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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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熱海・箱根(2014.11.26・27)

 妻と熱海の温泉に行って来た。伊豆の方に行く時、海岸沿いの道を何度となく通過しているのだが、立ち寄ったことはなかった。代表的な温泉地なのだし、一度ぐらい泊まってもいいかなと。
 ただ、ブログで報告するようなことではない感じがして、載せないつもりでいたが、このところ更新がちょっと途絶えているので、まあちょっと載せておくかと思ったのである。

 26日は生憎の雨模様だったが、熱海に着く頃はほとんど止んでいた。
 で、これが寛一お宮の像。あまりにも有名だけれど、出典となった尾崎紅葉の「金色夜叉」を読んだ人がどれくらいいるのだろうか。もちろん、わたしも読んだことはない。
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 沖に初島が見えている。
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 海岸通りに並ぶホテルなどはいかにも閑散としていて、裏通りを少し歩いてみたが、昔は栄えた時代もあったのだろうと思われる飲み屋やバーなどが軒を連ねた小路も、いまはその痕跡が窺えるというだけで、この突き当たりのビルは完全な廃墟になっていた。
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 われわれが泊まった宿はやや高台にあったが、やはりお客はほとんどいない様子で、大浴場などは貸し切り状態でよかったが、経営は相当厳しいものがあるのだろうと少し心配になった。

 27日は、雲はあるものの日射しが覗いてホッとした。
 旅館のベランダから。初島に向かう連絡船と思われる。
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 伊豆半島は何度も走っていて飽きたので、箱根・芦ノ湖の方に抜けることにした。しばらくの間は霧の中をヘッドライトを点けて走る感じだったが、やがて霧も晴れて、芦ノ湖スカイラインを走る頃には富士山も姿を見せた。
 杓子峠(1030m)からの富士山。手前の雲が上がってきて、数分後には全く見えなくなってしまった。
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 スカイラインからの芦ノ湖。
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 三国峠(1070m)からの富士山。
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 元箱根・桃源台の方へ下りた。
 湖尻からの芦ノ湖。遊覧船には乗らなかった。
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 箱根園から駒ヶ岳ロープウエイに乗った。
 山頂駅にて。
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 展望台からの芦ノ湖の眺め。
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 雲の向こうに見えるのが伊豆半島の山々。
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 駒ヶ岳神社に向かう。ロープウエイの山頂駅は異常に高さのある建物で、右手に富士山も見えているが、存在感では富士山をも凌いでいるように思われた。
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 駒ヶ岳山頂(1356m)の駒ヶ岳神社。
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 再び湖畔に下りて、小田急・山のホテルで昼食。庭園の向こうに富士山。午後になって、雲もすっかり取れた感じである。宝永火口がよく見えている。
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 庭園の紅葉は少し盛りを過ぎた感じだったが、午後の日射しを浴びてけっこう美しかった。
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 最後に箱根神社に参拝して、その後は国道1号線、箱根駅伝のコースを下って帰路についた。おしまい。
by krmtdir90 | 2014-11-30 15:35 | その他の旅 | Comments(2)

代田橋で「くっぱ」の芝居(2014.11.20)

 王子の芝居からまだそれほど経っていないのに、卒業生の「くっぱ」からまたメールが届いた。代役ということで急遽出演が決まった芝居だという。場所は京王線の代田橋駅、今年の3月、にわか雪に降られて行った「スタジオこるれ」という極小のスペース。桟敷を一列追加していたが、それでも50人は入らないだろう。昨日は雨に降られた。
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 演劇集団・東京ジェームスマリリン社・第4回公演「スタヂオアパートメント」という作品。メールでくっぱが「人間らしい役です」と書いていた通り、今回はちゃんとした芝居!をやろうとしている集団だった。見に行ってよかった。くっぱの役は、キャスト表のトップに名前が出ているヒロインで、代役とはいえなかなかやり甲斐のありそうな役だった。

 この集団に期待するという意味で、少し厳しいことを書く。
 台本としては、男性作者の書いた「懲りない男たち」を中心とした芝居で、それでもヒロイン西園寺は重要な役どころである。だが、残念ながらこの役についてはあまり書けているとは言えないと思った。男性作者というのは、まあ男はそれなりに書けても、女を書くのはなかなか難しいものがあるのだろう。
 くっぱはよく演じていたと思うが、けっこう苦労したところもあったのではないだろうか。西園寺という役が、作者の中であまりきちんと造形できていないような感じで、セリフももう一つ面白く書けていない。それでも、この役は誰でもやれる役ではなく、華のある役者でないと務まらない役だと思った。くっぱにはできる役だったと思う。

 作者の力量も関係するが、最初からくっぱが演じることが決まっていたら、作者としてはもう少しこの役を書き込む気になったかもしれない。書き込んで欲しい気がした。元からのアパートの住人たちに比べても、台本として西園寺は弱い。
 だが、率直に言ってしまえば、全体としてもそれぞれの役にふくらみは足りない感じがした。それぞれが引きずっている過去が、それぞれのいまをどう屈折させているのかというところが、どうもうまく書き切れていないのではないだろうか。作者はもう少し台本修行が必要だと思った。どういうふうに書けば、それが表現できるのか。先日わたしが紹介した平田オリザの「演劇入門」なんて、読まないのだろうか。

