18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング

<   2017年 02月 ( 14 )   > この月の画像一覧

伊豆高原・河津(2017.2.26~27)

 妻と東伊豆の方に行って来た。今回泊まったのは、伊豆高原の別荘地の中にある英国調アンティークホテルかえで庵というところ。洋室が8つだけの小さなホテルだったが、部屋は外から直接出入りするように作られていて、フロントやダイニングは同じ建物にあるが廊下でつながっているわけではなかった。全室に付いている露天風呂は温泉だというのだが、建物の作りがそんなだから、あまり温泉の宿に来たという気分にはならなかった。
 まあ、ちょっと気分を変えてみようと選んだのだから、それはそれでたまにはいいかなと思った。料理はフォークとお箸が並ぶ和洋折衷で、なかなか美味しかった。夕食はダイニングだったが、朝食は温かいサンドイッチやコーヒーなどを部屋に届けてくれるという趣向で、若い人などは喜ぶだろうなと思った。年寄りとしても、一風変わったのんびりした時間を過ごして来た。

 翌日は、せっかくこちらに来ているのだから、少し足を伸ばして河津桜を見て帰ることにした。前日から天気はあまり良くなかったのだが、半島を南下して行くにつれて雲が取れてきて、河津ではすっかり青空になっていた。
 河津桜は河津川という川に沿って植えられていて、片側に遊歩道が整備されているのだが、桜の木は思ったより背が低く、遊歩道も幅が広くないので、月曜日だったがけっこう混み合っている感じだった。外国人の観光客も多いようで、中国語や韓国語らしき言語などが飛び交っていた。地場産品等を売る店も並んでいて、金目鯛の干物が安く売っていたのでつい買ってしまった。

 で、肝心の河津桜だが、やや盛りを過ぎてしまったようで、全体的に黄緑色の芽吹きが気になる感じになってしまっていた。
e0320083_18303466.jpg
 代わりに菜の花がちょうど盛りというところだった。
e0320083_18305946.jpg
 桜は、芽吹きがあまり目立たないところを狙ってみる。
e0320083_18312789.jpg
 あとはアップで。
e0320083_18315262.jpg
e0320083_18321250.jpg
 途中の来宮橋から上流の眺め。
e0320083_18323768.jpg
 ちょっと離れたところにある河津桜原木というのを見に行った。
e0320083_1833077.jpg
 樹齢は60年ほど。1974(昭和49)年にこの桜が新種の桜(オオシマザクラとカンヒザクラの自然交配種)であることがわかり、河津桜と命名されたのが始まりだったのだという。まだ歴史の浅い桜だったのだ。

 少し前にカーナビが壊れてしまって(画面が消えてしまった)、新しいカーナビに取り替えてから初めての遠出だった。前は圏央道も途中で切れていて不便していたのだが、今度は(当たり前だが)もちろんそんなことはなく、大変スムーズに行って来ることができた。カーナビがなかった頃のことを考えると、まったく便利な時代になったものである。
by krmtdir90 | 2017-02-28 18:33 | その他の旅 | Comments(0)

原作「愚行録」(貫井徳郎)

e0320083_1441960.jpg
 映画「愚行録」の原作本なので、映画のチラシとほとんど同じ全面帯を掛けられて、近所の書店の注目文庫本のコーナーに並んでいた(写真では全面帯は外してある)。

 原作を読んでみて、映画が原作の弱点を非常によく埋めていたことが判った。
 原作では冒頭に、田中光子という母親が3歳の女児を育児放棄で衰弱死させ、警察に逮捕されたという小さな新聞記事が置かれている。だが、この記事の内容はその後のストーリーとはまったく結び付いておらず、語り手が入れ替わりながら(育児放棄とは関係のない)一家惨殺事件の被害者夫婦の過去を描き出していくという、この小説の基本構造が展開していくばかりなのである。その際、映画で妻夫木聡が演じていた聞き手の男は一切登場せず、(その代わり?)語り手ごとにその語りの内容がまとめられた各章の末尾に、誰だか判らない女(妹)がお兄ちゃんに語りかけるかたちの短いストーリーが毎回付け加えられている。すでに映画を見てストーリーを知っているならいいが、知らずに原作を読めば、何とも判りにくい思わせぶりな構成なのである。
 この語りかけの内容が、この兄妹が幼い頃から親のひどい虐待を受けていた事実を明らかにしていくに従い、読者はこの聞き手の男が妹のお兄ちゃんで、この女が記事にあった育児放棄の母親なのかと想像がつくようにはなっている。だが、これは非常に曖昧で読者に対して不親切な書き方ではないだろうか。この兄妹のストーリーがいつか一家惨殺事件と結びつくのかもしれないと予想は立つものの、途中ではその関係が明示されることはないからである。
 この原作では、隠れていた様々な事実は最後の妹の語りで一気に説明されるかたちになっている。光子が一家惨殺事件の被害者の妻と大学時代に関係があったこと(この点だけは途中で一人の関係者の口から明かされる)、この惨殺事件の犯人が光子であること、それを知る兄が妹に疑いがかかることがないかと関係者の話を聞いて回っていたこと、兄がその関係者の一人を殺害していたこと、さらに光子が育児放棄した娘は兄との間に生まれた子どもだったこと、などである。ほとんど何の伏線もなく、これだけの事実が最後になって唐突に並べられていくのである。こういう決着のつけ方はいくら何でも乱暴で、著しく説得力に欠けていると言わなければならない。ミステリーとしても成立していないと思う。映画はこのあたりを可能な限りきちんと描こうとしていたことが判った。

