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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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「モナドの領域」(筒井康隆)

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 帯に書かれた「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長編」という惹句は、著者・筒井康隆自身の言なのだろう。筒井康隆はこういうことをぬけぬけと言ってしまう人なのだ。これに釣られて読んでみようという気にさせられてしまった。調べてみたら、彼の生まれは1934年9月で、この小説は81歳で書かれたものだった。

 わたしはこれまで、筒井康隆の作品をほとんど読んでいない。高校生の頃(4~5年の間)、「SFマガジン」を購読していた時期があり、ちょうどその頃、その誌上に小松左京や筒井康隆の作品が載り始めるようになったのではないかと思う。
 だから、わたしは彼のきわめて初期の作品の幾つかを読んでいるはずである。もちろん、内容などはもうすっかり忘れてしまっているが、何やら非常に人を食った話というか、突拍子もないナンセンスな小説を書く人という印象だけが、妙にしっかりと焼き付いている。
 その後、大ヒットした映画「時をかける少女」(大林宣彦監督・原田知世主演、1983年)の原作を書いたとか、自作の中に指摘されたいわゆる差別的表現と出版社の自主規制に抗議した断筆宣言(1993年)とか、他にもいろいろなことが(何でもズバズバ言ったり書いたりするので、あちこちとやり合ったり対立したりといったことが)あったようだが、その作品に興味を持って読んでみるという機会はなかったのである。

 今回の読書は、若い頃から少々八方破れなところがあったユニークな作家の「老境」を、ちょっと確かめてみたいという気持ちだったと思う。結果は、果たして「最高傑作」かどうかはよく判らないが、相変わらず人を食った設定とストーリー展開で煙に巻かれてしまう感じで、十分に楽しませてもらうことができたと思う。老いを感じさせない健筆と言うべきだと思った。
 現代日本のある町に「神」が降臨することで巻き起こるあれやこれやを描いた作品で、それが決してドタバタやナンセンスにはなっていない、しっかりとした描写でしっかりと組み立てられた小説になっている。「神」という存在(途中から「GOD」と呼ばれるようになるのだが)を、様々な人々がどのように受け止め、それに対して「GOD」はみずからをどのように規定し行動していくのか。こういった経過を、いかにもそれらしい言葉のやり取りで構築していくのである。
 読者の感覚としては、あれよあれよといううちに、何となく誤魔化されてしまうようなきらいがなきにしもあらずだが、これが筒井康隆というものであり、長年培われてきた筒井康隆的語り口というものなのだろう。

 冒頭に仕掛けられたミステリ的設定(バラバラ死体の片腕・片足が発見された)は、途中では特に熱心な追及(捜査など)が行われることはなく、終盤になって「GOD」による一方的な「謎解き」(種明かしといった感じ)で決着するのだが、それはミステリ的決着と言うよりSF的決着と言うべきものになっている。
 それは、SFの方ではいわゆる「可能世界もの」と言われるもので、現実世界に隣接して存在する「もう一つの世界」との間に小さな「綻び」が生じ、ちょっとした行き違いが起こったのだと説明される。それら(片腕・片足)は隣接世界からこちらの世界に、誤って届いてしまったものだったのだ。「GOD」は、その「綻び」を繕うためにやって来たという「謎解き」が行われる。
 筒井康隆という作家は、最初はSFから出発したものの(小松左京などと比べると、かなり異端のSFと言うべきものだったが)、その後は純文学や評論、その他様々な分野を遍歴した後に、この作品で再び元のSF世界に戻って来たということになるのではないか(最後まで人を食ったストーリーなのがいかにも筒井康隆らしい)。

 かつてSFの「御三家」と言われた星新一(1926~1997)・小松左京(1931~2011)はすでにこの世になく、一人残された筒井康隆も「そろそろ終わり」と感じているのかもしれない。それにしても、81歳という年齢は想像を超えている。その年齢でこんな若々しく野心的な作品を書いてしまうところは、さすがと言うしかない気がした。
by krmtdir90 | 2016-01-26 15:15 | 本と映画 | Comments(0)

映画「FOUJITA-フジタ-」

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 監督の小栗康平は1945年生まれだというから、この映画は70歳で撮った作品ということになる。監督としてのデビュー作は1981年の「泥の河」で、これは当時キネマ旬報ベストテンの第1位になったりして、わたしも大変印象深い映画だったと記憶している。モノクロの暗い画面が登場人物の心情を浮かび上がらせ、極端にセリフの少ない映画だったと思うが、映像が形づくる物語世界の豊穣さに思わず引き込まれた記憶がある。
 本作はそれから数えて6作目にあたる映画だという。
 間に挟まれた4作品を、恐らくわたしは観ていない。いずれも評判になった映画だったと思うが、小栗康平は何となくゲージュツ的でかったるい映画の方に行ってしまったという印象があって、積極的に映画館に足が向かなかったのではないかと思う。

 今回観てみようという気になったのは、わたしには「泥の河」一本だけだったとしても、かつて若い頃に傑作を何本か世に出したことがある映画監督の「老境」といったものに、ちょっと興味が動かされたということだったと思う。本作は、5本目にあたる前作(「埋もれ木」2005年)から10年目のメガホンだったようだ。

 まず何よりも、映像の研ぎ澄まされた美しさに驚いた。計算し尽くされたカットの一つ一つが、その内在する情報量の豊かさによって観る者にダイレクトに訴えてくる気がした。小栗康平という監督は、結局こういうところに到達していたのかと感無量?だった。
 その映像は、ひと言で言えばきわめて絵画的なもので、映画の持つ動的な要素までが静的なフレームに切り取られているように感じられた。動きのある場面(たとえば、パリのカフェでの毎夜のバカ騒ぎ、フジタナイトでの仮装行列など)でも、どこかに醒めた静謐といった印象がついて回る気がした。日本でのシーンは、動きのある場面そのものがほとんどなくなっていて、その傾向がいっそう際立っていたように思う。映像は物語に奉仕することをやめ、少なく断片的なセリフをやり過ごしながら、ある意味淡々と積み重ねられていくだけである。

 この映画は、画家・藤田嗣治を描きながら、それを物語ることをしようとしない。フランス時代のレオナルド・フジタと、戦時の日本に戻った藤田嗣治と、それぞれの姿が印象的なシーンの積み重ねで点描されているが、シーン相互の関係性や物語性はほとんど頓着されていない。それは、映画の前後半をなすフランス時代と日本時代が、何の関連付けもなくいきなり切り替わってしまうことにも表れていると思う。
 戦時下の日本で藤田が取った戦争協力的な行動は、戦後になって大きな批判の的とされたらしいが、小栗康平はそうした経緯のあれやこれや、その物語的側面には全く興味を示していないということだろう。そういうことよりも、その時々の藤田の中にあった心象風景のようなものを、一つ一つの映像に反映させようとしているように感じられた。

 だが、その試みは、フランス時代を描くところでは見事な成果を上げていると感じられたが、日本時代においてはあまり成功していない印象を持った。図式的な意味づけが見え透いているシーンなどもあり、思わせぶりに流されているような映像も散見されたように思う。
 もちろん小栗康平は物語を拒絶していたわけではないし、印象的な映像の間にカギとなるセリフなどを配置しているのだが、敗戦が間近に迫る映画の終わりあたりまでくると、どうしてももう一歩明確な物語的決着が必要な部分が出てきていたということなのかもしれない。映画がそこに踏み込まないのは一つの選択には違いないが、藤田嗣治の中には確実に、敗戦前後の内的葛藤や矛盾の嵐が渦を巻いていたに違いないからである。

 ラスト近く、炭焼きが暮らすという川向こうに向かった藤田を描く部分で、急にCGなどを組み合わせたりして映像的な一貫性が失われたように感じられ、この一連の映像の流れには失望を感じざるを得なかったのである。これは典型的な思わせぶり映像と言うべきだろうし、こんなことをするくらいなら、その藤田の思いをきちんと物語として写し取るべきだったのではないかと思った。戦争協力画の一枚(「サイパン島同胞臣節を全うす」という藤田の最後の戦争画だったようだ)を水の中に沈めるイメージなど、その不満を感じる最たるものだったと思う。
 戦後(1950年)、藤田は再びフランスに渡り、二度と日本には戻らなかったようだが、そこに(その物語に)触れないのも映画として一つの選択には違いないが、それにしてはエンドタイトルに前後して、再渡仏後に彼が手がけたフランスの教会画を写してみせるのも、何か未練がましく説明不足は免れないような気がした。
 この最後のあたりに、映画監督・小栗康平の「老い」が見えたということだったのだろうか。
by krmtdir90 | 2016-01-23 14:42 | 本と映画 | Comments(0)

