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主なテーマは鉄道旅、高校演劇、本と映画、それから海外旅行、その他少々、といったところ。退職後に始めたブログですが、年を取ったせいか、興味の対象は日々移っているようです。よろしく。
by natsu
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映画「娘よ」

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 いきなりネタバレになるのかもしれないが、ラストシーンがよく判らなかった。母親は死んでしまうのかどうなのか。明らかに一度は、死んでしまうことが暗示されるカットが重ねられたと思う。彼女の主観では周囲の音が消え視野もぼやけていき、客観的には彼女の手が娘の手を離れて下に落ちるところが捉えられていた。ところがこの直後に、冒頭にあった白い衣裳の彼女がボートに乗って水上を進んで行く数カットが挿入され、再び元のシーンに戻ると彼女は死んではおらず、目を開いて娘と手を取り合っているのである。これはどういう事実を表しているのか。
 普通に解釈すれば、彼女は一旦は死の瀬戸際まで行ったけれど、もう一度生の側に帰って来たということになるのだろうか。だとすれば、間に挟まった白い衣裳の彼女のイメージは、彼女が生と死の狭間で見た夢のようなものだったことになる。このイメージが彼女を生の側に連れ戻したことになると思うが、それにしてはこのイメージ自体が何を意味しているかが曖昧なのである。冒頭に置かれたイメージに限って意味付けるなら、これは無理やり結婚させられる前の純粋で無垢だった彼女の少女時代を象徴していると考えられなくもない。
 だが、いずれにしてもこのラストシーンの描き方はきわめて不分明で、そもそもこの映画がこんな中途半端なところで終わりを迎えていいのかという感想が残るのである。仮に彼女が生き延びるのだとしても、いや死んでいても同じことなのだが、彼女の娘がこの先どうなるのかがまだまったく判らないままではないのか。少なくとも彼らは追っ手の一人に出会ってしまったのであり、追う側が目的を達成するまでは決して諦めることはないとされていた以上、彼らの置かれた状況はまったく変わっていないし、むしろ危険は一層高まっているとも言えるように思うのである。

 以上は非常に重要な点だと思うが、一応それはそれとしてということで書いていくことにする。
 これはわが国で初めて公開されたパキスタン映画なのだという。アメリカ・ノルウェーとの合作になっているが、監督・脚本・製作を務めたアフィア・ナサニエル(女性である)を始めとして、主要スタッフとすべてのキャストがパキスタン人であり、もちろんすべてがパキスタン国内にオールロケして撮影されている。この初めて見るパキスタン西北部の山岳地帯の景観は素晴らしいもので、そこで営まれる人々の暮らしはこれが現代なのかと驚くようなものである。しかし、こんな僻地であっても車はあり携帯電話も普通に使われていて、終盤で映し出される都市部ラホールの夜景は、確かにこれが現代を捉えた物語であることを示している。
 パキスタンはイスラム教国なので、もともと男性中心社会という傾向はあったのだろうが、この映画の舞台となる山岳地帯の様々な部族社会では、古くからの掟や習俗が生き続け、信じ難いような男尊女卑の結婚などがいまも行われているということなのである。血で血を洗う部族間抗争の解決手段として政略的な結婚が取り決められ、部族長の娘である10歳のザイナブ(サーレハ・アーレフ)が相手の部族長に差し出されることになる。母のアッララキ(サミア・ムムターズ)も15歳で結婚させられた過去があり、彼女は同じ運命をたどることになる娘を救うために、命の危険を冒して部族からの逃走を図るというのが映画の骨子になっている。これは両部族にとっては許すことのできない掟破り、部族の名誉を毀損する侮辱行為であり、すぐに銃を持った追っ手が彼女たちを追跡することになる。これは彼女たちを見つけて殺すまで終わることのない追跡なのである。

 最初、身近な集落の中でさえ、入り組んだ道がどうなっているかアッララキは理解していないように見えた。女性は男の財産とされ、外を自由に出歩くこともままならなかったのだろうと想像される。村からの脱出さえ容易ではないように思われて、彼女の行動がいかに無謀で切迫したものであったかが理解される。いろいろな幸運が重ならなければ、この逃亡はとても成功しないだろうと感じられた。映画がそうした幸運を用意するのは、映画なのだから当然だし許せることだと思う。
 途中で、なりゆきから母娘を助けるトラックドライバーの男(モヒブ・ミルザー)が登場するが、これが最大の幸運と言える。最初は関わりになるのを避けていたが、結局自分も追われる身になってしまったことを理解した後では、男は自然に覚悟を決めて2人に手を貸すことになっていく。後半になると、この男とアッララキの間に恋の気配が漂うようになるが、もちろんこれも道ならぬ命懸けの恋ということになる。だが、映画の展開としては当然その方向のハッピーエンドが期待されていたと思う。
 映画が描いているのはパキスタン社会に残る過酷な現実だが、映画の作りはあくまで逃避行のサスペンスと報われぬロマンスを前面に出した娯楽作品なのだと思う。途中立ち寄った休憩所のようなところで男と会話する友人の男は、後から来た追っ手に簡単に射殺されてしまうし、この逃避行は文字通り命懸けの行動であることが各所に示されていたと思う(だからこそ、最初に書いたエンディングの中途半端が気になるということなのである)。

 男が運転するトラックが、菅原文太のトラック野郎を彷彿とさせるような満艦飾だったのが面白かった。重心が高く左右に揺れる派手なトラックが、追っ手の乗ったバンやジープと演じる追跡劇は非常にスリリングなものだった。広大な山岳地帯を貫く道路は砂塵の舞い上がる簡易舗装の狭隘なもので、片側が切り立つ崖で一方は(ガードレールもない)谷底というような恐ろしい場所もあって、そんなところでもあまりスピードを落とさず走って行くのは、高所恐怖症のわたしとしてはまったくドキドキさせられた。
 見どころの非常にたくさんある映画だったが、それを細かに挙げていくのはやめておく。この監督はこの映画が長編第一作だったようだが、カットの重ね方などに若干ぎこちないところや説明不足のところは感じられたものの、きわめてスケールの大きいドラマをしっかり描いていたと思う。全編を貫く緊迫感と、力のある映像の連続は非常に良かった。
(岩波ホール、3月28日)
by krmtdir90 | 2017-03-30 10:12 | 本と映画 | Comments(0)

タイプスプロデュース「ロミオとジュリエット」(2017.3.29)

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 両国というのは意外に近い。中央線でお茶の水まで行き、総武線に乗り換えて3つ目の駅になる。お茶の水ではホームの反対側に乗り換えるだけだから、わが最寄り駅からほとんど一本の感覚で行けてしまう。昼間の特別快速を使えば1時間足らずで着いてしまうのである。

