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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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「地方消滅の罠」(山下祐介)

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 このテーマは、年内のうちに一応決着?をつけておきたい。

 増田寛也氏の「地方消滅」(中公新書)という本で、わたしが興味を持ったのは巻末に付された「全国市区町村別の将来推計人口」という表だった。日本のあちこちを鉄道で旅して、これまで知らなかったいろいろな街を歩いたりするようになり、そこでけっこう寂れた感じの街の佇まいに触れたりすると、その行く末といったものが気になって仕方がなかったのである。
 「推計」が描き出す未来の一つの姿について、もちろんこんなふうに予測されて一体どうするんだという思いはあったが、正直に言って、わたしのような(高)年齢の者が考える切実さというのは、当事者意識というものからは少し遠いものになってしまうだろうという感覚はあった。実際、増田氏の提言について、総花的な対策を羅列するばかりで個々の内容への検討が不足している気はしたが、わたしの中にリアリティが薄かったこともあったのだろう、あまり踏み込んで考えてはいなかったようである。
 山下祐介氏の「地方消滅の罠」(ちくま新書)は、まさにその点を突く鋭く的確な論考になっていると思った。「増田レポート」が発表されて以降、各所で様々な反論などがなされていたようだが、わたしはそうしたものを一々注意してチェックしていたわけではないので、あまり断定的な物言いは避けなければならないが、少なくともこの山下氏の本は、レポート発表後の様々な論点に目を配りながら一つの明快な反論を形成しているという点で、増田氏の本とセットにして読むべき本のような気がした。

 山下氏が最初に危惧しているのは、「推計」の示した「事実」が人々に与えた影響の負の側面についてである。それがあまりに衝撃的なものだったために(しかもそれが、ほとんどの人々が何となく感じていた実感とあまりに一致するものだったために)、この流れはもう止められない、地方消滅は避けられないというイメージが増幅され、あたかも「既定路線」のように受け止められかねないということである。これが「既定路線」という前提で人々が動き始めてしまったら、問題はさらに悪化するばかりだろう。
 正直に言って、わたしもかなりそのような受け止め方に陥っていた気がしたのである。山下氏は序章において「そうした状況ーー家族からも国家からも問題解決へと誘う道が見えない状況ーーを利用して国民の間に『諦め』を誘発し、この国を何らかの方向に動かすためにこの『人口減少ショック』を使おうとしている人々がいる」可能性があるとして、次のように述べている。

 人口減少が社会の活力を低下させ、さらに人口を減少させるーー私たちが陥っているこの悪循環は、経済や財政の悪化によるものというよりむしろ、社会的要因や心の問題によるものというべきだ。心理的要因が、社会や経済や財政の動きと絡まり合ってこの人口減少という事態につながっている。

 政治や行政に何とかしろと言うのは簡単だけれども、ことはそんな単純な問題ではないということだろう。山下氏が最初に切り込むのは、人口減少の根本原因である出生率低下の問題である。政治や行政から出てくるのは、いつも若い世代の雇用の確保と保育所の充実をワンセットにした対策になるが、氏はそうしたものでは出生率は上がらないと喝破している。子供を産み、さらに2人、3人産みたいと考えるためには、「子育てを楽しみたい」という願いが叶えられなければならないと述べている。
 氏は「子育てには、経済力以前にゆとりのある時間の創出が必要」として、「家庭から夫婦ともども労働市場に動員してきたことが、賃金の低下や家庭を切り盛りする人員の不足、時間の余裕のなさにつながり、それが人口減に帰結したと見たほうがよさそうだ」と述べているのである。

 経済力は暮らしの余裕をつくりだすが、他方でさらに高い経済力を獲得しようとすれば、暮らしの余裕を犠牲にすることになる。経済と暮らしはバランスよく構成されていなければならない。そのバランスを欠いたことが出生率低下の原因である。そしてこのことが、首都圏と地方での出生率の違いにも現れているのだろう。

 もちろん、山下氏の考察はもっと様々な視点から行われている。「子育て回避という心理が引き起こされるのは、経済が小さいからではない。子育てという戦略を立てるに足るだけの、暮らしの中長期的安定の見通しがつかないからである」とか、なぜ少子化が進むのかという問いに「あまりに経済重視、仕事重視できたために、暮らしをめぐる国民の問題解決能力が極端に低下してしまったから」と述べているところなど、深く首肯させられる指摘だと思った。こうした、住民ひとりひとりの側に立った考察というのは、増田氏の本には決定的に欠けていたものである。
 次の指摘は、とりわけ衝撃的なものだと感じた。

 経済の論理はもはや暮らしと簡単には折り合わなくなっているから、そこにこそ調整が必要なのだが、この国の国民はこうした事態においてもなお自己犠牲を厭わぬ性格でもあるようだ。なおも働き、文句も出ない。しかもそうしている間に、「生まれない」という形で、密かに生まれるべき生が抹殺されているーー。

 別のところではこうも述べている。

 太平洋戦争では日本人同胞だけで数百万人を死に至らしめたが、今次の新しい「経済による戦争」では「生まれてこない」形で、死ぬ前から命が絶たれているのではないか。(中略)いま起きている人口減少はまさに、この国際経済戦争への経済至上主義・国家至上主義的な国民総動員の結果なのではないか。

 そんな大袈裟なと笑うことはできない。生まれるべき生が生まれない、日本はそういう国になってしまったという感じ方が、この「推計」に対しては必要なのだと思った。

 この本で山下氏は、増田氏の問題提起と提言の核心は「選択と集中」という語に集約されているとして、その考え方の危うさを丁寧に解き明かしている。増田氏の言う「選択と集中」というのは、人口減少と東京一極集中が進むことへの対策として、国力低下を食い止め「防衛・反転線」となるような「地方中核都市」を「選択」し、そこに限られた資源(予算や人材など)と政策を「集中」的に投入して、地方が踏ん張るための拠点を作るという考えである。増田氏は一応「地域の実情を踏まえて」という言い方はしているが、これは明確な「国家戦略」であるとも述べている。
 山下氏の反論の一々をここでたどり直すことはしないが、まず第一に、増田氏の言う「選択」とは言い換えれば「排除」と「地方切り捨て」ということであり、今回の「推計」がその「選択」に一役買って、選ばれない地域(消滅可能性都市)の自壊に拍車をかけ、全部を救うことはコストの無駄につながるという雰囲気を作り上げ、選ばれた地域だけの再生を目指す「日本回復この道しかない」となる危険性を指摘している。

 そこに住む人々のことを考えれば、切り捨てていい地方など一つもないはずなのである。自治体財政の逼迫を理由に、生活に必要なインフラや行政サービスをすべての地域で維持し続けるのは困難になっているなどと言いながら、一方で国の姿勢としてリニア中央新幹線や東京オリンピックのようなものに予算をつぎ込むのはおかしいという指摘には、わが意を得たりと感じた。
 地域の崩壊と人口減少に重大な意味を持つ、学校統廃合の問題に言及している点も共感を覚えた。地域に小学校がなくなってしまえば、そこで子育てはできないからである。どんなことがあっても地域の小学校を残し、そこを起点に人口回復と出生率向上を目指すような戦略が、「国家戦略」を向こうに回した「地方の戦略」として必要なのだろうと思う。
 この本では公共バスの問題として少し触れられているが、わたしなどは交通インフラの問題に関して、道路一辺倒の考えに陥っている現状に対して、これからは(もう手遅れになっているのかもしれないが)鉄道と駅を維持することも重要な意味を持つと思っている。そういうところにこそ「国家戦略」が必要だと思う。新幹線やリニアによって、その停車駅を持たない途中の在来線と在来線の駅、そしてその周辺にある地域は切り捨てられる運命にあるのであり、これを何とか維持していくことは、地方の崩壊を食い止めるためには非常に重要な視点の一つだろうと思っている。

 山下氏は、増田氏の「選択と集中」に対抗するものは「自治」と「自立」の論理であるとして、「多様性の共生」という語を提起している。ここできわめて無責任な印象を言わせてもらうならば、この語は「選択と集中」に比べてイメージが作りづらく、「この道しかない」という魅惑的な言い回しとの親和性も弱いような気がする。だが、危機感を煽り立てるものに対して、とにかく立ち止まって(増田氏が言うように、時間はそんなにないのかもしれないが)考えていくためには、人々の中からいつの間にか追い出されかかっているこういう語の意味を、しっかり受け止めていくことが必要になっているのは確かなことだと思う。
 地方自治の形骸化が言われて久しいが、その再構築なしに有効な対策も問題の解決もないのだろう。この本の各所で山下氏は、いつの間にか人々の中に、政治や行政に対する「何とかしてくれ」という受け身の意識ばかりが増大し、その「依存」の体質が引き金になって、すべてを包摂できないのであれば、一部「排除」されるものが出てきても仕方がないという傾向を生んでいると警鐘を鳴らしている。財政逼迫の折から、地域インフラを維持するためには、少数地域のインフラは外されてもいいのではないかという論理。「共に生きる(共生)」という意識の希薄化が、地方消滅の流れに拍車をかけているのである。