「つかこうへい正伝」(長谷川康夫)

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 わたしが埼玉のT高校で演劇部の顧問になったのは1983年4月、35歳の時である。当時、わたしの興味の対象は映画であって演劇ではなかった。高校生の頃から始まった映画館通いは、この後も1990年代の終わりごろまで続いた。顧問になって演劇の面白さに目覚めるとともに、演劇も少しは観るようになったが、その数は映画に比べるとはるかに少なかった。
 そのころ、新宿の紀伊國屋ホールで「熱海殺人事件」を観たような記憶があるが、不思議なほど印象には残っていない。すでにつかこうへい事務所はなく、どういうキャスティングでどんなふうに演じられたのかも記憶から消えている。わたしがこのころ(1990年前後)観た舞台の中で興味を持ったのは清水邦夫・山崎哲・内藤裕敬といったところで、つかこうへいや野田秀樹はほとんど視野に入っていなかった。やはり、私の興味は映画にしかなかったし、都内で上映されている映画は「ぴあ」で細かくチェックしていたが、演劇の公演をチェックした記憶は全くない。

 次第に高校演劇にのめり込む中で、つかや野田に始まる現代演劇の様々な舞台が高校演劇にかなり影響を与えていることを知ったが、わたしは結局、そうした舞台を熱心に追いかけるという方向には向かわなかったのである。演劇の場合、前もって予定を立ててチケットを押さえるということが、わたしの気性に合わなかったというのも大きいと思っている。
 本を読んで、当時の演劇の動向をかなり勉強したとは思う。「新劇」や「テアトロ」「せりふの時代」などは買っていたし、本書でも触れられている扇田昭彦の「日本の現代演劇」(1995年)も読んでいる。もちろん映画ファンだったから、1982年に深作欣二監督により映画化された「蒲田行進曲」も観ている(「熱海殺人事件」など、その他の映画化は観ていないが)。映画「蒲田行進曲」は、もちろん舞台とは全く異なる作品には違いないが、原作の良さを映画というかたちで見事に定着させた名作だったと思っている。

 さて、前置きが長くなってしまったが、本書は(活字がかなりきちんと詰まった感じの)42字×21行で550ページを超える大著である。定価も3000円(税別)もして、「老人の読書」としてはとりあえず図書館で借りて読むのが適当な本だったかもしれない。だが、わたしはまだ「図書館を使いこなす老人」(津野海太郎「百歳までの読書術」)にはなっていないから、行きつけの本屋に一冊だけ置いてあったのを買ってきて読んでみることになったのである(最初見つけた時は買う決断がつかず、次の散歩の際に購入した)。
 読み終わるまで3日ほどかかったが、こんなに楽しくワクワクさせられた読書は久しぶりだったと思う。この本は大当たりだった。逆転満塁ホームランといった感じだと思った(何が「逆転満塁」なのかよく判らないけれど)。

 著者の長谷川康夫という人は、あの映画「起終点駅ターミナル」(2015年)の脚本を書いた人だった。映画のプログラムには監督・篠原哲雄との対談が載っていたが、そこにあった略歴には「1953年生まれ。北海道出身。86年から多くの舞台作品を発表。主な映画脚本には‥‥」とあるだけで、つかこうへいと関係があったこと(しかも本書のようなものを書けるくらいの深い関係)には一言も触れられていなかった。書店で見たこちらの本の略歴でこの映画のタイトルを見つけたことが、購入する動機の一つになっていたかもしれない。
 長谷川康夫氏は、この「起終点駅ターミナル」の脚本を執筆したちょうどその頃、脱稿まで3年かかったというこの本を同時に書き進めていたことになる。

 本書には表題とともに「1968-1982」という年号が記されている。つかこうへいの生没年は「1948-2010」だから、この本はつかこうへいの生涯をたどったものではないということを意味している。広辞苑によれば、「正伝」というのは「誇張のない、事実に基づいた伝記」と書かれているが、著者は、つかこうへいに関する「1968-1982」の「事実」を最もよく知る人間の一人だったということである。
 ここに描き出される数々の「事実」は、中にいた人間でなければ知ることのできない「事実」の連続で、よくぞここまで書き残してくれたと言いたくなるものばかりである。そこには、生前から誇張や粉飾に歪められて語られることの多かったつかこうへいという人間の、何とも興味深い生身の姿が克明に記録されている。この時代、ほぼ同じ時代を生きていながら、わたしはつかこうへいにほとんど興味もなく知らなかったのだが、こうしてこの「正伝」を読んでみると、それはもう面白くて面白くてぐいぐい引き込まれてしまう感じがした。
 この時代のつかの舞台を、観ようと思えばすぐ観られる場所にいたのに、それらを一つも観ていないことに少し無念な気持ちはしたが、それはもう仕方がないことである。しかし、この本を通じてつかこうへいという人間とその作り出した舞台を知ることができたのは、かなり素晴らしいことだったと思えるのである。つかこうへいが作った芝居について、いま、こういう本が書かれた(残された)ことは実に意義のあることだったのではないかと思う。

 この本の面白さの源泉は、つかこうへいの様々な「事実」を描く一方で、(あとがきに触れられているように)著者・長谷川康夫の「青春記」といった側面を持っているところにあると思った。
 つかこうへいの才能に心酔しつつ、長いあいだ共にあったからこそ言える率直な批評や感想が各所に散りばめられていて、これがことのほか面白いのである。こういう評言に類することは、下手な書き方をするとそれだけで興醒めになってしまうものだが、全くそうはなっていないところに、著者の自分自身に対する(そしてもちろん、つかこうへいとの過去に対する)真面目で誠実な姿勢が見て取れると思った。

 この本の冒頭には、「2010年7月12日未明」と題された13ページほどの「まえがきのようなもの」が置かれている。そこには、つかこうへいの死を長谷川を始めかつての仲間たちがどう受け止め、そこからどう本書の企画が立ち上がってきたのかについて述べられている。
 この企画は、つかこうへいと最も初期の頃から活動を共にしてきた岩間多佳子の発案によるものだったらしいが、すでに脚本家として活躍していた長谷川が、岩間から協力を依頼された時、目星をつけた出版社宛てに書いたという「企画書」の冒頭部分なるものが、13ページのうち4ページあまりを使って収録されている。ここに彼らのつかに対する熱い思いが率直に現れていて、いきなりだが非常に面白く興味深かった。

 続く第1章のタイトルは「つかこうへいの誕生-詩人から劇作家へ-」となっていて、「『つかこうへい』という名が活字として登場するのは、おそらく1968年に発行された慶應義塾大学の同人誌『三田詩人』の第3号が最初だろう」と語り始められている。九州福岡の片田舎から上京し、一浪ののち慶應義塾大学に入学し、その1年生の時、金原峰雄が初めて「つかこうへい」を名乗るところから、この「正伝」は始まるのである。
 著者・長谷川康夫が北海道から上京し、つかと同様一浪して早稲田大学に入学するのは1973年のことで、つかと初めて出会ったのは前年(1972年)の12月だったと書かれている(第2章の途中、123ページ)。したがって、つかこうへい誕生という初期の頃については、関係者へのインタビューや残されたわずかな資料などから「事実」を再構成しているということになる。だが、後のつかこうへいにつながる様々な興味深い「事実」が発掘されていたり、思いがけず初々しい、知られざるつかこうへいの姿が描き出されていたりして、このあたりはまずとにかく面白かった。