 小説が文字で書かれているということから、登場する語り手の被害者夫婦に対する見方の食い違いとか、それぞれが自分を正当化して振り返ろうとする嫌らしさとかは、映画より小説の方がよく描かれているのは確かである。それを「愚行」と括ってしまうのにはやはり違和感があるものの、人間のどうしようもない愚かさとか悲しさというようなものを、それなりに浮かび上がらせていることも確かである。ただし、そこで描かれていること(設定されていること)は案外陳腐で類型的であって、それぞれの人物の言動が安易な単純化で説明されるばかりで、人物がストーリーを展開させるためだけに動かされているという印象が拭えなかった。
 たとえば、被害者となった妻の大学時代の行状について、その鍵となる内部生と外部生の確執といったことも、それが彼らの大学生活すべてを支配しているような、決定的な隔たりとするのにはリアリティがないように感じられた。大学時代の光子についても、単純な上昇志向だけで大学選択が行われ、入学後もほとんどそれだけで行動していたと説明するのも無理があるのではなかろうか。何よりも、あんなに大切なお兄ちゃんの存在がこの間の彼女の中から消えていることが不自然に思われた。ご都合主義のストーリー展開と言わざるを得ない。経済的格差や階級差の問題なども、殺意に結びつく描き方としては取って付けたようで図式的すぎる気がした。
 読んでいる時は面白く読んだのだが、結局のところ人物造形が表層的であって、衝撃的な結末によってすべてがうやむやにされてしまったように感じた。最後の妹の語りで一家惨殺の一部始終を描写させるところなど、衝撃はあっても腑に落ちる必然性は獲得されていないと思った。育児放棄で死んだのが兄妹の子どもだったということも、ただ衝撃のためだけにそう設定されたように思えてしまって、その事実がこの2人のあり方にどう影響したのかといったところにはまったく届いていないのである。育児放棄が行われていた期間、では父親であるこの兄はいったいどこでどうしていたのかといった、きわめて基本的な疑問が放置されたままなのである。
 このくらいでやめておくが、作者はストーリーを弄んでいると言わざるを得ないと思った。 
by krmtdir90 | 2017-02-25 14:41 | 本と映画 | Comments(0)

タイプスプロデュース「12人の怒れる人」(2017.2.23)

e0320083_1249651.jpg
 OGの「くっぱ」こと高橋ちぐさから案内が来て、両国にあるスタジオアプローズというところに行って来た。両国駅東口から徒歩数分のところにある、小さなビルの1階にある狭いスタジオスペースでの公演だった。受付で名前を言ったらご招待になっていると言われ、彼女無理したなと思ったけれど、せっかくの気持ちだから有り難く受けておくことにした。

 わたしはたぶん、シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の映画「十二人の怒れる男」(1957年)を大昔に見たことがあり、レジナルド・ローズの脚本の素晴らしさはその時から知っていたと思う。今回の公演は「12人」のうち3人を女性に置き換えていて、その陪審員11番を高橋ちぐさが演じていた。原作ではユダヤ移民の時計職人と設定されている役である。
 ここにはスタジオアプローズを拠点としたタイプスという緩やかな演劇集団があるようで、そのプロデュース公演というかたちでこの脚本を過去に何度も上演してきているらしい。その中で、原作通りの「男」ヴァージョンの他に、全員女性に置き換えた「女」ヴァージョン、そして一部を女性にした今回の「人」ヴァージョンを作ってきたようだ。繰り返しやっているものだから、男から女への役の書き換えも上手に出来ている感じで、これなら高橋も違和感なく演じることができたのではないかと思った。こういうセリフのしっかりした脚本が高橋には合っていると思うし、役作りでもやり甲斐があったのではなかろうか。いい芝居を捕まえたなと思った。

 十分面白く見させてもらったのだが、その上でちょっと気になったことを書いておく。脚本を読んでいるわけではないからあまり断定的に言うことはできないが、この脚本はいかにもアメリカ的な典型的ディスカッションドラマで、ディスカッションに慣れていない(そういう風土のない)日本人が演じる時には、そのあたりを役者にどう馴染ませていくかが大きな課題になるような気がした。これは翻訳劇全般に言える課題でもあるわけだが、セリフのやり取りのニュアンスや身振り手振りの作り方といったところで、どうしても中途半端な外国人という結果になりやすいものだと思う。群像劇だからそうした点でばらつきが出るのは仕方ないのかもしれないが、どうも全体的にディスカッションに対する入り方で日本人的戸惑いを解決し切れていないような印象を受けた。
 この脚本ではセリフのない役者が常に11人存在することになるのだが、その作りが難しかったということなのかもしれない。役者の表情などが至近距離で見えてしまう小さなスペースということも影響していたかもしれない。

 高橋はセリフを発する前の気持ちの作り方や、セリフの途中の気持ちの揺れといったところで非常に繊細な表現の出来る人だと思っている。だが、それは当然のことながらきわめて日本人的な感性に基づくものである。それが今回、セリフを言い終わった後の気持ちの収め方のところで少し出てしまったような気がした。自分が言ってしまったことにやや自信が持てないでいるような気配を感じたのである。移民という設定は維持されていたので(しかも女性になっている)難しかったのかもしれないが、最初に窓を閉めたいと言い張ったりすることなどを考えると、もう少し強気で思い切りのいい作り方もあるような気がした(ちょっとそんな気がしただけだから、気にしないで自信を持ってやっていいのだよ)。
 次はちゃんと木戸銭を払って見に行くから、気を遣わずにどんどん案内を送ってください。あと、遠慮しないでコメントを書き込んでいいのだからね。
by krmtdir90 | 2017-02-24 12:50 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

映画「愚行録」

e0320083_18145298.jpg
 画面を覆っているどこか寒々とした雰囲気とか、溜まり続ける暗く重い空気感は日本映画として尋常でない印象を受けた。それはもちろん監督の計算したものなのだが、ここまで徹底した映画は珍しいのではないかと感じた。わたしはこういうのを嫌いではない。以下、ネタバレあり。

 監督・石川慶は、アンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキーを輩出したポーランド国立映画大学で演出を学んでいた人で、これが日本に帰って撮った長編映画第1作になるのだという。そう言われると、この映画の生み出す画面の手触りのようなもの、冷ややかな重苦しさというようなものは、昔見たことのあるポーランド映画の何本かに似ているような気がした。今回、同じくポーランド国立映画大学で学んだポーランド人のピオトル・ニエミイスキという人を撮影監督に迎えているのも関係していたかもしれない。
 見始めてすぐに判ることだが、映し出される映像には終始はっきりと判る補正が加えられていて、色彩感を著しく後退させた(寒々しい)画面が積み重ねられていく。カラー映画には違いないのだが、限りなくモノクロ映画のような印象を受ける画面なのである。監督と撮影監督によるきわめて緻密な作為が、この画面の隅々にまで施されているように思われた。

 役者たちの演技にも、非常に細かく計算された演出が行われていたように思われる。映画のストーリーは、一年前に起こった未解決一家惨殺事件の謎を、ある週刊誌記者が関係者を訪ね歩いて掘り起こしていくというものである。この記者・田中を演じたのが妻夫木聡なのだが、彼は、こんな感じでいろんな人の話を聞き出せるのかと疑問になるほど寡黙で、ちょっと何を考えているのかよく判らない無表情な男として造形されている。話しを聞く相手に対して、共感したり反撥したり疑ったりといった判りやすい反応を見せることはまったくないのである。見る側がこいつはいったいどういうつもりなのかと考えてしまうように、監督がそのように演じさせているということなのだろう。
 一方で、事件の被害者(その過去)について語る人々はみんな饒舌なのだが、それは当然のことながら語る人によって様々な見方や受け止め方のズレを生じることになる。誰もが自分に都合のいいように過去を語ろうとするからである。そのあたり、こいつの言っていることはどこまでそのまま受け取っていいのかというような、見る側を不安にさせ考えさせる演出をこの監督はしていると思う。

