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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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北海道新幹線と引き換えになったもの

 きょう(3月26日)、北海道新幹線が新函館北斗駅まで開業したというので、新聞やテレビのニュースなどが頻繁に取り上げている。JR北海道は文字通り新幹線開業一色になっているが、この日から実施されたダイヤ改正で、それと引き換えに在来線の普通列車などが大幅に削減されたことは、あまり積極的にアナウンスされてはいないようだ。
 たとえば、札沼線の浦臼・新十津川間は、これまでも上下各3本しか運行されない閑散区間だったが、とうとう上下各1本と限界まで削減されてしまった。浦臼09:06→09:28新十津川09:40→10:01浦臼。これだけで一日の運行が終了となってしまった。新聞によれば(毎日新聞・昨日の朝刊)、JR北海道全体で普通列車約15%(79本)の削減が行われたという。宗谷本線では、幌延・稚内間で下りが5本から3本に、上りが5本から4本に減らされてしまった。
 とりあえず、ここしばらくはお祭り騒ぎが続くのかもしれないが、本当に新幹線を北海道まで延伸させることが良かったのかどうかも含めて、少し立ち止まって考えてみる必要があるような気がする。

 一つは、保有する在来線の大部分が赤字路線で、毎年約400億円の営業赤字を計上しているJR北海道という会社の、経営基盤の極端な脆弱さをどう考えるかという問題がある。国からの経営安定基金を始めとして、様々な政策的支援によって辛うじて存続させられている会社が、この上新幹線を支え切るだけの体力があるのかどうかという問題である。
 ここ数年に連続した事故や不祥事から明らかなように、すでにギリギリまで経営合理化を推し進めてしまった弊害が、安全面に対する不安として露呈したまま、解決したとはとても言えない状況なのである。そこに、さらに高い安全への配慮が求められる新幹線開業が加われば、在来線に掛けることのできる要員や予算を減らしていくしかないのは明らかなのではないだろうか。今回のダイヤ改正で行われた普通列車の削減は、その第一歩と考えるしかないように思う。

 これはほんの始まりに過ぎないことを忘れる訳にはいかない。歪んだ経営基盤が根本的に是正されない限り、JR北海道が最終的に行き着く先は、札幌までの新幹線と札幌近郊の僅かな黒字路線のみを残し、それ以外の鉄道路線はすべて失われた北海道の姿になりはしないかと危惧するのである。
 2016年度中に廃線にする方向で調整中の留萌本線、留萌・増毛間は、今回のダイヤ改正では運行本数の削減は行われなかった。どうせ廃線にするのだから、無理に手をつけることはないということだったのだろうと推測(邪推?)してしまう。また、2015年1~9月に発生した土砂流失などで不通になった日高本線、鵡川・様似間は、依然としてバス代行輸送を継続するばかりで、JR北海道はすでに自力復旧を断念しているとも伝えられている。

 今回の開業に併せて、並行在来線の江差線、木古内・五稜郭間は、きょうから道南いさりび鉄道株式会社という第三セクターに経営移管された。同時に運賃の値上げも行われたはずだが、果たしてこの先経営が成り立っていくかどうか、予断は許さないだろうと思う。
 新幹線が札幌まで到達するのはまだ十年以上先だが、その時には並行する函館本線の長万部・小樽間は、第三セクターでの存続も難しい区間のように思えてしまう。今回のダイヤ改正でこの区間の普通列車は、下りが7本、上りが5本から、いずれも4本まで削減されているのである。
 結局、運行本数の削減は廃線に向けた地ならしにしかなり得ないのではないだろうか。沿線住民にも観光客にもきわめて利用しにくい(利用のしようがない)ダイヤを作り、まるでアリバイ作りのように普通列車を走らせるというのは、そこに何一つ生産的な意味合いを見出すことができないと思う。早さを競うだけが至上価値となってしまったJRグループにとって、最悪の赤字を垂れ流すJR北海道が生き残る道は、どんどん閉ざされていくしかないのである。

 今回のダイヤ改正ではもう一つ、利用実態のほとんどない8つの駅が廃止されてしまった。周囲の人家が全く失われてしまった状況下では、駅の廃止というのは時の流れとして仕方がないのは理解できるが、実際になくなってしまうというのはやはり寂しいとしか言いようがない気がする。この中には、去年の夏に車で回った石北本線の上白滝・旧白滝・下白滝の3駅も含まれていた。JR北海道自身が、これは手始めで該当する駅はまだ他にもあるとコメントしているらしい。
 だが、どうせ開業したとしてもほとんどがトンネルになってしまう新幹線と違って、北海道の在来線が持っている様々な鉄道施設、他では考えられない風景のスケールや秘境感といったものは、失われるに任せてしまうにはあまりに惜しいものばかりではないだろうか。

 いま改めて考えるべきなのは、JR東海が飯田線で飯田線秘境駅号を臨時運行したり、JR九州がいさぶろう・しんぺいで肥薩線の木造駅舎やスイッチバックを生かしているように、秘境駅や木造駅舎は素晴らしい可能性を秘めた観光資源なのだということである。そういうものについて考えていく余力が、JR北海道単独では見出せないのが残念なのである。
 今さら言っても詮ないことかもしれないが、どうやったところで所要時間では航空機に負けるしかない新幹線ではなく、本当は青函トンネルには在来線列車を残し、JR東日本とJR北海道が共同して多様な列車を走らせることが最良のかたちだった気がしてしまう。新幹線と引き替えにしてしまった道南いさりび鉄道も、東北のIGRいわて銀河鉄道や青い森鉄道も、JRの在来線として残して置けば、ずいぶんいろんな可能性が広がったのではないかと思うのである。

 削減したり廃止したりするところからは、何一つ創造的な未来は考えられなくなってしまう。赤字路線であることは厳然たる事実だとしても、経済の論理だけですべてを決着させてしまったら、後にいったい何が残ると言うのだろう。この新幹線のためにすでに、われわれは夜行列車で北海道に行くという素晴らしい選択肢を失ってしまったのである。鉄道にはいろいろな選択肢を残すべきだし、そういうところに国は思い切った予算を使うべきなのではないだろうか。
 北海道新幹線のバカ騒ぎの陰で、JR北海道という鉄道会社の矛盾や問題点が湖塗され、より深みに嵌っていこうとしていることを見過ごすことはできない。どういう経緯か知らないが、秘境駅ランキング第1位の小幌駅(室蘭本線)を始め、多くの魅力的な駅の廃止が今回は見送られたところに、JR北海道に残っているかもしれないほんの僅かな希望を見出したいと思っている。新幹線を今さらやめろと言っても無理ならば、新幹線建設と同時にいまある在来線を活用していく方向を、JRグループとしてきちんと打ち出さなければならない時が来ているのではないか。鉄道会社としてのそういう矜恃を、心から期待するものである。
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by krmtdir90 | 2016-03-26 22:41 | 鉄道の旅 | Comments(4)

映画「ストレイト・アウタ・コンプトン」

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 わたしは基本的に、音楽には疎い生活を送って来た者である。
 だから、ヒップホップとかラップといったものについて事前知識は全くなかった。ただ恐らく、疎かった分、どんなジャンルの音楽に対しても変な先入観や偏見を持つこともなかったのではないかと思う。ずっと若い人たちと接する仕事をしてきたから、若い音楽や文化に対しても広い許容範囲を持つことができたと思っている。
 だから、この映画の客席には不釣り合いのオジンだったかもしれないが、個人的にはこの内容に全く違和感もなく楽しむことができた。音楽としては当時(たぶん今でも)非常に危険なものだったはずだが、その過激さがすんなり理解できたし、歌詞や演奏に共感できる部分も多かったと思う。激しい映画だが、映画としての描き方は意外なほど落ち着いたものだったと感じた(監督/F・ゲイリー・グレイ、アメリカ映画、147分)。

 この映画は、全米でも最も治安の悪い町の一つと言われるカリフォルニア州コンプトン(ロサンゼルスの南に隣接する町のようだ)で、1986年に結成されたN.W.A.という実在のラップグループを描いている。コンプトンの町に育った5人の黒人の若者が、N.W.A.を結成して成功への道を歩んでいく前半から、名声を得てからの分裂と再会を描く後半、そしてメンバーの1人の死まで、きわめてリアルなドキュメンタリー的描写を積み上げていく。
 実際にN.W.A.というグループがたどった軌跡をかなり忠実に追っているようだ。だが、ファンだった人たちには自明のことだったかもしれないが、彼らを全く知らなかった者からすると、後半の挫折とか争いといった人間関係の軋みの部分は、若干判りにくいところがあったのは事実である。しかし、背景となる警官の横暴とか黒人への人権無視というようなことが的確に描かれていたので、彼らの音楽と存在そのものが社会現象になっていく過程は非常によく理解できた。

 彼らの歌う歌詞(リリックと言うらしい)の過激さが、コンプトンという町での彼らの生の実感から出たものであり、それが彼らの想像をも超えて観衆の中に広がっていく様子は、まあ一種の成功物語には違いないのだが、十分に納得できるものだと思った。一切の禁句を持たない彼らの言葉(放送禁止用語の連発である)が、理不尽な暴力や抑圧に対する強烈な武器となっていくところに、ラップという音楽手法の大きな可能性を見る気がした。
 5人して、警官たちから言われない暴力を受けた直後に、その怒りを直接的にラップにしてレコーディングしてしまうシーン(「ファック・ザ・ポリス」という曲)は痛快だった。ふつふつと湧き上がる怒りが一気に迸る感じがした。
 警察からコンサートでこの曲を歌うことを禁止され、それにもかかわらず堂々と歌って警察に逮捕されるシーンなども、どう考えても警察の横暴であり不当逮捕なのだが、それを白日の下に晒してしまう音楽の力を逆に感じさせられるシーンになっていた。

 1992年のロサンゼルス暴動を想起させる映像が挟み込まれていたが、彼らの音楽が、黒人差別や警察権力への市民の怒りに火を点けた一面があった(一つの大きな力になっていた)のは明らかなのだろう。
 チラシの解説には「N.W.A.は警察、そしてFBIからも目をつけられる“世界で最も危険なグループ”へと成り上がった」と書かれていたが、5人を決してヒーローにするのではなく、様々な屈折や弱さなども持った等身大の人間として描き出し、背景となる様々な事実や人物も丁寧にフォローすることで、この映画はしっかりとした骨格を持った「青春映画」(何とも古臭い言い方で恐縮だが)の一本となり得ていたと思う。

