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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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「火花」(又吉直樹)

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 イオンモール日の出の1階にあったけっこう大きな書店の入り口近くに、かなりの冊数が平積みになっていた。奥付に3月15日第一刷発行とあるから、まだ単行本として出来上がったばかりなのだろう。これが掲載された「文學界」2月号が異例の増刷を重ね、創刊以来最高の部数を売ったというニュースは知っていたが、特に読みたいという気持ちがあったわけではない。
 作者がピースというコンビで活躍するお笑い芸人であることも知ってはいたが、最近のお笑い芸人に格別興味があったわけでもないし、あの髪の毛を長くした、一見あまり気持ちいいとは言い難い風貌のせいもあって、親近感よりはむしろ敬遠したい気分の方が勝っていたというのが率直なところだと思う。だから、買ってしまったからといって別にそれほど期待していたわけではない。

 読み始めてすぐに、失礼な言い方だがこれはちゃんと読まないといけないぞと思った。失礼な言い方だが、「文學界」が金儲けのために話題に乗ったのではなく、あくまでも純文学の期待の新人としてこれを掲載したのだということが判った。
 読みながら、あの気持ちいいとは言い難い風貌が(くどい)時々浮かんできて困ったが、いくら芸人であっても、見た目で人を判断してはいけないとみずからに言い聞かせた(実はわたしも若い頃、一時髪の毛を長くしていた時期があって、それはいまのわたしからすると、やはり否定されて然るべき恥ずかしい過去になっているのである)。

 文章は決して上手いとは言えない。けっこうぎこちない表現があちこちに散見されると思った。実は、冒頭2番目の一文で早くも引っ掛かってしまった。
 「熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。」
 読み始めたばかりなのに、文としてどこかおかしいような気がした。この言葉の据わりの悪さは何だろうと思った。文全体の主語は「沿道」で、要するに「沿道は・賑わっている」ことを言っているのだが、間に挟み込まれた描写のぎこちなさは普通ではない。
 前半は「沿道(の踏み石?)は白昼の激しい陽射しの熱気をまだ残していて、その熱気を夜気の中に溶かしている」ということと思われるが、本文では「沿道」が「溶かし」に短絡されることで、「沿道」が「溶かす」という行為の主体であることが強調され、「沿道」が「夜気」を用いて「溶かし」ているように思えた。これは文の後半では一層顕著で、「沿道」はほとんど擬人化されたようになって、草履に「踏ませる」という行為を行っているように思えたのである。この奇妙な感覚は何なのだろう。

 だが、最初に引っ掛かったけれど、これは出だしゆえの緊張?から来るぎこちなさだったのかもしれない。読み進むにつれて、ぎこちなく見える短絡的な表現というのがこの小説の面白さになっているような気がしてきた。それは、屈折した率直さというようなものなのかもしれない。この文体は決して読みやすいものではないが、様々なことに器用になれない主人公2人の愚直な行動や会話を表すのに、この感じが必要だったようにも思えたのである。
 売れない漫才師の片割れ同士がひょんなことから出会い、それぞれのコンビは維持したまま、4歳違いの師弟関係を結ぶことで辿ることになった10年の月日の物語である。確かにお笑い芸人の話だが、いわゆるタレントさんが書いたような笑ってください的な作為は微塵も見られない。むしろ、そういう作為の外面(そとづら)から最も遠い地点でお笑い芸人を捉えようとした作品だと思う。お笑い芸人であろうとする、お笑い芸人でありたいと願う2人の人間の結びつきと乖離とを、その関係の変遷というものを、どこまでも真面目に追いかけようとした作品である。たぶん、野心作と言っていいのではないかと思った。

 弟子の「僕」から見ると師匠ということになる、先輩芸人「神谷さん」の行状が「僕」の目を通して語られていくのだが、この人物の嘘くささというか、その先に見え隠れする本物めいた気配というか、人間としての極端なアンバランスのようなものが描かれていて面白い。
 それは一見すると胡散臭いもののようにも見えるのだが、その先に優しさとか弱さといったストレートな真情が隠れていたり、或いは愚かさとか臆病といった負の性情と、それを必死に押さえ込もうとする強がりといった心の動きが潜んでいたりするように思えるのである。
 ストレートのように見えて微妙に変化する球というのはなかなかバットに当たらないらしいが、この作者はけっこうくせ球を投げているように見えて、案外ストレートな勝負を挑んでいるような気がした。いつの間にか、それが読者の胸に当たってくるように思えた。そういうシーンが中盤あたりから幾つかあって、そのたびにかなりジワッとした気持ちにさせられるのである。

 原稿用紙にして230枚という作品らしいが、もっと分量があるような印象を受けた。シーンを描くのに費やされる言葉が少なく、その選び方にぎこちなさが感じられてしまうのだが、書き方としては端的で、余計な装飾がないだけスッキリしていて潔いと思った。思わせぶりなだけのくどくどした描写がないから、読者の想像力に訴える部分が多く、それだけ書かれている内容としては盛り沢山になっているのかもしれない。言葉足らずのように見えるけれど、そこに喚起されるイメージはけっこう鮮烈であるような気がした。
 「僕」の漫才コンビ「スパークス」が、相方の結婚を機に解散することになり、その最後を飾るライブシーンは泣かせる。屈折を重ねた10年間の最後に来るストレート勝負である。だが、もちろん小説はここでは終わらない。お笑い芸人の物語の終わりには、やはりどうしてもアッと言わせる「オチ」が必要だったのだろう。

