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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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「福島第一原発事故7つの謎」(NHKスペシャル「メルトダウン」取材班)

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 いろいろな問題が未解決のまま棚上げにされ、それらについての記憶や問題意識が薄れていく中で、次なる目先の問題に人々の興味や関心が移っていってしまう。忘れてしまっていいはずのない問題が、目まぐるしく移り変わる時間の経過によって次第に色褪せていく。
 そういうことが繰り返されるうちに、おかしな方向が巧妙な目くらましとともに次々に打ち出され、この国はどんどん危険な領域に足を踏み入れているのではないか。このブログは政治的な問題とは一線を画しておきたいと思っているのだが、もちろん関心がないわけではないから、どうしてもそういうことに触れずにいられない時もあるということである。

 あれだけの過酷事故を引き起こし、何十万という人々の住む土地を台無しにしてしまった事実があるのに、いまだに事故の実態はほとんど明らかになっていないし、廃炉への道筋も見えていない。そうした中で、原発再稼働ということだけががもはや既定路線のようになって進行している。再稼働して電気料金を下げないと、せっかく回復してきた景気に悪影響が出てしまうけれど、それでいいんですかなどという誤魔化しが大手を振ってまかり通っている。
 景気回復は円安と株価上昇で利益を得られる人々のものでしかないし、こんな言い方は低劣な論のすり替えでしかないのだが、原発から遠く離れ直接の被害を受けなかった人々は、時の経過とともに何となく原発のことはもういいというような気分に流されてしまいそうになっている。

 NHKも、会長や経営委員に訳の判らぬ輩が送り込まれて以降、ニュースや解説番組での後退が顕著になっていると言わざるを得ない。だが、良心的な番組がNHKスペシャルといった番組枠で、時折ぽつりぽつりと放送されていたことは知っていた。ただ、わたしは番組表をチェックして熱心にテレビ番組を見るという習慣はないから、この本の元になった「メルトダウン」シリーズというのも、実は一本も見たことはないのである。
 だが、番組の方は見ていなくても、この本を読むことで、事故の真相に迫ろうとする粘り強い検証作業が行われたことは十分判ったし、その今日的意義についても理解できたと思う。あの事故は決して忘れてはいけないことだし、ますます目を光らせて、しつこく事故の全貌の解明に付き合っていかなければならないのだと感じた。

 「7つの謎」という書名に呼応して、本書には7つの章が立てられている。その各章に付けられたタイトルを書き抜いておくことにする。
 第1章・1号機の冷却機能喪失は、なぜ見逃されたのか? 第2章・ベント実施はなぜかくも遅れたのか? 第3章・吉田所長が遺した「謎の言葉」ベントは本当に成功したのか? 第4章・爆発しなかった2号機で放射能大量放出が起きたのはなぜか? 第5章・消防車が送り込んだ400トンの水はどこに消えたのか? 第6章・緊急時の減圧装置が働かなかったのはなぜか? 第7章・「最後の砦」格納容器が壊れたのはなぜか?

 各章に示された具体的な検証の過程やその答えについては、ここで繰り返すことはしない。だが、本書でも述べられている通り、この事故に関する「謎」はこの7つだけで終わるものではないし、いまだにメルトダウンした炉内の状況さえ把握できていないことを考えれば、こうしたことを忘れたりやり過ごしたりして(そういう方向に誘導して)、原発を再び動かすなどという選択肢が、いかに無謀なものであるかは火を見るより明らかと言うべきではないか。
 再稼働に向けて、原子力規制委員会が新たに作られた規制基準による適合審査を実施しているが、多くの「謎」や未解明の部分を残したまま見切り発車で作られた規制基準に、どれほどの責任が負えるものなのか全く疑わしいと言うしかないではないか。委員会自身が、審査は安全を審査しているわけではなく、規制基準に合格か否かを判断しているだけだとうそぶいているのである。

 本書が指摘している様々な事実は、原発の安全(そんなものがあればの話だが)にとってどれ一つ見過ごすことが許されるものはなく、とりわけ第6章・第7章で明らかにされていることは、適合審査などというものがいかにまやかしであるかを、白日の下にさらして見せていると思う。
 第6章に減圧装置とあるのはSR弁と呼ばれる装置のことらしいが、緊急時に原子炉内の圧力を下げる働きをするこの弁が操作不能になり、原子炉が制御できない高圧にさらされ、爆発による東日本壊滅の一歩手前まで行っていたという事実だけで言葉を失う気がするが、さらに、寸前で弁を開放できたのが現場技術者の勘とも言える手段であったということにも、言いようのない恐怖のようなものを感じるのである。
 しかも本書は、第6章を「最後の一線で踏みとどまったかのようにも思えるが、現時点では、SR弁の開放が事態の進展にどう影響したかは謎のままだ」と述べて終わっているのである。

 第7章の格納容器の破損のところでは、破損箇所が見つかっている1号機と3号機においても、他に破損箇所がないかどうかはまだ判らないとした上で、「現時点では、格納容器のどこが本当に壊れているのか、いまだ正確にはわかっておらず謎に包まれたままである。もしかすると、私たちがまだ想像していない場所に損傷箇所があるかもしれない。そうなれば、ようやく見え始めた格納容器の破損の原因も全く違うものになる可能性すらある。(一部略)放射能を封じ込める『最後の砦』のはずだった格納容器が、なぜ壊れたのかという最大の謎の解明は、まだ緒についたばかりなのである」と述べて章を閉じている。
 こんな現状であるにもかかわらず、規制委員会によって進められている適合審査とはいったい何なのか。見過ごすことの出来ない誤魔化しが「粛々と」進められていることに、言いようのない恐怖と怒りを感じるのである。
by krmtdir90 | 2015-06-29 14:46 | 本と映画 | Comments(0)

たま駅長の死

 和歌山電鐵貴志川線の貴志駅で、長年駅長を務めていた三毛猫の「たま」が、22日夜に死んだというニュースが、今朝の新聞などに写真入りで報じられていた。人間の死亡記事などと比較しても異例の扱いで、和歌山電鐵では28日に社葬を行うと書いてあった。何とも数奇な運命をたどった猫と言うべきだろう。

 たま駅長は、近年あちこちで見られるようになった動物駅長の先駆けとなった猫で、駅長に就任したのは2007年1月5日(辞令交付)のことだったという。
 貴志川線は元々、大手私鉄・南海電鉄の一路線だったが、利用者の減少から南海電鉄が撤退することになり、地元住民や自治体・商工会などによる存続運動が行われた後、県外の岡山電気軌道が100%子会社として和歌山電鐵株式会社を設立して、その経営を引き継いだものらしい(第三セクターではないから、当然経営は苦しいようだ)。
 たまが駅長に就任する人事(猫事?)が決まったのは2006年4月1日、貴志川線が和歌山電鐵として新たなスタートを切ったその開業日のことだったという。

 貴志駅に掲示されていたたま駅長のヒストリーと経歴に、そのあたりのことが書かれている。。
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 わたしが貴志駅のたま駅長に会いに行ったのは今年の4月9日のことで、ガラス張りの駅長室(檻)の中にあまり元気のない様子で寝そべっていた。何となく疲れているような印象を受けた。
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 新聞記事によれば、人間に換算すると80歳を超す高齢だったようで、先月(5月)から鼻炎のため勤務(駅長室に入ること)を休んでいたと言うから、すでにあまり体調は良くなかったのかもしれない。
 死ぬ前に一目会えたのは良かったと言っていいのかもしれないが、可哀想だったなという気もしたのである。わたしが行ったころは、勤務日数も減らしてもらっていたようだが、長年の勤務のストレスなども相当大きいものがあっただろうと思われた。

 たまが駅長に就任すると、当時のマスコミに大きく取り上げられ、海外などにも紹介されて大人気となり、たま駅長に会いに来る観光客の増加で、貴志川線の乗客数は8年後までに17%も増加したのだという。沿線に観光施設などほとんど何もない地方の弱小ローカル線にとって、猫の駅長というのは驚くべき貢献度だったのである。
 わたしが訪ねた時の電車にも、中国か韓国あたりからと思われる20人ほどのツアー客が乗っていて、貴志駅に着くと駅長室の前で大騒ぎを繰り広げていた。これも成り行きとはいえ、ずっとこんな喧噪に付き合わされてきたのだから、猫としては迷惑な話だったに違いないと思う。

 ただ、会社経営や地域の活性化などにこれだけ大きな貢献をしてしまうと、そう簡単に止めてしまうわけにはいかなくなっているだろうと思う。
 たま駅長のあとは伊太祁曽駅のニタマ駅長が継ぐことになるのだろうか。わたしが行った日には勤務がなくて、ニタマ駅長には会っていないのだが、年齢的にはまだ若いらしいから、一段落したらたぶんそうなるに違いない。ご苦労な話だが、これが海外からの観光客まで呼び込む目玉になっているのだから、何とも辛いところではある。

