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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「パターソン」

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 ジム・ジャームッシュの映画が初めて日本に紹介されたころは、わたしはまだ浴びるほど映画を観ていた時期だから、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」や「ダウン・バイ・ロー」は確かに観ている(プログラムも探せばあるはずだ)。だが、その後長いこと映画と離れてしまったために、昔の映画のことはほとんど思い出せなくなってしまった。この2本のことも、内容などはまったく思い出すことができない。
 彼の生年は1953年のようだから、1984年の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は31歳の時の映画である。だが、時代に逆行するかのようにモノクロで撮られた2本の映画は、若くスタイリッシュな映画でありながら、年齢に似合わず妙に老成した感じがするなと思った記憶があったと思う。今回この「パターソン」を観ていて、なぜかジム・ジャームッシュ特有の「ゆるさ」というか、劇的なことが何も起こらない淡々とした語り口のようなもの、その醸し出す不思議な気分だけはずっと印象に残っていたのだと気付いたのである。

 今回の映画は、ジム・ジャームッシュの名前に懐かしさを覚えて観に行ったのだが、製作年が2016年だから63歳になって撮った映画ということになる。この間、彼がどんな映画を撮り続けていたのかは知らない。だが、見始めてすぐに「ああ、この語り口がジム・ジャームッシュだ」と納得できたように思う。若いころは、一つの町にとどまることのできない「ストレンジャー」を描いていたジム・ジャームッシュが、歳を重ねて、もうどこにも「動かない」主人公を選んだことが何となく判るような気がした。
 一つの町にとどまって「どこにも行かない」主人公の職業が、その町の中を回遊するバスの運転手というところが面白い。その町はアメリカのニュージャージー州にあるパターソンという町で、彼の名前もまたパターソンというのである。
 恐らく30歳を少し過ぎたぐらいと思われる彼と、その周囲の人々との平凡な一週間をジム・ジャームッシュは淡々と写し取っていく。月曜日の朝から始まり、翌週の月曜日の朝まで、一日一日の変わらない繰り返しとともに、彼や彼の周囲で起こるほんの小さな出来事や変化をすくい上げていく。その眼差しは静かで、対象を見詰める姿勢はこの上なく温かい。だが、単調と言えばこんな単調な映画もないだろう。ところが、この何でもない繰り返しと微妙な変化が何とも言えず面白いものに見えてしまうのである。これがジム・ジャームッシュなのだ。

 このパターソン(アダム・ドライバー、無口の好演!)の変わり映えのしない一日を、プログラムのストーリーから書き写してみることにする。
 彼の1日は午前6時過ぎ、隣に眠る妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ、実に魅力的!)にキスするところから始まる。朝食を取り、家から車庫まで歩いて、運転手としての乗務をこなすパターソン。フロントガラスに広がる街を眺め、周囲の会話に耳を傾けるうち、彼の中に詩が生まれる。それを彼は秘密のノートに書きとめていく。帰宅後はローラと夕食、そして愛犬マーヴィン(ブルドッグ、演技してる!)と夜の散歩。バーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで、ビールの匂いとともにローラのそばで眠りにつく。
 まとめてしまえば確かにこうなるのだが、繰り返し映し出されるその一つ一つのシーンやディテールが、まったくどうということもないのだが、実に楽しく惹きつけられてしまうのだ。

 パターソンはバスの運転手だが詩を書いている。彼の書いた詩が、彼の筆記体で時々画面に紹介されたりする。彼をこの映画の対象として映し取っているのはジム・ジャームッシュだが、パターソンが詩人であり、その視線や感性が周囲の様々なものを見て様々なことを感じ取っているという構造になっていることが、この映画の基本的なトーンを形づくっている。日常的な繰り返しが単調なものにならず、毎回新鮮な繰り返しとなっているのはそのためである。
 妻のローラはアーティスト志向があり、まだやりたいことが絞れていないようだが、いろいろなことに挑戦したり試みたりしている。2人はお互いのすることを尊重していて、パターソンの詩やローラのすることを互いにリスペクトしていることが、日常のほんのちょっとした仕草や言葉などから感じ取れるようになっている。いい関係だなということが自然に理解されるし、2人はこの変わらぬ毎日を愛おしんでいるのだということが自然に伝わってくるのである。

 もちろん、映画が描く一週間に何も起こらないわけではない。パターソンが愛犬を散歩させながら毎晩通うバーでは、マスターと奥さんとのちょっとした言い争いがあったり、しばらく会っていなかった旧友との再会があったり、失恋した常連の男が彼を振った女につきまとって起こす小さな事件があったりする。仕事中の彼は、電気系統の故障でバスが立ち往生してしまい、お客を降ろして代わりのバスを呼ばなければならない事態に遭遇したりする。
 それぞれが当人にとっては重大なことであっても、映画として見ればきわめてささやかな彼らの日常の一部にすぎない。妻のローラにもいろいろなことが起こっているが、そういう意味ではとりたてて記録しなければならないようなことではない。だが、ジム・ジャームッシュはそうしたことを丁寧に拾い上げ、彼女の心の揺れや喜びといったものを浮かび上がらせている。ローラは自分の気持ちを素直に表に出す女性で、ここではパターソンは常に受け身の位置で彼女を見詰めている。小さな出来事だから逆に彼らの姿が鮮明に浮かび上がるということなのだろう。

 休日の土曜日と日曜日に起こる出来事は、ジム・ジャームッシュが映画的なストーリー展開のために意図的に仕掛けた部分である。それ以前にも、パターソンが仕事からの帰り道、偶然出会った詩を書くという女の子とのエピソードなど、明らかにストーリーのために一定の役割を担うシーンは紛れ込んでいるのだが、最後の部分に、少しだけドラマチックな要素を入れなければ映画が終わらないと考えたということがあったのかもしれない。
 土曜日に早起きしたローラは、大量に作ったカップケーキを市場に持って行って売るのだが(市場の場面はない)、思いがけず大人気を博して望外の売り上げを手にすることになる。彼女とパターソンは幸せな気分で、お祝いの夕食と久し振りの映画に出掛けていく。そして、帰宅した彼らは、パターソンの詩のノートを愛犬マーヴィンがズタズタに食いちぎってしまったのを発見するのである。パターソンのショックは大きく、ローラはどうにも慰めようがない。
 日曜日、失意のまま一人散歩に出掛けたパターソンが、普段からよく行く公園の滝の見えるベンチに腰掛けていると、日本から来たという旅行者の詩人(永瀬正敏)が話し掛けてきて、少し会話することになる。これは明らかにジム・ジャームッシュの仕掛けた作為だが、この旅行者がパターソンに立ち直りの契機となるような言葉を残して去って行くのである。

 こういうのは、ストーリー的には見え透いているけれど許せてしまう感じがするのである。ジム・ジャームッシュはストーリーをドラマチックに描くことはしないが、そうしたものをはなから否定しているわけではないのだ。
 旅行者の詩人は別れ際に、白紙のノートをパターソンにプレゼントする。前の晩にパターソンに降りかかった悲劇を彼は知る由もないのだから、これはあまりにご都合主義だと言えないわけではない。だが、ジム・ジャームッシュがそんなことに気付いていないわけはない。ジム・ジャームッシュはありのままの日常をいかにも淡々と、飾ったり強調したりせずそのまま写し取っているように見せながら、実は非常にスタイリッシュな作為によって埋め尽くしているというふうにも考えられるのだ。ノートとともに残される言葉「白紙のページに可能性が広がることもある」というのは、ジム・ジャームッシュがこの映画で残そうとしたメッセージであり、この監督はそういうものを排除しているわけではないのだと思う。
 思いがけず最後に現れる語り口の作為がストレート過ぎるところに、この監督の自信に満ちた率直さが表れているような気がした。こういうの、悪くないと思う。
(新宿武蔵野館、9月28日)
by krmtdir90 | 2017-09-29 10:35 | 本と映画 | Comments(2)

映画「エイリアン コヴェナント」

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 すべての始まりとなった「エイリアン」は1979年の映画である。監督のリドリー・スコットはこの映画の大ヒットでその地位を確立し、次の「ブレードランナー」(1982年)の製作につながっていく。一方「エイリアン」の続編「エイリアン2」は7年後の1986年にジェームズ・キャメロン監督によって製作され、これもまた大ヒットを記録した。その後は、1992年に「エイリアン3」(監督デヴィッド・フィンチャー)、1997年に「エイリアン4」(監督ジャン=ピエール・ジュネ)と、間隔を空けながらすべて異なる監督によって製作されてきたようだ。
 わたしは最初の「エイリアン」と「2」は観ているがその後は観ていない。観ているものも例によって細かい点などほとんど覚えていないので、このあたりの経緯や作品のつながりなどは、調べてみるとなかなか興味深いものがあるようだが、そこに深入りすることはやめておく。
 いずれにせよ、初作の監督であったリドリー・スコットが、2012年に製作した映画「プロメテウス」において再びあのエイリアンを登場させ、この映画自体は賛否両論あったようだが、同監督がその続編として製作したのがこの「エイリアン コヴェナント」だったようだ。わたしは「プロメテウス」を観ていないし、このあたりのつながりを事前に把握していたわけでもないので、観ていてやや判りにくい部分があったのは確かだが、娯楽映画としては十分楽しむことができたと思っている。

 リドリー・スコットが30年以上の時を経てもう一度「エイリアン」に帰って来たのは、時系列的には初作よりも前に遡って(「2~4」とは逆に、このシリーズではまだ描かれていない過去に)、エイリアンという恐ろしい生物がどうして生まれたのかという誕生の秘密を明らかにするためだった。そこにはアンドロイドと人間という新たな対立軸が設定されていて、「プロメテウス」「コヴェナント」ではアンドロイドこそが新たな恐怖の源として登場してくることになったのである。
 いまエイリアンの恐怖を描くだけでは二番煎じになることが見えているから、リドリー・スコットの興味はもうそこにはなかった。それに気付くまでに若干の時間がかかった。エイリアンの攻撃の凄まじさは相変わらずこれでもかと描かれるが、そのスリリングなホラータッチは十二分に活用しながら、リドリー・スコットは一方で2人(2体?)のアンドロイドに視点を据えることで、これまでとはまったく異質な恐怖をじわじわと醸し出して見せるのである。彼がやりたかったのはむしろこちらの方で、だとするとエイリアンの描写に時間をかけすぎたために、後半の「種明かし」の部分の描き方はかなり駆け足で乱暴になってしまったように感じた。

