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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
国道231号線は留萌と札幌を日本海沿いのルートで結んでいるが、全線が開通したのは1981(昭和56)年11月のことである。そして、映画「駅 STATION」が公開されたのが、奇しくもこれと同じ1981年11月のことだった。 映画は1968年の短いエピソード(直子)の後、主に1976年(すず子)から1979年(桐子)までの出来事を描いている。この中で、高倉健演じる三上刑事が故郷の雄冬(おふゆ)に帰るシーンがあるのだが、まだ道路の通じていなかった雄冬へは、増毛から出る小さな連絡船を利用していたのが印象的だった。暑寒別岳の山塊がそのまま海に迫り出したような雄冬岬の周辺は、断崖絶壁の連続でずっと陸の孤島のままだったのである。 実際に走ってみると、断崖の縁にトンネルなども連続し、荒々しい自然に阻まれた難工事だったことが想像された。いまも途中に工事区間などが何箇所かあって、開通後も落石や崩落、冬場の雪崩などで通行止めになることも多かったようだ。 雄冬には小さな集落が崖下に一列に並んでいたが、港の方はけっこう広く整備されていた。 ![]() ![]() 道路沿いには眺めの素晴らしいところもたくさんあったが、車の停められるところはほとんどなく、運転しているわけだから、写真も一枚もないのである。 断崖を縫って行く厳しい区間をようやく抜け、風景に広がりが出てきた石狩市厚田というあたりで、国道沿いに夕日の丘パーキングというのがあったので、入って小休止した。すぐ下が、狭いながら海水浴場になっていた。 ![]() 小樽の町並みに入ったのは午後2時半ぐらいだったと思う。最後に、小樽でどうしても行きたいところがあったのである。 フェリー乗り場を通り過ぎ、小樽運河の前も通過する。晴天の日曜日なので、運河や周辺の観光スポットは想像以上の人でごった返していた。こんなに人が出るのかと、少し驚いた。 中心市街地を抜けたあたりに小樽市総合博物館があった。名前に「鉄道」の文字が入っていないので見落としていたのだが、行ってみると想像していた以上に充実した施設で、恐らく日本でも有数の鉄道博物館なのではないかと思った(まあ、大宮の鉄博にもまだ行ったことがないので、本当は比較などはできないのだが)。 建物がちょうど逆光になってうまく写せていないので、建物の中のきっぷ売り場と改札口から。 ![]() ![]() 館内に入ると、いきなり蒸気機関車「しづか」号というのが展示されている。 ![]() ![]() ![]() ![]() これも内部を見ることができ、実際にソファに腰掛けることもできるのである。 ![]() 館内にあったのはこれだけだが、この博物館の見どころ(見せ場)は何と言っても屋外であろう。広い敷地いっぱいに、とても見切れないほどのバラエティーに富んだ展示車輌が並んでいた。 車輌だけではない。ここは元々、北海道の鉄道発祥の地と言われる旧手宮(てみや)駅の構内だった場所で、手宮駅時代の鉄道施設の一部が残されているのである。これらは国の重要文化財に指定されているらしい。 見事な煉瓦造りの機関車庫と転車台。 ![]() ![]() 右にあるのが機関車庫三号。 ![]() 転車台。 ![]() ![]() この写真で、転車台の右奥に置かれている黒い無骨な車輌はラッセル車である。 ![]() このラッセル車は実はこんなふうに2台並んでいたのであって、 ![]() 機関車庫の中を順番に見て行くと、そこにもすごいものがいっぱい並んでいて、もう困ってしまってお手上げ状態になってしまった。 機関車庫三号、一番右から。 ![]() 真ん中の口は空で、左側の口には蒸気機関車。 ![]() これは横の方に入って行けるようになっていて、 ![]() ![]() 一つ一つゆっくり見始めたら、とても全部は回り切れそうになかった。後から考えると、それでもいいと考えた方が良かったような気もするが、その時はそういう気分にはなれなかったのである。 機関車庫三号と一号の間には、昔は当然二号が建っていたようだが、現在はなくなって野外に2台の大きな車輌が置かれていた。これらはいずれもジョルダン車と呼ばれる除雪車の一種らしい。 ![]() 右側の1台のアップがこれ。側面に大きな羽根が付いているのが判る。 ![]() 機関車庫一号の、扉が開いた右の2口には、マックレー車と、 ![]() ![]() ところで、わたしはいま館内の売店で帰りがけに買った博物館の公式ガイドブック(800円)を見ながらこの文章を書いているのだが、 ![]() まあ、それはそれとして、この機関車庫の左手の方にさっきから気になっていた駅のホームのようなところがあって、小さな蒸気機関車が小さな客車を3輌つないで停まっているのである。 ![]() ![]() わたしは恥ずかしいから、何となく周囲に展示された他の車輌(1966年製造のDD13と73年製造のDD16)などを撮影して、 ![]() ![]() ![]() この蒸気機関車アイアンホース号は、1909(明治42)年にアメリカのポーター社で製造されたもので、長らく中米グアテマラでバナナやパイナップルの輸送に使われた後、今度はアメリカのテーマパークなどでこれも長らく走った後、1996(平成8)年からこの小樽に移って運行を開始したのだという。 運行と言ってもたかだか200メートル足らず、時間にして数分のことなのだが、これの素晴らしいところはこの後にあったのである。 往復運行をしてくれるのだ。この意味が判るだろうか(鉄道ファンならみんな判るよね)。線路が円を描いて一周するというのではない。直線の線路を往復するのである。こんなところは日本中どこにもないのではないか。 乗客は一旦、客車からこちらのホームに降りる。線路に先にはちゃんと(これも本物の)転車台が付いているのだ。機関車が切り離され、ゆっくり転車台に乗っていく。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() わたしは復路には乗車せず、沿線でアイアンホース号の勇姿を撮影した。だが、ここから先は写真がない。急に思い立って、初めて操作する(このカメラで)動画で撮ってみたのである。だが、どうやら動画はブログには載せられないらしい。 あとで見てみたら、初めてにしてはまあそれなりに撮れていたと思う。いまはこんなコンパクトカメラでもこういうことが出来てしまうのだと、いまさらながらに驚いたのである(むかし、重いビデオカメラを担いで撮影したベータや8ミリビデオ時代は何だったのだろうか)。 動画撮影を終えて、線路に沿ってぶらぶら戻って行った。途中にこんな石碑が建っていた。 ![]() だが、実はこんなところでのんびりしていてはいけなかったのである。アイアンホース号にはまだ続きがあったのだった。 最初の駅に戻ったアイアンホース号は、乗客を降ろしたあと切り離され、さっきの機関車庫の前にあった転車台に載せられていたのである。慌てて見に行くと、転車台は少しだけ角度を変え、さっきの機関車庫一号の一番左の口にアイアンホース号を入庫させているところだった。 再び動画で撮影したから写真はない。しかし、こんな場面まできっちり見せてもらえるとは思ってもいなかった。充実感と満足感でいっぱいになった。 家族連れはアイアンホース号乗車を最後に、ほとんど家路についたようだ。あたりはすっかり閑散としてしまった。だが、わたしはまだたくさん残っている展示車輌を、時間を気にしながら急ぎ足で見て回った。時間は全然足りなかった。 次の2輌は、いずれも1968(昭和43)年製造のディーゼル機関車、DE10と、 ![]() ![]() これらの機関車はうしろに様々な種類の貨車や客車を従えているのだが、とても一つ一つ見ている時間はなかった。ただ、このDD51の後方に黄色く小さく写っている車輌、これは小さいどころか非常に大きなものだったので、足を止めて見てしまった。 手前の白く塗られた貨車が長物車と呼ばれるチキ6000形、後方の黄色い車輌がソ34形という操重車(クレーン車)だという。 ![]() ![]() ![]() ![]() うーん、そうだったのか。もっとしっかり見てくればよかったと、また思わずにはいられなかった。 まだまだいろいろあったのだが、最後は泣く泣く切り上げるしかなかった。ここにいたのは2時間ぐらいだったと思う。最低でも半日は必要で、一気に見るのは疲れるから、何回かに分けて見られればそれがベストだろうと思った。 博物館の外観(日が陰って、帰りに写したのはまあまあなので載せておく)。 ![]() 小樽港のフェリーターミナルは、小樽市街・小樽運河などを挟んで、総合博物館とは反対の方角になる。着いたのは午後5時を回っていたと思う。 ![]() 食後の一服をして、埠頭の方を少し歩いて、 ![]() 午後7時30分、らいらっくは小樽港を離れた。たくさんのカモメが船の周囲を舞っていた。 ![]() 7月13日(月)、午前5時45分撮影。 ![]() 家に帰って車のメーターを確認。総走行距離は1934キロ、新潟までの距離(往復で約670キロ)を引くと、北海道で走った距離は約1260キロだった。案外少なかったなと思った。 今回の旅日記、まとめるのにずいぶん時間がかかってしまいましたが、これでおしまいです。読んでくださった方、ありがとうございました。 ▲
by krmtdir90
| 2015-07-30 12:18
| 鉄道の旅
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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