 「くっぱ」こと高橋ちぐさから連絡が来て、前回と同じ両国の小屋(スタジオアプローズ)でまた芝居に出ると言う。チケットの予約をしたら、「ご覧になって怒らないで下さいね」というメールが来た。わたしは芝居を観て怒ったりは(たぶん)しないが、面白いと思うかどうかは別のことで、そこのところは(たぶん)率直に言ってしまうだろう。そのあたりのことを彼女は判っているのだと思った。
 でも、わたしが何を言おうと、前回ここの公演に出てみて、もうしばらくやってみようと思ったのだからそれでいいのではないか。ここはレジナルド・ローズだけでなく、シェイクスピアにもいろいろと取り組んでいるようだ。

 シェイクスピアは著作権とは無関係の存在だから、誰がどんなふうに翻案しようとまったく自由なのだが、こういう誰でも知っている作品を取り上げようとするのであれば、それなりの作戦と覚悟だけは必要だろうと思う。どういう切り口でどう料理しようとするのか、原作通りでなく大幅な書き換えをしようと思うのなら、最初によほどしっかりした考えを持たなければ、結局何がやりたかったのかよく判らない結果になってしまうような気がする。
 今回の舞台はまさにその典型のような舞台であって、歌やダンスを入れたりして一生懸命やっているのは判るのだが、それが何か新しいものを生み出しているとはとても言えないように感じた。これではシェイクスピアを取り上げる意味がないのではないか。

 会場には同じOGの「うろん」も来ていて、秋葉原まで一緒に話しながら帰ったのだが、劇中使用された音楽の選曲が良くなかったとか、衣裳やメイクに統一感がなかったとか、パネルを動かしての転換もうまくいっていなかったとか、要するにどこから見ても、この芝居づくりのバラバラでセンスがない印象は拭えなかったという点で、二人の感想は一致した。
 他のキャストのことは判らないが、「くっぱ」がいろんな点で良かったということも一致していた。彼女がやったのはロミオの友人ベンヴォーリオで、はっきりした男役だから彼女自身も開き直ってやれたのではないか。高校時代の彼女はもちろん女役しかやっていなかったが、案外男性的な要素を持った女役だったのかもしれないなと思った。
 あと、ダンスやアクションになると、ちゃんとやれる人とそうでない人がはっきり分かれてしまう感じがした。ここでも「くっぱ」はさすがだったなと二人の見方は一致した。フィナーレの歌とダンスを見ていると、主役の2人は別にして、生き生きやれている人とそうでない人がよく判ったような気がした。

 たぶん、集団の中で楽しくやれるかどうかが最も大切なことなのであり、その点では安心して見ていることができたと思う。次も行けるかどうかは判らないが、あまり立て続けだと悪いのじゃないかなどと遠慮しないで、案内だけはちゃんと送ってください。
by krmtdir90 | 2017-03-29 21:47 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

映画「逆行」

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 原題が「RIVER」、邦題が「逆行」、お互い何の関連もない題名だが、この邦題はいい。ずっと何が「逆行」なのか判らないまま、最後の最後に来て一気にその意味が明らかになる。最近は営業サイドに自信がないのか、やたら長い副題を付けたりするのが流行っているが、題名というのはこういう端的なものの方がインパクトがあっていいと思う。
 もちろん、映画そのものの善し悪しが最も問題なわけだが、この映画の端的な描き方もすごくいいと思った。余計なものを削ぎ落とした、ノンストップの88分を十二分に堪能した。以下、かなりネタバレになります。

 全編をラオスとタイで撮影したカナダ映画(ラオスと合作)である。監督はジェイミー・M・ダグというカナダの新鋭で、これが長編映画デビュー作だったらしい。
 ラオス北部でNGOの医療ボランティアに従事するアメリカ人医師ジョン・レイク(ロッシフ・サザーランド)が、休暇で訪れたラオス南部のコーン島(ラオスは内陸国だから、これはメコン川に浮かぶ島の一つらしい)というところで、偶然の成り行きから外国人観光客の青年を殴り殺してしまうというのが発端である。映画は、自分の犯した罪の重さにおののきながらも、怖くなって思わず逃げてしまった彼の逃避行に伴走していくことになる。多くのシーンを手持ちカメラで撮影したようで、ドキュメンタリータッチのシネスコ画面がかもし出す臨場感はなかなかのものだった。

 彼は無実の罪で追われるのではない。れっきとした殺人者である。だが、その経緯は彼を一方的に非難できないように描かれている。島の鄙びたバーで飲んでいた彼は、白人観光客の青年2人が地元の娘の2人連れに声を掛け、酒をしこたま飲ませてから連れ出すところを目撃する。彼は、一度はもうやめておけよと注意したりするのだが、それ以上関わることはできず、初老のバーテンダーと意気投合してウイスキーを深酒し酩酊状態で宿に帰るのである。
 映画はこのバーから宿までの経緯を一旦飛ばしたかたちで、部屋に戻った彼を映し出す。この描き方は巧い。明かりに照らされ鏡に映った自分の血まみれの姿を見て、一気に現実に引き戻される彼の恐怖感が伝わってくる。彼は帰り道で、さっきの観光客の一人が娘を暴行した直後の現場に通りかかってしまったのである。何をしたんだと詰め寄る彼に相手が殴りかかり、カッとなった彼が殴り返す中で殺人が起こってしまったのだ。
 正気を失っていた事実を思い出した彼は、慌ただしく身支度を調え、すでに夜の明けてしまった島からそ知らぬ顔で立ち去ろうとする。だが、帰って来ない青年の捜索願で動き始めた現地の警察官に呼び止められてしまう。ほどなく死体も発見され‥‥。

 この後の展開は詳しくは書かないが、取り乱して一度逃げ腰になってしまった彼には、もう逃げる以外の選択肢がなくなっているように見える。言葉も分からず文化も習慣も異なる異境の地で、たった一人とんでもない事態に直面したことが、彼の不安を極限まで高めることになったのだろう。この映画のここから後の描き方は、彼のひりひりした恐怖と孤立感を浮かび上がらせて見事と言うほかない。
 事態はどんどん悪い方に転がっていく。彼が殺した青年はオーストラリアの議員の息子であることが判明し、彼は容疑者として国際指名手配されてしまったことが明らかになる。逃亡の途中で見かけるテレビが、彼の顔写真付きでこのことを繰り返し伝えている。彼をそれと気付いて追いすがる警官を、必死の思いで振り切ったりしなければならなくなる。果たして彼は逃げ切れるのか‥‥。
 アメリカ人を始め西欧の人間にとって、東南アジアというのは最後には理解不能の恐ろしい異境に変貌してしまうのだろうか。誰も、何も信じることができないというような、言葉にし難い生理的な恐怖が彼を突き動かしていたように思われる。

