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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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京王井の頭線・神泉駅(2016.10.25)

 ユーロスペースの入ったビルは渋谷円山町にある。再び映画を見るようになってからここには何回か通ったが、行く時はいつも、渋谷駅からBUNKAMURAのある東急本店を目指し、左折してもう一回左折してという道を辿った(映画館のアクセス地図がそうなっていたのだ)。この最後の道がけっこうな上り坂になっていて、この上りが円山町に入って行く感じだなと思った。
 大学生だったころ、道玄坂を上って右折し、百軒店(ひゃっけんだな)の上り坂の先にあった「ありんこ」という小さなジャズ喫茶に入り浸っていた。現在は住居表示が変更になってしまったようだが、当時はこのあたりも円山町の一角で、さらに奥の方に細い道の入り組んだホテル街が広がっていた。ユーロスペースのある通りは、反対側の方からこのあたりに入り込んでいる道だと思った。
 前回、ユーロスペースで「函館珈琲」を観た帰り(9.26)、思い立ってこの道の先に迷い込んでみることにした。百軒店に出られると思っていたのだが、方向が少しズレていたらしく、その時不意に「神泉(しんせん)駅」に行ってみようと思いついた。学生時代、円山町の奥を抜けて行くこの方面には行ったことがなかったのである。スマホの地図で当たってみると、渋谷駅に戻るより神泉駅に行く方が距離は近いのではないかと思われた。

 京王井の頭線に乗って渋谷から吉祥寺に向かう時、最初の駅である神泉駅は非常に興味深い現れ方をすると思う。京王の渋谷駅はビルの2階にあるが、発車した電車はそのままトンネルに入ってしまい、それを出た瞬間、踏切を越えてすぐに神泉駅のホームに滑り込む。このホームがまたトンネルの中のような(地下鉄の駅のような)感じで、発車するとまたトンネルになって、少し行ったあとでようやく地上に出て行くのである。神泉駅の手前の地上区間は10メートルもないと思う。
 この区間というのは、線路がアップダウンしているのではなく、渋谷の地形のアップダウンが反映したものである。JR渋谷駅がすり鉢状をした渋谷の地形の谷底にあるのはよく知られていることだが、井の頭線は京王の渋谷駅を出たあと、道玄坂から円山町にかけての高台の地下を通り抜け、次のすり鉢の底である神泉駅のところで一瞬だけ外に姿を現すのである。このあたりは昔は神泉谷と呼ばれたところで、江戸時代には火葬場が置かれたため、穏亡谷(おんぼうだに)とも言われたところだったらしい。
 前回(最初の散歩)の時は、ラブホテルや風俗関係の建物が並ぶ道を抜けて行き、急な下り坂と石段を辿って神泉駅横の踏切に達した。これは非常に変化に富んだ面白い地形だと思った。あのブラタモリが狂喜しそうな地形だと思うが、円山町という(いかがわしい雰囲気を持った)土地柄が、NHKにここを舞台とすることを躊躇わせているのだろうと思った。

 前回は思いつきの散歩だったから、カメラを持参していなかった。次は必ずと思って今回は(「築地ワンダーランド」を見た)出かけたのだが、ちょっと雨がぱらつき始めたこともあって辿る道を間違えてしまった。ユーロスペースから一旦下の道に出てしまったのが勘違いの元で、もう一度坂道を上って戻ればよかったのだが、結局、松濤の方から神泉町へという経路で駅の先の方に回り込むかたちになった。
 しかし、負け惜しみのようになるが、ラブホテルなどの連なる円山町と地続きのようになって、松濤という高級住宅地が広がっているのがわかったのは収穫だった。そちら側からきれいな坂道を下りていくと、谷底にある神泉駅の踏切の通りがもう一つの世界との境界であるようにも感じられた。

 坂道の下にある神泉駅。
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 トンネル出口と踏切。
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 前回は向こう側からこの踏切に出て来た。そちらの道の雑然とした雰囲気と、こちらの道の小綺麗な雰囲気がひどく対照的だった(少し歩き回って写真を撮ろうかとも思ったが、雲行きが怪しかったのでやめにした)。
 踏切を渡りながら向こう側へ。
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 こちらの入口から中に入った。
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 改札口。
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 下りホーム(吉祥寺方面)。踏切を越えて、電車が入ってくる。
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 実は、今回神泉駅に来たのにはもう一つ理由があった。まったくの野次馬なのだが、1997(平成9)年3月に発生した未解決事件、東電OL殺人事件の現場となった木造アパートがいまも残っているのだという。そのことが書かれていたのは(感想文は書かなかったが)1年半ほど前に読んだこの本で、モノクロだったがそのアパートの写真も載っていた。これが記憶の中に鮮明に残っていたのである。
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 本文には、アパートは駅から10メートルほどしか離れていないとあった。
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 ↑この写真の左寄りに見えている。こんなにあっけなく見つかるとは思わなかった。この通りの左側、駅のある方が神泉町で、アパートのある右側が円山町になっている。
 道路に面して半地下の居酒屋があり、その上が木造の小さなアパートになっていた。
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 先の本によれば、居酒屋はいまも(経営者は替わったらしいが)やっているようだが、アパートの方にいまも住人がいるのかどうかはわからない。しかし、もう20年近く前の事件現場がほとんどそのまま残っているのは驚きだった。