 山下氏の本を見返していると、共感して取り上げたいところが次々に出てくるのだが、そろそろ年も暮れかけてきたので(もう日も暮れた)、このあたりで終わりにしようと思う。だが。また「ともかく現時点では、私たちには自治の回路がない。少なくともきわめて弱いといわねばならない」などという一節が目についてしまうのである。
 実は昨夜、インターネットをあちこち見ていた時に、JB PRESSというよく判らないニュース解説のようなページで、藤和彦という人の書いた非常に核心を突いた(と感じた)文章に出会ったのである。タイトルは「『グローバリゼーション』で世界が危機に、再生のカギは地方自治にあり」というもので、筆者について何の知識もないのだが、増田レポートと山下氏の反論について文末で言及している通り、この問題を「地方自治」という視点で整理したものであった。面白かったので、プリントアウトして手元に置いてある。そこから、特に興味深かったところを書き抜いて終わりにしたいと思う。

 明治以降繰り返されてきた市町村合併、特に平成の大合併によって「全国の市町村の数は3234から1727にまで減少し、1市町村当たりの人口数は欧米諸国中イギリスに次いで多くなってしまった(7万人超)。1市町村の平均面積も2倍となり、地縁共同体だった市町村は巨大な行政システムの一部に埋没してしまった感が強い」として、フランスの例を紹介している部分である。

 現在のフランスでは、1市町村(コミューン)当たりの人口数は約1600人と欧米諸国の中でもっとも少なくなっている。フランスでは地方税の6割が基礎自治体レベル(コミューン+広域共同体)に充当され、その税率が毎年市町村で決定される。そのため、国政選挙より地方(コミューン)選挙の投票率が高い。/コミューン内では村長や議会が基本方針を決定するが、実行するのは住民自身である(地方議員も積極的に行政参加している)。課題ごとに複数のNPOが組織され、60歳代が中心的な役割を演じている。/このような状況に憧れた人が1980年代以降に次々に都市から農村に移動し、農村部の小規模なコミューンでは住民の3分の2が都市からの移住者というケースが少なくないという。

 わたしはフランスの地方のことなど何も知らないから、もし本当にそんなふうになっているなら驚きと言うしかない。翻って、日本の地方自治についての記述。

 戦後の日本国憲法で「地方自治」が明記されたが、(略)自治の意識は薄れるばかりで、最近では国民は「行政サービスの受け手」という側面のみが強調されるようになった。現在の日本人は「漠然とした不安」に苛まれていると指摘されることが多いが、この依存体質が不安心理をかき立てているのではないだろうか。
 一人ひとりの国民が支えることによって国家が成り立っているということは自明である。だが、国民が国家を支えるに当たっては、一定規模の集団に属する必要がある。/地域社会を住民が自らの力で担う仕組みを構築するには、欧米の事情にかんがみ、数千人程度の住民数が適当だろう。しかし現在の市町村はその適正規模をはるかに越えてしまった。そこでいま必要なのは、市町村を細分化した「コミュニティ」の単位を構築することである。/その際は、1970年に自治省(現・総務省)が定めた「コミュニティに関する対策要綱」が参考になる。同要綱では、その地区の設定を「小学校の通学区域や町内会の範囲など」としている。/小学校の数は現在約2万強、1校区当たりの住民数は約6000人である。

 昔、「学園(大学)の自治」とか「生徒会の自治」などというものがテーマとして意識されたことがあったが、少なくともわたしが生きてきた過去に、「自治」というものが本当の意味でリアリティあるものとして意識されたことはなかったような気がする。だからたぶん、「地方消滅」の「推計」は「地方自治」によって乗り越えられるべきものだという、ある意味単純明快な道筋にリアリティが持てないのだろうと思った。
 いずれにしても、人口減少問題や出生率低下に対する観点は実に様々なものがあり、簡単に結論が出る問題ではないかもしれない。だが、今回の「推計」によって提起された「事実」に対しては、われわれは安易な諦めや依存に陥ることなく、何が大切なのかを見極めていく持続した姿勢が必要なのだと思った。
 最後に「われわれ」なんていう言い方で文章を閉じるのは不本意なのだが、今年のところはもう時間切れである。来年はどんな年になるのだろうか、と打ち込んだら、最初に、どんな都市になるのだろうか、と変換されてしまった・・・。
 よいお年を!
by krmtdir90 | 2014-12-31 21:36 | 本と映画 | Comments(0)

千倉・南房総(2014.12.25・26)

 房総半島というのは温泉はあまり期待できる感じではないが、刺身など海の幸は旨いものが食べられるのではないかと、車で妻と千倉の温泉まで出掛けてきた。
 昔は、東京湾沿いに混雑する道をぐるっと回り込まないと行けなかったので、伊豆半島などに比べるとなかなか足が向かなかったのだが、いまはずいぶん便利になったものである。首都高を抜けてレインボーブリッジを渡り、東京湾アクアラインで木更津を目指す。

 海ほたるPAで休憩。
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 レインボーブリッジやスカイツリーも見えている(原板ではもっとうっすらと写っているのだが、フォトギャラリーで自動調整するとかなりはっきりする)。
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 その後も館山自動車道の富浦ICまで、高速道路で半島のかなり先端の方まで行けてしまう。
 野島崎灯台に行った。灯台の上から。水平線の彼方に(右寄り)大島も見えている。
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 反対方向。灯台の影と白浜の町並み。
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 下には遊歩道のようなものがあって、
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 ここが房総半島最南端の地という石碑などもあった。
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 千倉に一泊。

 翌日。走り始めてすぐ、JR内房線・千倉駅に寄ってみた。
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 海沿いに駐車スペースのある公園のようなところがあったので、車を停めて少しぶらぶらした。
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 野島崎灯台が見えている。
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 館山市内を抜けるあたりでちょっと道を間違え、偶然迷い込んだところにあったJR内房線・那古船形(なこふなかた)駅。思いがけずいい感じの木造駅舎だったので、これは撮影しないわけにはいかない。
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 業務委託らしい駅員がいて、撮影なら中に入ってもいいと言ってくれたが、鉄道利用で来たわけではないし妻も待たせていたから、ホームの方には行かなかった。
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 鋸山に立ち寄ることにして、ロープウェイで山頂駅へ。
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 山頂駅展望台からの眺め。手前が金谷港、中央に向かって突き出ているのがフェリーターミナルである。対岸は三浦半島・久里浜になる。
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 左手に富士山も見えている(これも自動調整でくっきりさせてある)。
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 これは南の方角。左手に見えているのは鋸南(きょなん)町保田の町並みと思われる。
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 鋸山の山頂一帯は日本寺というお寺の境内になっていた。大人600円の拝観料を払って中に入ったが、とにかくごつごつした岩の山道と石段の連続で、日本一の大仏さまとかいろいろあるようだったが、アップダウンがきつく、とても全部を回る気にはならなかった。
 とりあえず有名な「地獄のぞき」に行ってみることにしたが、高所恐怖症の人間にとってここは恐ろしい場所である。すぐ近くまでは行ったが、この先端のところには行かなかった。
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 もう少し先の比較的足場がよく、柵でしっかり守られている場所からの景色。左が「地獄のぞき」である(向こう側に少し下る感じになるようだ)。写真でもお尻のあたりがムズムズする。早く忘れてしまいたい。
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 途中で見かけた日なたぼっこ中の猫たち。全部で5匹いた。
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 金谷のフェリーターミナルで遅い昼食。
 岸壁から対岸・久里浜方面を見る。
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 帰りは東京湾フェリーを利用した。15:20金谷発、16:00久里浜着。
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 すぐに暗くなってしまったが、逗子から由比ヶ浜、江ノ島から茅ヶ崎と相模湾沿いを走り、厚木ICから圏央道に入って帰ってきた。
by krmtdir90 | 2014-12-28 16:56 | その他の旅 | Comments(0)

「地方消滅」について

 一昨日(22日)、増田寛也氏の「地方消滅」について感想文を掲載した。ところが、きょう隣駅の大きな書店に行ったら、入口に近い話題の書籍が集められたところに、「地方消滅」と並んで「地方消滅の罠-『増田レポート』と人口減少社会の正体」(山下祐介・ちくま新書)という本が置かれているのを見つけた。帯に「衝撃の『増田レポート』その虚妄を暴く!/地方を消滅へと導こうとしているのはあなたたちではないのか?」とあった。反論の書である。これは読まなければと思い、買ってきて読み始めた。まだ途中であるが(半分くらい)、読み終えて感想を書くのは数日先になりそうなので(2日ほど読書を中断するので)、この段階でちょっと先日の感想を補足しておきたい。

