18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング

<   2017年 05月 ( 14 )   > この月の画像一覧

山陰へ寝台夜行の旅③出雲大社・古代出雲歴史博物館(2017.5.22・23)

5月22日(月)続き
 美しく整備された神門通りという道を歩いて行くと、最後が少し上りになって、
e0320083_17542553.jpg
 突き当たりの交差点を渡ると出雲大社の入口になる。
e0320083_17544767.jpg
 ここは勢溜(せいだまり)と呼ばれる場所で、木製の大鳥居(二の鳥居)をくぐるとそこからが出雲大社の神域である。鳥居の先から振り返ると、遠くに一の鳥居が見えている。
e0320083_1755976.jpg
 参道を行く。最初は珍しい下り勾配の参道である。
e0320083_17553071.jpg
 途中に祓社(はらえのやしろ)というのがあったようだが、通り過ぎてしまった。その先の浄(きよめ)の池。 
e0320083_17555355.jpg
 祓橋(はらえのはし)。
e0320083_17561575.jpg
 帰ってから案内図を見て名前を調べているのだから、見落としもずいぶんあるということだ。
 祓橋を渡ると鉄製の三の鳥居があって、その先が松の参道になる。
e0320083_17564560.jpg
 ここからは真ん中を通ることが出来なくなり、両側のどちらかの参道を行くことになる。
e0320083_17571211.jpg
 看板には松の根を保護するためと書いてあったが、調べてみると、昔から殿様とか貴族しか真ん中は通れなかったということらしい。まあ、どうでもいいことだが。
 しばらくして、また真ん中が通れるようになり、
e0320083_17573638.jpg
 左手に手水舎があった。
e0320083_17575725.jpg
 これ、観光協会の案内図では「てみずしゃ」とふりがなが振ってあるが、普通は「ちょうずしゃ」と読むのではなかろうか(出雲大社だけ読み方が違うのだろうか?)。ともあれ、ここで両手を清めた(何となく口は清めなかった。ダメかな?)。
 いよいよ最後の四の鳥居があって、その奥に写真で見たことがある拝殿が見えている。
e0320083_17583844.jpg
 四の鳥居は銅製である。
e0320083_17585987.jpg
 さて、拝殿です。
e0320083_17592961.jpg
 歴史的な由緒などは別にして、昨今では出雲大社は縁結びの神さまとされているようで、わたし自身はもう関係ないのですが、父親として良縁を願うというところは残っているので、出雲大社式とされる「二礼四拍手一礼」(普通は二拍手)の作法でしっかり参拝してきました。
e0320083_1759543.jpg
 拝殿の右手から回り込んで行くと、厳重な荒垣で囲われた本殿の屋根が見えてくる。
e0320083_1801725.jpg
 正面の八足門(やつあしもん)の前で再度参拝する。
e0320083_1804068.jpg
 出雲大社ではここから先を境内と呼んでいるらしい。この中は一般の者は入れない。左の方から荒垣の周囲を巡ってみる。
 背後の方から見た本殿。 
e0320083_1811571.jpg
e0320083_1814023.jpg
e0320083_182020.jpg
 これで出雲大社参拝は終わり。

 松の参道を戻って行くと、三の鳥居の横にこんな看板が出ていた。
e0320083_1822852.jpg
 一旦外に出てから行くしかないかと思っていたから、必ず行くと決めていたわけではないが、これは近道のようなので、何となくそれなら行ってみてもいいかなと思った。まったく行き当たりばったりの行動なのである。
 島根県立古代出雲歴史博物館。
e0320083_1825543.jpg
 行ってみたら、広い敷地に全体のかたちがどうなっているのかよく判らない大きな建物があった。道路の方から入る正面の入口は右手にあるようだったが、左寄りに見えている入口からも入れそうだ。で、入ってみると、
e0320083_1832190.jpg
 ここが受付カウンター。
 さっき、近道の途中に割引券付きのチラシが置いてあって、それを持って行ったら一般610円が490円になった。わたしがカメラを手にしているのを見て、受付の女性は「フラッシュを焚かなければ撮影は自由です」と言った。最近はスマホのカメラが普及したので、どこも撮影禁止を徹底しにくくなっているのかもしれないと思った。
e0320083_1835394.jpg
e0320083_1841796.jpg
 わたしは出雲の歴史に興味を持ったことなどないから、言ってしまえばまったくの初心者で、展示内容についてしっかり踏み込んで見学したわけではない。しかし、素人目にもここの展示が充実していることはよく判った。
 中に入って最初に展示されていたのがこれ。
e0320083_1844542.jpg
 ガラス面に人影が映り込んでしまったのだが、発掘された宇豆柱(うずばしら)という出雲大社本殿の柱らしい。3本の太い丸太を束ねて本殿を支えていたことがこれで証明されたようだ。
 様々な古文書などによれば、昔の本殿はいまよりもはるかに高さがあったと推測されていて、平安時代には高さ16丈(約48メートル)もある本殿があったという。次はその学説に基づいて造られた模型。
e0320083_1851575.jpg
 信じ難い高さだが、宇豆柱の出土とともにこれが一気に現実味を帯びてきたということらしい。もしホントにこんなものが建てられていたのだとすると、何ともワクワクするような歴史ロマンだと思った。
 展示物には出雲地方で発掘された国宝や重要文化財が次々に並んでいて、一つだけでも大変なものなのに、あまりたくさんあるので何だか有難みが薄れてしまうような気がした。以下、写真に収めてきたものを少し並べてみる(ガラスケースにいろいろ写り込んでしまうのは仕方がない)。
 銅鐸(雲南市加茂岩倉遺跡・弥生時代《紀元前2~1世紀》・国宝)。
e0320083_1855594.jpg
 358本の銅剣(斐川町荒神谷遺跡・弥生時代《紀元前2~1世紀》・国宝)。
e0320083_1862372.jpg
e0320083_1864760.jpg
 ケースの中に3段に並べられたすべての銅剣が国宝に指定されている。上方にある金色のものは、作られた当時の輝きなどを再現した模型だという。 
 16本の銅矛(斐川町荒神谷遺跡・弥生時代《紀元前2~1世紀》・国宝)。
e0320083_1872287.jpg
 これらの銅剣・銅矛は武器としての実用性は低く、祭祀などの道具として使われていたのではないかという。
 雲南市加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸群(弥生時代《紀元前2~1世紀》・国宝)。
e0320083_1875626.jpg
 銅鐸3点(いずれも雲南市加茂岩倉遺跡・弥生時代《紀元前2~1世紀》・国宝)。
e0320083_1883782.jpg
e0320083_189297.jpg
e0320083_1892441.jpg
 銅鏡(雲南市神原神社古墳・古墳時代《3世紀》・重要文化財)。
e0320083_1895838.jpg
 この鏡には「景初三年」(239年)の文字が刻まれていて、この年は邪馬台国女王の卑弥呼が魏に使いを送り、銅鏡100枚を賜ったとされる年であることから、卑弥呼の鏡ではないかと考えられているらしい。
 最後に、出口近くにこんな展示もあった(ちょっと場違いな感じもあったけれど)。
e0320083_18103265.jpg
 昭和3(1928)年に建設された一畑電車北松江駅(現松江しんじ湖温泉駅)の改札口だという。当時の部材を元に再現したとあった。

 1時間ぐらい見学していただろうか。もう12時半が近い。外に出て食事場所を探すのも面倒なので、2階にあるミュージアムカフェ「maru cafe」というのに行ってみることにした。
 全面ガラス張りの明るいカフェで、非常に寛げる感じで良かった。外の広い芝生を子どもたちが駆けていたのが見えた。遠足だろうか。
e0320083_1811092.jpg
e0320083_18112730.jpg
 カレーライスを食べました。
e0320083_18114935.jpg
 古代出雲歴史博物館、建物外観。
e0320083_18123881.jpg
e0320083_1813553.jpg
e0320083_1814345.jpg
e0320083_1815460.jpg

 午後1時を過ぎた。一畑電車・出雲大社前駅に向かってゆっくり歩きながら、このあとどうするかを考えた。バスで日御碕(ひのみさき)の方に行ってもいいかなと思っていたが、日射しがあって暑いし、ことのほか疲れてしまったので、やめてしまおうかと大いに迷った。
 駅に着いて電車の時刻を見たら、次の発車は13:56発となっていた。これで帰ってしまうと、サンライズまで4時間も空き時間ができてしまう。とりあえず朝うまく撮れなかった駅の写真を撮って、
e0320083_18153569.jpg
e0320083_1816073.jpg
e0320083_18162240.jpg
 この右手にある喫煙場所(灰皿が見える)で、椅子に座って煙草に火を点けたら、目の前を日御碕行きのバスが通り過ぎて行った(ここの停留所には停車しなかった)。
 確か日御碕行きのバスは本数が少なかったはずだ。行く気があるならまずそちらの時刻を見なければいけなかったはずだ。少し未練があったことは事実だが、わたしの中では日御碕はやめる気持ちが9割以上になっていたということだろう。いまのバスでこの先の行動は決まった。しかし、出雲市駅で4時間もどうするのかというのが大きな問題になった。

 さて、帰りの一畑電車である。
e0320083_18172885.jpg
 これは5000系と呼ばれる、京王電鉄から譲渡された車輌を改造したものである。2100系と同様、軌間の違い(京王1372mm、一畑1067mm=狭軌)による台車の履き替えが最大の改造点だが、こちらは車内もセミクロスシートに一新して、車体の塗装も併せて観光輸送を強く意識したものになっている。
e0320083_18181149.jpg
 なお、この電車は川跡止まりではなく松江しんじ湖温泉までの直通電車になっている(何本かそういう設定もあるようだ)。
e0320083_18184481.jpg
 ホームの向かいには2100系電車が入線している。
e0320083_18192329.jpg
 5000系2輌編成は13:56に出雲大社前駅を発車、14:07に川跡駅に到着した。
 3本並んだ車輌。
e0320083_18203119.jpg
 左から、1番線・松江しんじ湖温泉行き2輌編成、5000系。2番線・出雲大社前行き1輌編成、7000系。3番線・電鉄出雲市行き2輌編成、1000系。今回2番線から出る出雲大社行きは電鉄出雲市から来た電車である。
 わたしは1番線から3番線に乗り換える。
e0320083_18211138.jpg
 この1000系車輌は東急から譲渡されたものだが、軌間が同じなのであまり大きな改造はしていないようだ。塗装も何だか味気ない。
e0320083_18214936.jpg
 車内は区切りのあるロングシート。いわゆる普通の通勤型車輌である。 
e0320083_18222241.jpg
 この電車は14:12に川跡駅を発車した。
 途中、車内がすいていたので、今回はどこでも撮っていなかったこんな写真を撮ってみる気になった。大津町駅である。
e0320083_18225993.jpg
 14:21、電鉄出雲市駅着。
e0320083_1824324.jpg
e0320083_18243619.jpg

