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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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北海道の鉄路を守るために

 スマートフォンでヤフーのニュースをチェックしていたら、「JR北16区間『維持困難』か」というショッキングな見出しにぶつかった。北海道新聞が本日(30日)7時に配信したものらしい。見出しはさらに「JR、地元と協議目指す/鉄道事業見直し表明」と続いている。記事の頭の部分を少し書き抜いてみる。

 JR北海道の島田修社長は29日、記者会見を開き、鉄道事業を抜本的に見直す方針を正式に表明した。秋までに「JR単独では維持困難な線区」を公表し、地元自治体との協議に入りたい考えだ。JRは具体名を明らかにしていないが、厳しい経営状況を踏まえて輸送密度二千人未満の線区を対象にするとみられ、この場合、宗谷線や根室線富良野-新得間など11路線16区間が該当する。JRは今回の提案を、国鉄分割民営化で会社が発足して以来の改革と位置付けており、道内鉄道網の見直しが一気に進む可能性もある。

 記事には「JR北海道の路線と輸送密度(2014年度)」という地図がついていて、輸送密度(1キロ当たりの1日平均輸送人員)500人未満の路線は赤で、500人以上2000人未満の路線は点線で描かれている。
 確認しておくと、赤の路線(区間)は次の通り。宗谷本線(名寄-稚内間)、根室本線(滝川-富良野-新得間、釧路-根室間)、釧網本線(全区間)、留萌本線(全区間)、札沼線(北海道医療大学-新十津川間)、日高本線(全区間)、石勝線(新夕張-夕張間)。
 また、点線の路線(区間)は次のようになっている。宗谷本線(旭川-名寄間)、石北本線(全区間)、富良野線(全区間)、室蘭本線(苫小牧-岩見沢間)、函館本線(長万部-小樽間)。

 今さら驚くには当たらないと言えなくもないが、ここまで具体的な提案がなされた以上、この流れを何とかくい止める動きを作らないと、それこそ取り返しのつかないことになってしまうと思った。
 JR北海道が抱える問題については、このブログでも過去に何回か取り上げてはきた。しかし、分割民営化が国の施策として行われたものである以上、それから30年も経過しているのだから、当初から予測された(北海道は単独では無理だという)矛盾が一向に改善されない状況に対して、国(政治)が見直しに動かないのはおかしいのではないだろうか。一番いい地域を取ったJR東海が、その黒字をリニアというような問題だらけの計画に蕩尽しようとしているのに対し、政府が何兆もの国税を財政投融資のかたちでつぎ込んで後押しすると決めたのが数日前のことだった。
 地方創生などとお題目だけは言うものの、やっていることは「選択と集中(地方切り捨てと東京一極集中)」の後押しだけではないか。JR北海道の提案は、北海道における札幌一極集中を劇的に前進させることになってしまうだろう。

 発足当初から経営が成り立たないのは判っていたのに、抜本的な対策がなされないまま30年も放置されたのである。経営安定基金で国の補助を入れるというのは、暫定的措置としてはいいかもしれないが、曲がりなりにも「民間会社」となった以上、JR北海道の側に立てば、先の見えない赤字体質は最早限界に来たということなのだろう。経済的な観点から考えれば赤字路線は切り捨てるのが当然だし、今回の提案は異の唱えようのない正論なのである。
 それはリニアの開業(前倒し)を経済対策としてしか考えない立場と同じだろう。リニアが日本の鉄道網の異端であることを考えようとしない愚かさは論外だが、貴重な在来線の鉄路を経済対策として廃止してしまう愚かさを、もっとみんなが考えてみなければまずいのではないだろうか。
 対象に挙げられた路線は、どれも他の地方では見ることのできない、北海道の最も北海道らしい貴重な鉄路なのである。世界遺産だ何だとうつつを抜かすのもいいけれど、先人たちの残したこんな素晴らしい遺産(観光資源)を守るために、なぜ貴重な国税を(あるいはJR東海の黒字を)つぎ込もうという発想が出て来ないのだろうか。

 書き始めると、言いたいことが次々と出て来て収拾がつかなくなってしまいそうなので、きょうのところはこのくらいにしておく。ただ最後に、民営化の方向は正しかったのかもしれないが、分割は失敗だったことに国(政治)はきちんと責任を取らなければおかしいということは言っておきたい。たとえば在来線は1~2社に統合し、一方でJR新幹線を独立させて、その黒字の何割かを(半分以上を)在来線会社に回すことを(国の鉄道政策として)決定するというような、とにかく抜本的な改革を行う時期が来ていると思う。そうしなければ、只見線や三江線といった北海道以外の素晴らしい路線も、この先どうなるかはまったく予断を許さないのである。
 現在のJR北海道にはその体力がないのかもしれないが、いま流行の様々な観光列車や寝台列車を一番走らせたいのは北海道の鉄路ではないだろうか。外国人をどんどん呼び込もうとしている観光立国・日本にとって、全国の、特に北海道に残された鉄路は絶対に失ってはならない資源ではないだろうか。まだ遅くはない。目先の経済論理だけで断じてしまう愚を、何とか未来に向けて繋いでいくプランに変えなければならない。
by krmtdir90 | 2016-07-30 21:05 | 鉄道の旅 | Comments(2)

映画「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」

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 十日ほど前、初めて新宿のK's cinemaで映画を見た時、ここで間もなくこの2本が上映されることを知り、これは見に来ることになるだろうなと思った。公開が始まると、nakamura-enさんが早々と感想をアップされて、先を越されてしまったのだが、遅ればせながらわたしも26日(火)に見に行って来た。K's cinemaは定員100名足らずの小さな映画館だが、整理番号順に入場する自由席制なのも好ましく、今後贔屓にしたい映画館だと思った。

 わたしにとって、ジャン=リュック・ゴダールは特別に重要な監督の一人である。だが、この2本の映画の記憶にはかなりの差がある。
 「気狂いピエロ」が制作されたのは1965年だが、日本で公開されたのは1967年7月である。劇場は当時のアートシアター2館が使われ、わたしはその時、いまは無き新宿文化でこれを見ている。その後も名画座などで何度も見ていて、そういう意味ではこの映画は完全な同時代の映画と言っていいように思う。文句なしに懐かしい映画なのである。
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 一方「勝手にしやがれ」は制作も日本公開も1960年であって、わたしが見たのはずっと遅れた1970年になってからである。たぶん見たのも1回だけで、残念ながらこの映画を同時代とすることはできなかったということになる。

 ゴダールはわたしの学生時代、映画ファンであれば何を置いても追いかけなければならない監督とされていた。だから、60年代のゴダールの映画はほとんど見ていると思うのだが、いま記憶に残っているのはやはりこの2本である。その個人的な意味合いや重さには差があっても、やはりこの2本は凄い映画だということを今回確認できたと思った。「勝手にしやがれ」はゴダールの長編デビュー作、5年後の「気狂いピエロ」は10本目の作品ということになるらしい。
 2本の映画は、同じジャン=ポール・ベルモンドが主演という以外にも、きわめて似通ったところの多い(双生児のような)映画だということが理解された。「勝手にしやがれ」のミシェルは映画の終わりに死んでしまったが、生きて5年後を迎えていたら、「気狂いピエロ」のフェルディナンになってもう一度同じようなことを繰り返すのだと思えた。

