをしているが、中盤でリストラされて働き先を失ってしまう。亜紀(松岡茉優)は初枝の孫だったらしいが、マジックミラー越しに客と会話するJKリフレの店でアルバイトをしている(給料は入れていなかったようだ)。
 いずれにしても彼らにはきわめて貧しい生活しかなく、治は日常的に車上荒らしや万引きをして日々の生活に必要なものを入手している。万引きに同行するのは子どもの祥太(城桧吏)で、映画の冒頭に2人の連係プレイの様子が捉えられている。戦利品を抱えて夜道を帰る彼らが、道路に面した団地の外廊下で蹲って震えている(季節は冬なのだ)女の子を見かけ、家に連れ帰ってしまうというのがストーリーの始まりである。ゆりと名乗ったこの子(佐々木みゆ)を家族の一員とする経過が、この擬似的家族の成り立ちを想像させるものになっている。

 「可哀想だったから」というのが治の言い分なのだが、「もう少し金目のものを拾って来なよ」という信代の言葉には曖昧に笑うしかない。信代はそれでも温かいうどんなどを食べさせ、眠っているゆりを深夜に2人で返しに行くのだが、部屋の中から「産みたくて産んだんじゃない」と罵り合う夫婦の声が漏れてくるのを聞いて、ゆりの身体のあちこちに虐待の痕跡を見つけていた彼らは、この子を置いてくる気になれなくなってしまうのである。
 この映画の中では、幼児虐待や育児放棄といった問題も大きく取り上げられている。信代も子どものころに親から暴力を受けていたことが明かされているし、子どもの祥太もかつて駐車場の車内に放置されていたところを拾われた(救われた)のだということも明らかにされている。祥太はいまはこの家族にすっかり馴染んでいるように見えるが、治のことをお父さんと呼ぶことにはまだためらいがあることも描かれている。
 2ヵ月が経ったころ、テレビで5歳の女の子が行方不明というニュースが流れ、ゆりの姿が画面に映し出される。親戚に預けたという両親の言葉を不審に思った児相が問い詰めて、事件が明るみに出たのだった(虐待の事実は児相も把握していたということだろう)。治と信代はゆりに「帰るか?」と問うが、彼女はこの家族の元に残りたいと意思表示する。彼らはゆりに(実際はじゅりという名前だったようだが)りんという新しい名前をつけてやる。
 この時の信代の言葉が印象的だった。「自分で選んだ方が強いよね」と言って、「何が?」と聞かれると、照れたように「キズナよ、絆」と言うのである。

 彼らが祥太やりんに見せる父親ぶりや母親ぶりは、実生活で子どもを持てなかったからということもあるのかもしれないが、どんな現実の親子より真っ直ぐな思いに貫かれていたと思う。
 実際には、治は父親として祥太に万引きの仕方を教えてやるくらいしかできないし、信代と初枝もりんを連れて、子ども服売り場に服や水着を万引きしに行ったりするのである。もちろん、そんな親子関係があっていいはずはない。しかし、この家族が貧しい家の中に作り出していた、何とも居心地のいい暖かさは本物だったと認めるしかないだろう。狭苦しく足の踏み場もないような汚い部屋であっても、りんがそこで初めて安らかな日々を送ることができると感じたのはよく判るのである。
 家族で出掛けた夏の海水浴のシーンが何とも切ない。この家族が嘘の家族なのだということは、このあたりまでに観客にはほぼ伝えられている。だが、この一人一人が本当に切実に家族というものを求めていることが伝わってきて、痛いほど心が揺さぶられてしまった。
 水際で戯れる5人の姿を、離れた砂浜に座って一人見ている祖母・初枝の微かな笑みが印象的だった。映画では、間もなく彼女は、夜のうちにひっそりと死んでしまうのだが、葬儀費用のない彼らは遺体を風呂場の床下に「埋葬」してしまう。治と信代は初枝のへそくりを見つけて狂喜し、さらにその死を隠して年金を不正に受給し続けるのである。当然これらは、社会的には断罪されなければならない行為だが、なぜ彼らがそんなことをしたのかというところで、是枝監督は彼らを一方的に断罪するような立場にはまったく立とうとしていない。

