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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル1・準備スタート

 6月の恒例行事、コピスみよし高校演劇フェスティバルの準備が進んでいる。回を重ねて、今年は第15回の節目になるという。よく続いてきたものである。

 最初にチラシの写真から。
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 会場のコピスみよしは交通の便があまり良くないので、当日は最寄りの鶴瀬駅から無料送迎バスの運行も行われる。チラシの裏面はその時刻表など。
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 チケット(一日券300円)は、コピスみよし窓口または各出演校演劇部で購入できる。もちろん当日券もあるので直接会場に来てしまっても大丈夫。

 5月6日(金)に第1回実行委員会と出演校打ち合わせ会・会場下見が行われた。
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 今年は初めて、埼玉県外から東京大学教育学部附属中等教育学校(都大会3年連続出場)のゲスト出演が実現した。もちろん県内5校についても大いに期待できる演目が並んだ。

 5月25日(水)には第2回実行委員会とヒアリングが実施された。
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 そろそろ各校に照明仕込み図とチャンネル表が送付されている頃である。このあと6月3日(金)の第3回実行委員会とQシート等の提出を経て、6月11日(土)のリハーサル、同12日(日)の本番を迎える。

 今年もぜひたくさんのお客様においでいただき、楽しい一日を過ごしていただきたいと思っています。コピスみよしでお会いしましょう。
by krmtdir90 | 2016-05-28 11:59 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

久しぶりの歌舞伎見物・團菊祭五月大歌舞伎(2016.5.26)

 26日(木)、久し振りに妻と歌舞伎見物に行って来た。歌舞伎は門外漢だからあまり書くこともないのだが、一応記録ということで簡単に書いておくことにする。
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 行ってみたら、正面に大きな千穐楽の垂れ幕が下がっていた(カメラを持って行かなかったので、これはスマートフォンで撮影した)。
 千穐楽を見るのは初めてだったが、最後の演目(舞踊)の時、舞台から客席に何やら小さなプレゼントらしきものがたくさん投げ入れられたり、途中客席からの掛け声もいつもより多かったかなというようなことで、特に千穐楽を選んで見に来るお客もいるのかもしれない。

 夜の部(午後4時半開演)最初は「勢獅子音羽花籠(きおいじしおとわのはなかご)」という華やかな舞踊で、終わりに尾上菊之助長男・寺嶋和史の初お目見得が行われた。まだ2歳半だというから当人は何も判ってはいないだろうが、将来歌舞伎役者になることを運命付けられている生まれということで、祖父の菊五郎、吉右衛門を従えて父菊之助に抱かれて登場したが、客席ともどもお祝いの手締めを当人も楽しそうにやっていたのが印象的だった。

 続くお芝居は2本、「三人吉三巴白波(さんにんきちさともえのしらなみ)」大川端庚申塚の場一幕と、「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」本能寺馬盥の場・愛宕山連歌の場の一幕二場だった。
 「三人吉三」の大川端は、吉三の名を持つ三人の盗賊が初めて揃って義兄弟の契りを交わす場面で、特段難しいところは何もない。お嬢吉三に菊之助、お坊吉三が海老蔵、和尚吉三は松緑という組み合わせ、ぴったり息も合ってキレのある芝居を見せたと思った。お嬢吉三の「月も朧に白魚の篝も霞む春の空・・・こいつあ春から縁起がいいわえ」という、黙阿弥の七五調ゼリフもなかなか堪能させられた。
 「桔梗旗揚」の方は鶴屋南北の作だそうで、本能寺の変を題材とした時代狂言のクライマックスの二場ということだった。織田信長にあたる小田春永を市川團蔵、明智光秀にあたる武智光秀を尾上松緑が演じたが、春永による執拗な辱めに光秀がふつふつと内に怒りをたぎらせ、それが謀反の決意にまで変質していく過程を、歌舞伎には珍しい静止した沈黙の長い間で表現する緊迫感はなかなかのものだったと思う。

 最後は再び華やかに舞踊「男女道成寺(めおとどうじょうじ)」だった。「娘道成寺」が女(白拍子)一人で踊るのに対し、こちらは二人で踊り始めたところ、その白拍子の一人が実は男の狂言師であったという種明かしがあり、その後は男女が様々な趣向を凝らした踊りを披露するという、道成寺物のバリエーションの一つらしい。所化(しょけ)という坊主たちのおどけた絡みも併せ、変化に富んだ踊りで飽きることなく楽しめた。白拍子が菊之助、狂言師が海老蔵だった。

 今回は2階席3列目での観劇だったが、歌舞伎座はせっかく大規模な改築を行ったのに、客席の構造などが基本的に全く変わっておらず、前席の客の頭が視野を遮って見にくくなる点が少しも改善されていないのは困ったものだと思った。いまどき、これほど見にくい客席の劇場は歌舞伎座以外にはないのではなかろうか。新装なったばかりでは改装も難しいのかもしれないが、外国人観光客などを取り込もうということであるなら、絶対に考えなければならないことだと思う。
by krmtdir90 | 2016-05-27 15:02 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

「下り坂をそろそろと下る」(平田オリザ)

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 やはり、さすが平田オリザだと思った。現代の様々な問題を考えるという本なのだが、その切り口の作り方、論の立て方の随所に平田オリザの面目が躍如としているのである。

 序章においていきなり「スキー人口はなぜ減ったか」という問題が提起される。この20年でスキー人口は3分の1に激減したのだという。スノーボード人口を併せても半分以下に減っているらしい。これに対して平田オリザは次のように言うのである。
 日本中の観光学者たちが口を揃えて「少子化だからスキー人口が減った」と言う。しかし、劇作家はそうは考えない。「スキー人口が減ったから少子化になったのだ」。
 かつて20代男子にとって、スキーは、女性を一泊旅行に誘える最も有効で健全な手段だった。それが減ったら、少子化になるに決まっている。
 スキーはもちろん比喩である。彼は続けて次のようにも言う。
 街中に、映画館もジャズ喫茶もライブハウスも古本屋もなくし、のっぺりとしたつまらない街、男女の出会いのない街を創っておいて、行政が慣れない婚活パーティーなどをやっている。本末転倒ではないか。

 平田オリザがこの本で考えようとしているのは、もはや成長社会に戻ることはありえない、避けることのできない人口減少社会において、「下り坂をそろそろと下る」しかなくなっている日本人が、これからどういうことをどういうふうに考えていったらいいのかという問題である。
 キーワードは「文化」ということになるのだろうか。この本で取り上げられている問題は非常に広範にわたっているが、とりわけ教育改革、大学入試改革の問題には多くのページが割かれている。重要な視点になっているのが、身体的文化資本の格差という問題である。「文化資本、とりわけセンスや立ち居振る舞いなどの身体的文化資本」(味覚や音感、言語感覚なども含む)を育てていくには、「本物に多く触れさせる以外に方法はない」とし、そうであるなら「現在の日本においては、東京の子どもたちは圧倒的に有利ではないか」と平田オリザは述べる。

 この「文化」の地域間格差に、貧困などの経済格差の問題が加わって、子どもたちの身体に現れる文化資本の格差は、負の連鎖となって日本の社会に加速度的な断絶をもたらすことになると平田オリザは述べている。彼はこの地域間格差について、「地方の子どもは芸術に触れる代わりに、豊かな自然に触れている」という言い方が「詭弁に過ぎない」と断じた上で、「地方ほど、少しずつでも教育システムを変革し、文化政策を手厚くして、本物の芸術に触れ、そこから感性を豊かにし、さらにそれを表現へと結びつける施策が必要」であると述べている。
 さらに「地方で教育改革を急がなければならない理由の一つは、それが人口減少対策と直結しているからだ」と述べ、「文化資本が脆弱な地方の若者たちには、都会に出ても『偶然の出会い』の機会は少ない。また、たとえ(略)結婚できたとしても、都市部においては、出産、子育ての環境は劣化の一途をたどっており、多くの子供を産み、育てることはできない」として、「要するに、若者たちを地方に回帰させ、そこに『偶然の出会い』を創出していくしか、人口減少問題を根本的に解決する方策はない」と結論づけている。
 途中の論を省略してまとめたから乱暴な論のように見えてしまうかもしれないが、平田オリザの主張はきわめて真っ当で筋道立ったものである。