きょうの午前中は留萌本線の残り、留萌・増毛間にある駅をめぐる。 留萌駅を出ると、留萌本線は終点の増毛駅に向かって、海沿いの小さな集落を縫うようにたどって行く。ほぼ並行して国道231号が走っているので、途中駅を訪ねるのは比較的容易である。ただ、中には広場もなく狭い道しか通じていない駅などもあって、車の駐車場所に困るというようなこともあった。総じて駅間距離は短く、1キロ足らずで次の駅というようなこともあった。 瀬越(せごし)駅 黄金岬から瀬越駅へは、海岸線の一般道を走った。カーナビの指示に従い、左折して簡易舗装の細道を戻ると留萌本線の踏切に行き当たり、その右側に瀬越駅があった。 ![]() 駅は、国道から海に降りて行く斜面の途中に作られているのである。 ![]() ![]() この瀬越浜の海水浴場は大正時代からあったもののようで、瀬越駅は海水浴客のために開設された季節営業の仮乗降場が始まりだったらしい。 ホームにはコンクリート製の小さな待合所があった。 ![]() ![]() 礼受(れうけ)駅 瀬越駅を出て少し行くと、国道231号は留萌本線の線路を越え、海岸線の一般道と合流して、海と線路との間を走ることになる。 礼受駅は、国道の人家の間をちょっと左に入ったところにあった。車掌車利用のダルマ駅舎である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 阿分(あふん)駅 前の礼受駅が市境ギリギリで留萌市の駅、この阿分駅から先は増毛町の駅になる。ここは、国道から人家の間の細い道を少し入って行く感じになる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ホームは、車輌1輌分の長さにとても足りないと思われる板張りホームで、学校があるために海や国道は見えないのである。 ![]() 実は、駅めぐりを開始して少ししたあたりからトイレに行きたくなって困った。駅舎は簡素なものばかりでトイレはついていないし、このあともそれは期待できそうもなかった。期待できないとなると緊張は高まってきて、人家の途絶えた道端しかないかと悲壮な気分になっていたところで、思いがけず救いのガソリンスタンドにぶつかった。 内陸に入って行く道とのT字路があって、その角に給油機が(確か)1台しかないような小さなスタンドが建っていた。年の行った男性が一人でやっているらしく、小さな事務所には(当たり前だが)ちゃんとトイレがついていた。 ENEOSの柳田商事・舎熊SSというお店で、ハイオクは156円だった(ここで満タンにしたガソリンが最後まで持ったので、自宅に帰ったわたしの車にはしばらくの間、増毛町のガソリンが入っていたのである)。 信砂(のぶしゃ)駅 このあたりで線路は海岸や国道から少し離れ、内陸に入ったところをたどるので海は見えなくなってしまう。入って行く道路沿いに集落はあるが、駅のある踏切を越えると、人家も疎らになってしまうようだ。 20年あまり前に駅の位置が動かされたようで、全体の印象が何となく新しい。ホームの表面は板張りだったが、その他の部分は鉄骨などが使われていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 舎熊(しゃぐま)駅 信砂駅と舎熊駅は駅間が0.8キロしか離れていない。駅としては、舎熊駅の方が1921(大正10)年の開業時に作られた駅で、信砂駅はずっと後、1963(昭和38)に開設された仮乗降場が始まりだったようだ。 舎熊駅には元はちゃんとした木造駅舎があったようだが、いまはそのコンクリート基礎の上にダルマ駅舎がちょこんと置かれている。 ![]() ![]() ![]() ![]() それにしても、こんな最後になって出会うなんて、やっぱりツイていた?ということだろうか。ホントにいるんだね、こういう旅人。 舎熊駅の駅舎は、そういうわけで、ちょっと特別な駅舎として記憶されることになってしまった。壁には海抜6メートルという表示があった。 ![]() ![]() 朱文別(しゅもんべつ)駅 国道を左折して入って来た道。 ![]() 踏切から見た駅。板張りの短いホームである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 箸別(はしべつ)駅 国道231号からちょっと入ったところだが、あたりには人家などがけっこう並んでいる。無舗装の大きな広場があり、正面の高くなったところに線路が通っているようだ。15段ほどの階段を上った右側にホーム、左側に待合所がある。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ホームに上がってみる。この旅で最後の、板張りホームの感触である。 ![]() ![]() ![]() ![]() 箸別川は小さな川だが、留萌本線の鉄橋をすぐ目の前に見ることができた。 ![]() ![]() 増毛駅 箸別駅を出たあと、国道は線路を横切って高台の方から増毛の中心部に入って行く。線路を横切る手前で、そのまま海沿いを行く道が分岐していた。ナビはそちらを選んで、直接増毛駅の前に出るつもりらしい。このルートは正解と言うべきで、増毛の港をずっと右に見ながら進んで行き、海に近い増毛駅前にポンと出ることができた。 前に鉄道で来ているから様子はよく判っている。 ![]() まだ10時前で、結局1時間半ほどで駅めぐりを終えてしまったことになる。距離が短かったこともあるが、基本的にはわたしがせっかちだということの証明のような気がする。しかし、要は満足できればいいので、それでいいのである。 増毛駅の駅舎はあまり好きではない。しかし、無視するわけにもいかないので、1枚だけ載せておく。 ![]() 駅舎よりも、駅前のランドマーク、富田屋旅館と風待食堂がいい。 ![]() ![]() ![]() ロケの時の写真や新聞記事などが、壁一杯に貼り出されていた。 ![]() 思っていたより時間があるので、少し町の中を散歩することにした。まず、前回来た時は休館日に当たってしまい見られなかったここ、国の重要文化財に指定されている旧商家・丸一本間家に行ってみた。 ![]() ![]() 本間家の初代は1875(明治8)年、ニシン景気に沸く増毛で荒物雑貨の商売を始め、本業の呉服商からニシン漁の網元、海運業、酒造業と次々に事業を拡大し、驚異的な財をなすとともに、以来この地で代々続く名家として現在に至っているらしい。増毛の酒蔵・国稀(くにまれ)酒造は、当初この本間家の醸造蔵から始まったもののようで、現在の社長は本間家の何代目か(聞いたけど覚えていない)に当たる人なのだという。そうだったのか。 案内されるままに写真もたくさん撮ったが、中から3枚だけ。 呉服商が本業だったので、正面の店先は呉服商のものになっている。 ![]() ![]() ![]() せっかくだから、国稀酒造にも寄ってみた。 ![]() 海寄りに、ニシン漁の船が展示されている施設があるというので行ってみた。 ![]() ![]() 海沿いの道。 ![]() 12時過ぎに増毛の町を後にした。このあと、断崖絶壁の続く海沿いの国道231号線を走り、一路フェリー乗り場のある小樽を目指して行く。 留萌本線廃止のニュース この問題は、やはりここで触れておいた方がいいだろうと思う。 実は、JR北海道が留萌本線の廃止を検討しているというニュースは、ホテルかもい岳温泉で見た北海道新聞で知った。この時の記事は第1報ではないようだったので、帰ってからインターネットで調べてみた。すると、北海道新聞が6月27日に配信したニュースに行き当たった。 それによると、JR幹部が5月下旬に秩父別町を訪れ、これから公式の協議会を設置して、沿線自治体と廃止に向けた調整を行いたいとの意向を伝えたということらしい。また、留萌本線の中でも特に利用者の少ない留萌・増毛間16.7キロを、2018年度までに先行して廃止したいという方向性も伝えたようだ。 北海道新幹線の開業が間近に迫ったここに来て、JR北海道は何か一気におかしな方向に舵を切ろうとしているように思える。上白滝を始めとする無人駅切り捨てもそうだが、運行本数を減らすだけ減らして利用客がいない状況をみずから作りだし、在来線の駅や線路の持っている可能性を掘り起こす努力を放棄するような姿勢は、到底容認できるものではない。 増毛で丸一本間家を案内してくれた女性とたまたまこの話題になり、彼女も利用しにくいJRのダイヤ設定を怒っていた。 実際、日曜日のこの日、増毛の町には車で観光に訪れた人々をずいぶんたくさん見かけたのだが、彼女はJRがそういう人々に利用しやすいような時刻表を作っていないと指摘した。町の人々は観光客を集めるためにこんなに努力しているのに、JRはそういうことを全然考えていないように見える。乗客獲得などハナから諦めていて、頃合いを見計らって廃止することしか考えていなかったように思えるのだと言う。留萌・増毛間の先行廃止についても、彼女は増毛が置き去りにされて留萌が終着駅になってしまうのが悔しいのだと言っていた(増毛はこんなにがんばっているのに)。 一度廃止してしまえば、その線路や駅は二度と元に戻ることはない。赤字路線であることは承知の上で言いたいのだが、それでもすでにここまで減ってしまった鉄道路線をさらに減らしてしまうことは、大袈裟な言い方かもしれないが、観光立国を目指そうとするこれからの日本にとって、取り返しのつかない観光資源の損失になると思うのである。そういう大局的見地から、JR北海道を経営支援する施策が必要とされている。新幹線でつながるのを契機にして、JRは東日本と北海道を経営統合するというような大胆な視点が必要になっていると思う。 とりあえずいまは沿線自治体に、何とかこの動きを止めるよう抵抗してもらいたいと願うばかりである。鉄道と駅を失ったら、その町の未来は非常に困難なものになってしまうと思う。 さしもの長い連載も、次回でやっと終わりになる予定です。 ▲