 彼の逃亡は、タイに密入国する前後の幾つかの幸運?によって達成されそうになる。メコン川を越えたところでタイの国境警備隊に逮捕されるのだが、タイ政府がラオスへの身柄引き渡しではなく国外退去処分を決めたことにより、晴れて彼は車で空港に移送されることになるのである。
 そして、その車中で偶然手にすることになる新聞記事で急転直下、彼はギリギリの選択を迫られることになってしまう。殺人を犯した事実から逃げ切れることが明らかになった時、彼の中では決して逃げ切ることのできない罪の意識が疼き始めていたのかもしれない。それでも、ようやく恐怖を脱して生き延びられると約束された状態では、多くの人がその罪の意識を押さえ込む方向に動くのではなかろうか。交差点で信号待ちする車の中の彼の葛藤を、赤信号の映像のジリジリする待ち時間で表現したのは見事である。信号が緑に変わった瞬間に彼は行動を起こすのだが、それはわたしも含めて誰もが取れるとはとても言えない行動だと思った。

 ラストシーンは、ラオスに向かう列車の発車を待つバンコク駅構内のショットである。もちろんこれは手持ちカメラではなく、きちんと据え置かれたカメラがフレームを切り取っている。こんな衝撃的で重い問いを残すエンディングとして、この静止した映像は非常に印象的だった。映画としては実に単純でストレートな逃亡サスペンスだったと思うが、主人公の感情を終始的確に描いていたことが、「逆行」の意味が明かされるこの最後の「どんでん返し」に、鮮やかなリアリティを与えたのだと思った。
 わたしとしては、非常に掘り出し物の一本だったと思う。
(渋谷ユーロスペース、3月24日)
by krmtdir90 | 2017-03-27 10:53 | 本と映画 | Comments(0)

新座柳瀬・関東キャスト最終公演「Love & Chance!」

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 昨日(3月25日)は新座柳瀬・関東キャスト最終公演「Love & Chance!」を観に、妻を誘ってコピスみよしに行って来た。こういう機会でないとなかなか誘えないので、本来なら実行委員会側にいなければいけないのだが、この日だけはほぼ一観客として参加させてもらうことにした。
 客席は満席というわけにはいかなかったが、他校の生徒があまり来ていなかったにしてはなかなかの入りで一安心した。他校の生徒はだいたいどこかの機会にすでにこの舞台を観ているので、改めて足を向けるのが難しかったのかもしれない。高校生世代の観客が少なめだったからか、客席のノリという意味ではもう一つという感じだったが、柳瀬の諸君は相変わらず丁寧に伸び伸びと演じていて気持ちが良かった。
 ホールの外回りを、コピス仲間の農大三高と筑坂OBが支えているのも素晴らしいと思った。柳瀬顧問の棟居先生がプログラムに書いていたが、コピスの演劇フェスティバルが長年作り上げてきたものが、本当に大きな力になっているということが嬉しかった。

 わたしはこの舞台を何度も観ているけれど、そのたびにいろいろな発見があって、脚本がいいから生徒の力が発揮される好例の舞台だと思っている。
 特に、最初の頃はまだぎこちなかった1年生が、回を重ねるごとに成長し存在感を増しているのが素晴らしかった。特に目についたのがマリオで、役としてはあまり目につきすぎてもまずい役だが、そんな中でなかなかいい雰囲気を出せるようになったなと思った。脇役がしっかりしてくると芝居全体にふくらみが出る。ルイーズとノエラの召使い2人も、ずいぶん表情豊かになったなと感心したが、この2人は全国では抜けた3年生の役を引き継がなければならないから、これからが大変だと思うが自信を持ってがんばってほしいと思う。
 2年生のドラント、アルルキャン、オルゴンの3人はすっかり役が板についた感じで、全国で抜擢される新シルヴィアと新リゼットを上手にリードしてあげてほしいと思った。マリオも含めて一つの役をずっと、一年近くも演じ続けるのは高校生にとってはかなり難しいことだが、マンネリによるパターン化に陥らないよう気をつけて、さらに進化していってほしいと思っている。今後のために少しだけ厳しいことを書いておくが、今回はアルルキャンを始め3人ともに、慣れから来ると思われる受け渡し(特に受け)の粗雑さが若干見られたように思う。客席の反応が小さめだったこともあるのかもしれないが、やや走ってしまったように感じられた部分があったと思う。いつも新鮮な気分を維持することがこれからの課題になるだろうが、ぜひがんばってほしいと思っている。
 3年生のシルヴィアとリゼットは、この芝居にしっかりとした芯を通し、集大成の舞台を見事にやり遂げたと思う。お疲れさまでした。最後の挨拶でリゼットが、役を受け継ぐ1年生に「マネをしないで自分たちのやり方で」と優しく声を掛けていたのが印象的だった。その通りだと認めた上で、1年生の2人には、3年生があれだけのものを作ってしまったのだから「最初はマネすることから出発してもいいのだよ」と、野次馬としては敢えて言っておきたい気もしたのである。
 いずれにせよ、これからまた新たなスタートを切る「Love & Chance!」を、卒業する2人とともに応援団の一人として見守っていきたいと思っている。
by krmtdir90 | 2017-03-26 13:44 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

「『復興』が奪う地域の未来」(山下祐介)

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 書店でこの本を見つけた時、これは読まなければいけない本だと思ったが、値段を見たら税別2600円となっていて、それはいくら何でも高すぎるだろうと躊躇してしまった。わたしは図書館で借りて読むという習慣はないから、結局数日後には買って来て読むことになったのだが、「復興」の現状と問題点を整理するという意味では非常に有意義な読書になったと思う。

 これまで山下祐介氏の本は新書で2冊読んだことがあるだけである(「地方消滅の罠」「地方創生の正体」)。本書はそれらとは違って書き下ろしの部分は僅かで、主に2011年から14年という時期に発表された論考をまとめることで、「復興」が地域の未来を奪っているという実態を明らかにしようとしたものである。「東日本大震災・原発事故の検証と提言」という副題がつけられているが、山下氏が非常に早い段階から今回の「復興」の問題点を指摘し、改善への具体的な提言を行ってきたことが明らかにされている。
 しかし、読み進むにつれて、その提言がそれぞれの時点できちんと受け止められることはなく、事態はことごとく悪い方向に進んできてしまったことが判ってくる。率直に言って、丸6年が経過した現在の状況は、提起された問題点を考え直すには最早遅すぎるという印象があるのをどうすることもできなかった。本書の出版に向けて書き下ろされた部分で、山下氏は痛恨の思いとともに「東日本大震災の復興は失敗である」と断じている。
 そんなことがあるのかという思いはあるが、ここに検証されている様々な事態をたどっていくと、残念だがこの結論になるのは仕方がないと感じてしまった。