 2つの物語は細部は異なっているが、ベルモンド演じた2人の男の生き方の根っこにあるものは、驚くほど似たものなのだということが判った。それは、「気狂いピエロ」で新しいヒロイン(アンナ・カリーナだ!)とせっかく生き直すチャンスをもらったのに、結局同じような生き方の袋小路に嵌っていき、同じようなヒロインの裏切りによって、同じような自爆的な死を迎えることになるということである。5年の歳月を経ている分だけ、フェルディナンの絶望の方がより深く、より滑稽にならざるを得ないということなのだろう。
 ある意味で滑稽は悲しみと同義だが、またある意味、愚かさと同義でもある。若いころ見た時にはあまり掴めていたとは言い難い、ベルモンド(ミシェルあるいはフェルディナン)とそれぞれのヒロインとの会話のニュアンスが、今回はよく判ったような気がした。その感覚というか生理というか、ミシェルとパトリシアの、フェルディナンとマリアンヌの、いくら会話しても男と女がどうしようもなくすれ違っていくもどかしい感じである。
 今回、字幕がすべて新訳になったことも関係していたかもしれないが、わたしが年を取ったことも大きかっただろうと思った。

 それにしても、昔どこまで理解できていたか判らないが、映画の各所にちりばめられた言葉の豊穣さに目を見張る感じだった。昔はコラージュという言い方がされていたと記憶するが、一見無造作に並べられたように見える言葉が、これもまた突飛に見える様々なイメージとつながりながら、次第に響き合っていく感じが感じ取れたように思う。
 それともう一つ、昔は飛躍するイメージや斬新なカットの重ね方に目を奪われていたのかもしれないが、いま冷静になって見ると、基本を成しているストーリーの明快さというものを強く感じた。筋を要約するのが非常に容易なストーリーだということが判った。若い時はたぶん、華やかな目くらましに目を回してしまったのだと思った。
 単純なストーリーであることを否定的に見ているのではない。単純なストーリーをここまで豊かな映画に仕上げてしまうことを素晴らしいと思ったのである。豊かさを複雑と誤解していたところがあったのかもしれない。ゴダールは単純明快な人間だったのかもしれない。

 ジーン・セバーグとアンナ・カリーナはいずれも素晴らしかったが、何度も見ている分、アンナ・カリーナの方が思い入れがあり懐かしかった。「わたしに何ができるの、何をすればいいの」の繰り返しとか、「わたしの運命線」の歌と踊りとか、「優しくて、残酷」から始まる「ピエロ」の詩とか、そして何より最後の「ごめんね、ピエロ」に至るまで。
 有名な話だったが、「気狂いピエロ」を撮った時には、ゴダールとアンナ・カリーナの結婚はすでに破局を迎えていた。この映画の中のアンナの美しさはゴダールの思いの投影だと言われた。実際、ゴダールのカメラがどこまで見詰めても、彼女のくるくる移り変わる表情の奥に何があるのかは判らないのである。マリアンヌの影の部分が見えないままに、破滅に向かって突っ込んでしまう「ピエロ」の純情、と言ってしまったらいささか単純化が過ぎるかもしれないが、それこそアンナ・カリーナの美しさが生み出したものだったのである。

 ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた監督たちの中で、若い頃はフランソワ・トリュフォーの「わかりやすさ」を一番に感じていたところがあったのだが(「突然炎のごとく」など、「わかりやすさ」と言うより「理解できる感じ」と言うべきか)、今回、ゴダールが実はこんなに「わかりやすい」監督だったと判ったことが収穫だった。映画の撮り方ということで言えば、ゴダールのやった様々な斬新なことが、時代とともにごく当たり前の撮り方になったのだとも思った。
 そして、そうなってもこの2本の映画がまったく色褪せて感じられなかったのは、あれだけ個性的に作家性を前面に出していたように見えたゴダールの映画が、実はボーイ・ミーツ・ガールの単純明快なストーリーによって、ジーン・セバーグとアンナ・カリーナ、そしてジャン=ポール・ベルモンドの魅力を鮮やかに画面に定着させていたということがあったのだと思った。幸福な再会だったと言うべきだろう。
by krmtdir90 | 2016-07-27 19:00 | 本と映画 | Comments(0)

「中央線誕生」(中村建治)

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 わが家は中央線沿線にあり、鉄道でどこかに行こうとすれば、まず中央線に乗らなければ始まらないという生活をしてきた。近所の小さな本屋も中央線沿線だから、この本も目立つところに平積みになっていた。沿線住民としては、一度しっかり勉強?しておこうと思い購入してきた。「東京を一直線に貫く鉄道の謎」という副題がついている。

 非常に面白かった。中央線の前身である甲武鉄道の計画段階から、様々な紆余曲折を経て建設発展していくさまを丁寧にたどった本である。甲武鉄道の開業に心血を注いだ岩田作兵衛と雨宮敬次郎という2人の人物を中心に、控え目なドラマ仕立ても交えながら、歴史的事実をきちんと紹介してくれている。ドラマ仕立てを最小限に抑えているので、全体としてそれが大変効果的なものになり、若干単純化されてしまった部分はあるようだが、その時々の問題点がよく浮かび上がってきたと思った。
 本書の副題にもなっているが、利用者にとって常に気になっていた、中野・立川間の一直線の線路(約25キロ)の「謎」も、当時の経緯をこと細かに明らかにしてくれている。確かに余計な配慮をしないで、誰かが定規でエイヤッと引いてしまわなければありえないと思っていたが、なるほどそういうわけだったのかという感じである。

 当初、羽村から新宿に至る馬車鉄道としてスタートした計画が、蒸気鉄道となって新宿・立川間で開業したのは明治22(1889)年4月11日だったという。同年8月11日に八王子までの延伸が完成、全線開業を祝う盛大な祝賀行事が挙行されたようだ。このころ八王子が神奈川県下であったことも初めて知ることだった。
 計画段階での鉄道反対運動の様子とか、ルートが確定してからの駅誘致合戦のあれこれとか、興味深い事実が次々に述べられている。開業後順調に業績を伸ばす中で、東京中心部への延伸が計画されるところも面白い。希望は当然できるだけ最短距離でということだったが、それが現在のような大きなS字カーブで遠回りしなければならなかった理由など、様々な周囲の状況や時代背景が絡んでいたことがよく理解された。

 八王子より西の山梨方面とを結ぶ線路は官設鉄道として建設が進められ、明治34(1901)年8月1日に上野原まで、明治36(1903)年6月11日に甲府までが開通した時点で、国はこの路線に中央線の名称を与えたのだという。甲武鉄道が国有化され、全体が中央線を名乗ることになるのは明治39(1906)年10月1日のことだったようだ。
 本書ではわが最寄り駅・西八王子駅については触れられていないが、それは当駅が昭和14(1939)年4月1日と、ずっと後になってから開設されたものだからである。