 また、別のところで平田オリザはは、東北の復興と北海道の旧産炭地の凋落を関連させながら、宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」なども引いて次のように述べている。
 自分たちが誇りに思う文化や自然は何か。そして、そこにどんな付加価値をつければ、よそからも人が来てくれるかを自分たちで判断できる能力がなければ、地方はあっけなく中央資本に収奪されていく。/私はこのような能力を、「文化の自己決定能力」と呼んでいる。
 では、この能力(センス)はどのようにして育つのか。書き抜くと繰り返しになってしまうのだが、彼は再び次のように述べている。
 それは畢竟、小さな頃から、本物の文化芸術に触れていくことからしか育たないと私は思う。もしそうだとするならば、東京の一人勝ち状態は、今後も半永久的に続くことになる。なぜなら首都圏の子どもたちには、それだけの機会がふんだんに保証されているのだから。
 それでも「現代社会においては、付加価値を生み出す力、文化の自己決定能力が地域の競争力を決定する」のであり、「このまま有効な文化政策をうたなければ、東京と、その他の地域の文化格差は、今後も広がる一方になるだろう。東京一極集中の最大の要因はこの点にある」と述べている。

 どうも今回は抜き書きばかりの感想文になってしまったが、わたしが個人的に面白いと思ったのは、日本の新幹線がどうして外国に売れないのかという問題を、文明と文化の違いということを切り口にして考えた部分だった。
 端的に言ってしまえば、日本の新幹線が誇る安全で正確な技術というのは文化の問題なのであって、高速鉄道を建設して走らせたいというのは文明の要求であるということになる。文明は客観的合理性を持ち、だれもが参加できる普遍的なもの、文化は逆に、不合理なものであり、民族などの特定の集団においてのみ通用する特殊なもの、ということであるらしい。言われてみると、新幹線が時間に正確というのは日本固有の文化にすぎないのであって、文明が求めるものとは少しずれているのかもしれないと思った。
 平田オリザは次のように述べている。
 世界には様々な文化がある。文化は客観的合理性によって成り立っているものではないので、よしあしではないし、まして優劣ではない。その文化の中に、良きところもあれば、悪しきところもある。それは時代や、もっと小さなタイミングによっても異なってくる。
 平田オリザの本には、学ぶところがたくさんあるのである。
by krmtdir90 | 2016-05-24 16:44 | 本と映画 | Comments(0)

映画「殿、利息でござる!」

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 タイトルの印象からドタバタしたコメディかと思いきや、これが実にまともな作りのユーモア溢れる人情時代劇で、感動の涙を押さえるのに苦労したことを最初に書いておきたい。

 磯田道史という歴史学者が「無私の日本人」という著書の中で発掘した実話の映画化だということだが、その元の話が実にいい話なのが第一である。だがそれにしても、これを映画としてどう料理するかは様々な誘惑があったのではないかと思う。
 いまから250年前の江戸時代、仙台藩の重い年貢により破産や夜逃げが相次ぎ寂れ果てた小さな宿場町・吉岡宿で、町の将来を心配した男たちが逆転の発想による奇策で宿場を救う物語である。当時極端な金欠状態にあった仙台藩に大金を貸し出し、その利息によって疲弊した宿場を建て直すという計画。悪事に手を染めたり一攫千金の大博打とかではない、貧しい庶民が1000両(約3億円)の大金を8年がかりで用意し、打ち首覚悟でお上に願い出て、毎年100両(約3千万円)の利息を受け取るようになるまでの過程を描いた物語である。まさに奇想天外な話だが、これが実際にあった話なのだと言われると驚くしかない。

 監督・脚本の中村義洋という人の映画を見るのは初めてだが、この人が見せた料理法の見事さは特筆すべきものがあると思った。一言で言えば「押さえたユルさ」とでも言おうか、まず登場人物たちにくっきりしたキャラクターを与え、それを上手に配置して絡み合わせたバランス感覚の素晴らしさ、さらに各人がやり過ぎの熱演芝居にならないよう、ギリギリのところで押さえさせた演技指導の的確さ、結果的に集団として一生懸命ではあるのだけれど、自然に醸し出されるユルい雰囲気の心地良さといったことである。だから、羽目を外して大笑いできるようなシーンは皆無だが、思わずクスリと笑ってしまうような可笑しいシーンはいっぱいあって、実に好感度MAXという感じで最後まで見ることができたのである。
 見終わった時の爽快感はなかなかのものがあり、大衆向けのお話として実に過不足のない出来映えになっていたと思う。映画として「不足」ではどうにもならないが、「過」にならなかったところにこの監督の真骨頂があったような気がする。

 わたしに限らず、日本人はこういう話は文句なく好きなのである。利息を取って出資者が金儲けをしようというのではない。しかも彼らは、この行為が後々無用の軋轢を生んだり勘違いの元になったりしないように、子孫の代に至るまでこれを明らかにすることがないよう「慎みの掟」を作ったというところがいい。一方で、こんなことは夢物語だと半信半疑だった人物や、金儲けや名誉と無縁の話であることに本音では納得できない人物なども交じって、いわば世俗的な実感と遊離しないところでこの奇跡の物語を語って見せたところに、この映画の素晴らしいところがあると思った。美談だからと言って感動を押し売りされたら白けるだけだが、こんなふうにユルユル淡々と描かれてしまうと、涙腺は我慢できなくなってしまうのである。
 この藩から得た利息の結果、吉岡宿は幕末まで安泰だったらしいが、この物語は彼らの「慎み」のせいもあって、「國恩記」という古文書から磯田道史が掘り起こすまで、後の世に語り伝えられることはほとんどなかったのだという。

 仙台の出身だからということだったのだろう、フュギュアスケートの羽生結弦選手が仙台藩七代目藩主・伊達重村役でラストの方に登場していた。そうしたサプライズが決して物語を傷つけていないことも書いておきたいと思う。羽生クンのちょんまげ姿はなかなかりりしく、サマになっていたと思う。
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by krmtdir90 | 2016-05-23 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

和光国際高校演劇部の皆さんへ

 先日わたしがこのブログに掲載した春大の感想文について、コメント欄で「和光国際高校保護者」を名乗る人物とやり取りがあったことは知っていると思います。その中で、皆さんが感想文の終わりの段落を皆さんの舞台に対する批判と受け止めてしまったらしいことを知りました。わたしは文章全体の流れからして、この台本で最大の問題と感じるシーンを具体的に指摘したのですが、確かに若干言葉足らずの点があったかもしれないと思い、そのことがはっきり判るようにさっき感想文を修正したところです。もちろん感想文の主旨は全く変わっていませんし、皆さんの舞台を評価できなかったという感想は変わるものではありません。しかし、不本意ながらこんな経過になってしまったので、ここでそのあたりのことについてもう少し詳しく皆さんに説明しておきたいと思います。