 山形鉄道フラワー長井線の宮内駅で勤務していた、ウサギのもっちい駅長は元気だろうか。あちらは2010年8月1日から始まった駅長勤務で、たま駅長ほどの人気にはなっていないようだが(そのおかげ?もあって、駅事務室内で比較的自由に勤務させてもらっていた)、なるべく長く元気でいてほしいものである。
by krmtdir90 | 2015-06-25 17:24 | 鉄道の旅 | Comments(0)

高校演劇2015⑦コピスの感想文

 14日に終わったフェスティバルの感想文、今回はいろいろと書くのが難しくて、やっと何とか書き終わりました。けっこう時間がかかってしまって(別に書くのが辛かったわけではなく、楽しい時間だったのですが)、でも、まだまだ検討が必要な気がします。
 とは言っても、とにかく一通り書き終わってしまえば、あとはだらだらとでもやっていけばいいので、とりあえず一段落です。

 これが終わらないと、どこかに出掛けてしまうわけにもいかず、そういう意味でも開放された気分になっています(きょうは昼からビールを飲んでしまいました)。
 ただ、今年の梅雨はなかなかしっかりした梅雨になっているようで、天気の見通しがパッとしないので、出掛けるのにも躊躇してしまう感じがあります。まあ、慌てても仕方がないので、のんびりやりたいと思っています。

 昨夜、7月3日(金)の打ち上げのお知らせが届きました。その日の実行委員会の通知もまだ来ていないのに、夜の部の方が先に来るなんて嬉しくなりました。さすがF先生です。
 いまから楽しみです。

 なお、感想文は7月3日の実行委員会で配布するもので、一般公開を前提に書いていないので(いつも通り、配慮のない辛口の文章になっているので)、今年もこのブログに掲載する予定はありません。あしからず。
by krmtdir90 | 2015-06-20 13:47 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

高校演劇2015⑥スタッフワークについての実践的昔ばなし

*6月14日に行われた「コピスみよし2015・第14回高校演劇フェスティバル」のプログラムに掲載した文章です。昨年もこのブログに再録していたので、今年も一応載せておくことにします。

 わたしが演劇部の顧問になったのは三十歳半ばになってからである。部活を一生懸命やる気はなかったし、演劇のこともまるで分かってはいなかった。たまに稽古場(緞帳を下ろした体育館のステージだった)に顔を出しても、何も指導できるものは持っていなかった。

 野田市太郎の「家庭教師」という本をやっていたと思う(1983年)。普通の家のダイニングが舞台になっていて、彼らはどこからか粗大ゴミになっていた冷蔵庫や流し台を探してきて舞台に並べていた。自分たちだけでこんなものを調達してしまうことに少し驚いたのを覚えている。
 しばらく見ていると感想を求められたが、芝居の内容についてアドバイス出来るような知識はなかった。流し台の水道からホントに水が出たらいいねなどと、ピント外れの感想を言って誤魔化すしかなかった。言ってしまった以上、実際に作ってみせることになった。
 蛇口より高い位置に水の入ったタンクを置き(もちろん袖幕の裏の見えないところに)、ホースでつないでやると、蛇口をひねれば水は出てくる(要するに、水は高いところから低いところに流れるのである)。排水口には水受けの空バケツを置いた。
 芝居の中身には何の関係もなかったが、見に来た近所の中学生が驚いて質問してきたので、裏の仕掛けをちょっと得意な気分で見せてあげたりした。こんなことが顧問生活の始まりだったと思う。

 テネシー・ウィリアムズの「バーサよりよろしく」をやった時(1984年)は、バーサが横たわる巨大なダブルベッドを作った。演劇の手引き書などを見ると、前面に傾斜をつけた開帳台(通称、八百屋)という作り方があるのを知り、そういうふうに作った。古い学校だったので、演劇部も古い角材やベニヤをストックしていたから、新たに買ってきたのは補強のL形金具だけだったと思う。
 出来上がってから、部員全員(4、5人だったか)を上に上がらせて、跳びはねてみろと言って、ぐらつかないのを確認して満足した。どうだという気分だった。
 そのうち、部員の中に大道具を作りたいという生徒が出てきて、顧問は作らせてもらえなくなった。仕方がないので、道具が出来上がったというと出掛けていって、少しでもぐらつきがあると文句を言った。だから、当時の所沢の道具というのは、運搬のことなどまるで考えていない、あとから補強を繰り返したごつくて重いものばかりだったと思う。
 部屋の外から音楽が聞こえてくるというト書きがあって、そのための古いジャズのレコードを探しに行ったのもこの時だったと思う。室外から聞こえる音量というのをどのくらいに設定すればいいのか、けっこうこだわった記憶がある。まだスピーカーの位置のことは考えていなかった。

 時は流れ、新座北(現在の新座柳瀬)で平田オリザの「転校生」をやった時(2001年)。
 平田オリザの舞台は音楽も入らないし照明の変化もないのが普通だが、やはりそれでは何となく寂しい気がして、それぞれ一箇所ずつ入れてみることにした。
 レコードからCDの時代になっていたが、いずれにせよわたしは音楽にはほとんど関心がなく、目星も何もあったわけではないが、確か蓼科かどこかに行った時に買い求めたCDの中から、高原の爽やかな気分を表現したらしい曲を選び、観客にやっと聞こえるくらいの小さな音量で入れてみることにした(どのあたりに入れたかはもう記憶にない。ラストあたりだったと思うのだが)。
 一方、照明の変化はラストだった。ラストシーンに、少しだけ(あくまで少しだけ)夕方に近い薄いオレンジ色を入れて終わりたいと思っていた。大黒幕を使った舞台だったから、要するに地明かりにほんの少しオレンジ色を混ぜるだけの変化だった。だが、変化する途中で観客に気付かれたくなかった。ラストのセリフを言い終わった時に、観客がふと、役者がわずかにオレンジがかった暖かい光に包まれているような気がする、というふうにしたかった。そのために何分かけたかはこれも忘れてしまったが、たぶん5、6分はかけてゆっくり変化させたのではないかと思う。
 音楽も照明も、気付かない人もけっこういたかもしれない。だが、音楽にはあまり自信がなかったし、役者の芝居を見てもらうためには、照明もあまり目立つことはしたくなかったのである。

 また古い話に戻るが、山崎哲の「パパは誘拐犯」(1992年)や「エリアンの手記」(1993年)では、電話の音が非常に重要な意味を持っている。舞台に置かれているのは、昭和の香りがする昔の黒い電話機である。電話の音を録音して、プロセニアムのスピーカーから流すというのはいやだった。小さなスピーカーを電話機のあたりに仕込み、それを鳴らすことを考えていた。
 そんな時、時々顔を出していたかなり昔のOBがやって来て、電話機そのものに細工をすれば、スイッチで鳴らすようにすることが可能だと言った。電話機を持ち帰り、少しして作って持ってきてくれた。当たり前のことだが、実物が実際に鳴るのだから、これ以上の本物はなかった。あの二つの芝居が成功するのに、この電話機はずいぶん大きな寄与をしてくれたと思っている。
 実は、地区大会の小さなホールでは感じなかったのだが、県大会より上の大きな舞台に行って鳴らしてみると、その音はやはりけっこう小さい音のような気がした。しかし、実際に芝居が始まって、芝居の流れの中で聞くとそんなことはなかった。役者の見え方や声の聞こえ方も大きなホールでは違っていたし(大きなホールだから当然かなり距離感がある)、この音量が実際の電話の音なのだと納得させられた。スピーカーから出していたら、恐らくもっとずっと大きな音にしてしまって、芝居の中でその音が持っている衝撃力は逆に弱いものになってしまっただろうと思った。

 さて、いろいろと昔話をしてしまったが、今回考えたいのは、役者に対してスタッフワークというのはどんなものであるべきかという問題である。
 地区大会の審査員に復帰させていただき、たくさんの学校の舞台を見せてもらえるようになった。最近では、舞台に登場する電話機もすっかりお洒落なものになり、携帯やスマホが当たり前のように芝居の中で使われるようになった。しかし、その音となると、どの学校もみんな録音してスピーカーから流している。音量も100パーセント大きすぎると感じる。
 こういう時、水道の蛇口からホントに水が流れたらいいなとは誰も考えないのだろうか。舞台上で携帯やスマホを鳴らすのは、ちっとも難しいことではないのではないか。その方がずっと自然だし、それが当たり前のこととは考えないのだろうか。音の専門家である丸山さんのページの後で、わたしのような者がこんなことを言うのも口幅ったい気がするが、音響は録音をしてスピーカーから音を出すものという固定観念に縛られていないか、と思うのである。
 台本に指定されている音は基本的に省略することは出来ないが、出せばいいというものでもないところが難しい点だと思う。多くの学校の舞台で、書いてあるからただ用意しただけという感じの音が唐突に入り唐突に終わる(しかも、だいたいが大きすぎる)のにぶつかると、一生懸命やっているのは判るが、多くが逆効果にしかなっていないように思えて残念なのである。
 雨の音や風の音といった、一定時間継続させなければおかしい音などの場合にありがちなことだが、突如始まったかと思うと、その話題の終了とともに、無造作にぷつんと切れるというような音の入れ方が多いと思う。自然さに対する意識があまりに欠けてはいないかと思うのである。