 増田氏の「地方消滅」について、わたしはそこに指摘されている「事実」の大きさに衝撃を受け、それはすべての日本人が問題を共有して考えなければいけないのではないかという思いであの文章を書いた。山下祐介氏も、基本的に「事実」の内容(推計そのもの)に異を唱えているわけではない(提示の仕方には問題ありとしているが)。出発点となる「事実」の大きさはどちらも変わらない。山下氏が問題とするのは、その事実を踏まえてどのような対策を取るべきかについて増田氏が提言した部分である。
 実は、わたしの感想文はそこのところにはほとんど踏み込んでいない。「東京一極集中」の問題も同様である。指摘されている「事実」の重さに対して、増田氏の述べる施策がどうも通り一遍の、リアリティの薄いものに感じられたからである。わたしの書いた該当部分を再掲しておく。

 本書では、当面どんな視点に立ったどのような施策が必要かを提言しているが、問題があまりに多岐に渡るため、その一つ一つは詳しく検討されることにはならず、やや総花的に羅列されただけという印象になっている。確かに、この先は政治や行政が本腰を入れて検討しなければならないことだと思うが、もう少し、ここだけはどんなことがあっても手をつけなければいけないというような、メリハリのある提言にしてほしかった気もする。

 山下祐介氏はまさにその部分に切り込んでおり、その論考の文章は非常に共感できるものになっている(と思った)。わたしは感想文の中で、増田氏の本を「すべての日本人がいますぐ読んで考えなければいけない本だと感じた」などと書いてしまったので(わたしがこう書いたからといって、それですぐに読んでみようという人がいるかどうかは判らないのだが)、書いたことには責任があると思うので、少なくとも増田氏の本の提言の部分に関しては、きわめて的確な批判と反論が存在することを考慮に入れておいてほしいと思うのである。
 わたしの感想は改めて書くつもりだが、とりあえずの中間報告である。
by krmtdir90 | 2014-12-24 17:12 | 本と映画 | Comments(0)

2冊の「幕が上がる」(平田オリザ)

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 映画化を機に「幕が上がる」が文庫になったのは知っていたが、別に買うつもりはなかった。
 写真左がすでに持っている単行本で、これは発売されるとすぐに買ってきて読んでしまった。奥付は2012年11月7日第1刷発行となっている。いわゆる初版本だ。だから、文庫になったからといって買う必要はまったくなかったのである。
 きょう、近所の本屋で写真右の文庫本を見つけた。平積みではなく、書架の方に1冊だけ入っていた。何となく平積みされているのではないかと思っていたから、ちょっと拍子抜けしてしまった。最近モノノフ(ももいろクローバーZのファン)の人たちと不思議な交流があったので、少し影響されてしまったかもしれない。これはわたしが買って、次に3、4冊補充させなければならないと考えてしまった。我ながら・・・である。

 文庫の場合、すでにカバーは1枚掛かっているわけで、それは単行本の絵柄をそのまま縮小したものになっていたが、それを完全に覆い隠してしまう、いわゆる全面帯(めったにない)というものがもう1枚掛かっていて、そこには制服姿のももクロの5人が並んで笑い転げていた。買ってしまったのは、こいつのせいだったかもしれない。
 ウィキペディアによれば、帯というのは「捨てられることが多いため、愛好家・収集家の間では希少価値を持つ収集品になることもあり(略)、人気作品や後に評価が上がった作品の初版帯付き本は、ネットオークション等で高値で取引される傾向にある。人気作品は増刷され、それに伴って帯も変更されることから、初版時の帯は特に珍重される」とあった。因みに、この奥付は2014年12月12日第1刷発行、初版本である。
 でも今回の場合、この帯は映画公開時まで使われそうだし、何と言っても文庫本だしなあ・・・って、バカなことを考えている。

 単行本を買った時、立て続けに2回読んでしまった本だから、文庫本を買ったからといって早速もう一度という感じにはならない。阿川佐和子の解説だけは読んでみたが、これがまた中身の薄いおしゃべりといった感じの文章で、これが良ければこれだけでも買ってよかったという気分になれるのだが、どうもそういうものではない。
 帯の裏表紙にあたる部分に、映画のキャスティングが印刷されていた。部長の高橋さおり役が百田夏菜子、看板女優ユッコこと橋爪裕子が玉井詩織、ガルルこと西条美紀が高城れに、転入生・中西さんが有安杏果、後輩部員・明美ちゃんが佐々木彩夏とある。
 だが、残念ながらわたしはももクロに関しては完全な初心者である。表紙側の写真のどれが誰なのか、顔と名前が全く一致しない。そこで、きょうはヒマに任せて、ちょっと調べてみようという気になったのである。

 だが、これがけっこう難しかった。インターネットにある画像というのは多くがアイドルとしてのもので、髪型も違っているし、何よりこれだけ笑い転げていると特徴が消えてしまって、勘違いしそうで怖かった(最近はほとんど来なくなったみたいだが、モノノフの人がこのブログを覗きに来ることがあるので、ちょっと緊張してしまうのである)。たぶん間違いないと思うが、もし間違っていたらすぐに訂正するので許してください。
 帯に使われた写真の原板がネットの方で見つかったので、それを使わせてもらうことにする。
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 上手(かみて・向かって右)から、ガルル・高城れに(たかぎれに)、ユッコ・玉井詩織(たまいしおり)、さおり・百田夏菜子(ももたかなこ・ももクロでもリーダー)、明美ちゃん・佐々木彩夏(ささきあやか)、中西さん・有安杏果(ありやすももか)。間違っていませんように・・・。

 ところで、ネットで映画のことをあれこれ調べていて、気になったことが一つある。わび助のことがどこにも出てこないのである。
 ももクロの5人や吉岡先生(黒木華・昨日の毎日新聞夕刊1面に大きな写真が出ていた。「幕が上がる」に触れてなかったのは不満だったが)は大切だが、わび助はそれと同じくらい重要な役ではないか。まさか映画ではカットなどということはないと思うが、情報がどこにも見当たらないので(もしあったら、誰か教えてほしい)、わび助ファン(突然ファンになってしまった)としては非常に不安なのである。

 などと、本の中身と関係ない話ばかりになってしまった。本の感想は前に書いているので、まあいいか。でも、この文庫本、もう一度読んでしまうのかな、ヒマだし・・・。 
by krmtdir90 | 2014-12-23 18:37 | 本と映画 | Comments(7)

「地方消滅」(増田寛也・編著)

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 編著者の増田寛也氏は1995~2007年に岩手県知事を務め、2007~08年には自民党政権下で総務大臣も経験した人である。2011年5月に、東日本大震災からの復興を新しい国づくりの契機にしたいとして、有識者らによる政策提言機関・日本創成会議を発足させ、その座長となって活動を始めたらしい。
 この会議の人口減少問題検討分科会が今年5月に発表した「日本の将来推計人口と消滅可能性都市896のリスト」は各地で大きな反響を呼んだ。本書はその内容に詳しい説明を加え、併せてどのような対策を取っていくべきかについて具体的な提案をおこなったものである。

 中公新書という本文200ページほどの簡単に読める本だから、わたしなどがそんな言い方をするのもどうかと思うが、これはすべての日本人がいますぐ読んで考えなければいけない本だと感じた。そんな大袈裟なと思うかもしれないが、ここで示されている「事実」の重さはそれくらい衝撃的なものなのである。
 ここにあるのは、都合のいいデータだけを集めてやたらに危機感を煽るような、ありがちな興味本位の非科学的な予測ではない。まず、本書冒頭に掲げられた「事実」と「問題意識」は次のようなものである。

 日本は2008年をピークに人口減少に転じ、これから本格的な人口減少社会に突入する。このまま何も手を打たなければ、2010年に1億2806万人であった日本の総人口は、2050年には9708万人となり、今世紀末の2100年には4959万人と、わずか100年足らずで現在の約40%、明治時代の水準まで急減すると推計されている(いずれも国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口〔平成24年1月〕」の中位推計による)。人口予測は、政治や経済の予測と比べて著しく精度が高いと言われており、大きくぶれることはない。過去に出された推計値と実際の数値を比べれば、むしろ若干厳しい数字に向かうと予想される。「人口減少」という、これまで経験したことのない問題に私たちは立ち向かわなければならない。

 上記の国立社会保障・人口問題研究所(社人研)というのは、厚生労働省の下に置かれた施設等機関というもので、きちんとした国の機関である。本書の推計や説明はすべてこの社人研の推計データを基にしている。論拠とするのにこれ以上信頼の置けるデータは他にないと思われる。
 問題はこのデータをどう読み、そこからどういう問題意識を持って考察と対策を進めていくのかということである。増田氏は続けて次のように述べている。