 かつて日本全国で、鉄道線路の敷設や駅の開設が社会の要請であり、地域発展の鍵とされた時代が確かにあったのだ。全国に張り巡らされた鉄道網の一つ一つに、こうした人知れぬドラマがあったのだろう。
 東京近郊の中央線は、その後も主要幹線として発展を遂げているが、地方の鉄道の中には、時代の変遷によって役目を終え廃線となってしまった線路も多くある。一旦消えてしまえば二度と復活することはない線路である。甲武鉄道建設の苦難の経緯を読みながら、現代になって消えてしまった、あるいは消えていこうとしている線路や駅のことが、気になって仕方がなかった。

by krmtdir90 | 2016-07-26 21:45 | 本と映画 | Comments(0)

続続・近況報告(手の手術その後)

 手の手術のことを書いたのだから、一応その後の経過についても簡単に報告しておく。
 11日(月)の診察で抜糸が行われ、その後、傷口は簡単な絆創膏で覆うだけでよくなった。傷口が開くなどということは、もう余程のことがない限りないと言われた。ただ、指などが元通り自由に動くようになるためには、かなり一生懸命リハビリに励まなければならないということだった。手の中で長らく固まっていた神経や腱を復活させるのは容易なことではないようだった。

 4日(月)からスタートしたリハビリは週1~2回のペースで通っている(きょうも行って来た)が、なかなか目に見える成果は上がってこない。医師(セラピストと言うらしい)が手を添えて、指を反らしたり関節ごとに曲げたり、痛いけれど我慢できるという(ギリギリの)加減で何回も繰り返すのだが、やってもらった時はけっこう動くようになるのだが、普段の生活に戻って少し経つとまた固くなってしまうようだった。
 セラピストとの会話から、どうやらわたしのケースは、手根管症候群よりも腱鞘炎(腱滑膜炎)の方が大きな問題だったらしいということが判ってきた。まだ働いていた頃から、少しずつ腱鞘炎の兆候が出ていたのだろうと言われた。

 相変わらず指に力が入らないし、まだ握りこぶしも作れない。ペンを持って文字を書くのもうまくできないままである。まあ気長にやるしかないと思っているが、もう現役ではないのだから、完全に元通りにならなくてもいいのではないかなどと、少し弱気の虫も起こってきているのである。
 集中してパソコンを使うと指がジーンと熱を持つことも判ってきた。パソコンをスッパリやめることは考えられないが、指に悪いことは明らかなのだから、それを判った上でどこまでやるかという問題になっているような気がする。セラピストはやめなさいとは言わず、やったら必ず冷やしなさいと言う。禁止を振りかざさないこの言い方はわたしを納得させてくれるが、選択の責任はわたしにあるということなのである。

 右手が落ち着いたら、今度は左手をどうするかという問題も残っているわけで、年を取っていくというのは簡単なことではないなと実感させられている今日この頃である。
by krmtdir90 | 2016-07-25 15:57 | 日常、その他 | Comments(0)

映画「いしぶみ」

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 ポレポレ東中野で10:20の回を見ようと出掛けて行ったら、前の道に時ならぬ人混みができていた。先生に引率された40人くらい(1クラスか)の中学生(たぶん)の一団が、これから団体でこの映画を鑑賞するらしい。まいったなあと思ったが、かつて教員をやっていた身としては、こういう映画を生徒に見せようという先生方の気持ちは理解できるし、迷惑に思ったりするのは失礼なことだと反省した。実際、生徒たちは騒ぐでもなく、終始静かに鑑賞していたので感心した。

 1969年、広島テレビが制作した「碑(いしぶみ)」というドキュメンタリーがあったのだという。当時大きな反響を呼んだ作品だったようだが、わたしはこれを見ていない。原爆投下時に爆心地のすぐ近くに勤労動員されていて被爆し、全滅した旧制広島第二中学校1年生321人の記録である。遺族から寄せられた手記や聞き取りの内容を構成し、映画監督・松山善三の演出によって、語り部となった女優・杉村春子が静かに朗読するという作品だったらしい。
 2015年、再び広島テレビの制作によってリメイクが行われ、全国ネットで放送もされたようだが、わたしはこれも見ていない。今年になって、これを映画として公開することになったのが今回の上映だという。ここで語り部を務めたのは綾瀬はるか、演出を担当したのは是枝裕和監督(「海よりもまだ深く」)である。

 映像作品としてはきわめて特異な作品と言わなければならない。カメラは基本的に台本を朗読する綾瀬はるかを撮っていくだけである。そこで語られる内容は、すべて綾瀬はるかの声を通してのみ伝えられる。ピンと張りつめた、透き通る美しい声である。彼女は終始ほとんど表情を動かさず、その語り口とともに、そこに安易な情感を込めることを注意深く避けている。言葉は事実のみを淡々と述べ、あとはすべて観客の想像力に委ねられている。
 おそらく広いスタジオで撮影されたものと思われるが、まるで舞台上であるかのように抽象的な装置が組まれている。暗闇の中に巨大な湾曲した壁面(スチール写真を確認すると、全体が巨大な円柱になっていたように見える)が屹立し、照明効果によってその表面のザラザラした感じが際立つかと思うと、今度はその全面に生徒たちの白黒の顔写真が整然と映し出されたりするのである。椅子に座った綾瀬はるかの周囲には黒ずんだたくさんの木箱が置かれており、その配置が時々変えられることで様々なものを象徴的に表現したりする。
 ある意味、非常に単調な映画なのだが、見ているうちに(というか、綾瀬はるかのくっきりした声を聞いているうちに)次第に目が(耳が)離せなくなってしまう気がした。

 綾瀬はるかが語ってみせるのは、(原爆によって)同じ死に見舞われたとはいえ、一人一人が違っていた生徒たちの死の有り様である。最初に「何学級の誰々は」と紹介され、その朝のことであったり、その後のことであったり、そしてみんな例外なく数日のうちに死んだことについて、次々と、次から次へと、次から次から次から、語るのである。321人と一括りにされることで失われる個々の生徒の姿を、一人ずついとおしむようにして甦らせるのである。
 多くの場合、綾瀬はるかに近い木箱にその生徒の名前や写真が投影された。綾瀬はるかの言葉をその動かない儚い映像がわずかに補ってみせる。映像はそれ以上のことはしようとしないが、この繰り返しが見る者の心をどんどん苦しくしていく。
 当然、死んだ彼らは何も書き残すことは出来なかったから、ここに紹介される事実はその死を看取った父母や周囲の人間が残したものである。だが一方で、生徒たちの3分の1は即死であり、残る3分の2は重傷を負って最大数日生き延びたとはいえ、肉親や近親者と出会うことが出来た生徒は限られていて、再会叶わず死んでいった者も多かったというから、そうした語られることのない多くの死があったことも、ここには確かに浮かび上がらせているのである。

