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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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煙草の話

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 煙草はずっと「キャビン・ワン(CABIN 1)」だった。夏の初めごろ、中身や値段は変わらず名前だけが変わることになったというキャンペーンが始まった。「ウィンストン・キャビン(Winston CABIN)」というのが新しい名前だという。
 デザインは前のままの過渡期のパッケージ(写真左)が用意され、数ヶ月が経過したところで、今月になって新しいパッケージ(写真右)にめでたく?移行した。Winstonの文字が大きく表示され、CABINの文字はずっと小さなものになってしまった。こうなってみると、「キャビン(CABIN)」だけの元のパッケージを記録しておかなかったのは残念だが、まあ仕方がない。
 新しいパッケージのデザインはあまりいいとは思わないが、こういうものは慣れてしまえばどうでもよくなってしまうものなのだろうか。

 夏ごろから、ちょっといろいろ不調が出ているところを検査をしてもらうため、幾つかの医者を訪ね歩いているのだが、どこに行っても必ず煙草はやめなさいと言われてしまう。わたしが吸っているのは、タール1mg、ニコチン0.1mgという、発売されている中では最も軽い煙草であって、それも1日6~7本程度だから、やめようと思えばいつでもやめられる自信はあるが、健康のためという理由付けがどうにも納得できない感じがして、やめる気になれないまま現在に至っている。
 今年、2度の外国旅行に出掛けたが、比較的値段が高くて高齢者が中心になるこうしたツアーでは、2度とも喫煙者はわたし一人だった。これまで、国内のツアー旅行などではたいてい仲間がいたのだが、一人だけとなるとけっこう気分が滅入る感じがした。外国などにどんどん出掛けて行くアクティブな老人というのは、みんな煙草なんか吸わない健康的な毎日を送っているということなのだろうか。
 まあ、ここまで来たら、もうやめてもやめなくても健康に大した影響があるとも思えないということである。お酒も同様なことだと思っている。

 煙草を吸い始めたのは大学生になってからだが、初めて吸った銘柄が何だったかはもう覚えていない。たぶん、ハイライトかセブンスターあたりだったろうと思う。就職して教員になって、当時は職員室だろうが会議室だろうが吸い放題で、くわえ煙草で生徒と話をするなんていうのも別に気にすることではなかった。いまではとても考えられないことだが、そういう時代だったのである。
 1日に一箱の見当だっただろうか、いろんな銘柄を渡り歩いたが、何となくたどり着いたのが赤いパッケージが印象的な「キャビン」だった。当時は1mg・0.1mgなどという軟弱な煙草は発売されておらず、何mgだったかは覚えていないが、まあそれなりのものを吸っていたのである。
 S高校からT高校に移り、バケツ型の灰皿をぶらさげて部活を見に行ったら、「先生、それはやめてください」と言われたのを覚えている。当然である。

 しばらくして禁煙をした。20年ぐらい吸い続けてきたのだから、これはかなりの大英断と言って良かったかもしれない。だが、実のところそんなに必死の覚悟があったわけではない。
 学校を早退して、新宿あたりで映画館の「はしご」をしていた時だったと思う。学校を出る時から食事をして映画館を渡り歩く時まで、上映時間の組み合わせの関係で全く隙間のないスケジュールになってしまったのだと思う。夜になって、帰る頃になって、ずいぶん長い時間吸っていないなと気付いたのである。その時、何となく、どのくらい吸わずにいられるか試してみようという気分になってしまった。家に帰ってもなるべく隙間を作らないようにして、いつものように軽く飲んでさっさと寝てしまった。
 翌朝になると、朝の慌ただしさの中で、何となく「記録」が続いていることが面白く、24時間を超えるあたりからは、せっかくだから行けるところまで行ってみようという積極的な気分が生まれていた。ガムを咬んだり飴を舐めたりということはしたが、いつでも吸えるように煙草の箱は相変わらず持ち歩いていた。

 結局、特段悲壮な決意があったわけでもないのに、禁煙はあっさり成功してしまった。ただ、健康のためを考えて撤退したのだとは思いたくなかった。実際、そういうことは全く考えていたわけではないのだから、これは事実として、ちょっと禁煙をやってみただけだったのである。
 ただ、48時間・72時間と経過するあたりで、黒板に書くチョークを持つ手が震えるのには閉口した。数日間、ほとんど板書をしない授業になっていたと思う。
 時代は嫌煙権だの何だの、喫煙は迷惑行為であり、他人を巻き込む罪悪であるといった風潮が蔓延して、喫煙者には非常に住みにくい状況が生まれ始めていた。結果的に時流に乗ってしまうことになったが、わたしは決して裏切り者だったわけではない。

 この禁煙は10年ほど続いた。その間にわたしはN高校に移り、そこで数年が経過するうちに、再び煙草の誘惑を受け入れることになってしまったのである。N高校はけっこう大変な学校で、でもわたしはそういうことで弱音を吐くのはいやだったので、結果的に転勤希望も出さずに退職まで13年勤めたのだから、この程度の書き方は許してもらえると思っているが、やはりけっこうストレスは溜まっていたのだと思う。
 国語科の小部屋で、他に人がいない時に密かに一本吸ってしまった。この時の何とも言い難いクラクラ感?というものは忘れられない。ああ、これが煙草というものなのかと初めて分かった気がした。考えてみると、初めて煙草を吸った時というのは、むせたり咳き込んだりでそれどころではなかったはずで、煙草の持つ魅惑とでもいうものは、この二度目の始まりの時にようやく感じることができるものなのかもしれないと思った。

 このクラクラは一週間ぐらい続いた。だが、それを過ぎるともう二度と感じることはできなくなってしまった。
 それにしても、再び煙草に手を出す時に、最後に吸っていた「CABIN」を選んでしまったのはどういうことだったのだろう。昔つき合っていた相手とよりを戻すというような感覚が働いていたのだろうか。よくわからない。
 結局、「CABIN」の中でも一番軽い「CABIN 1」に落ち着いたのだが、それ以来もう15年近い月日が流れてしまった。今度のつき合いはそれほど深いものにはならなかったが(一番軽いのを1日6~7本なのだから)、それでもこんなに続いてしまうとは思っていなかった。名前や見た目が変わってしまうのは残念だが、いまさら他に乗り換えたり、関係を絶ってしまうことは考えられないことだと思うのである。

 ここまで書き終えて、つい一本に手が出てしまうのは一区切りという一種の「けじめ」である。こいつを吸い終わってからアップすることにしよう。
by krmtdir90 | 2015-10-25 17:57 | 日常、その他 | Comments(0)

「新しい道徳」(北野武)・「東京百景」(又吉直樹)

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 この2冊をいわゆる「タレント本」と括ることには異論があるだろう。いまや一方は、世界にその名を知られた才気溢れる映画監督であり(近ごろ撮っていないようだが)、もう一方は、今年の夏に芥川賞を受賞したばかりの新進気鋭の小説家なのである。
 この2人の間にはもちろん何のつながりもないが、どちらもかつては(一方はまだ過去形ではないが)漫才師としてそれなりの人気を博した芸人出身であるところが、注目すべき共通点と言って言えないこともないような気がする。

 その出発点であったツービートやピースの舞台を思い浮かべることが出来ないのに、あまり適当なことを言ってはまずいのかもしれないが、2人がそれぞれそれなりの期間を漫才師として生きてきたことが、その後の(一方はまだ終わっていないが)彼らの足跡に大きな意味を持っていたのは確かなことだと思う。様々な建前や思惑などに縛られることなく、本音が勝負の世界でずっと自由に生きてきたことが、新しい分野に踏み出した時に彼らを支える大きな基盤になったような気がしている。
 特にたけしの方は、ずいぶん昔に漫才を辞めてしまっているにもかかわらず、功成り名遂げた?あとも、ずっと芸人であることを自らの基本的な存在の仕方にしている点が、わたしにはとても興味深く面白いことのように思えるのである。又吉の方はまだ判らないが、初めて書いた小説が認められたからと言って、調子に乗ってすぐに次回作に取りかかるというような話もないようだし、出版社としては早く受賞第一作を出したいところだろうが、とりあえずは芸人であることを基本とした生活をそう変えていないように見えるのは、間違いではないなと思うのである。

「新しい道徳」(北野武)

 北野武はわたしと同い年である。だからどうだということではないが、彼の出るテレビ番組などはけっこう見てきた気がするし、その歯に衣着せぬ本音のトークにはずいぶん楽しませてもらったと思う。そのたけしが、70歳!を前にして「道徳」の本を書いたのだと言う。思いがけないところを突いてくるこの感じが、たけしの真骨頂だと思う。

 たけしは本気で怒っていると思った。本心から心配していると言い換えてもいい。
 もちろん彼は自らのことを芸人と規定しているのだから、その文体は彼がテレビなどで見せる喋り口調の延長のように書かれている。ツッコミを入れ笑い飛ばし、あとは知らないよ、あとは勝手に考えてくれと投げ出す書き方をしている。だが、彼の怒りは思いがけずストレートで、その心配は想像以上に深い気がした。
 有名人になった自分には、世の中に対してかなり大きな影響力があり、それなりのものを書けば出版させてもらえるだけの力が備わっている。彼がそのことを意識した時、言わないではいられなかった気持ちが溢れ出ていると思った。あんなふうに見えて、たけしは無責任な男ではないのである。本人はバカ言うなよと否定するだろうが、誠実な人間だと言ってもいいだろうと思う。

 こんなおかしなことを、なぜマスコミは問題にしないのか。教育評論家などという人たちは、なぜ知らん顔を決め込んでいるのか。たけしが止むにやまれぬ思いで立ち上がった?のは、そういうことなのだと思う。その端緒を作ったのは、小学校で行われている道徳教育の内容である。子ども相手にこんなことをやっているのが許されるのかという義憤が伝わってくる。
 第1章「道徳はツッコみ放題」で、たけしは小学校1・2年生の道徳教材(教科書)をやり玉に挙げている。小学校でなかったとは言え、ずっと教員のはしくれであった者として、こういうことを具体的に何も知らなかった(何となく想像はしていたが)自分が恥ずかしいと思った。

 小学校に限らず、学校というところは子ども(生徒)たちに、いろいろなことを一方的に押しつけている側面を持っている。
 これは学校が学校であるために必要なことを含んでいると思うが、学校を維持すること(大人の論理をと言い換えてもいい)が目的ではなく、子ども(生徒)たちのためになることというのが絶対的な根拠でなければならないはずである。そういうことであるなら、その押しつけはきちんと押しつけるべきだが、そのあたりが曖昧な押しつけは常に検証されなければならないし、押しつけは少ないに越したことはないはずである。
 道徳は押しつけるものではない。だから、道徳の教科書では表面上、子どもたちに考えさせるというかたちを取って進められるようになっている。しかし、それらがすべて、あるべき答(大人にとって都合のいい答)の用意された誤魔化しだとすればどうだろう。これらがことごとく、一方的な押しつけ以外の何ものでもないことをたけしは怒っている。

 各節に付けられた見出しを少し書き抜いてみたいと思う。たけしの言わんとするところは一貫している。
 「人生がこれから始まるっていう子どもに、自分を見つめさせて、なんの意味があるのか。」「まるでクスリの効能書きみたいに、『いいことをしたら気持ちいいぞ』って書いてある。」「なぜ老人を大切にしなきゃいけないか。いちばん大事なことが何も語られていない。」「どうして道徳の教科書には、猿だの熊だの動物がやたらと出てくるのか?」「道徳が役に立つのは、むしろ不道徳な人間だ。いい人間のふりをしたければ、道徳の教科書を参考にすればいい。」・・・。

 最初の見出しは、1年生の教科書の最初の話題が「自分を見つめて」とあることに異議を唱えている。「小学1年生が、自分を見つめるわけないだろう」「子ども時代に必要なのは、自分を見つめるなんてことより、自分の好き勝手に遊ぶことだ」というわけである。
 「いちばんうれしかったことを書きなさい」という設問も問題にされる。「そういうのは歳をとって、昔をふり返って」思うことで、「毎日のように目新しいもの、未知の何かに出会って、好奇心を燃やしている子どもに、過去をふり返らせていったいどうしようっていうんだろう」となる。
 こんな指摘も。「いまの道徳では、年寄りに席を譲るのは、『気持ちいいから』なんだそうだ。席を譲るのは、気持ちがいいという対価を受け取るためなのか。だとしたら、席を譲って気持ち良くないなら、席なんか譲らなくていいという理屈になる。年寄りに席を譲るのは、人としてのマナーの問題だ。美意識の問題といってもいい。マナーにわざわざ小理屈をつけて、気持ちいいから譲りなさいなんていうのは、大人の欺瞞以外の何ものでもない。」
 また、こんな指摘も。「道徳の教科書には、やたらと老人とゴミが登場する。」「老人とゴミは、子どもに何かいいことをしろっていうときの定番だ。いいことってのは、老人への手助けとゴミ拾いしかないのかって思うくらい。」「老人とゴミは同じなのか? これでは、老人は社会の邪魔者だと思う子どもが増えても仕方がない。」「なぜ老人を大切にしなきゃいけないか。そのいちばん大事なことが何も語られていない。」