 だが、この集団がやろうとしていることには好感が持てたし、役者たちもそれぞれの役にきちんと取り組んでいて、そういう意味では楽しく見ることができたと思う。
 石倉役の中村くん、稲田(母?の方)役の森川さんなど、自然な芝居でとてもよかった。他の役者も(役名が結びつかないので申し訳ない)それぞれよかった。ただ、多治見役の貝森くんは、ある程度の年齢でこういう感じの人もいないわけではないと思うが、やはり少々若すぎる(青臭すぎる)感じがして、年齢から来る疲れのようなものがもう少し表現されないと、キャラクターとして違和感は最後まで消えなかった。

 くっぱは少し可愛くやりすぎたのではなかろうか。この役も年齢相応の疲れといったものが滲んでこなければまずい役なので、何と言えばいいのだろう、もう少し可愛さが擦り切れている感じになるとよかったような気がする。何だか難しい言い方だな。
 でも、久し振りにくっぱの自然な表情の芝居を見ることができて(表情を無理に作るような芝居が続いたからね)楽しかった。くっぱはやはり、こういう集団で芝居をやった方がいいのではないかと思った。がんばれ。
by krmtdir90 | 2014-11-21 09:28 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

追悼・高倉健(続き)

 今朝(20日)の毎日新聞に、「駅STATION」の脚本を書いた倉本聰氏がインタビューに答え、高倉健の思い出を語るという記事が載っていた。その中で、「駅STATION」の制作秘話とも言うべきエピソードが紹介されていた。

 映画の終わり近く、健さん扮する刑事・三上が桐子のアパートに踏み込み、桐子の元情夫で指名手配中の殺人犯の男を成り行きから射殺することになる。事件が決着して増毛を去る三上が、互いに思いを寄せた桐子の居酒屋の前を通り過ぎることができず、躊躇いながらも立ち寄って桐子に無言で拒絶されるシーン。健さんと倍賞千恵子のすばらしい演技が見られるシーンだが、撮影時には健さんともめたシーンだったというのだ。
 記事を引用させていただく。

 健さんは「店には絶対入れません」と言うんです。困って「この男は健さんのように強くない。よりを戻せないかと考えちゃうんです」と説得しても、黙り込んで、やっぱり「入れません」と。結局押し切ることになって、しばらく口をきいてもらえませんでした。
 店に入るべきじゃないし入らない方が潔い。でもやっぱり入ってしまう男の弱さを描きたかった。「健さん」を崩したくなかったのだと思う。高倉健という人格の中で役作りをしていたのでしょう。

 いい話である。映画としては倉本聰の書いたもので良かったと思うが、「入れません」と言った健さんの気持ちもよく判る気がする。最終的に、意に沿わなくてもきっちり演じ切ってしまう健さんも凄いし、健さん相手に譲れないところは譲らなかった倉本も凄いと思う。それが結果として、倍賞のゾクッとするような名演を生んだのだと思った。
 「駅STATION」は名作だと思う。追悼企画で、22日午後6時半からBS-TBSが放送することになったらしい。
by krmtdir90 | 2014-11-20 12:44 | 本と映画 | Comments(0)

追悼・高倉健(映画「駅STATION」)

 週に一度やって来るヤクルト屋のお姉さんが教えてくれた。高倉健が死んだの知ってますか。えっ。スマホで少し前に知ったと言う。重大ニュースは知らせてくれるようになっているらしい。誰かに言わずにいられなかったのだろう。判る。健さんのどのあたりからのファンだったのだろうか。
 正午のNHKニュースを見た。当然トップの扱いだった。83歳だったという。
 夜7時のニュースではトップではなかった。健さんの映像と並ぶと、安倍という人間の嘘くささが一層際立つ感じがした。何を喋ろうが、おまえの言っている言葉の空疎が透けてくるばかりだ。日本人はいつ頃からか嘘の見抜けない流されやすい人々になってしまったように見えるが、健さんの前ではみんな違うのだ。安倍よ、そのことを軽視しない方がいい。

 きょうの午後は一人で留守番だったので、数年前録画したままにしていた「駅STATION」をテレビで見た。1981年の映画だった。このころはまだ映画を浴びるほど見ていた。恐らくこれも公開時に見たはずだが、その後もテレビ放映された時に一度くらい見たことがあったかもしれない。いつか映画を見なくなり、レンタルビデオで映画を見るということもなかったから、もう十数年というもの映画からは遠ざかったままである。

 わたしは、実は「幸福の黄色いハンカチ」も「遙かなる山の呼び声」も見ていない(寅さんは認めるしかないが、山田洋次は好きな監督ではなかった)。最新作(2012年)「あなたへ」も見ていない。見ていないのに決めつけてはいけないかもしれないが、何となく「そういう」健さんはあまり見たいと思わなかったのだ。
 東映時代の「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」といったヤクザ映画は見ているが、シリーズのうちどれを見ているかは覚えていない。「飢餓海峡」や「新幹線大爆破」なども見ているが、これは健さんだけの映画ではない。東映をやめてからの映画もかなり見ているが、結局この「駅STATION」と「鉄道員(ぽっぽや)」が双璧だったと思う。

 どちらも北海道の駅が出てくるが、もちろん当時は特に鉄道に興味があったわけではない。今回この「駅STATION」を見返して、最初のエピソード「直子」との別れのシーンが、函館本線の銭函駅だったことを知った。ほぼ一年前に銭函駅を訪れた時、この映画のことは全く浮かんでこなかった。映画を見た時は、それがどこの駅かは意識されなかったのだと思う。
 しかし、このいしだあゆみは鮮明に記憶に残っている。記憶に残る名シーン・ベストテンに入れてもいい気がした。そうか、これは銭函駅だったのだ、そしてこの海はあの海だったのだ。