by krmtdir90
| 2015-07-28 21:38
| 鉄道の旅
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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。なお、今回は短い回になります。
藤山(ふじやま)駅 峠下駅を出たあたりから国道233号が留萌本線と寄り添うようになっており、幌糠駅周辺ではまとまりのある町並みを形成していたが、この藤山駅あたりでは人家は点在する程度になってしまっている。 駅舎の造りは、正面から見るとなかなかお洒落な印象があって、新しく建てられたもののようにも見えるのだが、 ![]() ![]() ![]() ![]() 駅舎内部は大半が待合室になり、 ![]() ホームの脇の方には、コンクリート製の通信中継機室というのが建っていた。 ![]() ここでは、ちょうど列車が発着するのに出会った。 ![]() ![]() ![]() 大和田駅 大和田駅は車掌車再利用のダルマ駅舎である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 留萌駅 留萌駅に着いたのはちょうど午後5時頃だった。 ![]() ![]() 前に来て判っていたのだが、一応中の方も写して来た。 ![]() ![]() さて、今晩の宿はホテルノースアイという(今回の旅では一番小さい)ビジネスホテルで、チェックインは17:29だった。 北海道で泊まる最後の晩だからと外に食べに(飲みに)出たが、残念ながらこの晩はあまりいい結果にはならなかった。店の選択を誤ったということもあるかもしれないが、それ以上に、この日が土曜日だった(しかも天気も良かった)ということが大きかったようだ。2軒回ったのだが、どちらも地元のお客で席は一杯で、しかも家族やグループで来ているお客ばかりなので、わたしのような一見の一人客は、座れても何となく居場所がないような感じだったのだ。 まあ、仕方がない。そういうこともある。 ホテルから徒歩圏内に飲食店は点在しているようだったが、道路の感じはどこも非常に寂しい感じで、看板は出ていてももうやっていない店も多いようだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 7月12日(日)。 7時40分ぐらいにチェックアウトした。 走り始めて最初に、前に来た時に傘を差しながら雨の中を歩いて行った港の方を寄り道した。 埠頭入口の踏切から、留萌本線の短いトラス橋越しに留萌駅跨線橋を望む。 ![]() 留萌港の埠頭。朝から釣り人の姿なども見える。きょうも晴れて、暑くなりそうだ。 ![]() 次に、せっかくだから黄金(おうごん)岬の方を回ってみることにした。 ![]() ![]() ![]() ▲
by krmtdir90
| 2015-07-27 17:30
| 鉄道の旅
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*ずいぶん長い連載になってしまって申し訳ないのですが、読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
石北本線はまだ上川駅の先があるのだが、これから旭川駅までの区間は、北海道第2の都市・旭川の通勤通学圏内になってしまい、列車の運行本数はそれほど増えるわけではないが、駅として興味深いものは見られなくなってしまうのである。よって、今回の石北本線の駅めぐりは、上川駅で終了ということにする。 さて、今晩の宿泊地は留萌市である。きょうの午後と明日の午前中を使って、あとは留萌本線の駅をめぐろうと思っている。上川駅を出る時にカーナビにセットしたのは、留萌本線の最初の駅・北一已(きたいちやん)である。 カーナビはとにかく便利なのだが、その反面、任せてしまうとあとでどの道を通ったのか判らないということも起こってくる。途中、旭川の市街地は周縁部の方を抜けたと思うのだが、結局たどったルートはよく判らなかった。 留萌本線は函館本線の深川駅を起点とし、日本海側の留萌を経由して増毛駅までを結んでいる、全長66.8キロの路線である。本線と言いながら走っているのは普通列車だけで、運行本数も少なく、これもまた近年、JR北海道によって廃止が取り沙汰されている路線なのである。 わたしは以前(2013年5月)、この線を列車で一度往復していて、その時は深川に一泊して深川駅にも行っているので、今回は起点の深川駅は省略してスタートすることにした。 北一已(きたいちやん)駅 いろいろな鉄道関係の書籍などで見ると、ここにはなかなか風情のある木造駅舎が建っているはずだった。行ってみると、駅舎はあったが、外壁をかなり大幅に補修してしまったようで、無塗装の下見板張りの壁面は見られなくなってしまっていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() 中の様子を見ていたら、どこかで小さな警報音が鳴りだした。最初、何の音なのか判らなかったのだが、見ると外のホームにキハ54の姿が見えたので、あわてて外に出て撮影した。 ![]() ![]() 改めて駅舎の外壁を見てみたが、こちらの面も塗装された板張りにすっかり変わっていて、写真などで見ていた下見板張りはどこにも残っていなかった。 ![]() なお、ここのホームは駅舎より少し高くなっていて、ホームへは階段を数段上がるようになっていた。 ![]() ![]() 秩父別駅 ということで、秩父別の駅前には住宅が中心のそれなりの町並みが出来ている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 北秩父別駅 秘境駅ランキングで、留萌本線では一番高位の64位に入っている駅である。通過してしまう列車が多く、停車するのは上り4本、下り2本だけである。 ![]() 駅の姿を撮ろうとすると、角度を変えてもどうしても背後に写り込んでしまうのである。 ![]() 待合所に掛かった木の札の文字も消えかかっている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 北秩父別を出ると間もなく、留萌本線の線路は石狩川の支流である雨竜川を渡る。雨竜川橋梁の緑のトラス橋が道路の向こうに見えていた。 ![]() 石狩沼田駅 沼田町の町並み。正面に小さく見えているのが石狩沼田駅である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 真布(まっぷ)駅 道道1007号沿いにぽつんと見えている。 ![]() 板張りの短いホームに、塗装されていない木造の待合所。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 恵比島(えびしま)駅 明日萌(あしもい)駅ではない。恵比島駅である。 ![]() もうずいぶん昔の放送だが、いまでも訪ねてくる人がけっこうあるようで、わたしがいる間にも、年寄り夫婦を連れた中年夫婦や若いカップルといった人たちが車を乗り付けていた。そういう人たちにとっては、左の駅舎こそが本物の駅であり、ここはドラマの中の明日萌駅なのであって、右の恵比島駅に興味を持つ人は全くいないようだった。 広場の左手には、駅長宅として使われたという木造家屋のセットも保存されていて、広場の正面には、道路を隔ててこれも木造の中村旅館という看板が掛かった建物があって、いまはこの駅を訪ねて来る人を当て込んだ茶店(喫茶店?)になっているようだった。 わたしはテレビドラマを見る習慣が全くないから、この「すずらん」というドラマがどんな物語なのかも知らないし(まあ、インターネットで調べてだいたいは判りましたが)、この駅舎の有難味は全く理解できないのである。 しかし、前にキハ54に乗ってここを通った時、駅舎の窓から主人公と覚しき少女が外を見ているというのは気付いていたから、一応中に入ってその人形を確認することにした。 ![]() 駅長室の机には、駅長さんらしい人形も座っていた。 ![]() こちらから見ると恵比島駅の姿は見えなくなってしまうが、 ![]() ![]() ![]() 峠下(とうげした)駅 恵比島駅を出ると、留萌本線は恵比島峠という峠を越える。鉄道はトンネルでの峠越えだが、道道549号はそんなことはしない。峠と言っても低いものだから、一応山道だが全くたいしたものではない。峠の先は留萌市である。 峠下駅は文字通り峠を下った先にあり、道道に面した無舗装の広場に建っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 歩いて行くと、駅舎の向こう側に木造の小屋が建っていた。戸口の上に荷物保管庫という木札が打ち付けてあった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 幌糠(ほろぬか)駅 幌糠駅は宗谷本線と同じタイプの車掌車を再利用したダルマ駅舎である。 ![]() ![]() ![]() このあたりは、留萌市内陸部の一つの中心になっている町並みなのだという。 ホームの方から駅舎を撮影すると、駅前の側にそうした家や建物の姿が自然に写り込んでくるのである。 ![]() ![]() ![]() 本当はこの回で留萌駅までたどり着きたかったのですが、また写真の枚数が増えてきてしまい、中途半端なところですが、このあとは回を改めてということになってしまいました。 ▲