 宇宙船コヴェナント号に乗り組んでいるアンドロイドはウォルターという名前である。それに対し、映画の中盤で登場してくるもう一人のアンドロイドはデヴィッドという名前を持っていた。そして、このデヴィッドは10年前に消息を絶った宇宙船プロメテウス号に乗っていたアンドロイドだったということらしい。このことが今回のストーリーの鍵になっているのだが、前作「プロメテウス」を観ていない者にも必要なだけの情報は入っているからつながりは判ったけれど、そこにあるストーリーが腑に落ちたかといえばやや不満が残る結果になっていたと思う。
 このウォルターとデヴィッドを二役で演じたのがマイケル・ファスベンダーという俳優で、アンドロイドらしい無表情・無個性の雰囲気を漂わせながら、両者の微妙な(しかし決定的な)違いを演じ分けていたということのようだ。観る側としてはそのあたりが判りにくかった感じは否めず、最後の「すり替わり」(あれ、ネタバレか)のところも、わたしはしばらく意味が判らなかった。結果的にアンドロイド(デヴィッド)とエイリアンが結びつき、邪悪なるものの勝利で終わるエンディングになっていることも併せて、そこに説得力があったかといえば疑問符が付くような気がした。
 恐らく初作の「エイリアン」以降、このシリーズがエポックメイキングな大ヒットを記録したことが、最初にこれを生み出したリドリー・スコットをこんなふうに動かしたのだろうが、今回のストーリーに登場する邪悪なる生物(兵器)はエイリアンのイメージである必然性はなく、むしろまったく異なるイメージで出現させた方が面白かったのではないかと感じた。エイリアンがこんなふうに生まれた(作られた)のだという「出自」を作ってしまったことは、かつての映画でエイリアンが持っていた底知れぬ不気味さを無化してしまう結果となってしまったのではないだろうか。それは何だか納得できないという気分が残るのである。
(立川シネマシティ2、9月26日)
by krmtdir90 | 2017-09-27 13:22 | 本と映画 | Comments(0)

高校演劇2017、西部A地区秋季発表会(2017.9.23~24)

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 9月23・24日、朝霞市コミュニティーセンターで行われた演劇の西部A地区秋季発表会に行って来た。2日間で7校の上演が行われたが、久し振りに楽しい時間を過ごさせていただいた。以下、上演順にわたしの感想を書いていくことにする。いつものように率直に書かせてもらうので、少しの批判で傷ついてしまう人は読まない方がいいかもしれない。ついでながら、批判されることが許せない人は上演なんかしない方がいいのではないかと思う。こんな前置きをしなければならないのは残念である。

和光国際高校「たりたの疾風」
 この人の書く台本は相変わらず説明ゼリフ過多で、登場人物が状況や心情を説明してばかりいるので、人物像がちっともふくらんでこない。人物がストーリー展開のために操られている(奉仕させられている)だけのように見えてしまう。「追い込まれた時こそ…」というキーワード(テーマ?)を最初から連呼してしまうので、本来セリフのやり取り(その作り出す関係や状況変化など)から自然に浮かび上がるべきプロセスが、この台本ではすっぽり落ちてしまっているように思われた。そういう部分が不足しているため、役者は非常にがんばっているのに(殺陣なども)、がんばればがんばるほど役に酔っている(役に対する冷静な視点がない)ように演じるしかなくなっていくのだと思った。
 生徒たちのやる気が、こういうかたちでうまく生かされていないことが残念でならなかった。

細田学園高校「ぼくんち」
 子ども(この場合は小学1年生)を舞台上に作ろうとする時、いかにも子どもっぽく作ろうとしてしまうと失敗することが多いのではないか。これは老人の場合でも同じなのだが、老人ぽく作ろうとした瞬間に老人は舞台上からいなくなってしまう。これは、舞台で様々な役を作ろうとする時の一般論としても言えることで、いかにもそれらしく作るのは危険も大きいと知るべきである(お笑いやギャグなどで意図的にそれを作ることはあるので、一概には言えないが)。
 この台本は子どもたちをどんなふうに作ったらよかったのか、観ていてあまり面白く感じられなかったのは、どうもそのあたりの作戦の立て方にミスがあったように感じた。あと、審査員の指摘から台本を見せてもらったが、ラストの書き換えはあまり適切とは言えないと思った。

新座総合技術高校「アメリカンに謎解きを。」
 生徒創作だが、いま流行の刑事ドラマとはいえ、一つのストーリーを曲がりなりにも最後まで作り上げていたことには感心した。だが、そのストーリーを舞台でかたちにしていくためには、お芝居の様々な約束事(舞台上の制約)といったものをもっと勉強する必要がある。台本を書く時はどんなことに気をつけなければいけないのか、それを知らずに創作台本に挑戦するのは危険だということである。せっかくのストーリーも生かされることなく終わってしまうと思う。
 キャンディスといったぶっ飛んだキャラを作り出したところなど、いかにも生徒らしくて楽しかったが、このキャラが面白すぎた反面、他の捜査一課の面々が若干個性に欠けていたような気がした。せっかくなのだから、全員にもっと思い切ったデフォルメをしても良かったのではないか。

朝霞西高校「スナフキンの手紙」
 このところ、鴻上尚史・高橋いさをといった往年の傑作戯曲に連続して挑戦している朝西だが、今回の舞台が一番きっちりと仕上がっていたのではないか。審査員の指摘にもあったように、鴻上の台本を1時間にカットしようとすると、どうしても最も鴻上らしい笑いのシーンをどんどん切るしかないのだが、それを認めた上で、今回のこの舞台は精一杯楽しめる舞台に仕上がっていたと思う。
 1、2年生混成の役者陣だったが、あまり凹凸なくそれぞれのキャラクターを際立たせていたし、セリフや動きのテンポも快調で、ストーリーをきちんと転がしていたのには感心した。確かにカットのため若干判りにくくなってしまったところはあったものの、元々よく判らん鴻上の芝居を、大きな乱れもなくしっかり最後まで見せ切っていたのは立派である。

朝霞高校「りんごの木の下で」
 シチュエーションの作り方にかなり無理がある台本だと思うが、演技でそれなり誇張するところは誇張しながらも、ギャグ的な動きなどに安易に逃げることをせず、セリフの作り出す関係性の面白さや、行き違いや勘違いの微妙な間といったもので、つまり芝居そのものの面白さを表現することで、客席の笑いを取っていたのは立派だった。遠慮なく言えば、お母さん役以外の生徒はお世辞にも上手いとは言えないレベルだったが、最後までブレることなく愚直にそれぞれの役を演じ切ったことが、後半になって次第に客席を掴んでいった理由だったと思う。
 今回の舞台で朝霞の生徒が獲得した客席の笑いは本物だった。そのことを忘れないで欲しいと思った。芝居の出来はまだまだなんだけどね、それでも客席を掴んでしまうということはあるのだ。

新座高校「お葬式」

 新座は生徒が代替わりすると、前に上演した得意な台本を再演する試みをよくやっているので、この台本も何度目かの上演だったはずである。そんなに覚えているわけではないが、過去の上演で素晴らしい「お葬式」があったという記憶はあって、それからすると今回の舞台はあまり面白いとは思えなかった。細田のところで書いたことに重なるが、やはり子どもっぽく作ろうとし過ぎてしまったことが問題だったと思う。それと関係すると思うが、(言い方が難しいのだが)細部をきちんと作ろうとするあまり(それは悪いことではないのだが)、以前は魅力であった新座的な「ゆるさ」といったもの(自然な感じ)が失われていたようにも感じた。 
 もちろんいろいろなところを作らなければ芝居にはならないのだから、難しいものである。

新座柳瀬高校「Lonely My Sweet Rose」
 「星の王子さま」の翻案である。数年前に上演したものの再演だが、今回は台本の構成がより明快になったように感じられ(台本はほとんど変えていないということだったが)、ラストがよりドラマチックになったのは確かで、柳瀬でなければ作れない舞台をしっかり見せてくれていたと思う。
 照明効果の美しさは息を呑むばかりで、ファンタジーの世界を見事に構築していたと思う。それは認めた上で、照明プランはもう少し単純にできるのではないかと感じた。見せ場となるイメージ明かりは別にして、エリア明かり(地明かりや単サス)を細かく作り過ぎたために、シーンの安定感(安心できる時間)が損なわれたように感じられるところがあった。それに、これだけやってしまうと、役者の立ち位置と当たりの微妙なズレなども必要以上に気になってしまったように思う。

 今回はコンクールなので、全日程終了後、審査員から顧問に対して地区の上位2校(県大会進出の可能性がある)が伝えられたが、わたしの見方と合致していたので安心した。ブロックとしては、次の土日に行われる南部地区の結果を待たなければならないが、何とかA地区から2校を実現して欲しいと願っている。皆さん、お疲れさまでした。
by krmtdir90 | 2017-09-25 17:39 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」

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 書かなくてもいいかと思ったが、観たのだから一応記録として残しておくことにする。本当は別の映画を観ようと思って家を出たのだが、中央線の電車が大幅に遅れて間に合わなくなってしまったのである。急遽スマホでいろいろ当たった結果、時間もあまりロスすることなく、まあ観てもいいかなと思ったのがこの映画だった。瀬長亀次郎の名前は知っていたが、詳しいことは何も知らなかったので、偶然の成り行きとは言えいい機会かなと思ったのである。それにしても、このタイトルはいただけない。