 だが、この「オチ」は(ネタバレはさせません)ちょっとどうだったのだろう。「神谷さん」という人物は確かに想像を超えた奇矯さを持っているが、それはこういうかたちの行動として表れるようなものではないように思えるのだ。彼の行動は突飛なように見えても、それをその都度きちんと認識して反芻する意識は持っているのではなかろうか。出会いの初めのところで「僕」に、「なぜ漫才の時、女言葉で叫んでいたのか」を聞かれて、「その方が新鮮やろ、必然性なんかいらんねん」と答えた問題とは違うのである。
 この「神谷さん」の行動は、自己否定とか自己処罰といったようなものでもないようだし、酔った上での軽はずみな行動とも考えにくい。これだけの行動に踏み切るためには、金銭的なことも含めて相当な心身の準備が必要だっただろうし、躁鬱の躁に任せて突っ走ってしまったというようなことでも、とても説明がつくことではないように思えるのである。
 この小説の中で、彼がこの行動に踏み切ったという点だけが、唯一説得力に欠ける部分なのではではないかと思った。

 それでも、少なくとも先日読んだばかりの今期芥川賞受賞作「九年前の祈り」(小野正嗣)などより、ずっと刺激的だったし、魅力的な話だと思った。内容的にも文章的にも(そこに描き出された「真実」も)、こちらの方がずっと重みがあると思った。
 芥川賞はつまらない、この先もう読む必要はないという評価はわたしの中でいまや決定的なものになりつつあるが、この「火花」が今年上半期の芥川賞候補になるというようなことはないのだろうか。もっとも、もし受賞というようなことになってしまったら、お笑い芸人・又吉はいったいどうするつもりなのだろう。
by krmtdir90 | 2015-03-19 22:00 | 本と映画 | Comments(0)

映画「幕が上がる、その前に。彼女たちのひと夏の挑戦」

 昔風の捉え方をすれば、これは一種のドキュメンタリー映画に分類されるものかもしれない。だが、何と言えばいいのだろう、これはもっと軽やかで肩肘張ったところがない、語弊を恐れずに言うなら、何とも無責任な映画なのではないか。
 一昔前の映画だったら恐らくあり得ない、テレビの特別番組のような映画だと思った。「完全密着400時間」などというのは、映画がデジタルになったから成立したのであって、映画「幕が上がる」の撮影の様子をずっと記録しておいて、あとでそれを一本にまとめて公開してしまおうという作戦が、たぶん最初からあったに違いない。これは、テレビ番組の発想だと思う。

 つまらなかったわけではない。むしろ、大変面白かった。
 普通に考えれば、この映画を観に行くのはモノノフ(ももいろクローバーZのファン)の人たちが大半ではないかと思われるが、別にモノノフではないわたしも十分に楽しめたと思う。モノノフ向けに編集したのだろうなと思われるところも多かったが、まあそれはある程度仕方がないかなという感じで(本編にもけっこうあったし)、全体がバックステージの映像だということが、モノノフでない人間にも十分楽しめるものになっていた理由だと思う。
 ずっと演劇部の顧問をやってくるうちに、わたしは本番の舞台よりも、リハーサルや裏方の様子の方が興味深いと感じるようになってしまったことがある。この映画は、そういうところを次々に見せてくれるので、それだけでお得感いっぱいという感じだったのである。裏側を見てみたいという演劇や映画のファンにとっては、見どころの多い映画になっていると思った(映画の現場が、フィルムではなくデジタルの現場になってしまっているのは残念だが)。

 最初のあたりで、平田オリザ氏によるワークショップの様子がかなり見られるのが、まず大変興味深かった。著書「演技と演出」で読んでいて、具体的なやり方などは知っているものだが、ももクロのメンバーを中心にそれが実際に行われるところを見せてくれるので、なるほどなるほどという感じで楽しかった。
 また、彼女たちが取り組むことになる「銀河鉄道の夜」の一部を、実際にオリザ氏が稽古して見せるところも面白かった。明美ちゃん(佐々木彩香)演じる先生の出だしのセリフ「さて」を、何遍も何遍もやり直しさせるところなど、オリザ氏の指摘や指示の具体的内容も含めて、もう少し見ていたいという気分になった。それと、映画で演出役のさおりを演じることになる百田夏菜子に、実際に演出を体験させるところなども非常に面白かった。

 アイドルとしてはずいぶん高みに上り詰めた感のあるももクロだが、もちろん演劇については全く初心者だったところを、平田オリザ氏や監督の本広克行氏が上手に刺激して、次第に開花させていくところがよく記録されていると思った。映画においても演劇においても、自然なセリフまわし、自然なやり取りというものが追求されていて、演技全体の方向性として非常に共感を覚えたのである(平田オリザ氏の著書には、わたしもけっこう学ばせてもらっていたから)。
 本広監督が、台本にあるシーンのセリフが終了してもなかなかカットの声を掛けず、投げ出された彼女たちが必死に役に即したやり取りを続けるところが(何カ所か紹介されているが)よかった。百田演じるさおりと、高城れに演じるがるるの二人が、転校生・中西さん(有安杏果)に会いに行く教室のシーン、さおりが行ってしまった後(映画はここまでなのだが)、後に残ったがるるが一生懸命中西さんと接点を持とうとする、がるる・高城れにが一体になったアドリブは見事だと思った(映画ではこのシーンは使われることはなかったが)。