by krmtdir90
| 2015-07-26 21:17
| 鉄道の旅
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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
旭川紋別自動車道・丸瀬布ICの入口を過ぎると、国道333号線に車の姿はほとんど見られなくなってしまう。無料で供用されている高速道路がほぼ並行に走っているのだから、普通に考えれば国道を利用しなければならない理由はないのである。 このあと、国道と石北本線の線路は、標高830メートルの北見峠に向かって徐々に高度を上げて行くのだが、その途中に、名前に「白滝(しらたき)」と付く駅が続けて4つ並んでいるのである。このあたりは2005(平成17)年に遠軽町と合併するまでは白滝村だったところで、中心をなす白滝駅以外は、停車する列車の数が極端に少ない秘境駅として知られている。 ただ、列車で訪ねるのは難しくても、車なら国道からちょっと入ればいいだけなので、行くのは比較的簡単な駅なのである。 下白滝(しもしらたき)駅 秘境駅ランキング22位の駅だが、無舗装の砂利道を入って行くと、駅前に何と車が4台も停まっていた(右手にも2台並んでいる)。 ![]() しかし、残った車はどうしようもない。 特に、この駅舎の直前に停まった黒いセレナは許し難い。この時は意識できなかったのだが、横の窓のカーテンが開いていることに気付くべきだった。この駅は保線要員の詰め所のように使われているらしく、残りの車はそういう人たちの通勤車ということだったようなのだ(結局、このセレナは最後まで動くことはなく、駅舎正面の写真はこれが写ってしまったもので我慢するしかなかった)。 さて、駅舎の前から、入って来た道の方を見る。 ![]() 駅舎内の待合所。ホームとの間に鉄パイプの改札口。 ![]() ![]() ホームに出て、そちらから駅舎を写していると、 ![]() ![]() ![]() ![]() 駅舎正面の車はツイていなかったが、こんなのに出会えるとは、悪いことばかりではなかったのである。 この駅は2面2線の交換可能駅になっていて、千鳥配置の2つのホームは構内踏切でつながっている。向かいのホームにも行ってみた。 ![]() ![]() 構内には側線の一部なども残っていた。 ![]() ![]() ![]() ちゃんと戸を閉めて行ってくれたので、きちんとした姿で取り直し、もう一枚。 ![]() 駅を立ち去りながら、ふと思い立って車を停め、やや離れたところから駅舎を撮影した。 ![]() ただ、これを撮っている間、すぐ横の人家で飼われているらしい黒い犬が、どうも放し飼いにされているらしく、わたしのまわりをのそのそ歩き回るのが不気味だった。 旧白滝(きゅうしらたき)駅 秘境駅ランキング23位だが、この駅は国道333号からもよく見える位置にある。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() いろいろな位置から。 ![]() ![]() ![]() ![]() 白滝駅 この駅舎は1989(平成元)年に改築されたものだという。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 上白滝(かみしらたき)駅 上白滝駅は駅前にちょっとした広場があって、けっこう開放感がある。 ![]() ![]() ![]() さて、駅を見ていくことにする。この駅舎は1932(昭和7)年の開業以来のもので、もちろん改修はされているが、木造駅舎としては昔の雰囲気をよく残しているのではないだろうか。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 実は、駅舎の中を見ている時に、思いがけず列車の近づいて来る音に気付いた。急いでホームに出てみると、特急オホーツクが通過して行くところだった。 ![]() 正面からの姿もいいが、ホーム側からの姿もなかなかである。 ![]() ![]() 線路脇から1枚。 ![]() ![]() 最後に、上白滝駅の運賃表。 ![]() このあと、石北本線は難所とされた北見峠を越えて行くのだが、駅間距離は34.0キロもあるのである。これは東京なら山手線をほぼ一周する距離である。 以前、上白滝駅に停車する唯一の上り列車で旭川に向かったことがあるのだが、始発の遠軽を16:12に出た列車は(単行ではなく、2輌編成のキハ40だった)、上白滝を17:08に発車し、次の上川駅に到着したのは18:16だった。何と1時間8分を要したのである(途中の信号所で交換待ち停車などがあった)。因みに、この列車は上川駅でも37分間停車して、旭川に着いたのは20:05になっていた。 奥白滝信号場 上白滝駅と上川駅の間には、以前は4つの駅があったらしい。上白滝側から順に、奥白滝、上越(かみこし)、中越(なかこし)、天幕(てんまく)の各駅である。この内、天幕駅以外の3つの駅は、どれも列車交換が可能な駅だったため、駅としては廃止された後も、信号場として活用されることになったのである。 信号場となったあとも、駅舎やホームの跡などはいまでも残っているらしいので、できれば見に行きたいものだと思った。これは始めから計画していたことではなかったが、こちらに来て走っているうちに、元は駅だったわけだから、国道を注意して走って行けば、駅への入口は見つけられるのではないかと考えた。駅名は地名から採られたものなので、駅はなくなっても地名は地図上に残っていて、だいたいの場所の見当もつけられるのである。 というわけで、それらしい砂利道を見つけて入って行った。 ![]() ![]() 向こう側に線路があるわけだが、駅舎の両側は雑草が高く生い茂っていて侵入を阻んでいた。だが、ここまで来てそれに負けているわけにはいかない。何となくこちらから入って行くことにした。 ![]() ![]() ![]() ![]() こういうところで線路に降りるのはやはり危険だと感じて、一度は戻ろうとした。しかし、結局は誘惑に勝てなかった。もう一度雑草を分けて入って行き、思い切って線路上に飛び降りてしまった。あー、やっちゃったと思った。ただ、危険なことをやっているという罪の意識はあったようで、あちこち動き回ったりはせず、急いで写真を数枚撮っただけで引き返した。 ![]() ![]() 国道に戻ってから少し反省した。あんなところで飛び降りて、もし足でも挫いてしまったらどうするつもりだったのだろう。もう若くはないのだから、自分の行動には責任を持たなければいけない。自制するところは自制しなくてはいけないのだと思った。 奥白滝信号場までが遠軽町(旧白滝村)の範囲で、このあと国道は北見峠を越えて上川町に入った。石北本線や旭川紋別自動車道はトンネルで峠越えをするのだが、国道はそうではなかった。けっこうカーブなども連続したが、他の車に出会わないのだから、マイペースでのんびり走ることが出来た。 次の写真は峠のどちら側で撮ったものなのか不明なのだが、一番上が旭川紋別自動車道、その下が石北本線の鉄橋、そして一番下わたしの走っている国道333号線となっていて、峠越えの交通手段3つの揃い踏みという写真である。 ![]() いま、高速道路が作られてしまったために、この国道を利用する人はほとんどいなくなってしまったのである。 行けなかった上越(かみこし)信号場 以前、上越信号場で交換待ち停車を経験したことがある。その時見た信号場は、古い木造駅舎は残っていたものの、両側をトンネル(シェルター)に挟まれた山の中にあって、道路はかなり上の方を走っているような感じだった。ので、ここに行くのは今回は無理だろうなと思っていた。実際、それらしい入口を見つけることは出来なかった。 中越(なかこし)信号場 わたしのように気をつけていなければ通り過ぎてしまうかもしれないが、旧中越駅の駅舎は国道から直接見えるところにあった。 ![]() 右手の草むらの中に、石碑とも言えないようなこんな記念碑が建っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 結局また線路に入っているのだから、全然反省していないじゃないかと思うかもしれない。しかし、この階段の存在は大きいと思う。階段がそのまま残っているということは、なんか降りていいよと言われているような気がするではないですか。ねっ。 そういうわけで、ホームがどういう状態で設置されていたのかは不明だったが、構内には2線ではなく3線が通っていた。駅舎側(右側)の2線が使われていて、左側の1線は表面に錆が出ているので使われていない感じがした。 ![]() 上川駅 正午前に上川駅に着いた。ここは前に、30分以上あった停車時間を利用して駅前に出たことがある。えらく平べったい駅だったという印象がある。 ![]() ![]() ![]() 上川を出て間もなく、道路が石北本線の線路を越えていくところがあって、駅がよく見えたので車を停めて写真を撮りに行った。駅前からも見えていたのだが、大雪山の山々がよく見えた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ショックなニュース(つけ足し) 実は、昨日のうちにアップするつもりでこの回をまとめていたのだが、途中インターネットでいろいろと各駅のことを調べていたら、北海道新聞が22日(水)に配信したニュースに気づいて愕然としたのである。 JR北海道の旭川支社長らが21日、遠軽町役場を訪ね、来年3月のダイヤ改正に合わせて、オホーツク管内遠軽町にある石北線の無人駅、上白滝駅・旧白滝駅・下白滝駅の3駅を廃止する意向を伝えたというのだ。JRは経営合理化の一環として、利用の少ない数十の無人駅を廃止する方針を示しており、すでに同じ石北線の金華(かねはな)駅(北見市)の廃止方針も明らかになっているのだという。 JRは同時に、遠軽町に石北線は今後も維持すると伝えたらしいが、ついに来る時が来てしまったという気がした。それにしても、なんというタイミングだろう。 この問題はまた改めて考えたいと思うが、国鉄を民営化する時、最初から明らかだった地域間格差を無視して分社化を行ってしまった矛盾が、ここへ来て後戻りできない袋小路に、JR北海道を追い込んでしまったという面があると思う。 もちろん、わたしが見て回った3駅の状況を考えれば、早晩廃止されるのも仕方がないことだったのかもしれない。だが、それにしてもという思いはどうしても残るのである。ここまで運行本数を減らしてしまえば、仮に利用したいという人がいても利用できるわけがないではないか。少なくともわたしは、鉄道で行けるものなら鉄道でこれらの駅に行きたかったのである。それだけは、はっきり言っておきたいと思う。 書き始めるときりがなくなりそうだから、とにかくきょうのところはここで止めておく。 ▲