 だが、とにかくこれらの証言から浮かび上がる「過去」の姿を、映画はその時その時の出来事として次々に映し出していく。この姿もまた、見方によって本当かどうかが判らなくなってしまうような危うさを含んでいる。それでも、そういう前提に立ちつつも、この曖昧さを含んだ姿の中から、誰からも好かれ、幸せで理想的な家族と見えていた被害者夫妻の本当の姿が見えてくる、というのがこの映画の主要なストーリーラインになっている。しかし、この映画の構造(原作の小説も同様の構造を取っていたようだが)では、次々に入れ替わる語り手がそれぞれの過去をそのまま語っているわけではないから、彼らの本当の姿は実は見えていないということにもなるのである。
 この映画のストーリーは、かたちの上では犯人は誰かというミステリーではあるが、解き明かそうとしているのは被害者夫婦と、いまは語り手として記者の前にいるそれぞれの人物との確執といったものである。明らかにされるそれら全体を「愚行」という言葉で括ろうとするのが、原作者および監督の意図するところということになるようだ。

 実はこの映画にはもう一つの重要なストーリーラインが存在している。それは惨殺事件を追う記者・田中の妹である光子(満島ひかり)が、幼い娘に対する育児放棄によって現在収監されているという事実から見えてくるものである。そして、この兄妹が子どものころ両親からひどい虐待を受けていたという過去が次第に見えてきて、映画の後半になると、思いがけず惨殺事件の被害者夫婦の過去の人間関係に、この妹が結びついていたことが明らかになるになるのである。
 あとから考えてみると、この妹の大学入学に関する展開はいかにも唐突な印象があり、犯人が過去に受けた傷の深さ(動機)と事件の残虐さとの結びつきにやや納得しかねる感じが残るものの、映画を見ている時間(その流れ)の中では、それは十分な衝撃力を持って描き切れていたように思われたのである。そこには富める者と貧しい者、幸せな者と不幸な者との、どうあがいてもそれぞれの位置が入り混じることはないという残酷な現実が関係している。

 羨望や嫉妬、悪意や狡猾といった、負の感情と言ってしまっては単純化が過ぎるかもしれないが、人間の中に複雑に絡み合って自分でもどうにもならない思いが、何でもない表情や仕草の中に知らず知らずのうちに現れてくる瞬間を、この映画はよく捉えていたように思われた。善悪などで割り切った見方をしてしまえば、こういうものは決して捉えることはできないものだと思う。暗い話だけれど、見ていて面白かったし引き込まれてしまった。
 だから、この「愚行録」というタイトルはどうしてもしっくり来ないということは言っておきたい。ここに描き出された様々な登場人物たちの行状を、「愚行(愚かな行い→人間の持つどうしようもなく愚かな側面)」と括ってしまうことには大きな違和感を感じてしまうのである。原作のタイトルがそうだから仕方がないのかもしれないが、一段高いところから全体を見下ろしているようでいい気分はしない。映画は決してそういう感じではなかったからである。

 冒頭のバスの中での出来事は恐らく映画独自に作られたシーンだと思うが、不穏な空気を漂わせて映画の中にぐいと引き込まれた。その後の展開で記者・田中の人間像が次第に見えてくると、咄嗟に足が悪いことを装った彼の孤独な「反撃(復讐と言ってもいい)」の心性も理解できるような気がした。彼の不自然なまでの寡黙も同様である。
 ほとんどのシーンが登場人物の内面の揺らぎを想像させるようになっていて見事だと思った。この監督、ただ者ではないと感じたのは事実である。
 原作は10年ほど前に直木賞の候補になったもの(受賞はしなかった)らしいが、読んでみるかどうか迷っているところである。このところ、読んだ小説が3冊ほど連続してハズレだったので、ちょっと本の選定に自信をなくしているのである。
(立川シネマシティ2、2月21日)
by krmtdir90 | 2017-02-22 18:15 | 本と映画 | Comments(0)

農大三高演劇部・東北復興支援チャリティー公演(2017.2.19)

e0320083_14265363.jpg
 昨日(19日)は東京農大第三高校演劇部の「東北復興支援チャリティー公演」というのに行って来た。会場は吉見町民会館「フレサよしみ」という、車でなければ到底行けない不便な場所にあった。わたしは智くんの車、YassallさんはTさんの車にそれぞれ便乗して出掛けて行った。全員車で行ってしまえば簡単だったのだが、それでは帰りに東松山名物の焼き鳥が食べられないことになる(飲み屋に入って焼き鳥だけ食べるというような恐ろしいことはできない)。それでは楽しみも半減してしまうというものである。駅前の「響(ひびき)」という店できっかり2時間(時間制限なんていう野暮はこの店にはないが、遠方なので自主的に規制を設けてそれをきちんと守ったということである)、4人ともお腹一杯になるまで食べて満足して帰って来た。

 で、農大三高の「公演」のこと(こっちが本題)である。農三はコピスみよし高校演劇フェスティバルで10年以上つき合って来た学校だが、力はあるのになかなかそれが発揮されず、毎回のように不完全燃焼の舞台を繰り返してきたと思う。それが、一昨年(2015年)取り組んだ「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが、青森のイタコを呼んだら~」(畑澤聖悟作)で、明らかに一皮剥けた素晴らしい舞台を作り上げ、さらに昨年(2016年)の「翔べ!原子力ロボむつ」(畑澤聖悟作)で、その飛躍を確実に自分たちのものにしたのである。県大会では核心を外した曖昧な審査によって無視されてしまう結果となったが、この2作から彼ら(生徒と顧問)が得たものは、そんな勝ち負けに関わらず実に大きなものがあったのだろうと思っている。
 今回の「公演」はこの記念すべき2作を一挙上演し、チケット代500円のうち200円を復興支援の義捐金として寄付するという企画だった。これは(焼き鳥がなくとも)応援に行かなければならないと思った。行ってみたら、「フレサよしみ」は500人規模のホールを持つ予想以上に(失礼)素晴らしい施設だった。こんな不便な場所にもかかわらず、客席の大半(大半…弱?)が埋まる観客を集めていたのは立派なことだと思った。農三のみんながこの公演に賭ける「熱」がびしびし伝わってくる気がした。