 もちろん、台本選びの段階で皆さんの中にいろいろな思いがあり、しっかり考えた上でこの台本を選んだということは承知しているつもりです。皆さんはこの台本をいい台本だ、面白い台本だと思って選んだに違いありません。しかし、わたしにはそういう台本とは思えなかったということになります。台本というのは発表された時点で多くの読者の目に触れることになり、様々な読み方や意見に晒されるものだというのは判ると思います(舞台を上演するというのも全く同じことです)。皆さんはこの台本を買ったけれど、残念ながらわたしは買うことが出来なかった。それだけでなく、わたしはこの台本が被爆者の思いといったテーマを扱いながら、そのことに全く誠実でないことに怒りに近い感情を抱いたのです。その点に絞って、少し説明してみたいと思います(台本が手許にないので、細かい点に触れることが出来ないのは勘弁してください)。

 この母親は原爆投下直後の混乱の中でわが子を見捨てて逃げたという過去を持っていると設定されています。彼女はその過去を自分に許すことが出来ず、以来ずっと口を閉ざし心を閉ざして一生を終えたということになっています。そういう設定をすることは構わないのですが、その彼女が死ぬまで抱え続け直面し続けたこの最初のシーンというのは、いったいどんなものだったのでしょうか。普通の感覚で言えば、母親というのは自分の命を引き換えにしてでもわが子を助けたいと思うのが自然だと思うのですが、彼女はそうしなかった。そうできなかった決定的な状況がそこにはあったと考えるしかないと思います。それではいったいどんな状況が考えられるのでしょう。
 たとえば、わが子は原爆の熱線を浴びて身体中血だらけになり(あまり細かく描写する気持ちにはなれない)もはや虫の息であったとか。さらにその身体は瓦礫の下敷きになっていて、容易に助け出せるような状態ではなかったとか。さらに周囲には火の手が間近に迫っていて、すぐに逃げなければ焼け死ぬしかないような状況だったとか。さらにその時近所の知り合いが彼女の手を強く引いて逃げることを促したとか。いずれにしても、そこにはわれわれの想像も出来ないような凄惨で無惨な状況があったのだろうと思います。そしてさらに言えば、それでもこの母親にはその場にとどまってわが子とともに死ぬという選択肢もあったと思うのです。でも、そうはしないで逃げてしまった。
 母親を責めることなど誰にも出来ません。その時の情景は彼女の中にいつまでも鮮明に残り続け、彼女はその凄惨で無惨なイメージに生涯責められ続けたのだろうと思うからです。
 この台本は、そのシーンを舞台上で演じさせようと(再現しようと)したのです。そんなことは出来ることではないし、どうやったところで嘘っぱちの誤魔化しにしかならないのは分かり切ったことではないでしょうか。彼女が一生涯苦しめられ続けた、忘れようにも忘れようのない、そして誰にも判っては貰えないと必死で蓋をし続けたその情景を、舞台上でやって見せなさいと指定する作者の配慮のなさ、残酷さを、わたしは無神経であると書いたのです。

 次に、母親が大きくなった豆の木を登っていき、天上でわが子と再会を果たすシーンについてです。この一連のシーンはいったい何を表現していたのでしょうか。母親は一生苦しんだのだから、最後に彼女が救われるシーンを入れてあげたかったとでも作者は言うのでしょうか。だいたいジャックと豆の木でもあるまいし、天まで届く豆の木という現実にはありえないファンタジーを設定することが、この母親にとって(このストーリーにとって)どんな意味を持っていたと考えているのでしょう。わたしにはどうしても理解することができませんでした。誰にも口を閉ざし心を閉ざしてきた母親が一人で一歩一歩豆の木を登り始めたということが仮に何らかの比喩であったとしても、それに対応する彼女の現実の行為については何一つ触れられてはいないのです。周囲で多くのコロスたちが歌で彼女を励ましますが、彼女の現実の行為とリンクしていないのでは何に対する励ましなのかは全く明らかにはなっていないと思うのです。
 一つの解釈として、母親は苦しみ抜いて死んだのだから、その死によって長い苦しみから解き放たれた、豆の木を登っていくのはその解放の過程を表現しているなどという、安直としか言いようのない見方が可能なのは判っています。でもそれは、母親が抱え続けた誰にも判ってはもらえないという苦しみ、被爆者の苦しみに寄り添うようなふりをして、実は周囲の無関係な輩が勝手に作り上げた無責任なハッピーエンドに過ぎないと思います。
 そして、さらに許せないと思ったのは、百歩譲って母親が天上でわが子と再会できたとしても、母親がまず謝らなければならないのは、あの時の血だらけで無惨な姿になってしまったわが子でなければおかしいのではないかということです。母親はそのわが子の姿と一生涯ともに過ごしてきたはずだからです。ずっと心の中で詫び続けて生きたはずだからです。原爆以前の無傷で可愛いわが子の姿は彼女の中では永遠に失われてしまったものではないかと考えるからです。少なくとも自らが捨てて逃げてしまった時点のわが子に対して何らかの決着をつけない限り、彼女は無傷で可愛いわが子の姿と出会うことはできなかったと考えるべきだと思っています。母親は苦しみ抜いて死んだのだから、舞台上で最後にそのくらいのプレゼントをしてあげてもいいじゃないかという作者の姿勢を、わたしは安直と書いたのです。

 もちろん、これはあくまでわたし一人の意見であり感想に過ぎません。異なる意見を持ち、異なる感想を持つ人ももちろんいるでしょう。一つの台本に対して様々な意見や感想が存在するのは当たり前のことだからです。しかし、この間の経過で「和光国際高校保護者」がやったように、それがこの台本をいい台本だと思って選んだ皆さんの見方と違っているからと言って、排除してしまうようなことをするのは決していいことだとは思いません。皆さんは判っていると思いますが、この台本をいい台本だと思って上演した皆さんは、こんなふうにこの台本をいい台本だとは思っていない観客に対しても、その見方を凌駕するような舞台を作らなければならなかったのではないでしょうか。高校演劇では過去にそういった舞台(問題点だらけの台本を大化けさせてくれた舞台)がなかったわけではないからです。残念ながら皆さんの作った舞台は、わたしに対して台本の問題点を際立たせてくれるような結果にしかなっていなかったように思います。

 和光国際高校演劇部は、過去に素晴らしい舞台を幾つも作って見せてくれました。つい最近でも、「Damn!舞姫!!」や「ナツヤスミ語辞典」といった舞台は非常に見事な出来映えで印象に残っています。皆さんの次の舞台をわたしは期待して待っていることをお伝えしておきます。
by krmtdir90 | 2016-05-21 08:40 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(4)

「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」(嶌信彦)

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 ウズベキスタンへのツアーのメンバーの中に、最近まで横浜の方で本屋さんをなさっていたという方がいらっしゃって、その方が紹介してくださった本である。近くの書店には見当たらず、先日新宿に出た折りに紀伊國屋書店で見つけて購入してきた。
 今回の旅でタシケントのナヴォイ劇場は深く印象に残っていたので、その建設の様子を紹介したこの本は大いに期待して読んだのだが、残念ながらわたしの期待は大きく裏切られる結果となった。感想文を書かないことも考えたが、結果はどうであれわたしがナヴォイ劇場にひどく感動したことは変わらないのだから、それに関連した読書の記録として一応残しておくことにした。

 著者の嶌信彦という人は、写真を見るとテレビなどにもよく出ていた著名なジャーナリストである。略歴によれば、NPO法人日本ウズベキスタン協会というところの会長も務めているようで、その関係から非常に多くの方面に取材を重ねてこの本を執筆したようだ。そういう意味では、ナヴォイ劇場建設にまつわる興味深い事実などもたくさん入手していたのではないかと思う。
 しかし、それはこの本では少しも生かされることはなかったと思った。端的に言えば、この人はドキュメンタリーというものを書くための方法論をきちんと確立できないまま、この本を書いてしまったのではないかと感じた。どんなに興味深い事実を発掘したとしても、それを正しく読者に届けるためのドキュメンタリーの作法を操ってくれなければ、せっかくの宝も生かされないことになってしまうのだと思った。残念と言うしかない。