 まあ、きりがないからこのくらいにしておくが、いずれにしても、こんなに「ツッコミどころ満載」の「道徳教科書」なるものが、いままさに子どもたちを蝕んでいることに対して、たけしは黙っていられなかったのだと思う。
 それにしても、放置できないひどい状況が進行しているということだろう。無責任な言い方で気が引けるが、早く何とかしないとまずいことは確かだと思った。

 ところで、ここでちょっと関係ない一言。この本、新書判をちょっと幅広にした判型なのだが、活字の組み方は新書と何ら変わらない(行間をちょっと広げただけ)。ページ数も191ページと、新書とほとんど同じなのに、価格は1000円(税別)だった。内容は面白かったから文句は言わないが、それにしても本としてはちょっと高過ぎやしませんか、ということは言っておきたい。

「東京百景」(又吉直樹)

 受賞第一作というのを出した話は聞かないから、これは受賞作「火花」がまだ影もかたちもない時に出版された本である。奥付は2013年9月・第1刷、2015年9月・第8刷となっている。受賞を機に増刷され、帯を巻かれて書店の店頭に平積みされたものらしいが、まだ芥川賞など全く関係なかった時期に、一芸人がこんなお洒落な本を出版していたことが、ちょっと信じられないというか驚きだった。
 例の「第2図書係補佐」が2011年だから、あれで試みて手の内にした書き方を、さらに継続発展させたのがこの本と言っていいだろうと思う。あの時並んだ本の題名に代わって、東京の地名が並べられている(地名ではない項目も時折混ざっている)。

 書かれている内容は「図書係補佐」の時とほとんど同じようなものである。地名はあまり関係がないと思える(当人には深い結びつきがあるのかもしれないが)自分の昔話、例によって何とも言い難い人びととのユニークなエピソードなどである。
 やはりあくまで控え目で、一見どうということもないような話ばかりなのだが、妙に鮮やかな印象を残していく話が多いと思う。このあたりの文才というか、感覚的な鋭さを見抜いたどこぞの編集者あたりが、小説を書いてみませんかと又吉に勧めたということかもしれないと思った。

 早く次の小説を読んでみたい気もするが、少しでも急かされて書いてしまうと、とんでもない失敗作になってしまいそうな気もする。この先10年ぐらいは知らん顔をしてしまうというのも、又吉らしくていいのかもしれないと思った。
 この本は1300円(税別)だった。ページ数は276ページ、判型は「新しい道徳」とほぼ同じだが、こちらはハードカバーの渋い装丁が施されているので、あまり高いという感じはしなかった。まあ、内容を抜きにして比較しても仕方がないが、本というのはその姿かたちからくるそれなりの値ごろ感というのがあるように思う。
by krmtdir90 | 2015-10-24 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

116校も落としてしまった・5(高校演劇2015⑱)

 地区審査をしながら、7年間で落とした116校の舞台を思い出しながら、それらの舞台がなぜ選ばれることがなかったのかということについて、わたしが考えたことを整理しています。できれば「1」から順番に読んでいただけると嬉しいのですが。

 まず次の文章を読んでみてほしい。いまから4年前、埼玉県大会のプログラムに載せていただいたものである。実は前に一度(2013.5.4)このブログに転載したことがあり、ここに載せるのは繰り返しになるのだが、今回の話の流れの中で、ぜひここから話題を広げていきたいと思うことがあるので、芸のない話だが再録してしまうことにした。ご容赦願いたい。タイトルは、「『セリフのやり取り』ということ(地区発表会感想)」である。

 退職を機に地区の審査に復帰させてもらって三年目、ここまで56校の舞台を見せてもらったことになる。その中で感じたことを、問題を絞って少し書かせてもらうことにした。感じたことはいろいろあるのだが、一番強く感じたのは「セリフのやり取り」ということについてである。
 見せてもらった舞台の中で、多くの学校が、セリフはやり取りするものだという意識を欠いたまま、覚えたセリフを次々に羅列しているだけではないのか、という印象を持った。自分の順番になると、結構それらしく身振りなども入れて熱演してくれるのだが、そのセリフは少しも相手に届いていない。と言うか、キャストは自分の順番の時だけそれぞれ力を込めてセリフを言ったり動いたりするが、その相手との関係や状況といったものが、ちゃんと意識できていないように感じたのである。お互いが関係し合うことを、避けているように見えて仕方がなかったのだ。
 どんな種類の芝居であれ、登場人物というものは一定の関係性の下にそこに存在し、その関係性やその場の状況に縛られながらセリフを言ったり動いたりしている。依存していると言ってもいい。いずれにせよ、複数の人物が登場していれば、お互い無関係に孤立してそこにいるということはあり得ないのだ。そして、自分のセリフが休みの間もその関係性や状況は続いているのだから、ちゃんとその中に居続けて、途切れずに相手のセリフや動きをを受け止めなければいけないのである。こういうことが、あまり意識されていないように感じたのである。
 上に書いた「関係性」というのは(仮に二人のやり取りで言うと)、例えば上下(主従)であったり並列(対等)であったり、好意であったり嫌悪であったりする。具体的に言えば、例えば先生と生徒であったり、生徒同士であったりする。生徒同士であっても、同級生なのか先輩後輩なのかで関係性は変わってくるし、同級生だからと言って単純に対等であるとは限らない。親密な同級生もいれば、よそよそしい同級生もいる。明確な対立関係もあれば、カップルの場合もある。カップルでも、比較的初期のカップルもいれば、終わりの近いカップルというのもある。
 同じく上に書いた「状況」というのは、例えばその終わり近いカップルの一方が、何とかもう一度やり直したいと思っているのに対し、もう一方は一刻も早く終わりにしたいと思っている、というようなことだ。生徒創作などで時々、状況をキャストに説明させてしまうことがあるが、優れた脚本では、状況はやり取りを通じて自然に見えてくるものである。
 観客の立場から言うと、舞台上でキャストがするやり取りや動きから、こうしたお互いの「関係性」や「状況」が見えてこなければおかしいということになる。上演する側というのは、そうしたものを観客に見せるために、セリフを言ったり動いたりしているのだということ。これは、キャストが自分のセリフをどう言うかだけ考えていたのでは表現できないものである。
 キャストがセリフを覚えて、立って動いてみようかというところで、そこに行く前に、この関係性と状況を意識した「やり」と「取り」の稽古をしっかりする必要があるのではないか。身振りや表情、動きといったものも、関係性や状況の中でセリフをやり取りすることから、必然的に生まれてくるものでなければならない。そうでないと、単なる大袈裟なゼスチュアか、妙に力んだ不自然な動きにしかならない。
 優れた脚本ならば、やり取りができてくるにつれて、それぞれのキャラクターなども自然に浮かび上がってくるものである。作られたそれらしさでは、観客に何も訴えることはできないということを知ってほしいと思う。
 こういうことを出発点として、もう一度練習をやってみてほしいと思った。セリフをやり取りするということを意識的にやっていくと、自分たちの脚本で、作者が想定しているやり取りのイメージはどんなものなのかということが、第一に考えなければならない課題になってくる。軽いやり取りなのか重いやり取りなのか、テンポのいいやり取りなのかゆったりしたやり取りなのか、こうした基本的なところを掴み損ねた舞台も、残念ながら幾つか見受けられたように思う。どんなに意欲的に練習したとしても、ここがずれていては芝居にはならないのだ。
 ついでに言っておけば、音響や照明といったスタッフは、関係性や状況をより効果的に見せるためにいろいろ工夫をするのだが、何よりも観客に見せなければならないのはキャストであって、音響や照明が前に出すぎてはいけないということも確認しておきたい。(2011.10.12)

5,セリフのやり取り

 演劇部が一つの芝居を作り上げようとする時、基本的に辿ることになる行程はどの学校もそんなに違っているわけではないと思う。集団でエチュードのようなことを繰り返し、そこから台本を仕上げていくようなところはちょっと違うかもしれないが、幾つかの例外を除いて、とにかく大半の演劇部が辿る一般的な芝居作りの行程について、少し考えてみたいと思っている。

 台本決めの問題についてはすでに書いたので、いい台本かダメな台本かは判らないが、とにかく台本が決まったところから始めてみることにする。キャスティングについては、どこも台本選びの段階から考えられていることが多いから、注意した方がいいことがないわけではないが、ここでは触れないことにする。その後のところからである。
 台本が決まると、キャストはとにかくセリフを覚えなければならない。暗記が苦手だったわたしなどは、いつも膨大な量のセリフを覚えてしまう生徒たちを、それだけでなんて偉い奴らなんだろうと感心して見ていた。
 もちろん生徒の皆さんは判りきったことだと思うが、セリフの暗記はテスト勉強などの暗記とは全く違ったものである。テストでは、覚えたことをとにかく何とか思い出せればそれでいいのだけれど、セリフはそんな程度では全くダメである。思い出すための間が残っているうちは、セリフは覚えたことにはならない。何度でも言うけれど、それをちゃんとやってしまう生徒たちは凄いものだと思う。
 審査で落とされてしまった(わたしが落としてしまった)116校を思い出してみても、ほぼ9割以上(95パーセントぐらい)の学校はきちんとセリフを覚えていたと思う。これは凄いことだと思う(ちょっとくどい?)。それなのに、その生徒たちが「悲しくなるような舞台」しか作れないケースがあるのだとすると、それはホントに残念なことと言うしかないではないか。

 覚えたセリフを「やり取り」するということを、どのくらい意識し実践したかということが、大きな分かれ道になっているのだと思う。
 決して難しいことを言っているのではない。なぜなら、みんな日常生活では普通に何でもなくやり取りをしているのだから。演劇だから、何か特別なことをやらなければならないわけではない。ところが、どうも生徒には妙な思い込みのようなものがあって、演劇らしいやり取り、芝居っぽい芝居というようなものがあると錯覚して、あれこれ考えて力が入っているところがあるのではないか。
 そんなものを頭で考えたところで何にもならない。少し意識してみた方がいいことがあるとすれば、日常生活で普通に行われている様々な会話の場面を、ちょっと気にして眺めてみることぐらいではないか。当たり前のことだが、会話というのはそれぞれが勝手に言葉を喋っているわけではない。お互いの間を言葉が行き来して、お互いがお互いの言葉を受け止め、様々に反応しながら進行していくものである。そういうことを意識的にやってみるのが演劇であり、各自が覚えたセリフはその素材になるものなのである。
 だから、キャストのみんながセリフを覚え終わった時、それを使ってやってみなければならないのは、日常会話の延長のようなやり取り(読み合わせ)なのである。

 もちろん分析的に言えば、そこにはいろんな要素が絡んでいる。例えば、Aのセリフは誰に向かって言っているのか、その場にいるBとCはそれをどんなふうに受け止めたのか、次にセリフを言うBはAのセリフの何に対して、どういうつもりでセリフを言うのか、その時、セリフは言わないけれどCはそれぞれのセリフをどう聞いているのか、というようなこと。また、Aに対するBのセリフは、間髪を入れずに言うのか、それとも一瞬の間ができるのか、というようなこと。さらに、声の調子や大きさはどんなものなのか、早口なのかゆっくりなのか、セリフの中で強調されるのはどの言葉なのか、また、その時の3人の距離感はどんなものなのか。距離感というのは、実際の物理的距離感と、もう一つ心理的距離感というのもあるのではないか。等々。
 だが、とりあえずこういうことは一切関係がないと言ってしまおう。というか、こういうことをこういうこととしていくら考えても仕方がないということである。こんなことは全く考えるまでもなく、みんなは日常の会話をしているものだからである。分析というのはずっと後になってから、どうもここのところがやっていてしっくりこない、このあたりがどうも引っかかる気がするなどと感じたりした時に、初めて考えてみるための指針にすぎない。