 それにしても、いまもまだ各地に散らばっている被災者や避難者はどうすればいいのだろう。山下氏は早くから、彼らが追い込まれている事態の不当性を描き出していた。
 原発事故による避難指示が帰還困難区域を除いてすべて解除される3月31日が近づいているが、マスコミを始め事故と関係のない国民の関心はきわめて低いのが現状である。年間被曝線量20ミリシーベルトという、緊急時に設定された基準をいまだに元に戻すことなく(ICRP国際放射線防護委員会の基準は年間1ミリシーベルト以下であり、世界の国々や事故前の日本もそれを当然の基準としていたにもかかわらず)、また事故を起こした原発の現況がまったく「アンダーコントロール」とは言えないにもかかわらず、それに不安を感じる住民を一方的に切り捨てようとするのが、3月31日に行われることの意味なのである。こうした、当事者である避難住民の思いをまったく考慮することのない「早期帰還」政策が、とうとう現実のものになろうとしている。
 ここで山下氏は、「帰りたくても帰れない」(氏はこういうふうに単純化しているわけではない。帰る帰らないに関する住民意識を丁寧に6つのパターンに分けて考えているのだが、ここではとりあえずこういう書き方をするのを了承願いたい)住民が追い込まれている事態を解き明かし、「早期帰還」がもたらす地域社会の破壊について警鐘を鳴らしている。

 比較的早期に避難指示が解除されたところでも、住民の帰還はまったく進んでいないのはなぜなのか。住民の帰れない思い、帰らない思いの実相を見ようとしないまま進められる帰還政策の欺瞞を、山下氏は鋭く追及している。だが、現実はどんどん既成事実が積み上げられていて、地域のコミュニティはもうどうにも回復不能のところまで来てしまっているのである。
 避難指示によって避難した人々は強制避難者とされてきたが、指示が解除された時点でこの強制はなくなり、それでも帰らない人々は自主避難者と同列ということになってしまう。これまで区別されていた両者には違いがなくなり、その避難者全体に対する支援の継続が今後の重要な課題となってくるはずである。ところが現実に行われようとしているのは、指示解除に伴う避難者への支援打ち切りであり、このことが避難者を分断し地域社会を破壊することにつながっている。
 いますぐ帰れる場所ではない、だからもうしばらく様子を見て、納得できる時が来たら帰ることを考えたいというのが大半の避難者の思いであるはずだと山下氏は言う。住民票を元の町に残したまま避難を続けてきた人々の思いに応えるために、二重住民票というようなものも考慮されるべきではないかと提案している。しかし、現実はそこに寄り添うことなく、避難者を「それでも帰らない(帰れない)人々」と「仕方なく帰るしかない人々」に引き裂こうとしている。山下氏はより直裁に「この早期帰還政策は、『被曝や孤立を覚悟で帰還するか』、『賠償や補償を失いながらも自力で移住を決意するか』の二者択一を被災者に強いるものとなっている」と述べている。

 本書において山下氏は、福島第一原発事故と復興の問題を実に多様な観点から論じている。事故がもたらしたものと避難の実態、中央と地方の問題、地方自治の果たすべき役割と限界、被災者の生活再建に向けた賠償や補償のあり方、地域社会の再生のために何が必要なのか、等々。いずれも復興政策の策定には避けて通ることのできない問題ばかりである。しかし、こうしたことがことごとくスルーされてしまう政策決定過程の無責任体制が残り続ける限り、山下氏のような提言は無視され続け、住民不在の恐ろしい「復興」だけが着々と進行していくのである。
 出口不在のまま宙ぶらりんになっていた放射性廃棄物の貯蔵施設(処理施設)を、(ちょうど好都合な場所ができたから)第一原発に近い帰還困難区域に作ればいいではないかとか、住民が帰還しないのだから該当自治体は合併統合するしかないではないかといった、恐るべき施策までもが昨今では俎上に上るようになっているらしい。帰還しなさいと言っておきながら、とても帰還できないような状況を作り出すことが平気で話題にされているのである。

 本書では津波による被災地の「復興」についても触れている。
 山下氏はすでに2012年1月の論考の中で、「今まさに復興ファシズムとも言える動きが脈動しつつある。がれき撤去が終わり、復興まちづくりに向けた、大規模土木事業が始まっている」と述べ、それが「ハードのメニューはあっても、産業復興やソフト面を含めた生活再建は進んでおらず、地元資本をサポートし、自立した経済・社会を再生し、人々の生活をもう一度、被災したふるさとで再開するための十分な見通しは立てられていない」とした上で、「下手をすると、地域社会がつづくのは復興予算がつづいている限りで、それがあらかた中央に回収されてしまえば、後に残るのは、巨大な防災施設だけだったということにもなりかねない」と警鐘を鳴らしている。
 その後、現実は氏が恐れた通りになっていて、膨大な予算をつぎ込んだ巨大防潮堤の建設や高台移転を含む土地かさ上げといった大規模公共事業が進行するばかりで、「復興」への住民参加のパイプはあちこちで詰まったまま、時間ばかりが経過する状況になっている。6年が過ぎて、巨大防潮堤は完成したものの、海との関係を絶たれてしまった内側の地域に、居住する人がいなくなってしまうという笑えない現実が報告されたりしている。
 防潮堤を始めとした防災事業が環境や生活の場を破壊し、生活再建・産業再建を阻害する可能性があると、山下氏は何度も警告を発してきたことが本書には示されている。だが、一旦動き始めてしまった事業はどんな矛盾が指摘されようと、この国では止まることはないのである。

 どうしてそんなことになってしまったのか。本書は、復興初期のこの「ボタンのかけ違い」がどうして起こったのかを明らかにしている。当初、東日本大震災復興構想会議が描いた「『減災』を基調とした地域づくり」という方向性が、続いて出された中央防災会議の「防災を前提とした地域づくり」という従来型の方向性に吸収されてしまったことが大きかったように見える。そのため、津波対策としての防潮堤建設などが「復興」の前提とされ、いつのまにか「減災」という考え方やコミュニティの維持といった重要な観点は忘れ去られることになってしまった。
 こうした動きは震災後の混乱の中で、住民参加や合意形成の手続きなどがきちんと行われることなく、すべて中央主導でスタートしてしまったために、後でいろいろな問題が指摘されても対応できない状況が作り出されてしまったようだ。こうして、問題の性質は異なるものの、津波被災地と原発事故被災地の住民にはまったく瓜二つの状況が生まれてしまった。つまり、住民はできることならふるさとに帰りたいのに、ふるさとはこのままではとても帰れない状況に「復興」してしまったということである。

 結局のところ、わたしを含めた大多数の国民は現地に住んでいるわけではない。マスコミを通じて伝えられる「復興」の状況について、きわめて少ない情報を受け身的に知ることしかできない。多くの情報は、(外面的に)「復興」が進んでいるように見えることはいいことだという前提で伝えられるから、その内実がどんな矛盾をはらんだものなのかは伝わらないのである。
 本来なら当事者である被災者が声を上げなければならないと、完全な傍観者の位置から言うことはできるけれども、被災者には遠慮もあり、長引く「復興」に諦めも生まれているということは考えておかなければならない。何よりも、震災の起こったあの日の衝撃に立ち返るなら、震災からの「復興」がどのようなかたちで行われているのかは、すべての国民がしっかり見届けていかなければならない宿題なのではなかろうか。そのことを思い出させる本だったと思う。
 山下祐介氏には、新書などもう少し手軽なかたちでの、この問題に関する最新のレポートが書かれることを期待しておきたい。
by krmtdir90 | 2017-03-23 14:16 | 本と映画 | Comments(0)

