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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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近況報告(手根管症候群)

 手根管症候群の症状が出て半年が過ぎた。処方された薬を服用してきたが改善は見られず、数ヶ月前からは痺れだけでなく指が曲がらなくなって、握りこぶしが作れないし(ちゃんとした)字も書けない感じになってしまった。このままずっとこの症状につきあって行くというのも一つの選択肢ではあるけれど、やはりそろそろ手術に踏み切るべきかなと思っていたら、医者からもそろそろですかねと言われた。手術となると、このあたりで手のあれこれを専門としている病院を紹介すると言う。
 で、6月14日に高月整形外科という病院に行った。6月21日に手術に向けた様々な検査と診察を受けて、いよいよ明日7月1日にまず右手の手術を受けることになった(左手は数ヶ月後にしましょうと言っていた。いっぺんにはやらないのだ)。
 手首と接する手の平を3センチほど開いて、指先に行く神経を圧迫している靱帯を「開放」してやるのだという。手術をしても20人に1人ほど改善しないケースもあるらしいが、いまのところこれ以外に治す方法がないということでは、リスクを恐れてダラダラしているより、早いところ決着をつけたいと(短気なわたしは)考えたのである。

 実はこの歳になるまで、幸か不幸か手術というものを受けたことがない(入院もしたことがない)。日帰りの簡単な手術だと言うのだが、わたしとしてはとにかく初めてのことだから、じわじわと緊張感が高まる感じで困っている。このブログには一段落してから書こうと思っていたのだが、我慢ができずこうして書いてしまった。
 21日の診察で、指などのむくみは指の使いすぎによる腱鞘炎だと診断された。手根管症候群は腱鞘炎を併発するケースがかなりあるらしい。その時の診察で、腱鞘炎はとにかく冷やさなければいけないと言われたのが驚きで、風呂にはいる時も手は入れないようにしなさいと言われた。これまで全く逆の判断で、風呂に中でじーんとするのがいいのだと勘違いしていた。
 いずれにしても腱鞘炎の原因がパソコンであるのは明らかで、しかしこの医者はパソコンをやめなさいとは一言も言わず、とにかく冷やしなさいとだけ言ったのが信頼できると思った。ただ、手術をしたら少しの間は、パソコンだけでなく様々な不自由を耐えなければならないだろう。まあ、仕方がない。気が重いけれど、そういうことで明日、行って来ます。
by krmtdir90 | 2016-06-30 21:44 | 日常、その他 | Comments(4)

映画「日本で一番悪い奴ら」

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 いかにもB級映画の雰囲気が漂うタイトルがいい。最初に配給の東映と日活のマークが出て、何となく安心感とワクワク感が高まる。娯楽映画なのだ、これも。
 白石和彌監督は2013年の「凶悪」という映画で注目された人らしいが、これは見ていないので力量のほどは不明である。今回は綾野剛主演ということで見てみようと思ったのである。このところ映画館通いを再開して、まだそれほど本数を見ているわけではないが、「リップヴァンウィンクルの花嫁」「64(ロクヨン)」に相次いで出演し、いずれも印象的な役を演じていた。調べたら今年34歳、いま最も旬(しゅん)な若手俳優の一人であるらしい。

 この映画は2002年に北海道警で実際にあった不祥事を題材としている。現職の警察官が覚せい剤使用で逮捕され、暴力団員とのつながり・種々の違法捜査・拳銃購入・覚せい剤密売といった、警察官にあるまじき悪事に手を染めていたことが明らかになった。背景には北海道警の組織的関与があったのではないかと言われたが、結局逮捕されたのは刑事一人だけで、彼が懲役9年の刑に処せられて幕引きとなった。この諸星要一という刑事を演じたのが綾野剛である。
 綾野剛という俳優は、若い人間が持つ内面の相反する様々な要素、強さ(強がり)と弱さ、得意(粋がり)と不安といった矛盾を、きわめて繊細な表情で表現できる役者だと思う。この映画は諸星という刑事の26年間にわたる変遷を描いていくが、当初の初々しい正義感が周囲の影響を受けてどんどんねじ曲がっていく様を、年譜を辿るようにして(何年何月というような字幕が出る)正面から見詰めていく。綾野剛は諸星の年齢や体型変化を表現するために体重を10キロほど増減させたらしいが、見事な役作りでこの男の軌跡を演じ切ったと思った。

 世の中には思った以上に役柄が限定される役者が多い中で、彼はどんな役柄にも存在感を与えることのできる役者なのだと思った。前2作のあとで、この映画のような思いがけない役もやりこなしてしまうところに、彼の役者としての幅を見る気がした。
 諸星という役は、周囲に流されて次々に悪に嵌っていきながら、当人は道警のエースなどと持ち上げられいい気になっている、ある意味では愚かと言ってもいいような短絡的な男である。しかし、綾野はそういったマイナスの要素をきわめてストレートに演じながら、一方にそれが彼なりの正義感の発露であったというような、なぜか憎めない少年性のようなものもしっかり漂わせてみせるのである。そのためこの映画は、一面的な告発映画や無内容のアクション映画に堕することなく、一種の青春映画と言ってもいいような不思議な感覚を後に残すことに成功したように思う。
 諸星と北海道警がやったことは擁護しようのない悪事なのだが、諸星という男一人を切り離して見てみれば、そこには一人の純朴な青年が辿る必死な生の軌跡だけが見えているのである。

 もちろんそれは、そういうふうにこの映画を撮った監督・白石和彌の手柄なのだが、綾野剛という役者の存在も大きく寄与していたことは確かなことだと思う。また、若い諸星に決定的な影響を与える先輩刑事・村井をやったピエール瀧や、その助言に従い諸星が裏社会に作ったS(スパイ)の3人の存在感も素晴らしいものだったと思う。
 3人とは、地元の暴力団幹部・黒岩の中村獅童、覚せい剤の運び屋・太郎のYOUNG DAIS、盗難車バイヤーのパキスタン人・ラシードの植野行雄である。歌舞伎界出身の中村獅童は別にして、YOUNG DAISは本来はヒップホップ界に知られたラッパー、植野行雄は(ブラジル人とのハーフで)デニスというお笑いコンビの芸人だったようだ。このキャスティングがまさに絶妙といった感じで、諸星が彼らと絡むシーンは、背後に暴力を孕んでいながら少年たちのじゃれ合いのような親密な雰囲気を漂わせ、この映画が危うい青春映画の気配を感じさせる力にもなっていたと思う。

 中村獅童の存在感は大きかった。彼は「起終点駅 ターミナル」でもいい雰囲気を出していたが、綾野剛は彼と演技で対峙できたことが大きな力になったのではないかと思った。かつての東映ヤクザ映画(現代物)を彷彿とさせるような、そこにいるだけで醸し出される何とも言えない存在感(ヤバイ感じ)は並みのものではない。
 まだ初心者だった諸星が、単身組の事務所(倉庫のような所)に乗り込み、黒岩と初めて出会って対決するシーンは素晴らしかった。緊張して諸星が待つ部屋に、黒岩がニヤニヤしながら「はい、こんにちわ~」と軽薄な口調で入って来るところから、それぞれの思惑を持ったやり取り(押し問答)のあと、いきなりテンションMAXで「何だとこの野郎」的な怒鳴り合いになる。職業柄?こうなれば絶対に負けないヤクザを向こうに回して、諸星も必死の大声を張り上げて後に引かない覚悟を見せる。その危険な一本気に黒岩の表情がふっと緩み、諸星を認めてSとしての兄弟分になることを決める。この一連の中村獅童の演技と存在感、そしてそれを全力で受け切った綾野剛の演技と表情、特に表情のリアリティは(強さと弱さが交錯し)凄かったと思った。