 難しく考える必要は全くない。ただ、覚えたセリフはお互いがやり取りする(会話する)ために、そのためだけに存在するものなのだと意識することである。会話の出来ない人間はいない(不得手な人はいるかもしれないが)。キャストになって、セリフを覚えて練習が始まった時に、なぜかそのことを忘れてしまうしまう生徒が多いのはどうしてなのだろう。
 覚えたセリフをただ言っているだけ、セリフのない人はただ立っている(セリフの順番を待っている)だけ、どうしてそうなってしまうのだろう。お互いの関係や状況を意識しないままに、一人だけの熱演が始まってしまったり、おかしなゼスチャーを入れ始めたりするのはどうしてだろう。とにかく、そういう舞台がけっこうあるのは悲しいことである。
 みんなテキトーにいい加減にやっているわけでは決してないと思う。しかし、覚えたセリフをみんなで「やり取り」にしていく過程を、なぜか飛ばしてしまっているのである。それではいくら一生懸命練習しても、先は見えてこないのである。そのことにぜひ気づいてほしいと思う。
 そして、そのことを顧問の先生は、大人の視線でぜひ指摘してやってほしいと思う。生徒に説教する時、お前どこ見てんだ、ちゃんとこっち見て話を聞け、なんて言っているのだから、演劇のことが判るとか判らないとかの問題ではないのである。

 さて、一般的な芝居作りの行程で、セリフのやり取りということが意識できたら次はどうするか。次の段階で、というか、かなり同時進行的に意識した方がいいことがもう一つある。
 それは、セリフというのは、客席にちゃんと言葉として伝わらなければ何にもならないということである。観客に、セリフがきちんとした意味のかたまりとして聞こえなければ、芝居としては成立しないのである。客席に座っていると、音としては十分聞こえているのだけれど、何を言っているのかさっぱり判らないという場面がけっこうある。わたしの耳が年を取って退化したわけではないと思う。
 このことについて、わたしは発声がどうとか滑舌がどうとか、そんなことを言うつもりはない。どんな発声だろうと、聞こえればいいと思っている。滑舌が少しぐらい悪くたって、意味として聞き取れるのであればそれでいいと思う。みんなが発声や滑舌がちゃんとできて、声の響きなども全員揃っているような舞台は、それはそれで大したものだとは思うけれど、せいぜい2年ちょっとしか活動できない高校演劇で、みんなそんなことになってしまったら気持ちが悪いと思う。
 わたしはひねくれているのだろうか。発声がダメな生徒も滑舌が悪い生徒も、それはその生徒の個性なのだと考えればいいのではないか。

 その上で、それでもセリフは聞こえなければダメなのだと言いたいのである。言葉として、意味として、きちんと客席に届かなければいけないと言っているのである。それは、発声とか滑舌とかそういう視点を持たなくてもできるものだと思っている。だいたい面倒見てくれる顧問もいなかったり、いても演劇は判らないと言っている顧問なのである。的確なアドバイスもないわけだし、生徒だけでそんな難しいことを考える必要はないのだと思う(もちろん意識したければしてもいい。必要ないと言っているわけではないのだから)。
 大切なのは、セリフがちゃんと聞き取れるのかどうかを、練習の各過程でいつも気にしていることだと思う。自分たちは同じセリフを何度も言ったり聞いたりしているから、これはやっている当人たちには自然に判ってしまって、当然聞き取れているものと錯覚しがちなものなのである。
 ぜひ、たまにしか顔を出さない顧問の先生がいたら(信頼できる他の先生でもいい)お願いしてほしいと思う。言葉として、意味として、ちゃんと聞き取れるかどうか、具体的な箇所として教えてほしいのだと。たまにしか来ないことが役に立つのである。
 なお、これは単純な声の大きさのことを言っているのではないことは、判ると思うけれど勘違いしないでもらいたいと思う。

 以上二つのことを意識しながら練習を進めると、セリフをくっきりさせることとセリフをやり取り(会話)にしていくこととは、けっこうぶつかり合う場面があるのではないかと思う。会話する時、人は言葉を明瞭に発音しなければなどと考えることはないからである。むしろ会話では、その場の雰囲気とか勢いとかに押されて、すいぶん不明瞭な言葉が行き来している方が普通なのである。身振り手振りや表情などが、それを補っているのだと思う。
 舞台上では、それでも言葉の明瞭性が何よりも必要だと考えるべきである。明瞭に聞き取れるセリフであって、なお且つちゃんとやり取りされているセリフ。これがキャストの目指すべき、舞台上のセリフというものだと思う。
 実際に出来るかどうかは判らない。だが、これが進むべき方向なのだと判っていれば、少なくとも「悲しくなるような舞台」からは脱することができるのではないかと思う。

 ここまでわたしは、キャストの動き、身振りや手振りのことについては触れてこなかった。上に書いた二つのことを練習する時に、身振り手振りのことは全く意識する必要はないと思う。むしろ、そういう方に逃げない方がいいと思っている。位置取りについてだけは、やり取りの距離感と関連するから、かなり早い段階で意識すべきだと思う。距離がきちんと取れていなければ、会話は成立しないからである。
 だが、他のこと、動きや身振り手振りは無理に付けようとしないほうがいい。脱力した棒立ちというのが基本なのであって、それで練習を続けていけばいいのだと思う。たぶんどこかで動きたくなることが出てくると思う(いい台本だと、という前提が必要かもしれないが)。身振り手振りが自然に出てくる時があると思う。それを待っていればいいのだと思う。
 もちろん、最初から動きを作らなければならないシーンというのはある。台本によっては、そういうシーンがとてもたくさんある場合もあると思う。けれどその場合でも、上に書いた二つのことが出来ないうちに動きを作り始めることは賛成できない。早くやりたい気持ちは理解できるが、ここはぐっと我慢した方がいいと思っている。まあ、なかなか待てないんだけどね。

 ということで、このほかにも芝居作りの行程で考えた方がいいと思うことはいろいろあるが、最も重要だと思うことについては一応書いたつもりである。また、わたしが落とした116校の舞台を観て考えたことももっといろいろあるのだが、きりがないし、重要なことについてはとりあえず書けたのではないかと思っている。
 またいつか書くことがあるかもしれないが、今回の連載?はここでひとまず終わりということにしたいと思う。敢えて極論に近い書き方をしたところもあるが、年寄りのたわごとと黙殺していただいても結構である。もちろん反論していただけるのであればこんな嬉しいことはない。内容についての責任はしっかり取りたいと思っている。
by krmtdir90 | 2015-10-14 00:01 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

116校も落としてしまった・4(高校演劇2015⑰)

 地区審査をしながら、7年間で落とした116校の舞台を思い出しながら、それらの舞台がなぜ選ばれることがなかったのかということについて、わたしが考えたことを整理しています。できれば「1」から順番に読んでいただけると嬉しいのですが。

4,コンクールの周辺

 高校演劇のコンクールについて考えようとする時、みんながあまり触れたがらないのだけれど、無視することのできない重要な問題(考慮すべき要素)が2つあると思う。1つは学校間格差の問題、もう1つは顧問の指導の有無(程度)ということである。

 演劇というのは、マンガやアニメといった高校生の中に広く浸透している文化に比べて、やや高度な(複雑な)内容を持った文化だと思う。もちろん個々には様々な態様があって、一概に言うことができないことは判っているが、とりあえずざっくり言ってしまえば、やや難しく取っ付きにくい文化であることは間違いない、ということになるような気がする。
 何が言いたいのかというと、高校生が演劇をやりたいと集まってきた時に、生徒たちだけで演劇という文化の中に分け入ることができるのかという問題である。それは、たぶんかなり難しいことなのではないだろうか。少なくとも、マンガやアニメの世界に彼らがどんどん足を踏み入れていくことと比べれば、演劇はそういうわけにはいかない面を持っているということである。そこには多くの場合、しかるべき人間による一定の方向づけ(指導)が必要になってくると思う。
 そして、この時に、ほんの僅かな方向づけだけで済む生徒たちと、ほぼ全面的な方向づけが必要な生徒たちがいるように思われるのである。もちろんその中間にも、様々な方向づけの必要度合いが散らばっているのだが、それが生徒たちの属する学校間の格差ということである。

 誰でも承知していることだが、高校というのはそのすべてが偏差値というものでランク付けされている。上から下まで、偏差値による厳然とした順位付けが行われている。一応それは学力による序列だとされているが、家庭環境や貧富の差、生徒の体力・文化といった面まで、ほぼこの序列に比例した姿になっているということも周知の事実なのである。
 演劇というものが集団によって作られるものである以上、悔しいことだが、その集団がどの序列に属している生徒たちなのかということが、きわめてリアルに反映されてしまうものなのだと思う。
 演劇という文化は、高校生がそれに興味を持ったからといって、すべての生徒に等しく門戸が開かれているわけではないのである。残酷な言い方になるが、興味を持った生徒をスッと受け入れてくれる場合もあれば、そんな簡単なものではないと跳ね返してしまう場合もあるということである。それがすべて偏差値の反映だと言うつもりはないが、少なくとも大きく関係していることは否定できないように思う。

 この問題に触れるべきかどうか、ずいぶん迷った。
 だが、生徒の意識の根底には、この問題はいつも澱みとなって溜まり続けているのであり、このことに気付かないふりをして、みんな演劇は面白そうだ、演劇がやってみたいと集まってきた仲間じゃないかというような、脳天気な言い方で通り過ぎてしまうのはフェアではないと感じたのである。生徒たちが輪切りにされ振り分けられてしまっている以上、コンクールをするにしても、スタートラインは同じではないと認めるべきだと思う。
 その上で、わたしに何が言えるのか。誤魔化しの論理で励ましたところで何も生まれない。わたしにできるのは、そこを突き抜けるための事実を(そういうものがもしあるのなら)置いていくことだけだと思う。

 わたしの経験から言うと(大した経験ではないし、それを絶対と言うつもりもないが)、いわゆる偏差値に大きな開きがあるA校とB校が、全く同じ「いい台本」を選んで舞台を作った場合を仮定すると、下にあるB校が(少なくともキャストの出来においては)遙か上のA校よりいい舞台を作ってしまうことは、案外起こりうることだと思っている。
 実際にそんな判りやすい(同じ台本という)ケースに出会ったことはないが、練習が始まってしまえば(セリフを覚えて、動き始める段階になってしまえば)、舞台に立つキャストたちは偏差値で戦う(演じる)ことはできなくなってしまうからである。舞台上にいるキャストに求められるのは、頭脳ではなく身体感覚になると思う。
 直接的な書き方をするので気を悪くしないでほしいのだが、頭のいい生徒というのはどうしても頭で考えて演じようとするから、それがマイナスに働くことがけっこうあると思う。それに対して、頭の悪い生徒というのは、身体に染みついた自信のなさと羞恥心さえ克服すれば、その身体感覚でずっと魅力的に輝いてしまうこともあるのだということである。そういう場面に、わたしは何度か出会ってきた。偏差値を意識して舞台を見てきたわけではないが、これは事実である。

 それでも、たぶんこういうことは言えると思う。B校の生徒が、自分たちの力だけでそのラインにたどり着くことはとても難しい。
 B校では、演劇をやろうとする集団を作ることがA校よりはるかに難しいだろうと思う。その集団を上演まで維持するのはさらに難しいことだと思う。B校では、顧問の先生の助けがA校よりかなりたくさん必要になってくるに違いない。B校の生徒は、これまで演劇という文化から遠いところにいた(そういう素地をあまり持っていなかった)ことは事実だからである。
 B校の生徒はこれまで、本を読んだ経験もA校の生徒より少ないだろうと思う。だからB校の顧問は、彼らがいい台本に出会えるまで、A校の生徒よりたくさん助けてやらなければならないはずである。わたしがこの連載?を書き始めるにあたって、真っ先に顧問のことについて書いたのはそういう意味である。

 B校のような学校では、演劇に限らず自分から何かに取り組みたいと言う生徒の数は、残念ながらきわめて少ない(わたしが退職する間際には、部活をやる生徒は全校の1~2割にすぎなかった。演劇部も最後は成立しなくなってしまった)。以前は演劇部があったのに、地区から消えていった学校のことを思い出してみてほしい。
 こういう学校で、細々とでも演劇部が活動を続けているのは、それだけで大切にしなければならないことなのである。そういう生徒たちに、やって良かったと思ってほしい。そういう生徒を、悲しくなるような舞台に立たせないでほしいと思う。それには、顧問の先生に頑張ってもらう以外にないのである。A校の生徒よりも手間はかかるかもしれないが、そこで生まれるものの大きさは計り知れないものがあると思う。
 演劇のことが判るとか判らないとか、そんなことは後から付いてくるものなのではないか。どういうつもりで教員になったのかは人それぞれだろうが、B校で演劇部の顧問になり、そこに演劇をやりたいと言って顧問を待っている生徒がいるとすれば、それはそれだけで素晴らしいことなのである。それは、教師冥利に尽きると言う以外ないと思う。