映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」

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 監督のケン・ローチは1936年生まれだという。数年前に一度引退宣言をしたらしいが、それを撤回して80歳でこの映画を撮ったようだ。映画監督としてのキャリアは50年に及び、その「集大成にして最高傑作」とチラシなどの惹句に書いてあった。
 確かに80歳というのは映画監督として驚異的な年齢だし、これが最後の作品かもしれないという決意はあったかもしれない。しかし、この映画は年齢から来る弛緩をまったく感じさせないものになっていた。いまどうしてもこの映画を作らなければならないのだという、監督の切迫した熱い思いがストレートに伝わってくる映画だった。
 この映画には、信じられないくらい激しい怒りが込められていると思うが、安易に声高になったり過剰な演出に流れたりすることなく、どこまでも堅実な映像を重ねることによって、主人公たちを温かい視線で見詰めている監督の立ち位置が感じられて素晴らしいと思った。

 実は、わたしはこの監督の長編映画デビュー作を観ている。制作は1967年、彼が30歳の時の作品である。日本公開は68年の11月で、タイトルは「夜空に星のあるように」(原題「Poor Cow」)と言った。この時の監督名はケネス・ローチとなっていたが、今回調べてみるとケネスはケンの本名で2人は同一人物だということが判った。
 ストーリーなどはほとんど忘れてしまったが、タイトルと監督名を鮮明に覚えていたのは、当時わたしがこの映画に非常に惹きつけられたからである。ストーリーを覚えていないのに、この映画が素晴らしかったことだけははっきり記憶に残っている。奇妙なことだが、そんなことが確かにあるのだ。イギリスの下層社会で生きる貧しい若者の姿をリアルに捉えていて、その描き方ににじみ出る温かい姿勢に大きな共感を感じたのだったと思う。
 1950~60年代のイギリスには、映画や演劇の世界に「怒れる若者たち(ジャーマン・ニューウェイヴ)」というムーブメントがあり、わたしのイギリス映画に対するイメージはその頃の(トニー・リチャードソンやカレル・ライスといった監督の)映画によって形成されている。ケネス・ローチは「怒れる若者たち」よりかなり後の世代だったが、労働者階級の若者たちにスポットを当て、ドキュメンタリーのようなリアルなタッチでそれを描いてみせる点で、明らかにその系譜に連なる若い監督の出現と感じられていたと思う。

 さっき、わたしの部屋から50年前のこの映画のプログラムを探し出してきた。
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 このプログラムでストーリーを読んだからといって映画を思い出したことにはならないが、「夜空に星のあるように」のヒロインだったジョイ(キャロル・ホワイト)は「わたしは、ダニエル・ブレイク」に出てくるケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)に、明らかにつながっているような気がした。
 「夜空に」のジョイは18歳で男の子を産むのだが、父親のトムは身勝手な怠け者のやくざで、仲間と繰り返していた泥棒が失敗して刑務所に入れられてしまう。ジョイは今度は逃げた仲間のデイブ(テレンス・スタンプ)という男と一緒になるが、彼もまた別の強盗に失敗して刑務所行きとなってしまう。貧しい下層階級に生まれ育った少女が、いつの日かささやかな幸福に巡り会うことを願って、幼いわが子を唯一の支えとして、厳しい現実に次々に裏切られながらも気丈に生き抜いていく姿を描いた映画だった。
 原題の「Poor Cow」は「貧乏な女・哀れな女」といった意味で、この「女(Cow)」には「だらしない」とか「太って子だくさんの」といったニュアンスがあるようだ。もちろんこれがジョイを指しているのは明らかだが(ただし、ジョイは太ってもいないし子だくさんでもない)、この監督の描き方が悲惨さを強調したりヒロインを突き放したりせず、彼女にどこまでも寄り添おうとしていることが感じられて共感したのだったと思う。ケン・ローチはケネス・ローチとして出発した最初の時から、一貫して弱者の側に立つ映画を撮り続けてきた監督なのである。

 「ダニエル・ブレイク」のケイティは2人の子どもを連れたシングルマザーだが、彼女の過去がこの映画の中で語られることはない。だが、子どもたちの父親が異なっていることは想像されるし(長女は肌が黒いが、下の男の子は白人である)、長女を産んだのは17歳の時だったということがどこかで触れられていたと思う。「夜空に」の「Poor Cow」は、このケイティを指す言葉であっても少しもおかしくはない。
 80歳のケン・ローチと59歳のダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は、ともに全力で彼女に寄り添おうとしている。わたしはこの監督の最初と最後?の映画しか観ていないのだが、彼がまったくブレることなく社会的弱者の側に立ち続け、彼らの願いと矜恃を描き続けてきたということは判るような気がしている。近年ますます顕著になっている格差社会において、貧困の側に落ちてしまった者がどれほど過酷な日々を受け止めなければならないのか。ケン・ローチの中にある問題意識は時を経てますます研ぎ澄まされるばかりである。
 この映画は、失業したダニエル・ブレイクの怒りと矜恃を描いた映画だが、プロデューサーのレベッカ・オブライエンがインタビューの中で「ダニエルの話だけでは少し物足りない」と感じ「人間同士が助け合う姿が求められる」と思ったと述べ、さらに「ケイティの物語は、ダニエルがまさに今立ち向かっているものを際立たせるという意味で、とても有効だった」と述べているのを見ると、ケン・ローチの中でこの映画を撮りながら、50年前にみずからが撮った映画の物語が甦っていたのではないかと感じられるのである。

 「夜空に星のあるように」の中で、ジョイの物語が具体的にどんなエピソードで描かれていたかは思い出せないのだが、「ダニエル・ブレイク」の中で、追い詰められていくケイティのエピソードはどれも切羽詰まっていて容赦がない。スーパーマーケットでの万引きの顛末は切ないが、その前後のフードバンク(慈善団体による食糧配給施設)での出来事と身体を売る怪しげな店でのエピソードは、それを目撃するダニエルにも彼女をどうすることもできないという点で、この上なく残酷で悲しいものである。
 ダニエルが心臓に問題があるという設定で登場した時点から、このストーリーの終わり方はある程度予想がついたと言ってもいいが、ここでケイティの見せる取り乱した様子と、我を忘れた悲痛な叫び声が心に強く残る。
 続く午前9時からの「貧者の葬式(普通こんな早い時間に葬式をする者はいない。だから料金が安いのでこう呼ばれるらしい)」のシーンで、ダニエルのポケットにあったという紙片の言葉をケイティが読み上げる。それはダニエルの遺書のようでもあり、また恐らくこれが最後の映画となるであろうケン・ローチの最後の言葉のようにも感じられた。普通、こうした言葉で作品のテーマ(メッセージ)を語ってしまうことはマイナスにしかならないものだが、この映画のここまでの誠実な語り口がこのラストシーンを見事に成立させてしまったように思えた。普通ならわたしはこんなやり方は大嫌いなのだが、この映画に限ってはその言葉が真っ直ぐこちらに届いてくるように思われた。
 ありふれた言い方で恐縮だが、人間の尊厳と優しさを真正面から描いた傑作だったと思う。
(立川シネマシティ1、3月21日)
by krmtdir90 | 2017-03-22 16:40 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ボヤージュ・オブ・タイム」