 諸星が覚せい剤密売に手を染め、覚せい剤密輸と拳銃密輸の計画が頓挫してみずから覚せい剤に溺れていく、このあたりの描写はテレビではとてもやれないだろうと思ったが、映画でもここまでやるのはなかなか難しかったのではないか。ましてや、警察組織の中で現実に起こった事件の映画化である。ただ、この映画の方向性が、事件を起こした主人公や警察組織を一方的に断罪したりせず、とことんエンターテインメントに徹することで、突き抜けた爽快感と苦い後味を残すことに成功したのは、制作者たちの見事な作戦勝ちだったという気がした。
 こういう映画、けっこう好きである。
by krmtdir90 | 2016-06-26 11:43 | 本と映画 | Comments(0)

映画「マネーモンスター」

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 とりたてて感想を書かなければならない映画ではない。監督がジョディ・フォスターだというのでちょっと見てみようと思ったのである。
 ずっと昔の映画ファンにとっては、ジョディ・フォスターと言えば「タクシードライバー」(1976年)の13歳の娼婦役から始まり、1988年の「告発の行方」、1991年の「羊たちの沈黙」で2度のアカデミー主演女優賞を受賞するなど、アメリカの若手個性派女優として強い印象を残していた。その後、監督として何本か映画を発表したようだが、わたしが映画から遠ざかったこともあって見る機会はなかった。彼女の監督作品としてはこれが4作目になるらしい。

 チラシを二分しているのはジョージ・クルーニーとジュリア・ロバーツで、この2人もアカデミー主演男優賞・主演女優賞の受賞者である。現在の年齢を調べてみると、ジョージ・クルーニーが55歳、ジュリア・ロバーツが48歳で、監督のジョディ・フォスターは53歳になっていた。この顔ぶれと年齢が安心できるし、肩の凝らない大人のサスペンス映画で、上映時間が99分と短めなのもいいと思った。難しいことが何もないただの娯楽映画を無性に見たくなる時がある。
 ただ今回は選んだ座席がかなり前寄りだったので、画面が大きすぎてちょっと疲れた。後方よりも前寄りの席が好きなのだが、窓口の青年(女性)とのやり取りでそのあたりをうまく伝えるのはけっこう難しい。わたしが映画から離れていた間に映画館はすっかり様変わりして、座席のシートがゆったりしたのはいいのだが、ほとんどの映画館が座席指定になってしまい、中の様子が判らないまま座席を決定しなければならないのは困ったことである。個人的に最も好ましいスクリーンの大きさ(距離)というのがあるわけで、座席に余裕がある時は中に入ってから自分の判断で座席を決めたいと思うのだが、何とかならないのだろうか。

 さて、映画は面白かった。大いに楽しめた。娯楽映画なのだからこれで終わりでもいいのだが、せっかく書き始めたのだからもう少し書いておくことにする。
 株の売買で金儲けを考える個人投資家向けのワイドショーというようなものが、アメリカには実際にあるのだろうか。このいかにも現代的で胡散臭い番組(この番組タイトルが「マネーモンスター」なのだ)のパーソナリティを務めるのがジョージ・クルーニーで、番組のプロデューサー兼ディレクターがジュリア・ロバーツである。このスタジオに拳銃と爆弾を持った若い男が侵入し、生放送中の番組をジャックしてしまう。ジャック・オコンネルという26歳の俳優が演じたこの男(役名はカイル)の設定がいい。
 プログラムに監督ジョディ・フォスターのインタビューが載っていて、彼女自身がこの設定を説明したところがあるので、少し長いが書き抜いてみることにする。

 財テク番組の司会者が、この株は絶対に儲かると番組で喧伝して、カイルという青年がその株に投資した途端、あるバグが生じたために株価が暴落し、彼は財産のほとんどを失ってしまう。その会社自体も8億ドルの損失を出した上に、そのお金がどこに消えたのかもわからない。だからカイルは銃と爆弾を持って番組に乱入して司会者を人質にとるの。「答えが聞きたい。僕の金がどこにいったのか教えろ」ってね。でも誰もその問いに答えることができない。
 カイルは正しく生きて一所懸命働けば自分も何かを手に入れられると信じていた労働者階級の男なの。相続した遺産をできるだけ賢く投資していこうと思っていたのに、自分の力のおよばないことが原因ですべてを失ってしまう。自分が持っていた唯一のものが忽然と消えてしまったのに、何が起きたのかさえわからない。カイルにとっては、それは受け入れがたいことだったの。だから失敗を受け止め、前を向いて歩き出す代わりに反撃に出るのよ。

 この設定はかなり微妙な(難しい)設定である。単なる自暴自棄とか仕返しとかではない、早い段階で損失を全額補償するという提案を蹴ってしまうし、生放送を続けさせる中で、あくまで「何が起こったのか、誰が起こしたのか、その答えを聞きたい」と主張するのである。突発的な狂気が彼をこの行動に駆り立てたのだとしても、その内面の(株式投資は自己責任だというような)自己矛盾や割り切れない思いといったものが渦巻くさまを、一面的に単純化してしまうことなく、矛盾に満ちたまままるごと設定しようと試みたところが見どころである。
 これはジョージ・クルーニーやジュリア・ロバーツの設定の仕方にも見て取れる。この種の映画では、登場人物の性格や背景、行動の仕方といったものは、観客に判りやすくするために矛盾は取り除かれ類型化されるのが普通のような気がするが、この映画はそういう意味では一筋縄ではいかないのである。クルーニー演じる司会者の男は自信たっぷりの見え透いた行動の仕方で、番組の視聴者を心の中では馬鹿にしながら軽薄な喋りを垂れ流してきたのに、映画の最後には犯人の男に一種の共感を感じるような(共犯関係になるような)男に変貌するのである。

 後半、件の投資先になった投資会社のCEO(最高経営責任者)が、コンピューター取引のバグを口実に不正を行っていたことが暴露されていくが、そうした展開を前にして上記3人の主役たちがどう行動するのかといったところが、単なるサスペンス・ミステリの枠を超えて、見応えのある演技合戦を展開していたと思った。
 すべてが終わったあと、突発したスリリングな生放送に様々な場所で釘付けになっていた市民たちが、白けた感じの無表情に戻ってそれぞれの日常に帰っていく様を、幾つか淡々と見せたあとで映像を途切れさせた終わり方がよかった。印象的だった。こういう良くできた大人の娯楽映画というのは、ありそうでなかなかないのではないかと思った。
by krmtdir90 | 2016-06-23 20:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「64(ロクヨン)後編」