 政府は、2003年7月「少子化社会対策基本法」を制定し、内閣府に「少子化社会対策会議」を設置、さらに2007年(略)以降は、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)を任命し、少子化対策に取り組んできた。しかし、残念ながら有効な対策が打ち出せていないのが実情である。その背景には、私たち国民のこの問題に対する関心の薄さもあった。

 政治や行政に問題意識がなかったわけではないだろう。だが、最近の地方創生担当大臣の設置なども同じことで、かたちを整えアリバイだけ作って、問題解決はズルズル先送りしていくことが繰り返されているだけなのである。そんな上っ面の誤魔化しでは到底太刀打ちできない厳しい状況が進行しているのであり、大きな視野に立った思い切った対策が早急に必要とされているのである。

 本書は2040年という、現在のわれわれがリアリティを持って受け止めうるギリギリの時点を推計の切り口と設定することで、そんなに先の話ではなく、すぐにでも有効な対策を講じないと2040年にはこういう状態になってしまうということを、具体的な姿で描き出して見せたところに大きな意義があると思う。
 2040年は、わたしはヨボヨボのじじいになりながらも、もしかするとまだ生きているかもしれない。だが、高齢者は遅かれ早かれいなくなるのである。そのあといったいどういう状況になっているのか、わたしより若い人たちにとっては大問題に違いない。一方で高齢化に伴う諸問題などもあるわけだから、わたしのような者も無関係でいるわけにはいかないのである。

 少子化にともなう人口減少は、同時進行した「長寿化」により高齢者数が増え続けたことで、見かけ上隠されてきた。多くの国民の目は、目前の「高齢化」とそのための対策に向けられ、慢性疾患のようにじわじわと忍び寄る少子化が、自分たちの街や暮らしにどのような影響を与えるかについては、危機感を募らせることも、認識が共有されることもなかった。高齢者すら多くの地域で減少しはじめ、「人口減少」という問題が姿を現すに至り、ようやくこの問題の深刻さに気づきはじめたところである。

 過疎と高齢化による限界集落というようなものが問題とされたことがあったが、人口減少の問題というのは、その根底にある様々な要素を的確な視点で関連させ、その動向を総合的に把握することからしか判断できないものである。現象としての限界集落というものを指摘したところで、解決の道筋は見えてこないだろう。
 「人口動態」という言葉が本書の冒頭一行目に示されているが、それをどう把握しどう考えていくのかということが、「産業政策、国土政策、雇用政策、社会保障政策など、あらゆる政策」を考える場合の基盤になければならないのである。

 創成会議の推計が優れている点は、国の機関・社人研の推計人口に依拠しつつ、そこに「生まれる子どもの95%は20~39歳の女性の出産による」という事実を噛み合わせたことである。「20~39歳の女性人口(若年女性人口)」という指標を設定することで、人口の「社会増減(人の生死による自然増減に対して、いわゆる人口の流出・流入による増減)」というものに対する切り口が非常に明快なものになったと思う。
 いまある若年女性人口を基準に考えれば、この流出を止められない自治体は(当面は高齢化の問題に目を奪われているうちに)2040年には消滅可能性都市(2010年→40年の間に、若年女性人口の減少率5割以上)に転落するしかないのである。これは恐ろしい指摘である。

 一方で、少子化問題に関連して取り上げられることの多い出生率の問題について、わが国では2005年の1.26を最低として、それ以降2013年には1.43まで上昇しているというのだが、全体の人口が減少に転じていることを考慮すると、出生数(実数)としては依然減少が続いているのであって、今後も歯止めが掛かる見通しは立っていないというのである。これも重要な指摘である。率の回復は実数の回復ではないのである。
 人口を維持するのに必要な出生率を「人口置換水準」と言うのだそうだが、様々な要素を加味して現在のそれは大体2.1と考えられているという。当面、その水準を回復するためにどのような施策が可能かが考えられなければならないのだが、この一つを取っても簡単に解決できるような問題ではないのが判ると思う。しかも、人口の「社会増減」によって若年女性人口の多くはいわゆる大都市に流入し続けているのだが、大都市ではおしなべて、出生率は平均よりずっと低い数字になっているのである。2011年の数字で、東京都1.06、札幌市1.09。

 もう一つ重要な指摘がある。出生率が人口置換水準の2.1を回復しても、人口減少が止まり安定するまでには大きなタイムラグが避けられないということである。仮に2030年に出生率2.1が実現できたとしても、人口減少が止まるのは60年後になってしまうという。2090年、人口は9900万人になるらしい。
 つまり、人口減少というのはいままさに進行中の「事実」であって、出生率が変わらなければ、その指し示している未来は最初の引用の中にあった社人研の推計の通りなのである。出生率2.1の回復というのは恐ろしく困難な課題のように思えるが、やらなければ2100年には5000万人を切ってしまうのである。2.1回復が5年遅れるごとに、60年後の安定人口数は約300万人ずつ減少していくのだという。

 本書では、当面どんな視点に立ったどのような施策が必要かを提言しているが、問題があまりに多岐に渡るため、その一つ一つは詳しく検討されることにはならず、やや総花的に羅列されただけという印象になっている。確かに、この先は政治や行政が本腰を入れて検討しなければならないことだと思うが、もう少し、ここだけはどんなことがあっても手をつけなければいけないというような、メリハリのある提言にしてほしかった気もする。
 本書の後半に3つの対話編というのが置かれているのだが、その1は増田氏と藻谷浩介氏(日本総合研究所主席研究員、「里山資本主義」など)、その2では増田氏と須田善明氏(宮城県女川町長)そして小泉進次郎氏(自民党衆議院議員)が参加している。小泉氏は復興大臣政務官であることから呼ばれたようだが、こうした問題に積極的に切り結ぼうとする姿勢は評価できると思った。たとえば民主党の細野豪志氏といった、立場は違っても見どころありそうな若手(?)議員を集めて、この問題をどう考えるのか対話する機会のようなものが作れたらいいのにと思った。

 本書でわたしが最も興味を覚え何度も見返したのは、巻末に36ページにわたって付された「全国市区町村別の将来推計人口」という表だった。例の社人研の推計データ(平成25年3月)に準拠しつつ、全国の市区町村別に、①若年女性人口変化率(20~39歳、2010→40年)、②2040年若年女性人口、③2040年総人口、④2010年若年女性人口、⑤2010年総人口を並べたものである(但し、福島第一原発の事故の影響で市町村別の人口の動向および今後の推移を見通すことが困難として、福島県だけが表から除外されている)。
 この表において、①若年女性人口の変化率がマイナス50%を超える(と推計される)896自治体が「消滅可能性都市」であり、そのうち2040年に人口1万人未満になる(と推計される)523自治体は「消滅可能性が高い」として、グレーの網掛けが施されているのである。896であれ523であれ、あるいはそれ以外であれ、どの自治体にも現実に住民が暮らしているのであり、そこには首長がいてともかく行政が機能しているのである。そういう人たちは、この推計の数字をどんなふうに読み取ったのだろうか。

 そういう人たちばかりではない。若年女性人口変化率で896自治体から逃れた自治体でも、その多くはかなり高いマイナスの数値を示しているのである。リスト発表の時に、豊島区は-50.8%でギリギリ896の中に含まれてしまい話題になったが、表を見るとそのすぐ下に(表は若年女性人口変化率マイナスの高い順に並べられている)ほんの僅かな差で896入りを免れただけの、青梅市-48.2%、福生市-46.6%、足立区-44.6%などが並んでいるのである。因みに、わたしの住む八王子市は-28.2%だった。
 本書でも1章を割いて検討を加えているが、プラスになっている自治体というのは全国にたった15しかなく(しかもその多くが1桁の下の方)、きわめて特殊な例外にすぎない。本書はここから人口減少対策のあり方を探ろうとしているが、全体的な減少傾向の厳しさからすれば、焼け石に水の印象を拭えない気がした。

 本書では「人口減少社会・日本」の縮図とも言えるとして、やはり1章を割いて、北海道を一つのモデルとして検討を加えているのだが、ここにある現実は非常に厳しいものである。わたしは旅をするようになって、北海道が大好きになったから、何とも言えず辛い気持ちになった。
 たとえば小樽市は、若年女性人口変化率-66.0%、実数で見ると(2010年→40年)、若年女性12937人→4404人、総人口131928人→66696人。
 幾つか書き抜いてみると、函館市、変化率-60.6%、実数、若年女性30746人→12115人、総人口279127人→161469人。釧路市、変化率-59.5%、実数、若年女性20168人→8159人、総人口181169人→106085人。根室市、変化率-58.2%、実数、若年女性2930人→1225人、総人口29201人→15714人。・・・