 審査でわたしが落とした116校の中には、演劇のことが判るとか判らないとかに関係なく、顧問の先生がほんの少し大人としてのアドバイスをしてやっていれば、格段に良くなっただろうと思わされる舞台がけっこう含まれていた。観ていて悲しくなってしまうというのは、生徒の皆さんを責めて言っているわけでは全然ない。
 どんな舞台であっても、ほとんどの生徒はみんな一生懸命、精一杯にやっているのである。それが十分な成果に結びつかないもどかしさを、そこのところをほんのちょっとでも教えてくれる大人がいなかったことを、「悲しくなるような」と言っているのである。そのもどかしさは、たぶんやっている生徒自身が一番強く感じているものだろうと思う。

 ももいろクローバーZの5人が主演した映画「幕が上がる」(原作は平田オリザ)の冒頭は、地区大会でいつもの通り敗退した彼女たちが、ホールの外で円陣を組んでいる場面である。向こうの方で、いつも通り県大会に進出した強力な顧問のいる学校が、自信に満ちた様子で道具の搬出を行っている。ムロツヨシ演じる彼女たちの顧問は、いい人には違いないのだけれど演劇には関わろうとしてくれない人で、そのくせ妙に高いテンションで悔しがっていたりするのである。このシーンの彼女たちの、何とも言い難い微妙な表情が忘れられない。コンクールに出てしまった以上、彼女たちは嫌でも勝敗の結果を受け入れるしかないのである。
 うまく言えないが、たぶん負けたことが悔しかっただけではないと思う。自分たちはもっとできたはずなのに、結局少しも思い通りにできなかったことが悲しかったのだと思う。
 このあと、部の伝統に従って不要になった大道具を燃やすシーンも悲しい。この映画は、常に116校の一つにしかなれない演劇部の悲しみを、最初にきちんと描いて見せたことによって、わたしの中に強い印象を残す映画になったと思う。
 彼女たちのところにはこの後、元学生演劇の女王・黒木華演じる吉岡先生が現れて、初めて演劇作りの面白さを教えてくれることになるのだが、生徒の皆さんの現実の部活に、そんな奇蹟が降ってくることはあり得ないだろうと思う。いい人には違いないが演劇には関わろうとしない、ちょっとピントのずれた顧問の下で、相も変わらぬ日々が続いていくだけなのである。

 だが、本当にそうなのだろうか。
 この映画の演劇部は、どうやらA校ぐらいの学校として設定されていたようだが、思い通りにできなかった悲しみというのは、現実の舞台の善し悪しとは関係なく、またA校とかB校とかいうことにも関係のないことだと思う。
 わたしが生徒の皆さんに言いたいことは、奇跡が起こらない以上、A校だろうとB校だろうと、演劇をやろうと思ったらこの目の前にいる顧問を変えることしか道はないのだということである。A校だろうとB校だろうと、演劇という文化はそれなりの大人の助言なしに、生徒の力だけで簡単に足を踏み入れることは難しいものだからである。
 わたしは元顧問だから、顧問自身の方から何とか変わってほしいと思っているが、生徒は現実の顧問を変えようと動かない限り、思い通りにならないことからの突破口は見えてこないだろうと思う(もし顧問がいい人でないのなら、別に自分たちが信じることのできるいい人を早急に探さなければならないのだ)。
 演劇というものが、マンガやアニメと違ってしかるべき大人によるアドバイスがなければなかなかその核心に踏み込めない、難しい文化なのだとすると、来るはずのない奇跡を待つのではなく、その目の前の顧問に向かって何とか一歩を踏み出すしかないのだと思う。B校の皆さんと、彼らに頼まれる顧問にとっては、たぶんかなり多くの困難が待っているだろうとは思うけれど。

 ところで、わたしが落とした116校の中には、A校の中でも県下でトップを争うような学校も含まれている。そこは毎回(この地区には3回来ている)、まるでお話にならない悪ふざけでいい気になっていたりするのである。いい気になっているというのはわたしの僻みかもしれないが、とにかくいい加減にしろ!と怒鳴りつけたくなるような舞台で終わりにしてしまうのである。
 わたしが怒鳴りつけたい相手は顧問である。ほんの少し方向づけてやるだけで、自分たちがやっていることがどんなに傲慢でみすぼらしい所行なのかは理解できるはずの生徒たちなのに、それすらしようとしない最低な顧問もいるということである。人前に出ていって何事かを成そうとする時の、最低限の礼儀すら教えることのできない教員がいることに、呆れると同時に何とも言い難い怒りを覚えるのである。
 一方で、こういうこともあるのではないか。
 顧問の指導が入り過ぎていて、生徒各自の個性や可能性が潰されているのではないかと思わせられる舞台である。わたしは最初のところに、そこにいる生徒たちによって様々な方向づけ(指導)の必要度合いがあると書いた。それは、それがどのようなものであれ、すべては生徒の持っている可能性を開いてやるための方向づけ(指導)でなければならないということである。顧問はそれをしっかり見極めなければならないのではないか。。

 高校演劇のコンクールなのに、それが顧問同士の競い合いになっている一面がありはしないか。高校生が演劇をやろうとする時、顧問の適切な方向づけ(指導)は絶対に必要である。しかし、それが生徒の状況をきちんと把握し判断した、生徒の可能性を広げてやるための効果的なものになっているかどうかは、なかなか難しいところがあると思うのである。
 教員という仕事を長く続けていると、自らの経験の積み重ねによって、たとえばホームルームでも授業でも、生徒を自分の思い通りに動かしたいという欲求に駆られがちなところが出てくるものだと思う。経験というのは残念なことに、そういうことをやってしまいたいという方向に教員を突き動かしてしまうところがあるのだと思う。生徒が一つのことをやりたいと集まってきている部活では、それについての経験や実績によって、やろうと思えば簡単にそれができてしまうのである。生徒たちを自分の手のひらに乗せてしまうことができてしまうのである。
 これは危険な誘惑である。周囲を見回してみると、顧問の思い通りに動かされている部活というのが、各学校に幾つかずつはあるのではないかと思うのだがどうだろう。そうなっている演劇部がないかどうか、顧問の先生方にはぜひ一度、周囲を振り返って見てほしいと思っている。

 勝敗が絡む状況になってしまうと、生徒もそれを当然のものとして受け入れてしまうことになる。顧問の言う通りにしていれば、かなり高い確率で勝てる可能性が見えてくるのである。これは怖いことだと思う。コンクールの審査をやっていると、そのあたりに何とも言えない矛盾というか、割り切れなさを感じて残念に思うことがあったりする。これは本当に生徒たちを生かしている舞台なのかどうか、と。
 一方には、もっと生徒を指導してやってほしい、大人としての方向づけをしてやってほしいという舞台がかなりの数あって、その一方にこうした、部活を顧問の私物にしているのではないかと疑いたくなるような舞台が存在しているのである。その狭間でたびたび立ち往生させられるのが、演劇コンクールの審査であるような気がする。
 もっとも、強力な指導力を発揮する顧問というのは、高校演劇界?ではそれなりの信奉者?を集めていて、いつしか一種の権威のようになってしまっていたりするから、とりあえずそこを選んでおけば間違いはないというような、審査の名に値しないような選考も行われていないとは言えないような気もしてしまうのである。少なくとも、顧問の私物に成り下がってしまった舞台を、無批判でパスさせてしまうような審査だけは、見過ごしてはいけないと思っている。

 顧問の熱心な指導(方向づけ)が、生徒の自主性や眠っていた可能性を開かせてやるようなものになっているのかどうか、そのあたりの見極めは非常に難しいものであるのは判っている。だが、少なくともコンクールの審査というものが、顧問の競い合いを評価するような面が強くなってしまったら、やっている意義はないと言わなければならないと思う。
 この見極めはきわめて難しい一面を持っている。しかし、高校演劇は生徒たちのものであり、部活動は生徒たちの可能性を開いてやる場であることを、一人の大人として(かつて先生なんてものとして、長く生徒と関わりを持った大人の責任として)、言っておかなければならないと思う。こんなことを敢えて正面切って言ったりするのはホントに恥ずかしいことなのだけれど、やはり言っておかなければまずいのだと思っている。
by krmtdir90 | 2015-10-13 13:30 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

高校演劇2015⑯今年も東大附属演劇部(2015.10.11)

 今年も東大附属(東京大学教育学部附属中等教育学校)演劇部の舞台を観に行ってきた。8月の地区大会を突破して、3年連続の都大会出場を決めた舞台だという。今回はYassallさんが所用で行けなくなってしまい、新座柳瀬の智くんと所沢西のN先生が同行者だった。

 舞台は、「就寝刑」という奇妙なタイトルの生徒創作台本だった。前2回は女子生徒による台本だったが、今回は男子生徒が書いたものということで、舞台の作りや芝居の印象がかなり変わっているのが楽しかった。
 いずれにせよ、毎年異なる作者が現れて、それぞれ個性的で高い水準の台本を供給しているというのは素晴らしいことである。恐らく、当初の台本としては様々な欠点や未熟さを抱えていたのかもしれないが、それを一つの舞台に作り上げていく過程で、この生徒集団の持つ知的な力と身体感覚といったものが加えられ、それがどの年も優れたレベルで維持されているのが大きいのだろうと思った。
 この演劇部が作り出す芝居の魅力は、作者やキャストの一部の力だけで成り立っているものではなく、集団全体が試行錯誤しながら、みんなで作り出したものだということが鮮明に伝わってくる舞台だと思った。

 いつも文化祭2日目の終わりの公演を観せてもらっているが、来るたびに観客数が増加していて、今年は客席がほぼ満席に近くなっていたのが嬉しいことだった。着実に存在感を高めていることが判り、そろそろ都大会を抜けて関東に歩を進めてもらいたいものだと思った(同時に、今年は残念ながら実現しなかった、6月の「コピスみよし高校演劇フェスティバル」へのゲスト出演も、何とか実現させたいものだと思った)。
 支配人・K先生が用意してくださった一等席で観せていただいた後、今年も簡単なコメントを言わされて帰ってきた。それに若干補足しながら感じたことを書いてみた。けっこう具体的な指摘になってしまったので、最初ここにそのまま載せるのはやめた方がいいかなとも思ったが、まあいいか、載せてしまうことにします。

 眠り続ける沖田ネムルの「謎」が、基本的に説明ゼリフで明かされるというのは仕方がない面もあるのかもしれないが、ドラマの軸となる「謎解き」なのだから、もう少し衝撃力を高める工夫があってもいいのではないかと思った。起き上がった沖田に何らかの鍵になるセリフ(他の人物とのやり取り)を振っておくとか、これまで舞台を構成してきた登場人物たちとの間に、それなりの関係性を作ってほしかった気もした。
 いずれにせよ、ここから後の展開が若干駆け足になってしまった印象があり、作られた対立構造がやや無理やりな感じを残してしまって、もう一つ説得力不足に感じられてしまったのは残念だった。台本として弱点のない生徒創作台本などまずないと思うが、それを感じさせずに押し切ってしまう最後の迫力(それを作り出す冷静な計算)も、もう一歩だったような気がした(観せてもらった回が、やや固くて出来がもう一つの回だったのかもしれないが)。

 上記のことに関わる具体的な指摘を幾つか。
 まず、眠り続ける沖田について。観客の9割方は沖田を男としてイメージしていたのではないか。起き上がった時、女だったことに違和感を感じたのはわたしだけではないと思う。適当な男子が見当たらなかったのかもしれないが、帰りに飲みながら話し合ったわれわれ3人の結論は、作者のYくんが眠りから立ち上がるべきだというものだった。
 次に、囚人の5人がマントを翻して立ち上がった時、沖田の「謎解き」に重要な役割を果たした看守・初野ユメの位置づけが、不明確なまま放置されてはいなかったかということがある。同様のマントを着けるべきかどうかは判らないが、5人にあれだけ鮮明な動きをさせるのであれば、それと一体になるにせよならないにせよ、彼女にも飛躍した鮮明な動きをさせてほしいと思った。
 マントを着けた5人の動きについて。まだまだ作戦が立てられる余地があると思った。動き方や静止の仕方(一種の見得だよね)など、もっと見せる工夫と練習が必要な気がした。せっかくやるのだから、観客をもっとスカッと押し切ってほしいと思った。