 清水邦夫の「救いの猫ロリータはいま…」(1988年)は、地方の古びた図書館分室の書庫兼閲覧室が舞台である。始まって間もなく、偶然ここに迷い込んだカップルの男の方が、裏手にある非常口を開閉する場面がある。扉を開けると夥しい鴉の鳴き声が侵入してきて、彼は慌てて扉を閉めるのだが、この場面はずいぶん工夫を重ねた記憶がある。この一部始終は書架の陰に隠れて客席からは見えないのだが、どうすれば非常口の扉が実際に開閉したように感じられるかということである。
 扉の大きさや材質をどう考えるかから始まって、その音をどうすれば入手できるかという問題、鴉のギャアギャアという鳴き声も用意しなければならない。用意したのは生徒で、わたしは文句を言っていただけだが、彼らはしっかりとイメージに合った音を揃えて見せた(ここが大切なところで、音の準備で妥協してしまったらダメなのである)。扉の音は、夜、校内のどこかで録音したらしかった。あとは音響として、非常口のある位置に専用のスピーカーを置いた。
 照明の方も、扉が開いた時に外の光が入ることを表現する、単サスだったかSSだったか、とにかくこのための灯体と回路を用意した。あとは音量、光量、操作のタイミング、役者のセリフと動き(書架の陰で見えないけれど)をどう合わせていくかである。どうすれば自然に、本当に扉が開閉したように見せられるのか。こういうことを確認していく作業は楽しかった。上演後のアンケートに、本当に扉が開いたように感じられて良かったという文言を見つけ、みんなで喜び合った。

 ところで、最近多くの舞台で音楽を入れすぎではないかと感じることがあるので、このことにも触れておきたい。これはわたしがもう若くないことの証左のような気もするので、あまり強調するつもりはない。実際、音楽の使い方が見事に決まって、舞台を一気に盛り上げてくれる場合もあるとは思う。そういう作り方はわたしには出来なかったから、感心させられることも多いのである。
 だが、音楽というのは芝居などより遥かに強いインパクトを与えるものだと思う。それは、芝居を見るのとは異なる生理に直接働きかけて来るような気がする。だから、芝居を見せようとしているのであれば、音楽に頼りすぎるのは少し注意した方がいいのではないか。古くさい言い方かもしれないが、わたしは音楽など全くなくても成立する芝居でありたいと思うのである(音楽を入れてはいけないと言っているのではない)。
 また、これとは全然違うレベルの話になるが、顧問の指導があまり入っていない学校の舞台などで、悲しい場面になるといかにも悲しげな音楽を入れたり、楽しい場面ではいかにも面白げな音楽を入れたりするケースにぶつかることがある。こういうのはスタッフワークの勘違いと言うべきであって、悲しい場面は役者の芝居だけで悲しい場面を作ってほしいし、楽しい場面も役者の力だけで楽しい場面にできるはずだと思うのである。そちらをないがしろにはしてほしくないと思う。
 SEもMEも、以前と比べるといろいろな点で技術的進歩が著しく、簡単に音や音楽を用意できるようになっているのだと思う。でも、たぶんこれは両刃の剣と考えるべきであって、舞台上にいる役者たちがどれほどの芝居ができているのかを跳び越えて、音響というものが(もちろん照明も)存在を主張することは邪道だと感じるのである。

 大道具のことも話しておくことにする。わたしは大道具を入口にして演劇部の顧問になったようなものだから、大道具をきちんと用意している学校の舞台はそれだけで嬉しくなるが、見方は少々厳しめのものになってしまうようだ。
 いままで様々な大道具を作ったが(作ったのは生徒で、わたしはそれに文句をつけていただけだが)、結局一言で言えば、その道具が舞台上にどう自然に存在できているかということではなかったかと思う。大道具はそこで、不自然さや違和感(舞台の設計と大道具の関係、作りの粗雑さや構造の欠陥なども含めて)を感じさせたら失敗なのであって、その道具の中で役者たちの芝居が自然に行われ、余計な心配なしに役者の芝居が際立ってくれば成功と言えるのだと思う。
 リアルであろうと非リアルであろうと、舞台上に作られる大道具というのは、多かれ少なかれみんな大胆な省略の上に成り立っているのだから、その省略を自然なものに感じさせるために、リアルであればどこをそれらしく突き詰めればいいのかという問題になる。
 たぶん、質感が表現できているかという点が一番大きかったように思う。コンクリートの壁はちゃんとコンクリートの壁に見えているのかどうか。ペンキを塗っただけのベニヤの壁に見えてしまったら、役者が演じている空間はコンクリートの壁に囲まれていることにはならないのである。

 初めて壁の質感ということを意識したのは、木谷茂生の「広い黄いろい土地」をやった時(1986年)だった。中国大陸に侵攻した陸軍の若い将校と中国人少女の交流(こう言ってしまうといかにも安直な感じがしていやなのだが)を描いた台本で、舞台は中国の田舎にある土壁の小さな百姓家だった(ト書きの最初に「土で造った家。その黄いろい壁の中」と指定されている)。
 三方囲い込みのパネルを立て、パネルには新聞紙を貼り、土色に調合したペンキを塗って汚しを入れる。やったのは基本的にそういうことだが、出来上がったものが土で造った壁に見えるようになるまで、いろいろな試行錯誤が必要だった。土壁のでこぼこした感じを出すために、トイレットペーパーを水でぐちゃぐちゃにしたものをベニヤと新聞紙の間に入れた。ペンキ特有の照りを押さえるため、ペンキにかなりの量の砥の粉(とのこ)を加えた。汚しも照りが出ないように工夫した。
 まとめてしまうと呆気ないが、自分たちなりにこしらえたイメージにパネルを近づけていくのは簡単なことではなかった。外から戻った将校が軍服の土埃を手で払う場面があって、それに砥の粉を使おうと考えたことが、たまたま大道具の方でも生かされる結果となった。
 この舞台でわたしは、顧問として初めて県大会を経験させてもらうことになったが、この時の大道具に対するこだわりが、その後の舞台作りの方向性を決めたような気もしている。。

 昔は壁パネルには新聞紙を貼るのが当然のように言われていたが、いまはそんなことは知らないという学校が大部分になってしまったようだ。東京都の京華女子高校顧問・伊藤弘成氏の名著「ザ・スタッフ」(1994年・晩成書房)の中にもそれは書かれているし、埼玉県の筑波大附属坂戸高校で一時代を築いた服部次郎氏が、1986年の県大会プログラムにお書きになった「大道具作りの実践的テクニック」という文章の中にも、新聞貼りは当然やるべきものとして書かれている。
 時代が移ったということなのだろうか。確かに非常に面倒な作業が一つ余計に加わるわけだし、新聞貼りにはそれなりの技術の習得が必要になってくる。一度覚えてしまえばそんなに難しいことではないのだが、誰も教えてくれる人がいなければ、なかなかそんな手間をかけようという気にはなれないのかもしれない。
 ベニヤに直接ペンキを塗ったのでは、そのパネルが表現したい壁の質感を表すのは非常に難しいと思う。ベニヤの壁にしか見えないのである。新聞紙を貼ってからペンキを塗ると、その先に様々な可能性が開けてくる。壁の汚しなども、実に自然で自由な表現が可能になってくるのである。
 だが、そういうこだわりは些細なことかもしれないし、何もそこまでやらなくても、パネルとしてきちんと作れていればいいのではないかという考えも、判らないわけではない。
 しかし、わたしとしては敢えて言いたい気もする。いまの高校生は(そしてもちろん顧問も)、まだスタジオジブリのアニメが、CGなどで作られたアニメとは比較にならないクオリティを持っていることが判るはずなのである。アニメも演劇も、アナログだからこそ素晴らしい表現なのであり、だからこそ面白いものでいられるのではないだろうか。将来、大型3Dプリンターで大道具が作られるような時代が来たら、それは演劇にとって嬉しいこととは言えないように思うのである。

 芝居作りというのはいろんな楽しさが詰まった宝箱のようなものだが、顧問を始めて十年ぐらいの間、わたしはほとんど大道具やそれに付随する仕掛けのようなものにばかり熱中し、そういうところからしか、やっている舞台を考えていなかったのではないかと思う。
 清水邦夫の「明日そこに花を挿そうよ」をやった時(1989年・このころはもう、芝居作りの魅力にかなり取り憑かれていたと思う)、二階の主人公の少女の部屋に置かれた鳥籠を、一瞬ボーッと光らせたいと考えたことがあった。大道具は完全なくそリアリズムで作ってあったが、リアルな道具の中の芝居だからこそ、闇に沈んだ部屋の中で小鳥のいなくなった鳥籠が光れば、少女の喪失感が表わせるような気がした(単純に、これが光ればきれいだろうなと思ったのである)。
 ちょっとした思いつきから始まったことだが、ずいぶん試行錯誤を繰り返した。鳥籠自体が光を発しているように見えなければ意味がないから、そうなるためにはどうすればいいのか。結局、鳥籠が置かれた台の中に灯体(最終的に白熱電球を使った気がするがはっきりしない)を仕込んだと思うが、ゼラの色、鳥籠と光源の間隔、光量など、何度も何度も実験をした。確か部員が一人台の中に隠れて、手許で小さな調光器を操作したのではなかったかと思う。わたしも、わたしに影響された部員も(一部だけだったかもしれないが)、そういうことが楽しくて仕方がなかったのである。
 鳥籠が光るというのはリアルな芝居では実際にありえないことだが、それが自然に光っているように見えたら、それはきっとすごいことに違いないと思っていた。