 さて、このあとサンライズまでの4時間あまりをどのように過ごしたか。
 電鉄出雲市駅からJR出雲市駅に向かう高架下の喫煙スペースで煙草を一本吸った。高架下の土産物売場で土産物を物色した(まだ買わなかった)。改札前のあたりをぶらぶらした。反対側の南口の方に出てみた。ロータリーはあったが、こちらは何の変哲もない出口だった。
e0320083_18252758.jpg
 それから、この南口のすぐ近くにある「出雲駅前温泉・らんぷの湯」というのに行った。
e0320083_1826590.jpg
e0320083_18263516.jpg
 これは今回来る前からマークしていたところで、4、5年前に出来た新しい立ち寄り温泉のようだった。昼間たぶん汗をかくだろうから、サンライズに乗る前に一風呂浴びてさっぱりしてから乗り込もうと考えて、着替えなども用意してきてあったのだ。ただ、ちょっと早めの時間になってしまったなと思いながら行ってみると、大人650円のところ、午後4時まで65歳以上は400円に割引きとなっていた。ツイてる。
 案内によれば、地下1800メートルから引いた鉄分の多い濁り湯で、全湯掛け流しと書かれていた。中は大きな規模ではなかったが、外に一人ずつに分かれた檜の浴槽が3つ並んだ露天風呂があって、ここは湯温がやや高めになっていてわたしは気に入った。目の前に人工的に植えられたと思われる竹林ができていて、なんとも風流な気分でくつろぐことができた。風呂を出たあとは、畳敷きの休憩所で身体が冷えるまでのんびりした。
 上の写真は外に出てから撮ったものなのだが、撮影時刻は16:07となっている。

 このあと、再び駅に戻り、今度は南北連絡通路の脇にあったこの店に入って、コーヒーを飲みながら時間を潰した。
e0320083_18283037.jpg
 実は、この写真では読み取れないかもしれないが、さっきこのあたりをぶらぶらしている時に、この扉に「喫煙できる店舗として営業してます」という小さな貼り紙があることに気づいたのである。いまどき、この姿勢は高く評価されなければならない、あとでここに入ろうと決めていたのである。店にあった新聞を読んだり、スマホをいじったり、結局煙草を3本吸って1時間ほどで店を出た。

 そろそろ5時半になる。改札口で駅員にサンライズの入線は何時かと尋ねたら、5分前だという。18:46ということだ。その前に、夕食として最後に出雲そばを食べようと思っていた。で、観光案内所でもらってあった出雲そばマップで、駅から近そうな店を探して行ってみることにした。
 行ってみたらその店は、18時開店という掲示が出ていた。あきらめて適当な店に入ってしまうのも癪なので、ちょっとあたりを散歩して来ようと思った。日が傾いてきて、気温もずいぶん下がってきたようだ。このあたりが東京とは違うなと思った。
 「サンロードなかまち」というアーケード街があったので行ってみた。
e0320083_18294092.jpg
 一歩入って、これはひどいと思った。
e0320083_18301082.jpg
 開いている店が見当たらないと言ってもいい。時々車が通り抜けていくだけで、人通りもほとんどない。完全に終わってしまった商店街という感じがした。結局突き当たりまで行って、駅の方にぐるっと一回りする道をたどった。
 5分前にそば屋の前に戻ってしまったので、店の前で待っていたら少し早く中に入れてくれた。この店、手打ち出雲そば「ほしえん」。
e0320083_18305311.jpg
 いただいた割子そば(ピンボケですね)。腰があって旨かった。
e0320083_18312784.jpg

 夕日を受ける出雲市駅北口。
e0320083_1832693.jpg
 土産物を買い、飲み物などを買い、改札口を入る。
e0320083_18323958.jpg
 2番線ホームに上がる。帰りは1号車なので最後尾になる。ホームを歩いて行くと、1号車の乗り口の先に喫煙スペースがあった。
e0320083_18331435.jpg
 これは嬉しかった。1号車は禁煙車両なので、ここで今回の旅の最後の一本を吸った。こちらに来るのはもうこれが最後だろうなと、少し感傷的な気分になった。

 サンライズは思いがけず下り方向から入線してきたので、このあたりではまだスピードが出ていてうまく撮れなかった。で、これは停車してから撮影したもの。
e0320083_18335421.jpg
 1号車23番。やはり2階室のこの感じがいい。
e0320083_18342438.jpg
 右側の靴脱ぎの部分や物置きスペースは、やはり1階室よりずっと余裕がある。
e0320083_18345755.jpg
 18:51、サンライズ出雲は静かに出雲市駅を後にした。
 ベッドに横になるとこういう眺めになる。
e0320083_18353520.jpg
 この、窓から空が見える感じが何とも言えずいいのである。
 今度は進行方向左側が宍道湖の側になり、サンライズならぬサンセット後の暮れていく宍道湖の景色がよく見えた。
e0320083_18361711.jpg
 夜、部屋の明かりを消して寝ていると、窓から星がよく見えた。上りのサンライズに乗るのは初めてだったが、このあたりでは都市の明かりに邪魔されることもなく、伯備線で中国山地に分け入って行くにつれて、星の数が明らかに増えていくのが判った。切り取られている範囲が狭いから、星座のかたちまで判別するのは無理だったが、星の多さは十分に感じることができた。上りサンライズ出雲ならではの素晴らしい体験だった。

5月23日(火)
 翌朝、富士山が見えるかと期待していてが、その区間は雲が多くて見えなかった。都心が近づいてくると、通り過ぎる駅々にごったがえす通勤客の姿を見下ろすのが、なんか悪いなあと思った。
 サンライズ瀬戸・出雲は7:08、東京駅に着いた。
e0320083_18371013.jpg

by krmtdir90 | 2017-05-26 18:37 | 鉄道の旅 | Comments(2)

山陰へ寝台夜行の旅②一畑電車・JR旧大社駅(2017.5.22)

5月22日(月)
 きょうは朝から雲一つない快晴で、天気がいいのは嬉しいことだが、暑くなりそうなのでその点は気がかりである。
 朝のJR出雲市駅。
e0320083_16544190.jpg
 この左手の方に一畑(いちばた)電車の電鉄出雲市駅がある。
e0320083_1655963.jpg
 こちらが入口。
e0320083_16553217.jpg
 ホームは高架上にあるので、改札を入ったら階段を上らなければならない。エスカレーターは設置されていない。発車まで20分あまりあるので、きっぷを購入して右手の待合所で待つ。
e0320083_1656870.jpg
 路線図と運賃。
e0320083_16563553.jpg
 一畑電車、略称「ばたでん」は100年以上の歴史を持つ私鉄で、現在は電鉄出雲市・松江しんじ湖温泉間の北松江線と、途中の川跡(かわと)から分岐して出雲大社前に至る大社線の2路線を運行している。名前の通り電化はされているが全線が単線である。わたしは前に来た時に北松江線には乗っているが、大社線に乗るのは今回が初めてになる。
 10分前に改札が開いた。これが9:15発の松江しんじ湖温泉行きの2輌編成。
e0320083_1657347.jpg
 京王電鉄の5000系を譲り受けて改造した車輌(片運転台構造)で、一畑電車では2100形と呼んでいるようだ。車内はロングシート。扉は3つだが、真ん中の扉は閉鎖されている。
e0320083_1658218.jpg
 電鉄出雲市駅のホームは島式で、両側の頭端式の線路は車止めの位置が大きく前後にずれている。
e0320083_1659637.jpg
 この左側の線路に別の2輌編成が入線してきた。
e0320083_170375.jpg
 同じく京王電鉄から譲渡された車輌を改造したもので、5000系と呼ばれているものである。これは帰りに乗ったので、詳しくはその時に。

 電鉄出雲市駅を定時に発車した2輌編成は、9:23に川跡(かわと)駅に到着した。川跡駅は島式ホームの2面4線で、構内踏切を渡って大社線の電車に乗り換えることになる。
e0320083_171622.jpg
 右が北松江線のホームで、乗ってきた電車は2番線に入っている。左が大社線のホームで、1番線に出雲大社前行きの1輌編成が待っている。
 ほどなくして、反対方向から電鉄出雲市行きの2輌編成がやって来て、外側の3番線に入線した。
e0320083_1715283.jpg
 つまり、わたしのような電鉄出雲市方向から来たお客と、松江しんじ湖温泉方面から来たお客の両方を、ここで大社線の電車に乗り換えさせることになるのである。帰りの時もそうだったが、この駅では常に3方向の電車が揃うことになるようだ。
 わたしが乗ってきた松江しんじ湖温泉行きが発車して行き、
e0320083_172463.jpg
 続いてピンクのラッピング車輌・電鉄出雲市行きも発車して行った(写真はない)。
 こちらの出雲大社前行きも間もなく発車である。乗り換え時には踏切のところで一所懸命お客を誘導していた駅員も、駅舎のところで発車を待っている。
e0320083_1741690.jpg
 一応、川跡駅の駅名板も掲載しておく。
e0320083_1743835.jpg

 乗り換えた出雲大社前行きの電車は9:29に川跡駅を発車した。1輌で運用可能な両運転台構造で、2016年から導入が始まった7000系という新造車輌だった。座席は中央で点対称になるセミクロスシートである。
e0320083_1754270.jpg
 きょうは月曜日なので、お客はあまりいない(でも、上から写すと前の席の人が写ってしまうので、ちょっと低い角度で写した)。
 9:40、出雲大社前駅着。
e0320083_1782774.jpg
e0320083_1785295.jpg
 向かいの側線に古い車輌が保存されている。
e0320083_1792768.jpg
 改札を出る(あちこち写真を撮っているから、いつも駅員さんを待たせてしまう。わたしのきっぷを受け取ると、すぐに改札を閉じて行ってしまった)。
e0320083_1710412.jpg
 駅舎内の様子はこの時はうまく撮れていないので、帰りの時に。
 駅舎外観(逆光になっているので、これも帰りの時にもう一度)。
e0320083_17103625.jpg
 ここを離れる前に、さっきの古い車輌を見ておかなければならない。右手の方に回り込んで行くと説明板が立っていた。
e0320083_17111235.jpg
 デハニ50形と言うらしい。「RAILWAYS」という映画の撮影が一畑電車で行われたのは知っていたが、映画自体は見ていない。中に入れるようになっている。
e0320083_17115038.jpg
 運転台。
e0320083_17121584.jpg
 車内(シートは貼り替えられているようだ)。
e0320083_17125367.jpg