 1980年代の終わり頃というのが、まだCDやパソコンの時代ではなく、レコードによるDJとカセットによるデモテープの時代だったことが判って懐かしかった。携帯電話も出てきたが、これが最も初期のころの非常に大きなものだったのが可笑しかった。
 それにしても、これまで全く知らなかったラップやヒップホップカルチャーといったものに触れることができて面白かった。彼らの歌ったラップは「ギャングスタ・ラップ(チンピラのラップとでも訳すのだろうか)」と呼ばれたことも初めて知った。「チンピラ」と言うか、凄い「反骨精神」があったものである。
by krmtdir90 | 2016-03-22 17:27 | 本と映画 | Comments(0)

常磐線の旅③不通区間は代行バスで(2016.3.17)

 昨日は終日曇り空の肌寒い一日だったが、この日は一日中よく晴れて暑いくらいだった。朝のいわき駅(偶然人影が全く途絶えた)。
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 いわき駅8:50発、常磐線・下り竜田行きが入って来た。415系交直流電車、4輌編成。
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 この日はいよいよ、不通区間を代行バスで乗り継いで行くことになる。事前にインターネットで代行バスの運行時間を調べた。時刻表などには「代行輸送は列車との接続は行っていません」と書いてあるが、これはバスに遅れが出た時の言い訳で、両者の時間設定を見れば、それなりの接続が考慮されているのは判るのである。
 不通区間は2カ所だが、最初に通過しなければならない竜田・原ノ町間が問題だった。この区間は福島第一原発の事故による不通区間で、放射能に汚染された地域を横切らなければならないから、代行バスが運行されているとはいえ、実際どういうルートを通るのか不安もあった。ルートは判らなかったが、時間の方は判った。両駅間の直通運転で一日2往復だけだった。
 下り・竜田→原ノ町は、9:35→10:50と20:10→21:20の2本である。この「9:35→10:50」という時間が、今回の計画の出発点になった。このバスに乗るためにいわきでの一泊が必要になり、8:50発の上記の列車に乗ることが必要だったのである。

 さて、広野駅で昨夜の不気味なビルの正体を確認。
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 正体と言っても結局よく判らないのだが、何か復興の起点となる公的な建物が建てられているような気がした。
 左に目をやると、盛り土された部分(防波堤?)の向こうに僅かに水平線が見えていた。
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 走行中の車窓の眺め。海が近付くと、どこも工事中だった。
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 これも車窓から。放射能に汚染されたいわゆる指定廃棄物の保管場。
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 遮水シートの下にフレコン(フレキシブルコンテナ)と呼ばれる黒い袋が大量に並んでいるはずだ。これはこのあと、あちこちで見かけた。
 調べてみると、指定廃棄物とは1キログラムあたり8000~10万ベクレルの放射性物質汚染廃棄物を言い(このベクレルというのがまたよく判らないのだが)、環境省のホームページでは「原子力施設で発生する廃棄物の放射能濃度と比べて、はるかに小さいものです」と、大したものではないことを懸命に強調している。

 9:23、竜田駅着。
 線路はさらに先の方に続いているが、行くことはできないのである。
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 竜田駅は元々2面3線の駅だったようだが、島式ホームの外側の1線(左)だけが生かされているようだ。跨線橋は閉鎖して、直接駅舎に行けるような通路が作られていた。
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 駅舎の右手に見えているのが代行バスのようだ。
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 竜田駅は双葉郡楢葉町にあり、現在はJR東日本ステーションサービス委託の業務委託駅になっているようだ。
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 ここでも、出札窓口の上に空間線量率の電光掲示があった。
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 昨日降りた広野駅より高い数値を示している。昨日と同じようにかけ算をやってみる。0.148×24=3.552(1日)、3.552×365=1296.48(1年・単位はマイクロシーベルト)。年間で約1.3ミリシーベルトになるようだ。いつの間にかこの国の安全基準として一人歩きしている20ミリシーベルトという被曝限度値で考えれば大したことはないと言うのかもしれないが、国際放射線防護委員会(ICRP)発表の一般人の限度値1ミリシーベルト(これが世界基準であり、わが国も事故前はずっとこの値を採用していた)を思えば、限度を超えていることは明らかなのである。
 わたしのような一時的に通過するだけの人間には影響はないかもしれないが、ここでずっと生活していくことを想定すれば(子どもも含めて)、不安を感じる人がいるのは全く自然なことだと思う。

 楢葉町について調べておくと、原発事故直後は町の大半が半径20キロ圏内にあったため、警戒区域に指定され全町避難を余儀なくされた。その後、2012年8月、避難指示解除準備区域に再編されたが避難は継続。避難指示が解除されたのは2015年9月5日のことだった。
 竜田駅の営業再開は2014年6月1日だったというから、この時は避難指示はまだ解除されておらず、避難区域内で初の鉄道路線再開ということだったようだ。

 竜田駅の駅舎外観と代行バス。
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 駅前の様子。
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 左のお店は営業を再開してはいない。周囲を見て回る余裕はなかったが、町民の帰還は思うように進んではいないようだ。

 さて、原ノ町行きの代行バスは定刻の9:35に発車した。乗客は5~6人だったと思う。運転手のほかに車掌の女性(本人は添乗と言っていた)が乗務していた。発車して間もなく、バスは国道6号線を通行することが告げられ、途中で帰還困難区域を通るので窓は開けないようにという注意があった。
 人が住めない放射能汚染地帯を貫くかたちで、国道6号線は(幹線道路だからということなのだろう)通行可能としているのである。帰ってから調べてみると、富岡町-双葉町間の約14キロは、事故後ずっと(指定車輌以外は)通行禁止になっていたが、2014年9月15日に(各方面からの強い要望により)一般車も通行可能となったもののようだ。周囲は依然として立ち入り禁止区域のわけだから、窓を開けるとどのくらいの放射線量が計測されるのか。まあ、通過するだけだからたぶん大丈夫なのだろうと考えるしかない。

 国道に出るまで少しの間、家並みのある一般道を走ったが、周囲の人家は戸締まりされたまま帰還していない家も多く見られた。
 国道に出て少し行ったところで、信号待ちの停車があった。見ると、右手の道路が福島第二原発の入口に通じているという表示があった。
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 あとは車窓の風景ということになる。
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 がんばろう富岡町!と書かれているが、帰ってから確認すると、バスは楢葉町→富岡町→大熊町→双葉町→浪江町→南相馬市と辿って行ったようだ。
 忌まわしい指定廃棄物のフレコンの山。
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 こうして大量に積み上げられているところもあれば、家屋の庭先のようなところに10個前後が無造作に置かれているところもあった。

 乗務の(添乗)女性はガイドというわけではないから、帰還困難区域に入ったとか出たとか、当たり前だけれど説明などは一切なかった。だが、道路の両側を見ていると、何も言われなくてもここはもう人が帰れない地域なのだということが判った。
 人影のない町並みを幾つか抜け、さらに点在する人家であったり、国道沿いに特有のよく見かける商業施設など、とにかくどれも地震の激しい揺れに耐え、津波にやられることもなく持ちこたえた建物なのに、ほとんどがそのまま放置され、荒れ果てた姿をさらしているのである。思いがけず色鮮やかなままの看板などが見えたりするが、国道に接する脇道にはバリケードが設置され、ここを走ることはできても、周囲に足を踏み入れることはできないのである。

 あまり写真は撮らなかった。人家を撮るのは申し訳がないような気がして、ありふれた商業施設などを写しただけである。窓を開けたら、どのくらいの放射線量を計測したのか気になった。。
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 この国道を日本の国民はみんな、特に新たに選挙権を手にする高校生や若い人たちは、ぜひ走るべきだと思った。原発事故は日本の国土にこういう場所を作ってしまったのだということ、それを忘れた政治も選挙もあってはならないと思った。

 バスは予定時刻より10分ほど早く、10:40に原ノ町駅に到着した。
 原ノ町駅は福島県南相馬市の中心駅になるようで、構内も広く、駅舎も立派なものだった。
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 みどりの窓口を持つ有人駅で、
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 待合室には立派なNEWDAYS(JR東日本グループのコンビニエンスストア)も営業していた。
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 原発事故による被害地帯を抜けて、とにかく普通に人の生活が営まれている町に戻って来たのを実感した。この駅には、あの不吉な空間放射線量を示す電光掲示はついていないようだった。

 ここで1時間20分ほどの待ち時間がある。駅舎の左の方に、構内を跨いでいる立派な跨線橋があったので、まずそこに上ってみることにした。両サイドに自転車も乗れる大きなエレベーターが設置されていた。
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 跨線橋から見た原ノ町駅構内。ホームは2面3線構造になっているようだが、多くの側線が走っているのが見えた。
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 駅前の通り。
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 右手の建物は南相馬市立中央図書館と市民情報交流センターというものである。その隣(向こう)には郵便局があった。この通りをちょっと行ってみることにした。
 場合によっては昼食でもいいかなと思っていたら、こんなお店にぶつかったので入ってみた。
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 昔から町の人々に愛されてきた珈琲屋さんといった感じで、お客もけっこういた。メニューを見ると、昔懐かしいトーストに卵焼きというモーニングセット600円というのがあって、11:30までと書いてある。あと10分ぐらいだったので、迷わず頼んでしまった。サラダとデザートのバナナ(半分)もついていて、コーヒーも大変美味しかった。

 再び駅に戻り、停車している発車待ちの電車に乗る。12:02発の相馬行き。仙台カラーの701系交流電車、2輌編成。車内はロングシートである。
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 相馬駅から先が津波被害による不通区間なので、ここは4駅をつなぐだけの短い区間運行になる。
 なお、まだ触れていなかったが、常磐線はずっと複線だったが、いわきを過ぎて2つ目の四ツ倉駅(久ノ浜駅の1ついわき寄り)から単線となり、途中一部複線になるところもあるが、この先はずっと単線(電化はされている)なのである。