 一応、事件の経過を簡単にまとめておくと、このアパートの1階空室で、死後10日を経た女性の絞殺死体が発見されたのである。被害者は東京電力東京本店に勤務する当時39歳のエリート社員(慶應大学経済学部卒)で、その後、彼女が夜な夜な円山町界隈で「立ちんぼ」をしていたことが明らかになると、そのあまりに激しい落差に興味本位の週刊誌などマスコミが飛びつき、被害者の信じ難い行状が次々暴き立てられ日本中が大騒ぎになった。
 5月に当時30歳のネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリが逮捕され起訴された。彼は逮捕時から一貫して容疑を否認していたが、一審無罪、二審逆転有罪、さらに上告棄却を経て無期懲役が確定、服役した。この流れを冤罪であるとの明確な立場から追跡し、併せて被害者の心の闇に鋭く迫ったドキュメント(ルポルタージュ)が出版され話題を呼んだ。
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 奥付は2000年5月と2001年12月になっている。わたしがこれを読んだのもずいぶん昔のことになるが、ずっと気になっていた事件だったと思う。その後、DNA鑑定技術の飛躍的進歩を受けて、2011(平成23)年7月に再審請求が行われ、証拠物件の再鑑定が実施されて、ゴビンダ以外の第三者の関与が浮かび上がった。この結果、2012(平成24)年6月に再審開始および刑の執行停止の決定に至ったことはまだ記憶に新しい。完全な冤罪事件だったわけだが、この時のマスコミなどの取り上げ方は思ったより大きくはなかったように思う。
by krmtdir90 | 2016-10-28 20:29 | 鉄道の旅 | Comments(0)

映画「築地ワンダーランド」

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 築地市場を捉えたドキュメンタリー映画である。築地市場という名前は知っていても、そこで実際に毎日どんなことが行われていて、そこがどんなふうに動いている場所なのかといったことは、確かにまったく知らなかったことがわかった(真夜中の0時頃にはもう市場の一日がスタートしていて、それぞれの場所でどんどん仕事が始まっているとか)。監督の遠藤尚太郎と撮影スタッフは、1年4ヶ月にわたって築地に密着し、計602時間分という膨大な撮影収録を行ったという。これは、映画がデジタルになったからこそ可能になったことなのだろう。
 しかし、こんなふうに膨大な撮影素材を手に入れても、これをどんなふうに編集するのかは非常に難しかったのではないだろうか。見ているうちに理解されたことだが、築地市場にはそれこそ実に多様な構成要素があり、それを知れば知るほど、全体像を描くことはほとんど不可能と思われたのではないかと思った。2時間足らず(上映時間は110分)にまとめるためにどういう切り口を作るのかといったことは、この不可能との格闘というところがあったのではないだろうか。

 見に行く前には、失礼ながらテレビなどにもよくありそうなドキュメンタリーではないかと思っていた。だが見てみると、これほどのものはやはり映画でなければありえないことが十分納得された。築地市場というものの核心にあるのが何なのかを見事に描き出していたと思った。撮り溜めた602時間分の映像は大半が捨てられてしまったのだが、この取捨選択が実に的確だったということなのだろう。ドキュメンタリー映画として、これほど成功したものはそうはないのではなかろうか。
 凡百のドキュメンタリーでは、説明的シーンや説明的ナレーションが過多になるのをよく見かけた気がするが、この映画ではそれらは文字通り必要最小限に絞り込まれていて、映像が切り取ったものそのものに語らせる姿勢が一貫しているように思われた。そこに映っているものが(つまり、この映画が選び取った映像が)、実に雄弁に多くのことを語っていたと思う。実に面白く、魅力的なシーン(映像)が積み重ねられていたと感じた。

 この映画は、築地市場に特有の職種であるらしい「仲卸(なかおろし)」と呼ばれる人たちに主たるスポットを当てている。この名前は聞いたことがあっても、実際に彼らがどんなことをしているのかは知らなかったし、彼らのプロ意識とか仕事に対する矜恃といったものは想像もできなかった。彼らにとっては何でもない日常やどうということもない言葉などを、こんなふうに生き生きと切り取ることができたというのは、そうなるまでに撮影スタッフの並々ならぬ事前準備(関係構築の努力)があったことが窺われた。
 この仲卸の人たちの仕事ぶりや、買い出し人たちとのやり取りの一部始終は大変興味深く、何とも粋で格好いいと思った。仲卸の彼らが最も嫌がる言葉は「いい魚」という表現だとか、彼らの仕事の根幹となる「目利き」とは、必ずしも魚の善し悪しを判断することではないということとか、知らなかったが、聞いてみるとなるほどと思われるようなことがこの映画の中にはたくさんあった。この巨大な築地市場を回しているのが、この仲卸を基点とするきわめて人間臭い関係の網の目であることがよく理解された。それを記録したことは、この映画の大きな成果だと思った。

 映画の制作者たちの間には、この映画を世界に向けて発信したいという意図が色濃く存在していたようだ(正式タイトルはTUKIJI WONDERLANDであり、ナレーションは英語である)。世界文化遺産になった日本の食文化との関連で、この築地市場が作り上げたシステムは、いまやそのくらい世界の注目を集めているということらしい。そういう意味で、この映画が描き出したものは、徹頭徹尾きわめて日本的なものであるにもかかわらず、恐らくそれ故にだろう、外国の人たちにもよくわかる内容を持っていたのではないかと思った。
 この映画が豊洲移転で揺れる昨今の情勢などにはほとんど頓着せず、築地を最も築地たらしめている人々のあり方だけに焦点を絞り、それを後世に伝えることに徹したことは素晴らしいと思った。この場所でこんなことが延々と続けられ、受け継がれてきたということを記録した価値は実に大きいものがあるのではないだろうか。
by krmtdir90 | 2016-10-26 14:51 | 本と映画 | Comments(0)

「怪人二十面相」(江戸川乱歩)

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 書店の文庫本の棚の前に平積みになっていた。今どき「怪人二十面相」とはどういう風の吹き回しかと思い手に取ってみると、解説を辻村深月が書いていた。それに釣られて買ってきてしまった。奥付は今年の10月1日になっていて、どうやらかつての少年探偵団シリーズを新潮文庫で連続して刊行することになったらしい。
 子どものころ、ポプラ社から出ていたシリーズを何冊か読んだ記憶があるが、もうはるか昔のことだし、一時的に夢中になったとしても、辻村深月のようにそれをいつまでも大切には思わなかったということである。せっかくだから読んでみたが、特別懐かしいというような気持ちも湧いては来なかった。ふーん、そういうことだったのかと思っただけである。