 さて、出雲大社はこちらの方向だが、
e0320083_1713321.jpg
 わたしは反対方向に歩いて行く。そちらに15分ほど行くと、1990(平成2)年に廃止されたJR大社線の旧大社駅が保存されているというのだ。わたしとしては、出雲大社よりもこちらが見たかったと言っても過言ではない。
 少し行くと大きな石の鳥居があり、その先で堀川という川に架かる宇迦(うが)橋を越えて行く。渡り切ったところから振り返る。この鳥居が出雲大社の一の鳥居とされているようだ。
e0320083_1714225.jpg
 この先がけっこう距離があった。15分では着かなかったと思う。道がゆるやかにカーブするところで、表示に従って左折すると正面に立派な駅舎が建っていた。
e0320083_1715287.jpg
 思った以上に重厚な造りである。
e0320083_17155717.jpg
 大社線の開業が1912(明治45)年、この駅舎が造られたのが1924(大正13)だという。廃止後の2004(平成16)年に国の重要文化財に指定されている。
e0320083_1716436.jpg
 中に入ってみることにする。
e0320083_17173751.jpg
 中は広く、天井も高い。
e0320083_17182097.jpg
 廃止時の普通旅客運賃表と、
e0320083_1719663.jpg
 発車時刻表がそのまま残されていた。
e0320083_17193419.jpg
 廃止時には駅事務室の方にきっぷ売場が移っていたが、昔はこの右手の部分が出札窓口(きっぷ売場)になっていたようだ。
e0320083_1720271.jpg
 廃止時にはここは観光案内所になっていたらしい。
e0320083_1721256.jpg
 非常に美しい駅舎で、保存状態もいいと思った。
e0320083_17215087.jpg
 改札口からホームに出てみた。この部分の壁は後から取り付けられたもののようだ。
e0320083_17223283.jpg
 精算所窓口。
e0320083_172347.jpg
 駅長事務室入口。
e0320083_17233815.jpg
 構内は単式ホームと島式ホームの2面3線構造で、両ホーム間は階段を下りて渡る構内踏切が何カ所か設定されていた。階段部分に鉄の蓋のようなものがついていて、(ちょっと見にくいのだけれど)そこにウサギとススキと思われる素朴なレリーフが施されていた。
e0320083_17243391.jpg
 ホームと線路もそのまま残されていたので下りてみた。
e0320083_1725997.jpg
 ちょっと低い位置から狙ってみる。
e0320083_17253799.jpg
 島式ホームの向こうの方に蒸気機関車が留置されているようだ。
e0320083_17262759.jpg
 そちらに歩いて行く。こちらから駅舎を見ると、わたしが出て来た右側の改札口のほかに左側にも改札口がついていて、そこはどこかの時点で壁で塞がれてしまったことが見て取れる。
e0320083_17271477.jpg
 なお、この左手の屋外にも石で造られた改札口が並んでいた(団体客などの時に利用したのだと思われる)。
 蒸気機関車はD51だったが、保存状態はあまりいいとは言えなかった。
e0320083_17282734.jpg
 運転席(左)と石炭投入口。
e0320083_1729234.jpg
 駅舎の大きさやホームの広さなど見ると、昔はずいぶん賑わったこともあったのだろうと思われた。
e0320083_17293973.jpg
 国鉄全盛期には関西方面から直通の優等列車も乗り入れていたらしいが、モータリゼーションの発展とともに乗客は観光バスや自家用車に流れていき、また一畑電車の駅より15分も遠いことが決定的なネックとなって、JR化後数年で廃止されてしまったのである。
e0320083_17302794.jpg
 いくら重要文化財に指定されても、駅は廃止されてしまっては何にもならないと思った。
e0320083_17305462.jpg

 戻らなければならない。日射しは強く、気温も上がってきている。来る時けっこう距離があったことを思うと、まいったなあという感じで表の通りに出て歩き始めた。するとすぐその直後に、何と後方から出雲大社方向に向かうバスがやって来たのである。さらに、ちょうどそこにバス停があって、下車するお客がいて停車するではないか。すごい幸運と言うしかない。もちろん乗せていただきました。
 このバスは出雲市駅からやってきたもので、あとで調べてみたらここを通るバスは1時間に1本しかなく、しかも5分ほど遅れていたらしかった!
 バスはあっという間に電鉄大社駅に着いた。150円だった。
e0320083_17342269.jpg
 一つ先の停留所まで乗れば正門前まで行けたのだが、それだと何となくズルをしているような気がしてしまったのである。
e0320083_1735078.jpg
(写真の枚数が増えていて、一回では収まりそうにないので、ここで一旦切ることにします)
by krmtdir90 | 2017-05-25 17:36 | 鉄道の旅 | Comments(0)

山陰へ寝台夜行の旅①境線・境港(2017.5.20・21)

 寝台夜行列車にモーレツに乗りたくなった。乗りたくなっても、いまはもうブルートレインはないのだし、サンライズが走っているだけなのだからそれに乗る以外ない。行き先は高松か出雲になるが、どちらでもいいなら長く乗っていられる出雲の方がいい。
 というわけで、週間天気予報を見ながら日にちの見当をつけ、行ったその日にトンボ返りではいかにもせわしないので、出雲市で一泊しようとビジネスホテルを当たったら、平日から土曜日まではけっこう盛況のところが多く、21日の日曜日に一泊することで宿を確保した。
 最寄り駅のみどりの窓口に行くのも久し振りだったが、行ってみたらサンライズの方も日によって満席になることがあるらしく、往路の20日(土)のシングルはもう喫煙車輌の1階室しか空いていなかった。

5月20日(土)
 21:37、東京駅9番線ホームに入って来るサンライズ瀬戸・出雲。
e0320083_16105321.jpg
 1~7号車が瀬戸、8~14号車が出雲で、それぞれ6号車と13号車が喫煙車輌になっている。わたしの部屋は13号車6番である。
 1階室に乗るのは初めてだったが、実際に部屋に入ってみて、これは予想以上に良くないなと思った。窓のフレームの下のラインがホームの面と同じ高さで、ベッドの位置はそれよりも低くなっている。
e0320083_1611405.jpg
 これでは停車中はスクリーンを閉じておくしかなく、通過駅でも覗かれている感じがしていい気分ではない。2階室ではそんなことはなかったし、いつもスクリーンを下ろさないで寝ていたわたしとしては、この居心地の悪さは決定的のような気がした。
 しかも、サンライズの車輌のかたち(断面)が、思った以上に下の方に絞り込まれていて、ベッドの広さは違わないのだろうが、1階室では右側の靴脱ぎの部分や物置きのスペースが非常に狭くなっているように感じられた。
e0320083_1612505.jpg
 22:00、サンライズは定刻に東京駅を発車したが、走り始めても窓の位置が低いと視界を遮るものも多く、2階室のような開放感が得られないのが大きなマイナスだと思った。

5月21日(日)
 6:27、岡山駅着。瀬戸と出雲の切り離し。
e0320083_16132390.jpg
 何度も見ているからもういいかと思ったが、根が野次馬だからつい行ってしまうんですね。
e0320083_16134712.jpg
 サンライズ出雲は倉敷から伯備線に入り、備中高梁、新見と停車しながら中国山地を越えていく。雲はあるもののこの日もいい天気で、車内放送で大山(だいせん)が見えているという案内があったが、部屋が反対側だったので見られなかった。進行方向左側の部屋だと、このあと宍道湖などの景色も見えないことになる。1階室からの景色の見え方も不満だったので、次の停車駅・米子で途中下車することに決めた。終点・出雲市まで行くと9:58、米子だと9:05だが、気に入らない1階室に長居しても仕方がない。
e0320083_16154666.jpg
 改札で途中下車印を押して貰って、一応外に出て来た。
e0320083_16161610.jpg
e0320083_16163818.jpg
 駅前広場に「山陰鉄道発祥之地・米子」という記念碑とC57蒸気機関車の動輪が飾られていた。
e0320083_1617247.jpg
 山陰地方の鉄道は境港(さかいみなと)・米子間の境線と、米子・御来屋(みくりや)間の山陰本線の一部が1902(明治35)年に開業したのが始まりだったようだ。境港から鉄道建設用の資材を搬入するための早期開通だったらしい。

 実はこちら方面というのは、わたしが青春18きっぷで鉄道の旅を始めた頃、つまり5、6年前に何度か訪れていて、松江の街などはすでにしっかり見物してしまっていた。このブログを始める前のことだから、このあたりの旅の記録はここには残していない。初心者だったから鉄道関係の写真なども少なく、あまり焦点の絞れていない写真がパソコンの底に眠っている。調べてみたら、前回米子駅に降りたのは2011年12月のことだったようだ。
 今回の旅では一応出雲大社には行ってみようと思っているが、そもそもサンライズに乗ることが目的の旅だから、それ以外にどこに行こうというようなことは何も決めていなかった。いろいろな路線もかなり乗ってしまっているから、このあと境線で境港(さかいみなと)に行ってみようと思っているが、2回目なので新鮮な驚きといったことは期待できない。