 北海道には、炭坑の閉山によってもはや市とは言えなくなってしまったような市が存在する。北海道は「消滅可能性が高い」としてグレーに網掛けされた自治体が多数あるのだが、そのグレーに埋まった表の、上から3番目に夕張市、4番目に歌志内市が並んでいるのである(町や村が多数を占める中で、それはきわめて特異な印象を与える)。
 夕張市は、変化率-84.6%、実数、若年女性653人→100人、総人口10922人→3104人。歌志内市は、変化率-84.5%、実数、若年女性311人→48人、総人口4387人→1271人となっている。それにしても何という数字だろう。このまま行けば、2040年には若年女性が夕張市100人、歌志内市に至っては48人しかいなくなってしまうのだという。

 ネットで歌志内市のホームページを開いてみた。「日本一小さな市・歌志内」とあった。2014年11月30日現在で、人口は3859人に減っていた。教育というページを見ると、市内には小学校と中学校が1つずつあり、小学校には68人、中学校には29人の児童生徒がいた(2013年4月1日現在)。1学年に10人前後の子どもがいることになる。
 歌志内市には鉄道は通っていない。中学生たちは卒業すると、バスで近隣の市にある高校に通うことになるのだろう。ただ、近隣の市の状況もきわめて厳しいものがあり、若年女性人口変化率と2040年の若年女性実数は、赤平市が-69.4%、287人、滝川市が-60.0%、1828人、砂川市が-50.7%、908人である。各自治体がバラバラで考えていても、もうどうにもならない状況になっていると思った。そして、北海道で起こっていることは遅かれ早かれ日本全国に波及することなのである。

 本書には「東京一極集中が招く人口急減」というサブタイトルが付いていて、これがもう一つの大きな問題として提起されているのだが、長くなりすぎてしまった気がするので、感想としてはこの問題は割愛させてもらうことにする。
by krmtdir90 | 2014-12-22 14:19 | 本と映画 | Comments(0)

映画「緋牡丹博徒・お竜参上」(菅原文太の死から)

 菅原文太の死を伝えるニュースを聞いた時、思い出したのは「雪の今戸橋」のシーン(「緋牡丹博徒・お竜参上」1970年)だった。
 菅原文太と言えば「仁義なき戦い」シリーズ(1973年~)や「トラック野郎」シリーズ(1975年~)が有名だが、「仁義なき戦い」だけは確か何本か見たと思うが「トラック野郎」の方は見ていない。それ以前にも、彼には「現代やくざ」「関東テキヤ一家」「まむしの兄弟」といったシリーズものがあったが、たぶんどれも見ていないと思う。タイトルからして敬遠してしまうような感じで、彼の演じていたキャラクターというのは、わたしには当時あまり見たいと思うようなものではなかったのである。
 だから、「緋牡丹博徒・お竜参上」も菅原文太だから見に行ったわけではない。藤純子の任侠映画「緋牡丹博徒」シリーズとして見に行ったのであり、そこにたまたま菅原文太が客演していたということである。「お竜参上」はシリーズ6作目にあたり、監督は加藤泰である。

 映画館で見たのは大学生の時で、その後たぶんテレビ放映された時にも見ていると思うが、いずれももうずいぶん昔のことである。今回ぜひもう一度見たいと思ったが、そのためにはDVDを捜して購入するか、まだ一度も行ったことがないレンタルショップで借りてくるしかない。
 実は、ついこのあいだまではあちこちで見かけたレンタルショップが、いまやどこにもなくなってしまっていることに初めて気付いた。いまはネットで借りてポストに返却という宅配レンタルにほとんど置き換わってしまったらしい(世の中の変化について行けていないと思った)。
 ネットで、初めてそういうものを調べてみた。幾つかの選択肢があり、そのどれもが1ヶ月のお試し期間というのを設けていることが判った。その期間内なら何本借りても無料になるらしい。見たいのは「お竜参上」だけなのだが、宅配は2本単位になるというので、「緋牡丹博徒・花札勝負」と併せてリストに登録した。学生時代、外国映画中心のわたしと違って日本映画特にヤクザ映画を追いかけていた友人が、加藤泰は「お竜参上」より「花札勝負」の方が上だと言っていたのが記憶の片隅にあったのである。わたしはそれを見ていない。

 すぐに送ってくるのかと思っていたら、一週間ほど待たされた。その間に、もっとたくさんリストに登録してくださいというメールが届いたりして、一ヶ月後に解約されないように相手もいろいろ考えているのかと思って、まあ別に急いでいるわけではないしと放っておいたら、昨日ポストに届いていたのである。
 早速、「お竜参上」を再見した。
 わたしの中で、この映画は加藤泰と藤純子によって記憶されていたものであることを確認した。菅原文太は記憶の中のイメージよりずっと若かった。調べてみると、彼はこの時39歳だったはずである。藤純子は25歳。菅原文太は年齢よりずっと若く見え、藤純子は年齢よりずっと貫禄があった。画面では二人はちょうどバランスが取れているように見えた。東映が任侠路線から実録路線に切り替わることでスポットを浴びることになった菅原文太が、消えていく任侠映画の中に唯一その姿を刻印した作品ではないかと思った。

 「雪の今戸橋」というのは別れのシーンである。知っている人にはもちろん説明は不要だろう。知らない人にはくどくど説明したところで仕方がない気がする。だが、記憶に残る名シーン・ベストスリーに入るのは確実だと思う。今回見返してみて、作品全体としての出来は今ひとつという感じがしたが、このシーンの素晴らしさはもう一度感じることができた。
 妹の遺骨を持って故郷・岩手に帰るという流れ者の渡世人・常次郎(文太)を、お竜(純子)が見送るシーン。交わされる少ない言葉と二人の押さえた演技の内にそれぞれの秘めた思いが揺れる。汽車の中でとお竜が渡す弁当包みの中から、蜜柑が一個こぼれ落ちるのである。雪の上を転がる蜜柑。お竜が拾い上げ、雪を払って常次郎に手渡す。
 初めて見た時の、背筋に走ったゾクッとする感覚を忘れない。ああ、こういう表現があるんだという衝撃。二人は何も言わないが、この蜜柑が言葉や仕草からこぼれた二人の思いを鮮やかに語っている。

 今戸橋は、いまは埋め立てられなくなってしまった、浅草に近い山谷堀に架かっていた橋だという。この橋は映画の大詰め、殴り込みにつながるいわゆる道行きのシーンで再び背景となる。今度は雪ではなく夜霧に包まれた橋の上、覚悟を決めたお竜に「お供します」と寄り添うのは、帰ってきた常次郎・文太である。
 続く立ち回りのシーンはあまりいいとは思わない、日本家屋を基本とした横に展開していく立ち回りではなく、浅草・凌雲閣を舞台としたため、狭い階段を使って上に向かうという縦に展開する立ち回りになった。公開当時、その斬新さを評価する評もあったように記憶しているが、やはり障子や襖が次々に倒れて部屋が移っていくオーソドックスな殺陣の展開の魅力にはかなわないと思った。
 大詰め、日本髪がほどけてざんばらになったお竜が敵・鮫洲の政五郎を屋上に追い詰め、政五郎は転落してしまう。傷を受け血だらけの常次郎(文太)が現れ、後の始末は自分がつける、そう決めたんだと告げて立ち去ろうとする。追おうとするお竜の顔のアップが大きくぶれたままストップモーションになる。この終わり方も非常に印象深く、記憶にはっきりと残っていた。

 「緋牡丹博徒・お竜参上」は、今戸橋の別れを始め記憶に残る幾つかの美しいシーンを持っているが、任侠映画の話の展開としてはやや雑然として面白くないように感じた。年に3本も作られるシリーズものの6作目ともなると、話の作りなどにはやはり雑な部分や乱暴なところなどが散見されることになってしまうのかもしれない。
 だがこの映画は、任侠路線の中ではあまり生きることのなかった、のちの実録路線になって東映を支えた菅原文太というスターを、任侠映画の枠組みの中に見事に生かして見せた作品として、しっかりと記録されなければならないと思った。

 なお、今回レンタルの都合で初めて見ることになった「緋牡丹博徒・花札勝負」についても、簡単に触れておくことにする。
 これはシリーズ3作目で、「お竜参上」で菅原文太が演じた流れ者の渡世人という役回りを、同じく亡くなった高倉健が演じているのも因縁めいている。監督の加藤泰はこれがこのシリーズ初メガホンだった。
 任侠映画の出来としては、確かにこちらの方が上だと思った。話の展開にも無理がないし、見せ場も多い。冒頭、いきなりお竜が仁義を切る美しいシーンがあって、映画の中にぐいと引きずり込まれてしまう。この仁義の口跡を始めとして、賭場での様々な所作、普段の立ち居振る舞い、啖呵、そしてもちろん大詰めの立ち回りまで、演じる藤純子も見事なら映像にする監督の加藤泰も見事で、全体として作り出された冴えた美しさは相当なものだと思った。高倉健もさすが任侠映画の健さんという安定感を見せていて、畑違いの菅原文太と比較しては文太が可哀想だが、自分なりの味をしっかりと出し切っていたと思った(もちろん、「お竜参上」で文太は文太なりの人物造形をしっかりやり切っていたのは言うまでもないことだが)。