 さおり(百田)と中西さん(有安)が心を通わせる印象的なシーン、岳南電車・比奈駅のホームでの撮影の様子をじっくり見せてくれたのも嬉しかった。映画では(観たのは1回限りだから)さおりの方にばかり目が行っていたが、中西さんの方もしっかり見ることができた。有安杏果もすごくいい演技をしているなと思った。
 彼女たちが、テイク3とテイク5のどちらがいいかについて、本広監督と話すところもいい。舞台では本番のテイクは一回限りで、それが最良のテイクでなかったとしても、選ぶことは出来ないのだが(地区大の本番で、始業の鐘を落としてしまった明美ちゃん《佐々木》のショックは大変なものなのだ)、映画は選ぶことが出来るのである。だが、本広監督はこんな子どもたち(ももクロ)に、自分たちなりの感覚をぶつけられるのは初めての経験だったのではないか。それはたぶん、監督としては何とも新鮮で、嬉しいことだったに違いない。

 演劇部の顧問として、(演劇の場合、本番のテイクは選べないから、これは稽古の時の意見の相違として現れるのだが)こういう部員が出てきた時の嬉しさは言葉にし難いものがある。ああ、この子は自分とは違う感覚でこの芝居を見ているのだという発見は、大人としての自分を、一気に成長途上の高校生の感覚に引きずり込んでくれる。それが楽しくて、ずっと顧問を続けてこられたような気がしている。こっちの方が絶対いいと言い張る部員が出てきた時、その演劇部は全国切符よりも素晴らしいものを手にしたのだと思う。
 もちろん、顧問はその時「何をっ」という気持ちで渡り合うのだが、その時、顧問と部員は対等であり、それはこの上なく嬉しいことなのである。この時の本広監督の表情(けっこう戸惑っていたみたいだけれど)から、わたしはそんなことを感じ取ったのである。
 いずれにせよ、このシーンは(本編も「その前に」も)記憶に残る名シーンだったと思う。背景となる駅のホームの佇まいとともに、この2人の芝居は忘れ難い。

 中西さんがかつて所属していた強豪演劇部の一員として、「修学旅行」(畑澤聖悟)の1シーンを演じるところも面白い。この演劇部が畑澤聖悟氏率いる青森中央高校なのだが(たぶん)、全国レベルの高校演劇の一つの到達点であるこういう舞台作りを、平田オリザ氏や本広克行氏がどう考えているのか、本音のところを聞いてみたい気がする。小説では、中西さんはこういう芝居作りに馴染めなくて転校することになっていたので、有安杏果の感想も聞きたい気がした(まあ、彼女はアイドルだから、否定的な感想は言わないだろうと思うけれど)。

 この映画では、畑の中の道をさおり(百田)・がるる(高城)・ユッコ(玉井詩織)の3人が自転車を走らせるシーンが、クランクインとクランクアップの日に撮影されたことを示しているが、映画「幕が上がる」は、ほぼ物語の時系列に従って撮影が行われ、その間にアイドルだったももクロが役者として成長し、物語の中の演劇部員たちも演劇部員として成長するという、いわば二重構造の成長物語として、恐らく生涯に二度とない彼女たちの輝きをスクリーンに留めることに成功したと思う。
 ひと夏で、子どもたちは変わるのである。

 この「その前に」という映画は、こんなもの映画じゃないよという感想も、わたしの中には確かに少しだけある。でも一方で、テレビの特集番組だっていいじゃないかとも思うのである。映画「幕が上がる」は決してももクロだけの(モノノフだけの)映画ではなかったし、本広監督を始めこんなにたくさんの人たちがももクロと一緒に成長したのだという、ひと夏の記録としてはなかなか見どころの多い映画だったような気がするのである。
 ちゃんとした言葉として記憶していないのが申し訳ないのだが、最後のあたりで本広監督がももクロに言う「こんなに一生懸命撮ったことはなかった」というようなセリフは、心から出た本音のお礼だと思った。
 子どもたちの成長は、まわりの大人たちも成長させるのである。高校演劇の舞台はそういうものでありたいと思うのである。

 この映画は3月11日の公開時点から、一日1,2回程度の時間限定の上映だった。調べてみると、前回行った南大沢は夕方1回の上映しかなかったので、今回は11:55という上映があるイオンシネマ日の出(日の出町)に車で行ってみることにした。
 巨大なイオンモールの3階、ここの切符売り場(右)は自販機ではなく人がいた。入口は左。
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 きっぷを買ったら一緒にくれたカード。ももクロの5人が手分けして、全国の上映館127館を訪問するというプロモーションが15日に達成されたことを記念したカードである。別にどうということはないのだが、たぶんコレクションとしては欲しい人もいるのだろう。
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by krmtdir90 | 2015-03-17 21:34 | 本と映画 | Comments(0)