 米子駅0番線の切り欠きホームが境線専用となっている。
e0320083_1618443.jpg
 境線の車輌は境港市出身の水木しげるに因んで「ゲゲゲの鬼太郎」のイラスト車輌である。境線はこうした車輌ラッピングの全国的な先駆けとなったもので、境港市の町おこしとも連動して、いまやすっかり定着した車輌になってしまったようだ。
 9:35発の列車は2輌編成で、目玉おやじトレインとねこ娘トレインが連結されていた。
e0320083_16185692.jpg
e0320083_16192539.jpg
 いずれもキハ40、内部はセミクロスシートである。
 どちらに乗るか迷うところだが、
e0320083_1620048.jpg
e0320083_16202230.jpg
 インパクトは圧倒的にねこ娘なので、そちらにした。クロスシートの背の部分にも、
e0320083_16204874.jpg
 天井にまでねこ娘がいる。
e0320083_16211693.jpg
 原作のねこ娘はもう少し怖い感じだったと思うが、トレインともなると少しは可愛いところも欲しいということなのだろう。発車すると、駅名案内などの車内アナウンスは(録音された)鬼太郎とねこ娘のコンビが担当していた。
 0番線ホームには「鬼太郎」絡みのいろんなものが飾られていて、右手の「ねずみ男駅」というのは米子駅につけられた愛称である。
e0320083_16215818.jpg
 境線の駅にはすべて妖怪の愛称がつけられていて、各駅には普通の駅名板とともにこうした愛称による駅名板が立てられている。
e0320083_16223663.jpg
 この富士見町駅と次の後藤駅の間に、サンライズの車輌基地になっているJR西日本の後藤総合車輌所というのがある関係で、境線は米子・後藤間が電化、後藤・境港間が非電化になっている。営業キロ17.9キロの短い盲腸線(全線単線)なので、米子・境港間を営業運転している車輌はすべて気動車である。終着の境港駅まで15の駅が並んでいるが、途中駅はすべて簡略な作りの無人駅で、駅間距離の最短は0.5キロというところもある。
 日曜日だからか乗客はけっこう乗っていた。外国人も含む観光客や子ども連れの近隣の行楽客、地元の人や部活通いの高校生、さらに途中の米子空港駅の利用者などの乗降もあって、座席はいつもほとんど埋まっている感じだった。
 10:17、境港駅着。
e0320083_162414.jpg
 ここは鬼太郎駅である。
e0320083_16242733.jpg
 ここは一応終着駅だから、島式ホーム両側の2線が車止めのある頭端式になっている。
e0320083_16252140.jpg
 普段は駅前広場からイラスト車輌がよく見える1番線を使用しているらしい。
e0320083_16255931.jpg
e0320083_16263123.jpg
 ほぼ1時間に1本の運行だから、乗降客が去ると待合室がひっそりする時間帯もある。
e0320083_1627457.jpg
 路線図と運賃表。
e0320083_16273544.jpg
 駅舎外観。
e0320083_16281044.jpg
e0320083_16283426.jpg
 駅前には水木しげる先生執筆中というブロンズ像がある。
e0320083_16291355.jpg
 右手の大きな建物は「みなとさかい交流館」というもので、観光案内所などもこの中に入っている。
e0320083_16295575.jpg
 駅前広場から左手に向かって、「水木しげるロード」が続いている。
e0320083_16302310.jpg
 ここには「なまけ者になりなさい」などと書かれた水木しげる氏顕彰碑があったり、
e0320083_16305668.jpg
 何やらいかがわしい妖怪神社なるものがあったり、
e0320083_1631342.jpg
e0320083_1632683.jpg
 「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくるいろんな妖怪のブロンズ像が立っている(比較的小さめのものが多く、それがまた何となく可愛らしい雰囲気を漂わせている)。前に来た時はこれら妖怪たちを片っ端から撮影していたが、今回は2度目なので代表的?なものだけを。児啼き爺。
e0320083_16325242.jpg
 べとべとさん。
e0320083_16332495.jpg
 ねずみ男はやはり突出したキャラクターのようで、
e0320083_16335418.jpg
e0320083_16342045.jpg
 こんな着ぐるみも歩いていた。
e0320083_16344953.jpg
 しばらく行くとブロンズ像の道が終わり、屋根のあるアーケード街になって、
e0320083_16355145.jpg
 その途中に「水木しげる記念館」というものがあるが、
e0320083_16362046.jpg
 前に来た時に見ているから、今回は入らなかった。

 アーケードの終わった先は観光客などはやって来ない普通の街のエリアになる。観光案内所でくれた境港市観光案内図(イラストマップ)では、左折して海岸通りの方に抜けて行くと「おさかなロード」というのが「海とくらしの史料館」というのに続いていて、さらにその先に魚市場や国際旅客ターミナル(境港からは韓国やロシアのウラジオストックへの航路が通じている)があるようだった。そちらは行ったことがなかったので、かなり距離がありそうだが、無理はしないで行けるところまで行こうと思い歩き始めた。
e0320083_16395115.jpg
 目の前の海は境水道と言い、西方で中海(なかうみ)につながり、さらに宍道湖へとつながっているらしい。向かいに見えているのは島根半島の先端部で、向こうは島根県松江市、こちらの境港市や米子市は鳥取県で、この水道に県境が走っているのである。前方の大きな橋は境水道大橋。
 ちょうどこの時間、船のパレード?のようなものが行われていたようで、大漁旗を掲げた船が勇ましい音楽を流しながら幾艘も進んでいった。
e0320083_16405881.jpg
e0320083_16412411.jpg
e0320083_16414846.jpg
 おさかなロードは埠頭沿いの道だから、日射しを遮るところがまったくなく、距離も結構あって、爽やかで開放感のあるいい道なのだが、疲れて喉も渇いてきた(駅からは優に2キロ以上は来ていると思う)。
 で、境台場公園というところの角に魚料理の店があったので、少し早いが昼食にすることにした。
e0320083_16425447.jpg
 注文したお刺身御膳(とビール。ビールはすでに空である)。
e0320083_16432790.jpg
 この店の横の方に「海とくらしの史料館」があった。
e0320083_16435783.jpg
 行ってみると「日本一の魚のはく製水族館」という表示が出ていて、海の魚(蟹や海老なども)の剥製を展示しているということのようだった。
e0320083_16443267.jpg
 ずいぶんたくさん展示されていたが、動かないものでは面白くないと思った。しばらく休憩してから外に出た。
 薄雲も出ていたが日射しがあって暑いので、この先の方に行くのは断念した。目の前が境台場公園となっていたが、20段くらい階段を上がるようだったのでやめにした。

 帰りは別の(住宅街の中の)道をたどって「水木しげるロード」に戻った。駅に向かって歩き、途中のこの店でアイスコーヒーを飲んで一休みした。
e0320083_16455697.jpg
 鬼太郎というのは、像にするには案外面白みのないキャラクターなのかもしれない。
e0320083_16464085.jpg
 ねこ娘はそんなことはない(道の向かいは妖怪神社)。
e0320083_1647775.jpg
 再び境港駅。きっぷを買って入場時間まで待つ。境港・米子の料金は320円である。
 折り返し13:22発の米子行きになる2輌編成が入線してきた。
e0320083_16485488.jpg
 鬼太郎トレインのキハ40である。けっこう乗客がいたので座席確保を優先して、車輌の撮影は米子に着いてからにした。
 で、14:07米子駅着。
 もう一輌は鬼太郎ファミリートレインだった。
e0320083_16495976.jpg
 これだけが片運転台のキハ47である。
e0320083_16511295.jpg
e0320083_16514715.jpg
 以上で境線の旅はおわり。
e0320083_16522435.jpg

 少し待ち時間があったので、また外に出たり構内をぶらぶらしたりした。
 向かいのホームに特急やくもが入って来て出て行った。
e0320083_1653127.jpg
 出雲市始発、伯備線経由、岡山行き。ちょっぴり古びたかたちの381系直流電車というもので、塗装が色褪せて見えるところが何やら哀愁を誘う。
 こちらがわたしの乗る14:48発、快速アクアライナー益田行き、2輌編成。
e0320083_16535629.jpg
 快速になるのは出雲市・益田間になってからで、米子・出雲市間は各駅に停車する。この車輌はキハ126というもので、常に2輌編成で運用される片運転台車である。座席はクロスシートのみで、向かい合わせの座席の間隔が心持ち広いように感じられた。
e0320083_16544821.jpg
 中途半端な時間帯だったからか、車内はガラガラで、中海や宍道湖が見える側に陣取って、実にゆったりした気分で過ごすことができた。これは宍道湖。
e0320083_16552290.jpg
 15:59、出雲市駅着。
 島式ホーム2面4線の高架駅で、これは階段を下り改札を出て振り返ったところ。
e0320083_16555565.jpg
 改札前は南北に出口があり、改札正面の高架下が土産物屋などが入った駅ビルのような作りになっている。メインの出口は北口である。
e0320083_16563312.jpg
 駅舎外観。出雲大社をイメージしたと思われる重厚な作りになっている。
e0320083_16565942.jpg
 この日の宿は駅前に面しているので、16:20ぐらいにはチェックインを済ませた。

 寝台夜行列車だとどうしても寝不足気味になるので、この日は早寝をしようと思っていた。泊まったのはホテルアルファーワン出雲というビジネスホテルなのだが、このチェーンのいいところは、気軽に行ける居酒屋さんがホテルのロビーとつながった作りになっている点である。ここは丸善水産というお店が入っていて、5時の開店を見計らって出掛けて行った。
 ホテルのフロントにビール一杯サービス券というのが置いてあって、これをスタートに日本海の海の幸をメインに旨い肴と旨い地酒を楽しんだ。地酒の銘柄は忘れてしまったが、肴はアゴ(トビウオ)やノドグロの刺身、生の岩ガキ(これは絶品だった)など、せっかくだから値段を考えずにいろいろ頼んでしまったが、最終的には7600円ほどだった。朝霞やみずほ台でみんなと飲むとだいたい4~5000円にはなるから、それを考えると安いものかもしれないと思った。
 いい気分で7時過ぎには部屋に戻った。窓の外は日没直後で、美しい夕焼けだった。
e0320083_16584037.jpg

by krmtdir90 | 2017-05-24 17:00 | 鉄道の旅 | Comments(0)

映画「草原の河」

e0320083_16421929.jpg
 チベット族の監督(ソンタルジャ)によるチベットを舞台にした映画で、使われている言語もチベット語のようなので、分類上の国籍は中国映画とされていたが、チベット映画と独立させて呼ぶ方が妥当のような気がした。タイトルに控え目に映し出されるチベット文字が美しい。