 12:19、相馬駅着。
 下車して、ホームから不通になっている方向を見る。
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 望遠にしてみる。3本の線路が1本になり、工事機械のようなものがあるその先は線路が途切れているように見える。
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 相馬駅はその名の通り福島県相馬市の中心駅で、やはりみどりの窓口のある立派な有人駅だった。NEWDAYSも営業していたが、原ノ町駅と変わらないのでそっちの方は省略。
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 駅前の感じは原ノ町駅前と比べると若干寂しい気もしたが、ちゃんとした町並みは少し離れたところにあるのかもしれない。
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 駅前に代行バスが停まっていた。
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 この先、相馬・亘理間を走る代行バスは本数も多く、昼間はほぼ1時間おきに運行されているようだった(朝夕はさらに頻繁に出ている)。南相馬市・相馬市といったところは大都市・仙台の通勤圏になっているので、利用客もそれなりにいるということなのだろう。

 当初の計画ではこのバスは見送って、1時間ほど駅の周りを歩いてみるつもりだった。ただ何となく、バスの前にいた係の男性に気になっていたことを聞いてみたのである。常磐線が運行再開している浜吉田駅ではなく、その次の亘理駅との間を代行バスがつないでいるのはなぜなのか。すると、この区間は一応各駅停車の運行になっているが、浜吉田駅はバスが走行する国道から4キロも離れてしまうので、バス停は国道沿いに作ってあるが、駅前に入れる亘理駅とを結んでいるのだという。
 浜吉田でバスを降りるつもりだったから、困ったことになったと思った。結局、計画より1台早いこのバスで亘理駅に行き、電車で浜吉田駅を往復すればいいということに思い至った。で、急いでこのバスに飛び乗ったのである。12:30、相馬駅発。

 発車した瞬間に、駅舎の写真を撮っていなかったことに気付いた。一瞬あきらめかけたが、バスが駅前を転回する時に車窓から何とか一枚撮ることができた。まあ、これで良しとすることにしよう。
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 さて、発車した代行バスはこれも基本的に国道6号線を走行して行った。最初の駒ヶ嶺(こまがみね)駅は国道に近く、駅の位置も動かさないことになっていたようで、駅前に入って行った。
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 しかし、次の新地(しんち)駅からは、線路や駅を以前より内陸に移設して運行再開を目指しているらしく、工事中だからか新しい駅には入って行かなかった。道端のバス停。
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 建設が進む新しい常磐線の高架が見えていた。
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 新しい高架の坂元駅が見えた。
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 看板には「2016年12月末までに運転再開」と書かれている。なお、常磐線はこの駅から宮城県に入っている。
 浜吉田駅バス停。
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 13:30、代行バスは亘理(わたり)駅に着いた。
 亘理駅の駅舎外観。こちらから撮るとどうということもないが、
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 こちらから撮ると、とんでもない建物が付いている。
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 少し時間があるので行ってみた。左手の跨線橋が駅の向こう側にある建物の2階に続いていて、そこが亘理町立図書館になっていた。1階は亘理町立郷土資料館になっていて、200円だというので一応入ってみたがあまり面白くはなかった。
 これが建物正面。悠里館と墨書された大層な木の看板が掛かっていた。
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 それにしてもこの建物のセンスは相当なものだ。こういう発想というのはどんなところから出てくるものなのだろうか。

 さて、駅の方だが、みどりの窓口の付いた業務委託駅。
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 NEWDAYSではなくKIOSKが健在。
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 ホームの方は2面の間に3線が通るかたちだったが、駅舎側の1線をつぶして(ホームを張り出させて)真ん中の線を生かしているようだ。
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 亘理駅14:19発、上り・浜吉田行きがやって来た。701系の4輌編成だった。これに乗って一駅戻るかたちになる。
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 一駅なので「かぶりつき」に立った。浜吉田駅に入って行く。
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 この先は不通区間である。
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 14:24、浜吉田駅着。6分後に折り返すので、急いで外に出て来なければならない。
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 業務委託駅で駅員がいる。
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 駅前の様子と駅舎外観。
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 これが折り返し14:30発の仙台行きになる。発車ギリギリで乗り込んだ。
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 14:47、岩沼駅で下車。
 みどりの窓口とNEWDAYSがある有人駅である。
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 仙台まで行って新幹線で帰ることも考えたが、せっかくの青春18きっぷである。常磐線はここまでで終わりで、この先は東北本線になってしまうので、何と言うか、けじめ?をつけてここから普通列車を乗り継いで帰ることにしたのである。
 駅舎外観と駅前の様子。
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 左のところに小さな銅像が立っているのが判るだろうか。これ、松尾芭蕉である。
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 句は「桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越し」というもので、奥の細道の旅で岩沼に泊まった時に詠まれたものである。「二木の松」とは歌枕「武隈(たけくま)の松」のことで、「ここから750m先」にあると下に標識が埋め込まれていた。

 さて、これで今回の常磐線の旅は終わりである。岩沼駅15:23発、東北本線・上り福島行きに乗車した。
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 以下、一応記録しておく。16:23、福島駅着。16:28発・黒磯行きに乗り継ぐ。18:33、黒磯駅着。18:38発・宇都宮行きに乗り継ぐ。19:28、宇都宮駅着。19:30発・湘南新宿ライン経由の逗子行きに乗り継ぐ。21:18、新宿駅で下車。21:25発・中央線通勤快速高尾行きに乗り継ぐ。22:11、西八王子駅着。ふう、疲れた。
by krmtdir90 | 2016-03-20 22:55 | 鉄道の旅 | Comments(2)

常磐線の旅②被災区間に少し近づく(2016.3.16)

 いわきには計画より早い到着になってしまった。とりあえず駅前のホテルにチェックインしたが、まだ夕食に出る感じではない。そこで、時間も早いのだからもう少し乗ってこようと考えてしまった。明日乗る予定の区間にちょっと行って来ることにしたのだ。
 いわきから先の常磐線は、様々なかたちで東日本大震災の被害を受けている。最初に原発事故による不通区間があるから、いわきの先は竜田駅までの折り返し運転になっている。調べてみるとこの時間、まず途中駅の久ノ浜止まりというのが1本あって、そのあとに竜田行きが設定されているようだ。これで往復すると、19:03にいわきに戻って来られるのが判った。なんかムラムラとやる気が湧いてきた。

 で、再びいわき駅。17:17発の久ノ浜行き。
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 何度も出てくる車輌だが、ここでもE531系が使われていた。短い区間運行なのに、思いがけず5輌編成だったと思う。
 座席はセミクロスシート。車内はガラガラだったが、いくら少なくてもこれを必要とする利用者はいるのだ。
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 17:32、久ノ浜駅着。下車したお客が出て行った後のホーム。
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 この電車は6分後に折り返しの水戸行きになって出て行くのが判った。そのための5輌編成だったのだ。
 ここは業務委託駅になっているようだが、この時間、駅員の姿があったかどうか記憶がはっきりしない。次の下り・竜田行きがやって来るまで30分ほどの時間がある。
 駅舎外観。
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 駅前の様子。
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 前の道を行った向こうが海になっていて、そのあたりは土地の整備工事が行われているようだ。行ってみることにする。
 すぐ前を国道6号線が通っていて、それを渡っていくと、
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 たぶん津波で流された跡なのだろう。右手に整地された何もない区画が広がっていた。
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 その先には防波堤が整備されているらしく、海は見えなかった。
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 新しい道路の反対側には人家なども建っている。
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 行き当たりばったりで事前に何も調べて来ていないのだから、このあたりがどんな被害を受けて、いまどのような状況にあるのか全く判らないのである。そんな状態で来てしまったことが、仕方がないとはいえ申し訳ないような気持ちになった。

 駅に戻る。さっきよりも夕闇が迫ってきている。
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 駅舎にこんな表示があった。
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 帰ってから調べてみると、久ノ浜というのは福島県いわき市久之浜町といい、さっきのあたりは津波と津波で発生した火災ですっかりやられてしまったようだ。だが、被害は海沿いの土地に集中していて、駅を含む内陸寄りはそれほどでもなかったらしい。そのため、住民の置かれた状況に大きな温度差があって、復興が全般に遅れてしまったということのようだった。

 久ノ浜駅は相対式ホームを持つ2面2線の駅である。跨線橋を渡り、下りホームから見た駅舎。
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 18:03発の竜田行きがやって来た。
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 暗くて車体の外観がよく見えないが、内部の表示で415系であることが判った。何輌編成だったかは数えていない。車内はロングシートだった。乗客は非常にまばらなようだ。
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 始めは終点の竜田駅まで行って来るつもりだったが、竜田駅は明日下車して見ることができるのだから、考えを変えて途中の広野駅で下車することにした。18:12着。
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 すっかり暗くなってしまったが、ここは2面3線の駅で、島式ホームとの間は跨線橋でつながれているようだ。
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 駅舎外観。
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 駅前の様子。右の食堂は営業しているらしい。
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 あたりの様子はよく判らない。だが、広野町というのは原発事故に関連してよく聞いた地名である。

 以下、すべてが帰ってから調べた付け焼き刃で申し訳ないのだが、福島県双葉郡広野町は福島第一原発から20キロ圏のすぐ南側に位置しており、事故直後には緊急時避難準備区域に指定され全町民が避難していたのだという。避難指示が解除されたのは2012年3月31日だが、まだ避難生活を継続している町民も多いようだ。町の北端にあるJヴィレッジが事故収束に向けた対策拠点となったため、町内で暮らす作業員の数が帰還した町民の数を上回る状態が続いているらしい。
 なお、常磐線は震災直後から不通になったが、広野・いわき間で運転が再開されたのは2011年10月10日、現在運転されている広野・竜田間が復旧したのは2014年6月1日だったようだ。