 作り物にすぎない大道具が、舞台上でリアルな本当の壁のように見えたり、非リアルな抽象性を帯びた壁のように見えたりするのは素晴らしいことではないか。しかし、観客として、その芝居の中に自然にあるものとして受け入れられる大道具というのは、案外少ないように思う。
 作りが甘かったり、こんな状態で舞台に上げるなよと言いたくなるような粗雑なものも多いように思う。苦労して大道具を作ったよと、作ったことだけを主張している舞台はたくさんある。大道具が大道具のまま、芝居の一部になり切れない舞台が大部分のような気もするのである。
 こんな言い方をするのは厳しすぎるのかもしれないが、大道具を作る楽しさはもっともっと深いものがあるのだと、みんなに知ってほしいと思っている。作る以上は、緞帳が上がった瞬間に客席から溜め息が洩れるような、舞台上に違和感なく自然に存在してしまう大道具を作りたいではないか。
 間違えてほしくないのは、県内でも最近見かけるような気がする、はったりを効かせたこれ見よがしの大道具は対象外だということである。総合的力量だか何だか知らないが、役者の演技もスタッフワークも、どうだどうだと押しまくるばかりの芝居は願い下げである。
 舞台上にあくまで自然な佇まいで存在する、役者の演技空間を自然に引き立ててみせる、そんな大道具・音響・照明(スタッフワーク全般)であってほしいと思うのである。 (2015.5.29)
by krmtdir90 | 2015-06-17 19:55 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

高校演劇2015⑤コピスみよし第14回高校演劇フェスティバル

 13、14の2日間、今年もコピスみよしで楽しい時間を過ごさせてもらった。退職したあとも地区の審査などで高校演劇に関わらせていただいているが、コピスのフェスティバルはやはり特別の思い入れがある。それは、舞台裏に出入りしたりリハーサルを見たりということが自由にできるのは、いまではこの大会だけになってしまったからである。
 もちろん出演校でもないし、実行委員としての役割分担があるわけでもないから、言ってしまえばただの野次馬に過ぎないのだが、後を託した実行委員会の皆さんがわたしを実行委員会顧問というよく判らない名前に祭り上げてくれて、退職後も実行委員会の一員として出入り自由にしてくれたことは、ただただ感謝する以外ない。勝ち負けに関係のないところで、大会を作り上げていく現場に身を置くことができるというのは、引退してしまった人間にとってはこの上なく嬉しいことなのである。

 退職した時、これからも所属していた地区の大会は観に行こうと決めたが、照明仕込みやリハーサルの日に顔を出す理由はなくなってしまった。退職を境にして、舞台裏に入ることも機材に触れることもできなくなってしまったのである。最初のころ、わたしが行くと現役顧問が気を利かせて「手伝ってくださいよ」などと言ってくれたこともあったが、それに甘えることはできないと思った。有り難いことだったが、引退した人間の居場所は客席なのだと心に決めた。悲しいことだが、それが現場を退いた者のけじめというものだと思った。
 だから、コピスでも邪魔にならないように端から見ているだけである。よく飽きないものだと思うかもしれないが、それで十分楽しい時間なのである(みんなも退職したら判ると思う)。

 さて、今年もたくさんのお客様が来場してくださった。朝から晩まで、500人ほどの客席は常にほとんど埋まっている状態が続いた。
 コピスの凄いところは、その中にたくさんの一般のお客様が混じっていることである。ほぼ高校生の姿しか見えない演劇連盟の大会とは、ここが大きく違っている点だと思う。OB・OGや保護者の姿もあるが、自分の学校の上演だけ見て帰ってしまうのではなく、他校の舞台もけっこう楽しんで行く人が多いらしい。特に関係があるわけではないのに、ただ高校生の演劇を楽しみに毎年観に来てくださる町民の方がおられるのも判っている。このフェスティバルを通して、高校生の一生懸命な活動を支えていこうという、たくさんの大人たちが存在しているのを感じることができるのである。
 高校演劇が内輪の限られた世界に留まるのではなく、多くの見知らぬ他者(本当の意味での観客)と出会っているのがコピスなのである。

 13日(土)朝、道具の一斉搬入が終わり、リハーサル1校目(入間向陽高)がスタートした直後の舞台。9:33撮影。
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 14日(日)夕方、全日程が終了し、帰りのバスを待つ来場者のためにゲリラ的に行われたお見送りパフォーマンス(筑波大坂戸高)。18:56撮影。
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 今年の手作りプログラム。44ページという、いままでで最も分厚いプログラムになった。
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 いつものように、わたしはこれから感想文を書くことになる。今年の最終実行委員会は7月3日(金)である。日にちはあるが、記憶の薄れないうちに書いてしまわなければならない。ただ、きょうは一日ボーッとして終わってしまった(飲んだ翌日はどうしてもそうなってしまう)。顧問の皆さんや生徒諸君は普通に学校があったのだから、何とも申し訳ない限りである。
by krmtdir90 | 2015-06-15 19:13 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

高校演劇2015④コピスみよしへ

 コピスみよし2015・第14回高校演劇フェスティバルは13日(土)がリハーサル、14日(日)が本番である。12日の放課後は道具の積み出しと最終ミーティングになるはずだから、各出演校ともきょう(11日)が最後の稽古になるのではなかろうか。
 県立高校では木曜日は職員会議が設定されているから(いまも同じだよね)、一本通しを何時にスタートできるかが悩ましいところだろう。顧問の先生はちゃんと授業をして会議をして、生徒諸君もちゃんと授業を受けて掃除をして、それからようやく始まる部活動なのである。授業をしていても受けていても、たぶん頭の中は芝居のことで一杯なのだろうが、やることはちゃんとやってからでないと始められないのは、何とも辛いところだが仕方がない。
 そんなことを考えながら、わたしはきょうも(申し訳ないが)うだうだしている。

 日曜日(7日)に、今年も事務局の智くんが送ってくれた台本が届いた。本番のあとでわたしが書くことになっている感想文のために、数年前から事前送付してくれるようになったのである。審査するわけではないから読まなくてもいいのだが、台本を読むのは好きだし、コピスの台本となるとあれこれ思うところもあって読んでいて楽しいのである。
 とりわけ今年は、読みながらいろいろと舞台を想像したり、考えたりしてしまう読み応えのある台本が多かったように思う。とりあえず一回読んで終わりにすることが出来ず、あれこれ検討してみたくなるストーリーが多かったということである。本番前だから具体的に話すことは止めておくが、それぞれの舞台がどんなふうに作られているのか楽しみである。

 ところで、いまさら言うまでもないことだが、高校というのは(全日制の場合)3つの学年で構成されているものである。部活動も(部員が一人も入らなかった学年がない限り)1年生、2年生、3年生がいるのが当然なわけだが、3年生の場合は進路のことがあるから、どこかの時点で部活動を引退してしまうことになる。部活動は3年間は続けられないのである。
 いや、卒業までやり続ける生徒もいないわけではないが、これはきわめて稀なケースで、多くの場合は(特に進学中心の学校ではほとんどが)春の大会(地区ごとに行われる合同発表会)を最後に引退してしまうのである。3つの学年の生徒が揃っている公演は春の大会だけなのである(とは言っても、1年生はまだ入ったばかりで役割が振られないのが普通)。秋の大会(コンクール)は勝敗を争うのだが、3年生が残って3つの学年で参加する学校はきわめて少なく、1、2年生だけで参加する学校が大半と言っていいだろうと思う。

 コピスのフェスティバルが6月に設定されていることは、3年生の引退時期をそこまで待ってもらえるなら、3つの学年が本当の意味で揃って取り組む公演が実現できるということになるのである。高校の部活動は一年ごとにメンバーが入れ替わり、そのたびに新しい代の部活動として作り直していくことが運命づけられているのだが、恐らく3つの学年が揃うこの6月の公演が、その3年生の代にとっては最良の到達点になるだろうと思われるのである。
 もちろん学校によって状況は様々だから一概には言えないが、6月のコピスが(校内的には種々の行事などがあって大変な時期なのにもかかわらず)多くの顧問や生徒の皆さんに支持されて、ここまで続いてきた大きな意味の一つがここにあるような気がしている。

 出演校の皆さん(特に3年生の皆さん)、最後の稽古がんばってください。間もなく開演のベルが鳴る。今年もたくさんのお客様に観ていただきたいと願っています。
by krmtdir90 | 2015-06-11 12:52 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

カナダの旅⑩ナイアガラ散歩2・最終日(2015.5.20~21)