 子どもの目を通して描かれる物語というのは、映画ではけっこう好まれている手法だと思うが、この映画はそうした中でも非常に成功した一作なのではないだろうか。本名そのままで出演したらしいヤンチェン・ラモという女の子がとにかく素晴らしく、この映画の魅力の大半をこの子が支えていると言ってもいい気がした。彼女は監督の親戚の子で撮影開始時には6歳だったようだが、実際に家族とともにこの高原地帯で映画と同じような生活をしているのだという(映画に映し出された放牧地や畑、テントや羊の群れは、すべてヤンチェン・ラモの本当の家族のものらしい)。
 演技などできるわけはないのだから、最小限の指示だけでこの子の姿を捉えていった監督の力量は並みのものではないと思う。最初はわずかなプロットのみで、脚本も用意しないまま撮影を開始し、撮りながら徐々にストーリーを組み立てていったらしい。撮影には長い期間を費やしたようで、それが人物の存在感や生活感といった映画のリアリティを生み出しす原動力になっているのだろう。
 特に大きな出来事があるわけでもないし、ともすると退屈になりかねない内容の映画だと思うが、わたしにはこの淡々とした時間の流れが実に心地よく感じられ、この監督が作り出す画面からまったく目が離せなくなってしまった。

 舞台となったチベットの高原地帯は標高3000メートルを超えているらしく、緩やかな起伏が続く広大な大地には草木の姿もほとんど見られない。気候的にはきわめて過酷な土地と思われるが、ここで半農半牧(畑には大麦の種を撒くが基本的には収穫時まで放置したまま、日常的には羊の群れの放牧に従事しているようだ)の生活を営むある家族の姿が描かれていく。冬の間はやや標高の低い集落に住み、春から秋にかけては標高のある放牧地に大きなテントを張って生活する。テントは隙間だらけの粗末なもので、衣服はカラフルだがかなり厚手で重そうなものを着ている。
 映画は現代の話なのだが、テレビや携帯電話などに代表される文明の利器は一切出てこない。信じ難いほどの原始的生活なのである。古びたオートバイと小さなトラックが出てくるが、それだけが辛うじて現代を感じさせる道具である。

 ヤンチェン・ラモは父親と母親の3人家族だが、母親のお腹の中には新しい家族が宿っていて、それが彼女を少し不安な気分にさせている。彼らには岩山の洞窟で仏教の修行をする祖父がいるのだが、父親と祖父は仲が悪く交流が途絶えているように見える。大人たちのことはヤンチェン・ラモにはよく判らないが、判らないなりに感じ取れることもたくさんあって、その言葉にならない感情が見え隠れする彼女の表情の揺れが素晴らしいのである。
 父親役のグル・ツェテンも監督の親戚で、実際にこの家族と同じような牧畜民であるらしい。母親役のルンゼン・ドルマだけが芸能人で、チベットでは有名な歌手のようだが、演技という点では未経験だから3人とも素人と言って間違いではない。この3人に家族としてのリアリティを与えたソンタルジャ監督の演出力は見事である。
 祖父は出番も少なく、表情が画面に映ることもほとんどないのだが、監督は実際の僧侶をキャスティングすることにこだわっていたらしい。そういう意味ではドキュメンタリー的発想もあったのだと思うが、映画としてはドラマとしてこの家族を描くことに徹底している。祖父にとっては孫にあたるヤンチェン・ラモを介して、祖父と父親の和解を描くことがストーリーの一つの核になっているのだが、映画としてはヤンチェン・ラモの家族が生活する中で起こる様々なエピソードの部分が非常に興味深かった。

 どれも至って小さなエピソードなのだが、われわれの日常からは想像もできないような生活を描いているから、その一つ一つのディテールに驚きがあって、それでいながら、そこにありありとした生活実感が浮かび上がってくるのは見事だと思った。そこにヤンチェン・ラモの視線を介在させることで、すべてが普遍性を持った人間の暮らしの一コマのように見えてくるのである。
 狼に母羊を殺されてしまった子羊を、ヤンチェン・ラモがジャチャと名付けてミルクを与えて育てるところ、成長したジャチャを群れに帰そうとする父親に必死で抵抗するヤンチェン、そのジャチャも狼に殺されてしまい、そのことをヤンチェンには秘密にする両親、偶然その死体(喰い散らされほとんど骨ばかりになっているが、ヤンチェンがつけてやった小さな飾りからそれと判る)を見つけてしまい、ショックから両親と口をきかなくなるヤンチェン、といったエピソード。
 また、母親の関心が自分よりお腹の赤ちゃんに移っている気配に不安を感じるヤンチェン、母親から赤ちゃんは天珠(小さな御守りのような工芸品)を見つけたから来たのだと教えられ、お供え物の上に飾られていた天珠を密かに地面の穴に隠してしまう、というようなエピソード。書き始めるときりがなくなるからやめておくが、ヤンチェン・ラモの可愛らしい反応が微笑ましい。

 祖父に対する父親の確執についてのエピソードも面白い。祖父の面倒を見ていないと村人から批判され、妻に強く言われた父親はヤンチェン・ラモをオートバイに乗せて、気乗りしないまま祖父の籠もる洞窟を訪ねて行く。少し離れたところにオートバイを停め、父親はヤンチェンに一人でお爺ちゃんに会って来いと言う。どうしてそうなるのか判らないヤンチェンは、何とも言いようのない困った表情を見せるが、それでも言われた通りにするしかない。
 戻った父親は自分も会って来たと妻に嘘をつくが、あとでそれがバレて、怒って出て行ってしまう妻を追いかけるシーンで、父親が祖父を嫌う理由が明かされることになる。この映画の中でここだけが唐突な説明シーンになってしまっていて、この映画唯一のマイナス点になっていると思った。
 このあと、父親はもう一度ヤンチェンを連れて祖父の許を訪ねるが、体調を悪くして町の病院に連れて行かれたと近くの男から教えられて彼らも町に向かう(短く映される町の様子も興味深い)。病院で父親と祖父はぎこちなく言葉を交わすことになるが、入院を勧める医師とその方がいいと言い添える息子を遮り、帰るという祖父もオートバイに乗せて(ヤンチェンをサンドイッチするかたちで)帰り道をたどって行く。

 このあとの展開は詳しくは書かないが、突然の驟雨が離れ離れの彼らを結びつけ、雨上がりの明るい光の中で、川縁に仲良く腰を下ろす祖父と孫娘の向こうに、少し離れて寝そべりながら煙草を吸う父親の姿を、3人の後ろ姿のワンフレームで捉えたカットがラストシーンになる。彼らの前には「河」の流れがある。小さな川だが、驟雨の増水で少し待たなければオートバイが渡ることはできないようだ。祖父と父親は言葉を交わすことも視線を合わせることもしないが、ヤンチェン・ラモは祖父と楽しげに話していて、「今度は赤ちゃんを連れて会いに来る」と告げている。そして「その時は熊さんもたくさん連れて来る」と付け加えるのである。
 熊さんというのは彼女の大切なぬいぐるみのことで、以前母親から「赤ちゃんができたらその熊を赤ちゃんにあげて」と言われ、「これはわたしのだから」と拒否したものだった。ヤンチェン・ラモにとって、祖父は父親や母親と同じくらい大切な存在で、行き来の途絶えた祖父と父親の間に彼女が小さな橋を架けているようにも見える。生まれてくる赤ん坊も、たぶん彼女はごく自然に受け入れることになるのだろう。そんな温かい気分にさせてくれる終わり方だった。

 映像的には、アップがないわけではないが、総じてカメラは引き気味で、ある程度距離を置いて人物を捉えようとしている。監督がプログラムのインタビューの中で「(観客が)登場人物一人ひとりの想いを感じとり共感できるように、レンズを通して登場人物を観察し、カメラの主観性を強調することを避けました」と語っているが、シーンを監督の主観で染め上げ、感じ取るべき方向を指示してしまうような映像が多い中で、じっと見詰めることで観客の想像力を刺激するやり方というのは、簡単なことではないが好ましい作り方だと思う。
 時折ロングショットで捉えられる風景の厳しさも素晴らしく、その中で営まれる家族の生活の厳しい現実をしっかり浮かび上がらせている。父親のオートバイがたどって行く道は、何もない荒野の起伏の中に細々と踏み固められただけの頼りないデコボコ道で、季節がめぐっても周囲に緑などはほとんど見えてこない赤茶けた土地なのである。こんな風土であっても、人々はそこで黙々と生活し、そこで生まれ育った子どもも一歩一歩着実に成長していくのである。何とも言えない豊かな余韻が残る、愛すべき映画だったと思う。
(岩波ホール、5月18日)
by krmtdir90 | 2017-05-19 16:42 | 本と映画 | Comments(0)

映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」

e0320083_1653117.jpg
 昔「マンチェスターとリバプール」というイギリス発の歌が流行ったことがあった。単純なメロディーがいまも頭に残っている。その記憶からこの映画もイギリス映画だろうと思っていたら違った。意外にもアメリカ映画だったのだが、らしからぬ地味な作りと映像の感じは、何となくイギリス映画のような雰囲気を持っていたと思う。
 アメリカにもマンチェスターという都市があって、それはボストンの北西80キロに位置するニューハンプシャー州最大の都市であるらしい。だが、この映画の舞台になったのはこのマンチェスターではない。ボストンの北東40キロの海沿いに、人口5000人ほどのもう一つのマンチェスターという町があって(こちらはマサチューセッツ州)、名前の混同を避けるために1989年に町の名前を「マンチェスター・バイ・ザ・シー」と改めたのだという。だから、この映画のタイトルは「海辺のマンチェスター」ではなく、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という町の名前そのものを表していたのである。ここはボストン富裕層の別荘地として発展した町らしいが、もちろんここに住んでいる普通の住民たちの町でもある。

 映画はまず、ボストン郊外のアパートに雇われて「便利屋」のようなことをしている一人の男の日常を映し出す。どことなく投げ遣りな雰囲気を漂わせ、一目見ただけで何か問題を抱えていることが想像される、無愛想で暗い目をした男である。これが主人公のリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)で、ある日、彼の携帯にマンチェスター・バイ・ザ・シーにいる兄が倒れたという連絡が入って来る。急いで病院に駆けつけると、兄のジョー(カイル・チャンドラー)は少し前に亡くなったところで、彼は兄の息子のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)に父親である兄の死を伝えたりしなければならなくなる。
 ストーリー自体が暗いので重苦しい場面ばかりが続いていくのだが、その中に彼らの過去と思われるエピソードが時々フラッシュバックされるようになる。映画としてのこの構造は非常に効果的なものになっていて、それによって、リーとジョーがそれぞれこの町でたどった人生が徐々に浮かび上がってくるようになっている。