 家族はこのあと、彼らが重ねてきた行為が知られてあっけなく崩壊してしまう。そのきっかけを作ったのは祥太の成長である。
 新たに家族になったりんは、歳の近い祥太に年中くっついて歩くようになる(この2人のシーンは見ているのが辛い。髪はボサボサだし、着ているものは薄汚れているし、映画というのはそれを映すだけで彼らの境遇をすべて明らかにしてしまうのだ)。祥太は自然に、りんに万引きの仕方を教えるようになるのである。だが、祥太が一人の時に時々万引きをしていた小さな雑貨屋(駄菓子も売っている)で、連れて行ったりんの万引きが見咎められてしまうのである。老主人は細いゼリー菓子を2本祥太に手渡し、「妹にはやらせるな」と小声で言うのである(柄本明・絶品の芝居)。
 このことがあってから、祥太の中で小さな疑問と罪悪感が芽生え始めたのだろう。治に連れて行かれた車上荒らしの現場で、彼なりの小さな正義感のようなものをぶつけたりするようになる。また別の時、りんと2人で出掛けたスーパーで、りんを外に待たせて一人で万引きをしに店内に入るのだが、後を追ってきたりんが品物に手をかけるのを見つけたところで、店員の注意を逸らすため積まれた品物を床にぶちまけ、夏みかんのネットを一つ掴んで外に駆け出すのである。
 祥太の中で、父親・治が教えた万引きを正当化する論理を超えて、雑貨屋の老主人が教えたことが大きな意味を持ち始めていたのである。彼は店員に追い詰められて、高い段差のある下の道路に飛び降りて足を骨折し病院に収容される。警察が前面に出て来て、家族は家族であることを証明できなくなってしまう。家族は祥太を病院に残したまま夜逃げを試みるが、結局見つかってしまう。

 彼らが作って来た「絆」は、突然直面させられた「社会」の前でいとも簡単に霧散してしまうのである。「祥太は後で迎えに来る」と治は言っていたが、警察に追い込まれて狼狽するしかない彼に、もう(擬似)父親ぶりを発揮する場面は残されていないのである(こういう役をやらせると、リリー・フランキーはホントに上手い)。警察の取り調べで、女性刑事に「子どもに何て呼ばれてたんですか」と問われ、(擬似)母親の信代は何も答えることができない(確か「何でしょうね」と言っていたと思うが、この長い沈黙の続くクローズアップで安藤サクラが見せた演技は見事なものだった)。
 取り調べの過程で、治が昔、信代の夫だか愛人だかを殺して埋めていたらしいことが明らかになるが(服役したのかどうかははっきりしない)、今回の死体遺棄と年金詐取の罪は治が絡むと面倒になるので、信代が単独で背負って刑務所に入ることになる。「(家族の生活が)すごく楽しかったんだから、ぜんぜん気にしていない」というような言葉を、彼女は治に向かって言っていたと思う。
 松岡茉優がやった亜紀のことはほとんど触れていないのだが、家を出てここに転がり込んだらしい彼女は、祖母には愛されていると思い込んでいたが、祖母が定期的に実家を訪ねて金をせびっていたことを知って、裏切られた思いに駆られたりしている。いずれにせよ、祖母が死んだあとは彼女がこの家族とともにいる理由はなくなっており、彼女はこの先、一人で何とか生きていくことになるのだろう。
 報道されたテレビニュースが映し出されるが、それによれば、2人の子どもたちは助け出されたのであり、法律に則って保護されることになったのである。