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 単行本が出た時(2012年10月)原作を読んでいたが、細かい内容はほとんど覚えていなかった。だから、前編はほぼ白紙の状態で映画の中にぐいぐい引き込まれた。しかし、そのあとで原作を読み返してしまったので、後編は映画が原作とは異なる終わり方になっているというところを、妙に冷静にチェックしながら見るような感じになってしまった。
 読み返した時点でこうなることは判っていた。だからまあ仕方がないとして、結果的に白紙で見るより映画を作った人々の意図がよく見えたと思った。このあとはネタバレになります。

 原作の終わり方というのは、この種の小説としてははなはだスカッとしない終わり方になっていたと思う。確かにストーリー展開として「64(ロクヨン)」の犯人は特定されるが、その犯人・目崎正人は証拠不十分で逮捕されないまま釈放されてしまうし、平成14年の誘拐犯の方は、これもストーリー的にはすべてが明らかにされているものの、彼ら(幸田一樹と雨宮芳男)がこのあとどうなるのかは描かれてはいないのである。県警刑事部が14年間隠蔽し続けた「ロクヨンの秘密(幸田メモ)」も、目崎が逮捕され事件の真相が公になった時点で対外的に暴露され、県警は大混乱になるだろうと予測はされるものの、まだストーリーの中の限られた人間が知るだけで現実にはならないのである。
 つまりこの小説は、小説の中で描かれてきた様々な対立関係、また事件の核心や周辺に点描されてきた人間模様などを、小説として次のステージに進ませることはほとんど行わずに終わってしまうのである。主人公・三上の失踪した娘の行方も、手がかりはないまま終わってしまう。小説はどこかで区切りをつけなければならないものだから、この終わり方はある意味では仕方がないものなのだろうが、読んだあとに一種の「積み残し感」といったものが残ったのも事実なのである。

 映画の後編は、この「積み残し感」をかなり解消させてスッキリさせてくれたと思う。上映時間を2時間程度にするという縛りでもあったのか、平成14年の誘拐の方は描き方が若干駆け足になってしまったのは残念だったが、映画で新たに付け加えられた三上の一連の「逸脱行動」によって、「ロクヨン」の犯人・目崎を追い詰めていくところは十分納得できるものだった。映画の終わり方としては、やはり犯人逮捕まで持ち込まなければストーリーを完結させられなかったということだろう。
 映画では、平成14年の犯人・幸田が妻子に送られて警察署に出頭するシーンも付け加えられた。また、最後に置かれた、これも映画独自の「どんど焼き」のシーンで、「ロクヨン」では被害者だった(平成14年の事件では幸田の共犯者になる)雨宮が、14年前に殺害された娘の遺品をすべて処分して(燃やして)、明日出頭するつもりだと三上夫妻に告げるシーンもつけ足された。このラストシーンの設定はややわざとらしい感じなきにしもあらずだが、こうしたかたちでいろいろなことにきちんと決着をつけてくれたことが、原作を超えた映画の筋の通し方として共感できたのである。

 映画では、「ロクヨン」の時犯人からの電話の声を録音し損ない(当時の刑事部はこの事実を隠蔽したのである)、その責任を感じてそれ以来ずっと(14年間)自室に引き籠もった技師・日吉浩一郎が、犯人逮捕のニュースをラジオで聞き、茶の間の出てきて烏丸せつこ演じる老母と顔を合わせるシーンも挿入されていた。たったワンシーンだったが、「ロクヨン」によって人生を狂わされた人間にとっては、逮捕の事実が描かれることによって初めて前に進めるシーンが成立したのであり、そういう意味で映画の終わり方は正しい選択であったと言えるのだろう。
 被害者・雨宮がかけ続けた執念の無言電話が声から犯人・目崎を突き止め、「幸田メモ」によって県警の隠蔽を告発しようとした幸田の思いが、雨宮の思いと結びついて平成14年の誘拐を起こすという因果関係は、映像の力によってきわめて鮮明なかたちで描き出されたと思う。平成14年の事件では被害者の立場に置かれた「ロクヨン」の犯人・目崎の、混乱や焦燥といった心の動揺も映像は見事に映し出していた。原作の小説はどうしても警察側の視点で全体像を描くことになるが、客観的な事実をそのまま写すことができる映画の力が十二分に発揮されていたと思う。
 目崎逮捕の瞬間を目崎の下の娘が目撃することになるシーンは映画独自のものだが、これでこのあと目崎は「ロクヨン」の事実をすべて自供するだろうと感じさせる、痛切なシーンになっていたと思う。記憶に残るシーンだった。

 原作では主人公・三上は、広報官の職に留まって「積み残し」を見届ける道を選ぶのだが、映画では自らの「逸脱行為」の結果として、警察官を辞して一人の父親として娘の帰りを待つという選択をしたことが描かれる。三上夫妻が「どんど焼き」の炎を見詰めるラストシーンに、映画はひそかな希望のショットを挟み込んでみせる。三上家のリビングの電話機に、公衆電話からと表示された電話が掛かってくるショットである。夫妻は出掛けているわけだから、この時は誰も電話に出ることはないのだが、見ている者はこれは失踪中の娘からの電話に違いないと感じるのである。そうであってほしいという願いを残して映画は終わる。
 警察内部の様々な関係に翻弄される登場人物の軋轢を描くことに主眼が置かれた原作に対して、映画は被害者や犯人も含めて、もっと人物個々の私的内面といったものに寄り添おうとしていることが見て取れた。この映画は前後編を通して、そうした様々な思いがよく描かれた、正攻法の重厚な人間ドラマになっていたと思う。
by krmtdir90 | 2016-06-21 12:43 | 本と映画 | Comments(0)

コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル6・感想③

 ここで、コピス恒例となった階段パフォーマンスについても触れておくことにする。コピスの特徴であるロビー正面の大階段を使って、昼休みに何か面白いことができないかということで始まったものだが、今年は川越西高と農大三高が担当した。
 女子アイドルグループ(川西)の内輪もめ?と歌、それを取り巻くファン(農三)のやり取りといった内容で、なかなか楽しいものに仕上がっていたと思う。アイドルの彼女たちが歌い踊ったのが何とおニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」で(調べてみたら1985年の曲で、もちろんいまの生徒たちは生まれてもいない)、指導した(たぶん)川西顧問のUさんの影がちらついて、これは彼女の作戦勝ちだと思った。生徒たちはセーラー服姿で嬉しそうにやっていたが、まだ若干照れが残っている感じがしたのが残念だった。リハーサルの日の最終練習に、家庭の事情でUさんが来られなかったのも響いていたかもしれない。
 一方、ファンをやった農三の方は思い切りが良く、昨年彼らがこの階段でやったヒーローショーの時(かなり恥ずかしがっていた)と比べて明らかに一皮剥けた印象があった。「もしイタ」に取り組んだことが彼らの自信につながっている気がした。

坂戸高校「報道センター123」(迦陵頻伽)

 作者名は何と読むのだろうか。山口県の高校がやった台本らしいが、地域性はないので、どこの学校がやってもそういう意味ではまったく問題はないだろうと思う。だが、送られてきた台本を読んだ時、わたしは「なんだこりゃ」と呆気にとられてしまった。台本として決していい台本だとは思えなかったのである。
 高校を舞台にした話には違いないのだが、設定そのものがあまりにも荒唐無稽で、マンガのようなハチャメチャな展開にも付いていくのが難しかった。わたしはテーマ主義者でもないし、荒唐無稽やハチャメチャを一概に悪いとも思っていないつもりだが、この本はいったい何をやりたいのかがよく理解できなかったのである。