 駅舎の内部に、久ノ浜駅にあったのと同じ津波避難経路の地図が掲示されていた。。
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 北海道新幹線開業を知らせる掲示が何となく空しい。
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 この駅は業務委託駅になっているようで、この時間にも事務室には駅員の姿があった。
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 気になるのは出札窓口の上に取り付けられた電光掲示である。「広野駅の空間線量率は0.137μSv/h」とある。単位は1時間に0.137マイクロシーベルトであることを示している。シーベルトとかベクレルとか、素人には正直何のことやらよく判らないのだが、はっきりしているのは福島県以外のたとえば東京都で計測すれば、数値は「0.0××」と一つ桁が下がることである。
 これを年間の数値にするには、単純にかけ算をすればいいのだろうか。0.137×24=3.288(1日)。3.288×365=1200.12(1年)。つまり、年間では1.2ミリシーベルトと考えていいのだろうか。事故以前にわが国が決めていた年間被曝線量の限度は1ミリシーベルトだったが、それをわずかだが超えていることになる。復興ということを考えれば細かいことは言っていられないのかもしれないが、そこで実際に生活するということになれば、やはり気になる数値には違いないと思った。

 上り列車の発車時間が近づいてくると、駅にはこれに乗るお客が次第に集まり始めた。出張でこの町を訪れたらしいスーツ姿の男たちである。ビジネスバッグや小型のスーツケースを持って、だいたいは幾人かで連れ立っている(女性が交じるグループもあった)。数えたわけではないが、優に2、30人はいたのではないかと思う。
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 島式ホームから駅舎とは反対側、海のある方向を見ると、どうやらそちらは津波ですっかりやられてしまったらしく、だだっ広い整備作業中の土地が広がっているようだった。中に、巨大なビルが一つだけ不気味に建っているのが見えた。写るかどうか判らなかったが、電柱にカメラをつけてシャッターを切ってみた。露出時間は1秒で、三脚がないにしては案外うまく写っていた。実際にはもっと暗く、黒々とした感じだったのだが。
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 18:39、上り・いわき行きがやって来た。
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 車内にはやはり出張帰りと思われるスーツ姿がけっこう乗っていて、広野駅発車時にはロングシートがほぼ埋まる感じになった。
 19:03、いわき駅に戻って来た。
by krmtdir90 | 2016-03-19 11:48 | 鉄道の旅 | Comments(0)

常磐線の旅①寄り道・ひたちなか海浜鉄道(2016.3.16)

 青春18きっぷを初めて使ったのは2011年の春だった。豊橋に一泊して飯田線と身延線に乗りに行った。続けて東北地方への旅を計画していたが、その出発の数日前に東日本大震災が起こった。当然キャンセルするしかなかったが、この時の計画で帰りは仙台から常磐線で帰って来る予定になっていた。津波と原発事故の影響で、常磐線はいまも元通りにはなっていない。
 今回の小さな旅は、この不通区間を代行バスなどでつないで、とにかく現在可能なかたちで常磐線を乗り通してみようという計画だった。あとで詳しく説明するが、そのためには途中のいわきに一泊する必要があった。1日目はこのいわきまで行けばいいのだが、余裕があるので少し寄り道をしてみようと思った。

 家を出たのは8時半過ぎである。中央線で神田まで行き、山手線に乗り換えて10:01上野駅に到着。常磐線の起点は上野駅である。(訂正・列車運行の起点は上野だが、路線の起点は日暮里駅だった)
 上野駅10:15発、常磐線(快速)勝田行き。
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 E531系という交直流電車の10輌編成。セミクロスシートの車輌も混ざっていたようだが、わたしが乗ったのはロングシートの車輌だった。上野・いわき間は以前(2014年7月/続・東北の旅)乗ったことがあるので、今回はあまりこだわりはない。朝、どこかの駅で不具合があったとかで、7分遅れのスタートとなった。だが、この程度の遅れは途中で取り戻してしまったようで、12:25水戸駅着。
 水戸駅ではホームの向かいに4輌編成の電車が停まっていて、そちらが先発するというので、乗客の大半がそちらに乗り換えた。わたしも何となくそれに倣う。12:28発の高萩行きである。
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 415系1500番代という交直流電車で、4輌編成だった。車内はロングシート。

 で、たった一駅、12:33勝田駅着。下車する(因みに、最初の電車は5分後の12:38着だったようだ)。一旦外に出て、駅前のラーメン屋で昼食にした。
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 勝田駅でもう少し時間を取ってあったのだが、昼食も簡単に終わってしまったので、計画を早めて1本前の列車で行動開始にした。

 勝田駅がひたちなか海浜鉄道の起点駅である。JRの改札口から中に入り、ホームに出て左に行くとひたちなか海浜鉄道湊線のホームがある。
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 この左にある窓口で湊線1日フリー切符900円を買った。終点の阿字ヶ浦まで片道570円だから、標準的なお得感のフリーきっぷだと思う。
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 すぐに2輌編成の列車がやってきた。
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 高校生を中心として下車するお客がかなりたくさんいて、全部が改札を出るまでちょっと時間がかかった。
 こちらがキハ37100という車輌。アニマルトレインという派手な塗装が全面に施されている。
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 反対側がキハ3710という車輌で、こちらは対照的に非常にシックな塗装である。個人的にはこちらの方が好きだ。
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 なお、車内はいずれもロングシートだった。

 この路線は、1913(大正2)年開業の歴史ある民鉄で、戦後は茨城交通がずっと運営してきたが、赤字撤退が伝えられた2008(平成20)年、ひたちなか市と茨城交通の共同出資による、ひたちなか海浜鉄道株式会社として存続させた第三セクター路線である。東日本大震災では大きな被害を受けたが、同年7月に全線で運行を再開させた。全線が非電化単線、路線距離は14.3キロである。

 13:15、勝田駅を発車。
 途中駅の撮影については、特に積極的な決意があったわけではない。だが、乗客も少ないし、何となく手持ち無沙汰で、3つ目の中根駅で「かぶりつき」に立ってしまった。
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 4つ目の高田の鉄橋駅は2014(平成26)年に開業したばかりの新駅である。この鉄橋(中丸川橋梁)が、地元では旧地名から「高田の鉄橋」と呼ばれていたため、そのまま駅名に採用されたものらしい。
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 鉄橋のすぐ先、国道245号の真下にホームが作られている。
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 高田の鉄橋駅の駅名標。ひたちなか海浜鉄道の駅名標は、駅ごとにこんなふうなユニークな飾り文字になっている。
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 次の那珂湊駅に入って行く。まず望遠で1枚。
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 ロングで1枚。
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 ここは単式島式2面3線の有人駅で、左に車輌基地を併設している。
 こちらは島式ホームの3番線に停車するようだ。単式ホームの1番線には、この駅で交換する勝田行きの単行が停車している。
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 ここで下車することにする。これが那珂湊駅の駅名標。かなり大胆な飾り文字である。
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 構内踏切のところで、2つの列車を見送ることにする。
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 13:30、上り勝田行き単行が発車して行ったあと、13:31、下り阿字ヶ浦行き2輌編成も発車して行った。
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 島式ホームと車輌基地。
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 駅舎内部。
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 駅舎外観。
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 駅前の様子。
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 さて、次の下り列車まで38分である。少しウロウロしてしまったから、もう残りは30分ほどだろう。駅に置いてあったおさんぽマップを見て、駅から徒歩5分とあるあたりに狙いを定めて行って来た。
 ちょっとした丘のようになったところがあって、ちょっとした石段を上ると、これが市指定文化財・山上門。水戸藩江戸小石川邸にあった門を移築したものらしい。
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 門を入り、左の方にもうちょっと石段を上ると、これが県指定史跡・反射炉跡。
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 ついこのあいだ、世界遺産・韮山反射炉を見てきたばかりだが、那珂湊の反射炉は幕末の混乱で焼失してしまったようだ。これは1937(昭和12)年に復元された模型である。
 なお、このすぐ右手が県立那珂湊高校の敷地になっていて、ちょうど校舎の裏手にあたっているようだった。
 反射炉跡のちょっとした丘の上から海の方角を眺める。海は確認できないが、那珂川の流れは見えている。
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 再び駅に戻って、車輌基地。
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 上り列車が先にやって来た。
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 さっきの下りが阿字ヶ浦駅で折り返して来たようだ。上りのホームには高校生を始めけっこう乗客がいる。
 わたしが乗る下り列車もやって来た。
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 こちらも、さっきの上りが勝田駅で折り返して来たのだろう。キハ11-5という車輌である。車内はセミクロスシートだった。乗客は数人。
 14:09、那珂湊駅を発車。

 殿山駅。
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 平磯駅。
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 磯崎駅。
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 終点・阿字ヶ浦駅に入って行く。14:20着。
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 阿字ヶ浦駅の駅名標。
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 ホームは1面2線の島式ホームで、網フェンスで区切られた立ち入り禁止部分に旧国鉄急行色に塗られた古い車輌が留置されていた。帰って調べてみると、昨年営業運行を終了したキハ2005という車輌のようだった。
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 乗って来た列車は20分後に折り返すので、その間に駅の周囲を見て回る。この駅は無人駅で、待合室には発売中止と表示されたきっぷの自販機が1台あるだけ。
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 駅前も狭く、何もない。
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 駅舎外観。
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 左手の方に行くと踏切があるので行ってみた。踏切からの眺め。
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 踏切を渡って、駅の反対側に回り込んで撮影。
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 駅に戻り、再びホームへ。車止めの向こうには簡単には行けないようだ。
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 発車前にキハ11-5の車内を撮影。
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 小さくて判別できないかもしれないが、吊り広告に、車内で演劇公演を行う「ひたちなか海浜鉄道スリーナイン・アンコール公演決定」というお知らせが出ていた。どんなことをするのかちょっと興味が湧いたが、わざわざ見に来るのは簡単なことではない。

 14:40、阿字ヶ浦駅を発車。最初車内はガラガラだったが、那珂湊駅で高校生らがどっと乗り込んできて、立っている者も出るようになってしまった。したがって、最初の方で撮影しなかった金上(かねあげ)駅と日工前(にっこうまえ)駅は撮影できなかった。
 で、15:07、勝田駅に戻って来た。
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 ひたちなか海浜鉄道の寄り道はこれで終了。

 再び常磐線に戻って、勝田15:17発のいわき行きに乗車。E531系の5輌編成だった。
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 16:44、いわき駅着。
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by krmtdir90 | 2016-03-18 21:40 | 鉄道の旅 | Comments(0)