 時が経ち、また冬が来たころ、施設に入って生活するようになった祥太が治に会いに来て、一人住まいのアパートに一晩泊まっていくエピソードが最後に置かれている。夜、雪が降り、二人はアパートの前の路地で小さな雪だるまを作ったりする。翌朝、雪はすっかり上がっていて、雪だるまはもう溶けかかっている(見え透いた小道具などと言うつもりはない)。バス停に向かって歩きながら、治は祥太に「俺、おじさんに戻るから」と言うのである。祥太が乗り込んだバスが発車すると、見送っていた彼は突然走り出してバスの後を追うのである。もちろん追いつけるはずもないのだが、車中でそれを見ていた(見るのを途中でやめた)祥太は、唇で小さく「お父さん」と言ったのだろうか。
 いずれにせよ、ここにははっきりと成長の跡が見える祥太がいた。彼は確かにこの擬似家族に救われたが、そこでの生活を通り抜けて一歩前に踏み出したのだ。父親役を必死に演じた治だけが、一人取り残されてしまったのだ。
 りんの場合はどうだったのか。映画のラストシーンは、団地の1階の外廊下で一人で遊んでいるりんの姿を捉える。少し前には、室内で母親に邪険に扱われる姿も描かれていた。虐待は少しは治まったと信じたいが、彼女は本当の家族の元に帰って幸せになったとはとうてい思えないのである。ふと遊びの手を止めて、手すりに寄りかかって遠くを見やるような彼女のカットで画面はプツンと暗転する。彼女はあの擬似家族との日々を思っていたのに違いない。だが、いまの日本社会にそんな家族を許容する余地はあり得ないのだ。たぶん、そのことを是枝監督は怒っているのだと思った。

 つい先日見た「フロリダ・プロジェクト」のことを思い出した。また、つい最近板橋で起こった幼児虐待死の事件を思い出した。子どもはどういう親の元に生まれるかを自分で選ぶことはできないという事実の残酷さ。だからこそ、寓話に過ぎないと笑われたとしても、「自分で選んだ方が…」という信代の言葉はとてつもなく深く重い。自分で選ぶことができなくて、たった5歳の子どもがあんな悲しい日記を残して死んでしまったのだ。この子の家の前を「万引き家族」が通りかかることはなかったのだ。それは悔しいことである。
 たぶん数年と思われる刑期を終えて、出獄した信代がまた治と一緒に生活するようになって、りんとまた新しい擬似家族を作る未来はないのだろうか、などと考えてしまった。映画はフィクションなのだから、そんなことを考えてしまう余地は残されている。この家族を卒業した祥太や亜紀も、時々は遊びに来ることもあるのではないか。そのくらい忘れ難い「絆」を、この家族は作っていたのだと感じた。
 パルムドールを取ってしまったから言いにくいが、たぶん今年のベストワンになる映画だと思った。
(イオンシネマ日の出、6月11日)

by krmtdir90 | 2018-06-13 17:29 | 本と映画 | Comments(0)

映画「早春」

e0320083_11381888.jpg
 この映画は1970年製作のイギリス映画(西ドイツと合作)である。日本公開は1972年だったが、その後、なぜか上映機会もなくソフト化もされなかったので、まったく見ることが叶わない伝説の映画になってしまっていたようだ。最近ようやくデジタルリマスター版が作られ、今年、45年ぶりの再公開が実現したということだったらしい。
 わたしは初公開時の72年にこれを見ているのだが、強烈な印象を受けた記憶だけは残っているものの、今回の再見で、ストーリーの細部などはほとんど忘れてしまっていたことが判った。だが、シーンとして鮮明に甦ってくるところもあって、これは時が経過してもまったく色褪せることがない、(青春映画と括ってしまうことには抵抗があるが)いま見ても非常に新鮮で瑞々しい傑作であることが理解された。

 監督のイエジー・スコリモフスキは1938年生まれの(今年で80歳だ)ポーランド人で、映画監督となった後は社会主義国ポーランドを離れ、主にイギリスに拠点を移して映画製作を行うようになっていたようだ。同様の軌跡をたどった先人に「反撥」(1965年・イギリス映画)のロマン・ポランスキー監督がいるが、彼の処女作「水の中のナイフ」(1962年・ポーランド映画)で、スコリモフスキは共同脚本に名を連ねていたのである。
 わたしにとっては、これらポランスキーの先行映画、特にイギリスに渡って最初に撮った「反撥」の何とも言いようのない不穏な空気が強く印象に残っていて、この「早春」を観た時にも、それに通じる不穏な気配を感じ取っていたのだと思う。もちろんこの2作には何のつながりもないのだが、ストーリー全体を支配する張りつめた緊迫感や、観客の生理に直接訴えてくるような画面作りの様々な技法とかが、どことはなしに似ているような感じがしたのである。
 当時、ポーランドを始めとする東欧諸国に関しての情報は極端に少なかったから、これらの映画の背景に、わたしは舞台となったロンドンよりも、ポーランドという国に感じる何となく暗いイメージを受け取ってしまったのかもしれない。同じ感じは、先日見たポーランド映画「ゆれる人魚」(2015年)にも通じるものがあったように思う。この映画が、1980年代の(社会主義下の)ポーランドを描いていたからだろうか。