 部員が3人しかいないある高校の報道部(そういう部活があるのだ)が、毎日昼休みに、校内のスタジオから「報道センター123」というワイドショーのような番組を、全校に向けてテレビ放送しているという設定になっている。いくら何でもテレビ放送(しかも毎日ナマ放送なのだ)はあり得ないだろうと言ってみても仕方がない。マンガならそんな設定もアリかもしれないし、食堂のメニュー削減にかかわる洋食派と和食派の対立(学食戦争、テロ勃発)とか、新任のイケメン教師によるテニス部のセクハラ疑惑とか、何でもアリのストーリー展開に一々目くじら立てても大人げないということなのだろう。
 セクハラ疑惑は誤報だったことが判り、後半に報道の姿勢とか倫理とかいったことについてチラッと考えるようなセリフなども挟み込まれるが、そんなことを言いたかったというふうにはとても思えない展開なのである。となると、要するにこの突飛な設定の中で右往左往する登場人物たちを、単純に笑い飛ばしていればいいということになるのかもしれない。
 そういう台本なのだと思ってしまえば、あとはこれをどう料理して見せてくれるかという問題しか残らない。どんな感じになるのかはだいたい想像はできたが、そう簡単にやり切れるとはとても思えなかった。

 だが、坂戸の生徒たちはこれを、もうこの上はないというほど見事にやり切ってしまった。終始ハイテンションのパワフルな演技で、60分を一気に走り切ってしまったのである。戯画化された登場人物たちも、有無を言わせないパワーで客席を納得させてしまった感じだった。
 去年の舞台「0~ここがわったーぬ愛島~」もそうだったが、わたしはこういう作りの舞台は苦手なのだ(好きではない)と言ってみても、そんなものは吹き飛ばしてしまうような力を、この演劇部は手にしていると思った。こうなると、それは一種の清々しさと言ってもいいかもしれない。わたしはこの台本を全然買わないけれど、この舞台を前にしてこれもアリだと言われれば認めるしかないような気がした。こういうのを面白いと言う人も確かにいるのだ。

 こんなわけだから、この学校についてはあまり言いたいことが見つからない。ただ、舞台上の道具の配置についてちょっと。下手寄りの割と高い台上に設定した放送スタジオは、いくら何でも狭すぎたと思う。スタジオエリアはもう少し広く取って、その中でテレビ画面に映し出されるセット部分だけ一段高くするとか、工夫の仕方はもっとあっただろうと思った。

新座柳瀬高校「Angel in Broadway!=SEQUEL“The First and Last Romance!”」(稲葉智己)

 新座柳瀬はこのところ、ずっと高校演劇らしからぬ(まるで宝塚を思わせる)個性的な顧問創作の舞台作りを続けている学校である。確かに高校演劇としては異端なのだが、生徒たちもそれを信じて楽しそうに芝居作りに取り組んでいるのだから、高校生らしくないなどと評するのではなく、こういうのもアリなのだと積極的に受け入れていく姿勢が高校演劇の側に必要ではないかと思っている。

 柳瀬の舞台を見ていていつも感心するのは、キャストの生徒たちがみんな観客の耳に心地よいきれいな発声をしてくれることである。毎年生徒が入れ替わっている中で、この点で常に変わらない水準を維持しているのは素晴らしいことである。この発声があるから、ほとんどセリフのやり取りだけで終始する柳瀬の舞台が、観客としても苦痛にならずに見ていられるのだと思う。
 ただし、今年の舞台については少し問題点なども指摘しておかなければならないと思う。
 最近のコピスでは、柳瀬は朝コミの春大で上演した舞台の「続編」というかたちで、連続するが新たな一本を短期間で用意して上演する試みを続けている。こんな短期間で一本を完成させてしまうことにわたしはいつも驚かされているが、このことから来る問題点が今回の舞台には幾つか出てしまったと思うので、そのことについて少し書いておきたい。

 この前後編というやり方に初めて挑戦したのは「オズの魔法使い」を題材とした「D Lover!」からだったが、こういう内容の芝居(お子様向けの芝居と言っては語弊があるかもしれないが)なら短期間で仕上げてもさして不満は感じなかったのだが、翌年の「Eliza!」から昨年の「Ernest!」そして今年の舞台と、原作に大人のドラマを選ぶようになってからは、やはり練習不足なのではないか(作りが甘いのではないか)と感じる点が出てきているのである。
 どんな舞台作りをするとしても(男役を女子がやるという前提?の柳瀬のような場合でも)、大人のドラマを作るというのは、高校演劇にとってはかなり「無謀な挑戦」として意識する必要があると思っている。やる以上はそれなりの時間をかけて、そのことを丁寧に押さえていく必要があるだろうと思うのである。

 ましてや今回の台本は、ブロードウェイで名うてのギャンブラーとお堅い救世軍の女軍曹の恋という、もちろん素材としては面白い素材なのだが、それぞれ一人前の大人である2人が、これまで生きてきた人生とは正反対の相手に恋をしてしまうという話なのだから、そのあたりをしっかりとした大人の感覚で跡付けてやる必要があったのではないか。
 申し訳ないが、今回の柳瀬の舞台はわたしにはひどく子どもっぽいものにしか見えなかった。スカイもサラも、がんばってやっているのはよく判ったが、それぞれ役の年齢に相応の存在感は作れていなかったし、恋に関する細かいニュアンスも作れていなかったと思う。時間をかけることでどこまでできるかは判らないが、少なくとも大人のドラマに取り組む高校生としては、そこに賭けてみるしか方法はなかったと思う。

 いつものように舞台美術へのこだわりは今年も感じたが、今回はこの点でも時間不足だったと思われる不満が残った。上手のバーカウンターは使い回しだったと思うが、常にカウンターを背にして(つまり客席に向くためにカウンターと逆向きになって)会話するのは不自然だし、コピスの舞台を考えれば、バーのエリアも救世軍のエリアももう少し広くして、(パネルを立てる必要はないとしても)何らかのそれらしい工夫が欲しかった気がした。
 背景の摩天楼のシルエットは、力作ではあるがあまり効果的とは言えない気がした。舞台全体の雰囲気作りに重要な要素になっていると思うが、窓明かりの点滅がうるさかったし、それならもう少し克明な輪郭のシルエットだけにして、いつもそこに存在させておくというだけでも良かったかもしれないと思った。いずれにしても、大道具にも新たな対応が必要になるのであれば、これもまた(作り直しや修正のために使える)それなりの時間が確保されなければまずいだろうと思った。

 Mさんのコピスに賭ける熱い思いは伝わってきたが、今回は残念ながら若干空回りが目立ったような気がした。以前にやっていた不思議の国のアリス、白雪姫、オズの魔法使いといった童話を素材とした台本も、書く選択肢としては常に持っていた方がいいのではないかと感じる。もちろん最後は完全オリジナルが理想ではあるのだろうが。
 今回はかなり辛口になってしまったが、柳瀬のやっている芝居作りのユニークさは失ってほしくないし、次作に期待ということで終わりにしておくことにする。
by krmtdir90 | 2016-06-18 17:25 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル5・感想②