 二番目のエピソード「すず子」と三番目のエピソード「桐子」の舞台になったのが、留萌本線の終着駅・増毛であるのは覚えていた。留萌本線に乗りに行ったのは一年半ほど前だが、増毛駅前の風待食堂はこの映画の記憶と確かに結びついていた。実際にそこに行ったあとで見ると、映画のシーンが妙に生々しく切ないものに感じられた(駅舎の様子などは映画とはかなり変わっていたが、ホームと線路の感じなどはほとんど変わっていないと思った)。
 「すず子」の烏丸せつこも印象的だったが、やはりメインストーリー「桐子」の倍賞千恵子は素晴らしかった。八代亜紀の「舟歌」がテレビから流れる小さな居酒屋のカウンターで、健さんと桐子が見せる芝居は記憶に残る名シーン・ベストファイブに入るものだろう。今回見返してみて、このあともこの二人の演技は全く目が離せない感じで、刑事・三上ということが明らかになったあとの倍賞の芝居は研ぎ澄まされて凄いの一言だと思った。

 「駅STATION」という映画は、この年のキネマ旬報ベストテンでは4位だったようだ。調べてみると、1位「泥の川」、2位「遠雷」、3位「陽炎座」。わたしはどれも見ていて記憶にもあり、なるほどなという気もするが、いま見返せば「駅STATION」がわたしには断トツのトップになるような気がする。たぶん、若い頃はもう一つこの映画の良さを判らなかったのではないかと思った。
 監督は降旗康男、女性陣の印象が鮮やかな映画だが、健さんの存在があって初めて彼女たちが際立ったのだと思う。この映画、見終わると同時に、すぐもう一度見直したい気分になっているのである。

 それにしても、高倉健、死んじゃったんだ。
by krmtdir90 | 2014-11-18 23:01 | 本と映画 | Comments(0)

高校演劇2014⑬埼玉県大会(2014.11.15・16)

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 15、16の2日間、今年も高校演劇の埼玉県大会を観に、与野本町のさいたま芸術劇場に行ってきた。10校すべての舞台を見せていただき、審査員講評と結果発表を聞いてから、いつものように仲間と飲みに行って楽しい芝居談義の花を咲かせた。

 審査結果はみんなの予想外のものだったが、地区大でわたしが選んだ所沢の「ぽっくりさん」が3位(優秀賞2席)に入ったので、その点だけはホッとしたと言うか、評価の分かれた地区審査の中でこれを推した面目が立ったような気がした。
 1位(最優秀賞)になった春日部女子の「お葬式」については、基本的に所沢の舞台と同じ観点での選出だと思うので、どちらを上と見るかはわたしと逆の評価だったが、それならそれで、どうしても認めがたい判断とは言えないと思った。所沢の舞台は地区大の時の方が良かったと思っていたので(危惧していたやり取りのパターン化が少し出てしまった)、わたしとしては入賞は難しい気がしていたから、それでもうまく踏み止まることができたということだったのだと思った。

 問題は今年も秩父農工科学だった。「D-パラダイム」。まず、台本が単なる思いつきの域を出ておらず、時代状況をどう捉えるのかという点でも、だからどうなの?というところに全く踏み込んでいないと思った。母と娘、その飼い犬の設定や描き方も類型的というほかなく、荷台の中の犬たちや終わり近くの高校生たちの描き方も、えげつなく下品なばかりで、やればやるほど作られたリアルの無理が目についてしまった。
 セリフにも品がなく、そういうセリフを言わせたりそれに付随する動きをやらせたりすることが、台本として必然性を持っているのか疑わしいと感じた。この程度の薄っぺらな中身の本で、こんなことを生徒たちにやらせるべきではないと思った。
 一点だけ、具体的に指摘しておく。終わり近く、高校生たちの会話で合コンの相手として筑波大坂戸の固有名を出したところ。当然了解は取っているのだろうが、そういうことではなく、なぜ筑坂を選んだのかというところで、わたしは農工の(作者の)傲慢を感じるのである。なぜその他の学校名ではなかったのか。なぜ架空の学校名ではなかったのか。筑坂の名前を利用した瞬間に、この生徒たちは筑坂とそれ以外のすべての無名な学校の生徒たちを差別し傷つけたのではないだろうか。県でトップを争う演劇部だからこそ、これは許されない傲慢だと感じたのである。

 もう一点、秩父農工科学に関わる審査員の問題があった。上演順が最後だったので審査員講評も最後になったが、その内容は非常に違和感を覚えるものだった。ここだけ、上演された舞台に対する言及がほとんどなく、突然この学校の舞台作りの総合的力量が高いことへの賛美になってしまった。この伝統を引き継いで来年も頑張って欲しいというような、今回の舞台とは直接関係がない一種異様な言い方になっていたのである。これは何だったのだろう。
 わたしは今年の舞台を評価していなかったので、審査員がどういう点を評価したのか聞きたかったのだが、アクチュアリティがどうとか抽象的な言葉は使われたが、入賞させた理由については総合的力量のほかは全く触れていないに等しく、もちろんなぜ1位でなく2位だったのかという点も判然としなかった。何か審査員が核心を避けているような気がした。
 ここから先は勘ぐりのようになるが、お金をもらって県外から審査に来ていると、県内の事情のようなものに遠慮のようなものが生じてしまって、埼玉の場合、秩父農工科学は毎年関東に駒を進めている本命校だから、問題があっても落とすわけにはいかないということになったのではなかったか。上演された舞台の具体的な内容には踏み込まず、舞台作りの総合的力量に判断基準をすり替えることで、審査員はこのあたりを切り抜けたように見えて仕方がなかったのである。