 ただ、「反撥」は内容的にも暗いベクトルを持った映画だったが、「ゆれる人魚」やこの「早春」は決して暗いだけという映画ではなかった。むしろ、暗い方向に向かおうとする要素と、奇妙な明るさに向かおうとする要素とが混在している印象があって、題材としてはコメディ的に処理されるような要素も含まれているのに、それが簡明な明るさには向かわずに、複雑な湿り気を帯びた暗い塊に変質しているような感じがしたのである。
 「早春」は一言で言えば、15歳の(童貞の)少年マイク(ジョン・モルダー=ブラウン)が、奔放な(蓮っ葉なと言った方がいいか)年上の女性スーザン(ジェーン・アッシャー)に一方的な恋心を抱き、その思いが急激に制御不能になっていき、最後には思いがけない悲劇を招いてしまうという映画である。制御不能になるという点では「反撥」のキャロル(カトリーヌ・ドヌーブ)や「ゆれる人魚」の人魚姉妹と共通しているのだが、「早春」のストーリーはそれらと比べるとずっと普遍性があり、マイクが陥る制御不能は、性を目前にした思春期の少年に特有な熱と危うさを反映したものとして、心理的には非常に共感できるものになっているのである。
 そういう意味で、イエジー・スコリモフスキはきわめて正統的な映画を撮ろうとしているのであって、ポランスキーやアグニェシュカ・スモチンスカ(「ゆれる人魚」)に感じられる異常さとは明らかに一線を画しているのだった。「早春」は、思春期の初恋の何とも切ない心理を、少年の側に寄り添って描いた映画と言っていいのだが、誰もこんなふうにそれを描いた監督はいなかったということである。これは確かに、ただ一本で屹立している凄い映画だったのだ。

 マイクは15歳で学校を中退し、ロンドン市内にある公衆浴場の接客係として働き始めるという設定になっている。スーザンはそこで出会った先輩接客係なのだが、ここには接客係は彼ら2人の他にはいないように見える。そもそも公衆浴場というのが初めて見るもので、日本の銭湯などとはまったく違った施設なのは見ているうちに判ってくるが、そういうところに雇用されることは人々にどんなふうに見られ、マイクやスーザンたち当人にとっては、どんな意識で受け止められているものなのかが気になった。決して明朗な仕事とは思えなかったからである。
 また、15歳と言えばまだ義務教育の途中ではないかと思われるが(こういう時点で中退するのはかなり重大なことに違いない)、マイクがどういう事情で学校を辞めたのかも気になった(映画はそのあたりのことをまったく描いていない)。数日後に、彼の両親が客として浴場を訪れるシーンがあるが、お互いごく普通の会話を交わして、その中に彼がマザコンではないかというような雰囲気を漂わせるのも不思議な気がした。マザコンの気配を引き摺っていてもかまわないが、中退という事実がこの家族にはまったく影を落としていないように見えたのが理解できなかったのである。
 そういえば、この映画は自転車で通勤するマイクの姿は何度も映し出すが、彼らの家庭やそこでの生活の様子、彼のこれまでの人間関係などについてはまったく描こうとしていないことに気付くのである。スーザンの私生活は、婚約者がいるにもかかわらず他の男と関係を持っていることなど、かなり踏み込んで描いているのだから、マイクのプライベートがまったく見えて来ないのは、明らかにスコリモフスキ監督の意図的な作戦と言っていいはずである。