 今回、東大附属、坂戸、農大三の3校が選んだのは、どれも高校生が主人公の高校演劇のための台本だった。毎年行われる全国大会などで注目された台本は、いまでは比較的容易に入手できるようになっているようなので、そうした中から上演台本を選ぶというのは、がんばろうと思っている演劇部にとっては正攻法のいい方法だと思う。わたしはもう現役を退いているから、どこかの学校が上演した時、その舞台を通してそういう台本を知ることが多かった。
 ただ、もちろんいい台本もたくさんあると思うが、全国まで行ったからといってそれらの台本がみんないい台本とは言えないような気もしている。また、上演した学校の地域性に根ざした台本も多いから、関係ない地域の学校ではそのままではかなり上演しにくい台本というのもあるようだった。

東大教育学部附属中等教育学校「トシドンの放課後」(上田美和)

 この台本は鹿児島県の高校が上演したものである。東シナ海に浮かぶ離島・甑島(こしきじま)に伝わる伝統的民俗行事の「トシドン」というのが、ストーリー展開上の大きなカギになっている。甑島には高校がないので、島の子どもたちは中学を卒業すると親元を離れて市部の高校に通うことになるようだが、登場人物の一人・あかねはそういう生徒として設定されている。
 割と地域性のある台本ではあるが、他地域で上演しにくい台本ではないと思う。事実、けっこういろいろなところで上演されていて、わたしもこれまで幾つかの高校の「トシドン」を見ている。登場人物がたった3人で、ストーリーが判りやすく普遍性もある内容なので、部員の少ない演劇部では取っ付きやすいということがあるのだろう。

 教室に行くことができず別室登校をしている男子生徒・平野と、学校謹慎になった女子生徒・あかねが生徒相談室で同室させられることになり、どう考えても水と油の2人の間に徐々に心の交流が生まれてくるというストーリーである。これにあかねの担任の長山という若い女教師が絡むのだが、東大附属は正面からよくこの台本に取り組んでいたと思う。
 3人のキャストは、みんなちゃんとしたやり取りをしようとしていることは判ったが、しかし、率直に言えばまだ練習不足と言わざるをえない感じもした。とにかく3人しか出て来ない舞台なのだから、それぞれの関係性とか状況の微妙な変化、気持ちの変化といったものは、もっともっと突き詰めて演じてほしいと思った。わずかな口調の変化や間のでき方の違いなどで、非常に多くのことを語らせなければならない台本である。たぶん演出もそのあたりのことは判っていたと思うが、いまの段階ではまだあまり成果が上がっているとは言えないように思った。

 あかねはもっと思い切ってこういう生徒にならなければいけないし、平野ももっとこういう生徒に近づいてくれなければダメだったと思う。ツッパリ少女というのは案外演じやすいものだと思うのだが、演じた中田さんは当然そういう生徒ではないから、どうしても遠慮というか思い切りがついていない感じがしてしまった。平野をやった國丸くんももちろんこういう生徒ではないから、他人の中に出ていくと腹痛を起こしてしまうような弱さが感じられなかった。
 最初の段階で、2人の距離はもっとはるかに遠かったはず(心理的にも物理的にも)だと思う。それをきちんと設定することから一つ一つやっていかなければいけなかったのではないか。その距離が徐々に縮まっていくところがこの芝居の肝になるわけだから、もっとお互いに作戦を練って、丁寧な計算の下でやってほしかった気がする。2人ともできる素地は持っていると思ったので、時間をかけられないまま本番を迎えてしまったことが残念なのである。
 先生役は難しいと言えば難しいのだが、羽田さんは全体的にやや焦り過ぎという印象があった。いくら新米といっても先生は先生なのだから、もっと生徒の反応を確かめなければいけないと思う。確かにそれがうまくできないのが新米教師なのだが、確かめようとする気持ちは持って演じないと、教師と生徒の関係性が成立しなくなってしまう。あと、発声のトーンが高いのもマイナスで、普段の発声練習からもう少し低く発声することを意識した方がいいような気がした。

 などと少し厳しめに書いてしまったが、それでも終幕近くであかねがトシドンのお面を被って平野を励ますところでは、わたしは涙を押さえるのに苦労したことは言っておきたい。実際、客席でも目頭を押さえている人がけっこう目についた。それは台本の良さから来るものかもしれないが、東大附属の舞台がそれを正面からやり切っていたということでもあると思う。あのシーンで、あかねの腹の底から絞り出した大声は(ちょっと聞き取りにくかったけれど)感動的だった。
 顧問のKさんとの縁で、東大附属の秋の作品を3年連続で見せてもらっている。その創作劇はいずれも見事な出来映えで、埼玉県では過去に見たことがないような知的な舞台を作っていた。できれば今回も創作劇で埼玉にショックを与えてほしかったのだが、部内のスケジュールから見てそれは難しかったようだ。しかし、今回の舞台でもその力量の一端は確実に見せてくれていたと思う。今年も都大会目指してがんばってほしいと思っている。

東京農大第三高校「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら~」(畑澤聖悟)

 これは題名からも判る通り、青森県の高校がやった台本である。しかも、東日本大震災のあと、福島から青森に引っ越して来たカズサという男子生徒を主人公に、あの年(2011年)に甲子園を目指した青森の球児たちを描きながら、最後にはそれが、震災の津波で命を落としたたくさんの被災者への鎮魂歌になるという難しい作品である。きわめて地域性の高い、しかも何十人という出演者が必要になる台本なので、他県の演劇部が安易に手を出せる台本ではなかっただろうと思う。
 プログラムに顧問のFさんが書いていた通り、農三はこの困難に果敢に挑戦し、被災地訪問など様々な準備を重ねて、昨年の県大会で素晴らしい舞台を見せてくれた。残念ながら上の大会に進むことは出来なかったが、そのことが結果的にこのコピスでの最終公演に結びつき、勝ち負けに毒されない純粋なかたちでの上演で最後を締めくくることができたのは、これに取り組んだ農三の生徒たちにとって一番いい終わり方になったのではないかと思う。
 県大の時の舞台も感動的なものだったが、今回のコピスの舞台はそれをはるかに凌ぐ素晴らしい出来映えだった。年を取って涙腺が弱くなっていることもあり、わたしは涙をこらえるのに終始苦労してしまった。