 調べてみると、監督をした佐古忠彦という人は、写真を見るとTBSのニュース番組などでよく見かけた顔で(キャスターだった?)、この映画もTBSの報道スペシャルか何かで放送したものを再構成したものだったようだ。
 見ている途中に、何となくテレビの特集番組を見ているような感覚になったのは、そのせいだったのだ。同じドキュメンタリーと銘打っていても、テレビのそれは映画とはまったく異なるものだったのだなと再認識した。映画のドキュメンタリーとして見ると、これはいかにも薄味で物足りないもののような気がした。表面をサラッと撫でただけと言ったら厳しすぎるかもしれないが、対象(瀬長亀次郎)に対する切り口が不鮮明で、切り込み方も甘い印象は拭えなかった。対象が大きな存在であることに、監督が頼り過ぎているような気がして仕方がなかった。

 非常に魅力的な人物を取り上げているのだから、それをどう描くのか、その核心にどう切り込むのかといったところでは、監督としての映画的力量が問われるということなのだろう。佐古忠彦氏は誠実に対象と向き合っていたことは認めるが、その姿勢はテレビでは通用しても、映画ではそれだけでは物足りないということになるのだと思う。
 沖縄現代史を考える上で、瀬長亀次郎は落とすことのできない重要な人物だったようだが、佐古氏はその人間的魅力をかなり描き出していたとは思うが、映画としてはまだまだ不十分だったと言わなければならないのではないか。テレビなら許すけれど、映画ではわたしが期待するものは違うのだということを強く考えてしまった映画だった。
(渋谷ユーロスペース、9月22日)
by krmtdir90 | 2017-09-22 21:47 | 本と映画 | Comments(0)

映画「三度目の殺人」

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 チラシには「犯人は捕まった。真実は逃げつづけた」とある。真実はどこにあったのか、最後まではっきりしないまま終わってしまう映画だという前評判が聞こえてきた。注目の是枝裕和監督の新作は福山雅治・役所広司主演の「法廷劇」だった。
 思いがけない題材に挑戦しながらも、この監督の力量が遺憾なく発揮された面白い映画だったと思う。「法廷は真実を解明する場ではない」という現職弁護士の言葉に触発されたというが、一つの殺人事件をめぐる犯人(被告)と弁護人、さらには検察官と裁判官、被害者家族などの思惑や駆け引きがスリリングに展開し、緊迫したミステリでありながら、最後の謎解き(真実)に関しては意図的に曖昧な部分を残して終わるという、そこが何とも興味深く面白いと思った。最後には真実に到達して大団円になるという、従来の法廷劇とは一線を画したスリリングな映画になっていたと思う。

 以下、ネタバレです。しかしながら、その結末については、巷間騒がれるほど「はっきりしない」ものだとは思えなかった。殺したのはやはり三隅であって、それは咲江を救うためであったということでいいのではないか。咲江が三隅を助けるために、みずからの辛い事情を証言すると言っていることを聞き、それを阻止するため一転、殺害を否認したと考えて間違いないと思った。真実が見えにくくなっていることは確かだが、真実は存在しないわけではなく、映画が描いた事実の中に存在していることは確かだからである。監督はそれをわざと隠したり、誤った情報を紛れ込ませたりしているわけではないはずである。
 確かに、三隅が咲江のために殺人を犯すまで行ってしまった、その心情がどのようなものだったのかは簡単には判らない。また、咲江がそのことをどんなふうに感じているのかも判らない。人はいつも真実を語っているわけではないし、むしろその場その場で様々なことを忖度したり取り繕ったり、自分に都合のいい言葉しか発していないものなのかもしれない。だから、判らないことはまだたくさんあるし、すべてが明らかになったとはとても言えないかもしれない。だが、実に逆説的な言い方になるが、監督はだからこそこの映画で、「真実はある」ということを描こうとしたのではないかと感じた。
 それゆえに、事件の真実に接近しようとさえしないまま、淡々と死刑が言い渡されてしまう裁判制度の現実が浮かび上がったのではないか。法廷が真実を解き明かす場とならないばかりか、真実を知る三隅や咲江の前を簡単に通り過ぎてしまうことの恐ろしさが描かれたのだと思う。真実を探そうともしない、目を凝らせば容易に見えるものさえ見ようとしない者たちに、死刑を含む処罰の権力が握られているのである。「三度目の殺人」というタイトルに、そのことが暗示されているのではないかと思った。

 上に書いた殺人事件に関する「真実」は、もちろんわたしの推測であり解釈にすぎない。そこには、監督がウソを紛れ込ませることはないという前提があるのだが、この映画の中には、ちょっと「紛らわしい表現」が紛れ込んでいたのも事実で、そのことには少々疑問を感じているのである。
 映画は冒頭で、三隅が一人の男を殴殺し、ガソリンをかけて焼くシーンが映し出される。普通に考えれば、これは犯人と犯行事実を最初に見せて、そこからストーリーを組み立てていく倒叙ミステリの形式なのだと理解されるだろう。つまり、この後のストーリーはこの事実を前提にして進んで行くだろうと、観客が考えるように作られているのである。
 それが、ストーリーの展開とともに、三隅は本当にやっているのだろうかという疑問が生じてくることはかまわない。転々と変わる三隅の証言に重盛(弁護士)が翻弄されるというのが大筋なのだから、美津江(被害者の妻)に持ちかけられた保険金殺人の可能性とか、咲江(被害者の娘)の単独犯行ないしは三隅と咲江の共同犯行の疑いが出てくることもかまわないだろう。「真実」がどうであろうと裁判に勝つことだけを至上としてきた重盛が、次第に三隅という被告の「真実」を考えざるを得なくなっていく過程が、映画の見どころになっているからである。
 だが、上の展開に呼応するかのように、三隅の最初の犯行現場(死体を焼くところ)に咲江と重盛を一緒に立たせた映像は何だったのだろうか。2人は三隅と同じように頬に返り血を浴びているのである。これはストーリー展開の中で生じた疑問、咲江の関与に関わるイメージであり、冒頭に提示された倒叙のイメージを無意味にしてしまう表現である。重盛が加わっている以上、これは非現実のイメージには違いないが、そうした映像を挟み込むことが果たして必要だったのか、わたしには疑問が残るような気がするのである。
 同時に、これは明らかに非現実のイメージであるが、三隅・咲江・重盛の3人が真っ白い雪の中で雪合戦に興じ、最後に雪の中に倒れ込んだ3人を俯瞰で捉えたシーンがあったが、これもまた必要だったのかどうか。解釈しようとすればそれこそ様々な解釈が出てきそうな、そういう曖昧さを持ったイメージを挟み込む必然性があったのかどうか。わたしはこれにも疑問を感じてしまうのである。

 この映画は基本的に室内劇であって、動きや変化に乏しい(ある意味で面白くない)映像の積み重ねにならざるを得ない宿命を負っている。演出上、変化や飛躍が欲しかったということなのかもしれないが、わたしにはこういう映像がストーリーの緊迫感を削ぎ、画面の一貫性を乱していたように思えてしまって仕方がないのである。画面に展開する人間ドラマの圧倒的な迫力と、その積み重ねを絶妙にコントロールする緩急の間合いの素晴らしさといったものを、監督はもっと信じてもよかったのではないかと思った。それだけで(余計なことをしないでも)すべてを物語ることができたのではないか。
 それくらい、ここに醸し出された緊迫感は尋常のものではなかったし、見ていてこんな面白い映画はちょっとないぞと思っていた。だから、それだけで124分を走り切ってしまう潔さがあってもよかったのではないかと感じた。福山雅治(重盛)・役所広司(三隅)・広瀬すず(咲江)の3人はそれくらい素晴らしかったし、周囲を固めた脇役陣もそれぞれ見事な存在感を放っていたと感じるからである。彼らをこんなふうに鮮やかに映画の中に存在させたのだから、是枝裕和監督の演出力はそれだけの成果を上げていたと思うのである。
(立川シネマシティ1、9月19日)
by krmtdir90 | 2017-09-20 13:09 | 本と映画 | Comments(0)

映画「日曜日の散歩者」

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 説明が一切ない映画だった。ドラマであれドキュメンタリーであれ、わたしは何らかのかたちでそれを求めていたのだと思う。説明というかたちでなくとも、そこにいるのがどういう人物なのかとか、どういう関係性の中にいるのかといったことについて、普通は早い段階で自然に見えてくるようになっているものだと思っていた。読み取る上での難易はあるにせよ、そういうものは示されて当然と信じていたのかもしれない。だが、その期待?は早々に裏切られた。
 映画が始まって少しして、これがそうしたものに向かう気がまったくない、いままで見たこともないような映画であることが判った。これは困ったぞと思った。映画でも旅行でも、わたしは事前にそれについての知識を仕入れて置くことをしないようにしてきた。この映画は予告編を見ていたから、日本統治下の台湾で日本語の台湾文学を作ろうとした詩人たちがいたという話なのは知っていた。でも、それ以上の具体的なことは、何も知らなかったし調べるつもりもなかった(予告編を見ていなかったら、「わすれられた台湾詩人たち」という副題が唯一の手がかりだったかもしれない)。
 始め、こんなかたちで語られても何も判らないじゃないかと思った。そのうち、これはそもそも語ることを放棄している映画なのだと思い至った。過去を扱っている映画には違いないが、その事実とかストーリーとかを(一応順を追って並べられてはいたようだが)物語るつもりは毛頭ないのだと気が付いた。では、この映画は何を描こうとしたのか。