 脚本・監督のケネス・ロナーガンは劇作家として活躍している人のようで、映画監督としては2002年と2011年に2本の映画を撮ったあと、この映画が3本目の監督作品になるのだという。日本で劇場公開されるのはこれが最初で、非常に特徴的な画面作りをする人だという印象を受けた。最近観たばかりだからちょっとエドワード・ヤンを思い出してしまったのだが、長回しのシーンがけっこう多く、細かいカット割りなどはしないで、やや離れた位置から人物のやり取りや動きをじっと凝視する感じである。彼らが何を感じ何を考えているかは明確に指示されることはなく、多くのものが観客の想像力に委ねられている。
 フラッシュバックされるエピソードには、リーとジョーがまだ小さいパトリックを連れて船で釣りに出た時のものがあるのだが、帰宅したリーには幼い女の子2人と生まれたばかりの長男、そして愛する妻との幸せな家庭があることが描かれていた。別のエピソードでは、ジョーが難しい心臓の病気で余命5~10年と医師から宣告される場面もあって、この時リーや父親とともに同席した妻とジョーはすでに離婚しているらしいことが示されていた。リーが高校生のパトリック(リーから見れば甥にあたる)と一緒に、葬儀の準備などをしなければならないのはこのためである。

 リーはパトリックを伴って弁護士のもとへジョーの遺言を聞きに行く。ここで、死を覚悟していた兄がパトリックの後見人としてリーを指名していたことを知るのだが、そのための費用などもすべて準備されているので、弁護士はリーにこの町に戻ってパトリックと住んでほしいと告げるのである。
 驚き困惑するリー。この男にはやはり、何か言いようのない問題があることを感じさせる。このあと、やや長いフラッシュバックによって、リーがこの町で経験した想像を絶する過酷な現実が明らかにされる。ネタバレになるので注意してほしいのだが、ある夜、彼が犯した小さな過失(暖炉にスクリーンをしないまま外出してしまった)によって家が火事になり、3人の子どもたちを焼死させてしまったのである。警察の調べのあと、彼は衝動的に警官の銃を奪って自殺を図ろうとするが阻止される。妻のランディ(ミシェル・ウィリアムズ)は助かったが、これがきっかけとなって2人は離婚、リーはこの町を離れボストンでたった一人、固い殻に閉じ籠もるような孤独な毎日を送ることになったのである。パトリックの面倒を見てほしいという兄の遺言はリーの心を揺さぶるが、彼の悲劇的な過去は容易に乗り越えられるようなものではなかった。

 火事のあと、彼の過失は罪に問われることはなかったが、それが彼の罪の意識を余計に肥大させ、彼を苦しめ続けているということなのだろう。後見人になったからといって、罪の記憶と結びつくこの町に住むことはどうしても考えられないリーは、何とか方策はないものかとパトリックにあれこれ働き掛けるのだが、現実的ではっきりした意志を持っている彼との間で、妥協点はなかなか見つからないのである。充実した現在の学校生活などを変えたくないパトリックと、過去の苦しみからどうしても逃れられない(したがってこの町には帰れない)リー。この2人のすれ違う思いを、この映画は丁寧にたどっていく。
 凡百の安直な映画なら、パトリックとの様々な経緯ののちに、リーは何とか過去を乗り越えてこの町に戻るラストシーンを用意するのかもしれない。だが、この映画ではそうはならない。リーの心情を痛いほど理解しながらも、「ここで一緒に住もう」と何とかリーを翻意させようとするパトリックに向かって、この映画は「どうしても乗り越えられないんだ。ここは辛すぎるんだ」というリーの悲痛な告白を映し出すのである。リーの再生は観客みんなが望んでいることだが、それができないまま、それでも生きていくしかないというエンディングは納得するしかないものである。

 リーの元妻ランディとの再会シーンも切ない。ジョーの葬儀の折、彼女は新しい夫とともに身重の姿で現れるのだが、悲劇から立ち直り、もう一度生き直すことを選択した彼女を見ても、リーは何も感じていないような曖昧な表情を見せるだけである。しばらく経って、彼は街なかで乳母車を押すランディと偶然遭遇するのだが、この時はリーへの思いが溢れた彼女が必死で赦しを乞うのを遮り、「俺は何とも思っていない。幸せになれ」と告げて立ち去るのである。このあと、バーで酒に酔ったリーは客と喧嘩になり、友人ジョージ(C・J・ウィルソン)の家で傷の手当てを受けながら涙を流す。
 この映画は安易な希望は描かない。だが、絶望がこの先もずっと続くのだというふうにも描いていない。リーはパトリックを友人であるジョージの家に託すこととし、みずからは再びボストンで生活する道を選択する。この結論に至る過程で、リーとパトリックの間にはささやかだが確かなつながりが生まれていることを、映画はきわめて控え目なかたちだが映し出している。春になるまで待たされたジョーの埋葬からの帰り道、歩きながら2人が交わす何ということもない会話がいい。ボストンで予備の部屋が付いたアパートを探しているというリーに、「何のために?」とパトリックが尋ねる。リーは「お前が遊びに来る」とボソッと答えるのである。

 直後のラストシーンは、ジョーの残した船に乗って、マンチェスター・バイ・ザ・シーの海で釣りをするリーとパトリックの遠景である。カメラは彼らの表情に寄ったりすることはないが、リーの中でほんの小さな部分だが溶け始めているのかもしれないと感じさせられるのである。実にさりげなく、淡々とした終わり方が素晴らしい。映画そのものの寡黙さが、実に多くのことを語っていると感じた。こういう映画、好きである。
(立川シネマシティ1、5月15日)
by krmtdir90 | 2017-05-17 16:53 | 本と映画 | Comments(0)

コピスみよし2017第16回高校演劇フェスティバル、スタート

 コピスみよし高校演劇フェスティバルは今年で16回目を迎えた。今回出演する高校生たちとほぼ同じ年齢を重ねてきたことになる。
 5月16日(火)に、今年最初の実行委員会と出演校打ち合わせ会があったので行って来た。毎年この季節になると集まってくる関係者の輪が嬉しい。高校生たちは毎年入れ替わっているのだが、それをみんなで支え、お客さまに楽しんでいただくための準備が今年も始まった。
e0320083_1134148.jpg
e0320083_11344412.jpg

by krmtdir90 | 2017-05-16 23:59 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

「寝台列車再生論」(堀内重人)

e0320083_2221523.jpg
 本書には「寝台夜行列車の存続・活性化に向けての提言」という副題が付いている。本書が上梓されたのは2年前の2015年7月である。「あけぼの」「トワイライトエクスプレス」はすでに廃止され、臨時列車に格下げされた「北斗星」も間もなく廃止、「はまなす」「カシオペア」は辛うじて残っていたが、北海道新幹線開業時(2016年3月)には廃止される方向と伝えられていた。こういうタイミングで書かれたものだから、「サンライズ瀬戸・出雲」を残してすべてが失われてしまった現在から見ると、記述のニュアンスなどに、まだ何とか可能性を見出してほしいという切なる願いが込められている感じがあって胸が痛い。すべてが手遅れとなり、クルーズトレインの馬鹿騒ぎのほかには何一つ建設的な方向性の見えない現況に、割り切れない思いばかりが募る気がして読み進めるのが辛かった。
 この2年間、わが国の鉄道をめぐる状況は悪化の一途をたどるばかりで、未来を見据えた抜本的な改革の兆しはまったく見えなかったと言っていいだろう。本書には非常に詳細で明快な(2年前時点での)現状分析(高速バスや格安航空機の参入、格安ビジネスホテルの盛況など)と、それを踏まえた上での寝台夜行列車の存続・活性化に向けた非常に建設的な「提言」が行われているのだが、JRはもとより政治・行政・マスコミなどのどの部署においても、これを真摯に受け止めようとする動きはまったく伝わってこなかった。
 本書の趣旨が「再生・復活」の方向を目指すものであることから、筆者は恐らく批判的な記述はできるだけ押さえ、希望的な未来について前向きに記述することに努めていたのだと思う。だが、現状がそれにまったく応えることができていないことを考えると、短気なわたしなどは激しい憤りを感じながら読み進めるしかなかった。筆者の展開する正論が少しも正当に受け止められていないことに、言いようのない苛立ちと空しさを覚えるのである。

 近年よく耳にする「観光立国」も「地方創生」も、結局はお題目ばかりで、そこに鉄道というものが担うべき役割について、誰もきちんと具体的に考えてはいなかったのだという気がしてしまう。多くの国々で、一時はどうにも回復不能の凋落を見せていた鉄道が、利用環境の変化と新たな乗客の獲得といった諸問題と正面から向き合い、きちんとした検討と対策を重ねることで、いまやまったく新しい理念の下で着々と復活を遂げているのである。そのことを知るにつけて、こうした問題に誰も責任を持とうとしないこの国の体質が、鉄道の持つ様々な可能性を日々閉ざして行きつつあることに、忸怩たる思いを強くするばかりなのである。
 JR九州のクルーズトレイン「ななつ星」が成功すると、東日本と西日本はただそれに追随するだけで、それが乗り鉄の鉄道ファンや寝台夜行の潜在的支持者たちにとって、まったく無縁の高嶺の花に過ぎないことを考えようともしないのである。こういうかたちでクルーズをやることを否定するつもりはないが、2地点を結んで誰にでも利用できる本来の寝台夜行の可能性について、まったく検討すらしていないように見えるその姿勢は問題と言わなければならない。それは日本の鉄道事業をいまもまだほとんど独占的に担っているJRとして、鉄道のあるべき姿やその未来像を描くことを放棄した重大な退廃と断じてもいいように思う。
 二匹目のドジョウを狙うばかりで、新たな観光モデルの創造や人口減少に直面する地方活性化のために、いま鉄道にどういう視点が必要なのかを考えようとしない、優良黒字会社・JR東日本と西日本の罪は重いと言わなければならない。リニアなどという、鉄道の未来に何ら資するところのない馬鹿げた計画にのめり込むJR東海は論外である。