 顧問のF先生がパンフレットのご挨拶の中に、この2作品を「上演出来ることを誇りに思っています」と書いている。この言葉は生徒全員が共有している思いを代弁したものだと思うが、顧問としてこんなふうに言えるというのは素晴らしいことだと思う。
 「もしイタ」というのは、2011年の東日本大震災で犠牲となった人々への鎮魂歌とも言うべき作品だが、被災地から遠く離れた自分たちがこれを「上演してもいいのかという疑問」から始まった取り組みだったという。彼らは実際に福島県いわき市の被災地を訪れ、被災した人たちの話を聞いたり被災地を見て回ったりする中で、掛けてもらった「ぜひ上演を」という言葉に背中を押されて練習をスタートさせたらしい。被災地の思いを無関係な自分たちが伝えられるのかという謙虚な原点を持てたことが、それをやり切った時の彼らの「誇り」につながったのだと思う。
 「ロボむつ」は高レベル放射能廃棄物の問題を扱った作品で、その最前線にある青森県むつ市を舞台としているものである。この作品にも、無関係な土地にいる自分たちが「上演してもいいのかという疑問」はあったはずだが、ここでも彼らは茨城県東海村の東海第2原発の原子力館を訪問し、納得できるまで学習した後に芝居作りをスタートさせている。
 演劇という部活動の教育的意義などと大上段に振りかぶるつもりはないが、この2作品で農三演劇部が行った正攻法のアプローチは、彼らに大きな「学び」をもたらし、実際の舞台作りに計り知れぬ大きな影響を与えたのだと思う。自分たちが作っている舞台に、疑いのない自信と誇りを持てるというのは素晴らしいことである。彼らは演劇を通して自分たちのやるべきことを見つけたのである。この間の(2年以上にわたる)取り組みの集大成として、この「公演」を企画した農三のみんなの思いはよく理解できる気がした。

 その上で、芝居の出来については少し厳しいことも書いておかなければならない。
 一本目の「ロボむつ」は地区大・県大の時のキャストがほぼ維持された上演だったはずだが、過去2回の舞台が素晴らしいものだったのと比べて、今回は出来としてはやや落ちてしまったように思った。会場の違いや客層の違いが影響した部分もあったかもしれないが、やる側の集中や配慮が若干欠けていた(雑になってしまった)ような気もした。内容的に、放射能とか廃棄物とかに関する基本的情報を客席に確実に届けなければならない作品だと思うが、そこのところがどうも十分にできていなかったように見えたのである。ホールの問題なのか発声の問題なのか、声量を落としたセリフが総じて聞き取りにくく、客席とうまくつながれなかったように感じられた。あと、照明設備に制約が多かったのか、全体に暗めの舞台になってしまったのも残念だった。どれもほんの少しの調整不足と言っていいもので、上演というのは難しいものだなと思った。
 二本目の「もしイタ」は県大・コピスの時から大幅にキャストを入れ替え、もう一度新たに作り直す感じの上演だったと思う。「ロボむつ」と比べて作品の難易度はやや下がるものの、過去にコピスなどでこの作品の最良のかたちを見せてもらっている者からすると、やはりまだ作りが甘く物足りない印象になってしまったのは仕方がないことだったかもしれない。幾人かのキャストは「ロボむつ」と掛け持ちになっていたが、2本並行しての芝居作りというのは、端で考える以上に厳しい面があったのではないかと感じられた。
 2作品一挙上演というのは農三の「心意気」であり、今回の企画の肝であったことは理解できると思う。しかし、そのために個々の作品に対する丁寧な配慮といったものが若干手薄になってしまったきらいはあったように思った。

 でも、今回の「公演」で最も大切だったものはきみたちの「達成感」だろうと思う。県大で審査員に評価されなかったり、思い通りにならなかったこともたぶんたくさんあったと思うが、県大やコピスの客席の大部分はきみたちを評価していたことを忘れないでほしいと思う。きみたちはこれらの作品に取り組んだことに「誇り」を持っていいのだし、それは必ず農三の「次」につながっていくものだと思う。ちょっと気が早いけれど、秋の舞台を期待して待っています。
by krmtdir90 | 2017-02-20 14:27 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

映画「サバイバルファミリー」

e0320083_14524518.jpg
 監督・脚本の矢口史靖(しのぶ)は「スウィングガールズ」(2004年)一本を知っているだけである。だが、あの映画でも感じたことだが、この監督はストーリー展開の細かいリアリティといったことにはあまりこだわっていない気がした。映像的にはCGなどに頼らず、ロケによる現場主義のリアリティに強くこだわったということのようだが、ストーリーとかシチュエーションなどを見るとおかしなところが一杯あって、これってどうなのよとツッコミを入れたくなるところが満載なのである。鑑賞中そういうことが気になってしまうと楽しめないものだが、矢口史靖はそういう人なんだと「スウィングガールズ」で判っていたので、この映画も同じだなと思ったけれど、そこはあまり考えないように見ようとしたのだが今回は難しかった。
 それはこの映画が、ある日突然「電気」が一切使えなくなってしまって、それは日本中(世界中?)で2年以上も続くことになるという設定のもとで、一つの家族の「サバイバル」の旅の様子を描いていく、一種の「ロードムービー」であり「シチュエーションコメディ」だったからである。

 このシチュエーションは単なる停電とは違っていて、電池や充電済みのスマホなども使えなくなってしまうし、車のバッテリーなどもダメになってしまって、自転車が唯一の交通手段となるというふうに設定されている。あらゆる情報から遮断され、移動の自由も大きく制限される状況を作って、家族がそこをどう乗り越えていくかというシチュエーションにしたかったのだと思われる。物流も途絶しているから、食料などもすぐに手に入らなくなるのである。
 そんな設定には無理があると言うつもりはないし、どうしてそんなことが起こったのかという説明がないのもかまわないと思うが、その設定から生じるはずの様々な社会的混乱に対して、それなりの俯瞰的視野と目配りはもう少し必要だという気がした。ストーリーが「家族」に焦点を絞っているから、映画の展開はその周囲で起こることに限っていこうとしたのかもしれない。だが、シチュエーションそのもののリアリティは家族の外部で何が起こっているのかということを、もっと丁寧に押さえておかなければ成立しないだろうと思う。「スウィングガールズ」ではそれもアリと思えた矢口史靖のマンガ的ご都合主義は、こういう映画では看過できない決定的な弱点に見えてしまうのである。