by krmtdir90
| 2015-07-25 12:26
| 鉄道の旅
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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
どうも計画性がなくやっているので、前回・前々回と写真の枚数が増えてしまい、読んでくださる方はページの読み込みに時間がかかって仕方がなかったかもしれない。もっと写真を厳選すればいいのだろうが、そうすると選ばれなかった写真たちは結局パソコンの中で忘れられてしまうことになるので、取りあえず時間はあるのだから(ただ少々疲れてきているのは確か)、なるべく丁寧に拾い上げてやりたいと思うのである。 展開上あまり小間切れにはしたくないので、どうしても1回分が長くなってしまうのだが、それでも切れ目が変なところになってしまうのはあまり好ましいことではないだろう。 そういうわけで、今回の最初は宗谷本線・和寒(わっさむ)駅である。東六線駅を訪ねたあと、それで終わりにするつもりだったのだが、和寒ICに向かう途中で国道から見えてしまう駅なので、つい立ち寄らずにはいられなかったのである。 ![]() ![]() 寄った以上、駅舎の中に入り(無人駅である)、 ![]() ![]() ![]() とにかく、これで宗谷本線の駅めぐりは完全に終わりとなった。 ここからあとは写真もないしメモもない。 和寒ICから道央自動車道に乗った。たぶん午後5時を過ぎていたと思う。比布JCTで旭川紋別自動車道(無料区間である)に入り、現在開通している終点の丸瀬布(まるせっぷ)ICまで走った。途中、白滝(しらたき)PAで一回休憩を入れた(えらく侘びしい感じのPAだった)。カーナビに入っている地図が古くて、途中未開通区間になったりしてカーナビは困っているようだったが、わたしは別に困らなかった。 丸瀬布ICを降りてからは国道333号を走り、そのあと国道242号に入って、南から遠軽の町に入って行くかたちになった。想像以上に広がりのある町並みだと思った。 この日の宿はホテルサンシャインと言い、遠軽駅に近い大通り沿いに立地していた。レシートで確認すると、チェックインは18:44になっていた。 ホテルにレストランもあるようだったが、今夜はやはり外に出ようと思い、部屋に置いてあったこの小冊子で入念に検討(徒歩圏内にけっこうお店があった)した結果、 ![]() ここはいいお店だった。 ![]() ご主人はカウンターの中、女将さんは接客という分担になっているらしく、奨められて最初に頼んだシマエビが山盛りになって出て来て、これが大変美味しかった。昔、家族で行った野付(のつけ)半島の付け根あたりの店で黙々と北海シマエビを食べたのを思い出した。これががシマエビ初体験だった。今夜のはサロマ湖で採れたものだと言っていた。 こんなふうに何を食べたか一々書いても仕方がないのでやめておくが、どのつまみも大変美味しくて満足した。徳利に入れて出される冷やの地酒も(男山だったと思う)美味しかった(よく枡に入れたコップに溢れさせるスタイルがあるが、これはあまり好きではない)。 時々、小学校高学年ぐらいの男の子が奥から顔を出していたが、お二人のお孫さんということなのだろうと思った。母親が脇の厨房(洗い場?)を手伝っているようだった。 というわけで、 ![]() 7月11日(土)。 8時前にホテルをチェックアウトし、荷物を積み込んだあと車をホテルの駐車場に残し、ちょっと遠軽駅まで往復の散歩をした。 実は、遠軽の町にはちょっとした「借り」があった。 このブログを始めて間もない2013年5月、鉄道旅の途中で遠軽駅に下車したことがある。1時間あまりの乗り継ぎ時間があったのだが、何となく外に出て、写真を撮ったり前の通りをぶらぶらしたりしているうちに、雨がポツポツ降ってきて、急ぎ足で駅に戻ったのである。その時の旅の様子は、このブログに載せた初めての鉄道旅日記になった。 遠軽には、むかし顧問をした演劇部の卒業生でPORIとKAIという2人が結婚して住んでいるのだが、そのPORIがその記事にコメントを寄せてくれた。それに対してわたしは、遠軽駅には駅そばも駅前食堂もなく、あっても営業が成り立たないだろうなどと、あまり考えもなしにずいぶん失礼な返事を書いてしまったのである。 すぐに折り返しのコメントが来て、駅そばはあるはずだし、駅前の通りにもお蕎麦屋さんがあるはずだと抗議された。慌てて撮って来た写真を拡大して確認してみると、彼女の言う通り、どちらもちゃんと写真に写っていたのである。わたしがぼんやりして、見落としていただけだったのだ。彼女には早速謝罪の返事を書いたが、その時以来、次に遠軽に行くことがあったら、それらの店をちゃんと確認しに行って、できればそこでお蕎麦を食べなければならないと思って、そのことがずっと心に引っ掛かっていたのである。 昨夜は、よほどその駅前のお蕎麦屋さんに行こうかとも思ったが、蕎麦屋ではあまりゆっくり飲むことはできないからと「やすべえ」の方に行ってしまったのだが(それはそれで大正解と言ってよかったのだが)、遠軽の町を出発する前に、この懸案の「借り」を返しておかなければならないと考えたのである。 朝の遠軽駅。 ![]() ![]() ![]() なお、「藤月庵」はすぐ右手にあるやきとりの「弘吉(ひろよし)」とともに、昨夜調べた「えんがる・おすすめ飲食情報」の冊子にも載っていた。 ホテルの駐車場を出発したのは午前8時15分くらいだったと思う。 きょうも快晴である。きょうはまず、石北(せきほく)本線の秘境駅などを訪ねながら旭川方面に向かうつもりである。 石北本線は旭川(路線としての起点は新旭川駅)と網走を結んでいる、全長234.0キロの幹線である。遠軽駅でスイッチバックするかたちになっていて、ここから網走方面にも行ってみたい駅はいろいろあるのだが、全部行くことはできない以上カットするしかない。旭川方面には、何としても行ってみたい駅が並んでいるのである。 この区間というのは、昨日走った旭川紋別自動車道が出来てからは、線路(駅)と道路が完全に切り離されてしまうことになったが、元々は国道333号(途中から273号)がずっと線路に寄り添いながら通じていたのである。きょうはそちらをたどりながら駅めぐりして行こうと思っている。 凄い駅は丸瀬布ICよりも先になるから、それまでは何と言うか、寄り道というような感じになってしまうのだが、それでも通り道なのだから、ちゃんと立ち寄ってやろうと思っている。 瀬戸瀬(せとせ)駅 国道333号を左折して入って行く。右に見える建物は廃屋である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ホーム側から見た駅舎。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 丸瀬布(まるせっぷ)駅 平成の大合併で2005年に遠軽町と合併したが、それまでは丸瀬布町という独立した町だったので、小さいながらちゃんとした町並みがある。これが駅前の通り。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() きょうは写真の枚数も少ないところで、ここで一旦区切ることにする(ちょっと中休みですね)。明日からまた、怒濤の駅めぐり・後半戦がスタートします。乞う、ご期待! ▲
by krmtdir90
| 2015-07-23 21:35
| 鉄道の旅
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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