 日本兵捕虜としてナヴォイ劇場の建設に携わったのは、永田行夫隊長以下457人の旧陸軍航空部隊の工兵たちだったという。旧満州でソ連軍の捕虜となった時、各部隊にいた佐官級(大佐以上)はモスクワの収容所に送られることになり、編成替えされた一中隊を当時大尉だった永田行夫が任されることになったらしい。永田はこの時まだ24歳の若さだった。
 何とも興味深い始まりと言っては少々語弊があるかもしれないが、このあと彼らが遥か中央アジアのタシケントまで移送され、その第4収容所で苦難の抑留生活をスタートさせると同時に、後年タシケント市民の誇りとなるようなオペラハウスの建設に従事させられることになる経緯は、ドキュメンタリーとして書かれるのであれば是非とも読んでみたい内容と言ってよかった。

 著者の嶌が犯した最大の失敗は、これを安直なドラマ仕立てにして記述してしまったことにあると思う。テレビのドキュメンタリーなどでも時々見かけるこのドラマ仕立てという手法は、視聴者が想像し考える自由を一方的に奪ってしまう最悪の手法である。ましてや本は映像ではない。字面を追いながら読者が思考していく回路を、このドラマ仕立てがことごとく阻害してしまう結果になってしまった。嶌にはドラマを組み立てる力もきわめて貧弱だったと言うしかない。
 永田隊長を始め多くの登場人物は嶌が書いたセリフを喋るのだが、嶌はまず平田オリザの「演劇入門」あたりを読んで、セリフの何たるかからしっかり勉強し直してほしいと思った。セリフだけではない。様々な描写なども含めて、登場人物たちの思いや絡みが要するに陳腐な予定調和のレベルに貶められてしまい、事実の持つ奥行きなどがみんな消されてしまった上っ面だけが残される結果になった。読みながら、こんな時にこんな会話をするわけがないだろうと断ずるのは悲しいことだった。

 それでも、この地に日本兵捕虜たちが残した足跡というものは、後世の日本人がしっかりと記憶に留めておくべき大きな歴史上の出来事だったと思う。だからこそ、嶌氏には取材で明らかになった事実をあくまで事実として客観的に記述してほしかったのである。どういう人々に取材をし、どういう証言や資料などを入手したのか、そこからどういう事実が見えてきたのかを余計な操作なしに教えてほしかった気がする。
 過去にこのブログでも取り上げた幾つかのドキュメンタリーの傑作を思い出すと、このナヴォイ劇場建設のドキュメンタリーがそういうものでなかったことが惜しまれてならないのである。
by krmtdir90 | 2016-05-19 18:47 | 本と映画 | Comments(0)

ウズベキスタンの旅⑩タシケント散歩(2016.4.21)

 4月21日の夜明け。
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 ヒワのイチャン・カラ、南門に別れを告げる。
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 いよいよウズベキスタン最後の一日である。この日の朝が一番厳しい日程だった。7:15に集合して、バスでウルゲンチの空港に向かう。
 この道路にはトロリーバスが走っていた。トロリーバスは架線から電気を受けて走るから、それなりに整備された道路でないと成り立たない乗り物である。
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 30分ほどでウルゲンチ空港に着いた。
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 ウズベキスタン航空の国内線でタシケントに向かうのである。

 ウルゲンチ空港は地方空港だから、手荷物検査なども簡単だろうと思っていたら、こんなところでライターが引っ掛かって没収された。100円ライターだから別に構わないのだが、引っ掛からない人もいたようなので何となく割り切れない。
 今回のツアーでは珍しく喫煙者が(わたしも入れて)4名もいて心強かったのだが、その中でやはりライターを没収された男性が、こんなこともあろうかとマッチを用意していたのには感心した。このあと、このマッチや没収されなかった他の人のライターにお世話になることになった。

 空港ビルを出てすぐのところにわれわれの飛行機が停まっていた。
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 日程表では、9:35ウルゲンチ発、11:05タシケント着、飛行時間1時間30分となっていて、ほぼその通りの時間でタシケント空港に到着した。
 タシケント空港は首都の空港なので(国内線と国際線は別々になっているようだが)、敷地も広くバスで空港ビルに運ばれた。
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 ただ、スーツケースが出てくるのに時間がかかり、外に出た時にはもう12時近かった。
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 空港からこの日の昼食場所まで、バスで30分ほどかかった。
 鉄道の線路を越えた。
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 子どもたちと母親たち。
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 これはロシア正教の教会のように見える。
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 そして、これが鉄道のタシケント駅。
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 タシケント駅と隣接して、鉄道技術博物館という野外施設があった。
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 行きたかったが、まあそれは無理ということで。

 この日の昼食は中華だった。さすが首都ともなると、食事にも選択の幅が出てくるのだろう。
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 食後は午後のタシケント見物に出発。最初はバスで15分ほど。
 そのバスの車窓から。これはウズベキスタン国営航空の本社ビルだったようだ。
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 タシケント市内には路面電車が走っている。突然現れたので、慌ててしまってうまく写せなかった。
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 これはアパートだろうか。
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 交差点。左に写っている看板の若い女性はウズベキスタンで人気の歌手・俳優であるらしい。
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 舗道の風景。
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 路面電車を写すことができた。
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 ということで、最初に行ったのは日本人墓地である。
 太平洋戦争が終わったあと、旧ソ連によって行われたいわゆるシベリア抑留で、シベリアとは言い難いこんな中央アジアの遠隔地にまで送られた人々がいたのだ(このことは、申し訳ないことだがこの旅に来るまで知らなかった)。
 調べてみると、ウズベキスタンに抑留された日本人捕虜は約25000人、死者は884人とされている。そのうち、われわれが訪ねたヤッカサライ墓地には79名が埋葬されているという。

 これが公営のムスリム墓地入口。
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 中に入ると、なにやら大規模な建設工事が行われていた。
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 この左手を進んで行くと、
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 日本人墓地はずっと奥まったところにあった。
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 墓守をしてくれている現地男性がいた。
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 われわれは、添乗員が用意していた線香を代わる代わる手向けてお参りをした。それにしても、非常にきれいに整備された墓地である。
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 墓標の裏には79名の死者の名前と出身県が漢字で刻まれていた。
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 敷地の奥には、ウズベキスタン各地にある日本人墓地を一覧できる鎮魂碑が並んでいて、それぞれに埋葬された人数が記されていた。
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 お参りしながら、先日ロシアのバイカル湖畔で訪問した日本人墓地のことを思い出していた。あちらは忘れられたような草むらの中にあった。こちらの墓地も旧ソ連時代にはかなり荒れ果てていたようだが、ウズベキスタン独立後に様々な人々の努力によってここまで整備されたものらしい。彼我の差は何ともし難いものがあるが、やはりこうして手厚く葬られているのを見ると、自然に心打たれるものがあると思った。

 墓参を終えて、再びバスで10分足らず、次に向かったのはウズベキスタン歴史博物館だった。
 また何枚か、バスの車窓から。これはサッカースタジアムらしい。
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 この「M」のマークはメトロ(地下鉄)のことで、ここに地下鉄の駅があるらしい。
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 右手に写っている「Sunday」というのは、最近進出が著しいスーパーマーケットのようだ。
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 ウズベキスタン歴史博物館。
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 入口の重厚な木の扉。
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 正面ホール。
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 ここではガイドの説明にしたがって、ウズベキスタンの歴史について見て回ったが、時々興味深い展示物もあったが、写真も撮っていないしあまり覚えていない。