 マイクが中退した時の体育教師(担任?)も登場し、この浴場の常連らしい彼とマイクが、妙に馴れ馴れしい会話を交わすのも不思議である。この教師は、浴場のプールに女生徒たちを引率して来て、自信たっぷりにセクハラ気味の指導を展開したりするのだが、やがてこの男が、家庭がありながらスーザンと不倫関係にあることも明らかになって、マイクはそれを妨害しようとして動き回ることになる。妨害と言っても、それは笑いたくなるくらい馬鹿げたおせっかいなのだが、この映画はそれを笑ったりすることはなく、むしろ彼の泣きたいような必死さに共感しようとしているように見えたのである。
 マイクはスーザンに婚約者がいることも気に入らないのであり、それら大人の男たちを向こうに回して、何とかスーザンの気を引きたい(独占したい)という気持ちを募らせていく。筋の通った説明などはとてもできない、どう見ても支離滅裂で滑稽な横恋慕に過ぎないのだが、この映画は彼のそうした不器用な行動の一つ一つを、突き放すのではなくむしろ寄り添うような視線で拾い上げていくのである。見る側としては、すでにはるか昔のことになってしまっているが、このほろ苦く思い通りにならない感じというのは、多かれ少なかれ誰しもが通ったことのある迷路だったと思い出させられるのである。
 この映画の素晴らしいところは、そういうことを説明的に示すのではなく、有無を言わせぬかたちで、こちらの感性に直接訴えてくるような描き方をしていることである。つまり、スーザンやその相手の男たちは、常にマイクの視線と感情に差し違えられるように存在しているのであって、スコリモフスキ監督はマイクの側のそうした事情だけをこの映画に定着させようとしている。マイクのプライベートが捨象されているのはそのためであり、この映画の中でマイクは、ただスーザンの前で制御不能になってしまう精神性においてのみ存在させられているということなのである。

 この映画は月曜日の朝に始まり、週末の日曜日から次の月曜日の早朝まで、ちょうど一週間の出来事を描いている。週の半ばから、マイクは終業後のスーザンを尾行するようになるのだが、それは気付かれないようについて行くというのではなく、むしろ自分の存在を彼女に気付かせて、彼女と男たちの行動を邪魔しようとするものである。
 スーザンの相手は一日置きになっているようで、木曜日は婚約者と映画へ、金曜日は体育教師と車で、土曜日は婚約者とナイトクラブへ、日曜日はまた体育教師と、といった具合なのである。スーザンは婚約者とは気持ちがすれ違うことが多く、体育教師とは逆にきわめて親密に、直截なセックスを求め合う関係になっているように見える。15歳のマイクがこうした大人たちの事情をどこまでイメージできているのかは定かでないが、彼が囚われる胸騒ぎは切実なものである。
 マイクの妨害は様々なかたちを取るが、その一つ一つが何とも向こう見ずで危なっかしく、彼の切ない一途さを表していて胸に響く。木曜日には、映画館で婚約者と並んだスーザンの真後ろに席を占め、前の2人にちょっかいを出して騒ぎを起こしたりする。その一部始終の中で、スーザンの思わせぶりな対応がまた彼の心にいっそう火を点けてしまう。だが、彼の行動そのものはいかにも子どもじみていて笑ってしまうようなものなのが悲しい(ついでながら、ここで上映されている成人映画が、性教育映画を謳ったいかにも時代物といった感じのモノクロ映画で、45年前はこんなものだったかと笑いたくなってしまった)。
 翌日の晩の体育教師の車に対しては、マイクは自転車をぶつけて進路を妨害するのだが、教師が怒って車を降りた時、替わって運転席に座ったスーザンが、車を容赦なく自転車にぶつけて壊してしまう。この時のスーザンはマイクのしつこさをはっきり拒絶していて、これからセックスに向かう彼女にとってマイクはただ厄介なだけの邪魔者に過ぎないことを表している。それがまた彼の気持ちをかき乱し、いっそう彼女に向かわせていくことになっているのである。