 本書の中で筆者が提案している寝台夜行列車の具体的な未来像が、当事者であるJRによって無視され葬られていくのを座視するしかないのは悲しい。政治や行政やマスコミも、結局は経済効率や新幹線のスピードを金科玉条とする単一の価値観に踊らされるばかりで、赤字とされる古い在来線に、新しい価値が生まれつつあることにまったく気づこうとしないのである。庶民にはとても手の出ない成金趣味のクルーズトレインではなく、ちょっと背伸びすれば誰でも乗ることのできる寝台夜行列車を、分割されたJR各社(さらに第三セクター)の垣根を越えて走らせることが、いまどれほど新しい可能性を秘めているかに気づいてほしいと思う。
 本書が展開している「提言」は2年が経過しても少しも古びていないし、むしろその必要性はより高まってきていると思う。ここには採算性を度外視した夢物語は語られてはいない。きちんとしたコンセプトを持って寝台夜行列車を投入すれば、必ず採算が取れるという見通しが示されているのである。新幹線が通ったことによる青函トンネルの電圧の問題や、新幹線の並行在来線が第三セクター化されたことによる調整の困難といった問題は、要するにそれを廃止や実現不能の根拠にしようとすることが問題なのであって、やろうと思えばいくらでも突破の道はあることを、筆者は本書の中できちんと言及しているのである。
 昨今では、誰も寝台夜行列車の再生などを言い出さなくなってしまったように見える。だが、本書の「提言」を誰も否定している訳ではないのである。そんなことは誰にもできないし、そうであればこれは考えてみる価値のある「提言」だと思う。わたしはすっかり歳を取ってしまったが、できれば元気なうちにもう一度、寝台夜行列車で北海道に行きたいという切なる願いを持っている。
by krmtdir90 | 2017-05-15 22:02 | 本と映画 | Comments(0)

裏磐梯猫魔温泉・五色沼(2017.5.11~12)

 妻と温泉に行って来た。今回の選択意図はコストパフォーマンスで、裏磐梯レイクリゾートという宿を妻が予約した。昔は猫魔ホテルと言って高級リゾートホテルとして売っていたらしいが、経営不振で何度か経営者が代わり、名前も変えて現在では様々な旅行社のツアーなどでよく名前を見かけるようになっている。JTBのパンフレットで一人一泊13000円、東京駅とホテルの間に無料送迎バスが付いているというのを探したらしい。交通費がかからないのだから、これはなかなかお得感があって、こういうのも一度経験してもいいかもしれないと思った。車の運転は好きだが、ほとんどが高速道路でこの距離はかなり辛いだろうと思ったのである。
 家と東京駅の往復が通勤時間帯にかかってしまうのが難点だったが、どんな様子か判らないまま指定の鍛冶橋駐車場に行ってみたら、バスはほとんど満席の盛況だった。どんな人にとっても、いまやコスパは非常に重要な決定要素になっているのだろう。
 9:00に出発してホテル到着は13:15頃になった。そのままチェックインして翌日は13:00チェックアウト、帰りのバス出発は14:30ということだったから、ほぼ丸一日こちらに滞在できるようになっていた。

 行ってみたら、よくまあこんな巨大なホテルを作ったものだと驚かされる規模のホテルだった。フロントで館内地図をくれたが、信じられないくらい横長の5階建てに、何百室もあるらしい客室を埋めるのは至難の業だろうと思われた。空室のまま遊ばせておくよりも、値段を下げて少しでも稼働させる道を選んだのが現在の姿のようだった。
 元々がハイレベルの欧米型ホテルを目指した作りだったようで、部屋はかなり余裕のあるツインの洋室で、十分満足できるものだった。温泉の方は源泉掛け流しの大浴場と露天風呂があったが、当初はそれを売りにスタートした訳ではなかったからか、客室数を考えるととうてい収容し切れる規模とは言えないような気がした。ただ、もちろん非常に広々としたものではあって、現在の部屋の稼働率からすると十分余裕のあるものになっていた。露天風呂の作りは面白いものではなかったが、大浴場の方は時間帯によっては貸し切り状態に近くなることもあって、濁り湯の温泉を気分良く満喫することができた。
 そんなわけで、施設の方は満足できたが、これだけ安くしているとどこかで経費を切り詰めなければならないのだろう、バイキング形式の食事の品揃えはまったくいただけなかった。まあ、バイキングと聞いた時から期待していなかったから、これはこれで仕方がないことだと思った。

 出発時、東京は快晴で、気温も30度近くまで上昇する予報だったが、福島県に入るあたりから黒い雲が空を覆い、時折雨が落ちてくる不安定な天気になってしまった。現地に着いて驚いたのだが、裏磐梯ではいまがちょうど桜の時期で、木々の芽吹きがやっと始まったばかりという感じだった。冬の間に除雪した雪の山がまだ残っているような場所もあった。ホテルに着いた時は雨は降っていなかったが、黒い雲は垂れ込めたままで冷たい風も吹き荒れ、こんなに寒いとは予想していなかったので何とも気が滅入る状況だった。結局この日は、ちょっと外出したがすぐに帰って来て、温泉にはゆっくり浸かったが基本ダラダラと過ごすことになってしまった。
 翌朝、早起きしてみると、相変わらず雲はあるものの空は明るく、時折薄日が差すような天気なのでホッとした。空気はひんやりしているが風もほとんどなく、高原らしい爽やかな気候と言ってよかった。早朝と朝食後に風呂に入り、そのあと午前中を使って近くの五色沼に行ってみることにした。磐梯山の噴火(1888年)によって裏磐梯にはたくさんの湖沼群が形成され、その中で代表的な五色沼という探勝路がホテルのすぐ近くから始まっていたのである。
 探勝路は道幅もあり、全体としてはゆるやかな下りになっていたようだが、アップダウンもほとんどなく年齢に合った歩きやすい道だったと思う。思いがけず充実した散歩になったので、撮ってきた写真を少し掲載することにする。

 探勝路入口の小さな沼のほとりにあった桜(木々の芽吹き始めの感じも判るかと思う)。
e0320083_17254375.jpg
 青沼。
e0320083_17262573.jpg
e0320083_17265160.jpg
 この美しい青色は、水中に含まれるカルシウムや硫酸イオンなどの働きによるもので、成分の違いで沼によって様々な色合いが見られるようだ。

 ルリ沼。
e0320083_17274539.jpg
 ここは探勝路から少し離れていて、水面も高くなっているので色を見ることはできないが、説明によれば青沼と同じ美しい青色をしているようだ。
e0320083_17283770.jpg
 沼同士は小さな流れでつながっていて、流れの水も心なしか青みがかっているように見える。

 弁天沼。
e0320083_17294683.jpg
 かなり大きな沼で、深さもそれなりにありそうだが、美しい青色が全体に広がっている。
e0320083_17302364.jpg
e0320083_17305576.jpg
 周囲は常緑樹が多いのだが、点在する広葉樹の芽吹きの色が美しい。
e0320083_17313531.jpg

 竜(たつ)沼。
e0320083_17325848.jpg
 深泥(みどろ)沼。
e0320083_17332061.jpg
 この2つはちょっと奥まっていて、水面との角度もないので、水の色もよく判らない。

 赤沼。
e0320083_17335269.jpg
 周辺部に赤錆びた色も見えるものの、水の色は不思議な緑色である。
e0320083_17342538.jpg
 手前の木はカエデだろうか、芽吹きの色が非常に美しい。
e0320083_17345354.jpg
e0320083_17351911.jpg

 しばらく行くと、小さな流れが集まってかなりまとまった流れができていて、
e0320083_17355332.jpg
 その先で深い青緑色の沼に流れ込んでいた。
e0320083_1736208.jpg
 この左手一帯に広がるのが、五色沼の中で最大の毘沙門沼である。
e0320083_17364685.jpg
 これが一番高いところから見下ろした感じで、中央に島のように見えている向こう側にもまだ広がっている。探勝路はこの左側をアップダウンを繰り返しながら回り込んでいく。
e0320083_173811100.jpg
e0320083_17372562.jpg
 大きな鯉が悠然と泳いでいた。
e0320083_17384440.jpg
 毘沙門沼はさらに続く。
e0320083_17403683.jpg
e0320083_17405729.jpg
 この深い青緑は空の色を映しているのではない。水そのものが色を帯びているのである。  
e0320083_17412443.jpg
 ようやく毘沙門沼の尽きるところで階段を上り、五色沼探勝路は終わった。約3.6キロ、1時間半ほどのコースだった。

 最初、ゴールまで歩くかどうか決めていなかったので、帰りのことはまったく考えていなかった。さらに少し歩いて国道まで出て、バス停で時刻を調べたら1時間以上待たなければならなかった。近くに裏磐梯ビジターセンターというのがあったので、そこでビデオなどを見ながら時間を潰した。
e0320083_174419100.jpg
 この写真、建物の両脇の奥のところに雪が残っているのが判るだろうか。

 11:50発のバスでホテルに戻った(12:00過ぎに到着)。
 このホテルには複数のレストランがあるので、そのうちの一つでビールと昼食を取り、喫煙所で一服するため玄関前に出たら、ずっと見えていなかった磐梯山が姿を見せていた。
e0320083_17471296.jpg
 磐越西線や磐越道の側からだとこういう形は見ることができない。裏に当たるこちらからだと、成層火山の中央が噴火で吹き飛ばされたことがよく判ると思った。今回は見えないかなと諦めかけていたから、少し霞んでいたけれど見えてラッキーだった。

 帰りの送迎バスは14:25ホテル発、18:40東京駅着だった。裏磐梯はいままで行ったことがなかったが、なかなかいいところだと思った。
by krmtdir90 | 2017-05-13 17:48 | その他の旅 | Comments(0)

映画「恐怖分子」

e0320083_22391158.jpg
 まさかこのタイミングでこの映画が観られるとは思わなかった。個人的事情があって観られる日はきょうしかなかった。上映情報を見落とさないで良かった。

 「恐怖分子」が制作されたのは1986年、エドワード・ヤン(楊徳昌)の長編映画としては3作目になる。それは「台北ストーリー」(85年)の翌年であり、あの「牯嶺街少年殺人事件」(91年)との間には5年の間隔があるが、これらの作品は紛れもなく、エドワード・ヤンという監督がその才能を一気に開花させていった時期に当たっている。。
 「台北ストーリー」が興行的に失敗したということも関係していたのか、それに比べると「恐怖分子」は、ストーリーの構成や展開のさせ方に構造的な難しさはあるものの、登場人物の設定などは比較的平明なものになっていて、登場人物それぞれが抱えているものも判りやすく描かれていたと思う。3本目のエドワード・ヤンともなるとさすがに心の準備ができていたのかもしれない、最初から中盤かなりのところまで、相互に無関係な複数のストーリーラインが並行して並べられていくことにも、さしたる違和感を感じることなく付いていくことができた。