 それにしても。
 高倉健、11月10日没、享年83歳。菅原文太、11月28日没、享年81歳。
 晩年の生き方はそれぞれだったようだが、高倉健は文化勲章を受章し国民栄誉賞も云々されているのに対し、菅原文太にはそういう話は全く起こってはこないだろうと思う。映画の中にいた時、わたしは菅原文太をあまりいいとは思っていなかったが、それはもちろんスクリーンで彼が演じた(演じさせられた)役どころのなせることであって、俳優引退後の彼の軌跡は強く印象に残るものだったと思っている。
 今回ネットなどをいろいろ調べていて、彼(菅原文太)が近年の映画制作環境の変化について、「デジタルはお断り」と発言していたことを知って、さすが文太と感心したのである。

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 シリーズの中で「お竜参上」のポスターだけが上のような作りになっていて、藤純子・加藤泰以外に出演俳優の名前などが記載されなかったのはいまとなっては残念である。
 下はDVDのパッケージ。雰囲気は出ているが、やはり出演俳優の名前などはない。菅原文太の姿と雪の今戸橋は出ているが、やはりこういう感じの普通のポスターがほしかった気がする。
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by krmtdir90 | 2014-12-20 12:51 | 本と映画 | Comments(0)

投票率のこと

 52.66%というのは、いくら何でも低すぎるのではないか。2人に1人しか投票に行っていないのである。日本という国が壊れ始めていると感じる。
 わたしも若い時は選挙に行かなかった。だから、いまは行っているといっても大きなことは言えない。でも、どうしてこんなことになってしまったのか。

 衆議院選挙が現在のような小選挙区比例代表並立制で実施されたのは1996(平成8)年のことである。だが、この時の投票率は59.65%だった。これ以前はいわゆる中選挙区制で、投票率はほぼ70%前後で推移していた。中選挙区制最後の1993(平成5)年は67.26%だった。
 実は、小選挙区制が導入されて投票率は低下したのである。2000(平成12)年は62.49%、2003(平成15)年は59.86%だった。

 小選挙区制というのは、いまさら言うまでもなく二大政党制を前提とした制度である。政権党に対する批判を、もう一方の党に投票することで政権交代を可能にする。
 政権交代の可能性が出て来た2005(平成17)年には投票率は67.51%になり、政権交代が実現された2009(平成21)年には69.28%まで回復した。この数字も決して高いものとは思わないが、わたしは大きなことは言えない立場である。
 民主党政権について安易な評価や決めつけはしたくないが、いま思うと、これをつぶそうとする狡猾な力が各方面から様々なかたちで働いていたような気がする。期待が大きな失望に変わった前回2012(平成24)年、投票率は59.32%まで落ち込んでしまった。

 そして、今回である。
 現政権に対する不満や危惧はかなり大きいものがあったと思う。しかし今回、二大政党制のもう一方の党がなかった。民主党にとって、政権にあった期間が否定されてしまったのは仕方がないことだろう。問題は、そのあと何をしていたかである。二大政党制のもう一方の党というのは、政権にない時に何をしていたかが問われるのではないか。
 選挙に際して、政権交代可能なもう一方の党が存在しなければ、有権者が白けてしまうのは当然である。今回の低投票率の責任の大半は民主党にあると言っていいのではないか。下野して2年にもなるのに、定数の過半数の候補者も立てられず、党首が落選してしまうような体制でいったい何をしてきたのだろうか。

 結局、政権にない側が常に政権交代が可能なかたちを用意してくれるのでなければ、投票率はさらに低下することもあり得るかもしれない。もし万一50%を切ることがあったら、それは議会制民主主義の死を意味しているのではないか。そこまで、あと2.66%の余地しかないのが判っているのだろうか。
 複雑な政治的争点を単純化して対立するばかりだから、結局みんなが人気取りに終始するようになり、真の政治的解決をうやむやに回避してばかりいる。数合わせの離合集散はもういいから、民主党は自前の候補者をすぐに全選挙区に用意することから始めなければおかしいのではないか。

 つい先日までニュースを賑わせていた香港の学生デモのことを思う。民主的な選挙を行うことができない彼らは、日本の民主的選挙が52.66%の投票率しかなかったことをどう感じているのだろうか。
 若いころ選挙に行かなかったわたしは大きなことは言えないけれど、2人に1人というのはいくら何でもではないか。何かいたたまれないような気持ちになるのである。
by krmtdir90 | 2014-12-15 22:11 | 日常、その他 | Comments(0)

「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」(矢部宏治)

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 この本は近所の小さな本屋の棚に一冊だけ並んでいた。一見センセーショナルな題名のように見えるが、実はきわめて真面目な探究の書であるように思われた。そして、読んでみるとその通りの本だった。
 実は見つけたのは前日の散歩の途中で、その時は何となく二の足を踏む感じがあって、翌日になってやはり気になって買いに行ったのである。本との出会いは本屋の棚にしかないのを再確認した。本屋の棚で時々、本が読んでもらいたがっていると感じることがあるのだ。

 例によって、この著者については何の予備知識もなかった。だが、履歴がどうとかではなく、この人は本物だと思った。
 この人は素人である。沖縄の基地問題について調べ始めたのは2010年からだと、まえがきの中で率直に告白している。最初から党派性や既成の立場に依拠している人ではなく、ゼロから出発してここに辿り着いたのである。それでいながら、どこをつついてどこを突き詰めれば問題の核心に迫ることができるか、たぶん執筆に至るまで試行錯誤はあったのだろうが、結果的に非常に明快な筋道を示してくれていると思った。わたしのような不勉強な人間にとって、そうだったのかと教えられるところがたくさんある本だった。

 この本では、ことの本質がどこにあるのかがいきなり提示される。まず、次の文言。
「日本国の当局は、(略)所在地のいかんを問わず合衆国の財産について、捜索、差し押さえ、または検証を行う権利を行使しない」(「日米行政協定第十七条を改正する議定書に関する合意された公式議事録」1953年)
 これは2004年の沖縄国際大学・米軍ヘリ墜落事故の際、日本の警察や消防が事故処理や捜査に一切関与できなかった根拠とされる文書である。米軍は「合衆国の財産」が存在するところを、日本中どこでも「治外法権エリア」に指定できるという取り決めである。

 また、次の文言。
「前項の航空機〔米軍機と国連軍機〕およびその航空機に乗りくんでその運行に従事する者については、航空法第六章の規定は、政令で定めるものをのぞき、適用しない」(「日米地位協定と国連軍地位協定の実施にともなう航空法の特例に関する法律・第三項」1952年)
 航空法第六章とは、最低高度・制限速度・飛行禁止区域など航空機の運航について定めた五七条から九九条までを指しているようだ。米軍機はそうした決まりがすべて適用除外となる、つまり米軍機については日本国内を一切の規制なしに飛んでよいと定めた法律である。

 さらに、次の文言。
「日米安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度な政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は(略)裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする」(在日米軍の存在が憲法違反かどうかをめぐって争われた砂川裁判に対する最高裁判決「判決要旨六」1959年)
 この判決によって、安保条約を中心としたアメリカとの条約群(安保法体系)が、憲法を含む日本の国内法より上位にあることが定まってしまった、きわめて重大で罪深い判決だったと指摘されている。そういうふうに認識しなければならないことを、本書によって教えられた。