 キャストはみんな、とても魅力的だと思った。囚人の5人は、全体として個性的に良くできていたと思う。特に朝野メザメをやったHさんの豊かな表情と自然な間合いは見事だと思った。飯尾ヤスミのTさんと、アル中の男(役名がどっちだったか思い出せない)は、高校生としては難しいとは思うが、役としての崩れ感?がもう一歩という気がした。あと、何カ所かアドリブ芝居を入れていたところがあったが、違和感があり止めた方がいいと思った。
 看守と主任はやや線が細い気がした(特に主任)が、細いなりによくやっていて、決してマイナス要素にはなっていなかったと思う。むしろ、台本がこの2人をきちんと設定し切れていない面があるような気もした。
 白い衣裳の黒子?たち。セリフが幾つかあったが、少ないセリフだからこそ、くっきり丁寧に言葉にしてほしいと思った。道具の檻を移動させる時、重さがちゃんと感じられて良かった。

 帰りに、例によって新宿西口の蕎麦屋でお酒を飲みながら(智くんはジュース)、観てきた舞台をあれこれ語り合った。Yassallさんがいなかったのは残念だったが、楽しい一日だった。
by krmtdir90 | 2015-10-12 14:22 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(3)

116校も落としてしまった・3(高校演劇2015⑮)

 地区審査をしながら、7年間で落とした116校の舞台を思い出しながら、それらの舞台がなぜ選ばれることがなかったのかということについて、わたしが考えたことを整理しています。できれば「1」から順番に読んでいただけると嬉しいのですが。

3,ダメな台本といい台本

 もうしばらく台本の話をしなければならない。どういう台本をやるのかというのは、とにかく舞台の出来を決定的に左右してしまうものだからである。

 前回、観ていて悲しくなるような舞台の多くが、生徒創作台本の舞台であると書いた。そして、残りの大半はたぶんインターネット台本だと言っていいだろうと思う。はりこのとらの穴に代表される台本検索サイトから引っ張ってきた台本である。
 確かに手軽に探すことができるから、ついつい頼ってしまいたくなる気持ちも判らないではない。実際、男女別の人数指定を行い、ラブストーリーとかお笑いとかジャンル指定を行ってやれば、たちどころに希望に叶った台本リストが表示されるようになっている。読む前にあらすじなども表示されるし、次に冒頭だけ読むページに行って、つまらなければ次に進めばいいのだから、手間は省けるし、それでいながら何となく探した気分になれるのかもしれない。

 だが、ここに所蔵されている台本の大半はダメな台本である。もちろん全部の台本をチェックしたわけではないが、これまでにここから持ってきた台本で素晴らしい舞台が作られたという話は一度も聞いたことがない。今回一緒に審査したN先生の台本も登録されているようだから、本気で探せばいい台本に巡り会うこともあるのかもしれないが、漫然と見ていてはまず99パーセント、ダメな台本にしか当たらないと考えた方がいい。
 批判する以上、わたしも以前、何度か検索してあれこれ読んでみたことがある。たまにそれなりの台本にぶつかることがないとは言わないが、いい台本にぶつかったことは一度もない(その時はN先生の台本は見つからなかった)。

 恐らく問題なのは、こうしたシステムの中で生徒が台本探しをすると、どうしても表面的な面白さなどに気を取られて、それがいい台本なのかダメな台本なのかという判断はそっちのけになり、簡単に共感できる方に流れていってしまうことなのではないだろうか。あらすじなどに書かれた作者のキャッチコピーに惑わされて、何となくよさそうとか、こういうはなし好きとか、マンガやアニメふうの筋立てなどに乗せられてしまいがちだと思うのである。
 結局、台本とはどういうものなのか、どうあるべきものなのかを考えたことがなければ、自分たちの日常生活で身近にある感性だけで選んでしまうのが当然だし、無理もないということになってしまうのではないか。しかし、それではダメなのである。
 率直に言ってしまえば、生徒というのは、これが台本なのだと薦められる台本の中から(そういう台本だけに限定した中から)選ぶのでなければ、どうしても安易な台本の方に流れてしまうことを止めることはできないと思っている。ダメな台本がほとんどを占めるサイトの中から、それなりにいい台本を探し出し、確実にそれを選び取る力というのは、残念ながら誰にでも備わっているわけではないと、わたしは考えている。

 インターネット台本の問題点を整理しようと思って少し書いてみたが、わたしが書きたいと思っていたことからは外れていくばかりで、少しも生産的な話になっていかないように思えたので、思い切って消してしまった。本当はきちんとさせた方がいいのかもしれないが、そういう作業は他の人に任せておくことにする。とにかくわたしは、悲しくなるような舞台の大きな原因が、生徒創作台本やインターネット台本を選んでしまったことにあるのだと断定して、先に進みたいと思う。
 断定した上で、ただ一点、これらの台本にはちゃんとしたセリフが書かれていないからだという点を問題にしたいと思う。ダメな台本といい台本の差というのは、結局この一点に集約されて出てくるものだと思うからである。
 いい台本のセリフというのは、練習して行くにつれて、自然にお互いのやり取りや動きの呼吸が形成されてきて、どこにも説明されているわけではないのに、自然にいろいろなこと(関係性や状況など)が浮かび上がり、練習すればするほど、役の気持ちが自然に流れ出してワクワクさせられるものなのである。
 ダメな台本のセリフではそうはならない、と書こうとして、そっちはとりあえずどうでもいいと考えることにした。いいものが理解できれば、ダメなものがどうしてダメなのかは自ずと判ってくるものだろうと思う。

 いい台本とはどういうものなのか。生徒が台本選びをする時、問題なのは恐らく、彼らの中にいい台本のイメージがしっかり形作られていないことなのではないかと思い至った。こういう台本を選べば、最悪でも悲しくなるような舞台にはならないはずだという、具体的なイメージ作りの働きかけが決定的に不足しているのではないかと思った。
 インターネット台本はやめた方がいいという話は聞いたことがあっても、それではどういう台本選びをしたらいいのかという道筋は、これまでほとんど示されてこなかったのではないだろうか。それでは生徒たちは道に迷ってしまうばかりである。
 自分たちの部活の台所事情(部員数や男女比など)は別にして、つまり自分たちが上演できるかどうかは考えないで、とにかくいい台本だけを読み合ってみる時間が必要なのではないかと思った。一部をお互いに読み合わせしたりして、いい台本のセリフというのがどんなにワクワクするものなのかを実感することが、(遠回りのように見えても実は)早道になるような気がした。

 そういう取り組みを、早急にどこかがするべきだと思う。これが「いい台本」というものなのだと、これが「ちゃんとしたセリフ」というものなのだと、そういうスタンダードをきちんと提示してやることが、いま必要になっているのだと思う。
 もちろん演劇というのは、一方で常に新しいものを求めている表現形態なのも判っているつもりである。単一の価値観で割り切ることができないことも承知しているつもりである。だが、コンクールで落とされてしまう(わたしが落としてしまった)116校という高校演劇の裾野のことを考えるのであれば、まず何よりも何がいいものなのかを判りやすく示してやることが必要な気がするのである。
 県大会や上の大会の舞台を見て考えればいいなどというのは、悲しくなるような舞台しか作れなかった生徒たちのことを考えていないたわごとだと思う。彼らがなぜダメな台本しか選べないのかを、もっと正面から考えてみなければいけないと思うのである。

 ここに、わたしが考える「いい台本」の例を20本ぐらい挙げることはできる。だが、わたしはもう引退した人間である。わたしの書架には古い台本しかないし、最近の高校生向けのいい台本はほとんど手許にはないのである。そういうことは現役の、いま生徒たちと関わっている先生方に任せておくべきだろうと思う。ただ、こういう展開にしてしまった以上、わたしもほんのちょっとだけ具体的な例を話しておきたいと思う。

 わたしが西部A地区のN高校に移ってから、たびたび愛用?した台本がある。最近、上演許可が下りなくなってしまったという噂を聞いたような気がするが、どうなっているのだろう。
 高泉敦子・伊沢磨紀作「モンタージュ」という台本である。2人芝居だから、部員が数人に減ってしまうと(部員はたいてい少なかった)いつもこの本に帰ってきた。2人芝居だが、その中身は「老女1・2」「少女1・2」「母親と娘」「少年と少女」の4パターンが用意?されていて、特に「少女1・2」と「少年と少女」の部分をよく利用させてもらった。
 最初にやったのは転勤して最初の年、1年生の女子2人と裏方ならという上級生の男子しかいなかったと思う。実はわたしは、この学校で柔軟や発声練習などをやらせたことは一度もない。たった2人になってしまっても、演劇は面白そうだ、演劇がやってみたいとやってきた生徒なのである。余計なこと?は抜きにして、いきなりこれやってみようということにした。余計なことは考えないで、普通に喋っているようにやればいいんだよと、言ったかどうかはもう覚えていない。
 だが、1年生だった彼女たちはすぐに熱中した。小学生の他愛もないやり取りだから、難しいところは一つもない。難しく考える必要は全くないし、難しく考えてしまったらダメになってしまう本である。声の調子や強弱、間合いや動き、距離感といったもの、何も言わなくても彼女たちは自然に自分の感覚で獲得していった。ワクワクしながらやっていることがはっきり伝わってきた。いい台本のセリフというのは、そういう力を持っているのだということを初めて知った気がした。

 部員(キャストをやりたいという生徒)が5人ぐらいになると、前川麻子作「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」を使った。10人ぐらい集まると、如月小春作「DOLL」をやった。どれもプロが書いてプロの舞台になった台本で、もうずいぶん古くなってしまった本だが、そこに書かれたセリフの力は古びることはないだろうと思っている。
 しかし、いまの生徒の皆さんはこんな古い台本に戻らなくてもいいと思う。高校生のために書かれた台本の中にいい台本はいっぱいあると思う。そういうものをたくさん読んで、ちゃんとしたセリフというのがどんなに面白いものなのかをしっかり掴んでから、台本選びをやってほしいと思う。もしかすると生徒創作に取り組むのも、こういうことがしっかり飲み込めているのであれば、あながちやめた方がいいとばかりは言えないかもしれない。と書いてしまってから、ここはやはり違うと思った。ここはやはり、安直な言い方は避けなければいけない。
 いい台本を探すのといい台本を書くのとでは、難しさが全然違うということである。書くことの方が100倍ぐらいは難しいと思う。大人だって、才能がないなら書いてはいけないのである。才能については未知数だけれど、誰にも負けない努力と勉強が(そして皆さんが考える執筆時間の少なくとも10倍ぐらいの時間は)必要だということは言っておきたい。いい台本を探すことに全力を挙げる方が、ずっと成算があるし現実的なことだと思う。

 台本選びはホントに難しい。ホントに面倒くさくて大変で、いい加減なところで手を打ってしまいたくなる気持ちは判る気がする。でも、一度選んでスタートしてしまったらもう後戻りはできないし、簡単に差し替えることはできなくなってしまうのである。審査員の立場で正直に言わせてもらうなら、ダメな台本を選んでしまったら、後でどんなに頑張ってみたところで、いい舞台になる可能性は限りなくゼロに近いということである。
 講評の時にそんな言い方はできないから、ある程度オブラートに包んで言うしかないのだが、ここは講評ではないのだから率直に言っておきたいと思う。おかしなところなどはどんどん書き直してしまいましょうなどと、これもまた審査員が言ったりすることがあるのだが、それはオブラートなのだということを判ってほしいと思う。ちょっとぐらい書き直したって、ダメなものはダメなのである。
 とにかく、生徒創作とインターネット台本を試しに禁止してみればいいと思う。観ていて悲しくなるような舞台は確実に半減するだろうと思う。3分の1、4分の1になるだろうと思う。乱暴な言い方に聞こえるかもしれないが、悲しくなるような舞台を見続けてきた一審査員としての、心からの感想として受け取ってほしいと思っている。
by krmtdir90 | 2015-10-09 00:01 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

116校も落としてしまった・2(高校演劇2015⑭)

 地区審査をしながら、7年間で落とした116校の舞台を思い出しながら、それらの舞台がなぜ選ばれることがなかったのかということについて、わたしが考えたことを整理しています。できれば「1」から順番に読んでいただけると嬉しいのですが。