兜沼駅から道道を少し戻り、左折して道道763号というのに入って日本海側に抜けた。しばらく海沿いの道(道道106号)を走って、天塩川の河口まで行こうと思ったのである。 晴れていれば、右手の海上に(利尻水道越しに)利尻富士の姿が見えるはずだったが、残念ながら空はすっかり雲に覆われてしまっていた。 右は海、左は荒涼としたサロベツ原野が広がる直線道路である。ほとんどすべての車が高速道路並みのスピードで走っている。途中にこんなトンネルがあった。 ![]() 少し行くと、今度は風力発電の風車が整然と並んでいるのが見えてきた。 ![]() 風車の列の途中で、右手にパーキングスペースがあったので入ってみた。 ![]() 道路の向かい側に、風車の方を指してこんな看板が出ていた。 ![]() 幌延町のホームページでオトンルイ風力発電所を調べてみた。風車は全部で28基あり、1基あたりの出力は750キロワット、総出力21000キロワットを発電すると書いてあった。幌延風力発電株式会社と幌延町の関係とか、供給先の北海道電力との関係などについてはよく判らなかった。このあたりは利尻礼文サロベツ国立公園の中だと思うが、この風車がもっとたくさん並ぶことには特に抵抗感はないような気がした。 ホームページを見ていたら、この幌延町にはもう一つ重要な施設が立地していることに思い至った。日本原子力研究開発機構の幌延深地層研究センター。原発から出る高レベル放射性廃棄物の地層処分について研究している(と称している)施設である。どのあたりにあるのかよく判らないが、当初これは中間貯蔵施設として計画されていたものであり、今後実際に廃棄物が搬入されることはないと町は強調しているようだが、先のことは誰にも判らないのである。 実はさっき、旅の途中あちこちで貰って来たパンフレットなどをひっくり返していたら、こんなものが混ざっていたのに気がついた。 ![]() さて、道道106号はさらに南下して天塩川と出会う。天塩川はその河口の手前で大きく南に向きを変え、海との間に南北10キロほど続く巨大な砂嘴を発達させた。道道106号はしばらくその砂嘴の中を走り、手塩河口大橋という橋で天塩川を越え、さらに南下して天塩町の町並みに入って行く。 天塩町は通過するだけのつもりだったのだが、町の中で偶然こんな建物を見つけた。 ![]() ![]() ![]() ![]() このあとは、国道232号をさらに南下し、遠別町の少し手前で道道119号というのに入り、内陸を目指した。宗谷本線・佐久駅のところで国道40号と出会い、昨日走ったところを逆にたどって音威子府に達した。正午を少し回っていたが、きょうもまた駅そばというのも芸がないので、とりあえず駅めぐりをスタートさせて、あとは成りゆきに任せることにした。 音威子府・美深間で残っている6つの駅は、どれも国道40号からそれほど離れていないので、基本的に国道を行くことになるから何とかなると考えたのである。 なお、日本海側から山を越えて内陸に入って来るうちに、いつの間にか雲が切れて晴れ間が覗くようになっていた。このあとも、雲はあるものの基本的に晴れの暑い天気に戻ってしまった。 咲来(さっくる)駅 咲来駅は、廃屋の目立つ集落の道の先にあった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() これは農協の建物だったのだろうか。ART IN SAKKURU 8.17~9.20という掲示は、ここで何か催しが企画されているのだろうか。 ![]() ![]() ![]() ![]() 天塩川温泉駅 国道を右折してかなり行くと、踏切の横に天塩川温泉駅があった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 反対側には、普通どこの駅でも見かけるありふれた4人掛けのFRP(強化プラスチック)成型のベンチが2脚(都合8人分)置かれていて、さらに壁際にはガス(だったと思う)ストーブまで設置されているのである。何か、よく判らない待合所だった。 駅の周囲には人家などは見当たらず、温泉を名乗る駅にしては、何とも意外性のある駅なのである。秘境駅ランキングでも60位にランクインしている。 ![]() 踏切の向こうはT字路になっているのだが、その正面に「←天塩川温泉」という小さな(実に控え目な)看板が出ているのである。徒歩だと15分ぐらいかかるだろうか、田舎道を行くと途中で天塩川を渡るかたちになり、その先に見えてきたのはけっこう立派な建物だった。 ![]() 戻る時、狭い橋の真ん中あたりに車を停めて、天塩川を写真に撮った。撮っている間、他の車は通らなかったと思う。 ![]() ![]() 豊清水駅 国道を逸れて、舗装の途切れた先の踏切を渡り、 ![]() ![]() ![]() この、骨組みだけになってしまった倉庫の痕跡も記憶にあった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 恩根内(おんねない)駅 国道40号とは反対側に駅舎があり、駅前にはささやかな集落がある。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 国道40号に戻ると、すぐに天塩川を渡った。少し走ると「道の駅びふか」というのがあったので、入って昼食にした。確か生姜焼き定食を食べたと思うが、写真を撮っていないので早くも記憶がはっきりしなくなっている。まあ、どうでもいいことだけれど。 駐車場の向こうの国道沿いにパトカーが1台停まっていて、たくさんの人たちが交通安全の幟を持って並んでいた。暑いのに動員された町のナンとか協会の人たちなのだろう。 ![]() いずれにせよ、明日(11日・土曜日)から交通安全週間?だとか言っていたから、少し気をつけなければいけない。 紋穂内(もんぽない)駅 「もんぼない」ではない。「もんぽない」である。秘境駅ランキング39位の駅で、周囲に人家などは全く見えない。 国道を左折して天塩川を渡り、さらに右折して細い道をしばらく行くと駅前に出た。 ![]() ![]() 駅舎と一緒に撮ってあげましょうかと言う。いや、自分は写らなくていいのだと断ったが、女性はさらに何やら話しかけてくる。 要するに、15分後ぐらいにやって来る列車で友人が訪ねてくるので、それを車で迎えに来たのだが、こんな寂しい場所で一人で待っているのが不安だったようだ。よかったらそれまでお話でもしていませんかと、まあそんなような感じなのだと思われた。最近、近くの畑で熊が目撃されたというようなことも言っていた。 何だか不思議な出会いだなあと思いながら、感じの悪い人ではなさそうなので、お相手させてもらうことにした。 話しているうちに、連れ合いの男性が学校の先生をしていることが判って、しかも組合員で、さらにわたしと同じ少数派の組合に属している(わたしにはもう過去の話だが)らしいのも判ってきて、彼女の方は先生ではないらしかったが、考え方はなかなか自由闊達な感じがして、まあ、あまり具体的なことを書くのは失礼なのでやめておくが(細かいことは忘れてしまったし)、けっこう感覚的に重なるところの多い楽しい会話ができたのである。 このあたりで、住む人がいなくなった家を借りて住んでいるらしい。東京にしばらくいたこともあるが、こっちに住んでしまうと、もうあんなところにはとても住む気にはなれないと言っていた。「天塩川、いいですよね」と言うのには、全面的に共感した。 14:45、稚内行きのキハ54がやって来た。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 初野駅 国道40号から左折した道路が踏切に突き当たる、その横に初野駅があった。こちらは自転車が3台。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 初野駅の次が美深駅だから、これでこの区間もつながったことになる。時刻は午後3時を過ぎている。あとは士別剣淵ICまで行って高速に乗ればいい。きょうの宿は遠軽町である。 国道40号を走り、名寄を過ぎて、風連のあたりで給油をした。石谷商事風連SS、ハイオクは155円だった。道の駅もち米の里なよろに寄って一服した。さらに士別を過ぎるあたりでムラムラと?その気になった。 宗谷本線をスタートさせた北剣淵駅の2つ先に、秘境駅ランキング77位の東六線駅というのがある。せっかくここまで来ているのだから、ここに寄ってから、次の和寒ICで高速に乗ればいいではないか。何と言うか、ほとんどビョーキみたいなものである。 東六線(ひがしろくせん)駅 剣淵駅を飛ばしてきているのだが、それはいい。 国道40号から右折して、見通しのいい田園地帯の道をずっと行くと、踏切の脇に期待通りの小さな駅が見えた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 時間が午後4時半を回っている。 ▲
by krmtdir90
| 2015-07-22 23:53
| 鉄道の旅
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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