 *読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。

 4時半にロビーに集合して、添乗員が希望者を「ジャーニー・ビハインド・ザ・フォールズ」というツアーに連れて行ってくれるという。もちろん行ってみることにした。
 ホテルの前の道から、直接テーブル・ロック・ハウスに下りて行ける小さなケーブルカーがあった(有料)。
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 ハウスの手前に入口があって、エレベーターで降りて行く。今度は黄色いポンチョを渡され、トンネルを歩いて行くと、滝壺のすぐ近く、崖のかなり下のところに出て行けるようになっていた。
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 凄い轟音と水飛沫である。船の比ではない。
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 こういう状況下で、カメラを守ることばかり考えていても仕方がない。一応は守りながら、サッと取り出してはシャッターを切る。けっこう濡らしてしまったと思うが、故障はしなかったようだ。
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 クルーズ船はだいたいこのあたりまでだったと思う。
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 反対側を写していれば飛沫はかからないが、それでは何のために来たのか判らない。
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 出口のすぐ上に、ちょっと高い位置から見ることができる張り出したスペースがあった。同じことだと思いながら、もう一度行きたくなってしまうのである。
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 トンネルに戻って、今度は横道のトンネルを進んで行く。滝の裏側に入って行くのである。
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 先の方に2カ所穴が空いていて、ゴーゴーと落ちていく滝の水が見えた。
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 柵があるが、簡単に越えて行けそうな気がした。怖かった。写真では水は全く写らないから、何だかパッとしない感じの写真になってしまった。

 外に出て、午前中に来たのだけれど、もう一度テーブル・ロックに行ってぶらぶらした。
 写真としては午前の繰り返しになるが、光線の具合などが異なるし、何よりいまは虹が出ているのである。
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 ナイアガラの滝を十二分に堪能して、5時半ごろホテルに戻った。1時間ほどの散歩だった。

 ホテルの向かいの角にOKギフトショップという、大橋巨泉が経営しているという土産物屋があったので行ってみた。
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 別にどうということはない店だったが、またちょこちょこ買い物をしてしまった。

 この日の夕食は、タクシーに分乗して郊外のイタリアン・レストランに行った。だが、昨日がキャンセルになってしまったので、ホテルのレストランでディナーというのが食べられなかったのが残念だった。
 食事が終わり、ホテルに戻って、ホテルの前の道で煙草を吸っていたら、向かいのビルの上に細い三日月がかかっていた。撮影時刻は20:57である。
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 部屋の窓から。ライトアップされたナイアガラの滝。撮影は21:07。
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 翌朝。
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 ナイアガラの滝ともお別れである(撮影、21日8:05)。しかし、こんな遠いところまで旅行に来るとは思わなかった。

 9時半にホテルを出発。11時ごろ、トロント国際空港着。
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 灰皿とゴミ箱。
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 ターミナルビルにはいると、
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 こんなオブジェが立っていた。
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 様々な手続きを終え、一旦解散になった。自由昼食になったので、止めておけばよかったのだが、魔がさした感じでSUSHIを食べてみた。当然のことながら不味かった。
 13:25、搭乗開始。エアカナダのこの飛行機(なかなかこういうふうに全体を写せないものなのだが)。
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 14:00、長い苦しみの飛行が始まった。
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 つけ足し カナダドルの10ドル紙幣にはカナディアン号が描かれていた。おしまい。
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by krmtdir90 | 2015-06-04 21:53 | 海外の旅 | Comments(0)

カナダの旅⑨ナイアガラ散歩1(2015.5.20)

 *読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。

 わたしとしては、カナディアン号に乗りたいというのが旅の目的の大半だったから、ナイアガラはつけ足しに過ぎなかった。だが、実際に来てみると、確かに世界三大瀑布の一つに数えられるだけのことはある。結局、凄い凄いと言いながら写真を撮りまくった。

 ホテルはカナダ滝に近い高台にあって、部屋の大きな窓からアメリカ滝を含めたナイアガラの滝全体を見渡すことができた。朝起きて、最初にその光景を見た時、これは凄いと率直に思った。凄いものに対しては、単純に凄いと言うしかないのである。
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 このホテルに2泊したのだが、いずれも朝は曇っていて、出発の頃に雲が取れて青空になるというパターンだった。あとで、もう少し青空の時の写真を載せたいと思う。

 この日は9時にホテルを出発して、午前中にナイアガラの滝の観光、午後に昨日行けなかったナイアガラ・オン・ザ・レイクの方を回ることになっていた。もともと余裕のある日程が組んであって、宿泊地では自由時間などの多いツアーだったので、自由時間は減るけれど全く不満などはなかった。
 集合時間より早くロビーに下りて、わたしは今朝、食事の後で確認しておいた喫煙場所で煙草を吸った。このホテルも館内は全面禁煙で、バンクーバー同様、一歩外の道路に出れば喫煙可能という考え方のようだった。違っていたのは灰皿が用意されていたことで、ナイアガラは世界的な観光地で、いろいろな国から観光客が来るということだからか、このあとも各所にいろいろな形の灰皿が用意されていて楽しかった。
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 この右手に立っているのが灰皿で、最初気付かなかったのだが、上にちょこんと出ている頭の両側に穴が空いていて、穴の中に煙草の火を押しつけて消せるような突起が付いているのである。吸い殻はそのまま中に捨てられるようになっている。
 奥が正面玄関で、われわれの観光バスがすでにスタンバイしている。手前に停まっているタクシーはトヨタのプリウスだった。

 ナイアガラの滝は窓から見えた通りすぐ目の前にあるから、バスに乗るまでもないと思うのだが、ツアーとしてはその後のこともあるから、やはりホテルからはバスで出発ということにするのがいいのだろう。バスは上流の方を少し遠回りしてから駐車場に入った。
 最初に行ったのはテーブル・ロックというカナダ滝の展望台。きょう1枚目の写真で、滝の手前に見えていた建物のところである。ここでは、ナイアガラ川の流れが滝となって落ちて行く瞬間を目の前に見ることができる。ガイドが引き込まれないようにご注意などと言っていたが、確かにあまりに間近なので、目がくらくらして恐ろしかった。
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 テーブル・ロック・ハウスという建物。売店やトイレなど、いろいろなものが入っている。 
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 このあと、バスで(歩ける距離だけれど)アメリカ滝の正面にあるクイーン・ビクトリア公園というところまで移動した。
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 あの有名な、滝壺ギリギリまで行く船に乗るのである。この船、長い間「霧の乙女号」と呼ばれていたようだが、運航会社が替わったため、昨年から「ホーンブロワー・ナイアガラクルーズ」という、何かよく判らない名前になったのだという。前の名前の方が良かったよね。

 クルーズのきっぷ売り場などが入った建物の横が展望台になっていて、アメリカ滝が間近に見渡せた。
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 下の船着き場からクルーズ船が出航して行くのが見える。乗客がみんな赤く見えるのは、乗船時に飛沫よけの赤いビニール製のポンチョを渡されるのである。

 エレベーターで下に降り、ポンチョを着て船上へ。飛沫があまりかからない下の階もあったが、そんなところに留まる人はなく、みんな一番上の甲板に出るのだった。
 雲はどんどん取れて行き、青空が広がった。
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 この船は青いポンチョを着けているが、これはアメリカ側から運航される船で、一目で区別できるようになっていた。 

 出航した。
 まずアメリカ滝に近づいて行く。
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 アメリカ滝は滝壺がなく、崩れた岩の上に直接水が落ちるので、飛沫が大きく上がって迫力満点だが、滝の姿が飛沫で隠れてしまいそうである。飛沫が引いたタイミングだとこんな感じ。
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 この右手の、滝がちょっと切れているところ(その右手をブライダル・ベール滝と言うらしい)に、突き出した展望台があるようだ。
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 これは怖そうだ。わたしは高所恐怖症だから、とてもこんなところには行けない。

 アメリカ滝を通り過ぎて、
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 カナダ滝に近づいて行く。
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 左の岩場に、まだ消え残っているらしい雪が見えた。
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 このあと、船はもう少し滝に近づいたと思うが、一番深く入り込んだところでは飛沫が凄くて、カメラはポンチョの下に避難させるしかなかった。
 次の2枚は、もう遠ざかり始めてから写したもの。1枚目、右手のところがテーブル・ロックである。
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 下流方向に架かった国境の橋、レインボー・ブリッジ。
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 橋の中央が国境になっていて、右がアメリカ、左がカナダなのである。
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 正味20分ほどの冒険だった。

 展望台から、ナイアガラの滝全景。
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 灰皿。
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 全身を写したものがうまく撮れていない。ホテルの前にあった灰皿より細身で丈も高く、吸い殻を入れる部分の構造も異なっている。形としてはこちらの方がスッキリしている。

 このあと、レインボー・ブリッジにほど近い(見えたわけではない)日本料理店で、昼食に久し振りの日本料理を食べた。
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 ウェイトレスなども日本人で、普通に日本語で注文することができた。わたしはナイアガラ御膳という(ナイアガラ定食だったか)、お刺身や天麩羅がいっぺんに食べられるご飯を頼んだ。サッポロ生ビールがあると言うので、迷わず注文した。
 食後の煙草を吸いながら。
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 添乗員くんは、若いころ個人でカナダ旅行をした時、ナイアガラで泊まったのがこの右手に見えるSKYLINE INNだったことを、不意に思い出して懐かしがっていた。添乗員になるような人は、やはり若い時から行動的だったのだ。