 映画が始まってすぐ、これは台湾の人々を描いた台湾映画のはずなのに、使用されている言語が日本語であることに不思議な思いを抱いた。そのことについても、この映画は何も説明しようとはしない。わたしはプログラムやウィキペディアで確認しながらこれを書くしかないのだが、日本が台湾を植民地として統治したのは1895年から1945年までの50年間だったようだ。しかし、その間に台湾の人々の間でどんなことが行われ(統治者たる日本人がどんなことを行い)、台湾の人々がどんな状況に置かれていたのかはほとんど判らないのである。
 つまり、この映画を鑑賞した時点では、わたしはまったく何も知らなかったと言っていいのだ。それでも、この映画はいつの間にかわたしをその中に引き込み、162分の上映時間をまったく飽きさせることなく、むしろ夢中にさせてしまうような魅力を発散していたのである。
 わたしは、映画が取り上げた風車詩社の詩人たちが、日本語による同人誌「風車」を創刊したのは1933年だったということを、購入してきたプログラムで後になって確認している。1933年ということは、この若き詩人たちは、生まれた時から日本統治下の台湾しか知らなかったのであり、植民地では被支配者であるしかないみずからを容認し難いと思ったとしても、その与えられた条件の下で生きるしかなかったということなのである。こうしたことを、この映画はまったく語ろうとはしていない。

 語らなければ、1933年という具体的事実は伝わらない。映画の冒頭で映し出される赤い表紙のガリ版刷りの冊子が何なのか、どういう経緯でそれが作られているのかといったことは、説明されなければわたしには(おそらくほとんどの観客には)判らないのである。
 しかし、わたしはそのことを批判しているのではない。そんな語り口を選んだ監督(黃亞歴/ホアン・ヤーリー)の意図が知りたいと思ったのだ。
 実際、映画はそんなことにはまったく頓着せず、これも最初はそれが何なのかまったく判らないままに、詩やエッセイの一節と思われる言葉を字幕や朗読のかたちで並べ始めるのである。画面に映し出されるのは、これも脈絡のはっきりしない様々なイメージであり、写真や絵画や映像の断片などである。ドラマ風の再現映像のようなものも挿入されるのだが、それが何と登場人物の首から上がすべて切れたかたちで映し出されるのだ。なぜそんなことをしなければならないのか。音楽も情緒を排した前衛的な印象のもので、要するにすべてのものが解釈可能な位置に収斂することを拒絶しているように思われた。なぜそんな作り方をしたのか。

 エンドロールになって、映画の中で「引用」されたすべてのテキスト(詩や文章など)、映像、写真、絵画などのリストが延々と映し出された(プログラムにも掲載されている)。つまり、この映画はこうしたもののコラージュとも言うべきものであり、そこにさらに映画独自の様々なイメージと、顔のない奇妙な再現映像の断片などを絡ませることで、風車詩社の詩人たちが情熱を傾けたシュールレアリズム、ダダイズムといったモダニズムの詩世界を、いままで誰も試みたことのない映画独自のやり方でダイレクトに構築しようとしたものなのだと思われた。
 若いころ、わたしも少しはそういうものをかじったことがあったから、ここに引用されたものの幾つかは記憶の底から引っ張り出したりすることができた。それらが入口となって、こういう世界に熱中しのめり込んだ若い詩人たちの存在が実感できたのかもしれない。この映画は、風車詩社の詩人たちの存在を一つのきっかけとして、映画そのものが、彼らが書いた詩と同じようなシュールレアリズムの表現そのものになろうとしているように思われた。
 下手をすれば単なる思わせぶりになりかねないところで、いろいろなものが相互に響き合いながら、この映画は、彼ら風車詩社の詩人たちが作り出そうとした世界や、彼らが置かれていた時代背景(その逃れ難い重圧)といったものを、いつの間にか鮮明な実感として浮かび上がらせていたのである。こんな映画は初めてだった。

 プログラムなどから、この映画の背景となった事実を少しだけ整理しておきたい。
 1933年の台南市で、日本語による同人誌「風車」を創刊した風車詩社の中心にいたのは4人だった(名前等は省略)。この時、彼らの年齢は25~18歳だった。台南市内の旧制中学を卒業後、18歳の一人を除き、3人は東京への留学を経験した。旧制中学に行くこと自体まれであった当時の台湾にあって、帝都・東京に留学までした彼らはエリート中のエリートであった。
 彼らが等しく文学に志した時、影響を受け手本としたのは東京における文壇の動向だった。1930年ごろの日本の文壇を席巻していたのはプロレタリア文学の流れで、東京にいた台湾青年の多くがこれに大きな影響を受けた。そんな中で、3人はもう一つの新しい潮流であるモダニズム文学に傾倒していったようだ。彼らは日本で出版された書物を通じて、シュールレアリズムやダダイズムといった最も前衛的な文学に触れ、それを台南に戻った自分たちの進むべき道であると考えたようだ。
 だが、彼らの考えは当時の台湾ではまったく受け入れられず、「風車」は4号を出したところで廃刊、風車詩社も2年足らずで分解してしまう。当時の資料はほとんど残されておらず、「風車」も3号一冊しか見つかっていないらしい。この映画は散逸した資料の発掘に何年もの時間をかけ、彼らの残したテキストを引用の中心に据えながら、時代の流転の中に埋もれてしまった彼らの足跡を確認しようとしたものである。

 映画は確かに彼らの高揚と挫折を、特にその数年に過ぎなかった詩的高揚を、映画自身が彼らのシュールレアリズム探究の一翼を担うようなかたちで、表現して見せていたように思う。映画の終盤になって、太平洋戦争から戦後の国民党政府の時代へと、歴史の大きな転回に翻弄される部分で、少しだけ彼らの運命について説明らしきものが加えられたりするが、映画の描きたかったものはあくまで、そうなってしまう前までの彼らの熱と高揚だったように思う。
 そして、それは思いがけないかたちで十二分に描き出されていたと思う。いまとなってはある意味あまり触れたくないような、若い時代のそういう宙に浮いた気分を思い出させられるような、不思議な体験をさせられる映画だったと思う。
(渋谷イメージフォーラム、9月14日)
by krmtdir90 | 2017-09-19 16:16 | 本と映画 | Comments(0)

ロシアの旅⑩モスクワ3・復路(2017.8.31~9.1)

8月31日(木)

 朝から雲一つない青空だった。
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 最後の日になってこんな青空になるとは皮肉なものだが、まあ、そういうこともある。一日でもこういう日があって良かった。
 この日は、初日に合流して行動を共にしてきた他のグループとは別行動となり、その人たちは8時30分から順次出発して行った。われわれ32人のグループは最後の出発となり(9時)、午前中もう少しモスクワの町を見学してから、午後に空港に向かうことになっていた。

 今回、喫煙者は72人中でも4人しかおらず(32人の中にはわたししかいなかった)、うち2人はご夫婦だった。わたしより年長のお二人で、旦那さんは何と92歳ということだった。ぜんぜんそんなお歳には見えない元気な方々で、灰皿のところで顔を合わせるうちに親しく話しをするようになった。いろいろエピソードはあるのだが、ここには書かない。とにかくそのお二人と、朝のサンデッキでお別れの挨拶をした。こんなふうに歳を重ねて行けたら素晴らしいと思わせてくれるお二人だった。お元気で!
 なお、他の1人(男性・老人)とはあまり顔を合わせることがなく、会話にはならなかった。なお、このほかに、他のグループの男性添乗員が喫煙者であることを突き止めて仲良くなったが、彼に関するエピソードもここに書くことはやめておく。

 さて、最終日も16人ずつのグループに分かれ、2台のバスで(この日はスーツケースとともに)出発した。モスクワ大学があり、モスクワの町が一望できるという雀が丘というところを目指した。市内が近付いてきたころ、レニングラード大通りの左手に見えてきた建物2つ(実は昨日も見えていたのだが、青空の下だと写真を撮ってもいいという気分になる)。
 ペトロフスキー宮殿。
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 ディナモ・スタジアム(サッカー場、改修中)。
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 バスは市内には向かわず、この先で右折して第3環状道路というのに入ったようだ。
 途中、モスクワシティという高層ビル群の脇を通り過ぎた。
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 都市再開発プロジェクトによって新たに生まれた国際ビジネスセンターらしい。
 環状道路を外れて雀が丘に向かう緩やかな坂道の途中で、バスはトイレタイムを取った。
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 丘の展望台に行くと有料トイレになってしまうので、観光バスはここで無料トイレを利用するのが定石になっているらしい。

 雀が丘では、バスはまずモスクワ大学の前に停車した。
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 モスクワ大学は日本で言えば東大にあたる最高学府のようだが、この建物は1953年に竣工したスターリン・クラシック様式の代表的な建築だという。まあ何というか、権威を前面に押し出した威圧的な建物なのは確かだと思う。
 反対側のこちらが展望台のようだが、
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 歩いても行けそうな気がしたが、(高齢なツアーだから)バスで移動した。
 そちらから見たモスクワ大学。
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 で、展望台からのモスクワ市街の眺め。
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 手前に見えているスタジアムはルジニキ・スポーツアリーナというもので、
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 2018年のサッカー・ワールドカップで、開幕戦と決勝戦の舞台となる予定のスタジアムらしい。
 右寄り手前には蛇行するモスクワ川の流れが見えている。
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 左方向にはモスクワシティの高層ビル群も見える。
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 遠望されているこれは、行かなかったけれど、救世主キリスト聖堂の丸屋根だと思われる。
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 展望台脇にあった有料トイレ。
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 コインを入れると開くらしい。