北陸新幹線の開業に寄せて

 テレビや新聞などで、北陸新幹線の開業が華々しく報じられている。東京・金沢間の所要時間が飛躍的に短縮され、それによってもたらされる経済効果が、あちこちで期待を込めて語られているようである。それを認めないつもりはないが、プラスばかりではないだろうという視点も忘れないようにしておきたいと思う。

 新幹線開業と引き換えに、きょう、並行する在来線(長野・金沢間)がJRから切り離され、第三セクター4社に分割して経営移管された。
 具体的に言うと、長野県内の信越本線(長野・妙高高原間)が「しなの鉄道」に、新潟県内の信越本線(妙高高原・直江津間)と北陸本線(直江津・市振間)が「えちごトキめき鉄道」に、富山県内の北陸本線(市振・倶利伽藍間)が「あいの風とやま鉄道」に、そして石川県内の北陸本線(倶利伽藍・金沢間)が「IRいしかわ鉄道」となったのである。
 この根拠となっているのが、1990年に政府与党によって合意された「整備新幹線着工等についての申し合わせ」というもので、そこに「建設着工する区間の並行在来線は、開業時にJRの経営から分離することを認可前に確認すること」と書かれているのである。また、その区間(範囲)について1996年の合意では、「具体的なJRからの経営分離区間については、(略)沿線地方公共団体及びJRの同意を得て確定する」とされた。

 つまり、どういうことが起こっているかと言うと、整備新幹線の在来線区間というのはもともと利用客のあまり多くない区間であって、新幹線開業でさらに利用客の減少が見込まれることから、そういう区間の赤字をJRは負担しなくていいことになっているのである。
 新幹線の建設は基本的には国の公共事業であり、その促進というのはきわめて政治的な意味合いが強いものである。ここで詳しく触れるつもりはないが、自民党政治というものにとって、この種の大型公共事業はなくてはならないものなのであり、新幹線を通すためならどんなことでもするということなのだろう。新幹線建設には莫大な予算が必要であり、赤字にしかならない在来線などは足手まとい以外の何ものでもないのである。

 上の「申し合わせ」というのは、JRから分離される並行在来線について、その後どうするのかという何の配慮も方向性も示してはいない。
 切り離されれば赤字になるしかないような路線を、新たに引き受ける民間会社などあるはずがないではないか。「申し合わせ」は、並行在来線は廃線になっても仕方がないと言っているのである。廃線にしたくなければ、沿線の地方公共団体で何とかしなさい(金を出しなさい)と言っているのである。新幹線が通れば便利になるのだし、いろんな経済効果もあるのだから、そのくらいの負担をするのは当然でしょうと言っているのである。
 第三セクターというのは、こうして作られた鉄道会社である。1985年、国鉄の分割民営化に際して日本全国で赤字路線が切り捨てられたが、この時、何とか廃線を免れようと各地で第三セクター会社が設立されたのが始まりである。しかし、国とJRの基本姿勢はその頃と何一つ変わってはいない。民営化の時というのは、国鉄の膨大な累積赤字を何とかしなければならないという大命題があったが、いまの整備新幹線に関わる問題は、その時とは全く違う性質のものではないだろうか。

 並行在来線が第三セクターに転換するとどういうことが起こるかというと、経営基盤が脆弱なのだから、まず何を置いても合理化が行われる。様々なコストカットが行われ、さらにそれは運賃値上げというかたちで利用者にのしかかることになる。普通運賃も定期運賃も必ず値上げされる。いままで第三セクターになった路線は例外なくそうだったし、これからも間違いなくそうなるはずである。
 移管後数年は経過措置というようなものが設定され、値上げ幅は小さく抑えられるのが普通のようだが、そんなものは長続きするものではない。日常の足として並行在来線を利用している人にとっては、新幹線開業は経済的負担を増大させるだけなのだということを忘れてはならない。北陸新幹線は、東京から金沢に行く人にはそれなりのメリットがあるかもしれないが、たとえば魚津から高岡に通勤(通学)している人にとっては何のメリットもないのである。

 東北新幹線(東京・新青森間)が全線開業したのは2010年であるが、この盛岡・新青森間というのは整備新幹線として建設されたもので、この区間の並行在来線(東北本線)は、岩手県内が「IGRいわて銀河鉄道」、青森県内が「青い森鉄道」という第三セクターに移管された。最新の時刻表で調べてみると、IGRの盛岡・目時間というのは営業キロが82.0キロ、運賃は2360円となっている。もしJRのままだったとすると、82.0キロは1490円だったはずなのである。
 同様に、九州新幹線・鹿児島ルートが開業したのは2011年だったが、並行在来線(鹿児島本線)のうち八代・川内間は第三セクター「肥薩おれんじ鉄道」となった。これも調べてみると、この区間の営業キロは116.9キロで、運賃は2620円。もしJRのままだったならば、運賃は2130円だったはずなのである。
 数年後には、北陸新幹線の並行在来線も同じような運賃体系の格差を甘受しなければならなくなるだろう。新幹線は、在来線の途中駅を(その周辺自治体を)例外なく切り捨てるのである。