 午後は、ナイアガラ川の下流にあるナイアガラ・オン・ザ・レイクという町に向かった。途中2カ所ほど寄り道をした。
 最初は、ワールプールという、ナイアガラ川の流れが直角に折れ曲がり、渦を巻いている場所。
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 右から流れてきた川が、奥の方に直角に向きを変えているのが判ると思う。
 ナイアガラの滝が出来たのはいまから1万年以上も前のようだが、最初はこのあたりで出来たものが、浸食で岩が削られ、長い間に現在の位置まで後退してしてしまったらしい。現在も浸食は続いていて、それを食い止めるために水量を調節したり、流れを均等にする工事などが行われているのだと言う。こうして人間の手が加えられてしまったので、ナイアガラの滝は世界遺産にはなれないということのようだ。
 急流の上を小さなゴンドラが対岸と結んで、観光客の人気になっているらしい。わたしはとても乗りたいとは思わない。
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 次に立ち寄ったのは、ボタニカル・ガーデンという公園。きれいな花時計があって、その前に座って各自記念写真などを撮った。
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 さて、ナイアガラ・オン・ザ・レイクはナイアガラ川がオンタリオ湖に注ぐ河口にある。大型の観光バスは町中には入れないようで、少し離れた駐車場から小型のシャトルバスに乗り換えて行くことになる。
 この時計塔が町のシンボルになっているようだ。
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 ここがクイーン通りという中心の通りで、左の方に古い建物やお洒落な店などが並んでいる。日本などではありがちな、いかにも作られた感じの嘘くささは微塵もなく、よく手入れの行き届いた美しい町だと思った。
 観光用の馬車なども停まっていたが、日本の観光地などと比べると、悔しいがこちらのはいかにも本物で品があると感じた。町の歴史と結びついているということなのだろう。
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 何分間の設定だったか忘れたが、自由行動ということになったので、通りを見て歩くのは後回しにして、まずオンタリオ湖を見に行った。
 クイーン通りと直角に交わった通りをゆるやかに下って行く。緑地と住宅がきれいに整備された通りである。
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 ここはクイーンズ・ロイヤル・パークと言うらしい。
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 この右手にナイアガラ川の河口があり、見えている向こう岸の建物はアメリカの旧ナイアガラ砦というもののようだ。
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 かつてアメリカとイギリスが戦った米英戦争(1812~1815)というのがあり、イギリスの植民地だったカナダのこのあたりでも激しい戦闘が行われたらしい。ナイアガラ・オン・ザ・レイクの町に入る直前にジョージ砦というところを通過したが、いずれもかつての戦跡として残されている場所ということだった。

 オンタリオ湖は五大湖の中では一番小さい湖だが、それでも日本だと四国がまるまる入ってしまう広さがあるのだという。
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 ところでこの写真、水平線のやや左寄りに小さくヨットの帆影が写っているのが判るだろうか。実はこの左に、微かにトロントの町並みが見えているのである。望遠をいっぱいにして、ほぼこの方向だろうと見当をつけて何枚かシャッターを切ってみた。その中の1枚に何とか写っていた。
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 クイーン通りに戻って、お店などを覗きながら少し散歩した。この角のお店は手作りジャムのお店。
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 店内。妻はここで小さな瓶に入ったジャムを買った。
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 これは酒屋さん。わたしはここで今夜の寝酒にするウイスキーのポケット瓶を買った。
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 カナダのウイスキーと言うとカナディアン・クラブぐらいしか知らないが、せっかくいろいろあるのだから、それ以外から当てずっぽうにアルバータ・プレミアム(ALBERTA PREMIUM)というのを買った。帰ってから調べてみると、カナダで唯一の100%ライ麦ウイスキーだった。味はあまり考えずに飲んでしまったけれど。

 ゴミ箱と灰皿。
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 別のゴミ箱と灰皿。
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 公衆トイレ。トイレまでオシャレである。
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 駐車場との間を結んでいた小型シャトルバス。
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 このあたりはカナダワインの産地らしく、帰り道は葡萄畑の中を抜けて、
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 とあるワイナリーに立ち寄った。階段の右下に写っているのは灰皿である。
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 ここには日本人の案内嬢がいて、日本語で説明しながら試飲をさせてくれた。このあたりの特産だというアイスワインも飲ませてくれた。葡萄が糖度を増すように、冬に凍結するのを待って収穫するのだそうで、甘みのあるデザートワインというもののようだ。わたしはワインのことはよく判らないが、妻の弟夫婦がワインに凝っているので、お土産に何本か買ってしまった。

 午後4時前にホテルに戻った。
 部屋の窓から、午後4時過ぎのナイアガラの滝。うっすらと虹が架かっている。
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 アメリカ滝とレインボー・ブリッジ。
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 カナダ滝と上流方向。
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 (写真の枚数が増えてきたので、一旦ここで切って回を改めることにする。)
by krmtdir90 | 2015-06-03 23:59 | 海外の旅 | Comments(0)

カナダの旅⑧カナディアン号5(到着・2015.5.19)

 *読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。

 カナディアン号は大幅な遅れを出しながらも、悠然と、淡々と、走り続けている(貨物列車待ちの停車は相変わらず繰り返されたが)。
 前日の夕食時に、このまま9時間遅れで推移した場合、トロント到着は18:30、ナイアガラフォールズのホテルに着いて夕食になるのは21:00頃になるという説明があった。だが、そんなにうまくはいかないだろうとみんな感じていたのではなかろうか。カナディアン号で旅するというのは、それもまた楽しと受け止める度量?が必要だという気がした(わたしはもちろん、大好きな列車旅が続くのだから度量だらけと言ってよかったのである)。

 この日、朝食時には遅れは10時間近くになっていたようだ。定時運行ならばこの朝食で車内の食事は終了になるのだが、遅れに対応するかたちで昼食までは用意されることになったらしい。当然のことである。
 この日は朝から曇り空で、前日に引き続き森と湖の風景の中を走っていたが、雪の形跡はもうどこにもなかった。添乗員が配ってくれた地図によれば、ずっと東進して来た線路は昨夜あたりから東南に向きを変え、南下するに従って木々の芽吹きも緑を増していくようだった。
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 時刻表では、前日の15:35にホーンパイン駅(Hornepayne)に到着し35分の停車となるはずだったが、これは完全な深夜になってしまったようで、代わって深夜0:18に到着予定だった最後の停車駅、ケポレル駅(Capreol)が浮上してくることになった。
 カナディアン号がケポレル駅に到着したのは10:10を少し過ぎた頃だったと思う。
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 それまでずっと雲に覆われていた空が、ケポレル駅に着くあたりで青空が顔を見せるようになり、停車時間中はずっと太陽と青空の下ということになった。発車する頃にはまた全天に雲が広がってしまったから、この明るい光の中の写真は相当ツイていたと言っていいのである。
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 ケポレル駅は、目の前に湖が望める開放感のある場所にあった。前日のスー・ルックアウト駅のことがあるから、とにかく最初に、けっこう向こうに見えている駅舎に行って来なければと思った。
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 右に見えている駅前のあたりに、車がたくさん停まっている。たぶん迎えの車だろう。どうやらこの駅で下車する乗客もたくさんいるようだ。それと、最後の停車駅だから、外に出て気分転換している乗客もけっこういる。
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 左奥に見えているタンク車は燃料の給油車だろうか。
 駅舎の中は狭かったが、駅員らしき人もいて(後ろ姿の禿頭の人、常駐とは思えないが)、何やら活気に溢れているような感じがした。
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 駅前自体には何もないが、
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 狭い駅前と左手の駐車場には車がひしめいている。駅舎はこぢんまりして、一般の住宅のようにも見えるのだった。
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 入口の右脇に貼ってあった、これがケポレル駅の時刻表。
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 バンクーバー行きが日曜・水曜・金曜の3回、トロント行きが木曜・土曜・火曜の3回やって来ると書いてある。やって来る旅客列車はカナディアン号だけで、その時だけいまのような賑わいを見せて、それ以外の時はひっそり静まりかえった駅なのだろう。それも、時刻表では真夜中の到着のはずが、思いがけずこんな時間になっているのである。インターネットか何かで運行情報を調べられるようにでもなっているのだろうか。

 さて、再びホームの方に戻って、
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 ツアーの皆さんが何となく集まっているあたりまで戻り、
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 皆さんとは離れて煙草を吸った。次はもうトロントだから、カナディアン号での最後の一服ということになる。
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 時刻表では停車時間は30分になっていたが、ここまで来たらもう開き直ったということか、なかなか終わりの気配にならず(わたしは全然かまわなかったのだけれど)、ずいぶん余裕のある停車時間だったと思う。
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 車内に戻って、反対側の通路の窓から、貨物の側線の方に、いまではあまり見ることがなくなったこういう貨車が停まっていた(いわゆる無蓋貨車の形をしているが、蓋は付いているようだ)。
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 結局、ケポレル駅には1時間ほど停車していた。発車する頃には、空はまたすっかり雲に覆われてしまったから、下車している間だけの晴天には、やはり奇跡的なものを感じた。
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 発車の時点で、遅れは10時間20分になっていた。