 元になった「碑」の方を見ていないから比較することはできないが、この企画の基本的なコンセプトは不変のまま、しかしリメイクにはリメイクとしての新しいアプローチも行われたらしい。今回では、種々の事情で動員に行かなかったため生き延びてしまった生徒の存在が明らかになり、すでに80歳を超えた幾人かに対して、池上彰氏を聞き手とするインタビューが行われたようだ。その様子が、その他の関係者へのインタビューとともに、映画の途中に挿入されている。
 これはこれで貴重な証言にはなっているものの、作品としては綾瀬はるかの語りだけで終始一貫させた方がよかったような気もした。その作り出した凝縮された空間と時間、その緊迫感は並みのものではなく、それだけで最後まで見せてほしかったと感じたのである。この作品は書籍化とともに戯曲化もされているようだが、わたしはこの映画を綾瀬はるか主演、是枝裕和演出による舞台として見たかったのかもしれないと思った。
 それにしても、いわゆる演技らしい演技は何一つしていないのに、綾瀬はるかという女優がここでやったことは特筆されてしかるべきだと思った。すべてを言葉の内側に閉じ込めた演技と言ったらいいだろうか、この女優、並みの女優ではない。
by krmtdir90 | 2016-07-20 14:08 | 本と映画 | Comments(0)

映画「映画よ、さようなら」

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 新宿・K's cinemaというのは初めて行く映画館だった。ビルの3階にある小さな映画館だったが、行ってみて思い出した(アクセス地図を見た時、何となく予感がしたのである)。ここには昔、わたしがまだ若かった頃、いつもヤクザ映画の3本立てをやっていた映画館があった。館名が思い出せないのだが、いかにも場末にある感じの古びた映画館で、わたしも何回か入ったことがあったと思う。安い入場料金で時間がつぶせるので、昼間から行き場のない失業者などが席を埋めていた。
 こうした映画館では、すっかり使い込まれたフィルムを使用するため、画面は引っ掻き傷だらけだったり、映写の途中で場面が飛んだり、フィルムが切れてスクリーンが真っ白になってしまうことも時々起こった。だから安い料金になるのだが、デジタル上映になってしまったいまでは、もうそういうことは起こりようがないのである。
 新宿の町もすっかり小綺麗になってしまったが、このあたりにはまだ昔の雑然とした雰囲気の余韻が残っていると思った。

 2010年制作のウルグアイ映画(スペインとの合作)だという。ウルグアイはブラジルとアルゼンチンに挟まれた南米の小国らしいが、その国の映画であることを念頭に置いて見なければならない映画ではない。むしろ国などは関係なく、どこの国の映画であってもかまわない(成立してしまう)ような映画だと思った。
 ウルグアイの首都モンテビデオにあるシネマテークが閉鎖され、25年間そこで働いてきたホルヘという中年男(ホルヘ・ヘネリックというウルグアイの映画評論家がキャスティングされている)が失業する(居場所を失う)という話である。映画そのものを取り巻く状況が時代とともに大きく変化する中で、こうしたことはどこの国にでも起こりそうな気がする。
 現実には、モンテビデオには3つのシネマテークが活動中で、経済的には楽でなくても実際に閉鎖というようなことは起こっていないようだ。だが、この先そうなる可能性は常に存在しているわけだから、冒頭にいくら「本作はフィクションであり」という字幕が出ても、この状況は現在の映画が抱えた切実な問題の反映なのだと思った。

 このシネマテークでは歴史的な名画のフィルムを世界中から収集し、会員を募って定期的にそれを上映する(何々週間、何々特集といった感じだ)ことをしてきたらしい。しかし、近年は会員数も減り、建物の賃料も滞納が続き、古い映写機の修理もままならない状況が続いていて、とうとう出資元の「財団」から打ち切りの通告を受けてしまうのである。ビデオやDVDの普及や、フィルムからデジタルへの切り替えといったことが逆風になったことは容易に想像できる。
 主人公のホルヘという男は、若い頃からずっとシネマテーク一筋で生きてきた(ここで働くことに誇りと使命感を持ってきたような)男だから、突然その場を奪われてしまうことは想像できない衝撃だったのだろう。映画の前半で点描されるのは、館長とともに上映作品の選定をしたり、地元のラジオ番組でシネマテークの宣伝をしたり、みずから映写機を操作したり、座席の椅子の修理をしたりと、あらゆることをこなしながら、文字通りシネマテークを支えてきたホルヘの姿である。

 あまりシネマテークに熱中し過ぎたためか、彼は45歳になったいまも独身で、時々観客としてやって来る大学教授の女性に密かな気持ちを寄せているらしいが、思うような展開には持ち込めないでいる。こうしたところで外見のことを言うのは本意ではないが、この小太りの男の下腹の出た体型や顔の造作などは、とても映画の主人公になれるようなものではないのである。
 現実の世の中には映画のような美男美女がいるわけではないにしても、閉鎖された事務室で最後の私物を鞄に詰め、シネマテークを後にしたホルヘがバスの中で涙を拭うシーンなどは、観客として簡単に感情移入できるシーンにはなっていなかった。彼がシネマテークを愛し、その存続のために必死になっていたことは判るけれど、所詮はすべて中のことに過ぎないのであり、彼の「恋」にしたところで、彼はシネマテークの中にいる自分を無意識に肯定していたに過ぎないのではなかったか。
 こうした厳しい書き方をするのは、映画のこの後がまったく予想外の展開を見せたからである。そこから振り返ってこの男を厳しく見るのはアリだろうと思ったからである。

 仕事人間としてずっと走り続けてきた男の喪失感と、長いあいだ人々の夢を紡いできた映画館の閉鎖というのは、情緒的には重なり合って、失われたものを惜しむというような方向に行ってしまいそうに思われる。だが、この映画がしたのはそういうことではない。
 失意のまま町に出たホルヘは、突然鳴り出した勇ましい音楽に突き動かされるようにして、急に何かに取り憑かれたように早足で歩き始めるのである(以後、不自然なほど大音量でかぶさってきた音楽の多くが、往年の名画のサウンドトラックだったというのをプログラムで知った。見ている時は判らなかった)。ホルヘは大学教授の女性の勤める大学に電話をかけ、彼女から仕事が夜の9時に終わることを聞き出すと、午前中のうちから大学に向かうのである。
 このあとの彼の行動は一つ一つが思いがけないものであって、開放感と言ってしまってはたぶん言い過ぎなのだが、シネマテークに囚われていた彼の新たな出発というものを、映画的な短絡によって(たぶん実際にはもっとずっと長い期間が必要だったと思われる彼の再生までの道のりを省略して)劇的に映し出して見せるのである。学生から代講の講師と間違えられて、ちゃっかり(嘘についての)講義をしてしまったり、校内の階段で一人(ジーン・ケリーのように)ささやかなタップダンスを踊ったりするのである。