 さて、わたしの中で今年の1位は川越の「いてふの精蟲」だった。何よりも、正攻法で堂々と劇世界を組み立てようとした作者の志の高さと潔さに感心した。芝居の中身に合わせて、居住まいを正し「感銘を受けた」という言い方にしたい気分である。終わり近く、平瀬と牧野が交互に「くそ食らえ」と叫ぶシーンでは、思わず目頭が熱くなった。
 演技はお世辞にも巧いとは言えないと思った。セリフも滑舌は悪く、早口になってしまって聞き取りにくくなってしまうところも多かったが、中心をなす3人が舞台上に作り出す空気がすばらしく、脇役も含め仕草や動きに細かい目配りが見られて、何とも魅力溢れた劇空間を作り出していたと思う。達者でないからこそ生まれる素朴な雰囲気というものがあり、とびきり好感度の高い舞台になっていた。巧くないから生まれる魅力というのがあるのである。
 作者(顧問)は生物の先生だそうだが、当然のことながら男子しかいない川越演劇部の生徒がどうすれば生かせるかを、非常に温かく考えて書かれた作品だと思った。顧問の勝手な都合で生徒を振り回してしまう顧問創作も多い中で、ほとんど1年生ばかりのメンバーでここまで作れたのは大したものである。トップクラスの進学男子校でも、演劇をなめるなと言ってやりたいような悪ふざけでいい気になっているところもあることを考えると、今回の川越の舞台成果は特筆すべきものだと思った。

 地区大でわたしが選んだもう1校の舞台、入間向陽の「恋待駅」はどうだったか。見事な舞台造形は緞帳が上がった瞬間に客席のため息を誘ったが、入賞に届くためにはやはり芝居の作り込みが足りなかったということになるのだろう。顧問のNさんとは飲みながら話したことだが、台本に書かれた(Nさんが書いた)セリフと役者が喋っているセリフとの間に乖離があるというわたしの印象は、今回の舞台でも是正されていないと感じた。
 結局、Nさんや入間向陽の生徒に染みついたカラーとでも言うべきものが、思った以上に強固に存在しているということかもしれないと思った。昨年もそうだったが、セリフのやり取りからもっと生まれていいはずの笑いが取れないという点を克服しないと、「ヒトえもん」「終わらぬ花火」「恋待駅」といった本で県大の先に抜けて行くのは難しいだろうと思った。「ポリエンヌ」のような動きのある芝居では抜けたけれど、ちゃんとしたセリフで組み立てられたこの3本のような芝居で、入間向陽には上の大会に進んでほしいと願っているのである。

 あと、筑波大坂戸の「赤と黄色とアルパカちゃん」。どんどん解りやすくなってきたが、そのせいなのかどうなのか、シーンの相乗効果というか、筑坂らしい破天荒なパワーが感じられない舞台だったと思う。春から注目していた「黄色」の男子を始め、全体の個性も強化されてはおらず、例によって芝居運びのテクニックは相変わらずだが、何となく淡々と終わってしまったような気がして残念だった。依然として壁に突き当たっていて、突破口が見出せていない印象を受けたのである。

 こうして、今年も演劇の季節が終わった。いつも行っていた飲み屋さんが今年は満席で、新たに開拓した(農三のFさんはこのあたりのお店も知っていて、その先導にしたがって)お店がここ。地酒もけっこう置いてあって、なかなかいいお店だった。
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by krmtdir90 | 2014-11-17 17:05 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(7)

「わかりあえないことから」(平田オリザ)

 この本を購入したのは先週の土曜日(8日)である。読み終わってから、以前読んだことのある平田オリザの本を再読してみたくなり、「演劇入門」「演技と演出」「現代口語演劇のために」の3冊を部屋から探して読んだ。やはり面白かった。
 感想を書こうと思って、きょう何気なしにインターネットで平田オリザを検索してみたら、全く思いがけない状況になっていた。先週の水曜日(5日)に、あの「幕が上がる」がももいろクローバーZの主演で映画化されたことが発表されていたのである。検索ワードに「平田オリザ・ももクロ」が並んでいるなどというのは予想もできなかった。

 「幕が上がる」が映画化されるらしいという噂はあったが、どこからも具体的な情報が出てこないので間違いなのかと思っていた。人気アイドルグループの主演ということなので、撮影が終わるまで各方面に箝口令が敷かれていたらしい。公開は来年の2月28日、問題?の吉岡先生役は黒木華だという。知らなかった。
 わたしはもう年だから、ももいろクローバーZというグループについては、あの田中将大投手がこのグループの大ファンらしいというのは知っていたが、それ以上のことは何も判らないのである。ただ、今回のニュースについてネットでいろいろ調べてみると、撮影に入る前に平田オリザが数回にわたり、先の「演技と演出」に載っていたテキストを使って、ももクロのメンバーにワークショップを実施したということが書かれていた。監督の本広克行という人は「踊る大捜査線」シリーズの監督のようだが(テレビ放映でどれか見たような気がする)、ネットによれば以前から平田オリザの熱狂的な信奉者だったようで、その面からもかなり期待の持てる映画化のような気がした。