 このあと、近くにあるナヴォイ・オペラ・バレエ劇場に向かった。
 ナヴォイ劇場は、旧ソ連時代にはモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、キエフのオペラハウスと並ぶ4大劇場の一つとされていたものらしい。完成は1947年11月だが、この建設に1945年秋から2年間、非常に重要なかたちで関わったのが、ソ連軍によって抑留され当地に送り込まれた日本人捕虜たちだったのだという。彼らはきわめて劣悪な環境下に置かれながらも、手を抜くことなく、現地ウズベク人たちと協力してこの建設に熱心に取り組んだらしい。
 1966年4月、タシケントは大きな直下型地震に見舞われ、市街地の大半が崩壊する大きな被害を受けた。この時、市の中心部にあったこのナヴォイ劇場だけが、ほとんど無傷のまま倒壊を免れ、市民の避難所として活用されることになったのだという。この時以来、捕虜であるにもかかわらず日本人が誠実に仕事に取り組み、高い技術力で劇場建設にあたったことへの賞賛と敬意が、ウズベキスタン人の中に自然に広がっていったようだ。

 大地震でも倒れなかった素晴らしい劇場を日本人の捕虜が建設してくれたという話は、現代でもほとんどのウズベキスタン人が語り伝え、誰もが知っているような有名なことであるらしい。わたしはこの話を知らないままこの地に来たのだが、ガイドの説明を聞きながら胸が熱くなるような感動を覚えた。
 これがナヴォイ・オペラ・バレエ劇場である。
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 前の広場にある噴水は大変素晴らしいもののようだが、残念ながらこの時は休止中だった。
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 ガイドのバティールさんは、われわれを建物の右側面の方に連れて行った。
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 そこには、この劇場建設に日本人が貢献したことを明らかにするプレートが埋め込まれたいた。
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 このプレートにまつわるエピソードも胸を打たれるものだった。当初ここには、ウズベク語、ロシア語、英語で「日本人捕虜が」と書かれていたらしい。1991年のウズベキスタン独立後、これを見たカリモフ大統領が「ウズベキスタンは日本と戦争をしたことはないし、日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、1996年に現在のようなプレートに作り直させたのだという。

 われわれは(少なくともわたしは)ウズベキスタンのことをほとんど何も知らなかったが、ウズベキスタンの人々はずっと日本という国に敬意と親近感を抱いてきたらしい。その始まりのところに、このナヴォイ劇場建設にまつわる様々な経緯があったのを知ったことは、わたしにとってとても大きなことだったと思っている。
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 このあと、劇場の裏手から道路を渡って、ウズベキスタンで最後の買い物タイム・スーパーマーケットに行った。ご近所へのちょっとしたお土産など、ここで現地通貨のスムを使い切ってしまおうということらしかった。この奥に見えているのがマーケットの入り口だが、手前の工事中のところに大きな透明ガラスが運び込まれているところだった。
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 突然、これは「あの大鴉、さえも」(竹内銃一郎)だなと思った。

 このマーケット内で一旦解散になり、ナヴォイ広場脇の道路に停まっているバスに×分後に集合というかたちになった。われわれは早く買い物を終えたので、もう一度ゆっくりナヴォイ劇場を見て帰ることにした。
 途中に、これも明らかに劇場と思われる建物が建っていた。
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 さて、もう一度ナヴォイ劇場。
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 裏側からさっきと反対側の側面に回り込んでみた。
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 ここが搬入口のようだ。
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 建物前面の見事な造作。
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 この下を通り抜け、
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 反対側から。
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 劇場スケジュールなどの掲示板。
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 覚えておくよ、ナヴォイ劇場。
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 このあと、レストランで夕食をとり、
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 午後7時半頃、タシケント国際空港に着いた。
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 こちらでは見送りに空港ビルの中に入ることが出来ないらしく、現地ガイドのバティールさんとはここでお別れということになった。

 空港ビルに入ってからのことは、正直あまり触れたくない。出国審査がとにかく意味もなく厳重で、手荷物検査の関所を信じられないことだが3回も通された。最後には靴も脱がされ、ベルトも取らされた。最後に来て、ウズベキスタンの好印象はかなりマイナスになってしまった。
 待合室。
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 東京行きの表示。
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 窓越しに見えたわれわれの乗る飛行機。満月も見えていた。
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 ウズベキスタン航空の飛行機は22:05、ほぼ定刻にタシケント空港を飛び立った。機中泊になっていたが、ウトウトしかかったところで(とんでもない時間に)機内食が配られたり、またウトウトすると飲み物サービスが来たりと、とにかくほとんど眠ることはできなかった。
 飛行時間7時間50分、機中で時差の修正を行った(4時間プラスした)ので、成田到着は翌4月22日の9:55だった。

 整理にずいぶん時間がかかってしまったが、ウズベキスタンの旅はこれでおしまいです。読んでくださった方、どうもありがとうございました。
by krmtdir90 | 2016-05-12 21:04 | 海外の旅 | Comments(0)

ウズベキスタンの旅⑨ヒワ散歩2(2016.4.20)

 われわれが泊まったホテル・アジア・ヒワの2号棟。
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 ここで、ちょっと確認しておきたい。ヒワという町の名前は、ガイドブック(地球の歩き方)やインターネットなどでは、ほとんどがヒヴァと表記されている。われわれのツアー名称ではヒワになっているのだが、どちらが正しいのか気になったので、現地ガイドのバティールさんに確かめてみた。すると、ヒヴァというのは日本読みで、現地の人の発音はヒワと濁らないと教えてくれた。それではということで、この旅行記ではヒワという表記を採用したのである。

 9:00、2号棟ロビーに集合。現地ガイドの案内で、ヒワのイチャン・カラ(内城)の見学に出発した。
 城壁の外の道を歩いて、観光客用の正門である西門を目指す。
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 ロバが繋がれていた。
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 それにしても、この城壁はすごい。
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 南西の角を回り込んでいくと、すぐ近くに人々の生活のエリアが広がっていた。
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 ヒツジが草を食べている。
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 西門の手前にあった石像。
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 ヒワ出身の9世紀の数学者、ムハンマド・アル・ホレズミという人らしい。

 西門(オタ・ダルヴァザ門)。
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 完全な逆光になってしまった。
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 門を入るとすぐ右手に、イチャン・カラの地図が掲示されていた。
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 イチャン・カラはほぼ長方形をしているのが見て取れると思う。この下辺の真ん中あたりに西門があり、上辺の東の方角を向いてシャッターを切ったのが上の写真である。
 両側には様々なお店が並んでいる。
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 その中の一軒、帽子屋さんの前で、店の人から取り上げた毛皮の帽子を被りながら説明するガイドのバティールさん。
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 彼はこのあと、黒い毛皮の帽子を借りて(宣伝してきてやるとか無理を言ったらしい)、午前中ずっとそれを被りながら案内をした。

 カルタ・ミナル。
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 この右手奥のタイル装飾された建物はムハンマド・アミン・ハン・メドレセ。
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 1852年に完成した中央アジア最大の神学校だったようだが、現在はホテルとして利用されているらしい。
 ちょっと判りづらいが、このメドレセとカルタ・ミナルの間は木の橋でつながっている。
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 昨日の夕方に来た時と反対に、いまはこちらから太陽が当たっている。
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 右奥が西門である。それにしても、このカルタ・ミナルの美しさは記憶に残る。