 こういう台本を、被災地のことをほとんど(テレビなどでしか)知らない他地域の学校がやってもいいのかという問いからスタートしていたことが、ほぼ一年間にわたって持ち続けたこの舞台を色褪せさせることなく、さらに深みのある充実へと引っ張っていったのだと思った。長くやり続けることが演技のパターン化を招いたり、やり過ぎの誘惑に勝てなかったりして崩れていくケースは多い。農三がそうしたことと無縁だったのは、スタートから一貫して生徒たち全員で共有していた、被災地への謙虚で誠実な思いだっただろうと思う。
 今回の舞台で、ドラマの部分の芝居が県大の時よりずっと進化していたことに驚いた。深化という字を使ってもいいだろう。一つ一つのセリフにしっかり気持ちがこもっていた。だから、全体としては押さえ加減のままで(やり過ぎに陥らず)、笑いを誘うところでもあざとさに流れることもなく、一つ一つのシーンが非常に印象的に積み重なっていったと思う。カズサとシオリだけでなく、ヒロリやショウヨウ、ユウタやタカヒトといった野球部員たち、そしてその他様々な役でドラマに絡んできたみんなの姿が、鮮明に記憶に刻まれたと思う。
 もちろんモブシーンの見事さは言うまでもない。最後に全員で歌った「栄冠は君に輝く」の時のみんなの表情が忘れられない。作り物でない、自然にほとばしってしまった、一年間のいろんな思いが詰まったとびきりのいい表情だったと思う。

 わたしは十分感動し、十分涙を流させてもらったのだから、それで終わりでもちろん構わないのだが、その上であえて、ということを一点言っておこうと思う。
 後日談として描かれる、カズサのために修行してきたみんなの身体に、震災で亡くなった懐かしい人々が憑依してカズサの前に現れるシーン。あそこのやり方は難しいとは思うけれど、ややサラッとやり過ぎたように思った。あざとくやる必要はもちろんないが、カズサの気付き、そして驚き、さらに喜び(複雑な思いはあるにせよ)といった表現が、若干弱かったかなと思った。短いシーンだし、セリフの数も少ないから大変なのだけれど、気持ちの爆発(溢れ出す感じ)といったものがもう少しシーンに込められてほしいと思ったのである。

 農三はコピスでは十年以上のつき合いになる学校である。近年どんどん力をつけてきていたが、残念ながらなかなかいい台本に巡り会えず、力が十分発揮されないまま不完全燃焼の舞台を繰り返してきたように思う。わたしはFさんに毎年のように厳しい感想ばかり述べていた。
 この「もしイタ」を見た時、農三はやっとぴったりの台本を探し当てたと感無量になった。これこそ農三にしかできない、農三のためにある台本だと思った。いい台本に出会うことがみんなの力を掘り起こし、さらに予想を超えて成長させるのだと思った。

 以下、つけ足し。今年は各校のリハーサルも見せてもらったのだが、農三のリハーサルはなかなか見ものだった。
 道具も音響もなく、照明の変化もほんの僅かしかないから、90分をどうするのかと見ていたら、前半30分ほどを使ってシーンごとの位置取りを細かくチェックしていた。これを客席から指揮していた舞台監督の吉川さん(ヒロリ役もやっていたようだ)が素晴らしく、てきぱきとした進行は思わず見とれてしまった。今年のコピス最優秀個人賞(そんなものないか)と言ってもいいと思った。
by krmtdir90 | 2016-06-16 14:11 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル4・感想①

 これまでコピスの感想文は、最後の実行委員会で関係者に配布するだけにしていたのですが、今年は書き方などに一定の配慮をした上で、このブログ上に公開することに決めました。ただ、もともとわたしは書くのが非常に遅く、例年書き上げるのに1週間近くかかっていたものなので、どうなるのか見通しが立っているわけではありません。
 今回は上演順にはこだわらず、とりあえず何回かに分けてアップすることにします。では最初の2校。

 今回、偶然だったと思うが朝霞西高校と星野高校で鴻上尚史の台本が2本並んだ。
 プログラムの末尾にある上演記録によれば、実は鴻上の台本が2本並んだことは過去にも一度だけあった。第1回の時である。朝霞高校が「プロパガンダ・デイドリーム」をやり、新座北高校が「パレード旅団(中学生編)」をやった。新座北の顧問はわたしだったが、どこまでやれたかは判らないけれど、鴻上の台本の中でこれなら(これだけは)やれるだろうと判断したのである。
 率直に言って、わたしは鴻上尚史の台本を高校生がやれるとは思っていなかった。速射砲のように繰り出される知的で飛躍の多いセリフや、息つく間もない遊び心満載の展開など、それを支えるには鍛えられた大人の声や身体が絶対に必要であって、高校生には無理な台本だと初めから除外していたと言っていい。「パレード旅団」はまったく例外的な一本であって、それも「家族編」を捨ててしまえばほとんど中学生だけの話になって、ほぼ60分に収まりカットの必要もない点などに着目したということである。

 最近ではそれほどでもないようだが、鴻上尚史の台本は高校演劇で一時非常に流行った時期があって、あちこちの学校が競うように取り上げていたものだから、わたしもけっこういろんな舞台を目にしてきたと思う。だが、印象に残る舞台は皆無だったと言っていい。60分という時間制限のある(秋に限らず春でも)高校演劇では、原作の半分近くをカットしなければならないというのも大きかった。もともとストーリーというようなものが明瞭なかたちになっておらず、無関係とも見える様々なシーンが交錯したり飛躍したりしながら、全体的な構造が見えてようやくテーマのようなものが暗示されるといった台本がほとんどで、それに大幅カットを入れるというのは無謀と言うか、自殺行為に等しかったのではないだろうか。
 今回2校が取り組んだ「朝日のような夕日をつれて」と「天使は瞳を閉じて」は、そうした鴻上尚史の鴻上尚史たる部分が全開になった代表作である。それを取り上げるのは(当然顧問は判っていたと思うが)、どう見ても無謀な挑戦だったのだということを最初に確認しておきたい(それでもやると言うなら、それなりの公演の場を設定してノーカットでやるのが絶対の条件だったと思う)。

朝霞西高校「朝日のような夕日をつれて 21世紀版」(鴻上尚史)

 実は、絶対の条件はもう一つあったと思う。男の役は男がやらなければダメということである。特に男5人の台本である「朝日のような夕日をつれて」は、それが強く求められる台本だったのではないかと思う。女子が優位の高校演劇の世界では、何となくそのあたりは許容しましょうというおかしな風潮があるようだが、許容することが罪になるケースも多いということは言っておきたい。
 朝西の女子3人(特に部長=ウラヤマ役の篠崎さん)は非常によくやっていたと思う。しかし、この台本では、よくやればやるほどそれが女子であることが弱点として際立ってしまう結果になってしまった。昨年の「KANKAN男」の時も同じようなことを言った記憶があるが、本来そういうことで熱演が否定されるのは本人も本意ではないと思うし、朝西レベルの舞台が作れるのであれば、この点は本選びの段階でしっかり考えた方がいいような気がしている。

 その点を言った上で、「無謀な挑戦」というのはわたしは大好きである。どうやったところで高校生には無理だと思われるようなプロの台本に、それでも果敢に挑戦する高校演劇というのはいいものだと思う。無条件で応援したくなる。だがこの場合、当人たちにもそのことがきちんと理解されていることが肝要で、その「無謀」さの中で自分たちはどこを切り口として押していくのかということが、全体できちんと共有される必要があるのだと思う。
 朝西がやったのは恐らく、セリフの受け渡し(いわゆるやり取りとは少し違う)の徹底、ハイテンションとテンポの維持、キレのある動きとスピード感のある展開(切り替え)といった、鴻上芝居の「かたち」の部分をしっかり自分たちのものにすることではなかったかと思った。そして、それはかなり成果を上げていたのではないか。客席の反応も良かったし、笑いなどがけっこう出ていたのは、朝西がやろうとした意図が観客に伝わっていたということである。