 昼食の時に、カナディアン号最後の食事ということでビールを頼んだ(まあ、これまでもけっこう飲んでいたのですが)。ビールはハイネケンかカナディアンのどちらかと言うので、一応カナダに敬意を表してずっとカナディアンで通した。日本のビールと違ってあまり刺激がないので(ハイネケンでも同じだったと思う)、わたしはあまりいいとは思わなかった。
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 午後はずっとスカイラインカーで過ごした。風景の移り変わりは相変わらず素晴らしく、いつまでたっても飽きることはなかった。北海道の釧網本線で見る釧路湿原のような景色が、昨日からきょうのこの時間まで、とにかくほとんど途切れることなく続いたと言ったらいいだろうか。その広大さは想像をはるかに超えたものだった。
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 スカイラインカーの2階席の直下は簡単な厨房になっていて、時々スタッフが小さな使い捨てカップに入れたシャンパンを振る舞ってくれる。そんな時、ギターを抱えた若いデュエットがやって来て、歌を数曲披露していった。
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 この2人は何輌か置きに連結されているスカイラインカーや後尾のパークカーを移動して、毎日のように歌っていたようだ。インディーズらしいCDを前に並べていたから、気に入ったら買ってくださいということらしかった(こっちを向いて微笑んでくれたので、ドキマキしてブレてしまった)。

 そうこうするうちに、さしもの長時間の旅も終わりが近づいてきたようだ。次第に町や道路などが見え隠れするようになり、カナディアン号は小さな町の小さな駅に(17:40ごろ)数分間停車した。ワシャゴ駅(Washago)という表示がある。
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 カナダの旅⑤で掲載したVIA鉄道の時刻表を見てもらうと判るが、カナディアン号には、停車時間の確保された(着時刻と発時刻が掲載された)8つの駅の他に、一つの時刻のみ掲載されたその他の駅があることが判る。これらの駅は利用者があれば短時間だけ停車するという駅で、トロントの一つ手前に「Washago 06:49」の記載があるのである。見ていると、確かに下車した人がいたようだ。
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 こちらの踏切の車は、停車中ずっと待たされたことになる。
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 それにしても、遅れはついに(あと10分足らずで)11時間になろうとしている。

 次は、19:13(カメラの撮影記録による)にたまたま写すことが出来た駅。リッチモンド・ヒル(Richmond Hill)という駅名表示がある。
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 これはカナディアン号とは無関係の駅で、線路もこちらとは金網の柵で隔てられているようだ。駅名の横にあるロゴを手掛かりに調べてみると、トロントと近郊各所を結ぶGOトランジットという公共交通機関があることが判った。鉄道とバスがあり、鉄道はGOトレインと言うらしい。

 いよいよトロント駅(Toronto)が近づいてきた。東京スカイツリーなどが出来る前、世界一の高さを競っていたこともあるというCNタワーが見えている。
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 部屋に戻って、下車の支度をする。
 到着は20:30を少し過ぎていたと思う。名残惜しい気持ちが湧いてくる。

 ホームに降り立つ。
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 向こうの線路に、二階建ての特徴的な列車が入って来た。この時は判らなかったが、これがさっき調べたGOトレインであるらしい。
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 少し薄暗くなっているので動いているとブレてしまうが、この後ろに10輌ぐらい続いていた。間にトラックなどがあって見にくいが、右手にずっと続いているのがそれである。
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 カナディアン号の車体を右に見ながら、ホームを歩いて行く。
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 左にGOトレインの二階建て車輌も見えている。ホームの先にある小さな三角屋根がエスカレーター口である。
 最後にもう一枚。
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 エスカレーターを降りると広い殺風景な待合室になっていた。
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 横の方に、荷物車に預けていたスーツケースを受け取る場所があり、そこで現地ガイド(やはり当地在住の女性だった)と合流、スーツケースが揃うまでしばらく待つことになった。添乗員に聞くと10分くらいはかかるだろうと言うので、ちょっと単独行動を許してもらって、駅舎などを写しに行って来た。
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 たくさん並んでいるカウンターは何だろう。よく判らない。
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 この内部を見るだけで歴史のある建物だというのが判る。広い。
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 外に出る。ここから出て来たのだが、
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 さっきの広い内部は建物のほんの一部に過ぎなかったようだ。
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 左の方に、同じように少し出っ張った部分があり、間がずっと円柱で飾られた作りになっている。その中間、何やら上を向いた人の像が立っているところが左右対称の中心になるようだ。円柱部分の外側には普通の窓の部分がかなり付いている。
 これは全景を写すのはとても無理だと判断し、少し下がって、何とか全体の形が推測できるあたりから一枚、
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 反対側の方から(あまり行けなかったが)一枚、というふうに撮影した。
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 駅前の通りの様子も一枚。
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 まあ、時間もないのだから、このくらいで我慢だろう。
 ここが駅として開業したのは1927年、それ以来カナダ東部の交通の要所としてずっと利用されてきた建物のようだ。現在もたくさんの利用者があるらしい。名称はトロント・ユニオン駅(Toronto Union Station)というのが正式である。

 戻りながら。出入口の、円柱の内側。
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 さっきは向こう側を通ってしまったので気付かなかった地下鉄への階段。
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 8分くらいで皆さんのもとに戻った。間もなくスーツケースも全部戻ったようで、ガイドの先導で駅舎とは反対側の出口の方に向かった。
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 まだ煙草を吸っていなかったので、荷物をバスに積み込んでいる間にちょっと吸わせていただきました。
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 この最後の写真の撮影時刻は21:06だった。このあと高速道路を走ってナイアガラフォールズに向かった。

 ホテルに着いて、部屋に落ち着いた時には22:30をかなり過ぎていたと思う。ホテルのレストランで食べることになっていた夕食は、営業時間の関係もあったようで、レストランが急ごしらえしたらしいお弁当ということになってしまった。その中身については(まあいろいろ調整してくれて仕方がなかったのだろうと思うので)あまり触れたくない。

 鉄道旅が終わった晩だから、ぜひとも飲みたい気分だった。バーは開いていたようだがいまから出掛ける元気はなく(英語も喋れないから面倒だし)、ルームサービスがあるらしいので(これも面倒だが電話なら何とかなるだろうと)勇気を出してかけてみた。ところが、通じたと思ったら切れてしまい、もう一度かけると今度は全然出ない。部屋の案内(メニュー)には日本語は書いてないのだからよく判らない。
 仕方なく添乗員の部屋に電話して、頼んでもらえないかとお願いした。しばらくして、ドアがノックされたので出てみると、添乗員さん(突然さん付けになる)がワイングラスを2つ持って立っていた。11時を過ぎるとルームサービスも終わってしまうということだったようで、彼はわざわざバーに行って、みすからルームサービスを買って出てくれたのだった。
 まだ若くて若干頼りない印象もあったのだが、この行動で彼の評価は一気に跳ね上がった。見上げた添乗員魂である。添乗員くん(くんの方が親しみがある)ありがとう。

 部屋の窓からライトアップされたナイアガラの滝が見えた。しかし、昼間の姿がイメージできていないのだから、何となくパッとしない感じだった。
 とにかく、楽しかったカナディアン号の旅はこうして終わったのである。
by krmtdir90 | 2015-06-02 22:57 | 海外の旅 | Comments(2)

カナダの旅⑦カナディアン号4(森と湖・2015.5.18)

 *読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。

 カナディアン号がウィニペグ駅(Winnipeg)に停車したのは4:45ぐらいだったと思う。起きて最初に窓の外を見て驚いた。線路などにうっすらと雪が積もっていたのである。こちらに着いてから、気温は予想より若干低めで推移していたが、まさか雪景色を見ることになるとは予想もしていなかった(前日は一日中好天が続いていたし)。

 微妙な時間・微妙な天候だが、とりあえず着替えをして通路を覗いてみると、同じように散歩に出るつもりの(勇気ある)幾人かが顔を出していた。添乗員も最初から対応するつもりでいたようで、合わせて7人(だったと思う)がホームに降り立った。この日1枚目の写真は4:58の撮影である。
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 気温は何度あったのだろう。雪は一応止んでいたが、風が強く、屋根などの雪が吹き飛ばされるのだろうか、細かい霧のようなものが宙に舞っている。われわれが降りたところには屋根がなかったが、すぐに屋根と囲いのあるホームになっていて、そこを歩いて行った。
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 ホーム中程に、さらに囲いのあるエスカレーター口があって、それを使って下に降りた。この駅はホームと線路が高架上になっているようだ。

 ウィニペグ駅はカナディアン号のほぼ中間の駅になっていて、使用済みのリネンとか廃棄物の回収や、新しい食材や水、その他必要なものの積み込みなどが(恐らく燃料の補給なども)行われるようだった。食堂や車内スタッフたちも、ここで全員が入れ替わると言っていた(それにしても、昨夜のうちに交代完了するはずだったのに、こんな明け方まで待たされたスタッフたちは大変だっただろうと思う)。