 ここには、「つか・こうへい」というペンネームで初めて「三田詩人」第3号に載った「ミルキイドライブ」という詩が転載されている。ことさら問題にするような詩とは思えないから、ここにさらに書き写すことはしないでおくが、これを書き写した後で、長谷川康夫は「つかがよく口にした言葉を借りれば、正直、『なんのこっちゃ?』である」と書く。
 さらに「思わず『おいおい、つかさん何を書いているんだ』とつぶやきながらも、浮かんでくる笑みを抑えられないのは、九州の田舎から上京し、一年の浪人生活ののち、念願の慶應大学に入学した二十歳になったばかりの金原峰雄が、まさしくそこにいるように思えるからなのだ。それは僕が会ったことのない、つかこうへいだ。誕生したばかりの詩人つかこうへいが真剣な表情で原稿用紙に向かう。そのどこかピュアな気負いのようなものが伝わってくる気がして、なんだかうれしくなってしまうのだ」と書いている。
 本書では、続いて「三田詩人」第4号に載った「誕生」という詩も収録しているし、この頃つかこうへいが恋をした女子学生(堀田善衛の娘・堀田百合子)のことにも触れている(当時の彼女の写真まで載っているのだ)。彼女に対しては本書刊行に向けてインタビューが行われたようだが、その際彼女がつかについて「ほら、彼って利にさといでしょう」と評した言葉を長谷川は逃さず記録している。そして、「(それは)決して非難や揶揄する口調ではなく、むしろ愛すべき一面として、堀田はその言葉を使った。確かにその通りだ。つかこうへいの傍らにいて、その強烈な上昇志向から生じる対外的な言動を目の当たりにして来た僕は、この言葉を聞いたとき、よくぞ見事ひと言で表現してくれたと」感じたと記している。

 本書は、最初「詩人」として出発したつかこうへいが、どのようにして「演劇」に鞍替えしていったのかも丁寧にたどっている。1969年、慶應の学内に結成された劇団「仮面舞台」に2年生になったつかが関わっていく過程、その旗揚げ公演「白と黒とだけの階段」においてつかが果たした役割(つかが作製した上演パンフレットが残っていて、これが実に面白い)、さらに第2回公演でつかが初めて書いたという処女戯曲「赤いベレー帽をあなたに」のこと。これが上演されたのは1970年2月だったようだが、文字として残されているものは残念ながらないらしい(関係者の証言などによれば、これは「サリンジャーのほとんどパクリだった」という)。
 とにかく興味深い「事実」が次から次へと書かれているのだが、考えてみるとこの時期というのは、68年10月の新宿騒乱事件を頂点として、どこの大学でも学生運動が大きなピークを迎えていた時期である。だが、そうしたものの影響は当時のつかこうへいという人間にはほとんど見られないようだ。「仮面舞台」というのが、それまで学内にあった「劇研」の先輩たちがみんなデモに行ってしまって消滅してしまい、その後に下級生によって作られた劇団だったとあるところを見ると、いわゆるノンポリの学生たちが集まっていた集団に、つかこうへいは関わっていたということになるのだろう。
 ただし、これは当時のつかが学生運動に無関心だったということではないと思う。当時大学に籍を置いていたどんな学生にとっても、無関心というのはほとんど不可能なことだったからである。少しして、彼が「初級革命講座飛龍伝」というかたちで学生運動を取り上げたことからも、それは明らかと言っていいはずである。

 この頃、彼が興味を持ち影響を受けた舞台や作家たちがどんなところだったのかということも、長谷川はその痕跡をあれこれ探してくれている。唐十郎、寺山修司、清水邦夫(当時、彼らはみんなまだ「アングラ」だった)、そして別役実、鈴木忠志(当時、彼らはみんなまだ「新進気鋭」だった)といった人たち。つかこうへいは猛烈な勢いで「勉強」していたのだ。
 「赤いベレー帽‥」を書いた後、つかこうへいは「郵便屋さんちょっと」(1970年)・「9月にはさようならを」(1971年)・「戦争で死ねなかったお父さんのために」(同年)といった戯曲を書いていくことになる。このうち、作品としては残されていない「9月には‥」の断片的な資料(長谷川がたまたまノートに書き写していた一場面)から、のちの代表作「熱海殺人事件」につながるセリフの原型を見つけ出すところも面白い。
 「戦争で死ねなかった‥」は、当時早稲田小劇場の演出家だった鈴木忠志とつかを結びつけることになった作品で、雑誌「新劇」に初めて掲載された記念すべき戯曲だったが、ここから本書は第2章に移っていく。タイトルは「演劇界への船出」である。早稲田の劇団「暫(しばらく)」と関わることから、天才・つかこうへいが一気に花開いていくことになる。本書の著者・長谷川康夫も登場してきて、いよいよここからが「つかこうへい劇場」の開演といった感じになるのである。

 だが、ここから後をもう一度細かくたどり直そうとは思わない。わたしは当時つかこうへいを知らなかったのだし、つかこうへいとその作り出す舞台が最も輝いていた時代(つかこうへい事務所が解散する1982年まで)のことは、この本によって初めて多くのことを知ったのだからである。ここに描き出された「現場の雰囲気」というのは、とにかく知ることができて良かったと思うことばかりだったのである。

 つかこうへいと言えば、作品の数としてはそんなにあるわけではなく、一つ一つの作品をキャスティングを替えたりして、繰り返し何度も舞台に載せたことが大きな特徴になっている。作品にはその都度大きな改変が加えられ、中にはすっかり内容が変わってしまった作品などもあったようだ。このあたりのことを、長谷川康夫は非常に具体的に比較検討してくれている。キャストが入れ替わることで、どの部分がどういうふうに変化していったのか。現場にいて実際に稽古に参加していたからこそ書くことができたその詳細は、つかこうへいの作劇術、その発想の根源に迫る部分を含んでいるようで、非常に貴重な記録であり何とも興味深いものである。
 また、つかの舞台作りのカギとなる「口立て」のやり方、その現場でのやり取りの様子なども、いろいろな作品について実に克明に記録されている。言葉や知識としては聞いたことがあっても、実際に役者とつかがどういうふうにセリフや場面を作っていったのか、その雰囲気がありありと描き出されているのは驚きである。つかの傍若無人とも言うべき言動の数々が記録され、そこからつかこうへいという複雑怪奇な(ある意味、単純明快な)人間性が見えてくるのは素晴らしい。長谷川康夫は、つかこうへいの「事実」を容赦なく記録することで、つかこうへいという(愛すべき)人間像を鮮やかに構成して見せたと言っていいのではないか。
 つかこうへいの代表作と言ってもいい「熱海殺人事件」と「蒲田行進曲」については、その本番上演に関わる様々な出来事なども記録されていて、いわゆるバックステージのあれこれが大好きなわたしとしては、その舞台を観ていないにもかかわらず、その一つ一つがワクワクさせられることばかりで実に楽しかった。

 こうして書いてくると、まだまだ触れたいことが次々と出てきて困ってしまう。だが、すでにずいぶん長い文章になってしまった。つい数日前、感想文は簡潔にしたいなどと書いたばかりなのに、もう一日以上費やしてしまっている。それだけ面白い本だったということなのだが、そろそろ終わりにした方がよさそうだ。
 最後に、「あとがき」の中に、死んだつかこうへいと著者・長谷川康夫とが、出来上がったこの本を前にやり取りをするという、短い架空の会話が載っているので書き写しておきたい。

つか「また、おまえが長々と、ペラペラペラペラ、知ったような口、叩くんじゃねえ!」
長谷川「でもつかさん、あの頃のことが、何も記録として残っていないのは寂しいじゃないですか」
つか「バカ! 残してどうすんだ? 一瞬一瞬で消えてしまうからいいんだろうが。芝居と同じだよ!」

by krmtdir90 | 2016-01-21 14:11 | 本と映画 | Comments(0)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)

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 単行本が出たのは2013年だったようだ。けっこう話題になっていたと思うが、その時は購入する気にはならなかった。
 去年(2015年)の12月に文庫本になったらしく、書店の店頭に平積みされているのを見て、久し振りに村上春樹の小説を読んでみる気になった。