 だが、巻末の辻村深月の解説は面白かった。小学生のころ、夏休み前の図書室で司書教諭から「よくない本」の例として挙げられたというエピソードが紹介されている。そのあとで、辻村は次のように書いている。

 怪人、犯罪、探偵、ピストル、予告状、誘拐--。乱歩が用意したさまざまなモチーフは、学校が推奨する“正しさ”とか“よさ”の対極にあるものだ。図書室の中でも、少年探偵団シリーズが並ぶ場所は、昼間でも、そこはかとなく夜の気配がした。
 その夜の気配とは、たとえば、実際には見たことがないはずの、小さな電球ひとつがあるだけの薄暗い小道だったり、自分の影が知らない人のものみたいに長く伸びた血のように赤い夕焼けだったり--、子ども心にもなぜか“懐かしい”と感じてしまうような後ろ暗く、美しく背後に近づいてくる夜の、ああいう感じだ。それが学校や大人が推奨する健康的な日向の匂いとは異質のものなのだということは、当時小学生だった私も薄々気づいていた。

 辻村はさらに、「怪人二十面相」の中には小学生だった彼女の「これまでの価値観を凌駕する、悪の美学と哲学」が書かれていたと述べる。この本の中には「スーパーヒーローが二人、対等に存在して」いた。善悪ということで言えば、善の明智小五郎と悪の二十面相ということになるが、「それがお話の中のことだからといってどちらかが絶対ということがない」ことに惹きつけられるのである。「明智さんには明智さんの正義があるし、二十面相には二十面相の正義がある」と。
 彼女はこのシリーズを、「大人が推奨しないからこそ、夢中になれる私たちの読み物」だったと述べ、「乱歩の二十面相を読み、愛し続けながら大人になれたことは、私の誇りだ」と言い切っている。残念ながらわたしは、これを「愛し続けながら」大人になったわけではないが、そういう(子どもながらに大人の価値観に対峙するような)ものが確かに存在し、それを大切に思いながら大きくなったという事実は別のかたちであっただろうと思っている。

 辻村深月が「東京會舘とわたし」の第9章で描いた、直木賞受賞作家・小椋と父親との、本をめぐる対立のエピソードが思い浮かぶ。推理小説やSFばかり読んで、将来小説家になりたいと思っている息子を認めようとせず、「もっとちゃんとした本を読め」と言い続けた父親。小椋=辻村の子ども時代に、父や司書教諭から「遊びの本だ」「よくない本だ」と言われ続けた、たとえば「怪人二十面相」への変わらぬ思いがあったことが、彼らの内なる物語を紡ぎ出し、その文章表現力を磨き高めたという側面があったのだろうと思った。
 わたしは「怪人二十面相」を原点とはしなかったが、国語教師なんぞをやりながら結局、最後まで「ちゃんとした本」はあまり好きにはなれなかったと思っている。だから、辻村深月が言っていることはとてもよくわかったのである。
by krmtdir90 | 2016-10-25 17:58 | 本と映画 | Comments(2)

「鍵のない夢を見る」(辻村深月)

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 辻村深月を読んでみようと思い、書店の文庫本の棚から探してきた。2012年上半期に直木賞を受賞した短編集である。5編が収録されていた。
 読み終わってなるほどと思った。「東京會舘とわたし」で、辻村深月は新しいステージに進み出たのだなと理解された。すでに大量の作品が書かれている中で、たった一冊の短編集を読んだだけで言うのも気が引けるが、「東京會舘…」下巻の帯に「辻村深月が本当に書きたかった物語」とあったのが思い出され、事の真偽は別として、もしそうであるならそれ以前に書かれた作品はすべて、「東京會舘…」に向けた助走(そのための習作)といったものになるような気がした。
 習作と言っても欠点が多いというような意味ではまったくない。この短編集の段階で広く認められていた才能が、一つステップを上がったところにある出口を探していたということである。それをこんなところに見つけたのかという思いがしたということである。

 「鍵のない夢を見る」という集のタイトルはよくわからない。だが、収められた5つの物語は、それぞれまったく独立した物語でありながら、息苦しい孤独感といった点で共通した手触りが感じられた。辻村と同郷(山梨)で直木賞の選考委員でもあった林真理子が、巻末の対談の中で「地方の閉塞感」という言葉を使って指摘している。5つの物語はどれも、東京からそれほど離れているというわけではない(山梨と似たような距離感の)地方都市を舞台としているのである。
 いずれも犯罪や犯罪に近い出来事を扱っていて、その意味ではミステリ的要素を強く持っている作品なのだが、どちらかと言えば作者は、主人公の思いとか拘りといったものを描くことの方に傾斜しているように思える。書き方が「主人公なりきり」タイプとも言うべき方法になっていて、その(彼女の)孤独な違和感といったものに即して、周囲とのズレとか軋轢が巧みに浮かび上がってくるのである。この人は、どんな境遇の主人公でも書けてしまう「書き手」なのだなと思った。

 主人公がすべて女性だったので、この点であまり深入りする読み方にはならなかった。物語の中に出てくる男性は、どれも主人公の女性の目を通して語られることになり、彼女(あるいは作者)のフィルターがかかっているために、存在の曖昧さや否定的側面がやや強調されて表現されていたように思う。女性から見てそうなるのはかまわないのだけれど、書き方が「なりきり」である分、無意識の辛辣さに必要以上に晒されているような気もした。
 もちろん作者は、女性主人公の感性や考え方などにも鋭い視線を走らせているが、男である読者としてはもう一つ共感しづらいところもあったように思う。桜木紫乃のハードボイルドで客観的な書き方と比較すると(比較しても仕方がないのだけれど)、わたしとしては桜木の方を取りたい気分が強くなってしまうのである。辻村も「東京會舘…」ではずいぶん客観的な書き方をしていたが、それを読んでしまったあとでは、この「鍵のない夢を見る」は若かりし辻村深月という感じがして、(面白かったけれど)さらにもっと読んでみようという気持ちにはならなかったのである。
by krmtdir90 | 2016-10-24 14:02 | 本と映画 | Comments(0)