映画「セーラー服と機関銃」(1981)「探偵物語」(1983)について

 まだ若かったころ、「セーラー服と機関銃」についての文章を書いたことがある。当時勤めていた所沢高校の「紀要」に載せてもらったものだが、伝統のある学校ではそのころ、教員間で「(研究)紀要」なるものを毎年発行しているところもあったのだ。真面目な研究論文などが並ぶ中に、こんな軽薄な文章を紛れ込ませてもらえたのはいまから思うと驚きだが、せっかく残っているものなので、このまま埋もれさせてしまうのも惜しい気がして、この機会にここに再録してしまうことにした。文章の末尾に(83.10.2)という日付がつけてあるので、これは所沢高校に転任してまだ間もないころ、わたしが36歳の時に書いた文章ということになる。

「ひろ子の赤い靴」

 薬師丸ひろ子は「セーラー服と機関銃」(監督・相米慎二)のラストシーンで赤い靴を履いた。あの赤い靴が忘れられない。
 その時、彼女は紺のセーラー服に赤いハイヒールといういで立ちで新宿三丁目の伊勢丹前の舗道を歩き、地下鉄の通気孔の上で、まるで「七年目の浮気」のマリリン・モンローのように、セーラー服のスカートを風にふくらませながら、周囲の見知らぬ他人たちを機関銃で撃ち続ける真似をしたのだ。彼女はその少し前に、死んでしまった元ヤクザの渡瀬恒彦に別れの口づけをして警察の死体置場を出て来たのであり、その際の自身の行為をみずからの内に確認するように「生まれて初めての口づけを中年のオジンにあげてしまいました。ワタクシ、オロカな女になりそうです。マルッ」という言葉を画面外から呟き、本当に画面の右下に赤い句点が打たれて映画は終わりになったのであった。
 言うまでもなく、セーラー服に赤い靴というのは取り合わせとしてきわめてアンバランスな印象を与えるもので、それまで一貫して彼女は、セーラー服の時はありふれたごく野暮ったい黒い靴を履いていたことを考え併せれば、あの赤い靴は、実に意図的に「わたしはそれを履きたいのだ」という彼女自身の内なる声によって選び取られたものであったと言えるだろう。
 ファンにとって薬師丸ひろ子という“現象”は、映画を通じて、少女であった彼女が次第に大人になって行く過程を逐一確認して行くという意味を持っていたと思う。とすれば、あの赤い靴は、彼女にとって初めての、ただ一度の赤い靴という意味を持っていたはずである。そういえば彼女は、父の(勿論、物語の中の)死の後で、火葬場からの帰りに、やはりセーラー服姿で初めての赤い口紅をつけていたが、あれも全く同じ意味であったと考えられる。
 「セーラー服と機関銃」という映画は、それまでセーラー服に黒い靴のただの少女にすぎなかったひろ子が、幾つかの初めての体験を通じて、次第にそのセーラー服と黒い靴を脱ぎ捨てて行く過程を綴った映画であった。父の死→赤い口紅、ファースト・キッス→赤い靴、と書いてしまえば図式的にすぎるが、そのイメージがやはりきわめて印象的だったのは、薬師丸ひろ子という存在感がそれだけ大きかったということなのだろう。また忘れてならないのは、ファースト・キッスも赤い靴も、彼女にとっては非常に意志的な行為であったことを明らかにする「…ワタクシ、オロカな女になりそうです。マルッ」という自己批評の声であり、あの声の故に、ファンは大人になって行く彼女の人生全体までが、彼女自身の意志においてこの先確実に選び取られて行くだろうと予測することができたのである。
 現実世界の大半のツッパリ少女が紺の制服につける赤い口紅や赤い靴(ピアスや髪飾りや安全ピンやブレスレットや…)とひろ子の赤い靴が決定的に違っていたのは、この自身の行為に対する自己批評の有無であり、だからこそファンは、若干の危惧はあるにせよ、彼女の赤い靴を大人になって行く少女がその過程でただ一度だけ履くことのできる象徴の赤い靴として、純粋に網膜にとどめることができたのである。
 赤い口紅は、恐らく「こんなことはオロカなことだ」という反省の下に彼女の手で乱暴に拭き取られてしまったが、赤い靴の方は履かれたままで、見知らぬ他人たちの渦の中に出て行ったのだ。オロカな女になってしまうかもしれないと認識しながら赤いハイヒールを履くことのできる少女の未来は、恐らく期待していい。「セーラー服と機関銃」はそういう映画だった。

 一年余の大学受験休業を挟んで再登場したひろ子は、再び赤い靴を履いた。「探偵物語」(監督・根岸吉太郎)である。
 しかし、一人のファンとして言わせてもらえるならば、ひろ子は二度と赤い靴を履くべきではなかった。薬師丸ひろ子が先に述べたような意味での“現象”である限り、例えばファースト・キッスを済ませてしまったひろ子が次によりディープなキッスを要求されるのは必然であり(事実「探偵物語」のラストで、彼女は松田優作とかなりセンセーショナルにそれをやってのけた)、そうであればあるほど、「あの時」の赤い靴は、ただ一回限りの赤い靴としてその象徴性を高めて行くことになるはずであった。これは相米慎二の仕掛けた罠だったのだろうか。
 実際「探偵物語」の中で、ひろ子は非常に不幸な状況下で赤い靴を履かされてしまった。今回の赤い靴は映画の中頃で、サエない探偵の松田優作が元女房の秋川リサと“焼けぼっくりに火”といった感じでセックスするのを立ち聞きしてしまった彼女が、ショックな気分で夜の街(渋谷の道玄坂のあたりだと思う)をさまよい歩く場面で履かれた。大学生になった彼女はもうセーラー服ではなく、少しタイトな白っぽいワンピースにポシェットか何かをぶら下げていたと思う。
 この時、彼女の履く赤い靴は、明らかに見知らぬ他人の男たちに対するかなり露骨な誘い掛けの意味を持たされており、事実彼女はこの時、行きずりの中年男とあろうことか簡単に連れ込みホテルにしけ込んで見せるのだ。ここには「あの時」の、爽快とも言うべき自己批評は片鱗もない。あるのはただの愚かな女子大生だけだ。(事件の謎を解く鍵が、仮にそのホテルにあったとしても、だ。)
 勿論、ひろ子はもう子供ではないのだから、ホテルにしけ込もうが何をしようがかまわないのだけれど、赤い靴の方はそれではやはり困るのだ。彼女が赤い靴を履く時(それでなくとも、赤い靴なんてそう年中履けるものではない)、その映像的な鮮やかさの故に、見る者はどうしても「あの時」の赤い靴を思い出してしまい、あの時のひろ子の(恐らく)一回限りの震えるような高揚を思ってしまうのだ。そのような赤い靴が、何の自己批評もなく男を引っかける小道具としての役割を持たされ、その後も無神経に履き続けられたのではたまったものではない。
 ついでに言えば、この時の中年男とひろ子が、寝たのか寝なかったのか不明確にしたままでラスト間際まで引っ張って行く根岸吉太郎の演出は、(どう考えたって寝るわけはないのだけれど)やはりフェアとは言えないと思う。彼女が“二度目の”赤い靴を履いた時点で、これはファンにとってただ事ではないのだから、その後ハラハラさせるだけさせておいて不意にカットが飛んでしまっては、後で彼女自身の口からいくら何もなかったと言われても、(ファンだから彼女の言葉は信じるけれど)納得はできないのだ。

 ともあれ、薬師丸ひろ子が赤い靴を履く時、「セーラー服と機関銃」のラストシーンは必ず思い出されてしまうに違いない。一本の映画、一人の女優が“現象”にまでなるというのはそういうことだ。「セーラー服と機関銃」は「カイカーン」のスローモーション・ショットによって記憶される映画ではなく、ラストシーンの赤い靴の故に初めて永遠性を持ち得た、危うい青春映画だったのであり、「探偵物語」はその赤い靴に裏切られて、ラストのひろ子の白いスーツと白い靴までが、例のディープ・キッスを呼び込むための女子大生の小賢しい小道具のように見えてしまった不幸な映画と言えるのではないか。
 今後、薬師丸ひろ子を撮る監督は、不用意に彼女に赤い靴を履かせてはいけない。
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by krmtdir90 | 2016-03-13 15:44 | 本と映画 | Comments(0)

映画「セーラー服と機関銃-卒業-」

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 この映画はリメイクではない。そして、通常の意味での続編とも言い難い。いまや伝説的映画となっている薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」(監督・相米慎二、1981年)の設定を、ある程度踏まえた後日談としてストーリーが作られている。だが、中途半端なかたちで前作の設定を引き継いでしまったため、同じ荒唐無稽(一種のファンタジー)であっても、その中でのリアリティ(説得力)といったものが作れていないように感じた。
 いまは高校3年生になっているとはいえ、主人公・星泉は2年前、目高組組長として浜口組に殴り込みをかけ、機関銃を乱射して「カ・イ・カ・ン」と呟いた過去を持っているのである。同じタイトルを戴く新作としては無視できなかった設定なのかもしれないが、いまは堅気となってカフェをやっている彼女が(この設定も無理がある)、止むにやまれぬ事情(大した事情とは思えないし、何より彼女にとっての切実さが全く感じられない)から、もう一度目高組を復活させて機関銃乱射に至るというのは、はっきり言って二番煎じでしかないのではなかろうか。
 過去を引き継いだように見えながら、調べてみると細かな設定などは全く違っているし、同じ最後に機関銃乱射をやるにしても、脚本としては最初から別の設定にしてしまって、全く新しく作り上げられたもう一つの「セーラー服と機関銃」を考えた方が良かったのではないかと思った。