ずっと宗谷本線に寄り添うように流れて来た天塩川は、幌延駅のあたりで直角に流れの向きを変え、このあと西に流れて日本海に注いでいる。宗谷本線はこれから、文字通り最北の原野を北上して行くことになる。 しばらく線路から離れていた国道40号線は、次の下沼駅のあたりで再び合流し、ほぼ並びながら幾つかの駅をたどって行くのである。その部分だけでも、きょうのうちに訪ねてしまいたいと思っている。 下沼駅 駅前で車から降りたら、ちょうどキハ54がやって来るところだった。絶妙のタイミングである。で、まず最初にその様子を撮影。 ![]() ![]() ![]() ![]() ここは秘境駅ランキング34位の駅である。だが、入って来る道の途中には人家があって(次の写真の向こうの方に小さく写っている)、必ずしも忘れられた駅と言うわけではないようだった。 ![]() ![]() ![]() 外面の塗装はここも相当劣化していて、塗装した鉄板というのはやはり定期的に塗り直さないと、見た目もよくないし絶対にまずいと思った。 ![]() 豊富駅 下沼駅は幌延町の駅、豊富駅は豊富町(天塩郡)の駅である。豊富町は稚内の手前にある最後の町で、町並みもちゃんとあるし、駅や駅前もそれなりのしっかりした姿をしていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ホームに出てみた。車中からだといつもこの部分だけしか見えないのだが、 ![]() ![]() ![]() ![]() もう1つは、駅前からちょっと入ったあたりに保存されている古びた車輌。 ![]() ![]() 徳満(とくみつ)駅 きょうはこれで最後にしようと、徳満駅をカーナビにセットした。国道40号を走って行くと、途中に非常に見通しのいいところがあったので、車を停めて利尻富士を撮影した。 ![]() ![]() ということで、徳満駅。秘境駅ランキングでは98位の駅である。 ![]() ![]() 中を覗いてみると、床板の感じなどが靴を脱いで上がりたくなるようなもので(脱がなかったけれど)、ここも何だか寛いで一泊できそうな気がした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 稚内市(泊) ホテルにチェックインしたのは午後7時17分だった(クレジットカード支払いの控えレシートによる)。今回の旅で、ちょっと変化をつけて奮発してみたのがここである。ANAクラウンプラザホテル、昔の全日空ホテルである。 部屋の窓からの夕景。 ![]() 7月10日(金)。 部屋の窓からの朝の景色。 ![]() ![]() 稚内駅。 ![]() きょうは、まず昨日省略した駅を回らなければならない。ノシャップ岬を回って、海沿いを南下して行こうと思っている。そうすると南稚内駅には行けないことになるのだが、過去2回の鉄道旅で下車している駅なので、今回は無理する必要はないと判断したのである。 で、ノシャップ岬。 ![]() ![]() 道道254号から106号へ。 ![]() 抜海(ばっかい)駅 秘境駅ランキング43位。抜海駅は最北の無人駅、最北の木造駅舎である。有名な駅だから、インターネットや鉄道書籍などでいろんな情報や写真などに接することができる。だから、ホームに停まった時、車中から目にする駅舎の素晴らしい印象と比べて、正面の方は新建材で補修されてしまっているので、もう一つパッとしない感じだというのは知っていた。 ![]() 駅に入って来る正面の道。昔は人家などが建っていたこともあるのだろうが、いまはもう何もない道である。 ![]() ![]() ![]() ホームへの出口の方も二重構造になっていて、扉や窓は先ほどと同じような赤い縁取りになっている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() さて、こちらのホームで煙草に火を点けてしばらく待った。 やって来た。8:38発・稚内行き普通列車。 ![]() ![]() ![]() あと、こちらの角度から2枚。 ![]() ![]() ![]() 勇知(ゆうち)駅 抜海駅から次の勇知駅へは、道道510号で内陸に入って行く感じになる。 この駅は、車掌車の外面を別の素材で覆ったタイプのダルマ駅舎だった。 ![]() ![]() ![]() 駅舎の中もよく整っていて、好感度はかなり高い感じがした。 ![]() ![]() ![]() ![]() 兜沼(かぶとぬま)駅 駅舎は小さいが新しい感じのすっきりした建物で、調べてみたらJRになってから、1988(昭和63)年に建て替えられたものだという。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ホームに立つと、駅名の由来にもなった兜沼がわずかに見えるのだが、せっかくだからそちらの方を回ってみることにした。 駅に入って来る道。 ![]() 表の道道(区切りが不明で、何号だか判らない)に出ると、それなりの広がりを持った集落があった。郵便局なども見えている。 ![]() ![]() 下の碑文を読んでみると、豊富町一帯の開拓はこの兜沼周辺から始まったもののようで、入植当時の苦難の様子などを述べたあと「入植から百年、先人の功績を讃えるとともに、豊富町の歴史を後世に残すべく」平成14年にこの碑を建立すると書かれていた。うーむ、そうだったのか。 なお、写真の左に写っている木造の建物には兜沼郷土資料室という看板が掛かっていたが、閉館日という札が下がったまま、ずっと開いていないような雰囲気が漂っていた(開いていたらごめんなさい。札が丸く反ってしまっていて、何となくそんな気がしてしまったので)。 さて、兜沼の方だが、行ってみると車が一台も停まっていない駐車場があり、窓などがすっかり閉まった案内所らしき建物があり、奥が林間の広い公園のようになっていた。車を停めて入って行ったが、何だか広いばかりで、作業員のような人はいたが、人影も全くなく、開放的に兜沼を見渡せそうな場所もどう行けばいいのかよく判らなかった。で、まあそれなりに水面が見えるところで数枚だけ写真を撮って戻って来てしまった。 ![]() とにかくそういうわけで、兜沼駅の次は昨日の最後に行った徳満駅だから、これでこの区間はつながったことになるのである。あとは美深・音威子府間で残っている6つの駅を訪ねることになる。 ▲
by krmtdir90
| 2015-07-21 22:27
| 鉄道の旅
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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
歌内(うたない)駅 天塩中川駅からこの歌内駅へは、天塩川の西岸を走る国道40号には戻らずに、川の東岸を宗谷本線の線路と一緒に走っている道道541号というので行くことが出来た。 道道から歌内駅に入る入口のところ。 ![]() ![]() ![]() この左の線路に設置されているのがその機械で、向こうから見ると小さな赤い光が規則的に点滅しているのである。 ![]() ![]() ![]() ![]() これが内部。 ![]() ![]() 問寒別(といかんべつ)駅 前の歌内駅は中川町の駅で、次の問寒別駅からは天塩郡幌延(ほろのべ)町の駅になる。 駅に入って来る道路には傾きかけた廃倉庫なども見えたが、人家もけっこうあって、車も何台か停まっているのが見えた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 糠南(ぬかなん)駅 問寒別駅から次の糠南駅へは、線路に沿って延びる名もない一般道を走った。途中、天塩川の支流の問寒別川という川を渡った。並行している宗谷本線の鉄橋が見えた。車を停めて撮影しに行った。 ![]() ![]() 糠南駅は秘境駅ランキング12位の駅である。札沼線の豊ヶ岡駅より一つランクが上で、今回の旅で訪問する駅の中では最高の秘境駅ということになる。あたりには人家もなく、周囲は荒れた牧草地?と原野に囲まれていた。ただ、けっこう開放的な場所ではあると思った。 舗装はされているが細い道を入って行き、踏切を渡って回り込むかたちになっていた。踏切からホームが見えた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 踏切の警報機が鳴り出したので、急いでホームに出た。そちらからキハ54の単行がやって来るのが見えた。 ![]() ![]() ![]() ここで秘境駅ランキングのことを少し書いておきたいと思う。 このランキングは、秘境駅訪問家を自称する牛山隆信氏がみずからのホームページ上に公開しているもので、評価項目として秘境度・雰囲気・列車到達難易度・外部到達難易度・鉄道遺産指数の5項目を設定し、各20点満点で評価した数字を合計したものを総合評価としている。 もちろんランキングなどというものは一種のお遊びに過ぎないし、牛山氏自身もこれは「筆者の独断的な判断によるもの」と断っている通り、訪問したそれぞれの思いがランキングの順位とずれていることを楽しむ、というような側面もあっていいという気もするのである。ずれていようが何だろうが、こうした駅に人々の目を向けさせた牛山氏の功績は変わらないし、遅れて鉄道ファンになったわたしにとっても、こんな視点があるということを教えられたことは大きかったと思っている。 わたしは牛山氏に感謝しているのである。だから気楽な無責任さで言わせてもらうとするなら、糠南駅の12位は評価が高すぎるという気がした。このスチール物置は何と言っても減点である。わたしは木造の駅舎・木造の待合所を過大に評価する傾向があり、ホームの作りや周囲の雰囲気も大きなウェイトで判断してしまうのだと思う。 そう考えると、これまでのところでは札沼線の豊ヶ岡駅や、今朝最初に訪ねた北剣淵駅などが、わたしの心にストレートに響いた駅だった気がする。このあとも、ランキングはあくまで一つの参考として、あるいは一つのきっかけとして、残る駅をたどって行きたいと思うのである。 雄信内(おのっぷない)駅 雄信内駅は大好きな駅である。ランキング73位は低すぎると断固として言っておきたい。 ![]() 1925(大正14)年の開業以来の駅舎で(数年後に火事で焼けて再建されたという説もあるようだが)、ドアや窓がスチール製に替えられていたり、あちこち改修はされているものの、まだ木枠の窓が残っている部分もあって、雪や寒さの厳しい自然の中にあったことを思えば、よくこの状態で残ってきたものだと思う。 いまは車掌車利用のダルマ駅舎などになってしまった多くの駅にも、かつてはみんなこういう駅舎が建っていたのだと思うと残念でならないが、わずかでもこういうかたちで残っている駅舎があるのは嬉しいことである。 前に降りた時は大急ぎでよく見られなかったが、きょうはゆっくり駅舎の中なども見ることができる。 ![]() ![]() ここは2面2線の列車交換可能駅になっている。