2,創作台本の問題

 審査員として観ていて、何とも悲しくなるような舞台というのがかなりの数あり、その何割かは生徒創作台本だということについて書きたいと思う。
 台本選びは舞台の出来上がりを左右する重要なポイントである。だが、ダメな台本は山ほどあるのに、上演可能な(人数とか男女比とかが合っていて)いい台本を探すのはホントに難しい。いい台本が見つからないなら自分たちで書いてしまいましょうなどと、無責任なことを言う審査員もたまにいたりするから厄介だ。そんなふうに簡単に言ってしまうことは、審査員という立場として無責任なだけでなく、許し難い誤りだと思っている。
 昔から創作劇には甘めの評価をしてしまう悪しき風潮が高校演劇の世界にはあるようだが、だからといって台本というのは誰にでも書けるような簡単なものではないはずである。何とかかたちになった台本が書ける生徒など、めったにいるものではないとわたしは思う。きらりと光る何かを持っている生徒がいたとしても、それを台本のかたちにまでまとめさせるには、理解のある(そしてある程度力量のある)顧問の粘り強いアドバイスが必要だろうと思っている。
 実際のところ、あの悪名高きインターネット台本の幾つかと比較してみても、それを超える台本が書ける生徒すら、ほとんどいないのが実情ではないだろうか。

 今年の詳しい資料が手許にないので、昨年の県大会プログラムで調べてみるしかないのだが、生徒創作台本を上演した学校数は埼玉県全体の3割を超えている。これは果たして喜ばしいことと言っていいのだろうか。いや、これは恐らく由々しき事態なのだと思う。
 恐らく、その大半の(と言うのが言い過ぎなら、その中のかなりの)舞台が、観ていて悲しくなるような舞台になってしまったのではないかと推測する。そんなことはなかったと言ってほしいが、たぶんこれは当たっていると思う。毎年一つずつのブロックしか観ていないけれど、少なくともわたしの過去の経験からすれば、そう断言して間違いではないだろうと思っている。
 台本なんてそんなに簡単に書けるものじゃないんだ。創作をやってみたいと生徒たちが言ってきたら(あるいはやってみたいと言っていることが判ったら)、顧問はそう言って一旦は止めなければいけないのだと思う。それは当たる確率がほとんどない賭けのようなものだからである。
 だがそうすると、それじゃ先生が台本探してよという、例の逆襲が来るのがが目に見えているから、顧問としては面倒くさいことは嫌だし、せっかく生徒たちが自分たちでやりたいと言っているのだから、これは自主性の萌芽と言ってもいいのかもしれないし、とりあえずそれでよしとしてしまう人が多いのではないだろうか。面倒なことに関わりたくない顧問にとって、生徒創作は願ってもないおいしい話なのである(なお、県大プログラムの一覧表には、生徒と顧問が共同して創作したという生徒顧問創作という舞台もけっこうあるのだが、その実態は学校によって異なるようだし、よく判らないのでここでは触れないでおきたいと思う)。

 わたしは、審査員がインターネット台本はやめた方がいいと言うのは賛成である。しかし、その延長で生徒創作を奨励するのもやめるべきだと思っている。むしろ、安易に生徒創作に手を出すのはやめるべきだと、大々的なキャンペーンを張りたいくらいなのである。インターネット台本がいかにダメな台本なのかを言うのであれば、生徒創作台本がそれよりさらにダメなケースが多いということにも言及しなければおかしいのではないだろうか。
 以下、そのあたりのことを少し具体的に指摘してみたいと思う。本当は実際の作品を例にした方が判りやすいのだが、それではいくら何でも可哀想である。

 台本を書きたいと言ってくる生徒には、マンガやアニメやRPGが好きな生徒が多いと思う。演劇部員そのものにそういう傾向があると言ってもいいかもしれない。そういう生徒が書いてくる台本というのは、ほぼ例外なくマンガやアニメやRPGのストーリーとして発想され書かれていると言っていいだろうと思う(そうでないものももちろんあるが、ストーリーの展開のさせ方とか登場人物の扱い方とか、そうしたところにこれらの影響を見ることは容易なことのように思える)。
 そういうものの世界では、まず場面の転換や飛躍が自由自在に行える。時間についても同様で、省略や収縮(時間経過のスピードが変化する)、逆転(過去・現在・未来)など何でもできてしまうのである。しかも、そこに登場するキャラは、人間も含めてみんな重さがないかのように軽やかに動き回っている。コマ割り的な発想では、あるシーンで中心になるキャラを強調する時には、関係ないキャラは場面から消してしまうこともできるのである。シリアスなキャラのイメージが突然コミカルなイメージに切り替わり、声や喋り方まで変わってしまうことだってやれてしまったりする。
 彼らが書いてくる台本の大きな特徴を幾つか挙げてみると、場面や時間が平気で飛ぶ(跳ぶ?か。まあ、どっちでもいい)、したがって暗転が平気で連続する。キャラの会話が行われる時、その場に残っているはずの他のキャラが無視されていたりする。セリフの多くは明らかにマンガやアニメなどのキャラの喋り方になっている。などなど。
 あともう一つ。ストーリーの重要な部分(場所の移動やアクションが絡んだりする部分)が説明ゼリフで済まされることが多い。これはたぶん、マンガやアニメでは説明が始まるとすぐ、実際のそのシーンを簡単に挿入できてしまうことが関係している。恐らく、作者の中ではその鮮明なイメージが浮かんでいるということなのだろう。

 生徒の皆さんにも判ってもらえると思うが、演劇の舞台では説明ゼリフは説明ゼリフにすぎない。それを喋っているキャラ(登場人物)が舞台上にいるだけで、どんなイメージの助けも期待することはできない。そればかりではない。舞台上では喋っている顔をアップにすることもできないし、喋り方や動きなどに手を加えて変化させることも一切できないのである。
 舞台上にいるのは、台本の中にイメージされたキャラではなく、舞台という場所と時間に縛られた、重さのある不自由な演劇部仲間の誰かの身体にすぎないのである。それが、マンガやアニメやRPGとは異なる舞台の制約というものである。それを無視していくらイメージをふくらませてみても、それは芝居というものが持たざるを得ない種々の条件に合わなければ、ただ舞台上で裏切られていくしかないものなのである。
 マンガやアニメやRPGでは瞬時に切り替わることができる場面転換も、舞台上では暗転という間延びしたかたちで処理せざるを得ない(あるいは、一切の道具をなしにしてしまうか)。衣裳だって着替えるためには相応の時間がかかるし、小道具だってイメージの中のそれとは似ても似つかないチャチな作り物で我慢するしかないのである。

 そんなことは、ちょっと冷静に考えれば生徒の皆さんにも判るはずだと思う。でも、創作台本が完成した時には、ただワクワクするばかりで、何となくやれるような気がしてしまっても無理はない気もする。だからこそ、早い段階で誰かがその錯覚を指摘してやらなければいけなかったのだと思う。
 しかし、それではせっかく盛り上がった彼らの台本創作の努力と夢をぶち壊すことなってしまうのだから、そう簡単にできることではないのも理解できる。そのあたりの顧問の気持ちも判らないでもないのだけれど。
 結果として、わたしは毎年どのブロックに行っても、必ずこうした悲しくなるような舞台と出会ってきたのである。その都度、マンガやアニメやRPGと演劇とは違うのだということを説明してきた。舞台というものが持っている制約について具体的に指摘してきた。だが、こんな繰り返しは、いい加減どこかで終止符を打たなければいけないのだと思う。
 生徒が台本を書き上げてしまった以上、その段階で顧問がそれを止められないのであれば、最初から生徒創作などさせるべきではなかったのである。

 いい台本が見つからないのなら、思い切って自分たちで創作することを考えてみましょう。こんなことをいかにも生徒の味方のような顔をして言ったことのある審査員は(その幾人かをわたしは覚えている)、彼らが上演した悲しくなるような舞台の前で土下座すべきだと思う。大部分の生徒創作がこういう結果になっていることに対して、間違いだったと謝ってもらいたいと思う。たとえ謝ったところで、彼らが積み重ねた数ヶ月は戻ってはこないのだけれど。
 頑張れば夢は叶うなどというのは、ほんの一握りの成功者がのたまうたわごとにすぎない。頑張っても夢は叶わないというのがほとんどの場合の現実なのではないか。それともまだ、みんな頑張ったんだからそれでいいじゃないかと問題をすり替えて、それを無責任に煽ったみずからの責任に蓋をし続けるつもりなのだろうか。

 いい台本が見つからないという時、頑張って創作に挑戦しましょうなどと煽るのはいい加減にしてほしい。いい台本が見つからないからと言って、自分たちで創作してみようなどと考えない方がいいと、きちんと止めてやるのが正しい立場なのではないか。
 台本を書くということに(小説でもいい)前から取り組んでいて、例えば顧問の先生やその他の先生に見てもらったことがある、などという場合は考慮の余地があるかもしれない。しかし、創作なんてほとんどしたことのない生徒がちょこっと取り組んだだけで、簡単に台本が書けてしまうなどということは絶対にあり得ない。そんなことを考えていないで、もっととことん台本を探しまくるしかないのだと、そうはっきりと言ってやるべきなのだと思う。
 仮に十年に1人の逸材が隠れていたとしても、そういう生徒はどんなにやめた方がいいと止めたところで出てくるものだと思う。それ以外の大部分の生徒たちに、演劇の不自由さも(制約から生まれる面白さも)教えずに、実現不能な夢を見させるべきではない。生徒創作なんて、絶対失敗するからやめた方がいいと、わたしは言っていかなければならないと思っている。

 創作台本については、もう一つどうしても触れておかなければならないことがある。顧問創作のことである。生徒創作についてだけ厳しいことを言って、顧問創作の方を不問に付してしまうのは片手落ちだと思う。問題にしなければならない顧問創作台本も、けっこうあるような気がしている。
 ただし、顧問創作は生徒のマンガやアニメやRPGのような、特定の傾向で括れるような共通性は見つけにくいので、やや具体性に欠ける書き方になってしまうのは仕方がないと思う。だから最初にそれを言ってしまえば、ただ一言、もう大人なのだから、才能のない人は書いてはいけないということである。

 顧問創作の場合、生徒はとりあえず顧問を信じてついて行くしかないという図式が出来上がる。これはある意味、非常に危険性を孕んだ図式と言わなければならない。顧問はそのことをしっかり意識し、そのことに対してとことん謙虚にならなければならないと思う。自分が書いた本で、少なくとも数ヶ月のあいだ生徒を拘束し、引っ張り回すことになるのである。それで本当に生徒を生かしてやることができるのか、顧問はよくよく考えなければならないと思う。
 顧問創作では、その台本について率直に何かを言ってくれる存在はないと言っていい。地区の先生も言わないだろうし、審査員も多くの場合、言いたいことがあっても生徒の手前遠慮してしまったりするのではないだろうか。それで客観的な見方ができなくなってしまうとすれば、不幸なのは生徒ということになってしまう。
 わたしは生徒創作も顧問創作も区別なく、できるだけ率直に言うようにはしているが、顧問は言われる前に気付かなければおかしいし、言われて気付くようでは書く資格はないのではないかと思っている。実際、台本というものがどういうものでなければならないのか、セリフというものはどういうふうに書かれなければならないのか、そんなところからちゃんと勉強してこいよと言いたくなるような本も、率直に言ってかなりあるような気がするのである。そういう人は、自分に才能がないことにも気付くことがないのだろうと思う。

 教員というのは厄介な生き物である。自分を省みることがこんなに不得手な生き物は、あまりいないだろうと思う。これは自分を振り返って言っているつもりだが、振り返ることが不得手なのだから、どこまで振り返ることができているのか自分でも判らないのである。だから、少なくとも自分の書いたものに対して、臆病になるところを持たなければならないと思っている(こんなに好き勝手なことをべらべら書いておきながらよく言うよと言われそうだが、信じ難いかもしれないが、わたしはずいぶん注意しながら恐る恐る書いているのである)。
 自分が書いたものに対して、冷静に客観的に判断できないならば書くべきではないと思う。率直に言って、顧問創作の中には台本として書けていない台本がかなりあると思っている。面白いと思っていい気になっているのは当人だけで、これでは生徒は面白くないだろうなと思うような台本も結構あると思う。自分の好みや都合だけで、生徒を生かしてやろうと考えているようには見えない台本もあるような気がする。教員に都合のいいだけとしか思えないストーリーを、したり顔で垂れ流す台本もたまにあったりするから最悪である。
 問題なのは、少なくともこんな言い方で自分の台本を指摘される機会が、顧問創作には全く(ほとんど)用意されていないということである。それは、自分で自分の台本を評価するしかないということなのである。それが不得手なのでは、やらされる生徒は浮かばれないのではないか。