 彼の小説で最後に読んだのは何だったか。ノンフィクションの「アンダーグラウンド」(1997年)は読んでいないが、「海辺のカフカ」(2002年)や「1Q84」(2009~10年)は読んでいる。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は高校時代からのわたしの愛読書だったから、彼による新訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(2003年)も読んだと思う。だが、いずれにせよこの10年あまり、わたしは村上春樹からは遠ざかってしまっていた。

 今回、久し振りに読んだ村上春樹の印象は、ずいぶん判りやすい小説になっているというものだった。村上春樹の小説というと、これまでは現実と非現実が複雑に絡み合ったりして、一筋縄では行かない難しさを感じるのが常だった気がするのだが、そういうのと比べると、この小説は現実から飛躍するところが全くないし、書かれた世界はごく普通のリアリティで終始一貫していた。そういう意味で、非常に読みやすい小説だと思った。
 読みながら、これは一種のミステリだなと思った。主人公・多崎つくるは名古屋の高校時代に、4人の親友と完璧に調和の取れた親密な交友関係を築いていたが、大学時代のある日、4人から理由も告げられずに一方的な絶縁を宣告される。16年後、新しい恋人・沙羅に促され、彼はその時何があったのかを探り始めるというのが、この小説の基本的なストーリーである。実際、彼の「巡礼」にしたがって、「謎」は徐々に解き明かされていく。

 だが、村上春樹はミステリを書こうとしたわけではないようだ。「謎」に関する表面的な事実関係は明らかになるものの、なぜそんなことが行われなければならなかったのかという、いわば「動機」にあたる部分の「謎」は曖昧なまま残されてしまう。しかも、当事者の白根柚木(しらねゆずき・シロ)は数年前に何者かによって殺されていたことが明らかになるのである。これは殺人事件のわけだから、ミステリ的にいえば、犯人は誰か(誰がなぜ、どうやって彼女を殺したのか)という「謎」が新たに生まれたことになる。
 それだけではない。つくるの「巡礼」と前後して、いまの恋人・沙羅に関する「謎」なども見えてきていて、ミステリとして読んでいくと、これはいったい最後にはどう説明されるのだろうと、まあ何と言うか、けっこう期待がふくらんでしまう書き方になっていたと思う。

 だが、村上春樹はそれら残された「謎」について、いわゆるミステリ的な「謎解き」はしてくれない。やっぱりそういうことなんだと思った。読者は最後のところに来て、村上春樹が「謎解き」なんかしてくれるわけがないという、(確信的な)失望を味わわされることになるのである。何だかはぐらかされた感覚が読後に残ったのは事実である。

 だが、今回ちょっとインターネットを調べていたら、HatenaBlogというものの中に、「『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は推理小説である。」というブログが開設されているのを発見した。この小説の「感想・考察・謎解き・書評です。事件の真相・犯人を推理し、特定します」と書かれていた。
 興味を覚えて早速読んでみると、これが非常に面白い。最初に「推理小説であるから、当然事件が起こり(略)、事件の犯人は必ずいます。事件の犯人はもちろん小説内に実在する特定の人物です。異世界人だったり、小説には出てこない無関係の人間だったり、『やみくろ』(引用者注「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に登場する)だったり、角の生えた悪魔だったりはしません。推理小説ですから、犯人は推理できます。本格推理小説のようにパズルのピースがかちりとはまって、動かぬ証拠で犯人が確定できるわけではありませんが、『極めて疑わしい人間』を推理することは可能です」と書かれている。

 ここにその推理の結果を書き写すことはしない。しかし、この推理の道筋は非常に鮮やかで説得力があり、なるほど、そんなふうに読めるのかとびっくりしてしまった。世の中には、村上春樹をこんなふうに読んでいる人がいるというのも驚きだった。
 筆者は、続けて「この小説は、村上春樹としては久しぶりの『リアリズム小説』です。念のため、ここでいう『リアリズム小説』とは、(略)猫と話せる人が出てきたり、羊男が現れたりとか、そういった現実には起こりえないことは起こらない小説という程度の意味です。なぜ、この小説がリアリズム小説の手法がとられたかと言うと答えは簡単です。この小説が推理小説だからです。人が推理をはじめようとしている時に、現実には起こりえないことが起こったら(井戸の底に別世界があるとか)、途端に推理する気がなくなります」とも書いている。

 このブログの「推理」に触れたことで、今回の読書は非常に実り多いものになった。なお、小説そのものについても、村上春樹の書く文章は相変わらず素晴らしいもので、どんどん引き込まれて最後まで一気に読まされてしまったことは、記録しておきたいと思う。
by krmtdir90 | 2016-01-16 17:00 | 本と映画 | Comments(0)

「百歳までの読書術」(津野海太郎)

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 ブログを始めて良かったと思うことはたくさんある。だが、最近これはちょっとあまり良くないなと思うことも出てきた。
 ブログには旅とか読書とか、いろんなことを記録しておく要素があると思うのだが、その作業にけっこう時間がかかってしまうのだ。これはたぶん個人差がかなり大きいもので、書いたりまとめたりという作業のスピードが速い人、そういうことをてきぱきと要領良くこなせる人もいるのかもしれないが、わたしはそうではないことが日を経るにしたがって明らかになってきたのだ(現役の頃は、仕事はけっこう早い方だと思っていたのだが)。

 たとえば、この前載せた「生きて帰ってきた男」や「居酒屋の戦後史」「戦後入門」などの感想文は、いずれも完全な一日がかりで書いたものである。途中立ち止まっていろいろ考えたり、あれこれ調べたりしているうちに、時間はあっという間に経過してしまった。そういう時間はわたしにとってどちらかと言えば楽しい時間なので、ブログを始めた頃と比べるとどんどん長くなっている感じなのである。
 そういう時間は決して無駄とは思わないが、もっとスピード感を持ってササッと終わらせるようにしないと、もともと書くのは遅い方なので、そろそろ考えなくてはまずいかもしれないと思ったのである。そう思わせられるきっかけを作ったのがこの本ということになる。

 著者は1938年生まれというから、もう70も半ばを超えている人である。この人は冒頭で、70代は「まぎれもない老年」であって、「そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめ、本物の、それこそハンパじゃない老年が向こうからバンバン押しよせてくる」と書いている。60代というのは「ホンの短い過渡期」にすぎないとも。
 この本は、その「まぎれもない老年」の読書がどんなものなのか、どんなふうに行われているのかといったことについて、著者自身の日常や有名作家の晩年などを行き来して、まあ何と言うか、かなり開き直った(楽しい)エッセイ集なのだが、その70代までもうあと少しになってしまったわたしとしては、冒頭の一節(その断定)が思った以上にショックで、以後あまり心穏やかに読むことができなくなってしまったのである。

 わたしの身体に起こっている変調は、もしかするとまだほんの序の口にすぎないのかもしれない、これからどんどんいろいろな不具合が押し寄せてくるのかもしれないという、認めたくない部分をズバリ指摘されてしまった感じがあって、その認識をこれからはいろんなことの出発点にするしかないのだと、不本意ながら納得させられることになったのである。
 だとするとどういうことになるか。一日がかりで読書の記録をするのは、たぶんもうまずいことなのではないか。それよりも、その時間で次の本を読み始めた方がいいのではないか。読みたい本はまだ次から次へと出てくるのだから。
 記録することは無駄ではないが、要領良く済ませなければ本末転倒になってしまう。何しろ、老年というのはいつまで読めるか判らない状態の始まりだからである。

 これは焦りではない。焦ったところで、何がどうなるかは誰にも判らないのである。ただ、ついこのあいだまで身体の変調など考えもしなかったのに、それは確かにわたしのところにやって来てしまった。それなら、記録するより読んだ方がいいではないか。
 もちろん、読んだあとで感想を記録しておきたいという本はあるのだから、これは二者択一の問題ではない。あくまで感想はほどほどに、あるいはできるだけ簡単に書いておけばいいのではないかと思ったのである。根がダラダラした人間だから、できるかどうか判らないけどね。
by krmtdir90 | 2016-01-15 17:32 | 本と映画 | Comments(2)

「生きて帰ってきた男-ある日本兵の戦争と戦後」(小熊英二)