 たとえば、4人の家族は4台の自転車で鹿児島に向かおうとするが、この状況下では貴重品の自転車は常に強奪や盗難の危険と隣り合わせだろうし、それにしては彼らの「サバイバル」はあまりに無警戒過ぎるように思われた。与えられたシチュエーションの中では、電気がないのに飛行機が飛んでいると考えるのはかなり無理があるし、ちゃんとした道路地図もなしにスタートしてしまうのも無謀と言うほかない。途中で手に入れた中学校の地図帳やガイドブックの地図を何度も確かめるのはウソがあるし、一方で道路標識や建造物の住所表示などにまったく興味を示さないのは、描き方として(カットの重ね方として)片手落ちと言うべきだろう。
 決定的な誤りは終盤に突如登場する蒸気機関車である。蒸気機関車なら電気がなくても走れると考えたのかもしれないが、駅間相互の連絡通信や信号施設がダウンした状況ではどんな機関車でも動かすことはできないし、レールのポイントを切り替える転轍装置も電気がなければ動かすことはできないのである。だから、こういうかたちで家族が救われるストーリー展開はあまりにも安易だし、、現実にはありえないウソということになってしまうのである。

 設定からして今回は難しかったのだが、こうした多くの無理筋やご都合主義にとりあえずは目をつぶることにして、「サバイバル」を通した「家族の再生物語」としてこの映画を眺めてみるとどうなるか。いかにもベタな感じはするものの、矢口史靖はそういうところはそれなりに上手に描いていたとは思う。冒頭に映し出される家族のバラバラ感はよく捉えられていたし、その後の関係性の変化も段階を踏んでしっかり追跡されていた。父の小日向文世と母の深津絵里は好演だったし、息子(大学生)の泉澤祐希と娘(高校生)の葵わかなもよくやっていた。4人が作り出すシーンごとの微妙な空気感の違いとか、様々な体験を経て4人が次第に逞しくなっていく感じなどを、監督はよくすくい上げていたと思う。だが、今回は矢口史靖の描くそういうゆるゆるした?雰囲気を、理屈抜きに楽しんで見ていることはできなかったのが残念である。
 鹿児島までに100日を超えるのだから、男性陣の頭髪や髭はもっとぼうぼうになるんじゃないかなどと、つまらないことが気になってしまった。それとも、こんな極限状況下でもお互いに床屋をしたり剃刀で髭の手入れをしていたのだろうか。
(TOHOシネマズ南大沢、2月17日)
by krmtdir90 | 2017-02-18 14:53 | 本と映画 | Comments(0)

映画「海は燃えている」

e0320083_121699.jpg
 「イタリア最南端の小さな島」という副題がついている。島の名前はランペドゥーサ島、人口約5500人の小さな島を舞台としたドキュメンタリーである。
 この島は北アフリカに最も近いイタリア領であることから、地中海を渡ってヨーロッパを目指す難民たちの目的地になっている。冒頭に「この20年間に40万人の難民がこの島に上陸した。途中で命を落とした難民は1万5千人と推定される」という字幕が出る。映画はこの難民たちの問題を扱っている。だが、問題に対するアプローチの仕方は、ありふれたドキュメンタリーの枠に収まらないようなきわめてユニークなものである。この小さな島に起こっている日常の小さな出来事に着目することが、総体として外の世界の様々な問題を想起させることにつながっている。難民問題に関する一面的な決めつけや単純化などから最も遠いところで、この映画が積み重ねる島の人々の映像は見る者の想像力を呼び覚まし、実に多くのことを訴えかけてくるように思われた。

 映画は島のレーダーサイトの夜の情景を映しながら、難民を乗せた船の救援要請を受ける緊迫した音声をオーバーラップさせたり、救助艇による実際の救援の様子や難民の上陸手続きなど(ボディーチェックや顔写真撮影など)を映していくのだが、それら難民の現況を浮かび上がらせるシーンはこの映画の一部分に過ぎない。この映画は難民を捉えるのと同じくらい、或いはそれ以上の時間をかけて島の人々の生活を追っていくのである。
 映画が最初に映し出すのは、この島に生まれ育ったサムエレという12歳の少年の姿である。彼は海岸沿いの丈の低い松の木に登ってその枝を切り取っているが、それを握り手にしてゴムのパチンコを自作するシーンが少し後に出てくる。さらにサムエレの友人の少年や、漁師をしているサムエレのおじさん、サムエレの祖母といった人たちも登場し、サムエレとの小さなエピソードが点描されていく。島のローカルラジオでDJをする男や、キッチンに立つマリアおばさんなど、映画は全体でかなりの割合を割いて、難民たちとは直接結びつかない島の人々の姿を描いていくのである。

 これら島の人々の生活と難民の悲劇とはほとんど交わることがない。かつては接触の場面もあったらしいが、現在では救援や上陸手続きはすべて現場の船上で行われ、上陸後はすぐにバスで島内の難民センターに収容されてしまうようになったらしい。それでも大人たちは難民がこの島に来ていることを知っているが、サムエレや友人の少年がどこまでこの事実を知っているのかは明らかではない。難民の悲惨な状況を捉えるだけでなく、一見それと無関係に見える島の人々を描くことが、映画にとって必要なことだと制作者たちは考えているようである。
 普通のドキュメンタリーだと、対象となるものを撮影している制作者側の存在がもっと観客に意識されるものだが、この映画では監督のジャンフランコ・ロージの存在感はまったく消えていて、まるで劇映画のワンシーンと錯覚されるような撮り方をしている部分もある。監督が前面に出ることなく、カメラが島の人々を淡々と見詰めていくうちに、アフリカや中東から命懸けでやって来た難民一人一人にも、同じような生活の日々があったはずだという思いが生じてくるのである。

 サムエレと友人の少年は、自作のパチンコで鳥を狙ったりサボテンを打ち抜いて遊んでいる。おじさんのイカ釣り船に同乗して、船酔いして吐いたりする。祖母が料理したイカのトマトソースパスタをおじさんと3人で食べながら、桟橋に行って揺れに慣れることが大事だとアドバイスされたりする。マリアおばさんはラジオのDJに電話をかけ、曲のリクエストをしたりする。ラジカセから流れるニュースで、難民船の遭難があり多くの子どもや女性が犠牲になったことを聞き、料理中の彼女が「ひどい話」と呟いたのは映画が始まって間もなくだったと思う。
 こういう島の人々の中で、ピエトロ・バルトロ医師だけが難民の現実と直接の接点を持っている。彼はこの島で唯一の医師なので、救助された難民の妊婦を診察しながら、もう大丈夫だと励ましている一方で、サムエレの左眼が弱視であることを見つけ、治療法について指示を与えたりもしている。そうした彼の生活を映す中で、一カ所だけ、直接カメラに向かって(そこにいる監督に向かって)語りかけているシーンがある。この映画においてここだけが監督の存在が見えているところで、この医師との出会いがこの監督にとって非常に大きな意味を持っていたことが窺えるのである。