映画「永い言い訳」

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 最近、感想文を書くのが少し重荷になっている。もともと書くのが非常に遅い質なので、それに時間を取られるのがもったいないと感じるのである。書かなければ忘れてしまうだけなので、それでもいいのかもしれないが、せっかくこうして便利なツールを手にしているのだから、それなりに感じるところのあったものについては、記録の意味も込めてできるだけ書き残した方がいいと思っている。軽い印象だけでもいいのかもしれないが、そのあたりの塩梅がもう一つ掴みきれないのが原因かもしれない。
 で、この映画を見たのは18日なのだが、だらだらと時間が過ぎてしまった。つまらなかった訳ではないのだが、何となく書きにくい話だなと思ったのである。

 言い訳というのはあまり聞きたいものではない(もちろん、したいものでもない)。これに更に「永い」という修飾がついては、何だよそれという感じになってしまう。「長い」ではなく「永い」というのは、「永遠」に通じるところから、「長い」よりもはるかに長いということなのだろうか。
 チラシの惹句にある通り、妻の事故死に接しても「これっぽっちも泣けなかった」男の物語である。男はそこそこ売れている小説家なのだが、美容室を経営する妻との間は冷え切っていて、妻が友人とともにスキー旅行に出掛けた後、編集者の女性を自宅に連れ込んでいたところに事故の知らせが届くのである。皮肉な巡り合わせだが、テレビなどにも出演する小説家としては、表向き公的な顔で悲しみをこらえる夫の役割を演じなければならない。

 この男を演じたのが本木雅弘で、この人は美形だが演技派ではなく、どちらかというと無表情の奥に心情的なものを感じさせるような存在の仕方をすると思った。話しが話しだから時に感情的な爆発に至ることもあるが、そういう時は制御不能な感じが前に出過ぎて何だかギクシャクした感じがあって、この人は自意識過剰の不器用な人なのだなと妙に納得させられた。演技していたのかもしれないが、この感じは本木雅弘生来のものであるような気がした。
 映画の冒頭、自宅で妻に髪をカットしてもらいながら、些細なことでねちねちと妻に文句を並べるところから、この男に感情移入はできないなと感じさせてしまう。観客としては、妙に冷めた観察者の位置でこの男の「その後」につき合っていくことになる。監督(西川美和)の作戦だと思うが、こういう冷静な距離感を取らされるというのは面白いなと思った。

 監督の西川美和は、2011年の東日本大震災のあとでこの物語の発想を得たと述べている。マスコミの伝える数々の「悲しみの物語」の陰に、語られることのない「物語」があったのではないか。あの朝、何気なく喧嘩別れしてしまった家族や、関係性が谷底にあるような家族もあったのではないかと言うのである。どうせ夜には帰って来る、明日だってあると思ってそのまま、突然の別離に遭遇してしまった家族もあったのではないか。そうした苦い関係の終わり方をしてしまった人の、その先の物語を描きたかったという言葉は深く共感させられた。
 西川美和という人は映画監督としてすでに実績のある人のようだが、近年は小説家としても高い評価を得ているらしい。この「永い言い訳」は映画の前に小説として世に出たらしく、2015年上半期の直木賞候補に挙げられている。この期の受賞作が東山彰良の「流」だったのが不運で、あと少しのところで受賞を逃したもののようだ。

 小説の方がどんなものだったのか判らないが、比較するなら小説の方を先に読むべきだったような気が何となくして、いまのところ読んでみようという気にはなれない。
 映画の方も細かく展開を辿ることはしないが、細部まで非常に良くできた映画だったと思う。関係の谷底で妻を失った男の自責というか悔恨というか、その孤独が、妻と一緒に亡くなった友人の家族に出会い、関係を深めていく中で徐々に変質していくさまが丁寧に描かれていた。それが、惹句にあるような「そこから愛しはじめた」ということなのかどうかは判らないが(少し違うような気もした)、観客という観察者としては、そのあたりの解釈はどうでもいいようにも感じた。仮に「愛しはじめた」のだとしても、この男にとっての「言い訳」はたぶん消えることはないだろうし、彼の今後というのは、この「言い訳」と自身がどう折り合いを付けていくのかということになるだろうと思ったからである。こういう別れ方は辛いなと、いまのところわたしは傍観者的に感じた。

 感想文としては不十分でも、このあたりで切り上げておけばそれほど負担に感じることもないのだろう。それにしても、この一年ほどでまた映画を見始めた者から見ると、日本映画の話題作は「家族」を扱ったものが多いなあと感じる。
by krmtdir90 | 2016-10-23 12:02 | 本と映画 | Comments(0)

「東京會舘とわたし」上・下(辻村深月)

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 東京會舘に行ったことはなかったし、興味を持ったこともなかった。漠然と庶民には縁のないところだという印象があったからだ。辻村深月の小説も読んだことはなく、彼女が桜木紫乃の一年前(2期前)に直木賞を受賞したということも、今回初めて知ったのである。
 だから、どうして読んでみる気になったのかよく判らない。書店の平積み台から、この本がわたしを呼んでいるような気配がしたのかもしれない。