 いま埼玉には、書くのをやめてほしい作家先生が幾人もいると思う。仲のいい顧問になら、才能がないのだから書かない方がいいとわたしは率直に伝えてきた。どういう点がダメなのかを正直に言うようにしてきた。その後その顧問は書いていないようだが、それでもその顧問とは、いまも変わらぬ飲み友達である。
by krmtdir90 | 2015-10-08 00:01 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

116校も落としてしまった・1(高校演劇2015⑬)

 わたしが退職した時、地区の審査員に推薦してくださったのは現事務局長のM先生である。現役顧問の頃に何回か審査をさせてもらったことはあるが、ある時期から演劇に勝敗をつけるのに加担できないなどとうそぶいて固辞するようになり、それは当時の事務局の先生方には周知の事実になっていたと思う。だから、M先生がわたしのことを「退職したらやると思うよ」と言っても、当時の事務局長だったS先生は簡単には信じられなかったようである。
 わたしはM先生に感謝している。それほどつながりがあったわけでもないのに、わたしの意向を確認することもなく(事前に打診されていたら、それまでの経緯があるから断っていたかもしれない)、思いをちゃんと見抜いていたその慧眼には驚くばかりである。

 以来、今年で7年目になった。現場を離れてこんなに経つと、自分がかつて教師だったことなどすっかり忘れてしまったような気分になっているが、審査員をやらせていただくことで、高校演劇の現場とずっとつながっている気分になれるのは有り難いことだと思う。地区の舞台に触れるたびに、生徒と一緒に舞台作りをした現役時代の気持ちが甦るのを感じることができた。その頃の気持ちに戻って、いろいろなことを感じることができるのは嬉しいことだった。
 数えてみたら、130校の舞台を観せていただいていた。推薦校を出す以上、ずっと(十年以上)ご無沙汰していた県大会にも足を運ぶようになった。その最初の年、久し振りに顔を出した芸術劇場のロビーでにこにこ(にやにや?)出迎えてくださったM先生やS先生を顔を忘れない。

 審査では毎年、担当したブロックから2校を県大会に推薦する。だから、これまで130校の舞台の中から14校を選んできたことになる。言い換えれば、116校の舞台を落としてきたのである。コンクールの審査を引き受ける以上、無理にでもそこに冷酷な線を引き、明暗を決定的に分けてしまう評価を下さなければならない。
 だが、統一的な審査基準の存在しない(そういうものを作ることができない)演劇において、そんな決めつけはナンセンスだし、そんなことはするべきではないという声がわたしの中には一貫してある。だが、退職した時、「それでも」という思いがわたしの中に生まれたのである。
 それでも、そこに勝敗をつけることで、高校演劇というマイナーな部活動が発展してきた歴史を否定することはできない。それでも、わたしは部員がいる限り、毎年それに参加し続けてきたではないか(理不尽な審査結果や誤魔化しの講評に何度も腹を立てながら)。
 わたしの中には審査に関する反面教師がたくさん積み重なっていた。それならば、やらせていただけるのであれば、わたしは積極的に審査員をやるべきだろうと考えるようになった。

 それにしても、130校というのはかなりの数である。その1校1校の舞台には、すべて数ヶ月にわたる生徒たちの懸命な活動の積み重ねが詰まっている。
 各校の舞台を観ながらいろいろなことを考えた(実際には、事前に台本を読んでまずいろいろなことを考え、観終わってからさらにいろいろなことを考えたのである)。県大会に推薦する14校の舞台では概ね芝居の中に入り込んでしまうから、実は余計なことを考える余裕はあまりない。しかし、落とした116校の時には、ずいぶんいろいろなことを考えていたと思う。どうしてこんなことになってしまうのだろう。どうしてもう一歩先に進むことができないのだろう。もしわたしが顧問だったらどうしていただろう。・・・。

 演劇では、14校の勝った学校は、たまたま負けた116校の学校があったから勝っただけである。間違えてはいけない。明瞭なルールの下で、歴然とした力の差が現れるスポーツなどの勝敗とは違うのである。116校の中の舞台でも、そちらの方が良かったと言ってくれるお客さまも(たぶん審査員も)いたりするのが演劇なのである。そこのところを、(14校の生徒はもちろんだが)116校の生徒たちにはぜひ考えてほしいと思っている。さらに言えば、116校の顧問の先生には、より真剣に(誠実に)そのことを考えてほしいと思っている。
 実を言うと、落とした116校の半数以上は、率直に言って審査員として全く悲しくなるような舞台も多かったのである。こういう言い方は当事者の生徒たちを傷つけているのは承知の上で、あえてわたしはこういう言い方をしている。全く、悲しくなるような舞台。それは、そういう学校の生徒たちや顧問の先生たちにこそ、そのことについて真剣に考えてほしいと願っているからである。

 14校であろうと116校であろうと、みんな演劇は面白そうだ、演劇がやってみたいと集まってきた生徒たちなのではないか。審査をやりながら、どうしてもそこにばかり、わたしの心は向いてしまっていたのである。
 だから、7年目の今年、わたしが考えたいと思っているのはその116校のことである。それらの舞台を観ながらわたしが考えていたことを、これから少し整理して書いてみたいと思っている。どんなことになるのか、いまは全く見えているわけではないのだけれど、とりあえず始めてしまうことに意味があるような気がしている。

1,顧問とは何か

 この文章は、できれば生徒の皆さんにも読んでもらいたいと思っている。最初はそんなふうに決めて書き始めたわけではないが、いつの間にかそういう方向性が定まってきた。しかし、116校のことについて書こうとすると、最初に問題にしなければならないと思うのは顧問のことなのである。顧問のことを書く以上、もちろん顧問の先生にも読んでもらえればと思うが、一番読んでもらいたいのは生徒の皆さんである。そのことを最初に言っておきたいと思う。

 率直に言って、悲しくなるような舞台も多いとわたしは書いた。みんな演劇は面白そうだ、演劇がやってみたいと集まってきた生徒たちのはずなのに、なぜこんなことになってしまうのか。
 舞台を観ていて悲しくなってしまう理由は、具体的にいろいろ挙げることができる。あとでまた個別に書くことになるかもしれないが、とりあえず思い付くところから書いてみることにする。

 まず、台本である。それはインターネット台本であったり、生徒創作であったり、時に(信じられないことだが)顧問創作であったりする。いずれにせよ、この世界にはダメな台本はそれこそ山のようにある。舞台の持っている制約が全く判っていなかったり、物語が全く組み立てられていなかったり、登場人物の性格や背景などが曖昧なままだったり、やり取りとして成立するセリフが全然書けていなかったり、とにかくいくらやってもいい舞台にはなり得ない台本がそこら中に転がっている。
 率直に言って、わたしは台本探しの段階で(一読しただけで)生徒がそれに気付くのはかなり難しいと思っている。どうしても表面的な面白さに惑わされてしまいがちだし、あれこれ読み比べるのも面倒だし、人数もちょうどいいからと軽い気持ちで決めてしまうことが多いのではないかと思う。創作だと、作者への遠慮からほとんどそのまま採用してしまったりするのではないか。
 だが、普通の大人が読めば、その欠陥は大概判るはずだと思う。ここで顧問が何も言ってやらなかったのだとすると、それは大人としての責任放棄なのではないかと思うのである。

 自分は演劇のことは全く判らないからと言い訳する顧問がよくいる。わたしがここで書きたいと思っているのは、そういう演劇素人にもかかわらず他にやる人がいないからと、無理に顧問にさせられてしまった(人のいい)顧問のことである。演劇のことは判らないから、面倒は見るけれど演劇のことには口を出さないと言っている顧問についてである。
 そういう顧問は、かわいい?生徒たちが舞台に出ていって、そこで悲しくなるような舞台しか作れないのを見て何も感じないのだろうか。それとも、自分は演劇のことは判らないから、それが悲しくなるような舞台なのかどうかも判らないと言い張るのだろうか。
 判らないわけないじゃないかと思う。生徒たちでさえ、多くは自分たちの舞台がとても勝敗に絡むことなどできない、悲しくなるような舞台だということを薄々は気付いているのである。
 わたしは顧問である前に教員としての、教員である前に一人の大人としての責任を言っているのである。この本、面白くないんじゃないの、ここが変なんじゃないの、ここがよく判らないよ、そういうことも言ってやれないのかと聞きたいのである。

 生徒の皆さんに言いたいのは、台本選びの時には絶対に大人に読んでもらって、大人としての意見を聞くべきだということである。とりあえずそれは顧問であってほしいが、顧問が逃げ腰だったら、誰か信頼できる他の先生でも構わないと思う。演劇は判らないと言われたら、私たちも判らない、私たちは一人の大人としての先生の意見を聞きたいのだとお願いすればいい。演劇のことが判らないと言っているのだから、間違っても発声がどうとか滑舌がどうとか聞いてはいけない。頼めるのは先生しかいないんですという殺し文句を忘れないようにしたい。
 顧問として発声や滑舌が指導できなくても、生徒たちは許してくれるだろう。しかし、一人の普通の大人として言えることも言ってくれない顧問はどうなのだろう。演劇のことが判らなくても、一度でも地区大会などに付き合えば、読まされた台本が、場面転換が多くて実際の舞台でどうやるのか判らない、程度のことは言えるようになるはずではないか。暗転ばかりになったら見ていてつまらないんじゃないか、程度のことは言えなければおかしいのではないか。

 生徒たちはみんな、演劇は面白そうだ、演劇がやってみたいと集まってきているのである。しかし、本校には演劇を指導できる教員はいない。自分も演劇のことは判らないけれど、成り行きで顧問になってしまったのだから、できる範囲で「演劇」に関わってあげようという顧問はいないのかと言いたいのである。そういう顧問が増えなければ、悲しくなるような舞台はいつまでたってもなくならないと思う。その第一歩が、台本選びの時に意見を言ってあげることだと思うのである。
 しかし、顧問が文句をつけると生徒たちはすぐ、じゃあ先生が探してよと言い始める(このあたりの感じはわたしにも容易に想像がつく)。その時、探すのは君たちだ、君たちが探してくれば先生は責任を持って大人の意見を言ってあげる、ときっぱり言えるかどうか。ずるずる引っ張り込まれるのはいやだという教員は多い。だが、どんなかたちであれ生徒に頼られてしまった時、まいったなあと思いながら大きな書店に初めて台本なるものを探しに行ってしまう教員もいないわけではないと信じたい。
 それが、高校生の前で先生なんてものになってしまった大人の責任である。それが、先生なんてものになってしまった大人の、嬉しくもつらいところなのだと考えたい。初めての分野の本に手を出すことが好きでない人は、教員なんかになってはいけないのである。

 しかしながら、演劇のことが判らない顧問は、無理をして毎日練習に顔を出す必要はないと思う。顔を出したところで、言えることなどそんなにあるわけではないからだ。だが、言えることが全くないかと言えば、そんなことはない。たまにでいいから、時間が空いたら一人の大人の野次馬として出掛けてやってほしい。一人の大人の観客として、彼らの芝居を見てやってほしいと思っている。
 演劇のことは判らないのだから、言えることはそんなにあるわけではない。だが、全くないわけでもないと思う。いや、その気になれば意外とたくさんあるのだと思う。何だか声が小さいなあ、おまえ、まだ恥ずかしがっているんじゃないか、ここのところ聞き取れなかったよ、しゃべりながらふらふらするのはおかしいんじゃないか、その手振り変だと思うなあ。・・・。
 わたしは顧問の先生に、この子たちは大会の日には清水の舞台から飛び降りるように舞台に出て行き、見知らぬ観客や審査員の前で何事かを成そうと頑張っているのだということを、忘れずに思ってやってほしいと願っているのである。演劇のことが判らなくても、言えることは案外たくさんあるのだと気付いてほしいと思う。それを少しでも言ってあげていたら、本番でこんな悲しくなるような舞台にはならなかっただろうと思うのである。