 このあと、ノヴォデヴィチ修道院というのを見に行った。小さな湖越しに見るのだという。バスで少し移動、モスクワ川沿いの道路でバスを降り、木々の中の小さな公園を抜けて行く。
 行ってみたら、そこはどう見ても湖というより池という感じだった(われわれはラドガ湖やオネガ湖といったとんでもない湖を体験しているのである)。
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 ここを湖と言いたいのには理由があるようで、この近くに住んでいたチャイコフスキーがこの周囲をよく散歩していたようで、この「湖」を見ながら「白鳥の湖」の構想を練ったとされているようなのだ。実際このあたりを散策していたのは事実のようだから、そう言いたい気分も判らないではないが、やっぱり「池」だろうナァ。
 で、この池越しに見たノヴォデヴィチ修道院。
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 逆光だけど、青空の下だとついいろんな角度から撮ってみたくなる。
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 池のほとりでは、絵描きがこのあたりの風景画を売っている。
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 小道にはこんな愉快な彫像もある。
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 実物のアヒル(カモ?)はこんな具合。
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 いい天気なので、けっこう近所の人々が散歩に来ている。
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 みんな服装は夏とは思えない。まるっきり冬の格好である。きょうは日射しの下はそれなりに暖かいが、基本的に夏だからといってむやみに薄着する感じはないのかもしれない。
 調べてみると、モスクワの緯度(北緯)はだいたい56度、サンクトペテルブルクはほぼ60度で、カムチャツカ半島の付け根あたりと同緯度なのだった(因みに、日本最北端の稚内は45度25分)。ずいぶん北の方に来ているのである。

 再びバスに乗ったところから、モスクワ川の向こうに火力発電所の煙突が見えていた。
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 このあとは昼食になる。市内のレストランに向かうバスの車窓から。 
 さっき雀が丘の展望台から見えていた救世主キリスト聖堂。
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 クレムリンの城壁に沿って走って行く(反対側はモスクワ川)。
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 ポクロフスキー聖堂が見えている。
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 さて、モスクワ市内の何ということもない道端でバスを降りる。
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 横道に入って行くと、これはトレチャコフ美術館らしい。
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 昨日の自由行動の時にここに来た人たちもいたのである。そして、レストランはこのすぐ隣だった。
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 ↑例によって、食後の一服のために外に出て来て撮ったもの。
 この通りはラヴルシンスキー横丁と言うらしい。
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 サックスを吹いている男がいる。
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 昼食が終わって、すべての予定は終了した。あとは空港に向かうばかりである。
 この空港への道路の途中、専用軌道となったトラムの線路と並行する区間がかなり続いた。バスはスピードが出ていたから、撮影はかなり難しかったが、思いがけない楽しみとなった。
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 車輌はどれも、けっこう古い型ではないかと思われた。

 モスクワ・ドモジェドヴォ国際空港。
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 例によって例のごとき、うんざりする出国手続きのあと、プレミアムエコノミーの乗客も利用できる特別なラウンジで一休み。その後、搭乗ゲートへ。
 途中、ガラス越しにわれわれの乗る飛行機を写してみたのだが、晴れているのでいろいろなものが写り込んでしまってどうにもならない。で、次は搭乗後の座席の窓から、向かいのガラスに映ったこちらの機体を撮ったもの。
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 太陽がこちらにあるので遮光ガラス越しになってしまい、原板は全体がイヤな感じのブルーに染まってしまっていた。どうやっても修正できないので、思い切ってモノクロにしてみた。一枚ぐらいこういうのが混ざるのもいいかもしれない。遮光してあってもこちらは明るく、写り込みはどうしようもなかった。

 日本航空JL422便は17:15、モスクワ・ドモジェドヴォ国際空港を離陸した。
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9月1日(金)

 機内で6時間プラスの時差修正を行った。
 成田空港は厚い雲に覆われていた。
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 着陸後、機体がゲートに向かって進んでいた時、窓の外に思いがけないものが見えた。
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 空港の敷地内に孤島のように残った、三里塚闘争の最後の拠点ではなかろうか。われわれの飛行機はそのすぐ横を通り過ぎたのである。

 8:35、成田空港到着。
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 ロシアの旅、おわり。
by krmtdir90 | 2017-09-18 16:14 | 海外の旅 | Comments(0)

ロシアの旅⑨モスクワ2(2017.8.30)

8月30日(水)

 この日はモスクワの市内観光である。船着き場の前に8時30分集合となっていたので、行ってみると観光バスがぎっしり停まっていた。
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 船着き場にはわれわれの船の他にも多くのクルーズ船が入っているので、だいたい同じ時刻に観光に出発するのだろう。外には順番待ちのバスも待機していた。
 天気は残念ながら曇りである。ただ、雨の心配はなかった。

 バスは昨日地下道で横断したレニングラード街道(大通り)を進んで行ったが、モスクワの中心部までは50分ほどかかった。
 バスを降りて、クレムリンに向かう。クレムリンとは本来「城塞」という意味で、ウグリチにもクレムリンがあったし、ロシアの多くの都市にこう呼ばれるエリアがあるようだ。モスクワの場合は三角形の城塞に囲まれた中に、大統領府を始めとした政府関係の建物とともに、観光の対象となるような様々な聖堂や建物が並んでいる。
 こちらが観光の入口となるトロイツカヤ塔。
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 右手の公園には行列ができている。
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 左にある階段を上り、手前の建物を通って、このブリッジから塔に向かうようだ。
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 塔の時計が9時45分を指している。
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 中に入って最初に目につくのは、クレムリン内で最も新しい建物のようで、1961年に建てられたというクレムリン大会宮殿。
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 ソ連時代には共産党大会や中央委員会総会の会場だったようだ。現在は国際会議やオペラ・バレエなどの劇場として使われているらしい。
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 この反対側にあるのが兵器庫で、
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 こちらは非公開のエリアになっている。
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 奥に見えているのはニコリスカヤ塔である。
 こちらも非公開エリアで、元老院(ロシア連邦大統領府)。
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 ガイドブックのイラストマップにはこちらに大統領官邸があるように描かれているのだが、よく判らない。
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 見えている塔はスパスカヤ塔で、この向こう側が赤の広場になっているようだ。

 公開エリアの方を順次見ていく。
 パトリアーシェ宮殿。
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 この先に非常に大きな大砲が置かれていた(奥に見えているのはイワン大帝の鐘楼と思われる)。
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 この大砲は1586年に鋳造されたもので、大砲の皇帝と名付けられているようだ。
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 重量は40トンもあるらしい。砲身の下にライオンの顔が彫刻されているのだが、
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 このライオン、あまりの重さに「まいったな~」と音を上げているように見えるというのだが、なるほど。
 奥の方に見えていたこれはウスペンスキー大聖堂。
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 あとで左の広場の方から近づいていくことになる。
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 次は鐘の皇帝と呼ばれている巨大な鐘。
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 この鐘、裏側に回ると、
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 欠けているのである。1733~35年に作られた重さ200トンの巨大な鐘だが、鋳造中に火災に遭い、消火の際に水がかかってヒビが入り欠け落ちてしまったらしい。一度も鳴らされることのなかった不運な鐘である。
 なお、先ほどの大砲の皇帝も、実は一度も発砲されたことはなかったらしい。

 このあと、ぐるりと回り込むようなかたちで観光エリアの中心となる聖堂広場に入って行った。
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 左がウスペンスキー大聖堂、右奥が最初に反対側から見たパトリアーシェ宮殿である。
 広場を取り囲むように様々な建物が建っている。
 アルハンゲルスキー聖堂。
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 ブラゴヴェシチェンスキー聖堂。
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 だが、われわれのガイド(例の、わたしの質問をはぐらかしたベテランの男性ガイド)は非常にせっかちな人のようで、じっくり周囲を眺め回している間もなく、最初の見学先に予定されていたウスペンスキー大聖堂に向かってどんどん歩いて行ってしまうのである。
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 とにかく付いていくしかない。
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 ↑この写真、ほとんど同じ構図の写真がガイドブックに載っていて、それによれば、右にある階段の付いた白い建物が(半分しか見えていないが)リザパラジェーニヤ教会、奥のドームがいっぱい付いた建物がテレムノイ宮殿と言うらしい。
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 右がウスペンスキー大聖堂で、回り込んで行くと入口の前にけっこう人が溜まっていた。ガイドが受付に行って聞くと、入場には時間が掛かりそうだと言われたようで、ここで急遽2番目の見学先になっていた武器庫の方を先にすることになった。
 で、聖堂広場を抜けた先にまたどんどん歩いて行くのだが、この部分の写真はない。

 武器庫というのは、もともとは武器庫として建てられた建物だが、その後、帝政ロシアが何世紀にもわたって集めた財宝(献上品や戦利品など)を収蔵するようになり、現在は博物館としてそれを公開しているということのようだった。武器庫などと物騒な名前のままにせず、名前を変えればいいと思うのだけれど、何かそうできない理由があるのだろうか。
 ということで、この絢爛たるコレクションをけっこうじっくりと見学したのだが、ここは館内一切撮影禁止となっていたため写真はないのである。それにしても、これでもかと陳列された金ぴかの品々には呆気にとられるばかりだった。終わりのあたりに、様々な宮廷馬車の実物が展示されていたのが興味深かった。
 見学後に外に出て来た時、何か手間取る事情があったようで少し待たされた。で、ここでようやく写真がある。
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 右手の建物が武器庫である。見学用の出入口はこの先端のところにある。その先に見えている塔はボロヴィツカヤ塔。

 間もなく12時になろうとしている。戻って行く途中で、これは大クレムリン宮殿。 
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 再び聖堂広場。観光客の数が増えている。さっき撮影していなかったイワン大帝の鐘楼。
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 そして、ウスペンスキー大聖堂
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 このあと中に入ったのだが、ここも一切撮影禁止だった。帝政時代、ロシア正教の中心だった大聖堂のようだが、写真がないと中の様子がどんなだったか、もう思い出せないのである。