 10編からなる連作短編集で、各巻に5編ずつが収録されている。いずれも東京會舘を舞台とした作品になっていて、それぞれの物語に登場人物はいるものの、東京會舘そのものがこれら全体を貫く大きな存在として、登場人物たちを包み込んでいるかたちになっている。半分は(もしかするとそれ以上)東京會舘が主役の物語なのである。そのため、東京會舘の変遷に関する記述が途中にかなり含まれていて、その点が一般の短編小説とは異なる趣きとなっている。
 大正11(1922)年11月に開業した東京會館は、様々な紆余曲折を経て昭和45(1970)年2月に建て替えのため一旦営業を休止する。ここまでが旧館の時代で、上巻の5編はこの時代を背景としている。新館が開業したのは昭和46(1971)年12月で、平成27(2015)年1月、再度建て替えのため営業を休止するまでが下巻5編の背景となる。各編が独立した物語であると同時に、東京會舘の大きな物語の一部となるためだろう、各編は1から10までの「章」をなすものとして配列されていた。

 一世紀近い時の流れ、転変する時代に翻弄されながらいつもそこにあり続けた東京會舘という建物と、そこで形作られ受け継がれてきた人と人とのつながりといったもの、東京會舘が作り上げた他に比べるもののない「おもてなし」の姿が、10編の物語の基礎部分をしっかり支えているのである。10編の物語はすべて、基本的にはそこを訪れたお客さまと、それを受け入れる會舘のスタッフとの心温まる物語を含んでいる。この着眼点に感心した。
 「東京會舘とわたし」というタイトルは、東京會舘がここを訪れた人にとって特別な場所であり、その「わたし」にとって、そこで起こった出来事は一生忘れることのできない特別な思い出になっていることを表している。その思い出がどのようにして作られたのか、もちろんそれは各編によって違っているのだが、そこが東京會舘という場所であったことは大きな意味を持っていたのだろう。そういう大きな構図の中に置かれた10編なのである。

 ストレートに泣かせる話が多かった。「おもてなし」というのはかたちではなく、人の心に触れてくる自然なやさしさのようなものだと思う。そういうのは照れくさくて斜に構えてしまうような者にとっても、そのストレートさは理屈抜きで届いてきた。どの話もしみじみとした温かい余韻を残したが、とりわけ第9章の「煉瓦の壁を背に」が感動的だった。
 辻村深月が直木賞を受賞した体験がどの程度反映しているのかは判らないが、物語の中で直木賞を取る作家(男性に設定されている)と東京會舘とのつながりは、ちょっと出来過ぎと言えなくもない感じはあったが、そんなことを言い出せないくらいストレートに心に沁みてきた。いい話だなと率直に思った。こんなふうに書かれてしまったら素直に泣くしかない。
 辻村深月は主にミステリ方面からスタートした作家のようだが、これまでの作品を少し読んでみようかという気持ちになっている。
by krmtdir90 | 2016-10-17 15:15 | 本と映画 | Comments(0)

映画「淵に立つ」

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 映画は不意に終わった。ここで終わるのかと思った。客席に投げ出されたような気分だった。この先どうなるのかということだけでなく、そもそもこれがいったいどういう状態なのか判らないまま放置された感覚だった。妻は息を吹き返していることが見て取れるのだが、娘・蛍と同行者・孝司が息をしているかどうかは確認できなかった。つまり、彼らがここで終わるのかこの先に続くのかが判らない状態で、そのいずれであっても、この夫婦が生き延びていることだけははっきりしていて、その追い詰められた極限の苦しみに救いはないということなのである。
 振り返ってみると、娘を道連れにした妻の無理心中という事実ははっきりしているが、水中に没してからの彼らの(救助に飛び込んだ夫と孝司を含めて)映像的処理はリアルなものではなかった。ここが象徴的意味を持った「淵」であるのは明らかなのだが、直前に映されていた川の情景からは、ここにこんな水深の淵が存在していることはリアリティがない感じがした。とすれば、ここに飛び込んだ瞬間から映像はリアルを離れたということになるのだろう。そうであればこそ、身体的自由を失っていたはずの蛍が、突然手足を自由に動かして光に向かって泳いでいくという表現もあり得たのだろう。これは、蛍が死と引き換えに苦しみからの解放を得たことを表していると思われた。
 この解釈が成立するなら、ラストで川原に横たわった4人のうち、蛍だけは死んでいるということになるはずである。孝司の生死は不明のままだが、彼はもともとこの3人の「家族」とは切り離された存在なのだから、それはそれでもいいのかもしれない。しかしこれが、8年間おのおのの罪の十字架として背負い続けた娘・蛍を自らの手で葬り去り、妻と夫だけが生き残っていくという結末なのだとしたら、そこに待っているのはこれまでよりもさらに苦しい、深い奈落の底でしかないのではなかろうか。

 見たくないものを見せられてしまう映画である。確かに家族のドラマには違いないのだが、その日常から見えてくるのは好ましい擬制の奥に見え隠れする様々な負の実態なのである。導入部に置かれた家族3人の食事のシーン、そこには明るい食卓というあるべき擬制から最も遠ざかってしまった、寒々としたよそよそしさをさりげなくやり過ごす不穏な平穏さとでもいったものしか感じられない。何も起こらなければ、それはそういうものとしてこれまで続いてきたのだし、10歳になった娘のオルガンの発表会といったものを小さな節目としながら、これからもずっと続いていくものであったのだろう。
 監督の深田晃司はインタビューの中で、家族とは「不条理なつながり」であり、「孤独な肉体を抱えた個々の人間が、たまたま出会い、夫婦となり親となり子となって、当たり前のような顔をして共同生活を営んでいる。しかし、一歩引いて見てみるとそれはとても不思議なこと」であると述べている。「巷に溢れる、家族の絆を理想化して描くドラマ」にうんざりしていると述べ、「私が描きたいのは家族の崩壊ではなく、もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣にいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなもの」であると述べている。
 家族の崩壊というようなテーマはこれまでにもあったし、そこにはなぜ崩壊したのかという原因を追及し、それを克服することによってあり得べき家族の姿に再生していくという構図などもあり得たように思う。だが、この映画にあるのはそうした家族の姿ではない。家族などというのは最初から幻想に過ぎず、それはあらかじめ崩壊しているのだという厳しい認識である。そして、そのことを無惨に露呈させるのが夫の古くからの友人だったという一人の男なのである。