 このメインストリートを歩いて行くと、現地の女性たちが音楽に合わせて踊っていた。
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 正面に見えているのはジュマ・モスクのミナレットである。
 右手の道に入って行く。
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 進んで行くと階段で少し低い道になり、正面にはイスラーム・ホジャ・ミナレットが見えている。
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 この左手にパフラヴァン・マフムド廟があった。
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 この左の高いところが入口である。
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 パフラヴァン・マフムド廟入口。
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 パフラヴァン・マフムド(1247~1326)は元々は毛皮職人だったが、格闘技に秀で、詩人であり哲学者でありヒワの大臣として、人々の尊敬を集めた英雄だったようだ。聖人のそばに葬られると来世の幸せが約束されるというので、彼の墓の周囲に多くの墓が集まったものだという。
 入口を入ると、すぐ右手に湧き水があり、コップが置いてあって誰でも飲めるようになっていた。
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 霊験あらたかな水のようだが、観光客は衛生上飲まない方がいいだろうとのこと(なお、入場時にはガイドの説明を聞くツアーの皆さんが群がってしまったので、この写真は帰る時に写したもの)。
 正面に青い装飾が施された廟への入口。
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 ここは靴を脱いでお参りすることになっている。
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 内部の様子。
 この天井が、昨夕から何度も見ている青いドームの内側ということになる。
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 こちらが正面。
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 横には祈祷をして貰っている信者の人たちがいた。
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 廟を出てからどういうルートを歩いたかはっきりしないが、
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 次に行ったのはジュマ・モスクだった。ミナレットのすぐ下が入口になっていた(この写真の左下。入口の全景は撮っていない)。
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 ジュマ・モスクの内部。中央に明かり取りの天窓があり、周囲は彫刻されたたくさんの木の柱で支えられた空間になっていた。
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 天井。
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 こちらがミフラーブという壁の凹み。礼拝の際にメッカの方角を指し示す役割を持つ。右側の階段は説教壇である。
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 ジュマ・モスクを出て少し歩き、
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 今度は西門の北側にあるキョフナ・アルクに行った。17世紀に建てられたハンの宮殿で、この左手の城壁の内側にある。
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 こちらが入口。
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 この向かい側にあった建物は、何となく写してきただけなのだが、調べていたらムハンマド・ラヒム・ハン・メドレセというものだというのが判った。
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 キョフナ・アルクの内部は一部分しか残っていないようで、何かよく判らない板張りの広いところを横切って行った。城壁越しにカルタ・ミナルが頭を覗かせている。
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 これはアイヴァーンというテラスのようなところ。
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 説明があったはずだが聞いていなかったし、帰ってから調べてもよく判らない。だが、この装飾は非常に精緻で美しい。6本の木の柱は最近付け替えられたのではなかろうか。
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 さて、目指すは元の見張り台だったという展望台である。この正面の入口を入り、狭い急な階段を上るのである。
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 展望台からの眺め。これは南の方角。
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 カルタ・ミナルとムハンマド・アミン・ハン・メドレセが見えている。手前のキョフナ・アルクの内側には、さっきとは別のアイヴァーン(テラス)がある。右手にはイチャン・カラの西門が見える。
 視野を少し左(東の方)に振ってみる。
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 中央やや左寄りに、さっき入って来たキョフナ・アルクの城壁の入口と、さっき見た6本の木の柱のアイヴァーンが見えている。
 こちらの方に望遠をかけてみる。
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 キョフナ・アルクの入口の向かいにあったムハンマド・ラヒム・ハン・メドレセがよく写っている。その奥、画面中央に写っているのはジュマ・モスクのミナレットである。
 このすぐ右手、一つ前の写真では中央やや右のあたりにさらに望遠をかけると、
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 これはイスラーム・ホジャ・ミナレットとパフラヴァン・マフムド廟の青いドームである。
 最後は北の方角。
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 このずっと続いている城壁の内側の張り出したところを、今朝朝日を見るために震えながら歩いて来たのだ。北門が写っていないか、原板を拡大してみたがよく判らなかった。

 さて、キョフナ・アルクを出たところで、城壁の入口のところを一枚きちんと写しておく。
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 正午が近い。午前中の見学はこれで終わりである。
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 キョフナ・アルクから少し歩いたところのこの建物が、きょうの昼食場所のレストランだった。
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 食後はレストランの前で一旦解散になった。
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 午後は例によってフリータイムで、希望者は一度ホテルに戻った後、イチャン・カラで最も高いイスラーム・ホジャ・ミナレットに登りに行く企画があるようだった。ミナレットの内部に狭くて急な渦巻状の階段が刻まれていて、数人ずつ一番上のところまで行くことができるのだという。もちろん、高所恐怖症のわたしには全く問題外のプランだった。

 というわけで、われわれはホテルには戻らず、このままもうしばらくイチャン・カラの中を散策することにした。ところが・・・。
 実際、東門(パルヴァン・ダルヴァザ門)の方に行ったり、道端のお店であれこれ買い物をしたりしたのだが、いったいどうしてしまったのか、この間の写真が全く欠落してしまっているのである。
 撮らなかったはずはない、撮っていたはずだとも思うのだが、メモリーカードに残っていないのだからどうにも説明が付かない。この部分だけ誤って消してしまったということも考えにくいし、たぶんけっこう疲れていて、もういいかなという気分になっていたのかもしれないと思う。いまにして思えばちょっと考えられないことなのだが、とにかく写さなかった(あるいは残っていない)のだからもう仕方がない。そういうわけで、東門には確かに行ったのだけれど、4つの門のうち東門の写真だけがないのである。
 恐らく午後3時過ぎにはホテルに戻って、あとの時間は休憩していたと思うが、写真がないとこのあたりの記憶もどうもはっきりしない。

 ともかく、このあと17:45に2号棟ロビーに集合して、再びイチャン・カラの中の別のレストランに夕食に行った。
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 夕食を終えての帰り道。撮影時刻は19:43。
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 ほぼ満月と思われる月が出ている。
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 南門を出て。
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 この最後の撮影時刻は19:50である。とうとうウズベキスタン最後の夜になってしまった。
by krmtdir90 | 2016-05-10 21:57 | 海外の旅 | Comments(0)

ウズベキスタンの旅⑧(観光客がいない時間の)ヒワ散歩1(2016.4.19~20)

 19日は一日中バスに揺られていたから、運動不足を感じていた。ホテルの夕食時間までまだ1時間以上あるので、ちょっと妻と散歩に出てみることにした。
 さっき、われわれの観光バスが入って来たホテルの通用門から外の道に出た。右に、さっきバスが通って来た外側の城壁の門が見えている。
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 左に見えているのが、内側の城壁の門である。
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 ヒワの町は、16世紀初頭から20世紀初頭にかけてこの地に存在したヒワ・ハン国の首都であり、外敵の侵入を防ぐために二重の城壁で囲まれていた。外側にあるのが、1842年にカラクム砂漠との境に築かれた全長6キロの城壁で、これに囲まれたところをディシャン・カラ(外城)と呼ぶ。
 内側の城壁は高さ約8~10メートル、厚さ約6メートル、長さ2250メートルで、この内側がイチャン・カラ(内城)である。イチャン・カラには歴史的建造物が集中し、ラクダをひく隊商が行き交った頃のオアシス都市の姿をそっくり残しているということで、1990年にウズベキスタンでは最初にユネスコ世界文化遺産に登録されている。

 イチャン・カラはきわめて狭い区域で、地図の縮尺で確認してみても、せいぜい東西約350メートル、南北約550メートル足らずの中に収まってしまう。四方に城門がある中で、これは南門(タシュ・ダルヴァザ門)である。
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 ホテル・アジア・ヒワは、この南門のすぐ目の前なのである。
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 なお、われわれが散歩した時間は、カメラのデジタル記録から見ると18:20から19:05くらいの間で、観光客の(ほぼ)いない時間帯だった。

 南門を入る。
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 驚いたのは、そこに土壁の民家が幾つも並んでいて、人々の生活が普通に営まれていることだった。
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 このあたりの道は舗装もされておらず、ひどくデコボコで、ぬかるみや水たまりもあって非常に歩きにくかった。
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 インターネットで調べてみると、イチャン・カラの中には50以上の歴史的建造物とともに、250以上の古い住居が残っているとあった。そこでいまも生活を続けている人たちがいるのである。
 犬もいる。
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 この犬はひどく人なつこい犬で、どんどん付いてくるので少し困った。