 見学した2ヵ所がいずれも撮影禁止だったので、何となく物足りない感じはするが、以上でクレムリンの見学は終わりである。
 帰り道、トロイツカヤ塔を出たブリッジのところで。
 塔の入口の両側に衛兵が直立不動で立っていた(右の衛兵の写真もあるが、同じようなものだから省略。こちらを選んだのは特に理由はない)。
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 観光客がひっきりなしに通るところで、身動ぎもせずずっと立ち続けるのは大変だろう。無遠慮な観光客が横に立って一緒に写真を撮ったりしているのだが、表情一つ動かさないのは立派である。
 こちらは社会科見学か何かだろうか、先生の説明を聞いている?子どもたち。
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 このあと、ちょっとだけバスに乗って赤の広場に向かった。
 途中、ボリショイ劇場の前を通った。
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 バスを降りて歩いて行くと、赤の広場に面して建つポクロフスキー聖堂(ワシリー寺院)が(後ろ姿になるか)見えている。
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 少し行くと、広場に入って行く道路が封鎖されていて、この左のところで検問が行われていた。一人一人バックの中身まで調べられた。
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 実は、今年はモスクワが誕生して870周年になるというので、明日(9月1日)から10日間を祝賀期間として、赤の広場などで盛大なフェスティバルが行われることになっているらしい。すでにその準備が進められていて、そのため一帯の警戒が厳重になっているということだったのだ。
 やっと検問を通過して入って行くと、ポクロフスキー聖堂は外側のこのあたりから見るしかなく、
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 正面の方には入って行けないのだった。
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 そればかりでなく、赤の広場全体に大きな仮設スタンドのようなものが作られていて、
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 よく写真などで見たことがある、スパスカヤ塔と赤い煉瓦の壁の前に広がる広場の風景はまったく失われていたのである。
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 もう一度検問を通ればそちらの方に入って行くこともできたようだが、これでは行っても仕方がない(それに見学時間も押していたようだ)。
 われわれは広場に面したグム百貨店の中を通り抜け、昼食場所のレストランに向かった。
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 ここはニコリスカヤ通りと言うようだ。
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 レストランは横道に入ったところにあった(と思う。もう忘れているのである)。食べ終わって、煙草を吸いに外に出て撮ったレストラン外観。
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 この撮影時刻が14:21。

 このあとはまた自由行動になっていた。添乗員が提案したコースは3つで、美術館に行くというのが2種類と、あとはさっきのグム百貨店でショッピングというものだった。妻は百貨店に行きたいと言うし、わたしも美術館はもういいかなと思ってしまった(あとでちょっと後悔したけれど)。
 で、百貨店グループは徒歩でさっきのグム百貨店に戻り、最初ガイドの先導で中を少し見て回り、そのあと集合場所と時間を決めて解散になった。
 妻は旅行中仲良くなった女性(年上)と連れ立ってあちこち出たり入ったりしていた。しばらくつき合ったあとで別行動とし、わたしは外に出て煙草を吸ったりぶらぶらしたりした。

 ガイドブックによれば、グム百貨店は1921年にレーニンの命で作られた国立百貨店が始まりで、現在の建物は1893年に建てられた工場の建物を1953年に大改装したものらしい。吹き抜けになった3階建てで、広い店内に3本の吹き抜けの通りが並んでいるかたちになっていた。その3階からの店内の眺め。
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 ニコリスカヤ通りからの百貨店外観。
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 赤の広場の方に行ってみたら、さっきはなかった(と思う)厳重なゲートができていた。
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 明日からのフェスティバルでは、ここで厳しい入場者チェックが行われるのだろう。
 右手の方に、広場を囲んでいる建物があった。カザンの聖母聖堂。
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 国立歴史博物館。
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 ニコリスカヤ通りから赤の広場方向を見る。
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 左がグム百貨店、右の手前からカザンの聖母聖堂、国立歴史博物館、一番奥の正面に見えているのがクレムリンのニコリスカヤ塔と思われる。

 さて、集合場所は百貨店のほぼ中央にある噴水のところだった。
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 噴水を受けるプールにはなぜかたくさんの西瓜が浮かんでいた。
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 集合時間は16時30分だったか(よく覚えていない)。バスが近くまで入れないので、少し先の大通りまで歩かなければならなかった。途中でマネージナヤ広場というのを横切ったようで、こちらから見た国立歴史博物館。
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 左に見えているのはヴァスクレセンスキー門というもので、この向こうが赤の広場になる。
 マネージナヤ広場でも明日から何か行われるようで、仮設ステージらしきものが作られていた。その背中に「モスクワ870」の文字が見える。
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 バスを待っていた大通りには地下鉄の入口があった。
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 何という駅か調べようかとも思ったが、そんなことをしているから時間ばかりかかって、なかなかまとめ終わらないのだと反省してやめた。

 船に帰り着いたのは17時30分ぐらいだったか。
 実は、この日の夕方あたりから雲がどんどん取れていった。明日の予報は、初めてすっきりした晴れになっているのだという。次の撮影時刻は18:43である。
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 とうとう最後の晩になってしまった。19時からの夕食時には、夜のコンサートを担当していた2人が民族衣装姿で歌いながらテーブルの間を回ってくれた。
 夜は、明日の朝出さなければならないスーツケースの整理などで忙しく、21時からのコンサートには行けなかった(行った人はほとんどいなかったようだ)。
 煙草を吸いにデッキに出たら、上弦の月が出ていた。
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by krmtdir90 | 2017-09-17 20:39 | 海外の旅 | Comments(0)

ロシアの旅⑧モスクワ1(2017.8.29)

8月29日(火)

 この日は朝から再び暗い曇り空に戻ってしまって、相変わらず寒い一日だった。こちらの方の天気図がこの間どんなふうだったのか、見てみたいと思ったが手段がなかった。
 船は昨夜のうちにボルガ川からモスクワ運河に入ったようで、窓の外を見ると、川幅がぐっと狭まって岸がすぐ間近に見え、いかにも運河という感じの(面白味に欠ける)風景に変わっていた。モスクワ運河は市内を流れるモスクワ川とボルガ川をつないでいる運河で、スターリン体制下の1932~37年に建設されたものらしい。
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 岸辺にこんなモニュメントが建っていたので調べてみると、建設には強制収容所の囚人たちが大量に動員され、過酷な労働のため2万2千人もが命を落としたのだという。

 モスクワ運河では、途中6つの水門を通過することになっていた。この日は7時30分から朝食になっていたが、その直前に一つ水門を通過した。
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 これが3番目の水門だったようだ。
 さらに、朝食後には4番目の水門に入った。
 前方の扉の下部から水が激しく注入されている。
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 後方の扉の向こうにはトラス橋が見えている。
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 これは鉄道橋で、ここを列車が通過するのが見えたのである。気がついた時はもう遅く、写真は撮り損なってしまった。もう一度通らないかとずっと待っていたのだが、通らなかった。
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 9時45分ごろ、船室の窓から岸の方に鉄道のタンク車の列が見えた。駅があるような感じなので、急いで4階のデッキに出てみた。
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 先の方には客車の列も見えた。
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 近郊形の電車だろうか。
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 いずれにせよちょっと距離がありすぎて、また間に障害物もあるので、そこが割と広い駅構内であることは判ったが、ホームや駅舎といったものを確認することはできなかった。
 船はそのまま次の水門に入って行った。
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 5番目の水門である。
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 前方の建物の上には若い男女の像が立っていた。
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 このあと、10時からラウンジでガイドさんへの質問会というのが行われた。あまり面白い質問が出なかったので、わたしもちょっと質問してみた。
 日本の古典や近代文学がロシアに受け入れられているかといった質問が別の人から出ていたので、それに引っかけて、パステルナークやソルジェニーツィンといったソ連時代に不幸な扱いを受けた作家たちは、現在のロシアではどのように扱われているのかと聞いてみた。大学で日本語を教えているという女性のガイドがいたので、そちらからの答えを期待したのだが、ガイドの中でリーダー格の位置にいる年配の男性ガイドが、昔は検閲があったけれどいまはないから自由ですといった、的を外した答えをしてはぐらかされてしまった(まあ、仕方がないね)。
 もう一つ、ダーチャ(別荘)のことを聞いてみた。都市部の多数の住民が郊外にダーチャを持っているというのは、日本では経済的にちょっと考えられないのだが、どうしてそんなことが可能なのか。この答えはなるほどと思ったのだが、第2次世界大戦後のフルシチョフの時代に、深刻な食糧不足を解決するため、菜園を作らせる土地を都市住民に一斉に与えたのだという。ダーチャというのは「与えられたもの」という意味で、当初はバラックのような家から始まったものが、食糧難の時代が去ると次第に家族で休暇を過ごす郊外の家というふうに変わっていったようだ。ソ連崩壊後は一部に高級化の傾向も見られ、ダーチャの売買なども行われるようになっているらしい。

 この質問会の間に最後の水門を抜けてモスクワ川に出たようだが、覚えていない。
 引き続き、11時30分からビンゴ大会が行われたが、何も当たらなかったので面白くなかった。
 終わってからデッキに出ると、川幅も広がって、何となく都市部(近郊)に入って来たような風景が見られるようになっていた。
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 船がトラス橋をくぐった。
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 と、そこへ列車がやって来たのである。
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 夢中でシャッターを切ったものを、少し大きく見えるようにトリミングしてある。パンタグラフが確認できるから、恐らくモスクワを起点とした郊外電車の一つではなかろうか。
 もう一度通らないかなと、岸辺の風景などを写しながら、
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 チラチラ気にしていたら、通った!
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 かなり遠いので拡大してみたら、さっきのとは塗装が違っていた。車輌の違いまでは判別できなかった。

 さて、13時から昼食になり、14時過ぎに船はモスクワの船着き場に到着した。レチノイ・ヴァグザール河川港というらしい。
 間に他のクルーズ船が挟まっているので、船着き場の方は見えない。隣の船との隙間から何やら立派な建物が見えたが、名前などは判らない。
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 川幅は非常に広い。
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 波乱に富んだクルーズが、ともかく終わったのである。

 昨夜の段階ではモスクワ到着が夜になるという見込みで日程が出されていたが、ずいぶん早い到着になったので、結果的に一番最初からあったツアーの元々の日程に戻された。
 で、15時から希望者対象でモスクワ地下鉄乗車体験というのが実施された。ほとんどの人が参加したと思われるが、2時間組と1時間組に分けて実施となった。われわれはもちろん2時間組に参加した。