 医師はパソコンのモニター画面を指さしながら、彼が関わってきた難民の現実について静かに語るのである。その言葉の断片がプログラムに採録されている。
 画面には鈴なりの難民を乗せた黒々とした小さな船が映っている。「この船には840人乗っていた」「船の外は一等で値段は1500ドル、中段が二等船室で1000ドル、下の船倉にはとにかくいっぱいいるはずだ、三等船室で800ドル」。船倉には詰め込めるだけ詰め込んでいるから、その劣悪な環境で命を落とす人も出るらしい。判っていてもそこに未来を賭けるしかない人々がたくさんいるのだ。「船から降りろと言うと次から次へと降りてくる。終わりがない」「こうした人々を救うのはすべての人間の務めだ」。
 ピエトロ・バルトロ医師はこの島で通常の医療活動を行う傍ら、20年にわたって難民船救助の現場に立ち会ってきたのだという。生存者の中の病人や怪我人に対処し、途中で落命したすべての遺体に死亡診断を下してきたという。その活動を通して彼の中に確固たるものとなった最後の言葉は重い。この最後の言葉に監督が共感していることが判る。膨れ上がる難民の流入に対して、ヨーロッパ諸国に様々な対応の差が生じているが、その状況の困難を認識した上で、それでもなおこの問題の原点とも言うべき言葉に全面的に共感しているジャンフランコ・ロージという監督がここにいる。

 映画は難民センターの内部の様子も映し出す。嘆き悲しむ女性のアップを重ねていく一方で、憑かれたように逃避行の苦難を訴え続ける男の姿を注視する。「爆撃を受けて大勢死んだ」「サハラに逃げて大勢死んだ」「殺され犯された」。無数の死をくぐり抜けて、ようやくこの人たちはここにたどり着いたのだということを映し出す。
 夜のセンターの狭い中庭で、自然にできた国別のチームでサッカー対抗戦に興じる男たちがいる。応援の掛け声が彼らの祖国を明らかにする。リビア、ソマリア、スーダン、シリア、エリトリア…。地図を開いて確認しなければ、わたしはどこにそれらの国があるのかも正確には知らないのだ。それらの国々でどんなことが起こっているのかも知らない。しかし、彼らはもうそこに帰ることはできない。彼らはその国を捨てるしかなかったのだ。なけなしの800ドルを払い、死も覚悟して船に乗り、難民として見知らぬ土地で生きる選択しかなかったのだ。
 映画の終わり近くになって、海上での難民船からの救援の一部始終が克明に記録されている。最後に残った40体の遺体収容の様子まで、カメラは凝視を止めることなくすべてを見届ける。

 この後で、映画は再び島に生きる人々の日常を幾つか映し出していく。中で、サムエレの祖母が静かに流れるラジオの音楽を聴きながら、ベッドを丁寧にメイキングしていく様子が印象的である。毎日繰り返している何でもない作業のはずだが、彼女は最後に枕元のテーブルに置かれた小さな額縁を取り上げてキスをするのである。この時の彼女の祈りの言葉が、この映画で発せられる最後の言葉となる。「良い一日と、少しの健康をお授けください」。
 DJの男は相変わらず音楽をかけ続けている。サムエレは桟橋にいて、腕を銃に見立てて何かを撃つ真似を繰り返す。映画の始まりから少し成長したようにも見える彼は、いろいろな現実を少しずつ見るようになっていくのだろう。ランペドゥーサ島から遥か離れたところで、難民問題からも遥か遠い日本という国でこの映画に出会い、わたしも少しずつ見るようにならなければと、重い宿題が残されたような気がした。説明抜きで、凝視する長いカットの積み重ねが印象的な映画だった。
(渋谷Bunkamuraル・シネマ、2月13日)
by krmtdir90 | 2017-02-14 12:17 | 本と映画 | Comments(0)

映画「なりゆきな魂、」

e0320083_1125648.jpg
 昨日が上映の最終日だったようだ。公開からちょうど2週間、まあそんなものだろうなと思った。監督の瀬々敬久は「64(ロクヨン)」の監督だった人で、ああいう商業映画も撮るしこういうマイナーな映画も撮るのだと知って驚いた。もともとはピンク映画からスタートした人だったらしい。本当はこういう映画を撮りたい人だったのだろう。
 原作のつげ忠男がつげ義春の弟であるのは知っていたが、ちゃんと読んだことはなかった。気にはなって書店でパラパラ見たことはあると思うが、義春と比べて絵柄が粗雑で好きになれない気がした。義春の丁寧で味のある描線とは異なり、投げやりに描いているような印象を受けてしまったのかもしれない。内容的にも義春よりずっと過激でシュールな方に傾斜しているようだった。

 この映画は、つげ忠男の作品から幾つかを実写化して並べたものが、瀬々敬久のオリジナルストーリーをサンドイッチするような構成になっている。そのストーリーというのは、夜行バスの転落事故で死亡した人の遺族や生き残った人が集まって、事故当時のことやその後のことを語り合う会の様子を捉えたものである。何が目的だかよく判らない集まりなのだが、この様子がほとんど同じかたちで2度繰り返して映し出される。2度目では出席者の顔ぶれが変わっていて(つまり、死んだ人と生き残った人が入れ替わっていて)、事故の生死は偶然のなりゆきでどのようにもなり得たのだという、運命の不確実性のようなことを描いていたと思う。
 その意図するところは(たぶん)理解できたように思うが、これがつげ忠男の原作に基づく種々のイメージと響き合っていたかというと、わたしにはそのあたりがもう一つ納得できなかった。事故で生き残った者たちが内部に様々な葛藤や後悔などを抱えていて、それがとても綺麗事では済まない負の側面を持っているのは確かなのだが、映像的にはつげ忠男に発するイメージと落差がありすぎて、うまく結びついていないように感じられたのである。