 また、次の文言。1957年、日本のアメリカ大使館から本国の国務省に宛てて送られた在日米軍基地に関する秘密報告書。1952年にサンフランシスコ講和条約によって日本は主権を回復したことになっているが、この時締結された旧日米安保条約および日米行政協定によって、日本国内の米軍基地と米軍とがどのようなことになっているかを報告した文書とされる。アメリカで機密解除された公文書の中から発見されたものだという。少し長いが、書き写してみる。
「日本国内におけるアメリカの軍事行動の(略)きわだった特徴は、その規模の大きさと、アメリカにあたえられた基地に関する権利の大きさにある。行政協定は、アメリカが占領中に保持していた軍事活動のための(略)権限と(略)権利を、アメリカのために保護している。安保条約のもとでは、日本政府とのいかなる相談もなしに(略)米軍を使うことができる。/行政協定のもとでは、新しい基地についての条件を決める権利も、現存する基地を保持しつづける権利も、米軍の判断にゆだねられている。それぞれの米軍施設についての基本合意に加え、地域の主権と利益を侵害する数多くの補足的な取り決めが存在する。数多くのアメリカの諜報活動機関(略)の要員が、なんの妨げも受けず日本中で活動している。/米軍の部隊や装備(略)なども、地元とのいかなる取り決めもなしに、また地元当局への事前連絡さえなしに、日本への出入りを自由におこなう権限があたえられている。すべてが(略)米軍の決定によって、日本国内で演習がおこなわれ、射撃訓練が実施され、軍用機が飛び、その他の非常に重要な軍事活動が日常的におこなわれている」
 なお、沖縄の基地問題に関連してよく話題になる日米地位協定というのは、1960年の新安保条約にともなって締結されたもので、その際、先の日米行政協定によって保障された基地使用に関する米軍の権利は、まったく変わることなく続くことが日本政府によって約束されたのだという。

 きりがないので書き抜くのはこのくらいにしておくが、沖縄の基地をめぐる様々な問題がことごとく理不尽なかたちでしか決着できない理由が、すべて根拠あるものだったことがきわめて明確に示されているのである。
 本書の最初の方に、いきなり「日本人自身は米軍基地の問題にいっさい関与できない。たとえ首相であっても、指一本ふれることはできない。自民党時代には隠されていたその真実が、鳩山政権の誕生と崩壊によって初めてあきらかになった」とある。以下、その具体的な経過が示されるのだが(普天間基地の移設先を鹿児島県徳之島にするという秘密情報を、外務省・防衛省官僚が新聞社にリークして、結果的にこの計画を潰してしまった。アメリカの意向を無視した計画だったからである)、これだけでその闇の深さに愕然とさせられるのである。

 原発の問題についても、日米原子力協定というものが日米地位協定と同じようなかたちで存在し、アメリカ側の了解なしに廃炉とか脱原発を決められない仕組みになっているのだという。同じく民主党・野田政権の決断が、この壁の前に跳ね返されてしまったことが明らかにされている。あれだけの過酷事故を起こしながら日本が原発を止められないのは、日米原子力協定が憲法を含む日本の国内法より上位にあるという、日米地位協定と同じ法的構造が存在しているからだという。

 この本の凄いところは、ここまでの約100ページで書名となった疑問点に解答を与え、それで終わるのではなく、更にこのあと180ページほどを費やして、なぜそんな構造が作られ、戦後70年も温存されてしまったのかを解き明かしてみせる部分である。もう書き抜くことはしないが、この中身というのは、知っている人は当然知っていることなのかもしれないが、わたしのような政治的にはいいかげんな生き方をしてきた人間には非常に勉強になったし、ことの本質を明快に整理して見せてくれたと思う。
 1952年の講和条約で日本が主権を回復した(とされた)時、普通なら撤退すべき占領軍(米軍)がなぜ撤退せずに残ることになったのか、同時に、この時結ばれた旧日米安保条約によって占領地域(基地)がそのまま残されることになったのはなぜなのか。そして、沖縄や福島で様々な人権侵害が起こっているのに、なぜ日本という国は毅然とした態度でその不当を主張することができないのか。

 国内に外国軍の基地を持ち続け、それを国民がおかしいと思わない独立国などというのはありえない。そんな国は地球上どこにもないというのが一つの結論であり、出発点でもあるのだろう。そして、憲法が自国民の人権を守れないようになっている独立国というのもどこにもないのである。著者は、1992年に米軍を完全撤退させたフィリピンの例や、1994年に米英仏ソ駐留軍を完全撤退させたドイツの例などを挙げて、日本がどうすればいいのかを提起している。
 だが、結局は国民がことの異常を認識し、その状態を終わらせることを願わなければ何も始まりはしないのである。「米軍基地の提供とひきかえに、外交と安全保障をすべてアメリカに任せっきりにして、国際社会への復帰をはたし」た日本は、「アメリカに従属していれば、その保護のもとで『世界第三位の経済大国』という夢を見ていられ」るけれども、「その結果、日本は世界でただ一国だけ、国連における『敵国』という国際法上最下層の地位にとどまっている」、つまり日本は真の意味で独立国とはなりえていないのだという著者の主張は、すべての日本人が真剣に受け止めなければならないことだと思う。

 最後まで読み終わって、あとがきの中に次のような記述があるのを発見した時、わたしはこの著者の誠実さを見た気がした。
「私は政治的には中道・リベラル派の人間ということになるのでしょうが、現在の明仁天皇、美智子皇后のおふたりに対しては、大きな尊敬の念をもっています。/本書でこれまでのべてきたような、沖縄、福島で起きている重大な人権侵害、官僚や政治家たちによる立憲主義の否定、そうした問題について間接的な表現ながら、はっきりと遺憾の念を公式に表明されているのは、国家の中枢においてはおふたりだけだからです」
 確かにその通りだと思う。

 本文中においては、昭和天皇が戦後日本の枠組みを作るに際してどのような役割を果たしたのか、その枠組みの問題点を容赦なく解明する中で、昭和天皇に対して相当厳しい指摘もおこなっていた著者である。しかし、著者はまた同じあとがきの中で、坂口安吾の「続堕落論」(1946年)から次の一節を引用しているのである。
「天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。(略)/自分みずからを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼らは天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた」

 このバランス感覚は納得できると思った。様々な意見や立場の交錯する難しい政治の問題を扱いながら、決して一面的な決めつけに陥っていないのである。だからわたしが、最後まで納得して読み切ることができたのだと思う。いい本に出会うことができたと思った。
by krmtdir90 | 2014-12-11 13:41 | 本と映画 | Comments(4)

もつ煮込み

 きょうの午後は、ちょっと思い立ってもつ煮込みを作ってみた。4、5年前に何回か作ったことがあるが、けっこう時間がかかって大変なので、このところしばらく作っていなかった。午前中、スーパーで豚もつの袋詰めを見かけて、何となくその気になって1キロほど買ってきてしまった。買ってきた以上、作らなければならない。

 実は、最初にもつだけを灰汁を取りながら1時間ほど茹でて、柔らかくしなければいけなかったのである。生姜の輪切り、長葱の青い部分、お酒などを加えてちゃんとやり始めたのだが、途中でつい面倒になり(魔が差した?)、きょうは20分くらいで切り上げてしまった。この段階でもつを食べてみなかったのが失敗だった。
 大根・人参・牛蒡・蒟蒻を加え、味噌で味付けをして、弱火でコトコト煮ていたのだが、もつがなかなか柔らかくならない。仕方がないので一旦火を止め、また夜になってから改めてコトコトしようと決め、部屋に戻ってきた。

 わたしの料理バイブルのうちの一冊「おつまみ横丁」(池田書店)にも、ちゃんと1時間と書いてあるではないか。初めて作った頃、どうも同じ失敗をしていたことをおぼろげに思い出した。せっかちなのは、わたしの悪いところである。だが、まあ仕方がない。今夜はこれで、とりあえず晩酌が楽しみである。
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by krmtdir90 | 2014-12-10 17:18 | 日常、その他 | Comments(2)

映画「幕が上がる」への期待(ドリアン仮面さま、ももいろクローバーZファンの皆さまへ)

 平田オリザの「わかりあえないことから」の感想を書いた時、「幕が上がる」の映画化のことに少し触れたら、ももいろクローバーZのファンだという方から思いがけずコメントが届いたのである。その方は、わたしのような「幕が上がる」や平田オリザのファン?ではあるけれど、ももいろクローバーZについてはよく判らないという者のために、ご自身のブログにわざわざお手紙を書いてくださったと言うのである。
 早速、そのブログ(ドリアン仮面、色つきの非日常)を開いて、その記事(RE:「わかりあえないことから」(18→81)~そして、平田オリザファンの皆様へ)を読ませていただいた(併せて、この映画化に関する他の記事2つも)。これまで全く知ることのなかった世界について教えていただき、なるほどと感心してしまうことも多かった。ブログの縁というのは不思議なものだと思った。
 そこで、お礼の気持ちを込めて、わたしもちょっとお返事を書いてみようと思ったのである。


 ドリアン仮面さま。
 丁寧なお手紙をありがとうございます。まったく思いがけないことでしたが、ももクロファン(モノノフと言うのですね。初めて知りました)の真剣な気持ちが伝わってきて嬉しくなりました。これではわたしも、映画を大ヒットさせるために何かしなければいけないのではないかと、まあ現役引退した身では何もできるわけではないのですが、とにかく共感の思いだけは伝えたいと思い、こうして返事を書くことにしたのです。