 この男・八坂を演じたのが浅野忠信で、夫婦・利雄と章江を演じたのが古舘寛治と筒井真理子である。3人とも巧い役者だなあと思いながら見ていたが、脚本の巧みさ、演出の巧みさがそれをさらに際立たせたのだと思う。八坂は何のためにこの家に現れたのか、八坂に対して何らかの負い目があるように見える利雄の過去とは何か、さらに娘・蛍と章江が八坂に徐々に親近感を抱いていく中で、幾つかの隠れていた秘密が明らかにされていくミステリ的展開の巧みさ。
 細かな内容は省略するが、八坂を誘ってこの家族が知り合いの家族と川べりにピクニックに行くシーンが印象的である。登場以来あくまで柔和で礼儀正しい男として通していた八坂が、利雄と2人だけになったところで突然口調を変え、危険な本性を現して豹変するカットは怖かった。2人の過去が一瞬のうちに2人の現在を照らし出し、八坂の腹の底に利雄への暗い憎悪が澱んでいることが見えてしまう。八坂はすぐにもとの折り目正しい姿に戻ってみせるが、これは思わず出てしまったような感情ではなく、きわめて意図的に2人の関係を利雄に認識させる行為だったことが感じられる。その一方的で狡猾な戦略に、利雄は何一つ為す術がないことも明らかになってしまう。
 このあと、八坂はこの家族に回復不能な深い傷を負わせて姿を消す。夫も妻も、娘に降りかかったこの最悪の結果に対して、自らの行為の罪と罰であると受け止めざるを得ないのである。ただこの段階では、この夫婦それぞれの罪の具体的中身は相手には明らかになってはいない。夫は八坂の行為が自分に対する復讐であることを理解するが、妻はその真実を知らぬまま、八坂に身体をを許しかけたことが娘の悲劇の引き金を引いたと自分を責め続けるのである。

 映画はこの状態を放置したまま8年間の時間を経過させる。8年間はこの2人にとって途方もない長い時間だったはずだが、時間の経過は2人の距離をどのようにも変化させなかった。変わったのはそれぞれが抱えた孤独の深さであり、家族がバラバラであることはそのまま日常の繰り返しの中に溜まり続けたのである。妻・章江を演じた筒井真理子は、この苦痛に満ちた時間の経過を、8年後の登場で体型まですっかり変えて見せることで表現した。壮烈なプロ根性である。そのため、最初は用意されていた「8年後」の字幕が不要になったというエピソードがプログラムに紹介されている。
 前半だけで十分ではないかというヤワな感想をこの映画は許さない。もちろん見ている時は見てしまうのだが、これ以上この家族のことを見ていたくないという、生理的にヒリヒリするような感覚があったのは確かである。ここも細かい経過は省略するが、長い夫婦の生活の中で夫・利雄が秘密にし続けた事実を妻に対して認めることになるシーン、2人の演技も監督の演出も、夫婦それぞれの人格が壊れそうな危うさを孕んで、この胸が痛くなるような緊迫感は凄かった。古館寛治の「静」と筒井真理子の「動」が、いまにも破裂しそうな危機感を膨らませて対峙していた。わたしがしばらく離れている間に、映画はこんな表現をしてしまうところまで来てしまったのだ。
 前半だけで姿を消した浅野忠信が、8年後の随所に重く不気味に覆い被さってくる感覚は圧倒的だった。実際に画面の中にその姿を出現させることは、ともすればこれでもかというこけおどしの安直な表現にもなりかねなかったと思うが、この夫婦の、特に妻・章江の追い込まれた切迫感がリアリティを持って描き出されていたために、違和感のない恐怖(そして気持ち悪さ)の表現としてしっかり成立していたと思う。

 監督の言う「人間存在の不条理な孤独」が、こんな皮膚感覚の生々しさで現前させられていたことに驚きを感じた。正直言って二度と見たくないと思った。しかし、映画の中のいろんなイメージが脳内に貼り付いたままなかなか消えて行かないのである。これから見る人は、それなりの覚悟をして見た方がいいだろう。
by krmtdir90 | 2016-10-12 22:12 | 本と映画 | Comments(0)

映画「シーモアさんと、大人のための人生入門」

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 シーモアさんというのはシーモア・バーンスタインというアメリカの著名なピアニストだという。わたしは音楽方面はまったく判らないから、この名前を聞いても浮かんでくるものは何もない。1927年生まれというから今年で89歳になるようだ。コンサート・ピアニストとして活躍した後、50歳でその活動に終止符を打ち、以後はピアノ教師として実績を積み重ねてきた人らしい。ピアノを志す者には必読の書とされているらしい「心で弾くピアノ-音楽による自己発見」「ピアノ奏法20のポイント-振り付けによるレッスン」といった著書もあるようだ(もちろん読んだことはない)。
 この映画は、監督のイーサン・ホークがある夕食会で当時84歳だったシーモア・バーンスタインに出会い、言葉を交わす中でその人間的魅力にすっかり心酔してしまい、それがきっかけで作られることになったドキュメンタリー映画なのだという。原題は「Seymour:An Introduction」となっていて、製作されたのは2014年、この時87歳だったシーモア・バーンスタインの姿をありのままに記録しようとしたものである。