 だがしかし、もっとやれたはずだとやはり言っておこう。もっとやれる可能性はあったと思う。一言で言えば、滑舌の悪さが足を引っ張っていた。このテンションで、なおかつこの早さでセリフを言わなければならないとなると、どうしてもセリフを「言葉の意味」としてきちんと言い切ることができず、聞き取れないところがけっこう散見されたのである。こういう台本ではこれはかなり致命的なことで、ちゃんと聞き取れればもっと笑えたのに(反応できたのに)というところがずいぶんあったような気がした。
 プログラムにもあったように、もともと「よくわからない」台本を大幅にカットして上演するわけだから、「わからない」は「わからない」として、「でもおもしろい」ところをとにかくアピールしようとしたのはたぶん正しかった。そして、それはかなりのところまでやれたと言ってもいい。けれど、この台本の「おもしろい」はまだまだ遠くにあったのも事実だということである。プロの本格的な台本に挑戦する意味がそこにあるのだと思う。

星野高校「天使は瞳を閉じて」(鴻上尚史)


 星野が取り組んだ切り口が、朝西ほど見えなかったというのが感想の第一である。
 台本のレジは(無謀という前提で言えば)たぶんこんな感じでもいいのだろうと思った。だが、マスターのお店などで展開する人間たちの関係や設定などを、役者たちが演じきれなかったということになるのではないか。一人一人のキャラクターやその関係の変化、さらに状況の変化などが、大人のドラマとして作りきれなかったということである。星野の生徒たちは高校演劇の中ではかなり高い水準でやっていると思うが、高校生がやっているという感じが終始ついて回ってしまい、やはり無理だなあという印象が最後まで変わることがなかった。
 客席の反応も朝西と比べると弱く、シーン一つ一つの作りが弱いから、申し訳ないがわたしはかなり眠くなってしまって困った。鴻上尚史の台本をやる以上、このあたりの責任はしっかり取ってもらわないと困ると思った。鴻上尚史の台本をやる以上、舞台上で(そちら側だけで)真面目に一生懸命やっていてもダメなのである。第三舞台というのは客席を巻き込んだ舞台であるというようなことを、鴻上自身が確かどこかで言っていたと思う。

 ホリゾントの好きな星野が今回は大黒で来たこととか、最初と最後のモブシーンの作り方などは(ミラーボールの使い方なども含めて)ずいぶん上手だったと思う(スモークを使ってもよかったかもしれない)。しかし、肝心のドラマの部分がきちんと作れていないのではどうにもならない。天使2(テンコ)を含めた人間関係がかなり書き込まれた台本だと思うのだが、そのあたりをどうするのかが作戦としてきちんと把握されていなかったような印象を受けた。
 舞台設計や大道具も、もっとやれるはずの星野にしては不満が残った。マスターの店は、いくら何でもあれでは手抜きと言われても仕方がないのではないか。カウンターのつもりらしいみすぼらしい台とその高さに合っていない低い丸イスが一つでは、どう見ても店の態を成していない。テレビに関する扱いや天使1に関わる台の扱いなど、こういった部分を含めた舞台全体のイメージ作りが、今回は中途半端だったことは明らかなように思う。

 飲み会の席でMさんは、決してこういう本をやらせたいと思っているわけではないと言っていたが、でも生徒がこれを選んでしまった以上、鴻上が大好きでその舞台をたくさん見ているというMさんとしては、もっと自分のイメージを生徒に押しつけていい(この言い方は誤解を招きやすいことを意識した上で言っているのだが)のではなかったかと思う。
 生徒が鴻上を選んだからといって、彼らが鴻上を(その台本を)どこまで読み込めるのかは判らないのではないか。と言うか、わたしはそのあたりははなはだ心許ないのではないかと思っている。「無謀な挑戦」であることは十分意識した上で、Mさんの考える切り口で「精一杯背伸びした高校生の」鴻上芝居を見せてほしかった気がする。わたしは高校生には無理だと思っているが、生徒の選択を承認してしまった以上、Mさんにはそういう言い方はできないのだと思う。熱心に生徒の面倒をみているMさんのことだから、わたしの言いたいことは判ってもらえると思っている。
by krmtdir90 | 2016-06-14 23:09 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(1)

コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル3・本番(2016.6.12)

 6月12日(日)、コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバルの本番、今年もたくさんのお客様においでいただき、ホールは一日中若々しい熱気に包まれていた。その中でわたしも、6校の舞台と階段パフォーマンスを見せてもらい、楽しい時間を過ごさせてもらった。
 とりあえず少し感想を書いておきたいと思ったのだが、昨夜のうちに「久米谷dayory」にかなり詳細な批評文を書かれてしまったので、けっこう見方が共通する部分もあって、後からだとちょっと書きにくいことになってしまった。われわれが「大(ビック)」で飲んだくれている間に、いち早く書いてくださったのだから文句は言えない。わたしの感想は、そんなわけでのんびり書こうと思っている。まあ、しばらく待っていてください。

 先日の西部A地区の春大で、朝霞のコミセンに来てくれた新座北高演劇部OGのMさんとOさんは、同じくOGのNさんを連れてコピスにも来てくれた。久し振りの再会の輪が広がって嬉しかった。Oさんは結婚して姓が変わったらしいが、わたしにとっては3人ともまぎれもなく高校時代のの3人の続きであって、自分の話し方も何となく昔に戻っているような気がして可笑しかった。
 OさんとNさんは、この演劇フェスティバルの第1回に新座北がやった「パレード旅団(中学生編)」に出演していた。Mさんは少し先輩だから、このコピスには出られなかったのを悔しがっていた。あの頃からもうずいぶん長い月日が流れたのである。新座北という学校名はなくなってしまったが、3人とも新座柳瀬ががんばっているのを見てとても喜んでいた。
 またいつか会えるのを楽しみにしています。元気で。

 今年も読み応え十分、40ページの手作りプログラム。
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by krmtdir90 | 2016-06-13 21:31 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル2・リハーサル(2016.6.11)

 コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバルのリハーサルは無事終了した。あとは明日(12日)の本番を待つばかりである。

 9:00、搬入開始。
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 このフェスティバルでは、前日のうちにトラックが各校を回り、道具は運送屋のトラックの荷台で一晩を過ごして、朝から一斉に搬入となる。

 9:30、今回初出演の東京大学教育学部附属中等教育学校のリハーサルからスタート。
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 演目は「トシドンの放課後」(本番上演2校目、11:30~)。リハーサルでは各校とも本番通りセットを立てるのだが、きょうのところは(まだ本番前だから)、どんなセットになるのか分からない段階の写真を並べていくことにする。

 11:00、星野高校スタート。
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 演目は「天使は瞳を閉じて」(本番上演3校目、13:30~)。

 リハーサルは各校90分。12:30~13:30、休憩。
 ロビーの大階段では、恒例の階段パフォーマンスの練習が午前中ずっと続いていた。今年は川越西高校と東京農大第三高校が担当。
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 13:30、リハーサル3校目、坂戸高校スタート。
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 演目は「報道センター123」(本番上演4校目、14:50~)。