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 これもまた異色の映画である。一応ドキュメンタリーとされているようだが、そんな枠にはとても入りきれない映画だと思う。監督のテレンス・マリックという名前は何となく記憶にあって、出世作となった「天国の日々」(1978年、日本公開は1983年)は観ているはずなのだが、記憶からはまったく消えてしまっている。現在73歳になっているようだが、きわめて寡作のまま40年来温めて来た企画がこの映画だったらしい。
 「ボヤージュ・オブ・タイム」という邦題は原題(Voyage of Time)をそのままカタカナにしただけのもので、とりあえず訳せば「時の旅」とでもなるのだろうか。だが、この映画で「Time」という単語が内包するのは、宇宙の誕生から始まって地球上に生命がが生まれその進化の末に人類の文明にまで至るという、いまわれわれが考え得る最も長い時の流れなのである。「Travel」や「Trip」でなく「Voyage」が使われているというのは、この映画が文字通りその壮大な時の流れをたどってみせる(航海する)ことを表している。

 テレンス・マリックは40年以上も前にこの映画のインスピレーションを得て以降、いつか作られるこの映画のために、世界中の様々な場所で3000時間分にも及ぶ映像を撮り溜めていたのだという。ようやく機が熟したと考えたマリックは、これらの映像を生かしつつ、さらにそこに最新のVFX(視覚効果)技術などを組み合わせることで、映画監督としてのみずからの集大成となるような映像の「旅」を完成させたということらしい。
 だが、率直に言うと、わたしはこの映画にそれほどの衝撃を受けたわけではない。技術的に作り出された映像の方がもう一つ説得力に欠けていたように思ったのである。確かに、実際に世界のどこかで撮影され「時の流れ」の各所に活用された映像は、どれも驚異的で目を見張るような美しさを持っていたと思う。前もって内容が判っていれば、もっとずっとスクリーンに近い席を確保したかったと思った。先日観た「人類遺産」は映像と一定の距離を保ちながら対峙したい映画だったが、こちらの映画は映像を全身に浴びたいような誘惑に駆られたからである。どちらも非常に美しい映像が続く映画だったと思うが、それぞれの映像の質の違いのようなものが感じられて興味深かった。

 どちらが面白かったかと言えば、わたしは「人類遺産」の方を選ぶ。「ボヤージュ・オブ・タイム」は残念ながら、マリック監督の意図がストレートに響いてくるようにはならなかったのである。
 その理由の一つは、時々挟まる思わせぶりなナレーションがあまり共感できなかったことにある。この映画には、宇宙創生から人類誕生への壮大な営みを司ったかもしれない大きな「神の意志」に呼び掛けるような、「母よ」という長編詩のごときものが女性の声でかぶせられている。これがもう一つ判りにくく、効果的でないと感じられてしまったのである。
 もう一つは、「時の流れ」を跡付ける素晴らしい映像の数々を時々中断して挿入される、現在の世界の人間の営みを示すと思われる断片的な映像がよく判らなかったことがある。本編はビスタサイズのきわめて鮮明な映像で映し出されているのに対し、こちらはスタンダードサイズの粒子の荒れた見にくい映像であって、概ね世界の貧困とか混乱した状況とかを映していたと思うが、いずれも映像的にはきわめて不鮮明で、表現された意味を読み取るには断片的過ぎたように感じられた。結局わたしには、これがどういう意図があったのかは理解できなかったのである。

 いまや世界には様々な意味で驚異的な映像が溢れており、それら映像の洪水とも言える状況の中で、監督が心血を注いだのかもしれないこの映画の映像の衝撃力は、若干弱まってしまったようにも思われた。おかしな言い方だが、たとえば20年、30年前だったら、この映画から受ける印象はかなり違ったものになっていたかもしれないと思った。
(立川シネマシティ1、3月17日)
by krmtdir90 | 2017-03-19 10:54 | 本と映画 | Comments(0)

映画「マリアンヌ」

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 若い頃は「ぴあ」を片手に、話題の映画を手当たり次第に観ていた気がする。当時から自主製作やマイナーな映画はあったが、映画製作の道はいまほど多様なものではなかったから、観るべき映画を探すのはそれほど難しいことではなかったと思う。製作と上映がデジタルに切り替わったことが大きかったと思うが、いまは実に多様な映画が作られ、公開システムも昔とはすっかり様変わりしてしまったので、久し振りに帰って来た映画ファンとしては戸惑うばかりなのである。
 昔は(ちゃんと)働いていたわけだから、時間を作って都内に出ることがあると、必ず映画館を「はしご」して日に2本観て帰るのが普通だった。いまはとてもそんなことはできないし、観られる映画の数もそんなに増やせるとは思えないから、出掛けて行ってその日に観る1本の映画を決めるのは、昔よりずっと大切なことになったような気がしている。
 基本的に活字によって生かされてきた人間だから、情報収集の手段がほとんどインターネット経由になってしまったことは少々辛い。確かに情報量は増えて便利になった面もあるのかもしれないが、観たい映画が決まっていない状態で観るべき映画を探す(発掘する)という面では、ひどくやりにくい事態になってしまったように思う。「ぴあ」の細かい活字を流し読みしながら、これはいいかもしれないとピンと来て立ち止まったりしていたことが懐かしい。
 どんな映画を選ぶかというところには、その時の自分の好みや興味の所在がはっきり表れる。本選びももちろんそうだが、映画選びでは本とはまた違った自分というものが見えてくるような気がする。また映画を観始めたこの一年あまり、わたしが選んできた映画を振り返ってみると、わたしはあまり進歩していないなと思う反面、そのことが少し嬉しいような気もしているのである。

 今回は前置きが長くなってしまったが、マイナーな映画や異色の映画を選んだ後では、バランスを取って、これこそ映画という雰囲気の安定感のあるものを観たい気分になると思う。「マリアンヌ」はまさにそういう感じの映画であって、その予定調和的なところが嫌でここまで足が向かなかったのだが、「人類遺産」の次にはやはりこういうドラマ性の高い映画がいいかなと思ったのである。最初にパラマウントのマークが出ただけで安心できるような気がした。
 これは余談になるのだが、パラマウントのマークが出るとつい星の数を数えてしまう。数え終わる前にいつもマークは消えてしまうのだが、昔どこかで22個あるというのを調べて、それからは確認したいと思うのだが確認できたことは一度もない(因みに、もっと昔は24個あったらしいが)。