 浴場は土曜日は早仕舞いになるようだが、この日の浴場では、スーザンが仲の悪い会計係の女に嫌がらせをするシーンはあるが、マイクとの関わりは描かれていない。代わりに、マイクの元ガールフレンドが彼の控え室に突然現れ、これまで拒絶していたセックスをしてもいいと匂わせたりする。また、給料を持って来た会計係の女が、彼をあからさまに誘惑するようなシーンも描かれている。いずれもマイクの心を動かすことにはならないが、こうしたことが、彼の中でスーザンへの思いを募らせ、どうにもならない焦燥感と苛立ちをいっそう高めるように作用しているのである。
 この日は婚約者と婚約指輪を選んだ後、食事をしてナイトクラブに行くと言っていたスーザンを追って、彼は当然のようにそのナイトクラブに出没し、隠れながら2人が出てくるのを待つのである。東洋人がやっている屋台でホットドッグを繰り返し注文し、ぱくつきながらただ待つしかない彼に、嫉妬以外の何らかの成算が見えているわけではまったくない。
 翌日、粉雪が舞う日曜日の昼間に、体育教師が生徒のマラソン競技に立ち会っていて、それが終わるのを待っている愛人然としたスーザンの姿を見て、突然マイクが教師の制止を振り切って生徒に交じって走り出すのには驚かされる。もちろん彼の行動に意味などはない。彼の思いは行き先を失ったまま、どこへ向かうのか自分でも判らないまま暴走するしかないのである。
 土曜日から日曜日にかけて起こったことは、ここに細かく書いても仕方がないことだろう。ここで起こったことは、すべてマイクが後先考えずに起こしてしまったことなのである。マイクの中のどうにも止められなくなってしまった不穏な心理状態を、映画はたぶん、成り行きとしてそうなることは仕方がなかったというふうに描いている。スーザンの殺害も、殺意などはまったく意識されないところで、まるで想定外の間違いだったように起こってしまうのである。だが、それは間違いなく彼が起こしてしまったことであり、その瞬間にすべては取り返しのつかないこととして、彼の中に最も残酷なかたちで刻印されることになるのである。

 土曜日の晩に、マイクがナイトクラブの外で2人を待ちながら、近隣のストリップ劇場の入口にスーザンそっくりの等身大の立て看板を見つけ、それを盗んでしまってからの一部始終は印象的である(見事な語り口と言っていい)。婚約者と別れたスーザンを彼は地下鉄の中まで追って行き問い詰めるが、彼女は迷惑がるばかりで、それが自分であるかどうかははっきり答えない。彼女は完全に怒っているが、彼は自分の思いに突き動かされるばかりでそれが判らず、周囲の乗客の冷たい視線も目に入らないくらい興奮している。
 結局、疑いは晴れないまま、この後マイクは(家には帰らず)公衆浴場に向かい、無人のプールに看板を投げ込むと、全裸になって水に飛び込み(おずおずと、というふうにわたしは感じた)看板に抱きついていく。一緒に水中に入ったカメラは、青白い光の中でその看板が一瞬スーザンの身体と入れ替わるところを捉える。切なくも美しい、記憶に残る名シーンである。
 ほぼ同様の水中ショットが、ラストシーンでもう一度繰り返される。だが、その時水中にあるのは看板ではなく本物のスーザンの身体である。マイクはスーザンを抱きながら水中を漂うが、彼女の後頭部から流れ出す血がブールの水を徐々に赤く染め上げていくのである。映画の冒頭とこのラストには、キャット・スティーヴンスの歌う「今夜ぼくは死ぬかもしれない」というフレーズが大音量で重ねられている。冒頭(タイトルバック)のそれも衝撃的だったが、ラストのそれはストーリーの悲劇性を高めて圧倒的なものがあった。
 日曜日の午後から夜にかけて、水の抜かれたプールの底でマイクとスーザンが展開した経緯についてはまだ触れていないのだが、もうそれでいいだろうと思う。鑑賞してからすでに日にちが経ち過ぎているし、感想文としても長くなり過ぎている。だが、こうしてこの映画と向き合っていると、これは確かに記憶に残る凄い傑作なのだという思いがどんどん強くなっている。
(ユジク阿佐ヶ谷、5月4日) 
by krmtdir90 | 2018-06-09 11:39 | 本と映画 | Comments(0)


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
ブログジャンル