 チラシの惹句に「幕が降りても人生は続く」とあるが、シネマテークの幕は彼の人生の幕ではなかったことが音楽の高鳴りとともに、ユーモアを持って描き出されるのである。このあと彼は床屋に行き、これまでの何となくオタクっぽい髪型をすっきりさせると、一瞬のためらいの後、シネマテークから大切に持って来た(思い出の品が入っていたのかもしれない)革の鞄を、意図的に床屋の床に置き忘れるのである。
 過去と訣別した彼は、夜9時、同僚と出て来た大学教授の女性パオラをつかまえ、何と「映画を見に行きませんか」と誘うのである。アッと思った。シネマテークの受付で、彼女に招待券を発行して感謝されていた時のホルヘではない。映画をこよなく愛していたはずのこれまでの彼ではありえない、しかしこの彼もまた、この先ずっと映画とともに生きていくのである。
 この彼は、シネマテークのロビーで「コーヒーを飲みませんか」という誘い文句を練習していた、閉じたホルヘとは明らかに違っている。大学教授のパオラもその違いを感じ取ったのかもしれない。にっこりと誘いを受け入れた彼女と彼が、モンテビデオの夜の雑踏の中に消えていくところでエンドマーク(FINだった)が出て映画は終わる。

 上映時間はたった63分。しかも、いまどき珍しい白黒スタンダードサイズの映画だった(監督フェデリコ・ベイロー)。変な言い方だが、映画監督の作家性といったものが終始貫かれていた映画だったと思う。上映時間も含めて映画全体の作り方が、商業ベースとは完全に切れたところで成立した映画である。
 それでいながら、映画でなければ描けない描き方が随所に見られたと思う。むやみにカット割りをせず、ほとんど標準レンズで撮られたと思われる静かなワンシーンワンカットの積み重ねが、最後に信じられないような展開で、何とも愛すべき「ささやかな恋」を成立させてしまったのである。映画としての幕の切り方はここしかないという感じがした。その潔さが印象に残った映画だった。
by krmtdir90 | 2016-07-18 21:17 | 本と映画 | Comments(0)

映画「シアター・プノンペン」

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 カンボジアという国について知っていることはきわめて少ない。インドシナ半島でベトナムとタイに挟まれ、北部でラオスにも国境を接している小国である。この映画は、この国が1975年4月17日~1979年1月7日の間、カンプチア共産党(クメール・ルージュ)のポル・ポト政権によって支配され、信じがたい圧政と残虐が国民に降りかかった事実と、その傷跡が現在も様々なところに残っていることを描いている。
 家に帰ってから、インターネットでこのあたりのことを調べようとしたのだが、あまりにも複雑な経過があって理解するのが難しかった。ベトナム戦争が(アメリカ軍の撤退によって)終結したのは1975年4月30日とされているが、カンボジアとラオスは南北の補給路があることから完全にこの戦争に巻き込まれており、種々の勢力の目まぐるしい消長と周辺諸国との関係の変遷など、様々な対立と混乱に翻弄される内戦状態が延々と続いていたのである。長い苦難の時代を経て現在のカンボジア王国が成立したのは1993年だという。

 映画は軽快な音楽に乗って、現在の首都プノンペンの夜の町並みをオートバイで疾駆する若者たちの狂騒から始まる。ボーイフレンドのオートバイの後部座席に乗る派手な服装の娘ソボン(マー・リネット)がこの映画の主人公である。彼女は大学生だが、ほとんど寝たきりの母と厳しい軍人の父、そして真面目一方の弟との生活に嫌気がさし、学校をサボって夜な夜な遊び回っているという設定になっている。父親が勝手に決めてきた将軍の息子との見合い話から逃げるため、彼女は家を飛び出してしまう。
 ありふれたと言っては語弊があるかもしれないが、現代のカンボジアのホームドラマなのかと思わせる感じで始まったストーリーは、このあとまったく思いがけない方向に進んでいくことになる。彼女の周囲にいた肉親や大人たちの中に、過去の歴史の癒えていない傷跡が、生々しく無惨な姿で潜んでいたことが明らかになってくるのである。一見しただけでは、それなりの安定と平穏を取り戻したかに見える人々の生活の底に、40年前の禍々しい記憶がべったりと貼り付いていることが明かされていく。

 ポル・ポト政権下のクメール・ルージュの時代、原始共産制を狂信的に志向する政策によって、飢餓・疫病・虐殺などで国民の4分の1にあたる200万人以上の死者が出たのだという。特に思想改造の名の下に行われた強制収容所での虐殺は想像を絶するもので、教師・医者・公務員・資本家・芸術家・宗教関係者、その他良識ある国民のほとんどが、まったく機械的無差別に殺されてしまったらしい。国外に脱出した人もいたようだが、とにかくこの階層で生きて収容所を出られた人間はほんの一握りに過ぎなかったらしい。
 こうした虐殺が行われた場所・キリングフィールド(刑場跡)は国内各所に散らばり、多くの人骨が国中から発見されているのだという(この中の一カ所が映画の中にも出てくる。小さな慰霊の建物の中にぎっしり積まれたしゃれこうべが衝撃的だった)。その後、新しい国家体制を建設する際に、中心となるべき知識層がほとんど殺されてしまっていたため、その育成から始めなければならなかったというような、信じられない状況が伝えられているのである。

 映画は、クメール・ルージュが権力を掌握する直前に撮影され、公開されること叶わなかった「長い家路」という映画の「数奇な運命」を追いかけていくことになる。プノンペンの片隅に廃墟になった映画館があり(シアター・プノンペンだ)、そこでただ一人「長い家路」のフィルムを映写し続ける館主の男の出現と、偶然そこに迷い込んだ主人公・ソボンが、その映画でヒロインを演じていたのが若き日の自分の母親であることを発見する。
 これに始まって、若き日の母親が愛した「長い家路」の監督兼主演男優の存在が明らかになり、現在の映画館主の男がそこにどう関係していたのかが明らかになり、ソボンの父親がどういう役割で若き母親と出会ったのかといったことが、次々に明らかにされていくことになる。クメール・ルージュの時代、4人に1人が殺されるという状況の下で、人々がどのような過酷な運命を強いられたのかが明らかになっていくのである。

 監督のソト・クォーリーカー(カンボジア出身の女性監督・43歳)は、この映画の中で誰かを非難したり断罪したりしようとはしていない。クメール・ルージュに屈したり協力したりすることで生き延びた映画館主や父親のような存在に対しても、一面的な決めつけや否定に流れることを避けている。うち続く内戦と狂気のようなクメール・ルージュ支配の下で、誰が味方で誰が敵かも判らないような長い苦難を経験したこの国の過去に触れる時、彼女の中にあったのは一種あきらめにも似た「赦し」の感情であったように思われる。
 現在のカンボジアにおいて、これら負の歴史に触れることは注意深く避けられているような面があるのだという。一皮むけば誰もが殺し殺されの過酷な敵対関係を抱え込んでいた以上、これはある意味無理もないことではあるのだろう。被害者と加害者が同じ現在の国内に生きているのである。
 しかし、その時代を直接的には知らないこの監督を始めとする若い世代が、この歴史に目をつぶることはできないという思いが、彼女にこの映画を作らせたのだろう。映画の作りとしては稚拙なところや、ストーリー展開に無理なところも目に付くけれど、カンボジア人としての彼女の思いはしっかり伝わってくる映画だったと思う。