 ここでもう一度「整備新幹線着工等についての申し合わせ」を見返してみたい。「具体的なJRからの経営分離区間については、(略)沿線地方公共団体及びJRの同意を得て確定する」とはどういうことなのか。
 今回の北陸新幹線では、並行在来線はたまたま全区間が経営分離されたのだが、実はJRは、経営分離したくない区間があればJRに残すことも出来るのである。JR九州は、新幹線開業後も黒字が見込める博多・八代間と川内・鹿児島間をJRに残し、途中の利用者の最も少ない区間だけを分離することにしたのである。北陸新幹線の前段であった長野新幹線開業時に、JR東日本が高崎・長野間の信越本線のうち、高崎・横川間をJRに残したのも同じ理由からである。
 ついでに触れておくと、この時第三セクター「しなの鉄道」に移管されたのは軽井沢・長野間だけで、横川・軽井沢間というのは、鉄道として残されなかった(廃線にしてしまった)のである。どういう経緯があったのか知らないが、何というバカなことをしたのかと言いたいのである。

 いずれにせよ、北陸新幹線が地方創生の起爆剤となるというような論調には、ちょっと待てと言いたい気がする。新幹線で恩恵を受けるのは、「一極集中」を加速させる東京と、金沢や富山といった「地方中核都市」(増田寛也)だけではないのか。そういう、点と点との間にこぼれていく地方の鉄道利用者をどう考えるのか、そういう視点を忘れて安易に浮かれるのは、われわれ鉄道ファンの姿勢として、即刻やめなければいけないと思うのである。上っ面だけ見て大風呂敷を広げる輩に、われわれは惑わされてはいけないのである。
by krmtdir90 | 2015-03-14 21:36 | 鉄道の旅 | Comments(0)

映画の魅力がいっぱい(映画「幕が上がる」・その2)

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 原作のある映画の場合、原作とどういう距離を取るのかは難しい問題だと思う。映画と小説は全く異なる表現形式だし、小説が小説として充実した豊かな内容をすでに持っている場合などは、映画はどうしてもダイジェストにならざるを得ないし、そのあたりの作戦というか戦略の立て方はきわめて難しいものになってくるだろうと思う。映画「幕が上がる」は、ここを非常にうまく突破して見せたのではないか。
 ずっと気になっていたわび助の処遇についても、カットされていることを了解していいと思った。結局2時間足らずの映画では、入れられるエピソードは、かなり限られたものになってしまうのは仕方がないことなのだ。しかも、映画が単なるダイジェストに終わるのではなく、これが映画「幕が上がる」なのだとアピールしてみせるためには、映画独自の表現と言えるものも、きちんと積み重ねていかなければならないのだろう。この脚本(喜安浩平)は、そこのところをよく考えて書かれているのではないかと思った。

 わび助の代わりに明美ちゃん(佐々木彩香)のイメージをふくらませることで、2年生部員同士とはあくまで別の、1年生部員との関係をきちんと意識させることに成功していると思った(彼らは途中で3年生と2年生に進級するが、新しい1年生も含めた学年相互の関係というようなもの)。また、この映画はももクロ主演の映画だから、ももクロ以外の部員たちはどうしても後景に退くかたちになるのだが、わび助ではなく明美ちゃんを媒介にしたことで、他の部員たちが存在感を増すことにもつながっていたのではないか。明美ちゃんがさおり(百田夏菜子)に抱きつくシーンは映画独自に作られたシーンだが、たまたまそこに来合わせたももクロ以外の3人の部員たちが、これで生かされたところなどがそれである。
 孝史先輩をカットしたのも了解できる。原作の方のあのギクシャクした感じは小説ならば面白いけれど、もし描くとすると映画的にはかなりバランスを失してしまいそうな気がした。代わりに、2年生からちゃんと支持されている女子の3年生にしたことで、さおりの「負けるのは嫌なの」という思いもスッキリ腑に落ちるものになったと思う。東京での合宿の夜にみんなで観に行く小劇場で、卒業後も演劇を続けている彼女の姿を見せる設定にしたのも効果的だった。

 結局、この映画は、彼女たちが大会で上演する「銀河鉄道の夜」という舞台や、その制作過程で遭遇するはずの様々な困難やその解決への努力といった、実は原作のストーリーにとっては非常に重要な部分を、案外サラリと通り過ぎてしまう作戦を取っていると思った。芝居が良くなっていく過程というのはそう簡単に描けるものではないし、そう簡単に上手くなるはずがないというような感想があったとしても、それはこの際、判った上で無視してしまっていいのだろうと思う(あの「スウィングガールズ」が、楽器が上手くなる過程を省略したのと全く同じことである)。
 言うまでもなく、映画はまず映像が始まりなのであって、映像的に表現できるものの積み重ねが優先されるのは当然のことなのである。そういう意味で、原作から削られず残されたシーンには、小説では描けなかった思いがけない印象を付け加えたシーンが結構あったように思った。