 ただ顧問の側からすると、そんな意見なんか言ったら、それじゃあ先生やって見せてよとか、例によって例のごとき言葉が返ってきてたまったものじゃないという感じも判ると思う。その時、いや、やるのは君たちだ、君たちが頑張ってやっていたら、先生は時々大人の観客として感じたことは責任を持って言ってあげてもいいと、きっぱり言えるかどうか。
 ここでも生徒の皆さんに言いたいのは、うちの顧問はどうせダメと諦めてしまうのではなく、顧問を育てるのは生徒なのだと気付いてほしいということである。わたしは顧問に頑張ってほしいと思っているが、顧問がダメなら信頼できる他の先生でもいいと思う。自分たちが作った成果を、普通の大人の視点で批評してもらうことはとても大切なことである。
 大人は要らない、自分たちが楽しければいいのだという学校もあるかもしれない。このことは後でもう一度書くかもしれないが、演劇部としていつまでもそんなことを言っているのなら、大会なんかに出てくるんじゃないと言っておきたい。自己満足でいい気になっているのは演劇とは言わないからである。

 どこの誰だか判らない審査員に、悲しくなるような舞台などと言わせないために、生徒の皆さんはぜひ信頼できる大人の意見を聞くようにしてもらいたいと思う。熱心に指導してくれる顧問のいる学校をうらやましく思うだけで、自分の学校の顧問は無理だとあきらめるのではなく、顧問の先生を(あるいは信頼できる他の先生を)引っ張り出してほしいと思う。過剰な期待は禁物だけれど、見知らぬ他人の前で何事かを成さなければ成立しない演劇にとって、普通の(素人の)大人の意見を聞くことはこの上なく大切なことなのである。
 そして、演劇のことなど何も判らない、ごく普通の大人に過ぎない顧問の先生には、普段の教室で大人の論理や大人の感性などをためらいもなく生徒に押しつけている自分について、ほんの少しだけ省みてほしいと思うのである。大人の論理、大人の感性を、ほんの少し演劇部の生徒に見せてやってほしいと思うのである。それは、悲しくなるような舞台に生徒を立たせないために、顧問の責任として何よりも必要とされていることだと思うからである。台本選定の時と、あとは練習や通し稽古の時に何回かだけでいいのだと思う。
 最後に、顧問の先生に一つだけお願いがある。意見は常に具体的であってほしいということである。具体的でなければならないのだと思う。教室で、腰の引けた抽象的で曖昧な物言いでは生徒に響かないことは判っているはずだから、これは言わずもがなのことだとは思うのだけれど。
by krmtdir90 | 2015-10-07 00:01 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

高校演劇2015⑫秋の地区大会・5(大宮地区の審査について)

 前半の地区が終わった時点で暫定的な2校を決めてきている(浦和一女と浦和北)から、後半の審査はその2校との比較ということになってくる。その2校に並んだり超えたりしている学校があるかどうか、各校の舞台を観る時、どうしてもそういう天秤にかけるような見方になってしまう。
 わたしの中で、大宮地区では伊奈学園が1校だけ天秤にかかってきたように思われた。相方のN先生との間で、浦和地区では浦和一女の方が上であるという了解ができていたから、この比較は浦和北との間で行われることになった。N先生は決断の早い人だから、やはり浦和北は動かないと考えていたようだが、わたしは例によって最後まで迷ってしまったことを告白?しなければならない。

 伊奈学園がやったのは鴻上尚史作「パレード旅団」の中学生編で、わたしも過去に一度だけ生徒と取り組んだことのある作品だった。
 芝居の出来としては決していいとは思わなかった。欠点の多い舞台だと思った。他の学校がみんなもう一つという感じだったから、相対的に浮かび上がってきたという面もあると思った。ただ、わたしには、登場するキャストがみんな個性的で、それぞれの役をしっかり造形している(いや、まだ造形しかかっている段階か)と感じられたのである。みんなが役にはまっているし、時々だがきらりと光る魅力を見せているように思った。
 もちろん問題点も多かった。セリフや動きなどが段取りになってしまうところも多く、反応が出来ていないところもたくさんあった。基本的なテンポは作れていたと思うが、早口になると聞き取れなくなってしまうことも多く、セリフを言葉としてきちんと押さえられていない傾向も見て取れた。部分的に光ることはあっても、全体的に見ると、それぞれのキャラは合っているのにそれを生かし切れていない感じもした。これからの伸びしろを考えて背中を押してやりたい気もしたが、簡単なことではないなという気もしたのである。
 段取り芝居の延長で、最後のあたりが意味を忘れた叫び合いになってしまったことなどは、結局この台本の核心をどこまで掴んでいたのか判らなくしてしまっていたと思った。

 今回見せてくれた1回限りの舞台成果としても、スタッフ面などにかなり大きな疵が散見されたのは問題だと思った。SEが総じて大きすぎたことや、特に最後のあたりのセリフをMEがかき消してしまったことなどは、決定的なマイナスだと思った。
 また、鴻上自身が台本の「あとがき、または上演の手引き」で示しているカットの一例に依拠してしまった結果、最後のところでみんなが家族になるシーンを残してしまうことになり、いじめっ子による攻撃の緊迫感を途切れさせてしまったのは、たとえ作者本人の提案だとしても受け入れ難いように感じた。家族編と交互に展開するオリジナル台本なら意味があるかもしれないが、家族編から切り離された中での家族のシーンは、唐突で説得力を持ち得ないと思ったのである。
 いずれにせよ、浦和北が少なからぬ問題点は抱えながらも、全体としてはきちんとした舞台を構成していたのに対し、伊奈学園のキャストが醸し出したキャラクターの魅力は、舞台作りの様々な欠点を超えて対峙できていたのかという判断だったと思う。
 考えてみて結局、わたしが伊奈学園を残したいと感じたのは好みの問題という側面が強く、今回上演された舞台成果全体について冷静に評価を下すとすれば、自分の好みではなくとも浦和北を残すのが妥当だろうと納得したのである。それでも、伊奈学園を落とすのは惜しいなあという感覚が、いまもまだわたしの中に残っている。

 大宮地区ではあと、上尾南について少し触れておきたい。上尾南は昨年・一昨年と2年連続して県大会に駒を進めている学校である。今年やったのは越智優作「みえにくいアヒルの仔」という台本だった。いじめられていた過去が徐々にあぶり出されてくる内容なのだが、そのあたりの書き方がもう一つ不鮮明で、判りにくい本だと思った。
 上尾南の諸君は自分たちなりの解釈で強調するところは強調したりして、よくやっていたと思う。キャストにもかなり力のある生徒がいたし、全体としてはかなりきちんと作られているように見えた。審査員によってはこれで良しと評価してしまう場合もあるのかもしれないと思った。
 だが、わたしもN先生も大きな違和感(疑問)を感じないではいられなかったのである。居心地の悪さと言ってもいいかもしれない。しかも、それは決定的なものであるように思われた。
 わたしはそれを、セリフや動き、すべてが基本的に段取り芝居として作られていて、みんなきちんとセリフを言えるけれど、キャスト相互の関係性の中でセリフを言えていないから、セリフとして少しも絡み合っていないし、それらしく見えても実はセリフや動きの必然性が欠如していて、状況が全く作れていないのではないかと考えた。N先生はそれを、キャスト同士の距離感の不自然さ(具体的には近くに寄り過ぎる)として、端的に指摘した。こんな近距離で会話して気持ち悪くないかと。距離感がおかしければ会話は成立しないのではないかと。
 簡単に言ってしまえば、やり取りのリアリティが全く作れていなかったということである。客席から笑いなどの反応が全然返ってこなかったのは、それが原因なのではないだろうか。このあたりを見過ごしてこの舞台を評価することがあるとすれば、大きな誤りだと思った。

 上尾南とは離れるが、県大会に出てくる舞台の中に、何でこんな学校が?と感じる舞台が時々混じるのは、こういうところをちゃんと見ていない評価が行われているからなのだろう。わたしは自分の見方だけを絶対だと言うつもりはないし、異なる見方があってもかまわないと思っているが、そういう見方とは徹底して意見を戦わせたいと思っている。
 わたしはいつの間にか、こんなことをブログに書くようになってしまったが、審査員たるもの、どのようなかたちでもいいから、みずからの審査の観点についてその都度具体的に開陳していく必要があるのではないかと思っている。

 ということで、今年のDブロックは1位・浦和第一女子、2位・浦和北ということで県大会に推薦させてもらいました。両校の健闘を祈ります。大宮地区の皆さんは、また次の機会にがんばってください。
by krmtdir90 | 2015-10-06 00:01 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

高校演劇2015⑪秋の地区大会・4

 10月3、4の2日間、Dブロック後半となる大宮地区の審査に行って来た。会場はさいたま市西部文化センターというところで、大宮駅から東武バスを利用して行く不便な場所にあった。最寄り駅だと、川越線の西大宮駅になるらしい。
 ホールはやはり演劇にはかなり使いづらい舞台と言うしかなく、両袖で舞台面が切れて客席の床面と同じになってしまう構造なのは、どうしてそんなことになっているのかよく判らない。舞台の板も光沢のある茶色に塗装されていて、照明の反射が信じられないくらいホリゾントに出てしまうのも困ったものだった。

 参加校数は7校の予定で、7校だと1日でやってしまう地区もあるようだが、ここは2日に分けて計画しているので余裕はあった。しかも、行ってみたら直前に参加を辞退した学校があり、結局3校ずつ2日間というのんびりした日程になっていた。
 ブロックとしても、元々15校という少ない校数で編成されていたが、とうとう14校という小さなブロックになってしまった。一方に20校を大きく超えるブロックもあるのだから、同じ2校が選ばれるというのは不公平な感じもしてしまう。地区の校数に開きがありすぎるというのが原因だが、いい加減に何らかの荒療治が必要になっていると思った(現場にいる教員が変革を嫌い、現状維持に流れる傾向があるのは判っているが)。

 会場が不便な場所にあることも関係しているのかもしれないが、大宮地区も大会後の反省会(飲み会)は設定されていなかった。大会が終わったら飲みたいというのは、審査員の立場からは、講評でいろいろ言ったことに対して顧問の先生に何か言ってほしいという気持ちがあるからである(生徒でももちろんいいのだが、生徒と飲むわけにはいかないし、生徒が初対面の審査員に何かもの申すなどということは簡単にできることではないだろう)。わたしとしては、言うだけ言って、言いっぱなしで帰ってしまうのは無責任だという感覚がある。
 審査は2校を選ぶだけではなく、残りのすべての学校を落とすということでもあるわけで、そのことに絶対的な自信を持っている審査員などいないはずだと思う。だから、率直に不満や疑問をぶつけてもらいたいという気分がいつもあるのである。

 もちろん地区によって様々な事情があるのだろうとは思う。現役時代わたしがお世話になった西部B地区(当時の会場は椿峰コミュニティー会館別館)・西部A地区(会場は朝霞コミュニティーセンター)は、照明の吊り込みやシュートを教員がやれる会場だったというのも大きかったと思う。自然と顧問同士の横のつながりが求められていた。
 西部Aに行ってからは、年長者になっていたわたしなどが音頭を取って、とにかく大会などの後には必ず飲み会を設定するようにした。そういうことに共感してくれる人も揃っていたのだと思う。学校の状況は様々だったとしても、終われば必ず上演された芝居について語り合う雰囲気が作られた。その意義は大きなものがあったと思っている。秋の大会では審査員を交え、審査の観点の曖昧さについてみんなで追及したこともあった。

 大会が終わったらそそくさと帰るだけというのでは、顧問は自分の学校のことだけで終わりになってしまうのではないか。それでは鍛えられることも成長することもないまま、内向きの閉じた顧問生活を送るしかないだろう。時が来れば、演劇なんて面倒な部活ではなく、もっと楽な部活に乗り換えたいなどと考えてしまうかもしれない。
 率直に言えば、審査に行った地区によって、顧問相互の妙なよそよそしさ、バラバラ感といったものを感じてしまうことがある。熱心な顧問のいる学校はあるが、それが広がって行かない感じと言ったらいいだろうか。西部B地区にいた頃の自分への反省を込めて言うのだが、顧問同士が芝居を通じて(その上手い下手は関係なく)つながり合うことの意味は大きいと思う。顧問が仲良しだと生徒も仲良しになれるし、地区全体のレベルアップにもつながって行くのではないだろうか。

 とにかく、今回は地区の先生とほとんど話しをする機会がないまま終わりになってしまった。これは審査員としてとても残念なことである。昨日は、結果を気にして会場に来ていた浦和地区のK先生・T先生を誘って、相方のN先生と4人でささやかな飲み会をして帰ってきた。ささやかだったはずだが、きょうの午前中は気分はあまりすぐれなかった。
 とりあえず、生徒たちがN先生の劇評やわたしの文章をチェックしてるという情報を聞いたので、ますますしっかり書かなければと心しているところである。
by krmtdir90 | 2015-10-05 15:53 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)


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