 地下鉄の最寄り駅まで徒歩15分ぐらいと言われていた。船着き場を出ると、こんな感じの道がしばらく続き、
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 やがて片側5車線の広い通りに出た。
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 レニングラード街道(大通り)と言うようで、広い舗道は付いているが横断歩道などはない。歩行者は地下道で向こう側に渡らねばならず、渡ってみたらこちら側は車がぎっしりだった(一番手前の車線は優先車線か何かになっているようだ)。
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 舗道を少し行って左折し、また少し歩くと、大きなショッピングセンターなどが見えてきた。
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 緑色の方にマクドナルドやケンタッキーが入っているのが判るだろうか。
 で、反対側にちょっと入ったところに地下鉄の駅があった。
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 ここは2号線の終点、レチノイ・ヴァグザール駅である。駅前はこんな感じ。
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 さて、このあとの乗車体験だが、率直に言って鉄道ファンとしてはかなり不満の残るものになってしまった。今回の企画の趣旨がよく判っていなかったというのもあるが、集団での行動なので(仕方がないのだが)、乗換駅では結局付いていくだけで精一杯になってしまい、わたしが興味を覚えるような部分を立ち止まって見ている余裕がまったくなかったのである。
 事前学習をしていなかったから、現地に行くまでなぜわざわざ地下鉄に乗りに行くのかが理解できていなかった。モスクワの地下鉄はその駅に特徴があり、ソ連時代に多くの駅に国威発揚のための絵画や彫刻などが飾られ、壁面や天井などに豪華な装飾が施されたらしい。訪れた駅はその中でも名高いところばかりで、全体として社会主義リアリズムの美術館ないしは宮殿を見て回るような感じが漂っていた。通常の利用客でかなり混雑している中で、われわれの他にもそれを見学に来ている外国人ツアーをけっこう見かけた。わたしも現地に行ってから、なるほどこれを見に来たのかと納得したのである。
 だが、それはわたしの見たいものとは別のものだった。わたしが立ち止まりたいと思うところはどんどん通り過ぎて、ガイドは注目すべき美術や装飾について熱心に語っているのである。それはそれで驚きと言ってよかったし、写真もそれなりに撮ってはきたので、鉄道ファンとしては穴だらけなのだが一応整理していってみることにする。

 その前に(ロシア語の路線図になってしまうが)われわれが回ったルートを一応確認しておく。
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 細かくなってしまって見にくいのだが、オレンジ色で囲ったところがわれわれが行った駅である。
 モスクワの地下鉄には現在12の路線が走っているようだが、まず緑色で描かれた2号線の上端に出発点のレチノイ・ヴァグザール駅がある。ここから下へたどって、茶色の環状線(5号線)と交差するところがベラルースカヤ駅で、ここを見学したあと環状線に乗り換え、下方にあるキエフスカヤ駅へ。ここで青色の3号線に乗り換えたが、ガイドが乗車する方向を間違えたため、右に行かなければならないところを左に行ってしまい、次のパールク・ポベェードゥイ駅で引き返すことになった。その後、右方向のプローシャチ・レヴォリューツィ駅で下車、この駅は2号線のチアトラーリナヤ駅と地下道でつながっているので、最終的にここから2号線に乗って出発点に戻ったのである。

 写真に戻るが、これがレチノイ・ヴァグザール駅の改札口。
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 透明な扉が付いていて、きっぷをタッチすると開くようになっている。われわれは団体のきっぷを買ったようで、左端で黄緑のウィンドブレーカーを着たガイドが一人ずつ通過させている。人数が多いと、こういうところで時間がかかるのである。
 エスカレーターで地下へ。
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 地下ホーム。
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 ここでいきなり車内の写真になる。
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 一人なら、人が邪魔にならないところを見つけて入って来る車輌を撮影するところだが、集団だとそういうことはできないのである。
 車内には網棚やつり革はなく、横に渡した握り棒があるだけである。
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 エアコンの吹き出し口はあるが、使用されていなかったようで、上部の小さい窓が半分ほど開けられていた。そのため、それでなくてもうるさい地下鉄の走行音が直接車内に入ってきた。

 ベラルースカヤ駅で下車。
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 パルチザンの像。
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 乗換駅なので地下の通路をたどって行くが、地下鉄というのは(表示なども読めないし)どうも方向感覚が定まらず、位置関係がよく判らない。とにかくエスカレーターでさらに降りて、
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 その先の通路には、天井に様々な絵が埋め込まれていた。
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 一般のお客がせわしなく歩いているし、一つ一つゆっくり見ていく感じではないから、とりあえず適当なものを一枚。
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 右手の方はホームになっていて、ひっきりなしに電車が発着している。
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 左手は階段のある通路が幾つも合流してきている。
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 最終的に右手のホームで乗車したような気もするし、もう少し歩いてから別のホームに出たような 気もしてはっきりしない。いずれにしても、これがベラルースカヤ駅の駅名表示である。
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 前後の駅名などは表記されていない。
 電車を待つ間、線路の軌間を確かめてみたが、えらく広かった(写真を撮ったのだが、ピンボケで使えない)。帰ってから調べてみると、ロシアの一般の鉄道と同じ1520mmの広軌だった。
 なお、電車の運行間隔は非常に短く、次々に来るので待たされることはほとんどなかった。

 ホームの照明は全般的に暗く、入ってくる電車はぶれてしまってうまく写せなかった。
 今度の電車は非常に空いていて、われわれが乗り込んだ車輌は一杯になってしまったが、隣の車輌は(最後部だったらしい)一人しか乗客がいない。
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 で、われわれはそちらに移ったのだが、一人だけいた乗客は次の駅で降りてしまい、われわれだけになってしまった。なので、車輌の様子を落ち着いて撮影することが出来た。
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 この車輌は2号線で乗ったものより新しい型のようで、車内はたいへん綺麗だった。

 キエフスカヤ駅で下車。
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 ↑写真は補正しているので明るく見えるが、ホームは非常に暗かった。で、発車して行く電車はまたもうまく写せなかった。
 この駅はモスクワ地下鉄「駅めぐり」のメインになる駅だったようで、非常に立派な装飾などが見られた。まず、レーニンの肖像画とモニュメント。
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 通路はこんな感じ。
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 両側にいろいろなモザイク画が飾られている。
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 めぼしいものについてガイドが説明していたと思うが、覚えていない。
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 装飾のある通路が尽きて、横の連絡通路のようなところを通り、
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 さらにエスカレーターを昇ると、先ほどとは違う装飾通路に出た。
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 先ほどとは異なり、こちらはほのぼのとした題材が多く、
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 通路の突き当たりに、何やら非常に友好的な雰囲気の大きなモザイク画が飾られていた。
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 さて、ホームに出て、出て行った電車を見送り、
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 すぐにやって来たこの電車に乗車した。
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 ところが、さっき書いた通り、これは逆方向の電車だったわけで、次のパールク・ポベェードゥイ駅で下車。
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 駅名表示。
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 ここは特に装飾が施されているわけではないが、通路はなかなか洒落た感じに作られていて、
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 通路の突き当たりに大きな絵が一枚だけ飾られていた。
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 この左側のホームに電車が停まっていたので、わたしはちょっとそちらに行って一枚。
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 で、そのホームでわれわれが乗車したのは次にやって来たこの電車(こっちはピンボケになってしまった)。
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 今度はプローシャチ・レヴォリューツィ駅で下車。
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 ここは通路の両側に様々な彫刻が飾られた駅だった。
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 このあと、長いエスカレーターを昇ったり降りたり、
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 さらに長い連絡通路を歩いて、
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 2号線のチアトラーリナヤ駅のホームに出た。
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 やって来た電車は最初けっこう混んでいて座れなかったが、われわれは終点まで行くので途中で座れた。で、前の席でスマホに熱中する人たちをパチリ。
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 レチノイ・ヴァグザール駅に戻って来た。
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 駅からまた15分ほど歩いて船着き場に戻った。
 部屋に帰り着いたのは18時近かった。

 この晩はクルーズが終わったということで(われわれはまだ船をホテル代わりとして使うのだけれど)、19時30分からフェアウェル・ディナーと銘打った夕食になった。船長の挨拶などが行われた。
 次は21:19にデッキで煙草を吸いながら写した対岸の夜景である。
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 繁華なところではないので、明かりは少なかった。
by krmtdir90 | 2017-09-16 15:55 | 海外の旅 | Comments(0)

ロシアの旅⑦ウグリチ(2017.8.28)

8月28日(月)

 きょうもスタートは青空の写真である(7:50撮影)。
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 だが、この日の青空は長続きせず、本日の寄港地・ウグリチに到着するころには、空はすっかり厚い雲に覆われてしまった。雨の心配はなかったが、やはり非常に寒い一日になった。

 アナベラ・プリンセス号は13時ごろにウグリチに到着することになっていた。昨晩航行していたシェクスナ川とウグリチの間にはルイビンスク貯水池という巨大な人造湖があるのだが、たぶんそこはもう抜けていると思われた(両岸は見えるのだが、川幅が非常に広いので判断が難しかったのである)。ルイビンスク貯水池を抜けているとすれば、船は初めてボルガ川を航行していることになるのである。

 その写真に行く前に、このルイビンスク貯水池について少し触れておきたい。
 サンクトペテルブルクからわれわれの船が航行して来たルートは、これを総称してボルガ・バルト水路(運河)と呼ぶこともあるようだ。サンクトペテルブルクのあるバルト海(フィンランド湾)とロシア内陸部、とりわけボルガ川とをつなぐ水運の確立は、19世紀初頭から様々なかたちで行われてきたようだ。ソ連時代に入り、このルートに関わる懸案の諸問題(渇水で航行不能になることもあったボルガ川の水量調節など)を一挙に解決する手段として、1935年、スターリンによってこの地に巨大な貯水池と水力発電所を建設することが決定されたらしい。
 貯水池が完成したのは1941年だったが、その結果、この一帯にあった約200の村が湖底に沈み、すべての住民がまったく何も知らされないままに(何しろソ連時代なのだ)他の土地へ移住させられたのだという。故郷を一方的に奪われた人々の複雑な思いは、70年以上経った現在でもまだ根強く残り続けているのだという(恐らく、チェルノブイリでも同じことがあったのだ。そして、表面的なかたちは違っても、福島でも同じことが起こっている)。
 ルイビンスク貯水池は、人造湖でありながら面積は琵琶湖の7倍近くもあり、にもかかわらず水深は深いところでも6メートルほどしかないらしい。