 出だし、地区大会で負けたシーンを、顧問の溝口先生(ムロツヨシ)と部員たちとの気持ちのズレとして的確に表現したのは、(ムロの演技はちょっとやり過ぎという感じもしたが、部員たちの微妙な表情を引き出すにはこのくらいの誇張が必要だったのか)映像の力というものだと思った。空き地で大道具などを燃やすシーンでも、遠くにポリタンクの水を運んでくるムロの姿を配することで、言葉にし難い、大会で一つになれなかった空しいような彼女たちの空気を、よく表現していたと思う。
 さおりが部長に祭り上げられてしまう経緯や彼女の性格なども、映像は説明抜きでスッと表現し切ってしまう。このシーンは、映画の始まり方としては、地味だが秀逸といっていい出来映えになっていると思う。さおり(百田)も良かったが(表情も喋り方も)、ユッコ(玉井詩織)やがるる(高城れに)も自然ですごく良かった。溝口先生の使い方も上手いと思った。負けのシーンやこういうシーンの雰囲気を最初にきちんと描いたことで、これはいい映画になるぞと思わせてくれたと思う。
 新入生歓迎会での出し物を、まるでなっていない「ロミジュリ」にしたのも判りやすくて良かったのではないか。彼らの手応えのなさとか、どうしていいか判らない感じなどがああいう形になっているのがよく判った。

 吉岡先生(黒木華)の登場のさせ方、部員たちとの絡め方などは、映画の時間的制約がある中で少し単純化されてしまうのは仕方ないことだと思った。そのため、展開にやや強引な感じもあったと思うが、全体としては納得できるかたちに収まっていたと思う。
 彼女の去り方というのも、映画としてはこんな感じでいいのだろうと思った。それにしても、黒木華という役者の存在感、芝居の上手さはさすがと言うしかない。ももクロは彼女と競演することで、正しい芝居のお手本を見ることができたのではないか。
 もう一つ映画の力を感じさせてくれたのは、滝田先生を演じた志賀廣太郎の存在感だった。この低音の声には、映画だからこその有無を言わせぬ説得力があったと思う。「銀河鉄道の夜」を題材にさおりが台本を創作するというのが、小説ではもう一つスッキリ来ないような印象があったのだが、この滝田先生の授業が彼女の中に、(ぼんやりして、聞いていているのかどうか判らないように見えて)無意識に引っ掛かっていたに違いないと思わせられたのである。これは大きかったと思った。

 その彼女の、台本創作の苦労はバッサリ切ってしまった。これも良かったと思う。代わりに、なぜ「銀河鉄道の夜」なのかというところは、映画は原作よりスッキリと納得させてくれたと思う。
 さおりと中西さん(有安杏果)が素晴らしい二人芝居を見せる、夜のプラットホームのシーン。闇の中からやって来る一輌の小さな電車のヘッドライトに、中西さんが「銀河鉄道みたい」と呟く、それがさおりに台本のひらめきをもたらすというのは、十分説得力があったし良かった。直前の、「人間は完全にひとりぼっちだ」という中西さんに対して、さおりが「いまは二人だよ」と笑いながら応える素敵なやり取りが生きていると思った(脚本が手に入らないので、正確なやり取りをここに再現できないのが残念だ)。駅のホームは、やはり人と人とが出会う場所なのだ。
 この撮影が行われたのが岳南電車の比奈駅で、田舎のローカル線の古びた小さな無人駅のホームが見事に生かされていて嬉しかった。田舎だけれど近くに大きな工場などもあって、背後に人家や生活の気配が感じられる駅ということで、絶妙の選択をしたなと思った。岳南電車はこの機会を捉えて、記念きっぷを発売したり、「幕が上がる」のヘッドマークを付けた電車の運行を始めたらしい。映画が地方の弱小私鉄の強力な応援になっているのは嬉しいことである。

 さて、この映画が、ストーリーとして県大会の緞帳が上がるところで終わりにしたのは大正解だと思った。映画が始まってもなかなかタイトルが出てこないので、これはもしかすると、どの大会になるかは判らないが、こういう終わり方をするのではないかと思っていたら、その通りになった。エンドマークではなく、初めて「幕が上がる」というタイトルを置くことで、ここからが彼女たちの始まりなのだという、作者たちの応援のメッセージがストレートに伝わってきたと思う。小説では彼女たちは全国への切符を手にするが、ここから先は大切なのは勝ち負けではないんだという、この映画の終わり方の方がわたしはずっと好きだと思う。
 終わり近く、県大会の舞台仕込みをする部員たちとともに、彼女たちを残して去った吉岡先生(黒木)の現在の姿、女優・吉岡美佐子の稽古風景などを挿入したところも(例の、卒業して小劇場で頑張る先輩の姿もあったと思うが、確認できない)、小説にはなかった、映画だから出来た温かい表現になっていたと思う。

 こういうふうに、映画の途中でこうなるんじゃないかなと予想が出来て、それが当たるとその映画の監督への評価は飛躍的に上がる。
 関係ない話だが、はるか昔に観た映画で、テネシー・ウィリアムズの一幕劇「財産没収」を映画化した「雨のニューオリンズ」(1966)という映画があった。実はあのラストシーン、ここでカメラが空に舞い上がったらいいなと思った瞬間、まさにそのタイミングでその通りふわっと舞い上がってくれたことがあったのである。映画の舞台になった鉄道線路の俯瞰に主題曲の高まりが重なる。これでわたしは、シドニー・ポラックという監督をいっぺんに好きになってしまった(因みにこの映画には、ナタリー・ウッド、ロバート・レッドフォード、チャールズ・ブロンソンといった凄いメンバーが出ていたのだが、日本では全くヒットしなかった。配給側もやる気がなかったようで、プログラムも存在しないのである)。