 ミナレットが見えている。
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 この時点ではこうした歴史的建造物を一々確認したりはしていない。翌日、ガイドの案内でちゃんと見学することになっていたからだが、いま整理しながら、やはり一応その名称を記載しておくことにする。
 これはイスラーム・ホジャ・ミナレットと言い、イチャン・カラで最も高い(45メートル)ミナレットのようだ。
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 さらに行くと、突き当たりが小さなくぐり口のようになっていて、
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 この先が、道路なども整備された観光地区になっているようだった。
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 イスラーム・ホジャ・ミナレット。
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 イスラーム・ホジャ・メドレセ。
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 メドレセの前や道沿いにはいろいろな店が並んで、バザールのような感じになっていた。
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 イスラーム・ホジャ・ミナレットとメドレセをワンフレームで。
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 次の2枚は、パフラヴァン・マフムド廟をちょうど裏側から写していたようだ。
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 かなり日没が近付いている。
 後ろを振り返る。パフラヴァン・マフムド廟はこの右手、正面にはイスラーム・ホジャ・ミナレットがある。
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 さらに進んで行って左に折れると、別のミナレットが立っていた。
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 ジュマ・モスクとそのミナレットである。
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 この前の道をさらに行くと正門にあたる西門に通じているようだった。
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 せっかくだから、もう少し行ってみることにする。
 ラクダがいた。
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 調べてみたら、一緒に記念写真などを撮る観光用のラクダで、名前をカーチャと言うらしい。
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 一日の仕事を終えて、やれやれといった感じなのだろう。

 途中で切られてしまったような、不思議なかたちをしたミナレット。カルタ・ミナル。
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 右奥に西門も見えている。
 このカルタ・ミナルを調べてみると、1852年に着工されたものの、いろんな経緯があって工事が中断したままになってしまったものらしい。基礎部分の直径が14.2メートルもあるので、完成していれば高さ7、80メートルの巨大なミナレットになっただろうと書かれていた。中断した現在の高さは26メートルだという。
 こちらからでは逆光なので、向こう側に回り込んでみる。
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 青を基調としたタイル模様が夕日を浴びて、非常に美しい。
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 もう少し歩いていたかったが、時間的にそろそろ限界である。帰ることにする。
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 ラクダのカーチャはまだいた。
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 帰りはちょっと別の道を抜けてみようと思った。
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 最初のイスラーム・ホジャ・ミナレットは、方向を確認するいい目印になっている。
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 イスラーム・ホジャ・ミナレットの下に出れば、その先が住居地域へのくぐり口になる。くぐり口を抜けると、人々の生活が見える。
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 これは住民のための小さなモスクではなかろうか。
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 ミナレットの手前にテレビアンテナの林立。
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 南門に戻って来た。
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 門を出ると、城壁の外にも民家が並び、
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 人々が生活している。
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 間もなく日没である。

 翌4月20日、早朝5:30、2号棟ロビー集合。
 希望者でイチャン・カラに行き、城壁の上から朝日が昇るのを見るという企画である。ほとんどのメンバーが参加したのではなかろうか。

 ホテルを出て、南門から中に入る。空は少し明るんできているが、足元は暗く、懐中電灯を持参している人もいる。
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 まだひっそりしている民家の間を抜け、イスラーム・ホジャ・ミナレット手前のくぐり口から整備された道に出る。パフラヴァン・マフムド廟の青いドームには光が当たっている。
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 当初は西門に付随した展望台に特別に入れることになっていたらしい。ところが直前になって許可取り消しの連絡が来たため、急遽予定を変更して北門まで行き、城壁そのものに登ってしまうことにしたと言う。北門の脇に細い「登坂路」ができているらしい。高所恐怖症のわたしとしては予想外の困った展開だったが、成り行き上もう行かないという選択肢はなかった。
 15分あまり歩いて、一行は北門に着いた。
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 この手前、左側に恐ろしい「登坂路」が待っていた。

 ここからしばらくは写真がない。それどころではなかったのだ。城壁にけっこう急な(わたしにとっては)上り坂が刻んであって、表面はざらざらして滑りやすく、もちろん手摺りなどはなく、最後のところに1メートル以上の直登の段差ができているのだった。この部分はガイドと添乗員が手を貸してくれたが、何とか上にたどり着いてもホッとする気分にはなれなかった。
 城壁の上の部分には、内側にずっと回廊のような張り出しが作られていたが、もちろんここにも手摺りなどは一切なく、ここを伝って西門の手前まで行くと言われて、足のすくみを必死で押さえ込み、下を見ないようにしてなるべく壁側をそろりそろりとたどって行った。

 ようやくたどり着いて、何とか写真を撮る余裕ができた。西門の手前(北側)にあるキョフナ・アルクという宮殿の屋上。この右手に当初登るはずだった展望台があるようだ。
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 向こうにカルタ・ミナルが見えている。
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 東北方向の空が赤くなってきている。
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 ツアーの別のグループもやって来た。
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 読者の皆さんの中には、このくらい幅があれば怖くなんかないじゃないかと言う人がいるかもしれませんが、高所恐怖症というのはそういうものではないのです。見ての通り表面はひどくでこぼこしているし、こんなところで、もしよろけでもしたらどうしようと考えてしまうと、もう居ても立ってもいられなくなってしまうのです。人一倍想像力が豊かというか、神経が研ぎ澄まされているというか、とにかく怖いんだからどうにもならないのです。

 上空の飛行機雲には朝日が当たっている。
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 ちょうど太陽のあたりに少し雲が出ているのが残念。
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 雲を抜けて、やっと太陽が姿を現した。
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 朝日を受けて鈍く光るカルタ・ミナル。
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 さて、十分に堪能した。長居は無用である。帰りは先頭グループで歩いて行った。
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 降りる人の順番待ちが出来る前に(怖いところで後ろが詰まってしまうと、緊張が一層高まってしまうので)、とにかく早めに下に降りて来た。
 下に降りてしまえばもう大丈夫である。さっと外に出て、北門(バフチャ・ダルヴァザ門)の外観を写して来た。
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 皆さんが降りて来る。
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 こんなの大したことないなんて、絶対に言うべきではないですよ。

 こうして恐怖の城壁散歩は終了した。再び北門から南門まで、イチャン・カラの中を縦断する。
 北門のあたりにもけっこう民家が建ち並んでいた。民家のあたりは泥濘である。
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 まだ観光客などのいないひっそりした時間帯、いろいろな建物が朝日を受けて美しい姿を見せている。
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 さて、これからホテルに戻って朝食である。
by krmtdir90 | 2016-05-08 18:38 | 海外の旅 | Comments(0)

ウズベキスタンの旅⑦バスの旅ブハラ→ヒワ470キロ(2016.4.19)

 4月19日、8:00にホテルのロビーに集合。
 この日は一日中ハードと言えばハード、しかし、なかなか体験できないような興味深い日程になっていた。ブハラから次の訪問地・ヒワまでは距離にして約470キロ、ウズベキスタン中央部から西部にかけて広がる砂漠地帯の一本道を、この日はとにかくバスで走り切るしかないのである。
 出発前に添乗員から示された注意事項には幾つかのポイントがあった。最初の100キロほどは非常な悪路であること。砂漠の印象はサハラ砂漠などと違って草などの植生が見られること。砂漠地帯に入ると途中に休憩施設などは皆無に近く、午前中一回のトイレタイム、さらに昼食場所のトイレが終わると、午後は一カ所どうしても「青空トイレ」になってしまうということ、など。まあ、ここまで来たら何であろうと行くしかないのである。