 ビックニュースのあとでは感想文も色褪せてしまう感じだが、今回この人の書いたものを読み直してみて、やはり平田オリザは大したものだという思いをもう一度強くしたので、とにかく書いておくことにする。
 「わかりあえないことから」(講談社現代新書)には「コミュニケーション能力とは何か」というサブタイトルがついていて、奥付によれば第1刷が出たのは2012年10月になっている(私が購入したのは2014年1月の第13刷だったが)。小説「幕が上がる」は2012年11月だったから、この2冊はほぼ同時期に出版されていたことになる。
 読んでみて思ったのは、この人の書くものは教員が(特に高校の教員が)ぜひ読むべきだということだった。わたしは現役を退いてかなりになるが、感覚としてはついこの間まで教員だったという気分がいつまでも残っていて、教員としてなるほどと思わせられる箇所がずいぶんあったのである。

 もちろん、わたしが先に挙げた3冊を手にしたのは演劇部顧問だったからで、顧問として多くの示唆を与えてもらったと思っている。特に「演劇入門」と「演技と演出」(いずれも講談社現代新書)は、平田オリザが高校演劇の現場と関わりを持つ中で書かれたものなので、非常に具体的で判りやすい本になっていた。
 この人は自らの経験と実践に基づいたことしか書かないから、何と言うのだろう、そこで展開される考えや主張にもしっかりとした実体があり、読む側としてもちゃんと納得させてもらえたのである。そんなことは当たり前のことなのだけれど、そういうところできちんと誠実な書き方をしている人は案外少ないような気がしていたのである。

 「わかりあえないことから」で平田オリザは、コミュニケーション能力とかコミュニケーション教育といった言葉が、様々なところで一種の流行のように使われているにもかかわらず、その実体とか問題点についてはきちんと押さえられていない現状を指摘している。そして、そのことに対して、きわめて具体性のある解明を行っている。その考察は、「演劇入門」と「演技と演出」を経ることでここに辿り着いたものだと思った。
 わたしは線を引きながら読むというような恥ずかしい読み方はしないから、きわめてランダムなかたちになるが、何カ所か印象に残るところを書き抜いておく。

 「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないのなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。

 もうすぐ子どもたちが、すばらしいアイデアにたどり着こうとする、その直前で、教師が結論を出してしまう。おそらくその方が、教師としては教えた気になれるし、体面も保てるからだろう。だいたいその教え方というのも全国共通で、「ヒント出そうか?」と言うのだが、その「ヒント」はたいていの場合、その教師のやりたいことなのだ。

 どうも一部分を書き抜いても論の展開は判らないだろうし、この本の面白さは伝わらない。この本で平田オリザは教育の問題をけっこう取り上げているのだが、わたしが退職する数年前から急に言われ出した「シラバス(授業計画)」の問題などについて、「これからの教師には、ランダムをプログラミングする能力が求められるのではないか」と言ったりしているのは、その通りだと思った。授業だけでなく、たぶん演劇部顧問も「ランダムをプログラミングする能力」が必要なのだろう。

 日本の国語教育は、この冗長率について、低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。「きちんと喋れ」「論理的に喋れ」「無駄なことは言うな」……だが、本当に必要な言語運用能力とは、冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。

 この冗長率に関連して、「報道ステーション」の「古館伊知郎さんの評判がよくないのは、少し視聴者の想定以上に冗長率が高いのかもしれない。そういった視聴者には、『余計なことを言うな』と感じさせてしまうのだろう。その点、やはり久米宏さんは、トピックに応じた冗長率の操作が天才的だった」と書いているのは、なるほどなと感心してしまった。
 第7章の「コミュニケーションデザインという視点」の中で、「田中先生が大好き」という具体例から「胸が痛いんです」「ホスピスでのコミュニケーション」と続いていくあたりの展開も、非常に示唆に富んでいて面白いと思った。
 いまさら言うまでもないことなのかもしれないが、平田オリザはすばらしい「教師」なのだと思った。もちろん、それはすばらしい「顧問」でもあるということで、だからあのすばらしい「幕が上がる」という小説を書けたのだと思った。

 ところで、先に挙げた「演劇入門」の奥付は1998年10月第1刷となっており、「演技と演出」のそれは2004年6月第1刷になっている。いずれも出るとすぐに購入して読んだということで、当時わたしは新座北の演劇部顧問だったことになる。
 所沢の時と違って、ここはわたしがきちんと指導しないと成立しない部活だったから、当時恐らく何らかの手がかりが欲しかったのだろうと思う。どこまで意識的に選んだのか判らないが、手がかりとして平田オリザを選んだのは正しい選択だったなと、いまになるとよく判るような気がする。わたしはたぶん、教師としても拠り所を間違えなくて済んだのだと思う。

 新座北の部員たちと(わたしが一度だけ学年主任をやった時、突然20人近い部員が入って来た年があったのである)平田オリザの「転校生」を作ったことがある。平田オリザの方法論をどこまで生かすことができたのか判らないが(「演劇入門」のまえがきには「この本はまず第一に、戯曲を書くこと、演劇を創っていくことのためのハウ・ツー本である」という、素晴らしくも大胆な言葉が書かれていた)、いまとなってはいい思い出である。