 「幕が上がる」のエンディングは、予想通りの胸にじわっと来る感動的なものだったが、その後に何が用意されているかは全く予想外だった。すぐにクレジットタイトルに移るのだが、それと一緒に映し出される映像とバックに流れる歌は、ももクロがアイドルであることを最大限満喫させてくれる素晴らしい「おまけ」になっていた。
 それにしても、アイドルというのは戦略的に作られたものであるのは事実だとしても、ももクロの彼女たちというのは、そこから大きくはみ出している感じがあると思った。やらされている表情とかやらされている言葉といったものではなく、しっかりした自分たちの表情や言葉というのを持っていて、そういうものを各自が自分の感性で自然に表に出すことのできるアイドルなのではないか。本広克行や平田オリザの働きかけもあったかもしれないが、それをしっかり吸収して、魅力あるキャラクターを一人一人提示してみせることが出来ていたことに驚かされたのである。この映画は、彼女たちの存在があって初めて成立したワクワク感が、隅々まで溢れた映画だったと思う。

 ストーリー的には特に何でもないような瞬間に、彼女たちの自然な魅力が詰まっていたと思った。自転車で走るシーンとか、教室や廊下などでの彼女たちの様子とか。
 5人の中で相対的に出番は少なかったように感じたが、個人的にはがるるをやった高城れにのキャラクターが際立っていたように思う。こういう感じの子、確かにいたよなと思った。がるるという存在を、120%演じ切っていたのではないだろうか。他の4人もそれぞれ良かったけれど、とりわけ存在感を感じたのはがるるだったと思う。
 上映時間の絡みもあったのか、さおり(百田)を主人公として小説以上にクローズアップすることになった関係で、位置付けが若干低下してしまったユッコ(玉井)と中西さん(有安)のキャラクターが(その印象が)、他の3人と比べると少しだけ弱かったような気もした。でも、この2人にはそれぞれ、さおりとのおいしい「二人シーン」(東京合宿のベッドシーン?と、さっき書いた比奈駅のホームのシーン)が用意されているから、それで十分なのかもしれない。

 総合的に見て、小説とはまた違った意味の、素晴らしい青春ドラマに仕上がっていたと思う。小説「幕が上がる」に対して、映画「幕が上がる」をしっかり主張していたと思った。

 最後に、どうしても気になってしまったことを一つだけ付け加えておく。。
 大会で上演した「銀河鉄道の夜」で、カンパネルラを演じた中西さん。男の子を演じるのだから、あの長い髪の毛は絶対に何とかしなければいけない。女子が男子をやらざるをえないことがよくある高校演劇で、これは最低限の約束事になっていると思う。地区大会の審査員は誰でも指摘すると思うし、そこだけ大きな違和感になってしまったのは残念だった。
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by krmtdir90 | 2015-03-03 16:13 | 本と映画 | Comments(4)

十数年ぶりの映画館(映画「幕が上がる」・その1)

 映画館で映画を観たのは十数年ぶりではないかと思う(二十年にはなっていないと思うが、それにかなり近いかもしれない)。若い頃は、年間100本以上コンスタントに見ていた時期もあったのに、すっかりご無沙汰になってしまった。久し振りに出掛けた映画館の様子は、以前とは全く違うものになっていた。
 初め、どこか旅先の映画館で観るというのもいいかなと思っていた。ところが、「幕が上がる」の公式サイトで上映館のリストを調べてみると、いまや東京近郊の映画館も含めて、地方の上映館のほぼすべてがイオンシネマとかTOHOシネマズといった、いわゆるシネコンと呼ばれる、大型商業施設と一体化することで大規模駐車場を持つ郊外型の施設になっているようだった。駅に近い市街地の映画館というのは、いつの間にかほとんどなくなってしまっていたのである。
 いまは車で映画館に行くのが普通なのかもしれない。だが、そういうことはしたことがないし考えたこともなかった。どうも大きく時代に後れを取っていることに気付かされた。

 結局、最寄りの上映館の中で、TOHOシネマズ南大沢というのが京王相模原線・南大沢駅から徒歩30秒(!)とあったので、そこに行ってみることにした。
 このあたりは一応八王子市なのだが(南の外れ)、古くからの八王子の住民から見ると、昔はまるで何もない山の中だったはずの所である。それがすっかり開発されて、いまでは三井アウトレットパークや首都大学東京などもある立派な町に変貌を遂げていた。何もないところに一から造成された町だから、アウトレットパークも駅前だしTOHOシネマズも駅前なのである。天気もいいし、駅前もすっきりしていてお洒落である。
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 「幕が上がる」の初日は2月28日(土)だったが、何しろ十数年ぶりの映画館である。いつ観るかについてはかなり頭を悩ませた。初日はモノノフの人たちも来るだろうし、高校生なども来やすいはずだから、たぶん混み合うに違いない。やはり最初の土日は避けた方がよさそうだ。でも、なるべく早く観たい。となると、月曜日の朝イチ以外にないのではないか・・・。
 高校生は学校がある(はずだ)し、一人で最低5回(10回?)は通うというモノノフの人たちだって、働いていたらそう簡単には来られないだろう。どんなにヒットする映画でも、月曜日の朝イチというのは昔から空いていたものだ。そういう時間帯は、わたしのような退職して時間が余っている者が埋めなければならない。
 って、別にわたしはももクロのファンというわけではないし、何回も通うつもりはないけれど、ちょっとモノノフの人たちとの交流があったせいで、何としてもヒットしてほしいというモノノフ的発想に少し影響されてしまったかもしれない。