 ホームページのイントロダクションから、そのあたりのことを書き抜いておく。
 銃声が響き渡る朝。警察の手入れから逃げ出した混血の少女シューアン①。その姿を偶然カメラでとらえたシャオチェン②。上司の突然の死に出世のチャンスを見出す医師のリーチョン③と、執筆に行き詰まる小説家の妻イーフェン④。何の接点もなかった彼らだが、シューアンがかけた一本のいたずら電話が奇妙な連鎖反応をもたらし、やがて悪夢のような悲劇が起こる……。
 丸囲み数字を入れたのはわたしだが、①の不良少女シューアン(ワン・アン)には母親や不良少年と関わるストーリーがあり、②のアマチュアカメラマン・シャオチェン(マー・シャオチュン)には恋人との関係や徴兵を忌避したいと願っている背景がある。シャオチェン②は偶然撮影したシューアン①のポートレートを壁に貼ったりしているが、無関係だった2人は中盤あたりでもう一度出会うことになり、言葉を交わしたりするが関係ができるわけではない。
 何の接点もない複数のストーリーラインの中で、一応の中心をなしているのは③リーチョン(リー・リーチュン)と④イーフェン(コラ・ミャオ)の夫婦である。彼らの関係はすでに冷え切っていて、イーフェンが別れ話を持ち出したことからラストのリーチョンの「悲劇」にまでつながっていくのだが、④イーフェンには元カレと思われる男とのストーリーがあり、③リーチョンには病院の上司との出世に関わる駆け引きや、古い友人らしいクー警部(クー・パオミン)との経緯などがからんでいる。

 詳しく書き出すときりがないので止めておくが、シューアン①が電話帳から適当に選んでかけたいたずら電話を受けたのがイーフェン④で、これがきっかけになって無関係だった各々のストーリーが接点を持ち始めていく。つまり、すべては偶然の成り行きなのだが、その過程でバラバラだったはずのエピソードがサスペンスを帯びた不穏な空気を醸成していく。このあたりのエドワード・ヤンの語り口は素晴らしい。
 この映画では、冒頭の警察の手入れのシーンが、距離を置いて何が起こっているのか判らないような撮り方をしているのを別にすれば、それぞれのストーリーに関しては、フレームが比較的はっきりと一人一人を捉えているので、その映像が何を意味するのかは絞り込みやすいようになっている。そういう意味では、わたしが観た3本の中ではこれが一番わかりやすい作りになっていると思った。

 もう一つ、「台北ストーリー」とこの「恐怖分子」において、エドワード・ヤンの作り出す映像の素晴らしさというのも特筆すべきものだと思った。80年代半ばの台北の、何でもない風景、街並みやビルや街路といったものが、彼に切り取られると何とも言えない美しさと艶のようなものを発するのである。それは、まったくどうということもない部屋や壁面、廊下や階段といったものを捉えても同様である。夜景や陰影の際立つシーン、「恐怖分子」では夕景の沈んだ時間帯の美しさ(「台北ストーリー」なら富士フイルムのネオンサインだろうか)が際立っていた。背景が、その中にいる人物の心象風景のように混ざり合ってこちらに沁みてくる。何でもない小道具まで、何か深い存在感を持つように置かれている気がして、それらの映像に触れるだけで、これがエドワード・ヤンの映画なのだと納得させられるのである。
 シャオチェンが壁一面に貼った、何枚にも分割されたシューアンのモノクロのポートレートが、開け放たれた窓からの風に不規則になびいているカットの美しさには息をのんだ。美しさというのとはちょっと違うかもしれないが、こんな斬新なカットを撮れる監督はエドワード・ヤンのほかにはいないだろう。インターネットの画像の中にそれを見つけたので、転載させていただく。
e0320083_22395062.png
 このほかにも、印象的なカットを挙げ始めたらきりがない。30年前に撮られた映画にもかかわらず、いささかも古びていない映像の連続に脱帽という気分だった。

 この映画のラストには、現実と非現実が突如交錯するような思いがけない展開が用意されている。ここは解釈の分かれるところなのかもしれないが、カットの並びを普通に考えれば、リーチョンが病院の上司やイーフェンの彼氏を射殺するシーンは現実ではないだろう。だが、その後に映し出されるカットにエドワード・ヤンは余計な説明を加えていないから、自殺して頭から血を流すリーチョンのカットを含めて、恐らく現実であるはずのシーンの方も、どことなく不安定な揺らぎを見せているように感じられるのである。
 前の方で「小説と現実は違う」とイーフェンは言うのだが、「映画と現実は違う」というところが錯綜し始めている感覚と言ったらいいだろうか。実際にはイーフェンの彼氏は死んでおらず、彼とベッドを共にしたイーフェンが必死に嘔吐をこらえるラストシーンの、何とも言えない不吉な切迫感は尋常ではない。彼女は夫の自殺を知っているはずないのだが、小説に書いた夫の自殺が現実になっていることを、衝撃とともに突然感じ取ってしまったように見えてしまう。現実と非現実、時間と空間が突如溶解してしまったような、目まいのような感覚が後に残るのである。
 この張り詰めた空気がエドワード・ヤンなのである。これは一度触れてしまうと抜けられなくなってしまうものかもしれない。

 初めて行く「ユジク阿佐ヶ谷」は、阿佐ヶ谷駅北口から徒歩5分もかからなかった。道の向かいは普通の住宅が並んでいる。小さなビルの地下にある、何ともセンスのいい可愛いミニシアターだった。
e0320083_2240562.jpg
 44席という座席は半分以上埋まっていたと思う。あまり人に教えたくない感じの、隠れ家的?で病みつきになりそうな映画館だった。
(ユジク阿佐ヶ谷、5月10日)
by krmtdir90 | 2017-05-10 22:44 | 本と映画 | Comments(0)

映画「台北ストーリー」

e0320083_1235961.jpg
 エドワード・ヤン(楊徳昌)は7本の長編映画を残して、2007年6月に59歳で亡くなっている(今年は没後10年の節目になるようだ)。本作はその2本目にあたる作品だが、台湾での公開時に(不評で)4日間で上映打ち切りとなり、日本では公開されないまま今日まで来ていたものらしい。制作は1985年、あの「牯嶺街少年殺人事件」(4本目)が1991年だから、先立つこと6年ということになる。「牯嶺街」は1960年ごろの台北を舞台にしていたが、こちらは制作時の現代である1985年の台北を描いている。
 わたしはエドワード・ヤンの映画をこの2作しか観ていないし、当時「台湾ニューシネマ」として注目されたホウ・シャオシェン(侯孝賢)の映画も観ていない。いまから思うと残念なことをしたと思うが、これからDVDを探して観てみようと思うほど若くもない。

 「牯嶺街」を観た時に驚いたエドワード・ヤン監督の特徴、対象を見詰める時の距離感や様々なものを一体的に捉えようとする語り口といったものは、この「台北ストーリー」ですでにほとんど確立していたように思われる。それは当時としてはきわめて先鋭的な手法であり、当時の観客に理解されないまま4日間で終わってしまったことも判るような気がする。
 わたしは「牯嶺街」を観て判っていたから、この点については驚かなかったが、そのぶん映画に対する共感度は少し下がってしまったかもしれない。主人公たちの年齢がこちらは20代、「牯嶺街」は10代ということも大きかったかもしれないし、時代背景の違いや描かれる場所の違いも関係していたかもしれない。いずれにせよ、この映画にわたしはそれほどのめり込むことはなかった。「なるほどな」と思いながら、終始冷静な気分で観ていたように思う。

 急速な経済成長下、目まぐるしく変貌していく台北という都市の中で、男のアリョン(ホウ・シャオシェン)が変わらない(変われない)ものを代表し、女のアジン(ツァイ・チン)が変わろうとするものを代表していることは判ったが、彼らの内面や行動にもう一つ近づけなかったのはなぜだったのだろう。変わりたい、変わらなければならないという願いは、容易に変われるものではないという思いとともに「牯嶺街」にも描かれていたものだが、あの映画では10代の少年少女たちの様々な姿の先に、突き抜けていく可能性のようなものがもしかすると内在していたということかもしれない。
 「台北ストーリー」にはそういう気分はない。違う方向を向いているアリョンとアジンが、どちらにしても先の見えない現状にただ戸惑い立ち尽くしているように見えて、八方塞がりの一種の倦怠感のようなものが全体を覆っているように感じられた。

 エドワード・ヤンは安易な希望を描いたりする監督ではないから、もちろん「牯嶺街」にもそんなものはどこにもなかったと思う。だが、少年少女を描くということは、彼らの未来や可能性を閉ざすことはできないという前提を常に内在していることでもある。死んでしまったシャオミン(小明)のそれは失われてしまったが、プレスリーに夢中のワンマオ(王茂)が最後に出てきた意味はそこにあったのかもしれないと思う。
 「台北ストーリー」が描く20代の青年たちにとって、前提は揺らぎ始めているということになるのだろう。エドワード・ヤンは安易な絶望を描いたりもしないが、どちらに向かっても容易ならざる困難にぶち当たるというのが、1985年の前提になっていたのかもしれない(「万能薬」はどこにもないのだ)。変わる変わらないは確かに大きな問題だが、死んでしまうアリョンを「消えていく古いもの」の象徴のように考えるのは間違っている。生き残ったアジンであっても、一歩を踏み出すには大きな躊躇を伴っているように見えるからである。

 たぶん、エドワード・ヤン監督はこの映画で、「どう進めばいいか判らないじゃないか」という困惑と苛立ちを描いているのではないか。それは「牯嶺街」にもあったものだが、動こうとして動けない感覚はこの「台北ストーリー」の方が強いように思う。時代の変わり目というのは常に混沌としたものだが、1985年という現代をこのように捉えたエドワード・ヤンが、6年後に1960年前後の少年少女に還ろうとした理由がここにあるような気がする。
 「牯嶺街」の少年たちは、とにかく動くしかないという闇雲な焦燥感に囚われていた。幾つかの死があったが、不思議とそれが無意味という気はしなかった。「台北ストーリー」で描かれたアリョンの死は、文字通り行きずりの死であって、あとに空しさしか残さなかったように思う。この映画が与えた衝撃は理解できると思うが、いまわたしにこれ以上近づく気が起こらないのは、そのあたりに原因があるのではないだろうか。重要な映画であることは理解するが、「牯嶺街」という凄い映画の前では少々霞んでしまうことも事実だったと思う。
(渋谷ユーロスペース、5月8日)
by krmtdir90 | 2017-05-09 12:04 | 本と映画 | Comments(0)


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
ブログジャンル