 15:00、東京農大第三高校スタート。
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 演目は「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら~」(本番上演5校目、16:10~)。昨年の埼玉県大会で客席を感動の渦にした舞台の再演(千穐楽)。

 16:30、新座柳瀬高校スタート。
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 演目は「Angel in Broadway!=SEQUEL“The First and Last Romance!”」(本番上演6校目、17:30~)。今年も春大の作品の後編になる。

 18:00、リハーサル最後、朝霞西高校スタート。
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 演目は「朝日のような夕日をつれて 21世紀版」(本番上演1校目、10:10~)。

 明日(12日)の開場は9:40。会場はコピスみよし(埼玉県三芳町文化会館)。チケットは300円(一日有効)、当日券もあります。ぜひお越しください。
by krmtdir90 | 2016-06-11 23:47 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

映画「64(ロクヨン)前編」と原作「64(ロクヨン)」(横山秀夫)

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 最近の日本映画では、本編を前後編2部作として、一定期間を置いて順次公開していくという作品が見られるようになった。ボリュームのある原作の映画化などの場合、これはなかなかいい公開方法だと思う。ただ、わたしのようなせっかちな人間にとっては、前編を見たあとあまり長い時間待たされると我慢できなくなる感じもあった。
 こういう公開方法では、後編が公開されてもしばらくは並行して前編も公開され続けるのが判っていたから、それまで待とうかとも思ったが、結局待ちきれずに見に行ってしまった。行く前に、見てしまうとわたしは絶対に原作をもう一度読み直してしまうだろうという気がしていた。結局その通りになってしまったのだが、原作の単行本は647ページもある大作だから、読了するまで完全に二日がかりになってしまった。そういうわけで、映画を見たのは7日(火)だったが、感想文はきょうにずれ込んでしまったのである。

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 原作(横山秀夫)そのものが前後編になるような構成になっているので、映画(監督・瀬々敬久)の方をそういうふうにしたのは大正解だったと思う。原作の面白さは、この詳細に描き込まれた前半部分にあると思うので、そこをきっちりと映像化した映画の前編は素晴らしい出来映えになったと思う。
 怒鳴り合いに近いハイテンションのセリフの連続というのは、わたしは基本的にあまり好きではないのだが、この映画ではそのあたりが全く気にならず、全体として十分納得できるリアリティを持っていたのではないかと思った。これは、登場人物の内面や葛藤などがしっかりと造形されていて、人物相互の絡みなどが生み出す様々な関係性や状況といったものが、一人一人の役者の身体全体にくっきりと刻み込まれていたということである。脚本に書かれたセリフ、役者それぞれの演技、それらをしっかり映像に定着させた監督の力、そういったものが高いレベルで総合的に結実した映画になっていたのではないかと思う。

 映画の前編でストーリーの中心になるのは、県警警務部秘書課の広報官・三上(佐藤浩市)をキャップとする広報室と、同じフロアにある県警記者クラブとの対立である。広報室が上からの指示で交通事故の加害者を匿名で発表したことから生じた対立なのだが、ここには警察の隠蔽体質が自らに不都合な情報を闇に葬ってしまうという、原作全体の最終的な核になるテーマが提示されているのである。このあたり、原作が非常に緻密に組み立てられているところなのだが、三上が様々な葛藤を経て自らの判断と言葉で記者たちを説得するシーンは見応えがあり、映画としてしっかり成立していて感動的だったと思う。
 並行して県警内部のもう一つの大きな対立、刑事部と警務部の対立もしっかりと描かれていて、さらに中央対地方というキャリアとノンキャリアの確執なども描き込まれ、人物相互の複雑な関係が(映画ではある程度図式化されてしまうのは仕方がないとして)非常に良く描けていたのではないだろうか。

 題名にもなった昭和64年(たった7日で終わってしまった)の幼女誘拐殺人事件の顛末は、映画ではこの前編のプロローグとして置かれていて、それが未解決のまま1年後に時効を迎えようとしていること、この機に東京から警察庁長官が来県することになり、県警内の様々なところに様々な思惑と軋轢が生じていることなど、後編の新たな誘拐事件に結びついていく過去と現在(そして伏線など)が、非常に要領良く点描されていると思った。
 「64(ロクヨン)」の犯人はまだ影もかたちもないが、後編の展開に否応もなく結びついていく様々な要素は、前編の中にきちんと配置され埋め込まれているのである。表面的には上に書いたような対立関係が前編を支えたのだが、これらの対立を孕んだまま一気に犯人逮捕まで突き進む後編の準備は、遅滞なく整えられたということなのである。

 チラシの図柄からも判る通り、文字通りオールスターキャストによる群像劇になっているが、主役から脇役まで、キャスティングの妙と言ってもいいワクワクするような配置になっていたと思う。主役の三上は原作では際立った醜男と設定されているが、これが全く醜男ではない佐藤浩市になるのは仕方がないことで、このキャスティングがこの映画成功のカギになったような気がする。佐藤浩市は、高倉健亡きあと内面の屈折をきちんと演じることのできる数少ない役者だと思う。
 印象に残った役者は多いが、三上のかつての上司・刑事部捜査一課長の松岡を演じた三浦友和、警務部のトップでキャリア組の警務部長・赤間の滝藤賢一、さらに椎名桔平、奥田瑛二、永瀬正敏、赤井英和、仲村トオルといった、わたしが名前と顔を知っている役者たちが、みんなそれぞれに年齢を重ねた姿で好演していたのが印象的だった。見ている時は気付かなかったのだが、最後のクレジットタイトルで烏丸せつこが出ていたことを知り、帰ってから調べてみると、和服姿の老婦人役で確かに出ていたのには驚いた。あの「駅STATION」から、もうずいぶんの時が流れたのである。
 若手では、記者クラブ・東洋新聞キャップの秋川をやった瑛太、三上の部下である広報室係長・諏訪をやった綾野剛、同じく広報室員・美雲をやった榮倉奈々などが印象に残った。女性の少ない映画だったから、榮倉奈々は儲け役だったのではないだろうか。

 この前編では、原作のセリフなどがかなり忠実になぞられている印象があったが、非常に良く書けている原作の良さが見事に生きたと言っていいのではないだろうか。
 原作は全編が主人公・三上の一人称で書かれている(「私は」という一人称ではないが、終始「三上は」という視点を取って書かれている)が、後半になって新たな誘拐事件が発生し、その経過を描くところになると、この一人称の視点というのが事件の全体像を示すにあたって若干ネックになったのではないかと感じている。刻々と移り変わる状況変化に対して、前半で登場していた様々な登場人物たちがみんなそれぞれの反応や動きを示したはずなのだが、基本的に三上の位置で叙述するしかない一人称では、そうしたものがすっぽり落ちてしまう感じになってしまったように思う。この展開では、神の視点たる三人称が必要だったのではないかと感じた。
 その点、基本的に三人称にならざるを得ない映画の方が、同じことを描くにしても有利になるのではないかと感じる。そういう意味でも、映画の後編に大きな期待が持てるような気がした。
by krmtdir90 | 2016-06-09 16:33 | 本と映画 | Comments(0)


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