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 歴史となった過去の出来事を知るためには、われわれは言葉で書かれたものを読むしかない。写真やスケッチ(当事者によるもの)などが残っている場合もあるが、ほぼすべては言葉で書き表されたものから想像するしかない。
 だが、言葉で表せる事柄には限界がある。そこから想像しうる範囲というのもきわめて限られたものにすぎない。言葉でどんなふうに語られたところで、とうてい想像することのできない出来事というものがあるのだと思う。原爆の被災体験というのがそういうものだったし、シベリア抑留体験というのもそういうものだったと思う。

 シベリア抑留の全容については、戦後70年を経たいまも、まだよく判っていないことが多い。約65万人が抑留され、6万人以上が死亡したというのが一応の定説になっているようだが、そんな数字ではとても収まらないという意見も根強く存在する。
 シベリア抑留とは、降伏とともに武装解除された日本軍(関東軍など)の兵士らが、捕虜としてソ連軍に拘束され、シベリア各地の収容所に移送隔離され、長期にわたって劣悪な環境下で強制労働に従事させられたことを指している。これは武装解除した日本兵の帰還について保障したポツダム宣言9条に違反し、捕虜の待遇に関して定めたジュネーブ条約にも反するものだったが、抑留者の帰還に関する交渉が成立したのは1946年12月になってからで、実際に帰国事業が開始されたのは1947年になってからだったという(すべての帰国が完了するのは1956年である)。

 シベリア抑留によって多くの死者が出たのは、1945年から46年にかけての最初の冬の期間だったようだ。一口にシベリアと言っても、その場所は恐ろしく広範な地域に散らばっていたから、一概には言えないにしても、冬のシベリアの極寒はわれわれの想像をはるかに超えたものだったと思われる。マイナス30度とか40度とかいうのがどういう状態なのか、われわれの感覚や想像力は、とてもそんなところまで付いていくことはできない。
 しかも、この最初の冬というのはソ連側の態勢も全く整っておらず、衣食住すべての面で想像を絶する悪環境下に置かれたらしい。慢性的な飢餓状態・栄養失調状態で、衣服なども粗悪なものしか与えられていない状況で、たとえばマイナス30度を超す野外での作業などというものがどんなものだったのか、現在のわれわれにはとうてい想像できるものではないだろう。実感の伴わない無責任な想像などは、当事者に対して失礼と言うしかないではないか。

 それでも、われわれは言葉によってその事実を知る以外にない。
 3年の抑留生活を経て、シベリアから「生きて帰ってきた」一人の兵士がいたのだという。1925年生まれの小熊謙二というのがその人で、本書はインタビューによってこの人の体験をまとめたものである。この聞き手を務め、本書の著者となったのは謙二の息子である小熊英二、1962年生まれの歴史社会学者である。

 本書の特徴は、あとがきにも記されている通り、小熊謙二の「戦争体験だけでなく、戦前および戦後の生活史を描いたところ」にあると思う。380ページ近い本文の中で、シベリア抑留に関して述べられている部分は100ページほどに過ぎない。
 シベリア抑留というのはきわめて特異な体験には違いないが、本書はそれを予想以上に冷静に淡々と語っている。聞き書きという間接話法になっていることが大きいと思うが、小熊謙二という人と小熊英二という著者のそれぞれが持っていた資質も関係していたと思う。息子である著者は、あとがきの中で次のように述べている。

 ある意味で父は、淡々とした性格の持ち主である。悲惨な経験や、はた目には劇的な経過を語るときも、ロマンティシズムで色付けするようなことが一切ない。一貫して冷静かつ客観的に、ときにはユーモアをまじえて事実を語っていた。(中略)
 こういう性格の人物は、語り手としては信用がおける。しかし同時に、こういう人物が、自分の経験を書き残すことはめったにない。個人史を書き残す人間は、学歴や文筆力などに恵まれた階層であるか、本人に強烈な思い入れがあるタイプが多い。前者は一部の階層からの視点になるし、後者は客観性に欠ける傾向がある。父はそのどちらでもない。そして実際に、彼自身は、自身の経験についてほとんど何も書き残していなかった。

 小熊謙二という人は、書き残されたものが比較的多いという高学歴中産層ではない。小学校卒業後は中学(早稲田実業)に進んだが、1年3ヶ月も早く繰上卒業となり、会社員となって2年足らずのうちに徴兵され、19歳で陸軍二等兵となっている。
 帰国後は、5年近い結核による療養生活を経て、幾つかの職を転々とした後、高度経済成長下で一応の成功を収めた商業者ということになる。シベリア抑留という過酷な体験をしたとしても、受け身にそれを生き抜いた後は、それを書き残したりみずから語ろうとしたりすることなく、日々を生きることにいつの間にか紛れてきた一庶民なのである。
 そうした90年ほどの人生のすべてが俯瞰された時、4年ほどの戦争体験(うち3年ほどのシベリア抑留)というものが持った大きさが理解されるのだと思う。

 本書の中で、特に興味深かった章が2つあった。一つは第4章「民主運動」という章で、シベリア抑留の後半になって、収容所内で共産主義による一種の思想洗脳運動といったものが行われたらしい。ソ連側がどのように関与していたのかは定かでない部分も多いのだが、ソ連への忠誠を民主主義と称し、共産主義を学習して思想改造していこうとする運動で、抑留者の中に深刻な対立が生み出されたのだという。この運動に協力的でない者を反動分子として炙り出し、これを集団的に糾弾するつるし上げなどが日常的に行われるようになったらしい。
 これに積極的に関わることで待遇が良くなったり、帰国が早められるといった噂も作用して、抑留者の中には自発的に過剰な反応を示す者もいたらしい。抑留期間を生き抜く中で生じた不本意な暗部であったため、帰国後には多くの者が口を閉ざしてしまい、あまり語られることのなかった事実のようだった。小熊謙二氏はこの運動に距離を置き、できるだけ目立たないように、形だけの参加で誤魔化して過ごしていたようだが、その精神的に厳しく辛かった状況についても、客観的に淡々と証言している。

 もう一つの章は、第9章「戦後補償裁判」である。この経過について、ここで要約的に述べるのは非常に難しい。戦後、戦争犠牲者や被害者への補償問題は様々なところで提起されていたが、1988年になって、シベリア抑留者に対して日本政府が「慰労金」を出すという平和記念事業が実施されたようだ。当初、小熊謙二氏はこれを「ごまかしだ」として、受け取りを拒否していた。
 だが、たまたま同じ頃、同じ収容所にいた朝鮮系中国人の一人と音信が取れたことから、こうした朝鮮や中国の元日本兵には「慰労金」の請求資格がないことを知り、「朝鮮人を日本人として徴集しながら、現在外国人であるがゆえに支給しないのはおかしい」として、1990年にみずからの「慰労金」10万円を請求し、半額の5万円を「日本人としてのお詫びの気持ち」として彼の許に送付するのである。

 のちに(1996年)、この彼を含む5人の朝鮮系中国人元捕虜が、日本政府に対して損害賠償を請求する裁判を起こした。この時、小熊謙二氏は求めに応じてこの原告団に名を連ねることになるのである。インタビューでこのことを振り返る氏の言葉は、少しも気負ったところはなく、成り行きでそうなってしまったと言わんばかりである。だが、シベリア抑留が彼の中に消えることのない痕跡を残し、静かな怒りと使命感を生んでいたような気がして胸を打たれた。
 この裁判は最高裁まで行って、すべて請求棄却の形で決着するのだが、この一審の際に、小熊謙二氏が証言台で読み上げたという意見陳述書が掲載されている。ここに書き写すには長すぎるのでやめておくが(一部を切り取る気にはなれない)、一人の平凡な日本人の誠実さが滲んでいて心に沁みるものがあると思った。

 小熊謙二氏が抑留された収容所はチタ市にあったという。調べてみると、1月の月平均気温はマイナス25度、平均最高気温はマイナス18度、平均最低気温はマイナス33度で、マイナス40度を下回ることも珍しくないとあった。想像を絶する気候と言う以外ない気がするが、現在の人口は約30万人なのだという。
 去年の夏、シベリア鉄道で旅した時にチタ駅も通っている(停車している)のだが、あいにく深夜だったので記憶には全くないのである。
by krmtdir90 | 2016-01-12 20:25 | 本と映画 | Comments(0)