 で、その100キロほど続いた悪路。
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 割と前方の席に座ったのだが、バスでは座席に着いたまま撮影するしかなく、前方を写すにはかなり望遠を使うことになるのだが、揺れがひどいからシャープに撮れた写真は全くない(これらは、狭い視野をかなり大幅にトリミングして何とか修正したものである)。
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 まあ、悪路の感じは判っていただけると思う。
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 ブハラを出てしばらくの間は、人家やお店などもポツポツ見えていたのだが、
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 次第にそうしたものも見えなくなってしまい、荒涼とした人の気配のない風景が続くようになっていく。
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 同じ経過を横の窓から撮った写真で。
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 これはバス停の待合所のような気がする。
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 これは一応ドライブインだろうか。
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 そして、荒涼とした風景。
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 時折、道路標識が現れて、分岐していく道路があったりする。
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 大きなトレーラーの向こうに小さな小屋がある。一応休憩地点ではあるのだろう。
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 そして、トイレのために立ち寄ったドライブイン。
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 建物に入って行くとこんな感じ。
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 正面のドアの中が食堂のようになっている。われわれは中には入らず、右手に抜けて行くと、その先に独立した小さなトイレ小屋があった。男女の別はなく、個室が1つだったか2つだったか。いずれにせよここは女性陣に譲るしかなく、男性陣はその先の少し陰になったようなところで、自主的な青空トイレということになった。
 このあたり。
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 振り返る。ドライブインの建物は茂みの向こうになる。右手の白い小さな小屋がトイレ。
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 添乗員の話では、幾つか立ち寄り可能なところがあったようだが、これでもここが最もましなトイレのはずなのだと言う。
 道路の方の風景。
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 カメラのデジタル記録では、ここにいたのは10:30頃から12、3分だったようだ。

 どうやら悪路の方は少し前に終わったようだ。そして、ここまでの区間はまだほんの入口に過ぎなかったことが判った。トイレタイムが終わって走り出すと、バスはいよいよ本格的な砂漠地帯に入って行った。キジルクム砂漠である。
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 道路が良くなったので、バスはスピードを上げた。
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 このあたり、いまは片側1車線の対面通行なのだが、どうやら片側2車線に拡幅する工事が、右側であったり左側であったり途切れ途切れに行われているようだった。
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 次にバスが停まったのは12:15ぐらいだったと思う。
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 昼食場所になったドライブインはこのあたりでは唯一のものであるらしく、われわれ以外にも幾つものツアーグループが、みんなここを昼食場所にしていた。もちろんトラック運転手や一般客の利用も多いようだ。
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 ツアー客は建物を抜けて、右手の屋外に設えられたテーブル席で食事するようになっていた。
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 ブハラでバスに積み込んであったお弁当に、お店の方から店先で焼いていた肉の串焼きがプラスされた。
 食後は全員がトイレを利用したが、ここはきちんと男女別になっていて、個室の数も多かったようだ。なお、こちらの男性用トイレには「小」専用の便器はなく、すべて個室のかたちになっていた。ただし、わたしが利用した個室はドアの内カギが壊れていた。
 ここには猫が4、5匹、住み着いているようだった。その中の1匹。
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 前の道路だが、
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 このコンクリート打ちっ放しの少し高くなったところは拡幅工事の途中の段階である。いま利用されている道路はこの右手奥を走っている。
 そちらの道路に出てみる(ちょうど車の通行が途切れたので道路中央に立ってみた)。
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 ツアー客の観光バスは、道路際に停車している。
 道端の409という表示は何なのか、調べても判らない(道路番号ではないようだ)。
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 13:10ごろに食事場所を後にした。

 昼休みを挟んでバスの座席のシャッフルが行われた。午前中前方の席に座っていたので、午後は後方の席に移った。したがって、この後は横の窓からの写真しかない。
 だが、風景は要するに砂漠であって、何枚写したところで砂漠は砂漠なのである。
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 次の写真はバスの窓ガラス越しではない。撮影時刻は15:00ちょうどである。
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 少し前、バスは道路際に停車した。運転手が適当な場所を探して停まってくれたのである。とうとう砂漠の中の「青空トイレタイム」になってしまった。この写真はつまり、わたしが立ち小便をしながら眺めた前方の景色ということになる。
 振り返るとわれわれのバスが停まっていて、
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 男性陣は道路のこちら側で、女性陣は道路の向こう側の小高くなった先のところで、今どきなかなか体験できないことをしたのである。

 このあたりの道路は片側2車線の広い道路になっていて、ずっと拡幅工事の途中が続いていたが、これがその完成形ということになるのだろう。
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 時々通る車は、どれも猛烈なスピードで走り去った。
 反対方向。
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 望遠をかけてみる。
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 中央分離帯から。
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 この停車時間は5、6分だった。

 発車して少しすると検問所があった。ここまでにも数カ所あったのだが、やっと写真に撮ることができた。
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 人はいるのだが、特に外に出てくることもなく、バスはスピードを落としてそろそろと通過した。

 もう少し行くと、さしもの長い砂漠地帯も終わりになったようだ。ずっと走って来た2車線道路を離れ、バスは次第に人の気配が漂う地域に入って行く。
 ガソリンスタンド。
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 バス停留所。
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 鉄道線路の下をくぐる。
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 鉄道線路に並走して行く。
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 人家などが見えてきて、人影を見かけるようになっていく。
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 やがて村の中に入った感じになって、これは学校帰りの子どもたち。
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 そして、これはたぶん校庭。
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 その左にあったこの建物は学校に違いない。
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 学校帰りの子どもたち。
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 遊んでいる子どもたち。
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 学校帰りの子どもたち(カップルだ)。
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 みんな実によく手を振ってくれる。

 このあと、バスは大きな川を渡った。
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 これはパミール高原に源を発し、トルクメニスタンとの国境を北西に向かって流れて来た大河・アムダリヤ川である。この川は少し上流でウズベキスタン領内に入り、キジルクム砂漠をほぼ北に流れて、カザフスタンにまたがるウラル海に注いでいた。しかし、旧ソ連時代の無計画な灌漑開発などによって水量が減少し、現在は河口部で完全に干上がった状態となり、かつて世界第4位の面積を誇ったウラル海も極端な縮小で塩害など深刻な環境破壊を引き起こしているらしい。
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 この豊かな水量の川が、この先で砂漠の中に消えて行っているというのは想像しがたい不思議である。

 地図を確認すると、アムダリヤ川を渡ったところでバスはウルゲンチの町に入ったようだ。
 検問所をゆっくり通過し、
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 水路(運河)を渡り、
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 鉄道線路を渡った。
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 判読しにくいが、道路標識に「ヒワ(XIVA)16キロ」と書いてある。
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 この写真の撮影時刻が17:15である。

 このあと、バスはヒワの町に入り、宿泊するホテル・アジア・ヒワに着いたのだが、疲れてしまったのか、このあたりの経過を説明的に示してくれる写真を一枚も撮っていない。したがって、到着時刻もはっきりとは判らないのだが、たぶん17:50前後だったと思われる。長いバスの旅の一日が終わったのである。

 ホテルは、こぢんまりした2階建ての幾つかの宿泊棟に分かれていて、バスはメインロビーのあるメイン棟の正面からではなく、脇の通用門のようなところから、直接われわれが泊まる宿泊棟の前の方に入って行った。割り当てられたのは2号棟の1階だったが、入口のところに小さなカウンターと小さなロビースペースがあった。
 18:00にはたぶん部屋に入っていたと思う。このあとは、19:15からホテルの食堂で夕食という予定になっていた。
by krmtdir90 | 2016-05-07 22:24 | 海外の旅 | Comments(0)


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