 ピアノをやっていたり、クラシック音楽に興味のある人にはこの上なく面白い映画だったのかもしれないが、率直に言ってわたしにはそれほどのものではなかった。わたしがもっと若かったら違っていたかもしれないが、半ば老人の仲間入りをしてしまった年齢の者にとっては、ある意味で功成り名遂げた老人の語る(人生などについての)言葉が響いてくることはほとんどなく、ちょっと眠くなってしまって困ったことを告白しておく。
 だが、興味深かったことがなかったわけではない。だから感想文を書く気にもなったのだが、彼がピアノ教師として生徒を指導したり、生徒と会話する場面が何度か映し出されていて、これがことのほか面白かったのである。ピアニストとしての実績は知らないが、この人の「教師」としてのありようが恐らく素晴らしいものなのだということが伝わってきたように思う。そのあたりのことをちょっとだけ記録しておきたい。

 ピアノのレッスンというものが普通どのように行われるものなのか、わたしは門外漢だからまったく判らないのだが、シーモア先生の教え方というのはきわめて具体的で効果的なものだというのは判った気がした。見ていると、ピアノの演奏というのが物理的には、指と鍵盤の接触の瞬間に集約されているものなのだということが理解されたように思う。その接触の仕方(加減)がそれこそ限りなく多様であって、その微妙な違いが演奏の流れに大きな影響を与えているらしいということだ。ある音を(音の連続を)どういう接触で生み出すべきなのか、そこは常に緻密で具体的な指摘で明らかにされなければならないということである。
 演奏が生み出す情感というものも、レッスンの段階ではすべてその接触のあり方の問題に帰結しているようだ。楽譜をどのように理解し、どのように表現するのかという課題は、レッスンにおいてはある音をどのような接触で生み出すかということの積み重ねなのである。間違っているかもしれないが、シーモア先生の指導を見ながらわたしはそのように理解した。

 ピアノのレッスンは基本的に個人指導だから、生徒の技量は一人一人違っているだろうし、どういう点を指摘して練習させるかはすべて個別的な問題になってくるだろう。映画が映し出したのはその膨大なケースの中の数例に過ぎないが、その指導が確実に生徒の中で具体的な発見に結びついていることが見て取れた。生徒の技量を見極め、その生徒がいま立ち止まっている場所を的確に把握することなしに、有効な助言はありえないだろう。正しい助言であっても、生徒にそれを修正する技量が備わっていなければ無理な要求になってしまうからである。
 そのあたりの見極めが、シーモア先生は驚異的に正確なのだと思った。できる範囲で指摘する。できる範囲ギリギリの技術的課題として問題点を提起する。これは簡単にできることではない。鋭い分析と効率的な指摘、そして一人一人に合った発見に導くこと。こうしたことが実際の場面では、たった一音の接触の仕方(弾き方)を変えることから生まれてくることが驚きだった。それを知ることができただけで、この映画を見た甲斐があったと思った。

 わたしはもう完全に引退してしまったが、長いこと演劇部の顧問として生徒と接してきた。その中で生徒の芝居を指導するというようなこともずいぶんしてきた。
 その中で常に具体的な指摘でありたいと考えてきたことは、どこまで的確であったかは判らないが、方向としては間違ってはいなかったと思うことができた。セリフのこの音が消えかかっているとか、立ち位置をもう少し寄せてみたらどうかとか。そして、良い変化は指摘が(具体的で)的確だった時に起こることは判っていた。どれだけ的確な指摘が行えたかは、また別の問題である。
 そんなことを思い出し、考えてしまった映画だった。(鑑賞、10月7日)
by krmtdir90 | 2016-10-11 17:39 | 本と映画 | Comments(0)

映画「SCOOP!」

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 このチラシ。まったくよくやるわいという感じ。でも、何かやってくれそうな気もした。そして、これは久し振りに面白い映画だった。難しいことは一切なし。ただただ面白いだけで、最後にちょっとだけホロッとさせてくれる。娯楽に徹した傑作映画だと思った。
 最初に断っておくと、わたしは福山雅治と言われても、音楽やテレビや映画などで過去に彼が積み上げてきた実績を何一つ知らない人間である。だから、今回この映画で彼が新境地に挑んだというのも、そうなのかと思うだけで、それが実感できるような彼のイメージを持っていたわけではない。まったく白紙のところにいて、これが福山雅治なのかと思っただけである(今どきそんな人間がいることは信じられないかもしれないが、事実なのだから仕方がない)。
 脚本・監督の大根仁(おおねひとし)の作品も初めてで、要するに監督も主演も、初めて出会った異色の個性にすっかり夢中になってしまったということなのである。

 この映画には下敷きとなった原作映画があったらしい。1985年に放送されたテレビ映画「盗写1/250秒」(監督・原田眞人)というもので、高校生の時これを見た大根仁監督は大きな衝撃を受け、いつかこれを自分の手で再び映画にしたいと考えていたようだ(実は、原田眞人監督が1979年に撮った最初の映画「さらば映画の友よ インディアンサマー」をわたしは見ている。だが、例によって内容などはもうすっかり忘れてしまっている)。
 今回の映画はもちろん現代のストーリーになっているが(小道具のカメラがデジタルになっているなど)、漂う気分は何となく昭和の残滓を引き摺っているように感じられたのは、その元の映画あたりから来るものだったのかもしれない。福山雅治が演じた都城静(みやこのじょうしずか)という主人公が、どことなく一昔前のピカレスク的主人公のワルぶった感じに造形されているような気がした。「盗写‥」では主人公は2人になっていて、原田芳雄と宇崎竜童がコンビで演じていたようだ。わたしは松田優作あたりも連想したが、確かにこの2人ならなるほどなという気がした。