 もう一度「幕が上がる」映画化のニュースについて。
 たぶんわたしはこの映画を見に行くと思うのだが、考えるといまから不安で一杯になる。ももいろクローバーZのファンというのがいったいどのくらいの数いて、またそれがどんな人たちなのか皆目判らないし、これから公開に向けていろんなキャンペーンなどで盛り上げていくのだろうが、公開がちょうど春休みにぶつかるかたちになっているので、恐らく大ヒットは間違いないだろうと思われるので、それはもちろん嬉しいことに違いないのだが、わたしとしてはできればそんなに混んでいない映画館で、落ち着いた気持ちで静かに見て来たいと思っているのだが、どうもそんなことはとうてい無理なことになりそうな気がするのである。楽しみなんだけどね、・・・。
by krmtdir90 | 2014-11-14 20:34 | 本と映画 | Comments(8)

「星の王子さま」(サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)

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 新座柳瀬の智くんが、贈り物だと言って内藤濯訳の「星の王子さま」を送ってくれた。一昨日の記事を読んだあとで、すぐにamazon に注文してくれたらしい。わたしはこういうのを利用したことがなかったので、なるほど便利な世の中になっているのだなと感じた。智くん、ありがとう。
 1943年の米国オリジナル版を元にしたもので、サイズは古い岩波少年文庫と同じだと思うが、本文は横書きになっていて、挿絵の色調などもオリジナルのものを忠実に再現しているらしい。コンパクトだが、非常に美しい本である。

 読みかけだった本を中断して、早速昨夜のうちに読んでみた。内藤濯の訳というのは非常に印象的な言葉遣いが多く、当然のことながら、わたしの「星の王子さま」のイメージは内藤濯の言葉を通して形作られたものであるのを確認した。
 そのあとで、「誰が星の王子さまを殺したのか」の安冨歩氏の解釈と付き合わせてみた。安冨氏は自らの論を展開するにあたり、自分はフランス語があまり判らないという前提に立って、原文をかなり大胆に意訳しているところもあると言われる内藤濯の訳を採用せず、原文を可能な限り忠実に訳しているらしい加藤晴久という人の訳文を使用しているのである。
 その違いは、次のような歴然としたものになっている。バラの花が王子さまに、寒いから覆いガラスをかけてほしいと頼む場面である。少し長いが書き写してみる。

【内藤濯訳】
 「夕方になったら、覆いガラスをかけてくださいね。ここ、とても寒いわ。星のあり場がわるいんですわね。だけど、あたくしのもといた国では……」
 花は、こういいかけて口をつぐみました。もといたといっても、花が、いたのではなく、種が、いたのでした。ですから、ほかの世界のことなんか、知っているはずがありません。思わず、こんな、すぐばれそうなウソをいいかけたのが恥ずかしくなって、花は、王子さまをごまかそうと、二、三度せきをしました。
 「ついたては、どうなすったの?……」
 「とりにいきかけたら、きみが、なんとかいったものだから」
 すると花は、むりにせきをして、王子さまを、すまない気もちにさせました。
 そんなしうちをされて、ほんきで花を愛してはいたのですが、すぐに花の心をうたがうようになりました。花がなんでもなくいったことを、まじめにうけて、王子さまは、なさけなくなりました。

【加藤晴久訳】
 「暗くなったら、私に球形のガラスの覆いを掛けてちょうだい。あなたのところはなんて寒いんでしょう。設備が悪いわね。私がここに来るまでいたところは……」
 しかし、彼女は黙りこくった。彼女は、種の形で来た。他の世界のことなど、知っているはずがなかった。こんなにも間抜けな嘘をついた現場をおさえられるという恥辱に、彼女は二、三度、咳払いをした。悪いのは王子のほうだと思わせるためだった。
 「衝立はどうなりました?」
 「取りに行こうとしていたのだけれど、あなたが私に話しかけていたものだから」
 すると彼女はもう一度、咳き込んでみせて、いずれにせよ王子に自責の念を負わせようとした。
 かくして小さな王子は、彼の愛による善意にもかかわらず、すぐに彼女を疑うようになった。彼は大したことのない言葉を真面目に受け取って、とても不幸になった。

 二つを比較すると、バラの花の印象が全く異なるものになってしまっているのに驚きを感じる。内藤訳で「星の王子さま」を読んだ者には、バラの花というのはわがままで厄介な存在だけれど、そのせいで王子さまが自らの住み慣れた星を逃げ出すことになったほどとは思えないのである。
 テグジュペリは飛行士に「渡り鳥たちが、ほかの星に移り住むのを見た王子さまは、いいおりだと思って、ふるさとの星をあとにしたのだとぼくは思います。(内藤訳)」と言わせているが、いくら読んでも、王子さまがなぜ旅立つ気持ちになったのかというのは、もう一つはっきりしない感じがしていたのである。バラの花によるモラル・ハラスメントという解釈は、その割り切れない感覚にとにかく一つの解答を与えてくれるものではあった。

 安冨氏の本によって、「星の王子さま」という作品に感じていた判りにくさの原因の多くが、内藤濯の訳文によるものだというのが明らかにされたように思った。
 例の「飼いならす」に関する王子さまとキツネの会話の中にも、そういうことが見られるのである。

【内藤濯訳】
 「なんだか、話がわかりかけたようだね」と、王子さまがいいました。「花が一つあってね……。その花が、ぼくになついていたようだけど……」

【加藤晴久訳】
 「わかり始めてきた」と小さな王子は言った。「一輪の花があってね……ぼくが思うに、彼女はぼくを飼いならした……」

 とりわけ、この部分における訳文の違いは重大ではないだろうか。「なついていた」と「飼いならした」では、意味するところは全然違ってしまう。バラの花が王子さまを困らせた様々な行為が「なついていた」からなのだとなってしまったら、バラの花は王子さまに甘えている可愛い存在ということになってしまうではないか。