「居酒屋の戦後史」(橋本健二)

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 著者の橋本健二という人は、社会階層論・階級論といったことを専門とする社会学者のようだ。酒を愛し居酒屋を愛し、すでに「居酒屋ほろ酔い考現学」(2008年)という著書もあるようだが、わたしはこれを読んでいない。
 本書は昨年(2015年)12月に出たばかりの本で、書店の店頭で、戦後の居酒屋の変遷をたどった軽い読み物だろうと思って購入してきた。読んでみたところ、確かにそういう一面はあるものの、もう少しきちんとした観点を持った「戦後史」についての考察の本だった。著者の専門分野を反映して、酒と居酒屋という視点から戦後日本社会の歩みを振り返り、その階級社会・格差社会との関連について論じようとしていた。軽い読み物という基本線は保ちながら、一方に著者としての真面目な社会学的視点を設定しているので、読んでいていろいろ教えられるところも多かった。

 「居酒屋の‥」と題されながら、本書ではもう少し広範な視点から、どんな酒が、どんな場所で、どんな人たちに、どんなふうに飲まれていたのかといったことを、時を追って具体的にたどろうとしている。戦争末期の1945年初頭あたりに始まり、敗戦と戦後のヤミ市、そして復興期から高度成長期へと、酒と居酒屋をめぐって語られるあれやこれやは、実に多岐にわたり、非常に面白く興味深いものだった。
 戦後間もないあたりでは、密造酒カストリとはどういう酒で、どんな形で人びとに飲まれていたのかを紹介したところ。瓶からグラスに注ぐ時、受け皿にまでこぼすのが特徴だったという「アサヒグラフ」(1947年の号)の記事に注目し、「こうしたやり方はすでに昭和初期からあったようだが、ヤミ市時代に意地汚い飲んべえたち相手に広まったのだろう」と述べている。この「昭和初期」の根拠としているのが井伏鱒二のエッセイだったりと、著者の多方面への目配りが窺えるものになっている(なお、酒を受け皿に溢れさせるこうした供し方は、いまもあちこちの居酒屋で行われているが、品がないし、わたしとしては即刻やめるべき風習だと主張しておきたい)。

 なぜ豚を焼いても「やきとり」なのかを問題にした項では、結局その由来に決定的な答えは得られないものの、戦後のヤミ市が「やきとり屋」というものを、酒(カストリ)とやきとりを結びつけた居酒屋の一形態として、広く大衆に受け入れられる形に定着させたとして、「やきとり屋はおそらく、戦後日本でもっとも成功した飲食店のビジネスモデルのひとつだろう」と述べるあたりも面白い。戦後の一時期、「やきとりキャバレー」なるものがあったというのも驚きだった。
 こうした戦中から戦後のありさまを、「文士と酒」という視点で紹介した章が間に挟み込まれていて、これもなかなか興味深かった。取り上げられている「文士」は、高見順、山田風太郎、古川ロッパ、徳川夢声、坂口安吾、そして内田百閒の6名である。いずれ劣らぬ酒豪揃いで、入手困難だった酒を求めて彼らが右往左往するさまを鮮やかに描き出していて、何とも楽しかった。
 こうした記述の間に、「戦争に反対しなければならない理由はいくつもあるが、酒飲みにはさらに、強力な理由が加わるといっていい。なぜなら、戦争とは酒が自由に飲めなくなることだからである」といった一節がさりげなく加えられていたりするのも、この著者の面目躍如といった感じがした。

 戦後復興期から高度成長期にかかるあたりでは、経済格差の問題が様々なところに顔を出すようになってくる。
 復興期、清酒の生産回復は遅れた。原料となる米が流通を厳しく統制され、最優先で食用に回されてしまったためである。酒米の不足を補うため合成酒などが幅をきかせ、醸造用アルコールに頼って質の低下を招いていた。代わって人びとの間に急速に普及したのがビールだったという。戦前は高級品だったビールが、戦後の酒不足の中、配給品として全国の家庭に広まったようである。
 高級品だったウイスキーは、戦後にサントリーが発売したトリスによって大衆の中に浸透していった。ハイボールという飲み方が普及したのもこれからである。そこから、最も庶民的な酒であった焼酎のハイボール、酎ハイが誕生したというあたりも興味深い。

 人びとの経済格差によって飲む酒が異なるというのは、たぶん昔も今も多かれ少なかれそういうことがあったのだろうが、著者によれば1974年というのが、日本の経済格差が近現代史を通じて最も小さくなった時期だったという。いわゆる「一億総中流」と言われた時代だが、所得階層別の酒類消費額というグラフでそのあたりを確認するのは、この本の誠実で興味深いところである。様々な酒が人びとに広く飲まれるようになり、著者は「高度成長は、日本の酒文化を大きく変えた」と述べている。
 そうした一方で著者は、「豊かな階級の人びとが、自分たちの豊かさと趣味の良さを誇示するために、高級品を消費する」「みせびらかしのための消費(衒示的消費)」というものが存在していたことを紹介している。自動車ならば、「富裕層はベンツ、その少し下になるとクラウンやセドリック、管理職クラスはコロナやブルーバード、普通のサラリーマンはカローラやサニー、といった具合」である。ウイスキーで言えば、ジョニ黒・ジョニ赤に代表されるスコッチウイスキーを頂点に、国産の(サントリーなら)オールド→角→ホワイト→レッド→トリスといった序列が、人びとの生活感の中に存在していたと述べている。
 就職したばかりだったわたしの記憶の中に、確かにそういう感覚があったことを思い出して、何とも複雑で懐かしい気分になった。

 本書ではその後、いわゆるチェーン居酒屋の台頭、地酒ブームと日本酒の復活、名酒居酒屋の誕生といった流れをたどった後、酒と居酒屋の現在の状況がどうなっているかを俯瞰的に考えている。終章のタイトルは「格差拡大と『酒格差社会』」となっている。現状はきわめて危機的な状況が生まれていると著者は主張している。懐かしい写真などが配されていたここまでと違って、この章では様々なグラフや表などを駆使して、著者は真正面から「格差大国・貧困大国」となってしまった日本の現況を問題にしているのである。
 この章に至って一気にギアが入った感じで、その語り口もきわめて熱いものに変化している。様々な問題が指摘されているが、酒税法を問題にするその舌鋒はとりわけ鋭い。「現代の日本の酒税法は、富裕層に有利に働き、貧困層から中間層に不利に働くという、逆進的な性格を持っている」という指摘。また、「日本のビールにかけられている酒税の税率は、国際的にみると異常といっていいほど高い。主要欧米諸国の10倍前後にも達しており、比較的高い英国と比べても約2倍である。このことが、ビール市場、いや酒市場全体を歪めている」、このため「ビール風アルコール飲料のような、本来は不要のはずの商品が成立している」ことの矛盾。

 この終章を読んで、わたしはこの本の感想文をこのブログに載せなければならないと思った。わたしは酒飲みとしてはささやかな酒飲みにすぎないが、酒を愛する点では人後に落ちないと自負しているからである。
 終章の終わりあたりから、少し長くなるが、著者の危機感に共感する部分を書き抜いて終わりにしたいと思う。

 近年の日本では、格差拡大によって中流層の分解が進み、人々は酒に親しむことのできる階級とできない階級へと隔てられつつある。日常的に良質の酒を飲むことのできる人とできない人。居酒屋へ行くことのできる人とできない人。そんな分断線が、人々の間に引かれるようになっている。

 格差拡大は、酒を相対的に豊かな一部の人々のみのものに貶め、酒消費を減退させ、酒造業界と居酒屋業界を困難に陥れる。
 酒文化は、長い歴史のなかで形成され、守られてきた。しかし酒文化は、最終的なところでは酒の飲み手に支えられている。酒の飲み手が減少すれば、衰退は避けられない。(略)若い男性が酒を飲まなくなったことの影響は大きい。
 酒は嗜好品だといったが、他の嗜好品と違うのは、さまざまな社会的機能を持っていることである。酒は人々に安らぎを与える。人と人のつながりを作り出す。人々の集う場に彩りを与える。食文化を支え、豊かにする。酒文化が失われれば、こうした社会的機能も失われる。酒文化の危機は、社会の危機でもある。