 この映画には、前作へのオマージュと思われるところがいろいろあった。前作を「忘れられない映画」と感じている者には、それなりの懐かしさはあったが、それらが新しい印象や意味をもたらすものにはなっていないように思われた。そんなところが全くなければ、それはそういう映画だったのだと終わってもよかったが、なまじ判るかたちでそういうものが挟み込まれている以上、黙っているわけにはいかないのである。
 たとえば、前作を象徴するような「カ・イ・カ・ン」というセリフの扱い方。セリフと書いたが、前作で薬師丸ひろ子はこれをセリフとしては言っていない。機関銃乱射のスローモーションショットの中で、アップになった彼女の口が「カ・イ・カ・ン」と言ったように動いただけである。
 本作の乱射シーンでは、その作り方からして橋本環奈がそれを言う余裕はないように見えた。それならそれで終わりにすれば良かったのではないか。本編が終わった後のエンドロールが終了してから、本編とは何の関係もない「アイドル橋本環奈」の浴衣姿が突然入り、そこにこのセリフを(未練がましく)言わせることに何の意味があったのだろうか。これはオマージュでも何でもないし、この監督の「勘違い」としか言いようがない気がした。前作を愛する者からすると、こんなかたちで「カ・イ・カ・ン」を使ってほしくなかったし、言わないなら言わないで、これが新しい「セーラー服と機関銃」なのだと胸を張ればよかったのではないだろうか。

 口紅とハイヒールの問題についても触れておく。前作について詳しく述べる気はないが、この二つは薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」にとってはストーリーの節目となるような、非常に重要な意味を持つ描き方をされていたものなのである。本作の監督・前田弘二もそのことは判っていたように見える。だから、本作においてもこの二つはそれなりに意識的な使われ方をしていた。だが、相米慎二の鮮やかな描き方と比べると、今回はただ前作をなぞって入れてみただけというような、何らの衝撃も持ち得ないものだったと言うしかない気がした。
 本作では、機関銃乱射の殴り込みが決着し、ラストの卒業式シーンになる前のところに、星泉が死んでしまった月永の墓参りに行くシーンが挟み込まれている。ここで、橋本環奈はセーラー服ではなく白っぽいワンピースを着て、口紅をつけハイヒールを履いているのである。口紅はもちろん赤だが、ハイヒールは(前作の)赤ではなく、なぜか若草色になっている。だいたい墓参りという設定が凡庸きわまりないし、星泉が直前まで演じていた「怒れる少女」のイメージを裏切って興醒めと言うしかないではないか。つまり、口紅をつけようがハイヒールを履こうが、本作の星泉は(つまり、この監督は)そこに何らの自己批評も内面の揺らぎも表現してはくれないのである。

 問題の?キスシーンはどうだったのか。これについても書いておかなければならない。前作で薬師丸ひろ子の星泉は、機関銃乱射の殴り込みから数ヶ月後、警察の死体置き場で対面した(死んでいる)渡瀬恒彦(役名は佐久間)にキスをする。佐久間は目高組組員の中で若頭のような位置にいた男で、最後まで生き残り泉とともに組を解散することを決めた男である。細かい経過は省略するが、このキスに続く素晴らしいラストシーン(マリリン・モンローを彷彿とさせる)で、彼女のこれもまた素晴らしいセリフが(内なる呟き)かぶさるのである。「生まれて初めての口づけを中年のオジンにあげてしまいました。ワタクシ、オロカな女になりそうです。マルッ」。
 一方、橋本環奈の星泉は、殴り込みの中で絶命した長谷川博己(役名は月永)を抱きかかえながらキスをするのだが、この月永という男は元々は浜口組の若頭格だった男で、泉の伯父の先代組長を殺した張本人だったのである。だからキスしてはいけないとは言わないが、そのことを知った後ではいくらほのかな慕情を感じ始めていた相手だからといって、もう少し屈折した思いというものがあったのではないかと思われるのである。すべてが終わった後で彼女が墓参りに行くとしたら、この月永の墓ではなく先代組長の伯父の墓でなければおかしいのではないか。そこで彼女が(赤ではなく)若草色のハイヒールを履いていたのならまだ何となく理解できる気がする。
 そもそも彼女がキスするとすれば、映画としては成立しなくなってしまうかもしれないが、最後にすべての責任を負って警察の前に出て行く武田鉄矢(役名は土井、目高組若頭)でなければおかしかったのではないか。このあたりの筋の通し方が、この映画はどうも納得し難いのである。

 まあ、2作を比較しても仕方がない。見ている間は十分に楽しんだし、35年前の映画と比較すること自体が間違っているのかもしれない。アクションシーンを始めとして、現代の映画はこういうふうになるしかないのだろうなと感じるところも多かった。新たに町に勢力を伸ばしてくる堀内組という広域?暴力団の狡猾で病的な面々や、殴り込み前にナイトクラブの中で展開する至近距離の銃撃戦など、アクションシーンの凄まじさは「バイオレンス映画なのかこれは」と言いたくなるような、これでもかの刺激の強い殺し合いになってしまっていた。
 アイドル映画として見に来た観客は、アイドル橋本環奈はこんなシーンをくぐり抜けなければならないのかと、かなり度肝を抜かれるところがあったのではないか。少子高齢化の進む現代社会を反映したようなストーリーの味付けとか、こういう対立関係を設定してしまっては、機関銃乱射シーンもスローモーションにするわけにはいかなかっただろうし、「カ・イ・カ・ン」のセリフを言わせるわけにもいかなかったのだろう。時代が違うのだから、それはそれで決して悪いことではない。問題は、どこかで開き直って、腹を据えて自分の思った味付けで一本描き切る覚悟が、この監督には(脚本にも)欠けていたということになるような気がした。

 橋本環奈の星泉は、いまの時代これはこれで十分ありだと思ったし、現代の星泉はこれでいいのだと納得もさせられた。眼力(めぢから)があるし、声もハスキーで魅力がある。薬師丸ひろ子と比較するのはやめるべきだと感じさせるだけのものを見せてくれたと思う。周囲を固めた男性陣も、それぞれが個性豊かな芝居を見せてくれていて面白かった。だからこそ、それを生かし切れなかった制作サイドの、焦点の定まらない優柔不断が残念だったのである。
by krmtdir90 | 2016-03-12 21:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「火の山のマリア」

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 岩波ホールに行くのは何年振りだったろう。ここで、あまり日本に紹介されることのない隠れた名作を紹介する、エキプ・ド・シネマがスタートしたのは1974年である。わたしは会員にはならなかったが、その比較的初期の頃から、このホールではけっこうたくさんの映画を見てきたと思う。だが、その後映画から遠ざかってもう20年ぐらいになるから、このホールに行くのもたぶん20年以上は経っていたのではないだろうか。
 エレベーターで10階に上り、一歩中に足を踏み入れると、岩波ホールは昔とほとんど変わらぬ懐かしい姿でそこにあった。ここにはちゃんとした奥行きのある舞台が付いているので、ここのスクリーンはかなり奥まったところになる。だから、ここでは(わたしにとっては)最前列が最も見やすい席になるのである。座席のシートもたぶん昔のままだったように思う(交換などはしていたかもしれないが、シートの色や前後左右の間隔などは変わっていなかったのではないか)。映写方式などがどうなっていたのかは判らないが、プログラムのかたちも昔のままだった。
 わたしが映画を見ないでいた間も、岩波ホールはずっと続いていたんだなとちょっと感無量だった。

 さて、この映画はグアテマラ映画である(形の上ではフランスとの合作になっているが)。監督・脚本のハイロ・ブスタマンテ(1977年生まれ、この映画が長編第1作だという)はグアテマラ人だし、出てくる俳優たちもすべて現地の人々で、グアテマラという国の現在の姿が描き出されている。グアテマラの映画なんて見るのは初めてのことだし、そもそもグアテマラには映画産業というものがないのだという。だいたいグアテマラという国自体がどんな国なのか、申し訳ないがコーヒー豆のグアテマラ以外に全く知らないと言っていいのではないかと思う。
 ここで付け焼き刃の知識を少し並べておくと、位置はメキシコの南に国境を接する中米の小国であり、広さは北海道と四国を合わせたより少し広いくらい、古代マヤ文明が栄えた土地だという。16世紀から300年ほどの間、スペインに征服されていたという歴史があり、公用語はスペイン語。現在の人口は約1600万人で、そのうちマヤ系先住民が46%、その他の部族が24%を占め、先住民との混血を含む欧州系は30%にすぎない。極端な貧富の差や様々な社会矛盾がいまも残り、それらは映画の背景に厳然と存在している。映画は確かに現代を描いているのだが、それがとうてい信じられないような描写が続いているのである。

 火山の裾野の借地で細々と農業を営み、コーヒー農園で働くマヤ系先住民の家族の物語である。17歳の娘マリアとその父母。生活はきわめて原始的なもので、豚や鶏を飼い、トウモロコシなどを主食とするような毎日である。電気・ガス・水道といったインフラは一切なし。映画では周囲に村落共同体というようなものも描かれず、非常に孤立した寂しい生活のように見える。最初のあたりでは、いったいいつの時代の話なのだろうと考えてしまう感じなのだが、彼らのところに車に乗った別の家族がやってきて、大きなテーブルを囲んで2つの家族の宴会のようなシーンになる。車は明らかに現代そのものである。
 訪ねてきたのは地主の家族で、コーヒー農園の主任であるイグナシオの後妻としてマリアが望まれていることが判ってくる。イグナシオの3人の子どもも一緒である。マリアの両親は様々な恩恵をもたらすこの話を何とかまとめたいと思っていて、親同士の話し合いで彼女の結婚が約束されてしまうのだが、当のマリアの気持ちはここにはないらしい。彼女は農園で働くぺぺというお調子者(つまらない男だというのは一目で明らかなのだが、マリアにはそういうことは判らないのである)に惹かれていて、アメリカに行くのだという彼に連れて行ってほしいと頼んだりしている。

 こうして粗筋をたどっても仕方がない気がするのだが、遠くに微かに見えている豊かさへの脱出願望といったものが、若い人間の中に漠然とした諦めと隣り合わせに存在しているように見える。ぺぺと一緒にここを出て行く約束をして、マリアは彼に身体を与えるが、彼は同僚の金を持ち逃げしたまま一人で姿を消してしまう。騙されたことを知ったマリアが、後を追うようにふらふらと荒涼とした火山の斜面の道なき道をたどって行くと、その先にセンターラインのある舗装された自動車道路が、ゆるやかなカーブを描いて不意に見えてくるショットは衝撃的である。それは違和感なのだが、ああ、こういうふうな場所だったのかと受け入れるしかない。
 この先に町があり、マリアとは無関係でしかない豊かな生活につながっている。だが、マリアの家族はそこにつながることは出来ないのであり、アメリカに象徴される外の世界は遥か彼方に霞んで、存在すら信じがたい幻のようなものなのである。彼女は車で通りかかったイグナシオによって家に連れ戻されるが、しばらくして、たった一度の行為で妊娠してしまったことが判明する。イグナシオに知られて婚約を破棄されれば、ここに住むことも出来なくなるのは明らかで、母は堕胎をさせようと様々な(原始的な)方策を講じる。だが、それらがうまく行かないことが判ると、一転して「この子は生きる運命だ」と考えを変え、その後はマリアを何くれとなく大切に世話するのである。