 エスカレーターを降りてドアを抜けたところが広い待合室になっていて、少ないながら下車したお客と乗車するお客がいるようだった。あたりは暖房されて暖かかったが、乗車するお客は一晩中ここで待っていたのだろうか。
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 最初に手近な出口から外に出てみたが、こちらは駅としては裏口にあたっていたようだ(添乗員はこのコースを添乗するのは初めてだったようで、マズい間違えたという感じだったかもしれないが、わたしは両方の出口を見ることができたので嬉しかった)。
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 待合室を抜けて反対側の方に進むと、歴史ある駅舎であることが一目で判る、ドーム状の高い天井を持つ素晴らしい空間に出た。
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 ここを見ただけで、これはいい駅だと思った。
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 正面の扉から外に出た。寒い。風が強い。霧雨(霧状のみぞれ?)が吹きつける。
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 勇気ある者たちは臆することなく、横断歩道を渡って向かい側の駅舎正面に行った。歴史を感じさせる立派な駅舎である。
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 カナダ国旗とVIA鉄道の旗が誇らしげにはためいている。
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 駅舎正面の道路。
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 戻ることにする。横断歩道で信号を待ちながらもう一枚。
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 正面の出入口に戻ったところで、両側に灰皿が置いてあったので、わたしは一服してから行くと、皆さんには先に中に入っていてもらうようにお願いした。この右下にちょっと写り込んでいるのが灰皿である。
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 吸っていたら、不意に一人の男が近寄ってきた。ちょっとドキッとしたが、男はコインを一枚差し出して、1ドル(カナダドル)で煙草を2本譲ってほしいと言った(もちろん英語で。身振りがあるから判るものである)。箱から2本抜いて差し出すとコインを寄越し、男は軽く手を挙げて離れていった。わたしも軽く手を挙げたと思う。
 わたしの煙草はニコチンもタールも1mgの一番軽い煙草だから、吸ってみて男はどう感じただろうか。しかし、わたしは煙草を用意して行って切らすことはなかったが、もし切らしてしまったら、禁煙先進国のカナダでは売っているところも少ないだろうし、確かに困ったことになるだろうと想像した。何だか面白い体験だった。

 中に戻ると、ホームへのエスカレーターの入口は閉じていて、入場は少し待つということだった。わたしは戻りながら、さっきのドーム天井のホールの隅に飲料などの小さな自販機を見つけていたので、添乗員に足労願ってペットボトルの水を2本購入した。確か1本2ドルだったと思う。これがその自販機(日本とは比較にならないささやかな自販機だった)。
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 こんな早朝なのにホールのインフォメーションは開いていて、若い女性職員が座っていた。
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 こちらはエスカレーター口の横に置かれたカウンター。やはり若い女性職員が座っている。ここが改札口ということなのである。
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 左の手押しテーブルにはポットや使い捨てコップが置いてあって、温かい飲み物がセルフサービスで飲めるようになっているようだった(飲まなかったけれど)。
 それと、間に置いてあるホワイトボードに手書きの文字が書かれているのが見える。この時は気付かなかったが、いま画面を拡大して見てみたら、カナディアン号に関する情報が書かれていたことが判った。「到着4:45、プラットホーム閉鎖4:45-5:30、乗車5:30、発車6:00」と、ちゃんと書いてあったのだ。しかし、遅れていることのお詫びなどはどこにも書いてないようで、このあたりは日本と大きく異なる点だと思った。
 因みに、「到着」が「Arrival/Arrivée」というふうに「英語/仏語」の表記になっているのは、カナダが英語だけでなくフランス語を公用語としている地域もあるからなのである。あらゆる場所で、この2カ国語表記が行われているのが見られた。

 ホームへのエスカレーター入口。この、前の看板にもお詫びは書いてないよね(辞書を調べるのが面倒)。
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 5:30少し前に別の女性職員がやって来て、横の操作盤を操作してドアを開けエスカレーターを作動させた。
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 ホームに置かれていた作業用台車。木枠である。
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 乗車する前に。
 夜が明けてきた。風などはさっきより弱まっている。こちらは先ほど最初に外に出た出口の方で、向こうに見えている建物は、インターネットで調べてみるとCanadian Museum for Human Rightsというもののようだが、どう訳したらいいのか判らない。
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 線路にうっすらと積もっている雪。
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 なお、まだ触れていなかったと思うが、こちらの線路はすべて標準軌(軌間1435mm)である。

 乗車してから少しして、列車は少し前に進んでまた停車した。
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 作業の関係で位置を移動したようだ。窓の外では作業用の台車などが動いて、まだ作業が続いている。
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 ほぼ6:00ちょうど、カナディアン号はゆっくりとウィニペグ駅を発車した。7時間30分遅れということになる。
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 この日は終日、重くたれ込めた曇り空で、時折雪の舞う区間もあった。窓の風景はまたがらりと変わり、森(林)と湖沼の中をずっと走り続けた。晴れていればきれいだろうなと思ったが、現地滞在8日間というツアーの中で、一日ぐらい天気の悪い日にぶつからなければならないとすれば、この日あたりが一番よかったような気もするのである。
 車内は寒くはなかったし、うっすらと雪化粧した大自然の風景は、それはそれでなかなか風情のあるものだったと思う。何より、この時期に雪に降られることになろうとは予想もできなかったので、何となくツイてるような気分にもなっていたのである。

 だが、当然のことながら写真は少ない。撮ったところで暗く沈んだものにしかならないし、スカイラインカーの展望席も、前方のガラスには水滴などがついてしまって、撮影には向かない場所になってしまったからである。
 貨物列車とすれ違い中。
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 サイドのガラス窓は少し水滴がついても避けて写すことは出来るが、積極的に写そうという気分にはなれなかった。ただ、眺めているぶんには変化もあり、自然の大きさも感じられて飽きることはなかったのである。
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 昼食後、また時計を1時間進めた。時差の修正はこれが最後で、トロントのあるオンタリオ州の時間になったのである(だが、まだまだ先は長い)。
 しばらくして、本来なら早朝の5:02に到着して、40分の停車時間があるはずのスー・ルックアウト駅(Sioux Lookout)に、14:20ごろ到着した。
 用意はしていたのだが、停車した時、窓の外はこんな感じで、駅に着いたようには思えなかった。
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 少し手前で一旦停車しているのかと思った。
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 しかし、ここはホーム(と言うか、降りられる範囲)が短くて、いつもの出口からは降りることが出来ず、前方の車輌に移らないと下車できないことが判った。急いで車内を移動したが、思いがけず時間をロスしてしまった。
 下車する時、出口にいたスタッフが早口で2、3分と(英語で)叫んだように思ったが、降りている人の姿も見えたので、とにかく降りてしまった。細かい雨が降っていたような気がするがあまり覚えていない。煙草を1本吸ったような気もするが記憶にない。写した写真は3枚である。
 後方の車輌。ホーム(降りられる範囲)がここまでであることが判る。信号機の向こうがスカイラインカーだから、食堂車やわれわれの部屋がある車輌はもっと後方である。
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 前方に駅舎らしい建物が見えている。
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 少しそちらに歩いた(走った?)が、スタッフが何か大声で言っているので、これは無理だと判断した。とりあえず駅舎を望遠で写して、近くの入口から車内に戻った。
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 少しして列車はスー・ルックアウト駅を発車した。停車時間は10分ほど(14:20~14:30)だったと思う。上の写真の撮影時刻は14:28だった。急かされて夢中だったが、様子はだいたい掴めていたから(日本の鉄道で鍛えていたから?)、そんなに慌ててはいなかったと思う。しかし、停車10分というのはちょっと予想外だった。

 スー・ルックアウト駅で停車時間を短縮したが、遅れは8時間50分ほどに拡大している。明日のトロント到着は時刻表では9:30となっているが、この様子では夕方か夜にずれ込んでしまうだろう。明日の日程はすべてキャンセルということになりそうである。
 わたしはこの列車に乗りたくてツアーに参加しているから、後の日程が変更になっても別に何とも思わないが、添乗員はそういうわけにはいかない。一生懸命情報を集めて、本社と連絡を取りながらいろいろ調整していたようだが、多くの区間で電話が通じないことを嘆いていた。広大なカナダの大地なのである。わたしは携帯を持って行かなかったが、妻の携帯で見てもアンテナの立つことは少なく、多くのところで圏外になってしまうようだった。

 しばらく停車していた場所。
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 側線が何本もあり、こんな車輌がぽつんと停まっていた。一応、駅だったのだろうか。
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 割と大きな湖。
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 向こう岸に見えているのは教会だろうか。
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 踏切。撮影時刻は21:08。
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 添乗員が毎朝、ポイントごとの解説とカナディアン号のルートを記入した地図を渡してくれるのだが、力作なのだけれど、出発前に作ったものなので時間がずれてしまって、申し訳ないがいまどのあたりにいるのか皆目判らないのである。
by krmtdir90 | 2015-06-01 21:01 | 海外の旅 | Comments(0)


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