 何を大袈裟なと、言いたい奴は言わせておけ。生活に余裕のない、ギスギスした社会が目前に来ているではないか。著者の次の「提案」は、この上なく真剣で切実な提案だと思う。この提案を裏付けるために、著者は戦後の「酒」と「居酒屋」が、人々にとってどんなに大切なものであったかをたどってきたのだと思う。

 ここで私は、酒を楽しむことは人権の一部だと考えることを提案したい。人権の一部だというのは、日本国憲法第25条の表現を用いれば、「健康的で文化的な最低限度の生活」に含まれるということである。すべての人に保障されるべき生活水準の範囲内に、酒が含まれるということである。
 すべての人に保障されるべき生活水準からこぼれ落ちることを、貧困という。だとすると、酒が人権の一部だというのは何を意味するか。飲みたい酒を飲むことのできない状態は貧困であり、貧困の定義のうちに含まれるということである。
「誰でも酒を楽しむことのできる社会を」
 これは、また豊かな酒文化を守り育て、安定した社会を維持するための要求であるとともに、人権保障の要求である。

 格差は、政治的な争点である。格差拡大によって利益を得る人々と、生活困難に陥る人々の間、格差が拡大してもいいと考える人々と、そう考えない人々の間で、繰り広げられる政治闘争の争点である。酒好きであるならば、この闘争に参加する資格がある。いや、酒を本当に愛するなら、参加する義務があるといっていい。

 酒と居酒屋についてあれこれ語った本の最後が、こんなに熱い言葉で閉じられるとは思ってもみなかった。酒飲み必読の書ではないだろうか。
by krmtdir90 | 2016-01-11 18:25 | 本と映画 | Comments(0)

修善寺温泉(2016.1.5・6)

 今回は末の娘を誘って3人で伊豆の修善寺に行って来た。
 三島から修善寺に向かう国道136号の途中で、世界文化遺産・韮山反射炉というのが近いと表示されているのを見つけ、ちょっと寄り道をした。
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 この反射炉が「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録されたのは昨年(2015年)7月のことである。その効果は大きいのだろう、観光バスなども次々立ち寄って、さすがにたくさんの見物客が訪れていたが、何と言うか、見学対象としてはまことにあっけないと言うほかない感じがした。
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 竣工は1857(安政4)年で、周囲には大砲を製造する工場が作られていたらしい。なお、煉瓦の煙突の周囲に付けられた鉄骨フレームは、耐震補強のために後年設置されたもののようだ。

 さて、今回宿泊したのは湯回廊菊屋(旧菊屋旅館)という、修善寺でも最も歴史のあるらしい宿だった。夏目漱石の「修善寺の大患(たいかん)」の舞台になった宿がここだったというのは、宿泊してから初めて知った。

 漱石は1910(明治43)年8月6日、胃潰瘍の転地療養のため修善寺の菊屋旅館を訪れ、10月11日に帰郷するまで2ヶ月あまり滞在したようだ。ただ8月24日には病状の悪化から大量の吐血があり、一時人事不省の危篤状態に陥っている。宿にしてみれば、あの文豪・夏目漱石が逗留した宿というのは大きなセールスポイントのはずだが、その内容が生死の境を彷徨うような「大患」の期間であっては、やや扱いに苦慮しているところがあるように思われた。
 漱石が滞在中、その大半を過ごした(大吐血をした)部屋は、現在は温泉街から離れた虹の郷というところに移築され、夏目漱石記念館の一部となっているらしい(今回、ここには行かなかった)。宿の中には、宿の歴史に関するちょっとしたコーナーがあって、漱石のこともそこに簡単に展示してあった。
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 宿の帳場。
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 正面玄関(突き当たり)から帳場(手前右手)に通ずる通路(ロビーのような感じになっている。通路自体は温泉街を流れる桂川の上を跨いでいる)。
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 宿は、いろいろな建物(2階建てまで)が敷地の中に散らばり、それが回廊でつながれた構造になっていた。古くからの宿が、増築や改修などを繰り返して現在の館内の形になっているようだった。
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 この突き当たりに漱石の庵と名付けられたサロンのような部屋があり、自由にコーヒーなどを淹れて寛げるようにしてあった。
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 翌日、10時過ぎにチェックアウトした後、やや離れた駐車場の車に荷物を入れてから、一時間ほど修善寺散歩をした。散策マップによれば、修善寺はミシュラン・グリーンガイド・ジャポンというもので2つ星を獲得したところが3箇所あるらしい。
 その1、竹林の小径。
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 その2、指月殿(しげつでん)。
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 この地で暗殺された源頼家の冥福を祈り、母北条政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆半島で最も古い木造建築と言われているらしい。
 堂内に安置された釈迦如来座像。
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 指月殿の左手に源頼家の墓があった。
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 その3、修禅寺。
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 弘法大師空海が807(大同2)年に開基したと伝わる古刹である。
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 境内の手水舎(ちょうずしゃ)は弘法の湯と名付けられ、温かい温泉が流れ出していた。
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 なお、温泉街など現在の地名は修「善」寺だが、寺の名前は修「禅」寺だった。

 昼食は沼津に回り、沼津港魚市場の隣に食堂や海産物の店が建ち並ぶ一画で、お刺身のいっぱい載った丼を食べてきました。
by krmtdir90 | 2016-01-07 14:54 | その他の旅 | Comments(0)

「戦後入門」(加藤典洋)

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 新書とはいえ600ページを超える大著である。歳末から年を越しての読書になってしまった。筋道立った非常に明快な文章で書かれているので、内容的に一気読みという感じにはならなかったが、大変興味深く最後まで読み通すことができた。年頭にいい本と出会うことができたと思ったが、現状認識に関してはますます暗く重い気分にならざるをえなかった。

 「戦後入門」とは、読み終えた後ではなるほどそういうことかと納得できるが、本を手に取る段階ではなぜ「入門」と断るのかがよく判らず、最近の新書によく見られるサブタイトルもついていないので、内容をイメージしにくい書名だと思った。
 「沖縄現代史」のように、日本の「戦後史」を客観的にたどるのかと思ったらそうではなかった。「はじめに」で著者は、「この本では、日本の戦後について、それがどこからはじまり、どういう問題をはらみ、この戦後という空間から脱するのにどうすることが必要なのかについて、全方位的に考え抜き、論じています」と記している。「こういう本は、これまでなかったのではないか」とも書いている。日本の戦後というものを考えるにあたり、どのような基礎知識・基礎認識が必要なのかを丁寧に明らかにし、それらをどのような道筋で考えればいいのかを明らかにしようとした点で、これは確かにこれまでなかった「入門」の書になっていると思った。

 著者には本書以前に「アメリカの影」「敗戦後論」といった「戦後」に関する論考があったようだが(わたしはそれを読んでいない)、本書はそれらの内容を引き継ぎ、戦後70年という「現在」に立ってその論点を深化させたものになっているようだった。著者の現状認識の一端は、同じく「はじめに」の中で次のように述べられている。

 戦争に敗れてから70年もたって、なお戦後70年ということが問題になるのは、その「戦後」が終わっていないからです。誰にも否定できないその明らかな証拠が、いま、沖縄の米軍基地を主権者である私たちが、自分たちの意向通りに動かせない事実として、私たちの前に差しだされています。
 米国とのあいだの従属的な関係からいまだ脱することができず、そのことの裏返しの現象として、現在もなお、東アジアのうちのいくつかの国、特に中国、韓国と堅実な信頼関係を打ち立てることができない。そればかりか、みっともないヘイトスピーチなどが、盛んです。
 こういう末期的な状態は、いつまで続くのでしょうか。そして終わるとしたら、それはどのようにしてでしょうか。もし終わらないとすれば、30年後、私たちはなおも、戦後100年、といっているのでしょうか。