ホームや構内踏切の方もゆっくり歩いてみた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 駅前の道の方に歩いて行ってみる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 安牛(やすうし)駅 雄信内駅から先、宗谷本線の線路と天塩川の間に道道256号というのが通っていて、このあと幾つかの駅はそこから入って行くようになる。 安牛駅は道道256号を右折したあと、しばらく入り込む感じになっていた。 ![]() 駅前に行くと、白い業務用のバンがハッチを開けた状態で停まっていて、男性の作業員が一人、左側の倉庫のようなところに入って何かしていた。 ![]() さて、この安牛駅の塗装の剥げ方はちょっと無惨と言うしかない感じである。 ![]() 内部は一応きれいになっていて、 ![]() ![]() ![]() ![]() 南幌延(みなみほろのべ)駅 秘境駅が続く。ランキング56位の駅である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 一応ドアのガラス越しに中を覗いてみた。 ![]() 上幌延(かみほろのべ)駅 秘境駅ランキング55位の駅。 ![]() ここの塗装はそれほど剥げてはいなかったが、劣化はしているようで、駅名の文字が消えかかっていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 幌延(ほろのべ)駅 幌延駅は特急も停車する幌延町の玄関駅である。普通列車で旅をしていると、ここでけっこう長い停車時間を取ることがあるので、この駅は降りたことがあるし、駅の様子も判っていた。だから省略してもよかったのだが、素通りせずに立ち寄ったのは、ちょうど考えどころのタイミングだったからである。 ![]() ![]() だが、そうしてしまうと、明日回らなければならない駅が増えてしまって、日程も非常に忙しいものになってしまう。 まあ、気持ちはすでに決まっていたのだが、きょうできることを明日に延ばすなかれ、である。まだ陽射しはあるのだし、この時間になってもまだ信じられないくらいの快晴なのだから、きょうのうちにもう幾つか回ってみることにした。われながらこの精勤ぶりは信じがたい気もするが、面白くて夢中になってしまうと止まらない性格なのである。 ▲
by krmtdir90
| 2015-07-20 22:10
| 鉄道の旅
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*読んでくださる方、できれば①から順番に読んでくださると嬉しいのですが。
智恵文(ちえぶん)駅 利用者の自転車が2台停まっている。ここは車掌車(緩急車)を再利用したダルマ駅舎である。 ![]() ![]() ![]() 内部の作りも非常にスッキリしていて、少なくとも宗谷本線においてはすべてこの作りに統一されているようだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 次の智北駅に向かう時、道道252号というのを走った。途中にトイレがついたパーキングエリアがあった。北海道では一般道でも、道の駅とは別にこうしたPAが所々に設置されている。手許の道路地図には「ちえぶん沼PA」と記載されていた。 ![]() 智北(ちほく)駅 道道252号を(線路の向こうの道を左から)走って来て(手前に)右折すると、すぐ踏切の横に智北駅があった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 待合所の中。プレハブだとどうも有難味がない。 ![]() 南美深(みなみびふか)駅 南美深駅のすぐ手前のところで宗谷本線の鉄橋が見えた。帰って調べてみると、この川は天塩川支流のベンケニウップ川だったようだ。 ![]() 南美深駅は秘境駅ランキング58位の駅だが、舗装道路に面したけっこう開放感のある場所にあった。車は前の道を右方向から走って来たのだが、まず緑色に塗られたトタン板で全面を補修されたものらしい、木造の待合所が目に入った。 ![]() 車を停めて、まず待合所の方から見ていくことにする。中を見ると、やはり老朽化が相当進んでいる感じで、作りつけのベンチなどもないから、古い物置小屋の中というような雰囲気である。 ![]() ![]() 短い板張りのホームである。 ![]() などと思いながらホームを歩く。人家なども見えている田園地帯の中の駅である。 ![]() 美深駅 美深町の玄関駅で、バスターミナルも兼ねた立派な駅舎が建っている。 ![]() ![]() ![]() ![]() そうと決めたら、美深に長居は無用である(美深の皆さん、ごめんなさい)。ただこのあと、美深の町のコスモ石油(園部商会美深SS)で給油をしましたよ~(ハイオク157円だった)。 音威子府村(駅への途中で) 音威子府村役場。 ![]() ![]() 帰って来てから音威子府村のホームページなどを覗いてみると、音威子府村は「北海道で一番小さな村」と書いてあった。北海道で人口が一番少ない自治体という意味のようだ。6月30日現在で、人口794人(男402人・女392人)、世帯数495世帯とあった。 また、小中学校は昨年4月から小中併置校に移行したらしく、学校のホームページによれば現在の児童生徒数は22名ということだった。 また、あれこれ調べているうちに知ったのだが、音威子府村には村立の北海道おといねっぷ美術工芸高等学校というのがあって、道内各地を中心に118名の生徒が集まって(寄宿舎生活をしながら)学んでいるらしい。1950(昭和25)年に名寄農業高校音威子府分校として開校、3年後に定時制の音威子府高校となったものの、その後何回も廃校の危機を乗り越え、1984(昭和59)年に全日制工芸科に学科転換を行い、2002(平成14)年から現校名になって、着実に実績を積み重ねてきたようだ。 生徒は入学と同時に住民票を村に移すことが義務づけられており、村の人口の15%はここの生徒と教職員で占められているらしい。例の「地方消滅」の若年女性人口変化率は-72.3%で、決して低い数値ではないが、この高校の存在は、過疎の村の大胆な挑戦として注目に値するものだと思った。 音威子府駅 バスターミナルを兼ねた音威子府駅の駅舎。 ![]() ![]() ![]() ![]() 鉄道旅の途中で、この音威子府駅はけっこう停車時間があることが多く、改札を出てこの店の前に来たこともあるのだが、閉まっていたり食事としてのタイミングが合わなかったりで、これまで食べる機会がなかったのである。 前のテーブルで食べ始めたところに、ちょうどキハ54が入って来るのが見えた。時刻表を見てみたら、ちょっと停車時間があって、発車は13:55となっていた。これはドンピシャリではないか。 食べ終わってから外に出て、ホームの方に行ってみた。ここは駅舎とホームが少し離れている。きっぷはないから、柵の外である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() さて、こちらも出発することにする。駅前の道の途中で一旦停車して、そちらから一枚。 ![]() 音威子府駅を出て間もなく、国道40号線は天塩川を渡った。車を停めて、橋の真ん中まで歩いて行って撮影した(真ん中までは行っていないですね)。 ![]() ![]() 筬島(おさしま)駅 秘境駅ランキング66位の駅だが、広場の左手に工事現場にあるような仮設のプレハブが建っていて、いま人がいるかどうかは判らなかったが、明らかに使われている状態になっていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() 車掌車の駅舎は、かつて木造駅舎が建っていたのであろう四角いコンクリート基礎の上に載っているように見えた。砂澤ビッキ氏が活動していた頃は、まだ木造駅舎が残っていたのだろう。 ![]() ![]() 宗谷本線は天塩川の東岸を走り、国道40号は西岸をたどっているから、筬島駅への往復には天塩川に架かる筬島大橋という橋を渡ることになる。帰り道、橋のたもとに車を停めて、また天塩川を写しに行った。行って来る間、たぶん一台も他の車に出会わなかったと思う。 ![]() ![]() ![]() 佐久駅 筬島から次の佐久駅までは駅間距離が18.0キロあって、宗谷本線の中では最も離れている駅である。途中はほとんど山の中で、国道沿いにも何もなく、天塩川も珍しく渓谷になっているところがあったりしたようである。宗谷本線と天塩川は基本的に北の方角に向かっているのだが、音威子府と佐久の間というのは、大きく西の方にカーブしている部分になる。 この途中で音威子府村から中川郡中川町に入り、佐久駅はその最初の駅ということになる。駅のあたりで線路と川は再び北に向きを変えるのである。 佐久駅の駅舎は「佐久ふるさと伝承館」という立派な建物になっていて、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天塩中川駅 ここはつい最近、駅舎の改修工事が行われたらしく、木造のしっかりした駅舎がまた一段と立派なものになっていた(昨年11月に、町として約5000万円の改修費用をかけて完成したらしい)。 ![]() ![]() ホーム側から見た印象も、以前来た時(2013年9月)に車窓から写した写真とはずいぶん感じが変わってしまっていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by krmtdir90
| 2015-07-19 22:26
| 鉄道の旅
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