 さて、監督のロバート・ゼメキスはあの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズを監督した人である。いまはすっかり巨匠の仲間入りを果たしたようだが、調べてみたら「マリアンヌ」は64歳で撮った映画だったらしい。娯楽映画と一括りにしてしまうのは乱暴なような気もするが、予想通り安心して身を任せることができる信頼度抜群の映画になっていた。
 最近では、狭い範囲にこだわった小粒な映画が増えていると思える中で、これはいかにもスケールの大きいスパイアクションであり、サスペンス溢れるラブストーリーになっていた。こういうロマンチックな映画を時々は観ないと、人間の精神というのは乾いて涸れてしまうのではなかろうか。主演のブラッド・ピットとマリオン・コティヤールは、わたしが映画を離れている間に大いに活躍した俳優のようだが、こういう美男美女がきちんと安定感のある芝居をしてくれて、力のある監督とスタッフが手を抜かずにテクニックを駆使すれば、こんな面白い映画が出来上がるのだという好例になっている気がした。娯楽映画、大好きである。

 脚本のスティーブン・ナイトと監督のロバート・ゼメキスは、素晴らしいストーリーテラーのコンビだと思う。波瀾万丈のストーリーを実に過不足なく巧みに展開して見せている。こういうドラマチックな映画では、説明過多でも困るが説明不足でも困ったことになる。この2人は、描き方のちょうどいい匙加減がよく判っている気がした。だから、観ていて何の障害もないし、どんどんストーリーの中に引き込まれていく感じがあった。これが娯楽映画の王道だよなと一人で関心していた。
 この映画はモロッコのカサブランカを舞台とする前半と、空襲下のイギリス・ロンドンなどを舞台とした後半とで、ストーリーの要素的に大きく趣を変える構成になっている。細かく触れるつもりはないが、そのブリッジ部分を最小限のエピソードで要領良く運んでくれたので、中だるみすることなく前半と後半がダイレクトに結びついて良かったと思う。全体として、語り過ぎにならないギリギリの線で作っているので、もしかするとそこのところを不満に思う向きもあるのかもしれないが、わたしはこれを非常に好ましいものと感じた。ブラピとコティヤールのラブストーリーは、やろうと思えばいくらでもゴテゴテ飾ることができる話だと思うが、要所を的確に押さえて不要なところは省略してしまうという潔さが、却ってストーリーの悲劇性を高めていたように思われた。
 最後は予想通りアンハッピーエンドになるわけだが、この作者たちはそこにちゃんと救いになるシーンを付け加えて、後味のいい終わり方にすることを忘れていない。娯楽映画なのだから、こういう配慮は絶対に必要なことなのである。

 また余談になるが、最近は映画館に置いてあるチラシもずいぶん豪華になっていて、チラシを何種類も用意しているケースもあるようだ。「マリアンヌ」のチラシも2種類あったようだが、いずれも付けられた惹句がまったくいただけない。配給の東和ピクチャーズというのは老舗・東宝東和の子会社らしいが、どうもこの映画の売り方が絞り切れていない感じで、こんなつまらない惹句なら付けない方がいいと思った。涙の押し売りというのは一番避けなければならないものだと思うから、この安易さはちょっと考えられないような気がした。
 内容をあれこれ論じる映画ではないから今回はこんなところで。
(立川シネマシティ2、3月15日)
by krmtdir90 | 2017-03-16 10:43 | 本と映画 | Comments(0)

映画「人類遺産」

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 監督、ニコラウス・ゲイハルター。きわめてユニークなアプローチで、様々なドキュメンタリー映画を撮り続けているオーストリア人の監督らしい。

 その手法というのは、ワンカット30秒くらいの映像を繋いでいくものなのだが、一つ一つのカットに対して、カメラは固定されたまままったく動くことがない。パンしたりズームしたりといった、カメラ側の動きを一切使わないのである。そのため、カメラが切り取った映像は限りなく写真に近いように思われるが、多くの場合その中にはわずかに動いているものが捉えられていて、動かない被写体と不思議に共鳴し合っていたりするのである。
 被写体となるのは世界中から集められた廃墟の姿である。しかし、説明的なナレーションや字幕はつけられていないから、それがどこで撮影されたどんな廃墟なのかといったことはよく判らないのである(廃墟マニアには有名な場所がけっこうあったようだが)。
 日本の福島の風景とか軍艦島の様子などはそれと判るが、判らない映像の方が圧倒的に多い。帰ってからプログラムなどでそれがどこの廃墟なのかは知ることが出来たが、見ている時にそれが判らないことがマイナスに働くことはなかった。美しいと言ったら一面的に過ぎるが、どの映像も驚くほど印象的で、実に多くのことを語っているように感じられ、それを読み解いたり考えたりすることで、その廃墟が持つ過去と現在のストーリーを想像することが楽しかった。

 音楽も一切使われない。ほとんどの映像で、自然に聞こえてくる風の音や波の音、雨音や何の音か判らない様々な音が捉えられているが、いずれも非常に控え目なもので、見る者の想像に過度に介入してくるようなものではない。監督のインタビューによれば、これらの音はどれもきわめて意図的につけられたものだったようだが、過剰なところがないので違和感を覚えるところもまったくなかった。また、動かない廃墟に対して、風に反応する様々なものとか雨や水のしずく、小鳥や小動物、木の葉といったわずかに動くものを配したあたりにも監督の作為は感じられたのだが、それが不自然だったり邪魔と感じられたりすることはなかった。
 この映画にはさらに、映画としては画期的な大きな特徴があった。この映画が選択した手法はその必然的な帰結だったと思うが、人間の姿がまったく出てこないのである。
 これらの廃墟がまだ使われていた頃には、そこにはたくさんの人間がいたことが想像されるのだが、様々な理由でそれが失われ、いま人間の姿が影もかたちもないことが、そこが二度と元通りにはならないことを強烈に感じさせるものになっている。さらに、時の流れということを考えれば、打ち棄てられた廃墟がそこに存在するのも一時的なことであって、やがてそれは自然の浸食によって最終的に無に帰していくのだということも暗示されていたと思う。

 福島の浪江町で撮影されたという映像は、映画のほとんど冒頭の部分に置かれていたが、まだ廃墟と呼ぶには新しすぎる建物などの間で、駐車場のコンクリートや鉄道線路のバラストの隙間から、当たり前の勢いで植物が繁茂し始めているのが印象的だった。雨の降る日を選んで撮影しているのは監督の意図なのだろうが、余分な説明や訴えなどがなくても、駐輪場に留められたまま放置されたたくさんの自転車や、スーパーマーケットの外に積まれた荷物に雨が降り注いでいる映像は、それだけで人間のいなくなったこの場所の運命を厳粛に物語っているように思われた。
 この福島の映像を始めとして、多くの廃墟が暗い曇り空の下で撮影されていた。晴れている時でも全体に靄がかかったようになっていたり、空の写り込みが最小になるようにフレームが決められたりしていて、そういう面でも実に繊細な監督の計算が行われていることが感じられた。屋内で撮影された映像も全体的に暗めで、ライティングしないで自然光だけで撮影したような印象があった。実際のところは判らないが、暗い中に射し込む細い太陽の光線で、巻き上げられた粉塵の動きが見えたりするカットなど、非常に細かい配慮が行われていたことが理解された。