 福山雅治は初めての汚れ役?だったようだが、主人公・都城静のアウトロー的な自堕落さを実に魅力的に体現して見せたと思う。このポイントは、こいつは決して根っからのろくでなしではなく、根っこのところに消しようのない生真面目な芯が見え隠れしてしまうところだと思う。見え隠れと言うか、ほとんど見えないにもかかわらず、それがあるなと感じさせてしまうのが見事だと思った。スターであっても、こういう役作りができる人は多くはないと思う。
 一方で、その他の登場人物がこれもまた見事にその役に嵌っていて、主人公・都城静と絡みながら映画のワクワク感をどんどん高めていくのには感心した。相手役・行川野火(なめかわのび)の二階堂ふみがなかなかいい。「マジ最悪ですね、この仕事」と抵抗しながら、結局は静に言われるまま意地で真っ直ぐに突っ込んでいく。スター・福山雅治を向こうに回してまったく引けを取らない、怖いもの知らずの一途な可愛さを存分に発揮していた。
 情報屋・チャラ源のリリー・フランキーも凄かった。最後の暴発シーンもだが、それ以前のジャンキーでどこかが壊れかけている感じも怖かった。生理的にこういう危うい感じを出せる役者はあまりいないと思う。静と2人の腐れ縁が実にリアルに感じられた。

 主人公・都城静の過去は描かれない。かつて花形の報道カメラマンだったらしいというのは浮かび上がるのだが、それを裏付ける(説明する)描写などは一切ない。現在は芸能スキャンダル専門のパパラッチに落ちぶれているが(大きな借金も抱えているらしい)、何がきっかけでそうなったのかということは不明なのである。しかし、たとえばチャラ源との間に過去のどこかで大きな「借り」があって、静の中にこのチャラ源とはどこまでも一蓮托生であるという思いが存在することは、きわめて鮮明に描き出されている。
 過去は描かれないけれども、過去は現在のこの男に深く結びついているという構図。これは、脇役の定子(写真週刊誌「SCOOP!」芸能・事件担当副編集長・吉田羊)や馬場(同グラビア担当副編集長・滝藤賢一)の場合も同様である。同様の構図が設定されている。この2人は、「過去」の結果である現在の静に対して、それぞれ複雑な思いを抱きながらもそれぞれのやり方で働き掛けている。編集部内における2人の関係(次期編集長をめぐる確執)や、次第に明らかになる静との過去の関係などは、ストーリーの背景を非常にふくらみのあるものにしていると思う。

 静に何とか敏腕時代に戻って欲しいと願う定子の深謀遠慮で、編集部の新人記者・行川野火の「教育係」を静が押しつけられるというのがこのストーリーの基本設定なのだが、この凸凹コンビの息の合ったやり取りが映画の運びを実に楽しく決定づけている。最初は迷惑なお荷物としか思えなかった野火が、持ち前のあっけらかんとした直情と猪突によって、静の助手としての位置に次第に割り込んでいく感じが実に愉快に描かれている。
 そして、この子だけが静の「過去」を知らないまま、現在の静のすべてを投げ出したようなゲスぶった言動の奥に、蓋をされ隠されているピュアな本音を嗅ぎ取ってしまうのである。このあたり、具体的なシーンとしてはここに書かないが、巧い映画だなあと感心させられた。歳を重ね、屈折を抱えたまま中年になってしまった静や定子や馬場にとって、野火の成長はかつて自分たちの中に燃えていた火をストレートに思い出させるものなのである。周囲を見詰める野火の視線を介在させることによって、すべての登場人物の存在感が多面的なものになったのではないか。二階堂ふみは、目に力のある魅力的な女優だと思った。

 スター映画としてはきわめて異例の(続編が作れない)エンディングも、この行川野火を次の主役として夜の街に駆け出させることで、非常に爽快感の残る終わり方になった。
 大根仁監督が見せた切れ味鋭い演出が見事だった。ストーリーを形作る要素としてはこの上なくえげつない、人間の欲望とか汚かったり愚かだったりする後ろ向きの側面を描きながら、その画面に何とも言えないカッコ良さを漂わせて見せるところが素晴らしかった。全然違うのだけれど、黒川博行の書く疫病神シリーズの雰囲気に似ているような気がした。
 今回は、核心部分についてはネタバレにならないように書いてみました。この映画、こういう映画としてはまったく珍しいことなのだが、もう一回見てみたくなるような愛着を感じてしまう映画だった。こういう映画、好きだ。(観賞、10月6日)
by krmtdir90 | 2016-10-10 12:09 | 本と映画 | Comments(0)

高校演劇2016・今年も東大附属演劇部

 9日(日)、今年も東京大学教育学部附属中等教育学校の文化祭に行って来た。同行者はYassallさんと智くんである。演劇部は今年は都大会進出を逃してしまったようだが、6月にコピスに出演してもらったのでわれわれとの距離感は縮まっている。その分、終演後の感想が厳しめのものになってしまったかもしれない。
 上演したのは、森絵都の小説を生徒が脚色した「宇宙のみなしご」という作品。原作を読んでいないので何とも言い難い感じはするのだが、小説を台本に書き直すというのは予想以上に難しいことなのかもしれないと思った。台本としては、説明的に語るところばかり目について、セリフのやり取りから人物の関係性とか状況が浮かび上がるようには書けていなかった。たぶん原作を愛しすぎているために、距離を置いて作戦を練ることができなかったのではないかと推測した。
 セリフが書けていないと役のイメージも固定的になってしまい、役者の力も発揮しにくくなってしまう。みんな力はあるのに、ちょっと残念な舞台になってしまったと思った。

 帰りに新宿西口の蕎麦屋で、飲みながらあれこれ話しをするのが恒例になってしまった。この日は智くんの新座柳瀬が県大会への切符を手にできるかどうか、ブロック他地区の結果が夕方には出るはずになっていて、作家先生と編集者が芥川賞の受賞待ちをするような雰囲気の席になった。わたしは野次馬だから気楽なものだったが、作家先生としてはハラハラドキドキだったかもしれない。
 結果的に吉報が届いて、お祝いの乾杯でスッキリ締めることができて良かった。県大会の楽しみがまた一つ増えて、11月が待ち遠しいことになった。
by krmtdir90 | 2016-10-09 23:59 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)


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