 というわけで、きょう10:00の回を鑑賞することにした。
 行ってみたら、4階の切符売り場には窓口がなかった。数台の自販機が並んでいて、9つあるというスクリーンのすべての切符をここで買えるらしい。自販機を操作して驚いたのは、時間指定は仕方がないとして、次々切り替わる画面で、座席も座席平面図から選んで指定するようになっていることだった。埋まっている席は灰色に表示されている。
 うーむ、そうなのか。しばらく来ないうちに、映画館もずいぶん進歩したのだ。しかし、30分前とはいえ、まだほとんど空席ばかり。これで大丈夫なのか?
 これがチケット。
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 映画館のシニア割というのを初めて利用した。1100円だった。安くて嬉しいというより、ちょっと悲しいような気分になった。札幌JRタワーのシニア割の時は感じなかった。たぶん若い頃、日常生活の一部のように通った映画館という場所だったからではないかと思う。

 9:50、開場。出入口のドアは一つだけで、時間になるとどこからか女の人がやって来て、チケットを確認した。シニアを証明するものの提示を求められるかと思ったら、そんなことはなかった。札幌もそうだったけれど、信用されている感じでこれはいいと思った。
 パンフレット売り場が見当たらないようなので聞いてみたら、向かいの一見マクドナルド風の広いカウンターが、昔の映画館の売店の進化したものだったようで、ドリンクやポップコーンだけでなくパンフレットもそこで売っているのだという。言われてみると、確かに脇の方にそういう表示があった。それにしても、何だか雰囲気がまるで違うので戸惑ってしまう。
 で、これがパンフレット。1080円。
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 横長横書きのB5版。ちゃんと厚さのある冊子になっている。TOHOシネマズの赤いビニール袋に入ったものを、カウンターの下から出してきた。

 さて、十数年ぶりに行った映画館の話ばかりで、全然映画の感想にならないのだが、書き始めたら何となくそうなってしまったのだから仕方がない。とりあえず、今回はこういう話で1回分ということにしてしまえ。

 このTOHOシネマズ南大沢の9スクリーンのうち、「幕が上がる」が上映されるSCREEN・1というのは2番目に大きい客席で、定員は372名であるらしい。モノノフの人たちが気にしていた文化部対決、「くちびるに歌を」はSCREEN・3での上映で、そちらは定員159名のようだから、ハコの勝負では勝っていたのだが、実は「幕が上がる」の10:00の回、上映が始まっても客席には7~8人の観客しかいなかった。
 うーん、月曜日の朝イチとはいえ、これはちょっと苦しいのではないか。「くちびる…」の方の入りはどうだったんだろうか。

 座席は広く快適だった。空いているから、ちょっとメガネを外して涙を拭くのも、周りを気にしないでよかったのでホッとした。
 しかし、十数年の間に映画はすっかり変わってしまった。何より、画面の感じが昔とは全く違うのに驚いてしまった。わたしが遠ざかっているうちに、映画館はみんなデジタル方式の映写になり、フィルム映写ではなくなってしまったのだ。それがこんなに明瞭に、画面の質の違いとして実感されるというのが驚きだった。きれいだけど深みがない。しっとりした感じが全然ない。

 家庭のテレビがデジタルになり、映像の鮮明さが飛躍的に向上したのがついこのあいだのような気がしていたが、映画館の映像がテレビと同じになってしまっていたのだ。これがいまの映画なのだとしたら、映画が何か全然違うものになってしまったような印象を受けた。本編の前に上映される予告編も、昔の予告編とは明らかに違うものだった。ちゃかちゃかとせわしないだけで、ゆったり盛り上がってくるワクワク感のようなものが欠けている。
 こののっぺりとしたデジタルの画面では、砂漠の彼方から点のようにしか見えなかったラクダと人影が次第に近づいてくる、「アラビアのロレンス」の冒頭シーンのような奥行きのある映像は、二度と映し出されることはないのだろうと思った。「緋牡丹博徒・お竜参上」の雪の今戸橋も、家のテレビで再確認するのなら仕方がないが、デジタル上映のスクリーンであの艶が映し出せるものかどうか、何だか悲観的な気分になってしまった。

 映画と映画館がすっかり変わってしまったことが、何より衝撃的な「十数年ぶりの映画館」だったのである。「幕が上がる」の感想はまた明日・・・。
by krmtdir90 | 2015-03-02 21:32 | 本と映画 | Comments(0)


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