 では、ボルガ川の風景である。
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 9時30分から4階のラウンジで、ガイドが語る現代のロシアについてという企画が行われた。面白そうなので行ってみたが、ソ連時代の諸々のことが現代のロシアにどう影響しているのかという、最も聞きたかったところは上手にスルーしてしまった感じで、こうした場では仕方がないと思いながらも、少し残念な気がした。

 再びボルガ川の風景。
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 ウグリチ到着時間のことも考えてなのだろう、この日の昼食は11時45分からだった。午後の行動を考慮してビールは飲まなかった。

 食後はデッキに出て、ウグリチ到着の様子を見ていた。
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 船着き場は左手になる。前方に水門らしきものが見えているが、左にあるこれは、
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 ウグリチ水力発電所の水門らしい。船舶用のウグリチ水門は、
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 右端に見えていたこちらである。船はあとで(出航後)、手前にある専用の水路を通ってこちらに入って行った。
 船着き場の右手にはこのあと見学に行く教会が見えている。
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 左がドミトリーナ・ナクラヴィー教会、右がスパソ・プレオブラジェンスキー聖堂である。

 見学の出発は13時30分とされていた。船着き場が狭いので、集合は階段を上がった遊歩道のところだった。
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 見えている教会は、特にどうということもない普通の教会である。
 時間になって、グループごとにガイドの先導で歩いて行った。
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 船着き場に停泊中のわれわれの船(間に1隻入っている)。
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 遊歩道の先が勝利公園という茂みの中の道になり、その両側に観光客向けの店がずっと並んでいた。
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 これを抜けると、
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 ウスペンスカヤ広場というのに出た。教会などがある一画をクレムリンと言うようで、それを背にして広い通りがTの字に交差していた(写真右方向が広場とクレムリン)。
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 ずいぶん旧式の感じのバスが走っていた。
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 こちらはTの字の縦棒にあたる通り。
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 奥に見えている青い「ねぎ坊主」はボコヤフレンスキー女子修道院というものらしい。
 こちらがクレムリンへの入口。
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 ずっと歩いて行くと、正面にスパソ・プレオブラジェンスキー聖堂が見えている。
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 しかし、われわれはそこには向かわず、横の方の付属の建物と思われるものの中に入った。
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 ここで、きょうも男性4人による美しい歌を聞くことになった。
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 伴奏者は2人いて、左で小さいバラライカを弾いている人の他に、右でたいそう大きなバラライカを弾いていた人がいたのだが、ちょうど右にあった展示ケースの陰になってしまって見えなかったのである。
 それにしても、こちらにはこうした観光客向けの男性コーラスがどこにもいるようで、それがみんなアカペラで(きょうの人たちも最初は伴奏なしで歌っていた)見事な歌声を聞かせてくれるのには感心した。どこでも隅の方でCDを売っていたようだが、一つぐらい買ってきてもよかったかなと思った。

 次に、血の上のドミトリー皇子教会と言われるドミトリーナ・ナクラヴィー教会へ行ったのだが、その前にドミトリー皇子の像というものの前で、ガイドから一通りの経緯の説明があった。
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 要するに、イワン雷帝の息子のドミトリー皇子(9歳)が、1591年にここで何者かに暗殺され(真相は不明のようだが)、800年近く続いたリューリク王朝が断絶して、ロシアが混乱の時代を迎えたということらしい。像の足許に皇子を刺したナイフがあるらしいのだが(写真でも判る)、この時は気付かなかった。
 なお、後ろの建物は皇領宮殿というもので、皇子がここに住んでいたと言われているらしい。
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 現在は博物館になっているらしいが、ここには入らなかった。

 で、血の上のドミトリー皇子教会(ドミトリーナ・ナクラヴィー教会)だが、
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 内部の写真撮影には費用がかかった(ここは領収書があるので判るのだが、100ルーブルだった)。
 その内部だが、まず前室があり、その奥が礼拝室になっていた。礼拝室正面には立派な装飾とたくさんのイコンが並んでいて、その他の壁面や天井には一面に様々な絵が描かれていた。いろいろとドミトリー皇子の死に関する謂われがあるようだったが、覚えていないので(あまり聞いていなかったので)ここに記すことはできない。
 以下、100ルーブルで撮ってきた写真を少し並べておくことにする。
 まず前室にあったイコンなど。
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 ドミトリー皇子の亡骸を運んだという柩。
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 次に礼拝室の正面。
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 同じく側面。
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 左側面の脇に、皇子の悲劇を市中に知らせたという鐘が置かれていた。
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 最後に礼拝室の後ろの面。
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 ここに皇子暗殺からその後の混乱した経緯が描かれていたようだ。
 最後に教会の外観を正面から。
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 このあと、最初に通り過ぎたスパソ・プレオブラジェンスキー聖堂の見学になった。
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 正面入口。
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 前室右手に売店と受付があり、ここでも写真撮影のために100ルーブルが必要だった。
 礼拝室入口上部。
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 礼拝室正面。
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 天井。
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 左側面の絵。
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 右側面はピンボケで使えない。
 ガイドからいろいろ説明があったようだが、例によって特に書けることはない。実は、昨日のゴリツィはガイドブックに記載がなく、きょうのウグリチもたった2ページしか載っていないのである。頼みの綱のウィキペディアも、このあたりのマイナーな町の教会などになるとほとんど書かれていない。そんなわけで、このスパソ・プレオブラジェンスキー聖堂については、これ以上何もないのである。
 次の写真は、われわれが退出するのを待っていた家族。
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 一人一人丁寧に礼拝していた。
 聖堂と鐘楼。
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 ここで全体見学は終了となり、あとは自由行動となった。船の出航が17時なので、遅くとも16時45分までに帰船してほしいということだった。
 多くの人がまずトイレに行ったが(われわれも)、有料(15ルーブル)だった。

 先ほどのウスペンスカヤ広場の周囲に幾つかお店などがあるようだった。われわれはこのスーパーで買い物をした。
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 店内の写真はないが、外国の町に来てスーパーに入るというのはなかなか楽しいものだというのが判ってきた。土産にするチョコレートなどをたくさん買い込んだ。
 そのあと、勝利公園の道沿いに並んだ露店を覗きながら、16時15分ぐらいに船に戻った。
 途中、船着き場への遊歩道の脇で手作りの人形を売っていたお婆さん。
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 さて、船は予定通り17時に船着き場を離れた。
 血の上のドミトリー皇子教会(ドミトリーナ・ナクラヴィー教会)はこちらからの姿が一番美しいのではなかろうか。
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 4階のサンデッキから、このあとのウグリチ水門通過の様子を見届けた。今回われわれが通過する17の水門の中で、最も立派な水門のようだ。
 船はまず、Uターンするようなかたちで少し戻った。
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 水門に向かう水路があって、船はそこに入って行った。
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 プールになる部分に入って行く。
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 後方の扉が閉まる。
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 前方の扉の方から水が入ってくる。
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 水が一杯になった。
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 前方の扉が水中に沈んでいった。
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 船は動き始める。
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 ウグリチ水門通過。
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 この写真の撮影時刻は18:00である。
 ここで、ちょっと断っておきたい。ずっと「水門」と言ってきたが、「水門」と言うのは川そのものの水量の変化に対応するための施設で、今回のクルーズで通って来たような、船が上流と下流の水位差を克服するための通過施設のことは、実は「閘門(こうもん)」と言うのが正しいらしい。響きのイメージが悪いので、日本語ではずっと意図的に「水門」と言い換えているのだという。添乗員が教えてくれたことだが、何となく笑ってしまう話である。

 この日は、17時30分から4階のバーで、ウオッカの試飲会というのが行われることになっていた。有料(10ユーロ)だったが、参加してみることにした。水門通過とぶつかったので18時過ぎから始まったが、なかなか勉強になった。
 ウオッカというと、一般にアルコール度数が50度とか60度とか、えらく強いお酒というイメージがあるが、現在のロシアでは健康志向の高まりから、正規に流通しているものはすべて40度に統一されていて、昔のようなとんでもないのは手に入らなくなっているということらしい。また、ウオッカといえば無色透明と決まっているように思っていたが、ハーブやスパイス、木の実などで香り付けしたフレーバードウオッカというのがあることも初めて知った。
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 ↑これはバイカル湖のあたりで作られているフレーバードウオッカで、試飲したら、ウイスキーとは違うけれどなかなか美味しかったので、一本買ってきてしまった(13ユーロだった)。まだ開けていないが、きょうこのあと飲んでみることにしよう。
 なお、ウオッカはストレートで一気に飲むのが原則らしく、チェイサー(追い水)を用意する風習などもないようで、ロシア人のガイド(今回の講師)に言うと馬鹿にされそうだったので、添乗員にこっそり頼んで用意してもらった。
 19時からの夕食時には、すっかりいい気分になっていた。

 20時45分ごろ、水中に沈んだ教会の鐘楼が見えるという放送が入った。デッキに出て写真を撮ったのだが、今回はすべて失敗していて使える写真がない。一緒にスマホで撮っていた妻の方は撮れているというので、癪だがお願いして一枚使わせてもらうことにした。撮影時刻は20:50である。
e0320083_239791.jpg
 このあと、21時からのラウンジ・コンサートはロシア民謡だった。(普通の透明の)ウオッカのボトルを買って、飲みながら聞いていた。

by krmtdir90 | 2017-09-14 23:10 | 海外の旅 | Comments(0)


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