 映画「長い家路」のフィルムの最後の一巻が失われていることから、主人公・ソボンが様々な協力を得てその最後を撮り直そうとするというのがストーリー展開の骨子になるわけだが、そこにソト・クォーリーカー監督が込めたものは、言われなき迫害によって壊滅したカンボジア映画に対する思いでもあったのかもしれない。
 クメール・ルージュの下では、当時の映画関係者(監督・俳優・その他スタッフなど)も文化人として大半が虐殺され、映画館は残らず閉鎖され、それまでのカンボジア映画の膨大なフィルムもほぼすべて処分されてしまったのだという。若き日の映画館主が秘匿した「長い家路」のフィルムは、奇跡的に処分を免れた貴重なフィルムの一つだったことになる。そして、そこから時代の犠牲となった悲しい恋の物語が見えてくることになるのである。

 クメール王国の王子とヒロイン(村娘?、マー・リネットが2役で演じた)のおとぎ話のような恋を描いた「長い家路」のエンディングは、オリジナルでは王子とヒロインが結ばれて終わるものだった(それは演じた監督兼男優と彼を愛した若き日の母親の恋の成就でもあった)が、彼女に横恋慕した映画館主の屈折した思いから、ヒロインの命を救った村の男と結ばれるという結末に作り替えられてしまう。
 しかし、ソト・クォーリーカー監督は彼を決して一方的な悪役にはしていない。この映画館主やソボンの父親がかつて何をしたのかという詳細は、ここには書かないでおくことにするが、彼らもまたクメール・ルージュの犠牲者であり、彼らの恋もまた真実であったことを、彼女はきちんと認めているのである(そのため、きわめて過酷な現実を描いていながら、見終わったあとの印象は非常にいいものになっていると思う)。

 映画「シアター・プノンペン」のエンディングは、2つのエンディングに引き裂かれた「長い家路」という40年前の映画に対する、素晴らしい贈り物になっていると思った。
 若き日のヒロインが着た赤い衣裳を身につけ、現在の年老いた彼女(主人公・ソボンの母親。実際にクメール・ルージュの時代を生き抜いたディ・サヴェットというカンボジアの女優が演じている)が、「長い家路」の時と同じ小舟に乗って水面をゆっくり進んで行くのである。40年に近い歳月を経て、家に閉じ籠もり続けた(心を閉ざし続けた)彼女の(そして恐らくカンボジアという国の)新たな一歩を、この(第3の)エンディングはただ静かに見詰めるのである。
by krmtdir90 | 2016-07-16 17:25 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ひと夏のファンタジア」

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 韓国のチャン・ゴンジェという映画監督が、2014年に日本の奈良県五條市で撮った映画なのだという。韓国で公開されると、こうしたインディーズ映画としては異例の大ヒットとなり、各方面で高い評価を受けたものらしい。この夏、日本でもぽつぽつ公開が始まったということのようだが、いまのところまだきわめてマイナーな映画館で細々と上映されているにすぎない。
 どこでこの映画の情報に触れたのか忘れてしまったが、何となく興味を覚えて調べてみたら、都内ではユーロスペースで21:00から1回上映のレイトショーをやっているだけだった。この歳になるとさすがにこの時間に出掛ける気にはなれない。
 あと一館、横浜シネマリンという映画館が見つかったが、ここはこの1週間だけ10:30からの1回上映が設定されていた。16日になるとここも遅い上映時間になってしまうようなので、いま見に行かないと見られなくなってしまうと思い行って来た(12日)。JR根岸線の関内駅から徒歩5分、最近リニューアルされたらしい昔からの地下の小さな映画館だった。
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 ロビーの中から入口を見たところ。
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 さて、映画の方だが、不思議な映画だと思った。いかにも小品といった感じのさりげない映画なのだが、見る者を惹きつけるいろいろな仕掛け(のようなもの)が施されていて、いつのまにかそこに漂う空気に染められてしまうような気がした。
 上映時間96分の映画だが、それがほぼ2等分された2部構成になっている。1部はモノクロで、五條市にやって来た韓国人の映画監督(チャン・ゴンジェではないが、ほぼ同年代と思われる若い監督)が通訳を兼ねた助手の女性と、市役所観光課の青年職員の案内で五條市内の様々な場所を歩き回り、紹介された先で土地の人々の話を聞いたりする様子を映し出していく。
 2部はカラーで撮影されていて、五條市に一人でやって来た韓国人旅行者の若い女性が、JR駅前の観光案内所で偶然出会った柿農家の青年に案内されて五條市内を歩き回り、そのうちに青年が次第にこの女性に心惹かれていく様子を映していく。
 いずれも「映していく」という感じであって、「描いていく」という感じにはなっていないように思われた。非常に淡々とした不思議な撮影の仕方なのである。

 しかも、この1部と2部の関係が微妙である。内容的にはそれぞれが独立していて、登場人物も共通しないし、明瞭なかたちでの直接的な関連性は見られない。ただ、1部・2部それぞれの中心人物(男女)を、同一の俳優が一人二役というかたちで演じているのである。
 1部の助手の女性ミジョンと2部の旅行者の女性ヘジョンを演じたのは、同じキム・セビョクという韓国女優であり、同じく1部の観光課職員・武田と2部の柿農家の青年・友助も、同じ日本人俳優の岩瀬亮が演じている。だが、ここに何らかの手掛かりがあるのかと考えてみても、どうもそういうことでもないらしい。
 チャン・ゴンジェ監督がこの五條市に滞在して、実際にカメラを回して撮影したのはたった11日間だったようで、きちんとしたシナリオや配役があったわけではないということらしい。実際にやっていくうちに2部構成という方向が固まり、急遽2部の内容が作られていく中で、2人の俳優を新たな登場人物として動かしてみることになったようだ。

 1部でイム・ヒョングクという俳優が演じた映画監督テフンが、シナリオハンティングのような感じで見て回った五條市の幾つかの場所が、2部の背景として生かされている。チャン・ゴンジェ監督は1部のカメラを回しながら、2部のロケハンを行っていたとも言えるようだ。
 また、1部で市内を案内した観光課職員・武田が、以前に韓国から来た旅行者の女性を(今回のように)案内したことがあると話すシーンが収められている。彼は「残念ながらロマンスは生まれなかった」と冗談のように言うのだが、これが2部のアイディアにつながったことは容易に想像できるようになっている。
 この会話が最初から用意されていたものなのか、それともその場の流れで即興的に作られたものなのかは判らない。同一の俳優が演じるということで、この職員をやった岩瀬亮は2部では柿農家の青年に替わっているのだから、両者の間に関連は存在しないとばかりは言えないような気がした。だが、映画の中の監督が、撮るべき映画について何の構想も持っていなかったところから、この会話を始まりとして2部の内容を組み立てたのは明らかであるように作られているのである。

 静かなドキュメンタリーのように映されてきた1部の終わりに、不意に不思議な幻想のショットが現れる。武田の紹介で案内してくれたおじさんと、廃校になった小学校を見に行った監督と助手の2人が、廊下に掛かった古い写真の中におじさんの初恋の人が写っていることを教えられる。教室の中から木琴を弾く音が洩れてきて、導かれるように監督テフンが入って行くと、木琴の前にいた少女が振り返って「待っていたのよ」と言うのである。
 演じていたのはたぶん助手役のキム・セビョクで、セリフは日本語だったと思うが、このあたり記憶が正確であるかあまり自信がない。だが、突然のイメージの飛躍がカラーの花火の映像に引き継がれ、映画はこれも突然に2部に入っていくのである。モノクロで辿られた五條市の現在と過去の中に、見えていなかった恋の記憶といったものが、不意に呼び覚まされたのかもしれない。