 また、ここと関連してきわめて重要な次の部分。

【内藤濯訳】
 「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」
 「ぼくが、ぼくのバラの花を、とてもたいせつに思ってるのは……」と、王子さまは、忘れないようにいいました。
 「人間っていうものは、このたいせつなことを忘れてるんだよ。だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね……」と、キツネはいいました。
 「ぼくは、あのバラの花との約束をまもらなけりゃいけない……」と、王子さまは、忘れないようにくりかえしました。

【加藤晴久訳】
 「きみのバラのためにきみが無駄にした時間のゆえに、きみのバラはそんなにも大切なんだ」
 「ぼくのバラにぼくが無駄にした時間のゆえに……」。小さな王子は、忘れないように繰り返した。
 「人々はこの真理を忘れてしまった」とキツネは言った。「しかしきみは忘れてはいけない。きみが飼いならしたものに対しては、きみは永遠に責任を負うことになる。きみは、きみのバラに責任がある……」
 「ぼくは、ぼくのバラに責任がある……」。小さな王子は、忘れないように繰り返した。

 この部分は、加藤訳で読むと原作そのものが持っている問題点、つまり「バラの花が王子さまを飼いならした」とされていたのが、ここでは「王子さまがバラの花を飼いならした」と変わってしまっていることが明らかになっているのだが、内藤訳では「バラの花は王子さまになついていた」→「王子さまはバラの花のめんどうをみた」ということになってしまい、両者の間は何の問題もない良好な関係のように見えてしまうのである。
 実際にはどちらも「飼いならした」という同じ単語が使われていて、それがいつの間にか「誰が誰を」の部分が逆転してしまっているのである。安冨氏の解釈によると、途中に「関係をとり結ぶ(加藤訳)」(内藤訳では「仲よくなる」)という双方向的な概念が挟み込まれることによって、キツネによるすり替えが行われたということになり、この説明はよく判るのである(しかし、当のテグジュペリ自身がこの点をどう考えていたのかは判らないままなのだが)。
 だが、この点はひとまず置いておく。

 訳の問題としてわたしが責任が重いと思うのは、加藤訳で「無駄にした時間」とされているところが、内藤訳では「ひまつぶし」という価値判断のはっきりしない言葉に置き換えられている点、さらに王子さまが「忘れないように」繰り返した言葉が、両者の訳では全く異なった訳し方になっている点である。
 王子さまが繰り返した部分は、キツネの言葉のどの部分が王子さまに響いているのかという問題なのだから、勝手に入れ替えていいものではないはずである。加藤氏が原文に忠実に訳しているのだとすると、王子さまは自分がバラの花のために時間を無駄にしてしまったということを受け止めているのである。それなのに内藤訳では、王子さまはバラの花をとてもたいせつに思っていることが強調されることになっている。

 また、加藤訳が「ぼくのバラに責任がある」としているところを、内藤訳が「あのバラの花との約束をまもらなけりゃいけない」と訳している点もである。前に「星の王子さま」を読んだ時に、王子さまとバラの花の間に何か約束があっただろうかと考えてしまった。相手に対して責任があると感じることと、責任があるというのは相手との間に約束があることになるのだというのは、全く異なった考え方ではないだろうか。
 責任の重さを受け止めている状態と、約束を守らなければならないと感じている状態は明らかに違うし、この訳し方で、王子さまは大切な約束を守るという(正しい)方向に踏み出していくのだと読者を誘導してしまったとしたら、罪は大きいのではないだろうか。誰に言わせても、約束は違えてはならないものだからである。

 責任を果たすという言い方があるが、飼いならしたペットに対して(わが家にもネコがいるが)飼い主として責任を果たすというのは判るが、飼われたペットが飼い主に対して責任を果たすというようなことはよく判らない。また、関係を結んだ、仲よくなった相手に責任を果たすというのも、言葉の使い方としてどうも据わりが良くないような気がする。いすれにしても、それは約束を守るというのとは異なる心の動きだと思うのである。
 王子さまの中には、最後のあたりで何らかの後悔のようなものがあると思えて仕方がないのだが、それが何なのかは依然として判らないままなのである。王子さまは飼いならしたキツネに対しても、仲よくなった飛行士に対しても、その責任を果たしているようには見えないし、仮に彼らに対する責任というようなものを感じていたとしても、それはバラの花に対する責任より重要なものではなかったということなのだろう。

 バラの花に対して王子さまが持っていた感情というのは、わたしはこれまで、そばにいるとわがままで勝手な花だったけれど、本来「はかない」存在だったということに自分が気づくことができなかったという、後悔とか自責の念というような感情ではないかと漠然と思っていた。モラル・ハラスメントという視点によってずいぶん明らかになったところはあるが、判然としないところも依然として残っているような気がする。
 結局のところ、加藤晴久氏の訳で全文を読んだわけではないし、もちろんフランス語の原文ですべてを見たわけでもないのだから、必ずしも原文に忠実とは言えない内藤濯氏の訳本に頼るしかない以上、よく読み取れないところが残ってしまうのは仕方がないことなのかもしれない。しかし、そういう事態であるにも関わらず、「星の王子さま」という作品がこれほどの人気を勝ち得ているのは、何とも不思議な状況という気がするのである。