 原作を読んでいないから、映像がつげ忠男の描いたイメージとどの程度繋がっていたのかは云々できないが、原作に基づいた部分が非常に異彩を放っていたのは確かだと思う。衝動的で暴力的で破滅的な方向に一気に突っ込んでいく映像的飛躍と、それを淡々と見詰めている冷静な視線といったものが表裏をなしている印象。こういう書き方をするのは何やら気恥ずかしいのだが、人間の内部に巣食う矛盾に満ちた欲望のようなものが、平穏に見える表層の裂け目からドロドロ流れ出しているような気がした。
 突発的に展開する殺人や男女の争いなどが執拗に繰り返され、一方で何事もないかのような場面にも背徳的で不穏な空気が漂うのである。恐らく、こういった要素がつげ忠男の作品に流れる空気というものなのだろう。柄本明、佐野史郎、足立正生といった癖のある役者たちがそこに立ち会い、みずからもその危うい要素に手を染めていく。それは見ていて面白かったし、彼らが出会うシュールな世界も十分納得できる姿で描かれていたと思う。

 ただ、それでも見終わったあとに、何だかなあという距離感のようなものは残ったのである。それはたぶん、年を取ったわたしが、もうこういうのはいいよと感じているということだと思う。イメージの飛躍がダメということではなく、ここにはいわば、死に向かっていくような説明不能の熱が感じられたということかもしれない。死と言うか、破局に向かおうとする情熱のようなものである。若い時でないと、そういうのはかなり疲れるのだと思う。
(渋谷ユーロスペース、2月10日)
by krmtdir90 | 2017-02-11 11:26 | 本と映画 | Comments(0)

映画「未来を花束にして」

e0320083_14125222.jpg
 映画館通いを再開して初めてのイギリス映画だった。イギリス映画の地味だけれども堅実なリアリズムが、わたしは昔から好きだったのだなと再確認した。
 プログラムに載っていたインタビューの中で、監督のサラ・ガヴロンは「カメラがいつ自分をとらえているのか、俳優たちがほとんど知らなかった」「そうすることで、自然な演技を生み出し、力強い演出効果をもたらした」そして「様式化されたものでなく、リアルなものを作りたかった」と述べている。こういう撮影手法はもちろんイギリスだけのものではないが、わたしに中にイギリス映画はいつもそういうものだったという記憶があって、それ以上に過剰なものを付け加えることはしないという、漠然とそういうイメージが定着していたことに思い至った。余計なことはしない、俳優たちはその状況の中に各々の役として生きていて、カメラはその存在をただ写し取っていくだけという、それはもちろんこの監督がみずから選び取った手法なのだが、昔見たイギリス映画はいつもそうだったような記憶が確かにあったのである。その背後に、イギリス映画が培ってきた伝統的な潔さというようなものがあるのではないかと感じたのである。

 この映画はイギリスにおける女性参政権(獲得)運動を描いている。われわれは男女平等とか国民主権・選挙権といったものを当然のことのように感じているが、その歴史は思った以上に浅い。日本で女性参政権(選挙権)が確立したのは1946年である。それまでは女性は選挙に行くことも(もちろん立候補することも)できなかった。イギリスで女性参政権が(不十分なかたちながら)認められたのは1918年、男女平等の普通選挙権が実現したのは1928年だったという。
 この映画の舞台は1912年のロンドンである。イギリスは現代でも階級社会が残っていて、労働者階級から脱するためにはサッカー選手かミュージシャンになるしかないなどと言われたりするが、100年以上も昔のロンドンで労働者階級に生まれ育ってしまった人々、特に女性たちがどんな状況に置かれていたのかを映画はきわめてリアルな映像で映し出していく。洗濯工場の劣悪な労働環境下、男性より安い賃金で男性より長時間働くしかない女性たちの一人、モード・ワッツ(キャリー・マリガン)がこの映画の主人公である。彼女の夫のサニー(ベン・ウィショー)も同じ洗濯工場で働いており、彼らは生を受けた時からこの階級で生きることを運命づけられているのである。

 当時、女性参政権運動の中心となっていたのはもっと上の階級の女性たちで、労働者階級のモード・ワッツの中にそんな問題意識は存在しなかった。彼女は幼い息子のジョージを心の支えとして、始めから運命づけられた貧しい日々を黙々と送っていただけである。映画は、この洗濯工場のどこにでもいたそんな境遇の一人の女性が偶然この運動と出会い、様々な葛藤を経ながら次第に自立した考えを獲得していく様子を見詰めていく。恐らく彼女にとって女性参政権は一つのきっかけに過ぎなかったのであり、彼女自身がみずからの置かれた状況の矛盾や不当に目覚めていく過程が、この映画の描き出そうとしていたものなのである。だから、この映画は監督が述べていたように安易な「様式化」とは無縁のところで、運動を下支えした無名の女性たちの生きる姿を、その日々の不安や心の揺らぎなどを浮かび上がらせることに集中している。
 この運動の大きな節目となった実際の事件(1913年のダービーで、出走した国王所有の馬の前に、運動に関わっていた一人の女性が飛び出して死亡した)が映画の終盤で描かれているが、映画ではモード・ワッツがこの女性と一緒にその場にいたという虚構を設定して、彼女の受けた衝撃と新たな決意の方に寄り添っていくのである。すべてを諦めていた一人の女性が、行動する女性として脱皮していくことがこの映画の描こうとしたことだからである。

 モード・ワッツにとって大きな転機になったと思われる、下院議会での公聴会のシーンが印象的である。洗濯工場の同僚で彼女を運動に誘ったバイオレット(アンヌ=マリー・ダフ)が、夫に殴られ傷だらけの姿で現れたため、証言するはずだった彼女の代わりに証言台に立つことなってしまう。原稿を代読するだけでいいと言われて気後れしながら議員たちの前に出た彼女が、原稿には目を落とすことなく、議員の質問に答えて工場での自分について言葉少なに証言していく。その最後のやり取りがプログラムの中に採録されている。
 あなたにとって選挙権とは?
 ないと思っていたので、意見もありません。
 では、なぜここに?
 もしかしたら、他の生き方が、あるのではと。
 彼女の中に、自分がやらなければという思いはまだかたちになっていない。彼女の言葉は少しも熱くないし、むしろいかにも自信なさげで頼りないものである。しかし、彼女の中で何かが確かに動き始めていることを感じさせて胸に響く。

 彼女が女性参政権運動に関わり始めたことは、彼女の日常生活の周囲に新たな人間関係を生むと同時に、それなりに安定していた様々な関係に回復不能の亀裂をも生み出してしまう。夫サニーとの破局、息子ジョージとの別離など、彼女自身そうしたことをまったく覚悟していたわけではないし、受け止める準備があったわけでもない。しかし、現実にそうなってしまった時の彼女の態度が、悲しみに取り乱しながらも、運動との訣別という選択肢をまったく持っていなかったことが驚きである。心の中で動き始めてしまったものは、もう取り消すことも後戻りすることもできなくなっているのである。これを女性の強さと一括りにしてしまうことは躊躇するが、こうした時に打算的な心情に微塵もブレることがないのは、常に女性が芯に秘めてきたものなのではないかと感じている。
 工場長からの馘首宣告に彼女が怒りの反撃に出るシーンは痛快だが、運動を激しく弾圧してきた警察がこの機を逃さず、傷害罪を不問にする代わりに情報を流せと誘いかけてきたのに対し、彼女がスティード警部(ブレンダン・グリーソン)宛に書いた手紙も感動的だった。その最後の部分。
 私は歩兵。あなたもです。敵と味方ですが。私は裏切らない。あなたもでしょ。手なずけられると思わないで。