 本書は、戦後70年という「現在」への著者の深い絶望から端を発していると思った。だが、本書の中ではその絶望は見事なくらい消えている。その気配すら感じることはできない。一定の反省はあるものの、本書全編に漂うのは一貫して建設的で論理的な「明るさ」といったものである。様々な立場や思惑が複雑に絡み合い、出口なしの袋小路に陥っているかに見える「現在」において、突破口への手掛かりを探り、整理し、問題を解き明かしていく作業のワクワクするような「明るさ」が、わたしには不思議なほど新鮮で面白かった。
 日本の「戦後」について考えるために、日本の「戦後」に「入門」するために、本書は「第1部・対米従属とねじれ」において一定の問題提起を行った後、何と第一次世界大戦まで遡って考察を始めるのである。これは驚きだったが、これがここにこういうふうに結びつき関連し合っているというような解き明かしは、実に論旨明快で解りやすいものになっていると思った。歴史とは事実の羅列ではなく、事実相互の関係性を明らかにすることで生きたものになるのだと、具体的な例で示してくれていると思った。こういうふうに語られたら、面白くないわけがない。

 その筋道をここに詳しくたどり直すことはしないが、「世界戦争とは何か(第2部)」という表題の下に考察される第一次世界大戦、そして第二次世界大戦のつながりと、そこから抽出される問題への筆者の視点の鋭さ、さらに「原子爆弾と戦後の起源(第3部)」へと続く中で明らかにされる様々な事実は、なるほどこれが戦後への「入門」になるのかと納得させられた。日本の「戦後」というものが、そこまでの歴史的事実の積み重ねから、避けようもなく、どのようなものとして規定されていたのかということが、非常に解りやすく描き出されていると思った。
 とりわけ、第3部で述べられている原爆投下に関わる経緯をどう解釈すべきかという点は、不勉強なわたしなどには目を開かされる部分が多々あったと思う。原爆使用の人道的責任を問われないようにするために米国には無条件降伏という形が必要だったというところ、そのために本来無条件降伏ではなかったポツダム宣言受諾が米国によって歪められていく過程など。日本人として、知らなかったでは済まされない重大な事柄だったと忸怩たる思いがあった。

 この3部までで本書はすでにページ数の半分以上を費やしている。だが、続く「第4部・戦後日本の構造」に費やされたページ数は少ない。本書が「戦後入門」を名乗った所以だろう。「入門」部分で跡付けられた事柄から「戦後日本の構造」は必然的に炙り出されるものだったからである。結局、対米従属と基地問題、そして憲法9条をどう考えるのかという問題に、日本の「戦後」は収斂していくしかないのである。
 ただし、この章を含む前後に述べられている、日本国憲法の戦争放棄と当時発足直後だった国際連合の目指す理念とがリンクしていたということなども、わたしなどは恥ずかしながら初めて知る事実だったことを告白しなければならない。この点を著者は、「戦後」の歪み(ねじれ)を解消する重要な糸口になりうると考えているのである。

 終章となる第5部は「ではどうすればよいのか-私の9条強化案」という、ここまでを踏まえたリアルな提言の章として書かれている。その内容は別にして、この書き方にわたしは、この筆者の「戦後」に対する誠実な姿勢を感じるのである。「戦後」というものを解き明かし、その問題点をここまで明らかにしてきた以上、そのまま言いっぱなしで終わりにすることはできない。著者が提起するのは、「国連中心主義」「日本の『誇り』としての平和主義」といったものに基づく「9条強化案」である。
 憲法9条を建設的に改正することで、「戦後」の諸問題を一括的に解決する(止揚する)というのが提案の核心なのだが、もちろんそこには、そこに至る著者の思考過程の詳細な理論付けがなされている。恐らく批判などというものは、その気になればいくらでもできるものなのかもしれないが、わたしはそういうものを恐れず具体的提案を行ってしまう積極的な姿勢を貴重なものだと感じる。そういう建設的で「明るい」姿勢こそが、たとえ困難であっても、現状打開への一つの手掛かりを開いていくものだと感じる。

 それはわたしなどには、なるほどと首肯させられる説得力を持ったものだと思われたのである。本来、その一字一句にはすべてきちんとした裏付けが付されているのだが、ここではその過程は省略して、結論となる「改正案」の全文だけを書き抜いておくことにしたい。憲法の条文としては若干生硬な部分もあるように思うが、その言わんとするところについては、どのような立場に立つとしても、たぶん一考に値する内容を持った提案だと思う。

9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、以上の決意を明確にするため、以下のごとく宣言する。日本が保持する陸海空軍その他の戦力は、その一部を後項に定める別組織として分離し、残りの全戦力は、これを国際連合待機軍として、国連の平和維持活動及び国連憲章第47条による国連の直接指揮下における平和回復運動への参加以外には、発動しない。国の交戦権は、これを国連に委譲する。
3、前項で分離した軍隊組織を、国土防衛隊に編成し直し、日本の国際的に認められている国境に悪意をもって進入するものに対する防衛の用にあてる。ただしこの国土防衛隊は、国民の自衛権の発動であることから、治安出動を禁じられる。平時は高度な専門性を備えた災害救助隊として、広く国内外の災害救援にあたるものとする。
4、今後、われわれ日本国民は、どのような様態のものであっても、核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず、使用しない。
5、前4項の目的を達するため、今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可しない。

 著者・加藤典洋はこの9条私案を考えるに際して、「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」の著者・矢部宏治氏の提起に大きな示唆を受けたと書いている。この本はわたしも以前このブログで取り上げたことがあるが、確かにこの書でも最後に矢部氏としての「9条強化案」が掲載されていた。両者の「戦後」に対するアプローチの仕方は全く異なるが、問題解決に向けた基本的方向性はほとんど重なっていたことは興味深い。
 いずれにせよ、こうしたかたちで日本の「戦後」を終わらせるための本質的な論議が、いまほど必要になっている時はないのではないかと思う。戦後70年の大半を生きてきてしまったわたしには、いまとなっては遅ればせながらと言うほかないが、現役世代にぜひ一読してもらいたい本だと感じた。
by krmtdir90 | 2016-01-04 22:21 | 本と映画 | Comments(2)

ももクロと月を見ながら年越し

 別にわたしはモノノフというわけではないが、映画「幕が上がる」に出演したことから、ももいろクローバーZの5人には何となく親近感のようなものを感じていた。その彼女たちが紅白歌合戦に選ばれなかったことは、NHKの無定見と質の低さを露呈したものだと思ったが、昔から紅白に出られる人気がありながら「出ないから選ばないで」と宣言する歌手はいたし、ももクロもこの先もうあんなものには出ない方がいいという気がした。
 代わりにカウントダウンライヴ「ゆく桃くる桃」というのが実現し、その一部を(23~25時)テレビ埼玉が生中継することになったという。もともと紅白にはほとんど興味がなかったし、今年は23時になったら自分の部屋のテレビで見てみようと思った。それにしても、テレビ埼玉はいいセンスをしているのではなかろうか。
 わたしはモノノフではないから、見たところで「なるほど、こんなふうにやるのか」という程度の印象に過ぎなかったが、映画でも歌われていた「走れ!」はいい曲だなと思った。

 そんなわけで今年は、紅白が終わるのを見計らって例年見ていた「ゆく年くる年」も見ない年越しになった。ももクロの5人が「あけおめ~」などと騒いでいるのを横目に、ふとベランダの外を見たら東の空に月が出ていた。下弦の月の一歩手前という感じで、せっかくだから撮影してみることにした。

2016年1月1日(金)0:13撮影(月齢20.1)
e0320083_16444599.jpg
 半分ぐらい欠けた時というのが、闇との境目に(地形的に)最も多くクレーターが並ぶので、見応えのある月面写真が撮れるのである。なお、月齢は31日21時のものを採用した。

 見ると、月のすぐ左側に明るい星が光っていた。写るかなとシャッターを切ってみたら、ちゃんと写っていた。調べてみたら木星だった。1月1日(金)0:14撮影。
e0320083_16452360.jpg

 最後にテレビ画面のももクロを写してみた。1月1日(金)0:38撮影。
e0320083_16461058.jpg

 というわけで、2016年になってしまった。今年もよろしくお願いします。
by krmtdir90 | 2016-01-01 16:45 | 日常、その他 | Comments(2)


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