 カラーで撮影された2部の方が本編と考えれば、モノクロで撮影された1部は映画作りの準備段階であり、一種の種明かしであることによって不思議な前奏曲の役割を果たしている。2部が本編であるならば、普通は1部にあたる部分は残されないで消えてしまうものだが、そうしなかったことで、この映画は不思議な連想の広がりというか、関係性の連鎖反応といったものを生み出して、何のつながりもなかった日本の五條市(地方の町)と韓国の人たちとの間に、不思議な親密さのようなものを漂わせることに成功したと思う。

 2部でキム・セビョクがやった旅行者の女性ヘジョンは、背後に思い通りにならない何らかの(おそらくは恋の)問題を抱えているらしいことが暗示されている。一方で岩瀬亮がやった友助の方は、善意を前面に出しているけれど下心があることも見えてしまうような、優しいけれど軽薄でもあるような男であることが明らかになっている。
 当然のことながら、初めヘジョンは友助の善意を受けながらも警戒は解いていない。1日目はそれで終わり、その晩、宿の玄関先で彼女が携帯で誰かとやり合っているシーンが挟まれ、翌日は彼女の方から友助に案内を頼むかたちになる。友助は有頂天だが、どんなふうにさりげなく事を運ぶかというところでは、彼は本質的に慎み深い善人であることが示されている。これは重要なことで、この点が疑いもないから、2人のこの日一日を追いながら、観客はホントにハラハラドキドキして2人の(恋の)行方を見詰めることになるのである。
 一日が終わって夜になり、花火があるから見に行こうという友助の誘いを断り、明日帰ろうと思うとヘジョンが告げる。そこでのやり取りが、チラシにあった「ワタシ…カレシガイマス」「日本の彼氏にどうですか?」なのである。このあとに続くシーンは(具体的に書くのは止すが)切ない。ささやかだが、素晴らしい余韻を残す小さな恋の物語だったのである。

 極めて短い期間で、シナリオもない状態で撮られた映画であることが、逆に俳優たちや素人の出演者たちに自然なリアリティを与えていると思った。特に2部は、キム・セビョクと岩瀬亮の2人に完全に絞り込まれてしまうから、この2人が作り出す自然な空気の揺れ、動きや眼差しや会話の間といったもの、特にその沈黙の間合いが実に多くのものを語ってみせる感じがした。そのスリリングな流れに、いつのまにか巻き込まれていた気がした。
 映像というのはその場のすべてを写し取ってしまうものだが、それが常にすべてを物語るかと言えばそうではないのだと思う。写っているけれど、そこにまだ語られないものが残っている。そういう感じの不思議な印象の映画だったと思う。
by krmtdir90 | 2016-07-13 16:58 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ドクトル・ジバゴ」

 最近の映画館はほとんど複数のスクリーンを持つシネコンになってしまったようだが、その一つである立川シネマシティで「午前十時の映画祭」というものをやっている。中規模のスクリーンで午前十時から一回だけ、往年の名作映画をデジタル上映するという企画である。今年でもう7回目(7年目)を数えているらしい。すっかり巷間から姿を消してしまった名画座の役割を、シネコンの中に復活させた感じになるのだろう。
 おかげで、懐かしい「ドクトル・ジバゴ」に映画館のスクリーンで再会することができた。いまはその気になればDVDでいつでも見ることができる時代になったが、こうした思い入れのある大作の場合は、やはりちゃんとしたかたちで見られるというのは素晴らしいことである。始まりから、スクリーンには何も映らないオーバーチュア(序曲)の胸躍る時間、さらに5分間のインターミッション(休憩)も、きちんとその通りのかたちで上映してくれた。昔を思い出し、久し振りのワクワク感を味わわせてもらった。

 家に帰ってから、部屋で初公開時のプログラムを探し出した。
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 表紙に有楽座と書いてある。有楽座は特別な映画館だったのだ。ネットで調べてみると、「ドクトル・ジバゴ」の日本公開は1966年6月18日だったようだ。その頃の大作映画に見られた70ミリ・パナビジョンという上映方式で、これに対応した映写機のある劇場は当時限られた数しかなく、そういう選ばれた劇場でのでのロングランだったのである。実は今回、わたしが若い頃に見た映画を(題名と日にちを)逐一記録しておいたノートも探し出した。それによると、わたしが有楽座で初めてこれを見たのは1966年9月17日となっていた。
 この映画はその後何回かリバイバル公開され、わたしは1969年10月と1976年12月にもこれを見ていることが記録されていた。69年は70ミリ、76年はシネラマと書いてあるから、76年の時はテアトル東京での上映だったのかもしれない。

 「ドクトル・ジバゴ」はソ連の作家ボリス・パステルナークの同名の小説の映画化である。原作はロシア革命を否定的に描いた作品とされたためソ連国内では発表の道を閉ざされ、1957年にイタリアで出版されて世に知られることとなった。翌58年にはノーベル文学賞がパステルナークに授与されたが、ソ連共産党から受賞すれば国外追放という圧力がかかり、パステルナークは「母国を去ることは死に等しい」と述べて受賞を辞退したということが伝えられていた。
 日本で翻訳出版されたのは1959年のことで、出版社は時事通信社、訳者の原子林二郎氏は文学には全く門外漢の時事通信社の記者だったようで、この出版がノーベル賞をめぐる政治的な経過を受けた緊急的なものだったことが窺えるのである。ともあれ、わたしは映画を見たあと、この上下2巻の原作を購入して読んでいる。とにかくこの映画に夢中になってしまったことは確かで、そういうあれこれが懐かしく思いだされる今回の再会だった。

 ロシア語の原作を英語で映画化するというのは、制作者側としてもそれなりの違和感を前提としていたものだろうが、当然のことソ連国内での撮影も公開も一切考えられない中で、これほどのスケールでそれをやってしまうのは凄いことだと思う。監督デヴィット・リーンにとっては、「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」(いずれもアカデミー賞受賞作)に続く作品ということで、この作品は作品賞や監督賞は逃したが、恋愛映画という側面でこの監督の見せる情熱的だが品位のある描き方というのは、当時のわたしには非常に好ましいものに思われたのだと思う。
 わたしがこの映画に出会った1966年という年は、まだ大学生にもなれていなかったのに(勉強しないで)映画はたくさん見て、映画というものにのめり込んでいった頃だったと思う。そのころ見た映画からわたしが受けた影響というのは、いまにして思うと、思った以上に大きなものがあったと感じた。登場人物たちに対する共感というか思い入れというか、また様々な(小さな)シーンに対して心が共鳴する感覚といったものが、この「ドクトル・ジバゴ」には随所にあると思った。