 単調と言えば、これほど単調な映画もないだろう。見始めてすぐ、これは居眠りが出てしまうかもしれないと思ったが、実際にはそんなことはなかった。映画を見るという行為は普通はけっこう受動的なものだと思うが、この映画では眠ろうとする想像力が刺激されてしまい、きわめて能動的にスクリーンに向き合うことになったと思う。
 写真集を見るのに似ているような気もしたが、映像の中にわずかに動くものが存在することがこれほど大きな刺激をもたらすことが新鮮だった。面白い体験をしたなと思った。
(渋谷イメージフォーラム、3月13日)
by krmtdir90 | 2017-03-14 13:16 | 本と映画 | Comments(0)

「劇場」(又吉直樹)

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 2週間ほど前、何となくつけていたNHKのテレビで「又吉直樹第二作への苦闘に密着」という番組をやっていた。興味を覚えて、寝ようと思っていたところだったが見てしまった。これ以前に又吉が第二作(受賞第一作)を準備しているということは知っていたが、それがいよいよ具体的な日程になって実現していることが判った。彼が芥川賞を受賞したのは2015年の上半期だから、そろそろ2年が経過しようとしている。昨今はいきなり単行本で出すのが普通になっているところ、雑誌「新潮」に掲載するというのが又吉らしいなと思った。
 で、3月7日の発売日に近所の書店で購入してきて、8日のうちには読み終えてしまった。うーん、そう来たか、という感じで、期待して待っていて良かったなと思った。だが、感想文となるとちょっと考えてしまって、きょうまで延び延びになってしまった。

 テレビの中で、今度は「恋愛小説」を書きたいと言うのを聞いて期待が高まった。「新潮」の目次には「上京して演劇を志す永田と恋人の沙希。未来が見えないまま、嘘のない心で結ばれた二人の生を圧倒的な純度で描く」という惹句が書いてあった。「火花」が230枚だったから、本作の300枚というのは十分な読み応えがあったと思う。
 率直に言って大変面白く読むことが出来た。この人が書く以上こういうものになるだろうと予想はついたものの、それをこういうかたちにまとめ上げるのは簡単なことではなかっただろう。だがその上で、やはり引っ掛かった点については書いておかなければならない。

 又吉自身が「恋愛小説」と規定しているのだから、二人の関係は当人たちにとっても「恋愛」と認識されていたのかもしれない。しかし、この小説が彼らの「恋愛」を描いたかというと、どうもそのあたりは不十分でモヤモヤしてしまうように思われた。確かにこの二人は男と女に設定されているが、男と男あるいは女と女ではなく男と女なのだということがもう一つ曖昧なままで、そこから生じるはずのリアリティがどうも希薄のように感じられたのである。
 それは、男と女であることが必然的に呼び込むはずの「性」の気配を、この小説がまったく消していることから来ていると思う。いい歳をした男と女の話である以上、そういうことに触れないのは不自然で異常なことと言わなければならない。どのように触れるかは作者の裁量には違いないが、この点への言及がないことを容認するのは難しいような気がした。このため、二人の関係が妙に子どもっぽいものに感じられた部分があったように思う。
 「嘘のない心で結ばれた」とか「圧倒的な純度」とかは編集者がつけた惹句で作者とは関係がないにしても、まさかとは思うが、もし性的なものの絡まない「恋愛」関係を書きたかったのだとすれば、逆にそれに触れないのは不自然だし勘違いも甚だしい気がした。

 「火花」で、みずからホームグラウンドであるお笑い芸人のことを書いてしまい、第二作で同じ世界を扱うわけにもいかず、比較的近くに思える演劇の世界を扱ったのはどうだったのだろうか。売れない時代はみんな似たような辛酸を舐めることになるのかもしれないが、この二つの世界は作られる人間関係のあり方に根本的な違いがあるように思う。人物造形の面で、このあたりに対する作者としての作戦が若干不足していたような印象を受けた。
 「火花」で描かれていたように、芸人というのはみんな基本的に「個」として存在しているのではないかと思う。それはピン芸人でもコンビでも同じである。彼らの結びつきは常に「個」に還元されていて、共感も反撥もすべてはそこにおける感情に支配されていたように思われる。それに対して、演劇においては「個」は必ず「集団」の一員とならなければそれを発揮することが出来ない。演劇というのは否応なしにそういう側面を持っていて、それぞれの「個」は確かに「個」としてそこにあるのだが、そこで形成される関係性はもっと複合的で複雑なものになるように思うのである。

 この小説で描かれた永田という人間は、劇団の中心になるにしてはそのあたりの説得力に欠けていたように思う。演劇を作るためには、良くも悪くももう少し腹芸的な部分が必要なのではないか。みずから脚本を書き、演出や役者も兼ねているとしても、永田という人物造形がどうも芸人のそれをなぞっているだけのように見えてしまった。演劇の公演を成立させるためには、もっといろいろな要素に対応する必要があるだろうと思えてしまったのである。
 中学時代からのコンビである野原という男と、二人だけで定期的な公演を打ち続けるというのも説得力がないように思えた。芸人の舞台と演劇の舞台を混同しているように感じられて、そんな簡単に公演は打てないだろうと納得できなかった。この野原という存在が影が薄いのも不満な点で、共に長年劇団を維持してきた人間として、この二人の関係は永田と沙希の「恋愛」や様々な人間関係にもっと関わりが出てこないとおかしいように感じた。

 この小説が又吉にしか書けない世界を書いていることは確かだが、芸人の世界を離れて書こうと考えた時点で、演劇という中途半端な距離感の世界にしてしまったことが災いしたように思う。男と女の問題にしても、女を本気で造形するのであれば、男の方も又吉の感性からもっと離れて造形する覚悟が必要だったのではないだろうか。
 冒頭の出会いのシーンでも、(ちょっと乱暴な言い方だが)男があまりにも又吉その人でありすぎるために、シーンの作り方としてはバランスを欠いていて無理があると感じられてしまった。「僕」という一人称で書くことはかまわないが、世界を組み立てる(描写する)に当たって、その孕んでいる危険性はもう少し意識しなければいけなかったのではないか。又吉らしい表現が随所にあって、それが彼の書くものの大きな魅力になっていることは重々承知しているが、それをもっと出し惜しみすることが必要になっている気がする。

 と、いろいろ書いてしまったが、これを失敗作だとはまったく思っていない。恩田陸のように、受賞から一ヶ月も経たないうちにつまらない受賞第一作(「失われた地図」)を出して期待を裏切るより、又吉直樹が苦しみ抜いてこれを出してきた誠実さはよく伝わったと思う。読者は信じた作者に並走したいと思うもので、次作がまた楽しみになったということになるだろう。
by krmtdir90 | 2017-03-12 16:44 | 本と映画 | Comments(2)


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