 心の揺れがなかったはずはない。しかし、彼女はそれを一つ一つ乗り越えながら、内側に芽生えてしまった人間的矜恃をしっかり確認していくのである。この映画が女性参政権運動の苦難の歴史を描きながら、陥りやすい「様式化」の陥穽に落ちなかったのは、その人間的なあり方を丁寧にすくい取ろうとしていたからだと思う。同時にこの映画は、スティード警部を始めとする警察側の卑劣や暴虐を描きながらも、「様式化」による過度の強調はできるだけ避けようとしていたように見えた。どこにもそんなことは表現されていないが、彼らも同じ人間であり家族や愛する人がいたはずだということを、この制作者たちは根底で尊重しなければならないと考えていたのではないか。
 時代は厳しい階級社会の中にあり、女性参政権が政治の大きなテーマとなっていたけれど、対立はこのテーマに関してだけの対立なのであって、人間的な善悪で割り切ってしまうような単純化は本意ではなかったということなのだろう。多くの対立の果てに運動は最終的に勝利に終わるのだが、それは映画に描かれた時間より何年も後のことである。映画はそれを字幕で静かに物語るだけである。その余韻ある節度が、わたしには非常に好ましいものに思われた。少しでも声高に流れるところがあったら、この好印象は残らなかったと思った。

 この映画の原題「SUFFRAGETTE(サフラジェット)」とは、男性優位社会で作られた女性参政権運動の活動家を指す蔑称だったらしい。当時、このサフラジェットたちの理論的支柱として圧倒的支持を集めていたのが、エメリン・パンクハーストという中流階級の女性だったらしい。この実在の人物をこの映画で演じたのが、古い映画ファンには何とも懐かしいメリル・ストリープだった。バルコニーでの短い演説シーンだったが、風格のある見事な存在感を示して、その後の警官隊による集会弾圧の混乱の中で、彼女が偶然モード・ワッツに掛けた短い言葉(正確に思い出せない)が、モードの心にストレートに染み込んでいくカットは素晴らしかった。
 プログラムの最終ページに、このメリル・ストリープとキャリー・マリガンを中央にした、この映画の女性制作者たちの見開きの大きな集合写真が載っていた。これはみずからを省みて言うのだが、女性のチームが中心となった映画だと言うと、男性の中に現代でも何となく敬遠してしまうような気分があるような気がする。女性の地位向上は現代でも依然として大きなテーマだが、それを無関心な男性の反撥なしに語っていくことは想像以上に難しいことに違いない。この映画はきわめて抑制の効いた語り口によって、その困難を軽やかに乗り越えていたように感じた。
(立川シネマシティ1、2月7日)
by krmtdir90 | 2017-02-09 14:14 | 本と映画 | Comments(0)

「ユージニア」(恩田陸)

e0320083_18321294.jpg
 せっかくだから恩田陸をもう少し読んでみようかなと考えたのが失敗だったかもしれない。この「ユージニア」は2005年上半期に、彼女が初めて直木賞の候補に名を連ねた作品である。ほとんど支持を得ることなく受賞には至らなかったが、仮にこれが受賞してここから恩田陸に入っていたら、わたしはこの作家を追いかけることはなかっただろうと思った。
 恩田陸の多彩な作品系列の中で、「夜のピクニック」や「蜜蜂と遠雷」はむしろ傍流?にある「普通の小説」ということのようで、彼女のファンなどにとってはこの「ユージニア」はいかにもマニアックな匂いのする、恩田陸ワールドを代表する一作になっているようだった。

 この作品は犯人捜しのミステリーの体裁を取っていながら、最後に謎が解かれてすべてが明らかになって終わるというふうにはなっていない。一応の真犯人は浮かび上がるようになっているが、動機や実行過程等はっきりしないところがけっこう残されたままだし、何より作者自身がそれらの断定を避けているようなのである。つまりそれは、恩田陸がそのような終わり方を選んでいるということである。
 熱心な読者は一度ならず繰り返し読み返して、そこから様々な解釈を導き出して楽しんでいるらしい(インターネットで検索すると、ブログなどのそういう記事にけっこうぶつかる)が、こっちはそんなに暇ではないのである。読者に謎解きへの参加を促し、それが可能となるようなもやもやした部分を残しておく書き方というのは、わたしにはどうもしっくり来なかった。

 事実というものは受け止める人によって見え方が違っていて、それは時とともにそれぞれの中で変容していき、本当はどうだったのかというところはどんどん見えなくなっていく。真実に後からたどり着くのは至難の業である。というようなことをやりたかったのかもしれないが、小説の中に真犯人は誰かという謎を設定してしまった以上、そこは作者として明快な答えを述べる義務があったのではないか。
 小説の中で謎を追っている人物は幾人か出てくるが、それぞれがどういう答えを出したのか、その根拠はどこにあったのかといったところは書いてくれなければ困るのである。少なくとも、どの時点でどういう答えを出そうとしていたのか、それが最終地点まで行けなかったのは何が問題だったのかというようなこと。事実が曖昧になってしまうのは謎解きの過程の問題であり、謎解きの筋道そのものは各人の中に存在していたはずだからである。それを書く責任を放棄されてしまっては、読後に残るのは割り切れない思いだけである。

 恩田陸の物語を組み立てる才能は素晴らしいものがあると思う。言葉を操ってそれを物語っていく力も並みのものではない。それは認めた上で、この「ユージニア」はそういう才能が生きていないと思った。あまり楽しめなかった。作者なりの意図はあったのだと思うが、それはやや不発に終わったということのように思われた。
 このあと、どうしようか。昨日書店に行ってみたら、恩田陸の直木賞コーナーはすごいことになっていた。文庫本だけで数十種類の作品が並んでいた。こんな受賞者はちょっといないのではなかろうか。よりどりみどりではあるけれど、どうも当たり外れがありそうな気がして、もうやめておいた方がいいような気もしているのである。
by krmtdir90 | 2017-02-08 18:33 | 本と映画 | Comments(0)


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
ブログジャンル