 すべてのものを運命と受け止め、そこで素朴に生きていくことを受け入れている強さのようなものが、母親の存在感とともにこちらに伝わってくる。それは、安易に批評したり断じたりすることのできない現実である。映画はそれを、長回しのショットを多用してじっと見詰め続けるのである。写される彼らの表情はおしなべて硬く、様々な感情がそこに表れることはほとんどないように見える。話される言葉もきわめて少ない。
 そうした映画の流れが大きく乱れるのは、マリアが毒蛇に咬まれて生死の淵に追い込まれた時である。父母はマリアを戸板のようなものに載せて、荒れ果てた火山の懐を走り、イグナシオの車を頼み込んで町の病院に運んで行く。町に入るにしたがって、車は渋滞に巻き込まれて前に進めなくなるのだが、渋滞などというものが存在すること自体が意外なことで、それまで映画では見えていなかった町の様子が、いきなり画面に侵入してくるのである。そこでカメラは、マリアを抱いた母親の嘆きがストレートにほとばしるのを映し出す。彼らが話している言葉はカクチケル語という先住民の言語で、それはスペイン語が日常語として使われている病院などでは、相互のコミュニケーションが不能の状況を生み出してしまう。結局、両方の言語が解るイグナシオを仲立ちにして意思疎通を図るしかないのだが、これがさらに如何ともし難い悲劇的な事態を生むことになってしまう。

 マリアは助かり、赤ん坊は死んでしまうのだが、ここに実はイグナシオの策略がからんでいて、依然としてマリアを娶りたいと考えていた彼は、生まれた子どもを病院側と図って外国に売ってしまったことが、映画の終わり近くで明かされることになる。医療機関ぐるみのそういう子ども誘拐事件が(子どもを売るということが具体的にどういうことを意味するのか、よく理解できないところがあるのだが)、グアテマラではごく最近に起こっていたということを、監督自身がインタビューの中で述べている。監督は、この事件が発端でこの映画が構想されたと語っているのである。
 一命を取り止めたマリアは、結局命の恩人になったイグナシオの許に嫁ぐことを受け入れる。映画のラストは、伝統的な婚礼衣装を母親に着付けてもらっているマリアのバストショットである。口を固く結んだその表情は、まるで塑像のように動くことはない。映画のファーストショットが、この着付けのシーンの一部だったことがここで判明するのだが、本編で描かれる若さゆえの(小さな、当人にとっては大きな)揺らぎがあったとしても、これがマリアの定まっていた運命なのであり、彼女は結局その中で生きていくしかないということを痛切に感じさせられる終わり方になっている。

 まったく知らなかった国の、まったく知らなかった人々の生活や人生というものを、どこまでもリアルに描き出してしまう、映画というものの持つ力を強烈に感じさせられたと思う。知らなかったことなのであれば、これに上滑りな感想や批評を投げ掛けることは難しいと感じた。そこにある事実の重さに言葉を失うような映画だったと思う。
 1階に下りてビルの外に出た時、暖かい日射しの下に当然のようにある神保町交差点の明るい賑わいが、何となく不思議な違和感のようなものを伴って感じられた。
by krmtdir90 | 2016-03-09 13:23 | 本と映画 | Comments(0)

ますむらひろしの北斎展(八王子市夢美術館)

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 八王子市夢美術館という存在は知っていたが、地元にもかかわらず一度も行ったことはなかった。ここで「ますむらひろしの北斎展」という興味深い展覧会をやっていることをmomさんのブログで知り、いい機会だからと散歩の途中で寄ってみることにした。

 これまで何となくこの美術館に足が向かなかったのは、何となく胡散臭い名前のせいもあったかもしれないが、これが入っているビルと隣接する東京電力のビル(調べたら多摩総支社となっていた)が繋がっているような感じになっていて、その入口が非常に入りにくい、よそよそしい雰囲気を漂わせていたことがあると思う。
 実は、わたしが散歩する別のルートにもう一つ別の東京電力のビル(こちらは多摩支店と言うらしい)があって、どちらも堂々たるビルなのだが、なぜかすべての窓や入口が白いロールスクリーンのようなもので塞がれていて、中の様子が全く見えないようになっているのである。敷居が高い感じと言うか、何となく部外者を寄せ付けないような雰囲気を漂わせている。普通の会社だと、中で社員が働いている様子とか、訪問者をオープンに迎え入れる感じとか、いずれにせよ外に向かってどこか開かれた部分が感じられるものだが、東京電力のビルにはそういうところが全くなく、その閉ざされた感じというのは、ちょっと尋常ではない印象を持っていたのである。

 いきなり話が関係ない方向に行ってしまったが、夢美術館の入口の入りにくさというのは、この東京電力のビルの閉鎖的な雰囲気が関係していたと思っている。美術館そのものは、ビュータワー八王子という28階建てのUR賃貸マンションの2階にあり、東京電力とは何の関係もないものだった。
 で、観覧料が一般500円のところ、65歳以上のシニアは半額の250円というところが良かった(年齢を証明できるものの提示を求められなかったのも良い)。

 さて、本題の展覧会の方だが、思いがけず面白くて、時間を忘れてじっくりと鑑賞してしまった。わたしはますむらひろしのマンガをちゃんと読んだことのない人間だが、ヒデヨシという(愛すべき)キャラクターは知っていたし、アタゴオルという不思議な世界を描いたり、宮沢賢治の童話を猫を登場人物にしてマンガ化したりしていることは知っていた。今回、ますむら氏が山形県米沢市の出身であることを知り、そういえば確かヨネザアドなんていうのがあったことも思い出した。
 今回集められているのは、葛飾北斎の富嶽三十六景を始めとする名所図絵の中に、ヒデヨシやアタゴオルの登場人物たちを紛れ込ませた、一種の模写のような不思議な作品群である。パロディというようなものではなく、あくまでも北斎に対するリスペクトに基づいた創作が行われている。

 冒頭に載せたチラシに採用されているのは、富嶽三十六景の中でも特に有名な「神奈川沖浪裏」だが、舟の舳先にヒデヨシを配したり、漁師たちを猫の姿に変えたり、船縁や波の先端にタコを紛れ込ませたりしている。北斎の原画の構図や描法、色彩などをかなり克明に写しながら、かなり大胆な換骨奪胎を行った部分もあるようだ。
 全体として、北斎の描いた浮世絵世界は厳然としてそこにあるのに、ヒデヨシたちますむらひろしの登場人物(猫たち)が、その中にさりげなく(しかし当然のように)存在してしまう可笑しさ。決して存在を主張するというのではなく、ちょっと存在させていただいたという感じなのだが、それでいながら見ていると、ヒデヨシたちは妙に馴れなれしい感じでその風景の中にすっかり馴染んでしまっているのである。ヒデヨシの大胆不敵だが憎めない感じの笑顔が、まあまあまあまあなどとうそぶいて通り過ぎていく気分である。

 一つ一つの作品に、ますむらひろし自身の解説というか、詳細なコメントが付けられていた。北斎の原画をどのようなものとして捉え、それをどう自分の世界と関連付けていくかといったことについて、非常に率直で具体的な言及がなされていた。この文章がどれも面白くて、読んでいるとついつい長くなって、後から来たお客に何度か抜かされてしまった。まあ、終わりの頃には疲れていい加減にしてしまったが、ますむらひろしが北斎という天才の作品と正面から対峙する様子が伝わってきて、興味が尽きなかった。
 これらの作品は、2008年から2013年にかけて雑誌に連載されたイラストだったようだが、何とも楽しい試みをしたものである。わたしはよく知らないが、ますむら氏が創造したヒデヨシやアタゴオルの世界が、きわめて個性的で広がりのあるものだったことが証明されているような気がした。展覧会では北斎に行く前に、アタゴオルシリーズの短編マンガの原稿の幾つかや、アタゴオルに関わるイラストなどが展示されていたので、その世界の気分というようなものを事前に把握できたのは、ずいぶん鑑賞の助けになったと思う。

 付けられたコメントの内容が、北斎の原画の解釈や技法の解説になっているところもあり、個人的には北斎の再発見というようなところもあった。
 北斎は確か90歳ぐらいまで生きて、その最晩年には信州・小布施の高井鴻山の許に滞在して、多くの肉筆画を残したのではなかったか。小布施に行った時、北斎館を始め北斎の足跡をいろいろ見て回ったことを思い出した。たぶんカタログなんかがどこかにあるような気がするが、例によって見つけるのは難しいだろう。
by krmtdir90 | 2016-03-05 18:15 | 日常、その他 | Comments(2)

上信電鉄日帰り旅(2016.3.3)

 手足の不具合が出てからは、どうしても出掛けるのが億劫になっていた。だが、このまま家中心の生活になってしまうのはいかにも早過ぎる。映画館通いを始めたのはそういうこともあったのだが、行きたいのはやはり鉄道の旅である。3月1日から春の「青春18きっぷ」が始まったので、何一つ計画があったわけではないが、2日に駅に行って購入してしまった。
 3日は天気も良く、暖かくなりそうだったので、手始めに日帰りで群馬県の上信電鉄に乗りに行って来た。
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 八王子駅7:21発、八高線(川越線経由)川越行きに乗車。205系の4輌編成だった。8:15、高麗川駅で下車。待っていた8:20発の高崎行きに乗り継ぐ。
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 この先は非電化になるので、キハ110系の3輌編成である。先頭車輌の塗装は、八高線全通80周年を記念したキハ38カラーというもののようだ(初めて見た)。なお。後ろの2輌は普通のオリジナルカラーだった。