 改まって「星の王子さま」論を書くわけではないので、中途半端な感想文だが今回はこんなところで。おわり。
by krmtdir90 | 2014-11-05 16:20 | 本と映画 | Comments(2)

「誰が星の王子さまを殺したのか」(安冨歩)

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 一ヶ月ほど前に新座柳瀬がやった「星の王子さま(Lonely My Sweet Rose)」の舞台を観ていたので、最近「星の王子さま」には何となく親近感のようなものを感じていた。散歩の途中で八王子駅北口のくまざわ書店を覗いたら、平積みの新刊書の中にこの本を見つけたのである。何ともセンセーショナルな題名だが、手に取ってパラパラと中を確認してみると、きわめて真面目な解釈本のようだったので、興味を覚えて購入してみることにした。
 著者の安冨歩(やすとみあゆむ)という人については全く知らなかった。略歴のところを見ると、1963年生まれの経済学者で、非常に多方面にユニークな著書がある人のようだった。反原発の本なども書いていたらしい。

 この本には「モラル・ハラスメントの罠」という副題がついている。このモラル・ハラスメントというのは、フランスの精神科医、マリー=フランス・イルゴイエンヌという人が提唱した概念のようで、肉体的な暴力に対して「精神的な暴力・嫌がらせ」などを指している言葉とされている。
 本書では、このモラル・ハラスメントというものがどのような過程を取って成立するのか、加害者はどういうふうにこれを行い、被害者はどういうふうにこれを受け止めるのかということについて非常に丁寧な整理確認を行った上で、「星の王子さま」の物語を検討している。簡単に言えば、バラの花はモラル・ハラスメントの加害者であり、王子さまはその被害者である、またキツネは被害者である王子さまにセカンド・ハラスメントを行った者という解釈である。
 そんな解釈が成立するということが、わたしのような浅薄な読者には大変な驚きだったが、本書の検討は詳細を極め、なるほどと納得させられるところが多かった。

 以前、確か現代文の教科書だったと思うが(調べてみたら大修館の教科書だった)、「星の王子さま」が載ったものを(もちろん抄録だったが)使ったことがあって、その時に、解釈しにくい部分があちこちあって困った記憶があった。いまにして思えば、テキトーに誤魔化して(疑問点には触れないようにして)済ましてしまった感があるのだが、人気のある作品だから飛ばしてしまってやらないという訳にはいかなかったのである。
 その時感じた疑問点などはもうあまり覚えていないが、例えば王子さまがバラの花を後に残して自分の星を出て行こうとする心情とか、王子さまがバラの花に対して「責任がある」という考えに到達する過程とか、王子さまとキツネの「飼いならす」ということについての会話とか、たぶん教師用の指導書にはいろいろそれらしい解釈が載っていたのだろうが、どうもどれも腑に落ちた記憶というのはないのである。「飼いならす」にしても「責任がある」にしても、何か言葉の使い方として論理性がなく掴みづらい感じがして仕方がなかった。

 しかし、この本が示してくれた解釈というのは、わたしが曖昧なままにしていた「星の王子さま」の様々の疑問点に、かなりのところまで答えてくれたような気がしたのである。特に「飼いならす」という一方向的な概念(行為)について、キツネがこれを「関係をつくる」という双方向的な概念(行為)にすり替えているという指摘は説得力があり、その先にバラの花に対する王子さまの「責任」が出てくる以上、このキツネの言動はセカンド・ハラスメントであるという解釈はきわめて論理的に展開されていて、その通りと言うほかないと思った。
 授業をするにあたって、キツネの吐く言葉の流れに何となく胡散臭い印象を持っていたわたしとしては、見事な謎解きを見せられた感じがしてスッキリしたのである。

 ただ、だからといって「星の王子さま」という物語全体に関する疑問が氷解したわけではない。サン=テグジュペリはこの「星の王子さま」で一体何を描こうとしたのか。もちろん本書でも、物語の中心をなす上記の登場人物への解釈とともに、いわゆる「星めぐり」の部分や、ボア(大蛇)・ヒツジ・バオバブといったものをどう考えるべきかといった解釈も示しているのだが、全体としてはそれが一つの結晶体を作るところまでは行けなかったような気がした。
 もちろんそのことは、この本が示してくれた解釈の斬新さを少しも損なうものではなく、「星の王子さま」という作品をこれから読解する、新たな楽しみが生まれたということだと思った。それから、本書が一章を割いて紹介していた「X将軍への手紙」というのも、わたしはそういうもの(サン=テグジュペリがモロッコのアメリカ軍基地にいた時に書いたもので、結局投函はされなかった手紙)の存在を全く知らなかったのだが、これも非常に興味深い内容の手紙だと思った。

 わたしが「星の王子さま」を初めて読んだのはたぶん高校生の時だったと思う。捨ててしまう本ではなかったはずだから、その時の古い岩波少年文庫がどこかにあるはずなのだが、今回いくら探しても見つからないのである(授業でやった時は恐らく図書室の本を借りていたのだと思う)。
 本書では「星の王子さま」を初めて日本に紹介した内藤濯(あろう)の翻訳の問題も指摘しているので、ぜひ読み直してみたいと思ったのだが、そのためには足の踏み場もなくなっているわたしの部屋を、この際少し整理することから始めなければならないようなのである。困った。
by krmtdir90 | 2014-11-03 20:41 | 本と映画 | Comments(0)


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