 この映画は有無を言わせず好きだったのだと再確認した。モーリス・ジャールの音楽の巧みさが、この映画に流れていたロマンチックな情感を決定づけていたことも再認識した。恋愛というものが(映画の中を除けば)まだ先の方にあった当時のわたしには、時代の大きなうねりに翻弄される恋愛というのが好みだったのかもしれない。
 この歳になって再会した「ドクトル・ジバゴ」では、主人公ユーリー・ジバゴ(オマー・シャリフ)とラーラ(ジュリー・クリスティー)、そしてトーニャ(ジェラルディン・チャップリン)といった中心にいた人物もそうだが、パーシャ→ストレーリニコフ(トム・コートネイ)やコマロフスキー(ロッド・スタイガー)、エフグラフ(アレック・ギネス)といった、脇にいた人物たちの思いもよく見えてきたように感じた。数十年の歳月を経た再会というのは、映画の場合は昔と寸分違わない映像がそこに映し出されるわけで、その故の新鮮な初体験というのがあるのだと思った。

 映画ではプロローグとエピローグというかたちで、メインストーリーから20年ほどが経過した時点のエピソードを付け加えている。ユーリーの異母兄であるエフグラフが、姪にあたるユーリーとラーラの忘れ形見を探し当てていくシーンである。この、ダムで働くトーニャという娘を演じたのがリタ・トゥシンハム(1963年日本公開のイギリス映画「蜜の味」でデビュー)で、そのきわめて個性的な相貌が、同様に個性豊かなオマー・シャリフとジュリー・クリスティーの娘に違いないというリアリティを漂わせて、見事なキャスティングだったと思う。
 ただ、最後まで彼女がそうだという確証はなかったのだが、帰って行くトーニャが背に提げていたバラライカがすべてを物語ってみせる(最後にやり取りされるセリフの素晴らしさ!)、この映画的仕掛け(小道具の使い方)の見事さには何度も泣かされた。

 映画の核心にはほとんど触れず、周辺のことばかり書いている感想文になってしまったが、内容を追い始めたらそれこそ際限がなくなってしまうと思うので、今回はこういう書き方で終わりにしたいと思う。「ドクトル・ジバゴ」はわたしにとって、「ウエストサイド物語」と並ぶ出発点の一つとなった映画なのである。 
by krmtdir90 | 2016-07-11 22:07 | 本と映画 | Comments(4)

「日本はなぜ、『戦争ができる国』になったのか」(矢部宏治)

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 明日(7月10日)の参議院選挙で、改憲派勢力が「3分の2」を取るかどうかが大きな話題になっている。わたしは早い段階で期日前投票を済ませたので、明日は投票所に行く必要はなく、夜はウイスキーでも飲みながらゆっくり開票速報を見ようと思っている。
 ただ、この本の感想は(どちらになるにせよ)「3分の2」の結果が出る前にぜひ書いておきたいと思った。

 衝撃的だった前作「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」の続編とも言うべき本である。前作で明らかにされた事実についても最初の数十ページで「おさらい」してくれるので、日本という国が戦後70年を経たいま、どういう状況に置かれているのかということが大変わかりやすい構成で明らかにされている。ただし、扱われているのが条約や協定、様々な密約(アメリカとの)などの文面(内容)なので、読み通すのはそれほど簡単ではなかった。だが、この本は(前作でも思ったのだが)少々の困難を押しても、いますべての日本人が読むべき本だと思った。

 前作でも触れられていた「横田空域」のことが冒頭で再説されている。首都圏上空に広がる、民間航空機がそこを飛ぶことができない広大な米軍の管制空域のことである。わたしが住んでいる八王子や、わたしが勤務していた狭山や所沢や新座の町なども、すべてこの空域の下にある。この空域の中は米軍機のみが出入り自由の完全な治外法権エリアになっているから、これらの町の上に広がる空は言ってしまえば日本の空ではないのである。
 前作および本作で著者・矢部宏治氏は、日本という国がいまも独立国家としていかに異常な状態にあるのかを明らかにしている。敗戦から70年も経つのに、いまだに外国の軍隊が占領時のまま居座り続けていることを何とも思わないのは、独立国として「なにか根本的なところで思いちがいをしているのではないだろうか」と述べている。前作および本作で著者は、このところ次々に公開されているアメリカの外交機密文書を始め様々な資料を基に、動かしようのない事実だけを積み重ねて、日本の異常な状態の根拠となっているものを示してくれている。

 護憲だ改憲だ3分の2だと騒ぐ前に、戦後70年の間に日本国憲法と日本の独立がすでに様々なかたちで骨抜きにされ、昨年成立した安保関連法も、様々な密約によってすでに明確なかたちで先取りされていたという事実が示されている。「まだ占領下にあった時代のアメリカへの戦争協力体制(知らなかったのだが、占領下とはいえ海上保安庁の掃海艇部隊が実際に朝鮮半島で軍事作戦に参加し、1名の死者と18名の負傷者を出していたのだという)が、66年後のいまも法的に継続しつづけている」ことがしっかり証明されているのである。
 朝鮮戦争が戦われる中で締結されたサンフランシスコ平和条約が、これとセットになった旧安保条約・行政協定・日米合同委員会というシステムの下で多くの密約を生み出し、その後の新安保条約・地位協定・安全保障協議委員会といったものに引き継がれる中で、さらに多くの密約が結ばれていった経過。2001年の情報公開法の施行前に大量の秘密文書を破棄した日本外務省と異なり、一定期間が過ぎればどんな秘密文書も公開するというアメリカのおかげで、日米間で積み上げられてきた「密約法体系」ともいうべきものが明らかにされているのである。

 国民に何も知らされないまま、アメリカは米軍を日本国内のどこにでも「配備する」(「駐屯する」ではない)権利があるとか、有事の際には自衛隊は米軍の指揮下に入る(行動範囲は限定されていない)といった、独立国にあるまじき(軍事面での)アメリカに対する隷属が秘密裏に取り決められていたのである。
 本書が明らかにしている日米間の密約というのは、「政府が憲法違反の条約(引用者注:密約などを含む)を勝手にむすぶことで、正規の手続きをへることなく、実質的な憲法改正をおこなうことが可能になる」ことを意味していると筆者は述べている。アメリカの政治工作(これも公開されたアメリカ側公文書によって証明されている)によって出された砂川裁判最高裁判決で、「安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は(中略)裁判所の司法審査権の範囲外にある」とされた以上、憲法に外れたことを政府が行うことへの歯止めは実質的には放棄されているのである。

 わが国がこの判決にあるような「主権国」と言えるのかどうか、この本を読んでいるととてもそんなことは言えないという思いが強くなってくる。参議院選挙の結果に一喜一憂することが空しくなるような、日本の現代史の闇の部分が鮮明に描き出された本である。歴代の政府はそれを隠そうとしているのだが(政権交代もそれを明らかにすることはできなかった)、われわれ国民が(難しそうな本だから読む気がしないなどと言って)それを知らなかったでは、子や孫の世代に対して言い訳ができないように思った。
 繰り返しになるが、できるだけ多くの(特に若い)人が一読されんことを願う。
by krmtdir90 | 2016-07-09 20:21 | 本と映画 | Comments(0)


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