 9:54、高崎駅着。
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 一旦JRの改札口(2階)を出て、右手の階段から1階に下りる。表示にしたがって行くと、JRの構内と接するかたちで上信電鉄の改札口とホームが見えた。
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 右の窓口で「一日全線フリー乗車券」2220円を購入。終点・下仁田駅までの往復運賃と同じ値段だが、途中下車することを考えると少しお得になるという設定である。硬券だが、鋏を入れることまではしていないようだ。まあいいだろう。
 ホームは頭端式の櫛形ホームで、右の0番線が乗降用のホームになっているようだ。
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 ホームの手前に、今ふうのマスコットキャラ「鉄道むすめ・富岡しるく」というのが立っている。左のホームは柵でJRのホームと分けられている。なお、ホームの先、右手の方が上州電鉄の車輌基地になっているようだった。

 わたしが乗る電車の前に、当駅止まりの電車が一本入って来て、乗客を降ろすとすぐに車輌基地の方に回送されて行った。
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 0番線ホームの先の方にはこんな感じの車輌があって、表に「電車型待合室」という看板が出ていた。
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 中はこんな感じ。廃車になった車輌の活用なのだろう。
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 さて、わたしが乗る10:16発・下仁田行きの電車が入って来た。
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 車体全面に非常に派手なペインティングが施されていて、前から見るとこんな感じ(桃源堂という玩具メーカーの広告ラッピングらしい。日射しがあるので影の方は暗くなってしまってうまく写らない)。車内は普通のロングシートだった。
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 この車輌はクモハ1001とクモハ1201という2輌編成で、一般の鉄道車輌と異なり、運転台が右にあるのが大きな特徴になっている。
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 ここで、上信電鉄について簡単にまとめておく。
 上信電鉄は、高崎・下仁田間(33.7キロ)を結ぶ全線単線の路線。1897(明治30)年に全通した、地方民鉄としては非常に古い歴史を持った路線である。1924(大正13)年に全線を狭軌(1067mm)に改軌、同時に全線の電化も完成した。「上信」という名称は、上州から信州の佐久鉄道(現小海線)・羽黒下駅まで延伸する計画があったことの名残である。

 鉄道旅のリハビリ期間中だから、なるべくのんびり乗ることを心がけていたから、わりと空いていたと思うが、途中駅などもあまり熱心に写していない。
 馬庭(まにわ)駅。
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 上州福島駅で交換待ち停車。
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 富岡製糸場への下車駅である上州富岡駅で、団体らしき集団など多くの乗客が下車してしまい、2輌目の方は乗客がいなくなってしまった。そちらに移ってみると、団体らしき人たちが座っていたあたりで窓が2カ所、開けっ放しになっていた。せっかく開けておいてくれたのだから、そこから駅の写真を写すことにした。
 で、西富岡駅。
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 上州七日市駅。
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 上州一ノ宮駅。ここの駅舎はなかなかいい感じなので、帰りに降りてみようと決めた。
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 次の神農原(かのはら)駅は、ホームに小さな待合所があるだけだったので撮影していない。
 次の南蛇井(なんじゃい)駅は、帰りに撮影したものの方がいいので省略。
 次の千平(せんだいら)駅。
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 駅舎はなく、この待合所だけの駅だが、なかなかいい雰囲気である。

 電車はここまで、ずっと平坦な田園地帯を走って来たのだが、千平駅を出ると次第に上り勾配になって、山越えの区間ような雰囲気になった。電車は崖を巻き込むように上がって行く感じで、左の窓から崖下を流れる川が見えた。帰ってから調べてみると、利根川水系の鏑川(かぶらがわ)というようだ。
 また、途中に信号所(赤津信号所)があって、上り電車(やはり2輌編成)との交換が行われた。最後に短いトンネルを抜けると、下仁田の町だった。
 終点・下仁田駅。11:19着。
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 下仁田駅、車止め。
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 有人駅で、駅員が改札口で待っているから、あまりゆっくり写真を撮っているわけにはいかない。駅舎の改札口ではなく、横の方から(写真中央右手)外に出るかたちになった。
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 正面の方に回ってみる。
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 よく晴れているのはいいのだが、完全な逆光になってしまい、どうもうまく写せない。
 少し寄ると何とかなる。
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 駅前の通り。
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 駅舎の中。
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 さっきの車輌がそのまま11:47発の高崎行きになるので、滞在時間は28分ということになる。15分前ぐらいに、今度はこの(右の)改札口から入場になった。
 わたし一人しかいなかったので(発車間際にもう一人乗車した)、ホームなどをゆっくりと歩き回った。
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 なお、最近は外出時には煙草を持たずに出るようにしているので、今回はどこでも煙草は吸っていない(家を出る前に2本、帰ってから1本吸ってしまったが、この日は計3本だった)。

 定刻に発車した電車は、来た時と同じ赤津信号所でまた交換待ちをした。今度は待ちだったので、窓を開けて撮影した。
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 千平(せんだいら)駅。撮影位置が違うのでもう一度。
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 南蛇井(なんじゃい)駅。
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 上州一ノ宮で途中下車。交換が行われたので、まずその様子を撮影。行き違いの下り電車が入って来て、
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 わたしが乗って来た上り電車が12:07発車した後、下り電車も発車して行った。
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 さて、上州一ノ宮駅。
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 こぢんまりとしているが、なかなか風格のある木造駅舎である。上信電鉄にはこうした木造駅舎がけっこう残っているようだが、調べてみても建設年次に言及しているものは見つからない。まさか明治の開業当初からとは考えにくいが、それなりに古いものであるのは確かだと思う。
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 委託駅のようだが、窓口に「駅係員不在」の表示が出ている。昼食でも食べに出ているのだろうか。
 駅舎正面。
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 駅名になっている「一ノ宮」とは、ここから徒歩15分ぐらいのところにある一之宮貫前(ぬきさき)神社を指しているらしい。

 次の上り電車が12:32なので(ここだけ運行間隔が短いのである)、ここでの滞在時間は25分である。早めにホームに入って待っていたら、ここで交換になる下り電車が入って来た。見ると、車輌の様子などがかなり違う。
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 帰ってから調べてみると、これはデハ205という1967年製造の車輌で、すでに営業運転からは引退しているもののようだった。もちろん乗客はなく、
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 後ろに黒い塗装のホッパ車を連結していた。
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 これは旧国鉄から譲渡された砕石散布用のホッパ車で、ホキ801という車輌表示があった(ホキの前に小さくオの表示がある)。
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 珍しいものが見られたと喜んでいるうちに、わたしが乗る上り電車がやって来た。
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 この車輌は「ぐんまちゃん列車」というヘッドマークが付けられ、側面には県のマスコットキャラであるぐんまちゃんや上信電鉄の富岡しるくなどが描かれていた。
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 車内は、天井などあちこちにぐんまちゃんが描かれ、運転席の後ろには大きなぬいぐるみが座っていた。
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 調べてみると、これは西武鉄道から譲渡された車輌で、2005年から上信電鉄に登場したクモハ501・クモハ502という編成で、最近この塗装が施されたもののようだ。運転席は普通のように左側にあるようだ。

 12:32、上州一ノ宮駅発、12:39、上州富岡駅着。下車する。
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 上州富岡駅は2014年3月にリニューアル開業したらしい。
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 富岡製糸場が正式に世界遺産に登録されたのは2014年の6月(ICOMOSの勧告は4月)だから、世界遺産推薦の段階から駅の一新に取り組んできたことになる。何やらいろいろなデザイン賞を受賞している建物らしい。

 というわけで、別に興味があったわけではないのですが、世界遺産・富岡製糸場、通りすがってしまったので一応行って来ました。
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 右上にあるのが、駅でくれた行き方の案内地図。徒歩15分はかからなかったような気がします。地図の途中に載っていたレストラン新洋亭という店で、オムライスの昼食を食べました。

 見学料は1000円で、シニア割などはないようだった。中でウロウロしていると、解説員のガイドツアーというのが200円払うと参加できて、40分ほどで見どころを一通り案内してくれるらしい。で、20人ぐらいのグループで説明を聞きながら一回り。その後、少し写真などを撮ったが、何と言えばいいのか、世界遺産となる歴史的意義は理解できるけれど、率直にあまり面白いところとは言えない気がした。でも、まあ、写真を幾枚か。
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 で、再び上州富岡駅。
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 やって来た15:04発の高崎行きは、またあの「ぐんまちゃん列車」だった。
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 15:43、高崎駅着。

 これで今回の小さな旅は終わりになるはずだった。ところが、JRの改札を入り、八高線のホーム(4番線ホームの先端部が切り欠きの3番線ホームになっている)に歩いて行こうとしたところで、4番線ホームに横川行きの電車が停まっているのに気付いてしまった。電光掲示は15:52発と表示されている。
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 ついふらふらと乗ってしまって、横川駅まで往復乗車することになってしまった。
 新幹線のせいでズタズタにされてしまった信越本線の、高崎方に残ったわずかな区間である。横川の先、軽井沢との間は線路そのものが廃止になってしまい、この区間はどこにもつながらない盲腸線になってしまった。
 107系電車の4輌編成、車内はロングシートで、乗客は座席の半分ぐらいを埋めているが、途中の安中・松井田といった駅でどんどん下車していき、終点の横川ではほとんど数えるほどになってしまった。もちろん全区間複線で、途中駅も広い作りだが、それがかえって侘びしさを増しているような気がした。
 16:25、横川駅着。同じ車輌が5分後に折り返すので、急いで外に出て来た。
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 駅舎の脇に峠の釜めしの売店があったが、こうなってしまった駅で、はたして売れることがあるのだろうかと考えてしまった。
 広い構内も閑散としていた。
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 16:30、横川駅発。17:02、高崎駅着。帰りは、途中駅から下校する高校生たちが乗って来て、それなりの利用があるようだった。

 八高線の3番線ホームに、見慣れたカラーのキハ110が2輌編成で停まっていた。
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 17:07、高崎駅発。18:49、高麗川駅着。18:51、高麗川駅発。19:35、八王子駅着。
 日帰りだとやはり体力的にはきついと思った。いい天気で気温も上昇したので、どうやら花粉がたくさん飛んでいたようだ。
by krmtdir90 | 2016-03-04 22:28 | 鉄道の旅 | Comments(2)


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