 わたしは安易に大ヒット間違いなしというように書いてしまったけれど、貴兄の書かれていることを読むとそんな簡単なことではないと心配になりました。何より、ももクロのファン(教えてもらってすぐにモノノフという言葉を使うのは気恥ずかしいので、この言い方で許してください)の数が、全国で10~20万人(確実なところは10万人?)という点から話が始まっているところに、ファンとしての貴兄の誠実さを感じました。
 ひとりが10回見に行っても、あの「踊る大捜査線」の観客動員数の10%にしかならないと言われてしまうと、何となくアイドルが出ればヒットするのだろうと短絡的に考えていた自分の安易さに気づかされました。

 わたしは「できればそんなに混んでいない映画館で」静かに見て来たいなどと、ファンからすると言語道断なことを書いてしまった者なので何とも申し訳ないのですが、もちろんせっかく映画化したのにこけてしまったらやはり残念だし、ファンたるもの混んで入場制限が掛かるくらいのヒットを願うのは、きわめて自然な心理だろうと思います。わたしは、混んでいたら混んでいたで別にかまわないのです。ホントです。

 ただ考えてみると、ももいろクローバーZというグループの5人(全然知らないのですけどね)にとって、大切なことはそこではないような気がしたのです。貴兄は「アイドル映画はヒットしない」という風説?を受けて、次のように書いていらっしゃいました。

 正直申しまして、私も、もし本作品の主演が別の「アイドル」だったら見に行ったかどうか…。原作は非常に面白いと思いましたが、主演がアイドルという偏見が邪魔をして、どうせつまらない、原作のイメージを大切にしておいた方がよい、と思って見に行かない。(一部略)
 それが、多くの一般の方のイメージではないかと思っています。だから今回の興行は失敗するのではないかという不安でいっぱいです。

 確かにアイドルグループのファンとしては至極もっともな不安なのかもしれません。最初の一週間が勝負というようなことも書いていらっしゃいましたが、でもそれは、逆にこの映画を狭い「アイドル映画」の範疇に押し込めてしまうことになるような気がするのです。
 最近は世の中全体がせっかちになっているので、すぐに結果を求めがちになってしまうのですが、昔から映画のヒットには「じわじわくるヒット」というのがあったと思うのです。最初はそれほどでもなかったのに、口コミやら何やらで(最近ならネットで?)良さが徐々に浸透していって、いつの間にか思いがけないヒットになっていたというやつです。制作サイドがどう考えているかは判りませんが、ももいろクローバーZにとっても小説「幕が上がる」にとっても、少し紆余曲折のあるそういうヒットが、たぶん一番いいかたちではないかと思えるのです。

 今回の映画の中で、ももいろクローバーZがアイドルとしてしか存在できていないのであれば、それはこの映画化が失敗だったということだと思います。大切なことは、この映画があのすばらしい小説世界を映画としてちゃんと作品化できたかどうかということであり、それが人々の間に伝わるためには、たぶん「じわじわ」という感じのある程度の時間が必要だろうと思うのです。だって、ももいろクローバーZのファンでもなく、小説「幕が上がる」の読者でもない観客を惹きつけなくてはヒットにはならないのですから、ね。
 貴兄も「見てくれれば、見てさえくれれば、彼女達がただのアイドルでないことは気付いてもらえるはず」と言っていらっしゃる。わたしはももいろクローバーZのことは何も知らないのだけれど、平田オリザが彼女たちにワークショップを行ったという経過などを知ると、これはどちらも本気だなというのが伝わってきて、期待できるかもしれないと思ったのです。少なくとも平田オリザは(そして、たぶん監督の本広克行も)、彼女たちをアイドルとは見ていない。そしてたぶん、彼女たちもアイドルとしてこの映画に出演しているわけではない。

 実は以前、小説「幕が上がる」の感想をアップした時に(2013.5.3)、文章の最後に「まさかそんなことはないと思うが、映画化はしないでもらいたい」と書いてしまったのです。それは小説があまりにすばらしかったので、そのイメージを壊されたくないという当たり前の心理だったわけで、結果的に、今回のニュースに触れた時に「えーっ、アイドルかぁ」と思ってしまったのも事実なのです。
 でも、昔からそうですが、アイドルはいつまでもアイドルでいることはできない。だから、卒業というようなことがいつも話題になるのだし、過去のアイドルを見ても、上手に卒業したり次のステップに上がることのできたアイドルばかりではないと思います。ももいろクローバーZはまだこれからもしばらく現役アイドルなのかもしれないけれど、もしこの映画が成功したら、次のステップの一つを確実に見通せることになるのではないかと思うのです。そういう映画になっていてほしいと願うのですがどうでしょう。

 ところで、貴兄は手紙の中で40代の中年ファンであることを正直に述べておられるので、わたしも正直に述べなければと思います。

 わたしはもう60代半ばを過ぎた老年(高年?)です。普通、この年齢で小説「幕が上がる」を読む人はほとんどいないと思うし、映画「幕が上がる」を見に行く人も(アイドル映画らしいし…)ほとんどいないと思います。
 実は、わたしは定年まで埼玉の高校で国語教師をしていて、そのかなりの期間を演劇部顧問として過ごしてきたので、この年になっても高校演劇とは縁が切れず、その関係でこの本を読み、この映画を見に行ってもいいかなと思っているのです。
 それと、わたしは学生の頃からずっと熱烈な映画ファンでもあったので(過去形なのは、20世紀の終わり頃から映画そのものが大きく変質してしまったように感じて、いまはもう全く見に行かなくなってしまったので)、今回の映画化には、映画がまだアナログだった時代へのちょっと懐かしいような気分が働いた気もするのです。演劇の世界って、絶対にアナログですからね。

 さて、高校演劇の側から観客動員のことを考えてみます。
 以前は、日本全国の高校に演劇部の数は2500ぐらいあったと思います。でも、現在は生徒数も減り高校の数も減っていますから、たぶんその数は2000~2200ぐらいではないかと思います(埼玉の場合、120~130ぐらいをピークに、現在は100校を割り込んでしまっている)。部員数は、何十人も抱える大所帯もないわけではありませんが、10~20人というところが標準的な規模で、数人の部員が細々とというところもけっこうあるようです。
 部員数の平均を15人としましょうか。15人×2100校=31500人。うー、全然ダメですね。でも、中学にも演劇部はありますね。それと、顧問もいるわけだから……。
 どうやらどんなに多めに見積もっても、高校演劇とその周辺に存在する関係者の数は5万人には届かないような気がします。その全部が映画を見に行くわけじゃないのだし……。
 でも、自身は演劇部ではなくても、この「幕が上がる」に描かれたような世界に興味を持っている層というのは、現在の高校生や中学生の中にたくさん存在していると思います。わたしなどは、そうした層がこの映画に影響されて、各地で演劇部の部員数が飛躍的に増えてくれないかなどとつい夢見てしまうのですが、甘いですね。

 ただ、どうやら貴兄もそうだったようですが、かつて高校時代に演劇部だったというOB・OGの存在というのは、今回の観客動員のカギを握っているような気がします。高校卒業とともに、そのほとんどは演劇とは無縁の世界で生活を始めているわけですが、この人たちがかつて一生懸命がんばっていた自分たちへの懐かしさから、映画館に足を運んでしまうというのは案外ありそうなことと思えるし、そのハードルは高くないような気がするのです。
 部活の仲間って、卒業後もお互い連絡を取り合っていることが多いじゃないですか。そのひとりがこの映画を見て「よかった」ということになれば、同じ代だった仲間たちも見に行く確率は非常に高くなるのではないでしょうか。果たして今回の映画化が、かつて演劇部だったOB・OGたちを感動させられるものになっているかどうか、です。演劇部というもののリアリティ、ですね。
 結局のところ、映画の出来がすべてなのだと思います。小説の方は、現役部員であろうとOB・OGであろうと、「読んでくれれば、読んでさえくれれば、この小説がただのお子様小説でないことは気付いてもらえるはず」なのですから。

 スタートダッシュかじわじわヒットかは判りませんが、いずれにせよ公開前後に好意的な批評がどのくらい出てくるか、ネットなどに好意的な意見がどのくらい書き込まれるか、そのあたりが重要なポイントになるような気がします。
 わたしは映画の感想は率直に書こうと思います。つまらなかったらつまらなかったと、面白かったら面白かったと、ね。でも、貴兄がブログに書いていらっしゃった、ももいろクローバーZの5人が宛て書きじゃないかと思うくらいぴったりだというのを読んで、楽しみがいっそうふくらんだような気がしています。待ち遠しいですね。

 どうもまとまりのない手紙になってしまいました。みなさんのがんばりで、ひとりでも多くの観客が「ももいろクローバーZ」と「幕が上がる」に触れてくれたらいいなと思っています。では。
by krmtdir90 | 2014-12-05 14:38 | 本と映画 | Comments(10)


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